掌編・ノンフィクション 4月度学友会より 『ここはどこのお宅の座敷? 間違いました』
4月度の学友会が、19日、五反田駅前のすし屋、『五輪鮨』で開かれた。元焼芋屋が馴染みとする店だ。参加者はいつものメンバーで5人。埼玉県・岩槻から足を運んできた元銀行屋は、五反田駅は最も遠い西の外れだと、難癖をつけていた。
かれは20代の頃、戸越銀座の某銀行計算センターに勤務していた。そのせいか、目は懐かしさたっぷり。きょうの酒と料理への期待もたっぷり。難癖をいう割には、顔は笑っていた。
学友会は難癖、皮肉、上げたりすかしたり、すべてが自由だ。言いたいことが好き勝手にいえる。朝令暮改も結構。発言にはいっさい責任などない。同時に、批判もされない。
ビル・テナントの『五輪鮨』の小座敷に入ると、元焼芋屋が得意とする吹聴がはじまった。かれの従弟が佐賀県・唐津市にある川島豆腐のオーナーだという。従弟は元祖『ざる豆腐』の発案者で、超有名だと講釈を述べる。
元焼芋屋が従弟に頼み、唐津から宅急便で、五輪鮨に今夕とどくように、『ざる豆腐』を送らせてきていた。これは有名デパートでも、なかなか取扱店にはなれないとつけ加えた。だれもが話半分の目だとわかると、「論より証拠。まず食べてみてくれ」という。
「醤油やヤクミは入れないで、生のまま、そのまま豆腐を食べてみてくれ」と勧めた。太目の匙(さじ)ですくう。元教授や元蒲団屋は一口食べると、「これはうまい」とべた褒めだ。
「豆腐は製造の終わりの段階で、水槽に浮かばせる。あれが悪いんだ。豆腐には水分はよくない。川島の『ざる豆腐』はほとんど水を吸い込ませていない」
元焼芋屋がまるで職人になったように、秘伝を語る。
ヤマ屋は豆腐の味覚音痴で、味がわからない。2丁100円の豆腐と比べていた。食感はスーパーの50円の木綿豆腐よりも、さらに硬い感じだ。ヤマ屋が真っ先に醤油をかけていた。匙ですくった豆腐の上下、左右にたっぷり、と塗りたくるように。
「元焼芋屋も洒落た、味なことをする。きょうの大ヒットだ、実にうまい」
他のメンバーはなおも生のまま食べている。
『豆腐には醤油がよく似合う』と反論できない、雰囲気だった。
五輪鮨の社長が挨拶にきた。社長は長崎県・鷹島の出身だという。
「これを機会に、うちでも川島の『ざる豆腐』を使いたい」
社長は元焼芋屋に媚びていた。地元贔屓(ひいき)を差し引いても、味のプロのすし屋が真に褒めるから、ほんとうに美味しいのだろう。
社長からは、鷹島における、蒙古襲来の史話を聞くことができた。
蒙古が朝鮮半島から海路攻めてきたとき、鷹島の住民は皆殺しとなった。蒙古軍は軍船に家財や鍋釜、鶏までも運んでやってきたという。つまり、住民を皆殺しにしたうえで、完全占領。土着の住民に頼らなくても、生活や文化が築けるという戦略だったのだろう。
ところが大型台風『神風』で、蒙古の軍船は破壊された。帰路を断たれた蒙古軍が全滅した。2度目の蒙古襲来でも、神風が吹いたのだ。
五輪社長によれば、鷹島の海域からいまも当時の遺跡が発掘されているという。当然ながら、海底には双方の死体が数多く眠っている。社長は幼いころ、海底の亡霊を恐れ、海ではあまり泳がなかったという。
元寇から約1千年経っているし、聞くわれわれには不気味さや恐怖などない。だが、島民にとっては、いまなお蒙古襲来の影が残っているようだ。
元教授が身を乗り出してきた。五輪社長から鷹島の宿泊所などを聞きはじめた。となると腰をすえ、海底の遺骨探しでもやる気か。霊魂を鎮めるつもりなのか。社長は宿泊情報を懇切丁寧に説明していた。
話しの成り行きから判断すれば、元教授の狙いは亡き島民への供養でなく、『僻地の、自分探しの旅』なのか。人間は死ぬまで自分探し。そうした高尚な姿勢などなく、単なる旅三昧のようだ。放浪癖症候群による病的なものらしい。
『五輪鮨』は、20歳代のネパール人留学生がバイトしている。男性は厨房で調理する、女性たちはフロアで配膳する。どの女性も顔立ちがよく、清楚な雰囲気だ。愛想が好い、いい接客だ。彼女たちは、日本語はこちらに来て覚えたという。多少のたどたどしさが愛らしさをかもし出していた。
話題はごく自然に、4月4日のヤマ屋の八ヶ岳の滑落事故に及んだ。
「200メートルの滑落だったと聞いたけれど、よく助かったものだ。もしかしたら、きょうはヤマ屋を偲ぶ会だった」
元教授が心の中で、それを期待していた口調で言った。
山頂の気温はマイナス7度。撮影10分後に、噴火口側(写真奥の断崖)に滑落。4月学友会が『ヤマ屋をしのぶ会ならば』、生前の最期の写真となった。
「死神が、ちょうどその時間は多忙で、ヤマ屋の受入れまで手が回らなかったのだろう」
死神の立場からすれば、送る先が天国にしろ、地獄にしろ、役立たずのヤマ屋は貰い手がなく、今回は見送ったのかもしれない。山頂直下の氷の崖から転落しながらも、ヤマ屋は悪運強く生きて帰ってきたのだ。
「ヤマ家の葬式となると、だれが友人代表で、弔辞を読むか」
それが問題になった。友人の不慮の死となると、死者を送るほうは生前を語り、多少のところ持ち上げる。
女性の場合は顔が悪ければ、人柄がよかったとか。我がままな男ならば、他に影響されず、信念で生きた人だったとか。ヤマ屋の場合はどの角度から見ても、『すぼらで、いい加減だった』という酷評の弔辞は避けられないだろう。
元銀行屋は、ヤマ屋にからむ古い登山のエピソードを持ち出してきた。
「おれは一度だけ、山に登ったことがある。大学を卒業した直後、金曜日の夜だった。会社帰りにスーツ姿で、ヤマ屋のアパートに遊びに行った。そしたら、明朝は山梨県の『けんとくざん』に登るから、一緒に行こうと誘われた」
当然ながら、登山道具は持っていない。
「武蔵小山商店街で、シューズ一足を買えば、山には登れる、とヤマ屋が簡単にいったものだから、それを買った」
登山服はヤマ屋から貸与された。それが一度きりの山登りだったという。
乾徳山は岩稜に鎖場のある山だった。元銀行屋は難行苦行の末に登ったのだろう。同時に、山に懲りたのだろう。たいせつな登山人口を1名失ったようだ。
「ヤマ屋は悪運が強くて簡単に死なない。となると、この学友のなかで、最初に死ぬのは、俺だな」
元銀行屋は自信ある口調で言った。
根拠は曖昧だった。死にあこがれる、青春時代という歳でもない。自殺願望でもない。こればかりは誰かが死んでみないと、正解か否かわからない。結論が出ないつまらない話しに及び、ヤマ屋の八ヶ岳アクシデントの話題は霧消した。
元銀行屋はいま三重県の自分名義の土地問題で、頭を悩ましているという。「長男は失踪した。次男のおれ名義の土地(三重県)には、6人の義理姉妹が居座っている。この問題に苦慮している」
かれは土地相続の問題で近く三重県に帰るという。それを解決するまで、元銀行屋はとても死ねる状態ではなさそうだ。となると、最も長生きするかもしれない。
元蒲団屋が、他人のむずかしい相続関係の話題に首を突っ込んだ。義理姉妹がからむややこしい話が一段と複雑で混沌としてきた。そのうえ、元銀行屋は説明下手だから、聞いている方はわけ判らなくなる。
元教授が明快に「そんな土地を持っているから手間がかかるんだ。誰かにやったらいい。どこかに寄付しろよ」と言い切った。
元銀行屋は「そうはいかない」という。
「ビールから何にする? 焼酎か」
という話題で、元銀行屋の資産の問題は未解決のうちに打ち切りとなった。大半のグラスが焼酎に代わった。
元蒲団屋がおもむろにカバンを開けた。
取り出されたものが、B5版で製本された『自由帖』なるものだ。外観からは単行本に見えるが、中身はすべて白紙だ。手書きのエッセイ、自分史、小説などを綴ると、いい雰囲気のものに仕上がるはずだ。全部で10冊で、それぞれに各年度の西暦が入っていた。年度ごとに色合いが違うバックナンバーだ。
「ひとり二冊ずつ、使ってくれ」
と気前よく配布する。
「そのカバンは玉手箱のようだな。毎回、何かしら、めずらしいものが出てくる」
元教授が揶揄する。前回は大学時代の合ハイの写真だった。
元蒲団屋が『自由帖』について語りはじめた。
「毎年、正月の挨拶で、上得意先のみに配っていたものだ。ふつうの客には年賀タオルだった。自宅にまだ幾らでもあるから、遠慮なく使ってくれ」
それを惜しみもなく学友に配っていた。
元蒲団屋が会社人間だったころの働きぶりが垣間見れた。会社からは年始回り用に『自由帖』が等分に分配された。元蒲団屋には、それを配れるだけの優良な得意先がなかったのだ。つまりは年賀タオルで充分な顧客ばかり。
『自由帖』が消化できず、かといって会社に返却するには体裁が悪すぎた。あるいは正月早々から得意先回りをサボっていた? その可能性も否定できない。
当人はもともと日記帳にして使う気など毛頭なかった。だから、会社から猫ババしてきたのではなく、持て余していたのだ。
(バックナンバーが退職金代わりに押し付けられた?)
そんな想像力しか働かなかった。
元焼芋屋が先週末のハプニングを披露した。夕暮れ後、多少酒が入って自宅のマンションまで帰ってきた。「ただいま」と靴を脱ぎ、座敷に上がった。扉を開けた。隣家の夫婦が居間で団欒していたという。つまり、自宅を取り違えたのだ。
「このとき、俺はどうしたと思う? もちろん、冷や汗ものだ」
それぞれが無言で首を傾げ、元焼芋屋の答えを待っていた。
「闖入者だから、相手はじろっと睨んだ。おれは『広い座敷ですね』と一言いった。ふだん隣とはいえ、朝の挨拶ていど。これ以上の会話は続かず、『失礼しました』といって出てきた」
学友はみな愉快がった。
「問題は次の日の夜だ。自家(いえ)に帰ると、女房がいきなり、『あなたなんて、このマンションから、出て行ってよ』とカンカンに怒っていた。一日にして、近所の噂になっていたんだろうな」
「。細君の怒りの立場は十二分に理解できる。近所への体裁を気にすれば、赤っ恥だからな。隣の家に上がりこむボケのきた亭主と、もう一緒に生活したくなかったのだ。本気で、離婚を考えたんじゃないか」
だれもが真剣にかつ不真面目に珍対策を考え出した。
「このさい、自宅に迷わず帰れるナビでもつけておけよ。航空機が滑走路にしっかり着陸できるような、精度の高いナビゲーションだ。いつもカバンに入れて持ち歩くことだ」
ヤマ屋がことのほか囃し立てた。
他人の不幸は面白い話題だ。まさに続けたい話題だが、ナビゲーションの話から、元銀行屋がまじめな顔で、「海難事故のとき、携帯電話で、漂流する現在地を海保に知らせられないものか。そうすれば、多くの漁船員の命が助かる。衛星をつかった電波で」
と遭難者のほうに助け舟を出す。
元焼芋屋が離婚寸前にある。だが、元銀行屋の態度は、転覆船の船員の生命のほうがどこまでも大切だという態度だ。実にまじめな電波法の話題に切り替わってしまった。
電波の割当ての大半が自衛隊や米軍に占有されている。民間の電波の枠は少ない。緊急電波の範囲はいまよりも拡大できない、と語るものがいた。米軍にいって裏づけを取ってきた、根拠のある話ではないし、電波は見えないから、ほどぼとに聞き流す。
「人間の命。そういえば先日、わが家の仏壇の引出しを整理していたら、日露戦争で亡くなった一兵士からの手紙が出てきたよ。明治37年8月、うちの祖父宛にきたものだ」
元蒲団屋が披露した。
差出人は溝口枩三郎(陸軍歩兵軍曹)だった。奉天陥落が1905(明治38)年3月10日。その5日前に、溝口軍曹は歴史に残る激しい『奉天の戦い』で命を落としている。
軍曹の手紙は戦死した前年の夏に出されたものだった。7月31日から8月1日の『木城より海城に至る。敵の要所第一線、闘魂の戦いに加わった』という。海城から退却する敵兵が倉庫に火を放つ。わが軍は追撃する。こうした戦況と戦勝ぶりが記されている。
しかし、他方で『わが十師団の死傷者は七百名余り、五師団二百名』という犠牲を述べている。軍曹はいっしょに入営した上等兵の吉田氏が、敵の銃で足の腿を打ち抜かれた。砲声はますます激しく、小銃は豆をいるように、雨が降るように浴びた。『小生もこの戦いで死せし思いが起きた』と、激戦でのわが身の怖さをつづる。そのうえで、神仏や皆様のお陰で、わが身は健勝だったという。
この戦いを無事に切り抜けた溝口軍曹だったが、半年後には戦死だ。行年24歳だった。そこには戦争における兵士の痛ましさを感じる。
戦争の被害者は、兵士ばかりではない。一般庶民も犠牲となる。第二次世界大戦で敗戦した後の、庶民は惨めな生活を強いられた。
元教授は東京生まれだ。戦後の貧困を語る。「2歳の時に、親父が亡くなったことから、母親に連れられて疎開した。その先が山形だ。極貧生活のうえ、山形弁が通じず、いじめに遭った」とはじめて打ち明けた。
撮影:元教授
中学卒業後は、新潟県高田市の写真屋に丁稚奉公に出された。昼間は働き、夜は四年の定時制に通った。女子高だったから、夜間とはいえ校門に入る男子学生の存在はなんとなく違和感があったと語る。
高校卒業後は生まれた故郷の東京に出てきたのだ。むろん、貧困から解消されたわけでなく、働きながら大学に通っていたのだ。
いまでは海外放浪症候群の元教授だが、写真は上手だ。見ごたえがある。15 歳から19歳まで、感受性が高い年代に、プロの写真屋で仕込まれたからだ。それが血肉となっているのだろう。
「撮るときはわりに色調にこだわる。ただ、絵葉書のような写真になってしまう」と当人は謙遜している。
撮影:元教授
海外で撮る写真の話から、元教授が7月にはノルウェー、8月にはアラスカに出かけるという。
「このさい海外で、学友会をやろう」
元焼芋屋が提案した。隣家に間違って闖入し、細君にはこっぴどく叱られたから、その憂さ晴らしか。『五輪鮨』のウェイトレスはきれいだ。美人が多いネパールがいい。超安値のチケットが入ったら、海外でやろう、と話がまとまりかけた。
「飛行機は嫌いだ。パスポートも持っていない」と元銀行屋が言い出す。
「三重県に帰ったら、本籍地で戸籍謄本を取ってきて、パスポートだけは作っておいたほうがよい。一度作れば、10年間は使える」
元蒲団屋が懇切丁寧に教えていた。
「乗り物は嫌いだ。2時間も新幹線に乗ったらいやになる」
「300円くらい出せば、戸籍謄本は取れる。パスポートは持っていても悪くない」
「戸籍謄本か、戸籍抄本か」
それにこだわりはじめたから、多少はその気になったらしい。
撮影:元教授