第7回 「元気100エッセイ教室」の作品紹介
新しい年に、新たなエッセイを読むのは心が弾むものだ。毎月作品を書き、他人の目で読んでもらう。この継続が力量アップにつながる。確実に、レベルアップしたという実感が得られた。同時に、一つひとつの作品に,味わいが深まってきた。
長谷川正夫 「出港」
『飛鳥』の乗船体験記で、豪華客船の情感が鮮明に描かれている。
愛媛県・今治港の出港前のデッキでフェアウエルパーティ(注 出港のさよならパーティ)の情景がしっかり描かれている。飛鳥の楽団数名が「錨をあげて」など軽快なメロディを演奏し、船客の群れがそれに合わせニコニコ顔で踊る。読者も、軽いタッチの読み手になれる。
甲板から見下ろすと岸壁には大勢の見送り。無数のテープが乗船客と見送り人の人たちと結ばれる。出港まぢかになった。四時きっかり、低く重い別れの汽笛が響く。ボー・ボー・ボー。擬音が効果的だ。
船と岸壁の間の空間はみるみるうちにテープで一杯になってきた。テープが風に舞う。「赤、青、黄、緑、白のテープは、ひらひらと絡み合い生き物のように波打っている」という体験なくしては書けない情景だ。全長二百メートル、三万トンの巨体が、タグボートに曳かれて岸壁を離れていく。
今治港、そこにポイントを絞っているだけに、文全体に吸引力がある。海運関係に強い作者ならば書ける作品。まさに熟知した素材で、読者を豊かな旅情のなかに溶け込ませてくれる。
吉田年男 「本物との出会い」
書道に精通する作者が、「書道」との出会いは幼少のころだ。文字は意思伝達の手段だ、あらためて習う必要もないと考えていた。
講道館の柔道資料室で、勝海舟が揮毫した「無心而自然之妙 無為而究変化之神」という、一畳ほどの横額がかかげられている。師範の技は神技だと表現したものであった。
作者は、素通りできなかった。家にもどってからも、憧れの女性に出会ったときのように胸がときめく。「書」は言葉で表現できないものを表現する、と根底からの考えを変えた。
「書の道」を七十近くなった今日まで、続けられているのは、そのとき受けた衝撃だという。エッセイ教室に入って日が浅い作者だが、体験が底流にあるので、作品には奥行きと深みがある。同時に、勝海舟の書との出会いには説得力がある。
高原眞 「数え年文化の終り」
数え年文化。それはわかっているようでも、わかっていない。その点を鋭く突いているし、説得力がある作品だ。他方で、正月の風習の変化を巧みなストーリーで紹介している。
むかしは数え年だったから、元旦になると誰もかれもが一つずつ歳をとる。年賀状にも「今年は○○歳になりました」と書くことが多かった。正月は年が改まり、国民全員の誕生祝いだったから「めでたい」のだという。
子供のころに満年齢で「誕生祝い」をしてもらったことは、天皇陛下以外にはなかったという。
戦後、価値観がひっくり返った。民主主義・個人主義・カタカナ語・クリスマスイブ・母の日・バレンタインデー・ハローウインなどなど、欧米の思想や制度、言葉や事物、風習や世俗がなだれ込んできた。「西洋かぶれ一辺倒」と作者は批判する。いたずらに憤慨しても、「数え年文化」はもう終わったのだ。
郷愁をかなぐり捨てて「自分なりの正月の意義を作るのが大切だ」「冥土の旅の一里塚から脱皮しなければいけない」と話を導いてくる。それでも、かつての正月への郷愁が残るようだ。
かつての正月の風俗が多面的にしっかり語られている。史実的な価値がある作品だ。
賀田恭弘 「遊就館と板尾君」
戦死した1兵士への悲しみが描かれている。小学時代の仲間の板尾くんは、海軍中尉で高速監視艇の艦長だった。監視艇といってもモーターボートに機銃1丁を取り付けただけで、これが日本の兵器かと思わせるお粗末なものだった。
遊就館は靖国神社付属の建物。そこに、板尾君の遺書が展示されていた。彼の戦死を知り、読み涙ぐんだ。父親への手紙を読むと「戦争に大反対」であったことがわかる。
驚いたことはアメリカの軍事作戦の予想図だ。昭和20年4月1日の沖縄上陸、同年11月には南九州、翌年2月には房総半島に上陸、と書かれていた。この作戦が実行されていたならば、当時大分の海軍航空基地にいた私はいまごろ「靖国神社」かも知れないと語る。
夏の暑い盛りだったが、二つが重なり、身体の震えは止まらなかったという。
作者が書き残したい、次の世代に伝えたい、戦争の悲しみがしっかり書かれている。簡素にして、心打たれる良品だ。
二上 薆 「初詣」 自分史のよすが
「お正月の楽しみは童歌(わらべうた)とともに消えた。初詣は残る」という書き出しは思わず引き込まれる。
小学生の頃、昭和初期の明治神宮の初詣の思い出である。真っ暗な森、参道の随所に篝火があかあかと燃え、ひしめき合うような大勢の人。家へ帰ると、叔母の着物の袂が焼け焦げていた。混雑にまぎれて悪戯に煙草の吸殻が押し込まれたらしい。正月から心を傷つけられたエピソードが語られる。
戦雲険しい戦争の頃には初詣の思い出はないという。簡略にし、戦争の厳しさが伝わってくる。
社会人となり、結婚。毎年一月二日の早朝には横浜方面から電車に乗って幼子を連れた一家で明治神宮初詣だったが、子供たちが中学生以上になって明治神宮初詣の習慣も自然に消えた。家族史が淡々と描かれている。
近年は鎌倉鶴岡八幡宮である。「暗い山を越えトンネルをくぐって約四十分の徒歩。沿道の店屋も静か、人もまばら。六十段の石段を上がって、振り返った鎌倉由比ヶ浜の海がほの明るくなる」という。随所に、正月の風景情景を紹介している。
「初詣の意義は、などと面倒な講釈はぬきに。近年初詣の和服、晴れ着姿はめっきり減った」と、作者の心の一端を感じさせる結末だ。
中村 誠 「オカマー(おかま)」
北大西洋の北海に浮かぶ島国・アイスランドの首都レイキャビックは冷凍庫の中に入ったようだったと書き出す。人々は毛皮の帽子、コートで、エスキモーが履いているようなブーツなどで重装備だ。商用でやってきた「私」は、軽い防寒だ。特にブーツはすぐにでも必要で、まず買い求めたという。
作者の実体験がしっかり伝わる書き方だ。
人口二十数万のこの国は世界に誇る水産国で、工場は鱈をはじめとした白身魚の加工が主だ。アメリカ、欧州の食品工場むけにフィッシュバーガーとかの原料として輸出される。
「私」は、案内され、冷凍工場視察に出かけた。日本向け抱卵シシャモ(柳葉魚)の生産で加工場はおおわらわだった。産卵のため魚群が岸辺に近い漁場に押し寄せてくる。漁師は船を出し、獲った魚一杯に喫水線ぎりぎりで港に帰ってくる。そして、工場に持ち込まれから日本向け加工が行われる。
シシャモのオス・メス選別の光景。長さ六メーターほどのコンベヤーの両脇には五、六名の女工が並びオスを摘み取り除く、手選別。ほぼ一〇〇%に近い抱卵シシャモが仕分けされる。
日本向けにはオスは商品価値がないので、餌向けか魚粉工場に安くまわされる。両性のシシャモがたまにいる。規格ではオスとみなし受け付けない。
「ボス、これはメスか?」
「それは駄目! おかまだ!」
日本の技術者、検品員が大声で答えた。
「アッソー、オカマー」
現地の女工はおかまの意味合いを知らされているようで、作業場に笑いが起こった。体験が生きているエッセイだ。
作者が体験・実践の土俵で勝負したエッセイだ。タイトルから「何の話だろう?」と読者は引き込まれ、ユーモアで終わる。読後感がいい。
石井 志津夫 「古希まれなるか夫婦連用日記」
連用日記が始まったのは3年前の12月であった。沢山ある連用日記の中から、ソフトカバーで使い勝手のよさそうな、五年ものを購入した。六十五歳の今からはじめると、書き終わると古希を迎えることにもなる。
六十歳を迎えた妻も、「わたしも、古希を目標にやってみようかしら」と十年連用日記をはじめた。
夫婦の連用日記の付き合いが始まった。
連用日記のいいところは、思い出を振り返りながら、去年の今日は、その前の年はと、一目でわかることである。記載するスペースも五、六行と少なく、負担にならないことも良い。日記に関していえば、毎年初めに志をたてるがも、三日坊主に終わっていた。二年は続いた。
週末農業をつづけていくうえでも、この時期にやるべきことが明解で、至極重宝をしている。
作品は、夫婦の情がほのぼのと描写されている。長い歳月を上手に圧縮している。他方で、読者には連用日記の利用法について、情報提供という価値ある作品だ。
奥田 和美 「関戸くんがマンションを買った」
作者は感性がよい。リズムとスピードは兼ね備わっている。読者を早いリズムに乗せてしまう。
都心の高層マンションの入居説明会に、1人の青年がきた。名前は関戸俊彦さん。名前どこかで聞いた名だった。息子のサッカーの仲間だ。関戸くんは中学から有名進学校から工業大学に進んだ。そして、アパートを借りてすむ。
息子は公立の中学、高校、同大学に入り、自宅から二時間かけて通った。就職は氷河期だった。
息子は就職活動をしないで大学院を希望したが、入れなかった。就職先はなかなか決められなかった。そのうえ、自動車事故を起こした。本人は無事だったが、車は大破という事故に逢う。
二年間のブランクの後、給料はあまりよくない会社に入った。
他方で、関戸くんは就職氷河時代に一生懸命、就職活動をして一流会社に就職したのだろう。そして、年収が良いから都心の高層マンションを買えるまでになったのだ。
今の息子は、優しい姉さん女房と可愛い子供に恵まれ小さな幸せを満喫している。「関戸くんのことを話してハッパかけようか?」人それぞれの人生なのだから、私の胸にしまっておこう、と母親の心を自然体で、書き綴られている。
和田 譲次 「人間の体温 日本人は冷たくなった?」
「私」が敬愛するXドクターは2つのことを強調する。「体をあたためなさい。冷えは諸悪の根源です」「夕食の後、翌日の昼まで何も食べないほうが良いです。ミニ断食を続けましょう」
ドクターは20数冊の本を出す。どの本も内容は同じ。この2点中心に事例を紹介しているのにすぎない。
日本人はこの三十年間で一度近く体温が下がったと言う。何が原因なのか、生活環境がよくなっているのに人間は弱くなってきたということか。問題提起による、読者の導き方が上手である。
体の冷えから生じる病気は多いようだ。ガンもあたたかい臓器や部位には発生しにくいらしい。一つの情報を読者に提供する。
6月にシンガポール行きが決まった。友人からメールが届いた。
「必ず長袖の下着とYシャツを持ってきてください」という。シンガポールは最低気温27度、最高は常時33~4度位である。
「どうして暑い国へ行くのに長袖なの?」
現地の会社では、出社後一時間もすると、体が冷えてきた。室温はいつも21度に設定しているという。
「東京では省エネで、27度で我慢している、もったいないよ」と言ったら「ローカルのスタッフには適温です。設定温度を上げたら暴動がおきます」
500名の社員のうち、日本人は20名足らず。これではローカルの人たちにあわすしかない。こうした異文化の断片をうまく描写している
日本に帰ってきた「私」は寒がりだし、冬になると厚着をする。手足が冷える。昼間から熱燗で一杯もできない。寒くなると、生姜入りの紅茶を沢山飲む。生姜を使った料理もよく食べる。ネギ、ニラをはじめ生姜、唐辛子をもよく食べる。一時的には効き目はあるが、体質改善にはつながらない。
日常生活とドクターの関係に戻ってくる。策を求めたが、「ウーン」と言ったきり、ドクターからは答えが返ってこない。
論理的であり、また体験的だけに、説得力がある作品だ。
森田 多加子 「娘の運転」
新聞の読者投稿欄に「息子の車に乗る勇気」という一文が載っていた。当時大学生だった娘が運転免許を取った頃を思い出した。運動神経はまったくゼロの娘である。読者が身を乗り出すような、リード文だ。
運転の出来ない母親の「私」は助手席に乗った、「へえ、動くじゃない、うまいわねえ」と心底から感心していた。今まで行ったことのないところに出かけられる。わが娘の快挙に喝采していた。
どこに行っても男性が親切だ。「オーライ、オーライ、右ハンドル切って」。道を聞くと「そこは僕も通るのでついてきてください」という。デパートの駐車場では「やってあげるからちょっと降りて」と親切にされる。
単身赴任中の夫が久しぶりに帰ってきた。娘の車の助手席に乗り込んできた夫は、「まだ死にたくないのでね」と左手でしっかり持ち手につかまっている。
走り出してから夫は煩い。
「ちゃんと前を見ろ」
「話はするな」という。ドライヴなのに、会話なくしては楽しくない。
「へたくそ」、
驚いたのは母娘。娘が言った。
「もしかして、私って運転下手なの?」
どこに行っても駐車場で、おじ様方は親切だった。美人親子だからだとずっと思っていた。あれは下手な運転を見かねてのことだったのかしら。知らない間に、命拾いしていたのかしら?
歳月がたった現在、夫が家の駐車場に入れるのを見て、娘が小声で言った。
「近頃お父さんは運転が下手になったわね。ふふふ」
親子の会話と、話の転換が巧い作品だ。1人ひとりが実にリアルに描かれている。
上田恭子 「ゼネレーションの違い」
祖母と孫娘との会話のなかで、「電車の中でパンやお菓子を食べたりしないでしょうね?」と聞いた。「電車の中でも3,4人しかいないとき、カロリーメイトを食べた」という。「恥ずかしいと思わない?」「人に迷惑かけているわけではない」
恥ずかしい事だと、教えなければ分からないのか。電車の中でものを食べたり、化粧したりすることが、恥ずかしいことと、昔は教えてもらったのだろうか? 教えてもらわなくても、自然と恥ずかしいと思ったのは何故なのかと、自問するのだ。
父親の息子が来たので、いままでの話をする。
「え? 電車の中でお化粧したらいけないの?」
祖母の私は口あんぐり。教えられないと何が恥ずかしいことか、何が迷惑なことかわからないものなのか。
いま教育が論議を呼んでいる。教えられないと分からないというのならば、やはり人としての生きて行く、最低の道しるべを小さい時に叩き込むのがいいと持論を展開する。
「これってゼネレーションの違いっていうのね?」
と二人の孫に言われてしまった。
世代の違いを風刺タッチで、ユーモアたっぷりに書いている。読んでいて、愉快な気持ちにさせてくれる作品だ。
塩地 薫 「上海の便秘騒動」 はじめての中国旅行(その一)
真夜中に妻に起こされた。「お腹が痛い。こんなに痛いのは久しぶり」電灯をつけると、青ざめた妻の顔が流れる油汗で光っている。ただ事ではない。痛みをこらえて、顔をしかめている。上海に来て、二日目の夜のことだった。
上海には、成田から直行便で、夜九時に着いた日から、24時間営業の台湾料理店で会食をした。妻は習慣性便秘で、便秘が続いていた。それでも「おいしい。おいしい」と控えめだが、よく食べていた。ざっくばらんに便秘で悩んでいる話もでた。
一夜明け、観光前に先ず、下剤を買いに薬局に立ち寄った。日本では見たこともない大きな薬局だった。白衣を着た若い女性薬剤師が応対に出て、選び出した「便塞停」という下剤を買った。
静安寺などを回ってきた。英語名が「お婆さんの台所」となっている店に入った。めん類二種類、土鍋の炊きこみご飯二種類と肉料理を頼んだ。どれも量たっぷりで、食べきれないほどだった。妻も、どの料理もおいしいと、便秘を忘れて食べていた。
妻は朝買った便秘薬を二錠のんで、先に寝た。私はカメラとビデオを整理して、一時ごろに寝た。そして、妻に起こされたのは、四時だった。妻がトイレから出てきた。「少し出た」と言う。
「まだ痛い。お産と同じ痛さなのよ」と四十七年前の初産の激痛に思い至ったのだろう、顔をしかめ、ひとり耐えている。
食の中国、中国人はよく食べる。今回の七泊八日の旅行中、ずーっと庶民の豊かな食生活を体験できたが、妻にとっては、快適に中国料理を味わうために便秘とも積極的に戦わざるを得ない旅行になった。
夫婦愛が書き込まれた作品だ。妻の腹痛描写と薬の処方・対処の光景はリアリティーがある薬学に強い作者だけに、中国の薬局の描写は読み応えがあり、一級品だ。
中澤映子 「ヒメ、でも男の子」 私の動物歳時記・その4
わが家の猫たちのなかで、「私」のお気に入りで、猫の方も私に好意(?)を持つ猫の紹介。「その名は「ヒメ」、といっても女の子ではありません。レッキとした男の子です」と書き出しで、ひねる。
どうしてこの名前がついたか?……。顔の黒い毛の部分が、あたかも昔のお姫様のように振り分け髪になっている。五年前に、まだ目が開かない状態で拾われてきた時、娘が命名しました。
いつも明るく元気な「ヒメ」ちゃんにも、悲しい出来事がありました。3年前の春、交通事故に遭ったのだ。
「私」は海外から帰って事故のことを知った。
後ろの左脚がやられていました。獣医さんはいずれ脚の途中から自然にとれるからといい、手術はせず抗生物質の薬だけ下さいました。あまり泣かず、とてもけなげで、静かに耐えていました。
時が過ぎて獣医さんの予告通り、後の左脚が途中でポロリととれました。3本足の障害猫になった「ヒメ」ちゃん、でも猫はもともと4本の足があるので車イスに乗らなくても、上手にバランスをとって歩いたり、時には走ったり、階段の上り下りだって出来る。
もともとネアカの「ヒメ」ちゃんです。どんどん回復して、毎日明るく元気に、食欲もモリモリ出てきて、少し太めになりました。
相変わらず私と眼が会うと「アハッ」と言って、私の膝にポンと登り、ゴロゴロいっている。
三本足になっていく猫。それを見つめる目。登場人物のそれぞれのキャラクター(動物愛)が明瞭に描かれている。猫と人間の観察力が光り、素材に新しさをおぼえる作品だ。