A020-小説家

河西和彦さんの作品『賀田恭弘さんを悼む』より

 エッセイ教室が10回の節目を越えた。それを一里塚として、『エッセイ教室十回記念誌」が刊行された。
 この教室は昨年6月、私が取材に出向いた『元気に百歳』の幹事から依頼されてスタートしたものだ。同クラブは博報堂、新日鉄、日立のOBが多い。ある意味で、エリート・シニアクラブだ。当初の受講生は9人。メンバーは月を重ねるごとに増えてきた。現在のメンバーは16人。第11回目となる、今回の作品提出は13作。提出率が良いので、おどろいてしまう。

 河西和彦さん『賀田恭弘さんを悼む』は今回の提出作品だ。賀田恭弘さんは教室の最初からのメンバーだった。他方で、ソニー創業者の盛田昭夫さん、井深大さんの腹心だったと知る。

 作品の冒頭で、河西さんは、「5月16日、エッセイ教室に行くと、中村誠さんから賀田さんが急逝された」と驚きと悲しみの心情を書いている。

 講師の私は、1行目から胸が痛んだ。エッセイ教室のメンバーは増える一方だったが、一人の死去に遭遇することになったのだから。

 河西さんは、「賀田さんのソニー入社は、たしか昭和36年だと思います。私が1年2ヵ月のニューヨーク駐在から帰任したら、広報室に途中入社されていました」と述べる。賀田さんがやがて広報宣伝担当の力量が認められて飛躍していく、とその第一歩を記す。

「数寄屋橋のソニービルのソニースクエアの展示を15年間、約500回担当して『銀座の庭師』の異名を貰いました」。卓越したアイデアマンの賀田さんは、銀座の風物詩の事例に頻繁にマスコミに取り上げられていたと追記する。
「1980年の筑波の科学万博があったときは、国際科学技術博覧会協会へ出向、広報担当参事で活躍されました。このときソニーは「ジャンボトロン」という超巨大テレビを出品して話題をさらいました」と、偉業を紹介している。

 ソニー創業者からの特命で、賀田さんは『牛場信彦記念財団』に出向。その後も『ボーイスカウト日本連盟・参与』として勤めた。
 講師の私が初対面の挨拶で賀田さんからもらった名刺は、同連盟のものだった。

 河西さんは、賀田さんの仕事師ぶりの事例を幾つか並べてから、「人のやらない仕事、はじめての仕事が多く、前例や引き継ぎがないので、(賀田さん)は、ご自分で情報を集めて、知恵を出し、工夫してやるしかなかった。大変なご苦労があったと思います。賀田さんしか知らない、多くの珍しい体験があるから、ぜひ書き残して貰いたいと思っていました」と綴る。「私は後からこのエッセイ教室に入りました。すると、賀田恭弘さんが最初から活躍されていましたので、安心しました」という。


『エッセイ教室十回記念誌』に載った賀田さん第1回作品は、『朝顔』である。軍隊経験を素材としたものだ。タイトルから想像できない、意外性のある作品だ。そこからも、ソニーのアイデアマンだった片鱗がうかがえる。

 河西さんは「企画作りは体力、気力、好奇心が必要。高齢化社会になって、だれもがより自助努力が必要。『ものを書き、人と会話する、人前で講演する』がボケ防止になる」という賀田さん語録を紹介するのだ。

                   賀田恭弘さんの遺稿・第2回作品。題名は『富士登山』

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