小説家

穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ③ 窮地に立つ女子・音大生の逆転の発想

 ③の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。
 

『まえがき』
 主人公の白根愛紗美(あさみ)は、21歳の東京の音大生です。彼女は望まずして大学恩師の教授の紹介で、瀬戸内の島の中学校に教育実習にやってきました。
 赴任してみると、正式な音楽科教師(女性)は、素行の悪い生徒たちと折り合いが悪く、妊娠を理由に退職してしまった。後任がいない。
 校長に口説かれた愛紗美は、大学実習生なのに、なんと音楽の代用教員扱いとなり、そのうえ、同校が目指す音楽コンクールの検体か県大会の指導(顧問)を引き受けさせられます。
 音楽合唱部たちの初顔合わせの日に、いきなり合唱部員がゼロになります。やり場のない気持ち彼女の心象を描いたばめんです。


『作品・本文より抜粋』

 白根愛紗美(あさみ)が、豊町中学(広島県)の男女混声合唱団の顧問(外部指導者)として、教育委員会から認可された。いまのところ部員は六人だと聞かされていた。
 めざす合唱コンクール大会の募集要項によると、中学生の部は最低参加人数が六人であった。
「大会の当時に欠員が一人でも出たら、出場できない」
 それを考えると、彼女はミラノの国際コンクールを犠牲にし、八月まで顧問を引き受けたのは迂闊だった。赤石校長に断る策はないかしら。妙案はなかった。
 最初の合唱部員との顔合わせは、金曜日の放課後で音楽教室だった。集まってきたのはわずか三人である。ほかの三人はすでに菊池先生に退部を届けて認められている、という。
「えっ。そうなの」「もうずっと前よね」
(三人だけでは県大会の出場ができない...)
「きょうは三人でレッスンして、次は飛雄(とびお)君も入ってもらいましょうか。先生から話して」 飛雄は中二の悪ガキの男子生徒である。
「だったら、わたし部活をやめます」「わたしも」「ひとりなんて、いやです。合唱にならないし」
 三人は背中をみせて立ち去っていく。呼び止めて話し合う余裕もなかった。怒るよりも、呆れてしまった。むずかしい年頃だけに、三人を呼び戻すのはむずかしいし、ムダな労力になるとおもった。
 愛紗美はグランドピアノの椅子に腰かけた。顧問になった早々に全員を失くした今、気持ちの置き場がなかった。県予選への意欲とやる気の魂を奪われてしまい、一体なにからはじめたらよいのか、まったくわからなかった。
――校長先生。部員がゼロになりました。当初通り、六月十日をもって豊町中学の教育実習を終了させていただきます。
 それは情けない話し。彼女は放心というか、思慮が停止した心境だった。このまま独りいても虚しいし、と教室を出た。彼女は一階への階段を下りはじめた。踊り場で、すれ違う浅間輝(ひかる)に呼び止められた。
「この間の、僕の授業の感想を聞かせてほしいんだ。忌憚(きたん)のない意見を」
「ここで?」
「いや。どこか別の場所で。どうだろう、あしたは土曜休みだから、ぼくが御手洗(みたらい)の史跡を案内しながら、白根先生の感想とか意見とかをきかせてもらう、ということで」
「いいんですか。わたしの評価は厳しいですよ。遠慮しない性格ですから」
 彼女は、胸にある部員ゼロの鬱屈を吐きだす気持ちだった。
「厳しい方がありがたい。僕にとって勉強になるし、今後の参考にしたいから」
「年下の大学四年生が、歴史も知らないで、なにを生意気な、とおもうはずですよ。聞かない方がいいです」
「そんなことはおもわないよ。教育実習の同期だと、ふだんそうおもっている」
(こんな日に、素直にうけるのも癪(しゃく)だわ)
「七卿館で、朝の十時に落ち合うことで」
「午前中は困ります。いろいろ用が立て込んでいますから、午後一時なら都合をつけられます」
 時間ずらしも、単なる気晴らしであった。彼女は踊り場から階段を降りはじめたとき、ちらっとふり向いて、上っていく彼の姿をみた。
(なによ。バツイチの三十男が、デートのひとつも声がけしないくせに。自分の頼みのときだけじゃない。憂さ晴らしをしてあげるから)
 彼女のモヤモヤ感は尽きなかった。

            ☆
 
 この先、白根愛紗美(あさみ)が「逆転の発想」で、中二の悪ガキの男子生徒・飛雄の力を借ります。明るい方向にすすみます。
 先日、元中学校校長の方とお会いし、私は「九十二年の空白」の意見をもらいました。
「この小説に描かれた、逆転の発想は取材ですか。実にリアルです」
 元校長は違和感を感じなかったようだ。
「いいえ。私の想像です。これしか解決はないかな、と考えました」
 と前置きし、推理小説の執筆の手法で、難問にたいして解決の方法は何かないか、とかんがえつづけて、ここにたどり着いたのです、と応えさせてもらった。
「現実に、こういう子(生徒)はどの中学校でもいます。小説の創作とはいえ、現実に近いところで書かれるのですね」
 中学校内の教職員や生徒ばかりが出てくるドラマだけに、私は安堵した。

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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ② ペリー提督の来航で大騒ぎ、それはウソでしょ

 ②の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。


『まえがき』
 ペリー来航は、大騒ぎだった。この通説ははたして本当だろうか。まず40キロの距離はどのくらい離れているか。皆さんの住まいから気にとめてください。次に、ペリー提督よりも7年前の1846年に来航したアメリカインド艦隊のジェームス・ビッドル提督はご存じですか。この時はとてつもなく大騒ぎです。
 ペリー提督の初来航は実に静かです。明治に入ると、歴史学者が7年前のビッドル来航の大騒ぎとすり替えたのです。『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』これは明治十年につくられた狂歌(ペリーよりも25年後の創作だった)と判明されて、現代の教科書から削除されています。
 明治時代から為政者は教科書に載せて、なんと150間後の現在までも、事実無根の狂歌をまるで真実のように教え込んできたのです。

 登場人物の院大生(浅間輝・ひかる)は元建築技師で、大きな設計ミスから転職し、緻密な理数系でなく、大学院の史学科に入った。妻と離婚し、歴史のねつ造は戦争につながる、という信念をもつに至った。それを生徒たちに教えたいと教職課程をとり、教育実習で教壇に立っている情景です。
 この場面では、東京からきた音大四年生の実習生・白根愛紗美(あさみ)が、教室の後ろで、その指導ぶりを眺めているばめんです。


『作品・本文より抜粋』

「アメリカはペリーが浦賀に来航するわずか七十年まえまで、イギリスやフランスの植民地だった。独立戦争に勝って合衆国となった。そんな新興国だ。さて、いよいよペリー来航の話しになるが、黒板に書いた和親とはどういう意味かな。女子にも答えてもらおう。佐藤さん」
――和は、和をもって尊し、とおもいます。親とは、親しく仲良くするです。
「正解だ。つまり、日米平和条約という意味だ」
 かれは黒板を指し、ちらっと白根先生の顔をみた。しっかり聞いている態度だ。
「石川君。なんで黒船というんだろう。みんなに教えてあげて」
――それは、えっと、ペリーが乗ってきた船が真っ黒だったから、だと思います。
「それは正解といえるのかな。半分だな」
 室町時代から、南蛮船は真っ黒だった。木造船は海水で腐るし、カキがつくから、防ぐために真っ黒なコールタールを塗っていた。だから、徳川家光が鎖国するまで、南蛮渡来の船はみな黒船とよばれていた。
 ペリー提督来航は1853年であるが、それより7年前の1846年に米国のジェームス・ビッドル提督が軍艦二隻で浦賀に来航している。ビッドル提督はアメリカ大統領の国書を持参してきた。当時の老中首座の阿部正弘は国書を受理をしなかった。
 ビッドル提督は初めて江戸湾に外国軍艦がきたといい、江戸湾警備の川越藩などの藩船や、駆りだされた漁船が数百隻も軍艦をとりかこんだ。約十日間は観光客があつまり大騒ぎだった。
「ペリーの黒船がきて日本中が大騒ぎした、という。これはウソだ。
 ペリー来航のとき庶民は騒いでいない。数年前にコロナ騒ぎがあったよね。パンデミックということばをおぼえているかな。天然痘が大流行の年で、パンデミックで街に人は出ていなかった。将軍も病死だ。ただ、病名は不明だがな。大奥のお女中は何人も死んでいる。
 ペリーの黒船は四隻のうち二隻は帆船で、めずらしくもなんともない。二隻は蒸気船で後ろにすすめる。わずか地元民が珍しがっただけだ。江戸日本橋から浦賀沖まで、直線でははるか遠き四十キロもある。黒船の煙は肉眼で見えない。御手洗と広島・宇品はおなじ四十キロの距離だ。見えるかい」
――見えるわけがないよ。山に登ってみても、米粒かな。
「コロナで外出禁止のときに、君たちは御手洗から伝馬船で広島・宇品港まで見物に行くかい」
――そんなことしないよ。一度見ているんだよね。ビットル来航で。
「ペリーの初来航はわずか九日間で消えてしまった。ビットル来航の大騒ぎと、歴史はすり替えられているんだよ」
――なぜ、太平洋から来なかったんですか。
「当時は蒸気船で、石炭を焚いて船を走らせていた。太平洋に石炭基地がない。だから、アフリカ、アジアの港で石炭を補充しながらきた。ペリー提督は学術調査が主目的だから、アフリカ・アジアの港に半月、一か月と立ち寄りながら、動植物の採取とか、農耕とか、家屋とか、いろいろ記録をとっていた。吉澤君、質問がありそうだな」
――白人は珍しかった、とおもいます。だから、大騒ぎになったとおもいます。
「そうかな。幕府は、長崎出島のオランダ商館の商館長(カピタン)に、毎年、海外情報をもって江戸に来ることを義務づけていた。松平定信のときから、四年に一度になった。三年は長崎奉行所での聞き取りになった。江戸には合計百六十六回やってきた」
 江戸庶民も宿泊所に行けば、窓から顔を出す。白人とは言わず、紅毛人(こうもうじん)だよ。だから、さして珍しくなかった。
「みんなは豊町中学の生徒だから、『カピタン江戸参府』はよく覚えておいたほうがいいな。なぜかな。白根先生に答えてもらうか」
――有名な医師のシーボルトが御手洗に来て、病人を診察しています。その記録が残っています。むかし下関から大坂までを御手洗航路とよんでいました。大坂にも御手洗にもおなじ住吉神社がありますから、それを裏付けています。カピタン江戸参府の百六十六回のうち、たぶん百回は御手洗に入港していたようです。
「音楽の先生をやめて、社会科の先生になってもらうか」
 大笑いになった。拳で机をたたいて笑うものもいる。
「どこまで話したのかな。忘れてしまった」
 またしても、大笑いになった。


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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ① これは恋愛小説なの、歴史小説なの

 ③の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の『立ち読み』シリーズを書くにあたって。きっかけは読者からだった。

「男女の恋がはらはらして、引き込まれて、四作とも一気に読めました。こんなにも男女の機微を上手に書ける作者とは思いませんでした」
 そんな声が多く寄せられた。
「ぼくはかつて純文学作家だよ、数十年は苦節で売れない小説家だった。8つの文学賞(本名での受賞)はすべて純文学作品だったし。本業だよ。男女の機微を書くのを得意としていたし、文学賞も多くいただいた」と電話とか、とSNSとかでそれをおしえた。

「なぜ、歴史作家になったのか」。このシリーズ「立ち読み」に入る前に、予備知識として、私の作品歴をかたっておこう。その方が作風も解るし、読者からはだから穂高健一はこんな執念で、通説をくつがえすことに燃えて執筆しているのか、と理解していただけると思う。

             ☆  

《純文学の小説家で、歴史作家から縁遠かった》              ☆     
 五十歳代のときに、著名な作家から酒の場で、「穂高よ。お前はストーリーテラの素養が充分あるんだ。貧乏もいいけれど、奥さんのために、いい加減に、売れる作品を書いたらどうだ」という叱咤に近い助言があった。妻のためか......、と胸が痛むことばだ。
 シェパード3匹も飼う邸に、お嬢様育ちの女性が、私と結婚し、数十年も貧乏生活をつづけてといる。内職しながら、「家事はいっさい手伝わない。10年待ってくれ、20年待ってくれ、もうすぐ30年ね」と嫌味を聞かされる。

《風向きが変わった》
 知人から雑誌社を紹介されて、ミステリーの連載小説を書くことになった。毎回、読者のコーナーに作品への期待が載っるほど好評だった。

 毎月の連載は、頭脳(あたま)のなかで、ストーリーを先読みし、計算し、状況を組み立てて、犯行と遺留品と目撃者などをリンクさせておく必要がある。
「書き下ろしミステリー作品」ならば、犯人の手がかりや証拠などは、一冊分が一通り書き上げたあとから、出版社に出す前に、さかのぼって伏線を忍ばせられる。ところが、月々の連載はそうはいかない。発売後に手を入れられないからだ。

 私の技巧は、自分でも解決できないような犯行の手口、解決のむずかしい高高度の設定をだしておく。さて、どう解決するか、と考える。
ーー単独登山の20代の若者が遭難した。不可解な死から司法解剖すれば、胃袋から海に浮遊するクラゲが採取された。透明性が高いクラゲは心臓も血管もなく、栄養分もなく、人間は食べない。何一つ犯行と結びつかない。
 作者の私には解決の道筋がまったく判っていない犯行だ。だから、紐解いていく読者にもわかるはずがない。この予想外の設定が、読者の興味を引き付けたようだ。
ーー解決のヒントは、南極のペンギンに頻繁にクラゲを捕食されていることだ。
 雑誌連載だから、後戻りして〈犯行現場は北アルプスでなく、水族館に修正する〉ということがきない。「失敗したな、こんな乱暴な設定で」と苦しむ。そこで、「逆転の発想」「どんでん返し法」を使い、私の頭をフル回転させて殺人犯にたどり着く。
 それなりに私自身も謎解きに参加できるし、解決できた安堵感は心地よかった。

《それでも、ミステリー作家は嫌いだった》
 新たな作品は毎度、血なまぐさい殺意を入れる。私はそこに自己嫌悪に陥った。ミステリーは自分の体質に向いていないな、と常づね思いつづけていた。
 サスペンスは人を殺さないで書ける。危機一髪をいかに乗り越えるか。これならば、私は自分に合っていた。主役はスーパーマン的な頭脳と、ごく自然に生まれる偶然とをどう展開させるか。危機から脱出させていくか。臨場感もある。書き手としてゲーム感覚でたのしい。
 ただ、サスペンスも文学作品から縁が遠く、「人間の本質を追求する」という本来の小説家のしごとでなく、たんに売り物の作家だな、という未消化な気持だった。

《とびこんできた歴史小説》
 連載していた雑誌社から、「坂本龍馬を連載で書いてくれませんか」という依頼があった。「えっ。龍馬とか、家康とか、秀吉とかは大物作家の領域でしょう」
 おどろく私の脳裏には、吉川英治、司馬遼太郎、池波正太郎、大佛次郎など次々に大物の名まえが横切った。
「穂高さんなら、良い歴史ものは書けるわよ。取材力と推理力があるから。文章力は高いし」
 女性編集長の煽(おだ)てかもしれないが、私はすぐさま自分を納得させられた。
 さかのぼれば、中学生の時には鎌倉将軍三代、足利将軍15代、徳川将軍15代はすべて漢字で書けるほど歴史ものは好きだった。引き受けた。

『人間は数千年経っても、おなじことをくり返す。歴史から学べば、過去を知り将来の指針となる』
 私は読者に役立つ歴史作品を書こう、と決意した。
 為政者(政治家・軍人たち)が作為した歴史が多い。国民を都合よく誘導するプロパガンダが多い。明治、大正、昭和(~太平洋戦争)、戦後において、政治家の都合よくプロパガンダで国民を誘導してきた。疑いのない通説ほど、巧妙なねつ造がある。これを破壊するぞ。損得や、儲け意識は土俵外のことだった。

「より史実(経歴、出来事、諸々)に近いところで書く」
 通説の壁をやぶるぞ、と刑事に似た気持ちで取り組む。「これはきっと後世の作り物だ」という人間洞察から疑問がわいてくる。まずは「刑事は現場100回」というミステリータッチの捜査から手掛ける。検事・裁判官のような立場で、史料を漁り、物証を重ね合せてみる。
 私にはもう一つの特技がある。純文学は「人間の本質」を追求するもの。「人間って、こんな行為などしない。こんな超人的な活動などできない」と疑問が常に脳裏で回転している。その疑問をむければ、おおむねねつ造がどこかにある。解ければ、裁判所の「逆転判決」という局面におよぶ。私はそれを通説をくつがえす歴史小説として世にだす。
「明治政府のおこなった歴史の歪曲は、日本国民のためにならない」
 それが私のライフスタイルになった。

 歴史小説は私の体質に合っているし、歴史ものを何年も書きつづけてきた。このたびの「歴史は眠らない」は「歴史教育の歪曲こそが戦争を招いた」がメインタイトルである。ぜひとも、大勢の人々に、日本はこんなひどい歴史の隠ぺいや歪曲を行ってきた、と知ってもらいたい。
「読んでもらい、口コミで大勢に広めてもらいたい。政治家がウソで広めたプロパガンダをくつがえす。それには中高校生以上ならば、よみやすい、男女の機微に興味をおぼえるストーリーで展開する。歴史はごく自然に理解できるように」
 むろん私は純文学作家だから、男女の恋心や機微など大の得意とする。まさに「水を得た魚のごとく」イキイキと立ち上げた。

 四つの収録作品は、いずれも魅力的な人物を克明に描いた。

・「九十二年の空白」はサンフランシスコ生まれの東京の音大四年生の女子が、望まない瀬戸内の島に教育実習にいくはめになった。魅力的な彼女は、おなじ中学に教育実習にやってきた実に風采の上がらない三十の離婚歴のある院生と出会う。生徒や教職員らも島の中学で生き生きと映像で見るように展開してくれる。

・「幕末のプロパガンダ」は、開港した横浜の富貴楼・女将のお倉はとても艶っぽく、彼女が幕末動乱の歴史をより興味深く誘い込んでくれる。

・「俺にも、こんな青春があったのだ」は、主人公の若き海軍中尉・高間完が、日英同盟にもとづいて地中海のマルタ島に任務ででむく。マルタ島で革命家の女性と禁じられた恋をする。

・「歴史は眠らない」は、太平洋戦争のあとは、琉球人女性が学生用パスポートで日東京に留学していた。大学生との恋に落ちてた。妊娠するも日本に留まれず琉球(沖縄)に帰国した。沖縄復帰からもはや数十年経つ。沖縄歴史ツアーの講師の歴史作家と、参加者の女性薬剤師との間に恋が芽生えはじめた。その実、三親等の血がつながりがあり、結婚できない。歴史がつくった国境の愛と人間のドラマである。
 

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ケネディ元アメリカ大統領&トランプ次期大統領 戦争回避の秘策とは

 アメリカが新大統領にトランプ氏を選びだした。かれは選挙戦のさなかに「24時間以内に、戦争を終わらせるみせる」と自信たっぷりに豪語している。戦争当事国のウクライナとロシア、イスラエルとガザに対して、どんな秘策があるのだろうか。

 歴史から学ぶ。そこでケネディ元アメリカ大統領を思いおこした。1962年秋の「キューバ危機」である。米国の裏庭と呼ばれたキューバに、ソ連が核ミサイルの発射台をひそかに建設をはじめたのだ。アメリカ政府や国民は騒然となった。


 ケネディは「ソ連の脅しには断固として屈しない」とソ連船がキューバに近づけないように海上封鎖した。一触即発で、第三次世界大戦か。世界中のほとんどの人が固唾(かたず)をのんだ。ソ連のフルシチョフが基地建設を断念し、屈辱の撤退となった。

 ケネディが優れているのは、軍部やタカ派を抑えきった指導力である。かたや、勝利に酔うことなく、「忍耐つよく平和の道をさぐろう」とひろく内外に呼びかけた点である。

ケネディ大統領.jpgジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy) 大統領公式肖像(1963年7月11日)            
       
 ケネディ大統領の暗殺事件(1963年11月22日)の半年前となる、同年6月10日にアメリカン大学で講演「平和のための戦略」(THE STRATEGY OF PEACE)がおこなわれた。それをひも解いてみた。

「大国どうしのアメリカとソ連は、いちども戦争をしたことがありません」と言われてみると、そうだな、とおもう。ちょっと意外であるけれど。

「第二次世界大戦中に、最も大きな苦難を味わったのはソ連です。2000万人が命を落としました。国土の三分の一、工業地帯の三分の二が荒廃し、多くの住民や農園が焼失し、略奪の被害をうけました」
 大学生のまえで、ケネディはそう語っている。相手の悼みを述べているのだ。

 といわれてみると、列島が焼野原になった日本の犠牲者(軍人・民間人含む)は320万人である。日本軍の侵略によるアジア人の死者数1500万人といわれている。ソ連はひとつの国でそれ以上の死者を出しているのだ。ケネディの口からあらためてソ連の犠牲の大きさを知る。
 
 ケネディの平和論は、ソ連の悲惨な歴史を前提に語られた。
「戦争は人間が作り出したものですから、人間の手で解決できるはずです。人間は、その理性と精神によって、解決不可能に思われた問題をも解決してきました」
 国どうしの対立は永遠に続かないものです。
 
「一方の疑念が、他方の疑念を生み、新しい兵器がそれに対抗する兵器を生み、危険な悪循環に陥ります。
 両国の違いについて盲目であってはならないのです。同時に、両国には共通する利益があり、両国の違いを解消する可能性のある方策があるのです」

 トランプ氏は選挙中にロシアによるウクライナ侵攻について、「私が大統領なら、24時間以内に終わらせる」と述べている。文字通りに解釈すべきではないかもしれないが、すぐに戦争を終わらせたい気持ちは強いのだろう。

 ケネディーの講演のから、ひとつ該当しそうなものを拾ってみた。
「核保有国(ロシア)は、相手国(ウクライナ)に屈辱的な退却か、核戦争かの二者択一を強いるような対決が起きることを避けなければなりません。核の時代に、そのような対決への道筋を採れば、政策の破綻を招き、全世界の死を望むことにほかならないからです」
 ここらはキーポイントになるだろう。

             *

 戦争ははじめるよりも、終わるのがむずかしい。それはかつて日本が経験している。太平洋戦争で1945(昭和20年)春には、南洋諸島からのシーレーンは断ち切られ、生活物資は入らず、日本列島の主要都市は連日の空爆で次つぎと焼野原だ。一億総玉砕が現実か。そう思えるほど国民の命が瀬戸際まで陥ってしまったのだ。

 1945年7月26日に連合国からポツダム宣言(13箇条)がだされた。受託すれば、即時降伏・終戦である。ところが昭和天皇の御前会議で、終戦への覚悟が定まらなかった。
 鈴木貫太郎首相が記者会見で「黙殺」と発言した。
「日本が拒否」とうけとられてしまい翌月には広島・長崎の原爆、ソ連の千島列島の侵攻となった。ちなみに、ドイツはヒットラーの自殺である。そして、第二次世界大戦は終結した。

               * 

 アメリカは民主党が戦争を起こし、共和党が戦争を終わせる。

 ここで注目されるのが、ウクライナのゼレンスキー大統領が、「トランプ氏が重視する『力による平和』はウクライナに真の平和をもたらす。共に(和平を)実行に移すことを期待する」と述べている点である。これはなにを意味するのだろうか。

 トランプ次期大統領がロシア・プーチン大統領から「今後とも核は使わない」と言質をとれれば、ウクライナ国民の恐怖心の一端をはらうことになる。それで状況がうごく。つまり、ロシアがアメリカに核兵器を使用しないと約束すれば、核のパワーバランスがはたらく。ロシヤはもはや約束を破れない。もし破れば、米露の核戦争となってしまう。
「ロシアの核の脅しには断固として屈しない」と貫いてきたゼレンスキー大統領としては、ウクライナ国民の生命・財産を守る一翼がこれで明確に確保できたことになる。だから、いくつか提示される和平案には段階的に歩み寄りができるだろう。
 
 ケネディ元大統領の講演「平和のための戦略」のなかの一節として、こういう。
「たがいに寛容な心をもち、実現可能な平和に目をむける。関係者全員の利益にかなう、具体的な行動と、有効な合意の段階的な積み重ねによる平和です」
 争いを公平に解決する手段が平和である、とケネディはいう。

           *  

 イスラエル・ガザの戦争は紀元前の旧約聖書が起因だから、自然崇拝(神・仏・太陽・富士山・キリスト行事)型の日本人には予測がつかない。
                          (了)

 

トランプ氏の次期大統領で、琉球王国(沖縄問題)の再熱か。まさに「歴史は眠らない」

 穂高健一著「歴史は眠らない」の出版と時同じくして、トランプ氏が次期アメリカ大統領に決まった。
 返り咲いたトランプ政権の再来で、この先はなにが起きるかわからない。世界じゅうが戦々恐々とし、トランプ氏の言動が最大の関心事になっている。

 アメリカ大統領の歴代の特徴として「正義」が大好きだ。戦争にしろ、平和にしろ、この正義という大義が大統領の言動の前面にでてくる。
 トランプ氏から、「琉球国の復古問題は未解決だ」と150年来の問題をゆり起こす、発言が飛びだすかもしれない、と私はおもった。そうなれば、まさに「歴史は眠らない」となる。

琉球王国.jpg 
  写真(ネットより)=琉球王国のシンボル「守礼門」

・ 18代米大統領グラントは明治初期に琉球国問題で調停の労をとった。

・ フランクリン・ルーズベルトは太平洋戦争の参入から沖縄戦へ導いた。

・ マッカーサー元帥は戦中・戦後の日本に大きくかかわった。

・ 第37代ニクソンは沖縄返還協定で、有事の核兵器持ち込みの密約をしていた。

・ 次期大統領トランプは、なにが予測できるだろうか。
 
              *  

 ある日、突如として、トランプ政権から、国際条約の「ウィーン条約五十一条」による琉球国の独立をいいだす。明治政府による「琉球処分」は国際法違反である。この条約は150年経とうとも、時効がないのだ。
「琉球人による琉球国の復興、そして琉球政府をつくる」
 そんな歴史問題を持ちだされると、日本政府や国民は予測しておらず、慌てふためく。これでは「危険」な状態である。

 危機と危険は違う。
「危険」とはなにも考えず、たとえば日本政府は自分の都合よく考えて、日米の防衛協力関係からして「沖縄から米軍が手をひく。絶対にありえない」と盲目的に信じて、まったく備えがない。それが「危険」な楽観論である。

 トランプ大統領が、アメリカ国力最優先で、海外駐留コストの大幅削減から、沖縄米軍基地を撤兵する。「政治の世界に絶対はない」という予測はないのだ。
 近いところでは1992年にフィリピンが米軍との地域協定を破棄し、米軍が全面撤退した。その事例すらもある。

               *   

「琉球国は独立させて、琉球の将来は琉球人みずから決めるべきだ」
 三期目のない剛腕なトランプ大統領が「正義で名をのこす」と日本に強烈に迫ってくることも予測もできる。

 おおむね歴代アメリカ大統領のブレーンは、世界じゅうの各国の盲点や強さを研究する。今回は、トランプ氏の側近が、日本研究者から、明治維新政府がまだ未熟なころ独立国・琉球を軍事圧力で日本が強奪し、沖縄県に組み入れている。この「琉球処分」は国際慣習法の違反であり、時効がないから、現代でも明治までさかのぼり、解消できる。その問題をとりあげて大統領に進言する。
 そしてトランプ大統領の「正義の発言」になることも予測できる。

 かたや、日本の政治家や官僚は、学生時代に「琉球処分」という用語しか習っていないし、琉球問題の本質がわかっていない。ただ慌てふためくだけである。
   
 危険に対して「危機」とはなにか。それは過去のできごとから歴史を学び、今後(未来)において想定されるいかなる変化にも対応も能力を備えることである。ここでいう危機とは、琉球問題の真の歴史をしっかり学ぶことである。
 
ペリー琉球.jpg この琉球問題の原点は、1854年にペリー提督が琉球王朝の首里城(イラスト)で、「琉米修好条約」を締結し、アメリカの議会でそれを批准した。琉球国を国家承認したのである。他に、フランスも、オランダも、琉球国を独立国として承認したのだ。

 三カ国が琉球を「国家承認」しているのに、明治維新後の未熟な政府が、米仏蘭との話し合いもせず、「琉球処分」という軍事威圧で、国際慣習法に違反して奪いとったことである。
 この琉球処分が日米中(清)関係で国際問題になり、日清戦争、日中戦争、太平洋戦争、ポツダム宣言まで、直接・間接にずっと尾を引いてきた。
 
 18代米大統領グラントが、清国を訪問したおり、李鴻章(りこうしょう)に要請されて日清間の調停に乗りだした。まずグラント元大統領は日本側の明治天皇・伊藤博文・井上馨と面談したうえで、1880年には琉球諸島の二分割案を提案した。

ーー沖縄本島周辺は日本として、宮古列島、八重山列島は清に渡す。その代償として中国内で欧米なみの通商権を得る。(分島・増約案)。
 
 日本と清国の間で、この分割案が合意に達した。翌1881年には、日清の代表者が石垣島で調印するまでに至った。
 ところが清国の国内からは、グラントの分割ではなく、「日本からの琉球国の完全復興」という世論が盛りあがった。
 調停寸前で、日清間であらためて琉球国の独立問題が協議された。決裂する。歴史がすすみ日清戦争の火種のひとつになってしまった。

 日清戦争で勝利した日本は、伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章による下関条約が結ばれた。日本は台湾を植民地にし、遼東半島を割拠し、さらに厖大な戦争賠償金を得だ。
 しかしながら、清国の李鴻章は琉球国問題にたいして妥協せず、下関条約にこの問題は組み込まれず、未解決のままの状態となった。
 
 ここらの歴史は、現代の日本国民は知らないのだから、
「明治天皇がいちどは宮古列島、八重山列島を清国に渡すと承諾した」
 えっ、それは教わっていないぞ。おどろきだというだろう。現政府や関係者が隠しても、歴史的事実は消えないのだ。

              * 

 ところで、アメリカ合衆国と中国は歴史的にはとても仲が良いのだ。ほとんどの日本人にはその認識が欠如している。

 日清戦争のあと「三国干渉」が起こった。それを契機にして欧州列強および日本が広大な中国領を割拠する競争に狂乱した。アメリカはそれをしなかった。

 日露戦争のあとから日米の仲が悪くなり、やがて日中戦争が勃発した。中国軍が貧弱で日本軍の拡大が目覚ましかった。中国は南京が陥落したあと首都を重慶に移した。日本軍は夜間の空爆のみで、陸上軍がさし向けられなかった。
 アメリカのルーズベルトは軍事力のない中国政府に加担し、武器、航空機、弾薬を次づきと支援しつづけた。さらに有能な軍事指導者を送り込み、近代的な軍隊組織づくりが為された。
 こうなると、短期決戦のつもりだった日本は五年におよんでも、日中戦争の決着がつけられず見通しも及ばず、中国と米軍と両面で戦う太平洋戦争に突入した。

カイロ会談.jpeg 太平洋戦争で日本劣勢となると、ルーズベルト大統領の提唱でカイロ会談が開催された。(写真の左から 蒋介石、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相)。三国において、「琉球王朝」の日本の国家強奪は国際法違反である、と共通認識を確認した。

 アメリカ・ルーズベルトは「歴史の不正を糺(ただ)す」という正義感から、日本から武力をもって琉球を切り離す、と中国(蒋介石)に約束した。そのうえで、沖縄戦へと動いた。太平洋・陸海空軍の殆んど55万人の米将兵という、ぼう大な戦力を沖縄へむけたのだ。

 連合国はポツダム宣言(13箇条(その一つがカイロ宣言を含む=沖縄は日本領でない)を降伏条件として日本に突きつけた。
 日本は沖縄を手放すという条件を承知で、ポツダム宣言を受諾した。1945年9月2日に軍艦ミズリー号で、降伏に調印した。ここにおいて琉球(沖縄県)が完全に日本国領土ではなくなった。
 沖縄・首里に琉球政府ができた。日本の施政権は及ばないし、日本憲法の影響を受けにない。「琉球政府が独り立ちできるまで、アメリカが沖縄を統治する」と琉球(沖縄)に星条旗が掲げられたのだ。

 アメリカは、敗戦国の日本はいっとき国際連盟の常任理事国であったが国際連合には加盟させず、中国を戦勝国として国連の常任理事国に推薦したのだ。
 
             *
 
 共産主義を嫌う米国は冷戦下にあっても、ニクソン大統領が、日本の頭越しに米中国交回復を成した。
 こうして長い歴史をみても、米中は相性が良く、仲が良いのだ。

 トランプ次期政権が米中の経済問題の障壁を取りのぞけば、政治的には米中の蜜月時代に突入するかもしれない。「昨日の敵が今日の友」となる。そして、トランプ氏が日中の障害となってきた「琉球処分」を解消することがアジアの安定につながる、と主張する。
 
「アメリカ政府が佐藤栄作元首相との間で、琉球政府の立ち合いもなく、1972(昭和47年)に沖縄を日本に渡したのは合法性がない。当時のアメリカ政府の判断はまちがっていた。琉球国にもどすのが国際法に沿うものだ」
 トランプ大統領ならば、大胆に、自国の過去の歴史修正も厭(いと)わないかもしれない。21世紀の琉球新政府は、基地経済から脱却し、欧米およびアジア各地から優良企業を各諸島に誘致し、みずから国家運営するべきだ。その方が豊かになれる。
 600年も戦争なく自由貿易港だった歴史ある琉球国ならば、こんごの自国防衛においても、琉球人の判断によればよい。それがむしろアジアの平和になる、とトランプ氏ならば主張してくるだろう。

 私たちは学校教育で、正しい琉球処分の知識を教わっていない。ここはいちど危機管理から「歴史は眠らない」を読まれた方がよいとおもう。

【関連情報】
 
 題名「歴史は眠らない」(左クリックでアマゾンに飛びます)

著者:穂高健一

出版社: 未知谷(みちたに)

定価 : 2500円 + 税

新刊 穂高健一著「歴史は眠らない」が11月10日に全国の書店・ネットで発売されます

 穂高健一著「歴史は眠らない」が出版社・未知谷から、11月10日に発売されます。定価は2500円+税です。
 アマゾンではすでに販売がはじまりました。 

 メイン・テーマは「歴史教育のわい曲こそが戦争を招いた」です。フェイクを排した歴史的真実の側面を心躍る物語として4編綴っています。

 明治政府のプロパガンダ(歴史のねつ造、わい曲)が、武力を尊び、軍国主義、強権主義を是とし、戦争へとおしすすめた。
 それが日清・日露戦争から、やがて日中戦争、太平洋戦争につながり、そして昭和二十年夏の日本列島の廃墟で終焉した。

 国内外の史実・資料にもとづいて丹念に描いています。「小説は人間を描くもの」という理念から、いずれも男女の恋も折り込み、読みやすくわかりやすい歴史小説です。
 
歴史は眠らない 表紙カバー.JPG

九十二年の空白
     ぺリ―来航の目的は学術調査だった?!
     瀬戸内の島の中学校を舞台に
     歴史を探求する教育実習の男女二人......

幕末のプロパガンダ
     大政奉還の直後、徳川慶喜の東帰
     倒幕側は慶喜が江戸に逃げ帰った
     逆賊だと汚名を喧伝した

俺にも、こんな青春があったのだ
     江田島の帝国海軍兵学校を卒業
     第一次世界大戦でマルタ島へ
     日英同盟で参戦した青年将校の物語

歴史は眠らない
     太平洋戦争の史跡巡りに
     沖縄へ発った歴史講座の一行
     琉球・沖縄の歴史を知るうちに
     国際法違反の奪略の意外な事実......

歴史は眠らない 裏カバー.JPG

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幕末・維新史から、「名もなき雑草のごとく偉人」の発見へ     

 小学生の文集をみると、「雑草のように生きる」という表現がよく出てくる。この雑草とはなにか。逆境にも負けず、くじけないで、力強く生きることだろう。受持ちの先生は何かと、偉人伝を読みなさい、とすすめる。読んであこがれても、そうたやすく偉人にはなれない。雑草のようなたくましい人生ならば、自分にも期待できる。そんなことから雑草をモットーにするのだろう。

 19世紀半ばに開港・開国した幕府や、明治新政府の文明開化政策から、招へいされた有能な外国人が数多くいる。やる気は充分あるにもかかわらず、ほとんどの外国人は無情にも短期の使い捨てにされた。

 それでも日本を愛し、死ぬまで逆境のなかで頑張ったひともいる。業績を挙げても、その誉れはいつしか日本人にすり替わっている。「名もなき雑草の偉人」。そんな勝手な思いで、小説に描ける外国人を可能なかぎりさがしてみた。


カール・レーマン.JPG
【写真】 ドイツ人のカール・レーマン(1831年11月28日 - 1874年4月21日)

 カール・レーマンはドイツ人で優秀な造船技師であった。徳川幕府が長崎に軍艦造船所を建設する目的で、乞われてきた初期の「お雇い造船技師」である。ところが、幕府はフランス政府の借款で、横須賀に造船所を建設する、当初計画の長崎は破棄した。その理由からカールは、三年間という雇用契約のみで延長が認められず打ち切られた。

 人間は男女の恋で生きている側面がある。かれは長崎の丸山遊郭の芸妓と結婚し、生まれたばかりの女児がいる。解雇で無収入になってしまった。この先、どう生きたのか、と私は興味をもった。
 母国・プロシアは、宰相ビスマルクが統一ドイツの誕生をめざし、近隣のデンマーク、オーストリアなどと戦争つづきである。後詰めで高性能な射程のライフル銃が開発されて、強国をあいてに連戦勝利しているさなかだ。妻子を連れて帰国すれば、徴兵制で兵士にとられる、その怖れがある。

 かれは日本に残り、ハンブルグ出身者(外交官)と協同で、ドイツ貿易商になった。このころの日本国内をみれば、薩英戦争、下関戦争、禁門の変、長州戦争と矢つぎばやに戦争が起きている。幕府も、全国諸藩も、火縄銃ではもはや戦えないと、西洋銃に切りかえている。あす戦争となれば、だれもが勝ちたい。ドイツ製の優れた銃がほしい。もとめられてカールはあつかい品目の比重を機械から武器へとシフトした。武器商人、もしくは死の商人。これでは小中学生の教科書には載らないだろう。

 かれは、グラバー流の密貿易などしない。会津、桑名、紀州藩など長崎税関を通過する正規の銃のみをとりあつかう。幕府筋から大量注文を請け負うと、カールは最新銃を仕入にドイツに帰国する。調達して再来日すれば、会津城は落城し、幕府は瓦解していた。大量の銃は宙に浮いてしまう。まさに、絵にかいたような逆境だ。知的なカールは、ビスマルク戦術を知る剛毅なプロシア下士官を日本に連れてきていた。和歌山藩にはドイツ式徴兵制の導入と、プロシア同様の軍事訓練による戦力づくりをすすめた。

 和歌山県では身分を問わず二十歳以上の青年が、ドイツ銃で訓練をうけた。この軍隊システムは日本中におおきな反響をあたえた。和歌山県(徳川家)が全国最強の軍事力をもった。薩長閥の新政府は、徳川家の再集結をおそれて廃藩置県を早めた。中央集権制で和歌山軍を無くし、まねて日本陸軍のドイツ徴兵制の導入に踏み切った。
 ここに鎌倉時代からつづいた武士階級が消えた。カール・レーマンが日本の歴史を最も大きく変えたといえる。

                  ☆      

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    【写真】弟のルドルフ・レーマン1842年 - 1914年)
 帰国したおり、弟ルドルフ・レーマンを日本に連れてきていた。この弟はドイツでも名門のカールスルーエ工科大学(2018年現在6人のノーベル賞受賞者を輩出)で土木・機械工学を学んでいる。兄弟して大阪に民間の鋼船づくりの造船所を興す。

明治二年には明治天皇、公家、新政府の政治家が、京都からこぞって東京に移ってしまった。天皇の遷都なき奠都である。
 御所や公家邸には雑草が茂り、商人らは逃げていき、経済は衰退した。荒ぶる人々によって伝統文化や寺社が破壊されるなど廃れた。京都府参事で失明の山本覚馬(妹は八重で、大河ドラマになった)が、レーマン兄弟に「京都の復興」を託し、京都初の「お雇い外国人」として招へいしたのだ。

 千年の古い都に、西洋の近代化を導入し、日本初の京都博覧会を開いた。京都に立入禁止の外国人らにも見学を許可した。京都御所まで一般に開放し、国際観光・京都へと踏みだす。さらにドイツ語・外国語の普及、赤十字病院、日本初の幼稚園、製紙会社、和独辞典など諸々の展開をした。

 今日の京都は国際観光都市として空前の客をあつめる。「名もなき雑草のごとく偉人」のレーマン兄弟を発見した

新聞寄稿 「ペリー来航の真相」

 最近の私は、歴史作家といわれている。もともと純文学の作品を書いてきた。かれこれ十年前になるだろうか、雑誌の編集者から「坂本龍馬を書いてください」と依頼をうけた。
「えっ。歴史上の大物の信長、秀吉、家康、龍馬などは、権威ある歴史作家......、司馬遼太郎、吉川英治、池波正太郎とかが書くジャンルではないですか」
「あなたの筆力だと書けますよ。取材力はあるし」
「無名でも、読んでくれますかね」
 そんな経緯で引きうけた。
 坂本龍馬の通説にはやたら嘘が多いな。
「人間って、こんなことしないよな」
 私が純文学の目でみると、英雄史観には人間離れしたことが多すぎる。現代のように新聞・テレビもないし、情報が瞬時に飛び交っていないし。そもそも、この世にはスーパーマンなどいない。

                  ☆

 私にはジャーナリズム精神と技術がある。自分が納得できるまで裏どりをする。あるときはミステリータッチ(刑事の勘)で臨んだ。ともかく、龍馬の足取りを追う。
 やがて船中八策(せんちゅうはっさく)は本物も、まして偽物もない、とわかった。さらに調べると、大正時代に土佐の政治家兼文筆家のつくり話だとすっぱ抜いた。つまり、龍馬は大政奉還の建白には関わっていなかったのだ。
 それを整理して雑誌で掲載した。これまで返品率が70%だったのが逆転し、返品が限りなくなくなったと喜ばれた。中日新聞(東京新聞)が日曜版で、見開きで大々的に取り上げてくれた。

                 ☆

いろは丸.jpg いろは丸事件でも、「衝突した紀州が悪い、龍馬が正しい」と、それが通説だった。長崎奉行は、龍馬の金塊と最新銃を積んでいたという主張を認めた。そして紀州藩には損害支払いを命じた。

 私は鞆の浦で、潜水調査した京都大学の助教授の存在を知った。取材申し込みをうけてくれた。「ガラクタばかりですよ」とマイクロフィルムを見せてくれた。さらに引き揚げた蒸気窯レンガの実物も触らせてくれた。
「なぜ。京大は鉄砲も金塊もなかったと、それを発表しないのです」
「ヘドロが船体に被さっており、引揚しないと船名が確認できないからです。あとは作家の世界ですよ」
 それも加えて雑誌に掲載した。
 坂本龍馬の批判記事は、おおきな反響を呼んだ。
 
 私が連載で次々と龍馬通説を暴いた。当然ながら、ファンから反論が寄せられる。「そこまで言われるならば、高知の坂本龍馬記念館に行って、船中八策を見せてもらうとよいですよ」とさらりと応えていた。むろん、現物があるわけがない。フィクションなのだから。

 6回の連載がすべてそんな感じだった。最近は教科書から坂本龍馬が消えるという。これまで虚像の世界の人物だから当然だろう。それは龍馬自身が悪いのではない。
「彼はそもそも鉄砲密売人なのだ。歴史学者と歴史作家が明治政府のプロパガンダに乗せられて、いまだに『倒幕の英雄』という偶像を史実のごとく扱っているにすぎないのだ」

                  ☆

 最近の歴史関係書は、歴史を後からの視点で書いている。
 英雄たちが早くに文久時代から「倒幕」を叫んだように展開している。これも大嘘だ。当時の幕府といえば、最大の絶対権力があった。全国津々浦々に、公儀隠密がはりめぐされている。
 幕府の役人に、「倒幕」が一言でも発覚すれば、あるいは嫌疑がかかれば、当人のみならず連座制で一家全員が処刑される。武士は「家」制度の下で、親兄弟に迷惑をかけられない。たとえ脱藩しても、口が裂けても倒幕など言えなかった。脱藩そのものが「斬首」の刑が認められていた。
 学者にしても、歴史作家にしても、十五代将軍徳川慶喜の大政奉還まで「倒幕」を叫んだり、書簡(密書)に綴ったりした人物はいない(隠密に奪われる危険性があるし)とするべきだ。(処刑された吉田松陰すら倒幕は口にしていない)。

  ☆

 それにしても、明治政府の御用学者たちのプロパガンダはひどすぎる。
 学校教科書の歴史も、かなり嘘で染められている。薩長土肥の政権は自分たちを高く見せるために、事実に反して前政権の「徳川時代」を卑下している(プロパガンダ)。
「教科書は正しい。だから真実だ」。日本人はそう信じている。平成・令和の時代になっても、社会科教科書に「鬼面のペリー提督」を載せている。狩野派の絵師などは実写的に正確に書いている絵があるのに、と怒りすら覚えてしまう。
 明治政府が都合よく作った幕末史は嘘が多い。
「歴史は国民の財産だ。そこに嘘があれば、国民を欺(あざむ)きつづけることになる。幕末史の出来事の欺瞞を糺(ただ)さないと、このまま受け継がれていく。私たちの子孫のためにならない」
 このプロパガンダをばらしてやろう、と私は考えた。

ペリー 中川.jpg 幕末史で最も重要な出来事が、「ペリー提督の黒船来航」である。ここから日本史が大きく変わる。
『ペリー艦隊日本遠征記』の著者・Samuel Wells Williams は1812年生まれで宣教師である。この著作がどこまで事実なのか。Williams本人は、ペリーから依頼された、新興国アメリカの高揚感を高めることにも意を用いた物語だと明記している。これはまさに司馬遼太郎氏「竜馬は行く」という同じ創作タッチだ。
 それなのに明治以降の学者がなぜ『ペリー艦隊日本遠征記』(小説タッチ)を史実として扱うのだ、と強い疑問をもった。

 私はアメリカ側の史料(ペリーの書き残した書類、研究書、新聞)を漁った。Williamsの『ペリー艦隊日本遠征記』と照合した。かたや幕府側の交渉録なども精査した。
 ニューヨークからの出発に先立って、ベリーは海軍長官から「武力行使で条約を結ぶと、議会の多数派の民主党から批准されない。決して武力は使うな」と釘を刺されている。アメリカの日本遠征の目的は別にあると、私には類推ができた。
 ペリー提督が二回目の江戸湾来航(1954年)を半年も早めたのは、日本遠征を命じたミラード・フィルモア大統領が失脚して、ジェームズ・ブキャ ナン大統領(民主党)になったからだ。政権交代である。威圧的な砲艦外交の根拠がなくなっているのだ。
 
 私たちが学校で習ってきた社会科教科書に影響されない真実に近い『ペリー来航』を書こうときめた。

 純文学とは小説を通して「人間とは何か、真理の探究」の精神を描くものだ。私はいまなお純文学志向なのだ。

 2019年にまず「安政維新 阿部正弘の生涯」を世に送りだした。つづいて江戸城大奥の上臈・姉小路に注目し、一年間の新聞連載(公明新聞社)「妻女たちの幕末」(298回)を執筆した。それを一冊にして、昨年末(2023年)に南々社から単行本で出版した。

 とくに新聞連載中から気になっていたのが、「学校で習った砲艦外交に間違いない。小説とはいえ創作が過ぎる......」という批判だ。私はひと区切りつくと、ペリー来航の真実をもとめてオランダ・ライデン市のシーボルト記念館を訪ねた。
 それを寄稿文とした。
 2024年2月8日に掲載された。(写真のうえでクリックすると、拡大されます)

ペリー.jpg

中国新聞・論説主幹が「妻女たちの幕末」について書評を記す = 時代を動かした「奥の政事」と題して

 中国新聞、日曜版(2023年12月17日)に、岩崎論説主幹がみずから「妻女たちの幕末」を取り上げている。


 書評では、大奥が従来の愛憎のうずまく定番ものでない、と明確に前置きしている。そのうえで、実在の女性である上臈お年寄り・姉小路という実在の女性視点から、開国か、攘夷か、と揺れ動く政局を描いた歴史小説である、と紹介している。


 その姉小路は12代将軍の家慶付きとなり、「奥の政事」を取り仕切り、老中首座で福山藩主の阿部正弘と手をたずさえ、動乱を乗り越えていく。
 260年間つづいた徳川幕府には、男女の役割が、機能的かつ合理的に役割分担があった。大奥の政治的な役割をおおきく見立てているのが目を引くと、同書の特徴を評価してくれている。


20231217中国新聞記事.jpg


 多彩な資料を引用し、天保の改革、米艦艇の来航、安政の大獄と歴史の筋立てを追う。姉小路をはじめ大奥の力が老中を上回る場面もあったと紹介している。


 作中では、植物好きのペリー提督が、日本の学術開国に関心が強く、脅しによる通商でなく、公平な国交だったという作者の幕末史の新たな見解を紹介する。そのうえで、近年、たしかに研究者はペリーの友好的な側面を指摘している、とことばを添えてくれている。

 同書では「砲艦外交」は明治政府のプロパガンダだと言い切っているが、岩崎論説主幹は「著者の見方には議論もあろうが、一読に値する」という。


 先の作品「安政維新・阿部正弘」の続編ともいえる、と「妻女たちの幕末」の立ち位置を明記されている。

ドイツ語は一文字もわからずして、独り150年前のドイツ取材の旅へ 

 羽田から深夜飛び立ってロンドン空港を経由で、ドイツのベルリンに入る予定だ。ロンドン・ヒースロー空港に着陸前、私は隣席の日本人男性(イギリス在住)とちょっとした縁から10分ほど語り合っていた。理知的な学者風で、国際的な視野を持っていた。
「着陸しましたが、当局の指示でしばらくお待ちください」とアナウンスがあった。
 それから10分間ほど、私たちはそれも耳に入らない感じで親しく国際問題や歴史を語り合っていた。突如として、武装した複数のロンドン警察が目の前のカーテンを開いて突入してきて、隣席のかれを連行して立ち去った。

 思想犯の手配書が回っていたのかな。話の内容からして、そんな感じの方だった。
 いきなりの出来事だ。独り旅の先々でこのさき何が起きるのかな、と構えた。
 
 ドイツ・ベルリンの空港に降り立ったのが、ことし(2023)11月1日である。
 それは新聞連載「妻女たちの幕末」が一年間で完結し、単行本になった発刊の日である。著者の私が、発刊日に日本を離れるなど、出版社にも読者にも、申し訳ない気持ちがあった。
DSC_0067.JPG 写真=ベルリン中央駅の朝の風景

 ドイツ取材旅行の目的は、明治10年に日本で初めて発刊された「和独対訳辞林」の小説化である。ドイツ語は一文字も理解できないし、話せない。
 旅立つ前には「通訳は雇うの?}と多くの人に聞かれたが、通訳はいらない。どうせドイツの150年前の歴史など正確に理解できておらず、あいまいな通訳でごまかすだろうし、それではかえって困るからである。
        
DSC_0004.JPG ブランデンブルク門(ベルリン)
 
 戊辰戦争のあと明治新政府が樹立された。
 明治4年に廃藩置県が終ると、明治政府はすぐさま岩倉使節団として総勢107人を欧米十二か国に派遣した。このころ、プロイセンが普墺戦争(ふおうせんそう)・普仏戦争で勝利し、1871年にはドイツ統一を実現し、ビスマルク政権が樹立された。

 岩倉使節団の一行は、日本・戊辰戦争と独逸・普墺戦争という似た歴史をもった宰相・ビスマルクに面談した。

 ビスマルクの考え方や思想に感銘した明治政府の高官らは、やがてドイツ帝国に傾倒していく。と同時に、多くの留学生がドイツ各地の大学などに派遣された。かれらは帰国後に医学の発展につくすのだが、初期の段階では語学をいかにクリアーするか、という課題があった。

 徳川幕府の時代から、ドイツ語を日本語に翻訳する独和辞典は存在していた。しかし、日本語をドイツ語にする辞典がなかった。
 ドイツに傾倒していく日本において、明治10年には民間人の手で「和独対訳辞林」が出版された。それは東京足立の豪農・日比谷健次郎・加藤翠渓が全額出資し、完成させたものだ。明治初期の「文明開化」のスローガンを掲げた政府指導の官製でなく、和独事典が民間人の手によるものだけに、私はそこに歴史的な興味をおぼえた。

 ビスマルク 彫刻.JPG 普墺戦争の大勝利の模様を描いた銅版レリーフ


 歴史小説は史料が命だ。より事実に近いところで書く。先輩の文豪たちも、その精神で臨んでいる。

「和独対訳辞林」の執筆を手がけた。出版社も内諾を得ていた。ところが、あまりにも資料がなさすぎた。編集者は三人の日本人であるが、いつドイツ語を学んだ人物なのか、そもそも、いったい誰なのか、その素性はまったくわからない。調べても、やみくもに月日が経っていく。
 日比谷印刷所は東京・神田に存在していた。だが、関東大震災、東京大空襲で史料はすべて焼失していた。手掛かりとなる史料は稀有だった。
r.lehmann レーマン.jpg 同辞典の校閲はお雇い外国人でドイツ人のルドルフ・レーマンである。京都薬科大学の創設者の一人である。
 やがて、私は「妻女たちの幕末」の連載準備に入り、「和独対訳辞林」の執筆を棚上げにした。新聞連載中に棚上げしていた間、私は日本側からだけで「和独対訳辞林」を描くのは限界がある、と考えはじめていた。明治初期の文明開化にはお雇い外国人もおおきく寄与したはずである。
 外国から日本を見る。日独の全体像を捉えてみようか、と私は胸のうちで思っていた。

 それというのも、「妻女たちの幕末」の連載中に、私は黒船騒動の通説は日本側の視点で書かれている。日本側は殖民地の恐怖を強調し、ペリー提督の黒船を砲艦外交で幕府はおびえて開国したという。それが明治時代の学者が書いた幕末史である。

 アメリカのペリー提督の立場から、日本開国を捉える必要あるのではないか。ある種の直観である。
妻女たちの大奥 目次.JPG
現在はAI時代だから、海外資料も瞬時に自動翻訳ができる。
ペリー提督の日本遠征がらみの数多くの資料を読み込むと、十九世紀の捉え方・認識が日本側と米側はおおきく違っていた。
 新興国アメリカ側は、「十九世紀は科学進歩による学術競争時代」だととらえていた。世界的な新発見ブームのなかで、アメリカが国威高揚のために、科学進歩に寄与できることは何か、とペリーは考えた。
 鎖国日本で、オランダが唯一、博物学、動植物学の日本独占をつづけている。アメリカはフロンティア精神で、日本に出向いてオランダの貿易・学術独占を打破し、世界じゅうに学術開放することだった。


ベルリン 戦勝記念塔.JPG 戦勝記念塔(せんしょうきねんとう)285段の螺旋階段を登った展望台の夜景
              
 歴史小説は、外国側からの視点も入れなければ、真実に近いものは書けないと悟った。「和独対訳辞林」においても、「妻女たちの幕末」のように、海外のお雇いドイツ人の視点も取り入れて執筆しようと心のなかで決めた。

 私たちは学校教育で幕末~明治のお雇い外国人についてさして学んでいない。
 かれらがいったい誰に依頼されて日本にきたのか。当時の日本は攘夷という人斬りが横行する。命を失いかねないリスクがあった。どんな業績を残したのか、という貢献度を知る必要があったからである。
  
DSC_0036.JPG ベルリン自由大学の構内

 
 ドイツ行きの決意を固めた私は、まず在日ドイツの関連機関や日本の大学などから、ドイツで日本語ができるドイツ人のアポイントを取り始めた。思いのほか難航した。

 イスラエル・ガザの紛争が勃発した。この問題は第二次世界大戦のナチスドイツのホロコーストに端緒がある。ヒットラー政権は負の財産として、このところクローズアップされている。ここに問題があった。

 明治初期の日独の関係はビスマルクは避けて通れない。ビスマルクの思想はやがてヒットラーに結びつく。すくなからず日独の歴史において明治から1945年の敗戦経験まで、類似的な道を歩んでいる。そこから逃れられない。

 私がメールや電話で直接、取材目的を説明しても、明治初期に限定しても、出発直前でアポイントキャンセルが多かった。当初から杞憂していたことだが、イスラエル・ガザの紛争がおもいのほかドイツの方々の心の暗さになっている、と思った。
 
 それでも、応じてくれる学者がいた。救いだった。
 
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 ベルリン自由大学の日本学科の教授、旧東ベルリンにある伝統あるフルポンヌ大学にある森鴎外記念館の学者、デュッセルドルフ大学の日本研究所の博士、ベルリン日独センターの文化部長などに面談した。

 明治初期に関係するドイツ側情報について取材した。作品を執筆するうえで、ずいぶん貴重な取材になった。

           ☆

 次なるは、ベルリンから長距離列車で、ルドルフ・レーマンの出生地・オルデンブルクに向かった。東京・京都くらいだ。私は車中で、取材ノートを整理していると、最初の乗換駅を見過ごしてしまった。

 東京からたとえれば、熱海で乗り換える距離なのに名古屋まで行ってしまった感じだ。そのまま引き返してもよいが、検札が来たら、ドイツ語は話せないし、厄介だ。そう思うと高速鉄道の次の駅・名古屋で下車し、そこで熱海までチケットを買いなおし、引き返してきた。熱海では京都までの指定券が無効だから、自由席として有効にしてもらう。

 唯一、頼りになるのは私自身の度胸である。若い時から登山で鍛えた、危機には沈着になれ、という信条だ。エッセイのネタになると思えば、失敗も楽しからずや。

DSC_0076~2.JPG

 目的地のオルデンブルクに着いたのが、予定よりも遅くて夕方3時半ころになった。そのうえ、土曜日が公営図書館は休館だった。「えっ、日本に図書館が土日が休館なんて、考えられない」。まさに予想外のことだった。私はドイツ語がまったくわからない。一文字も読ない。どうするべきか。臨機応変で自分を試す機会だ、と自分に語りかける。

DSC_0108.JPG      建物はレーマンの生家・オルデンブルクのピーター通り

 私はタクシー運転手の溜り場に足を運んだ。大半がタバコを喫っている。かれらと交渉をはじめた。
 150年前のルドルフ・レーマンは、とりまく7~8人の運転手たちは誰も知らなかった。そこで私はドイツ語の資料ファイルを出し、スマホの翻訳機能をつかい、レーマンの誕生した生家、学校、教会を訪ねて写真撮りに協力してくれる運転手をもとめた。

 すると、駅前タクシーの序列で五番目くらいに位置する四十代の運転手がファイルをのぞき込んで興味を示してくれた。「お前、引き受けろよ」と仲間が譲り合っていた。交渉が成立し、私を案内してくれることになった。車中では町の特徴も聞いた。

 レーマンは若いころオランダ・アムステルダムの造船所で働いている。そのご、カールスルーエ工科大学の土木工学科に遊学する。川海工業と土木工学を専攻していた。卒業後はオランダの機械工場で勤務している。
 
DSC_0084.JPG オランダの快速列車 

  私はドイツからオランダに入った。江戸時代は蘭語といわれていたオランダ語など、私にはまったくわからない。つたない英語と度胸があれば、世界中どこに行っても、人間と人間は通じ合える。とはいっても難儀は避けられない。ドイツでも、オランダでも、おおきな駅すら制服の駅員がいない。何番線に乗るのだ。行先の文字は読めない。

 そのうえ、ほとんどの駅にはトイレがない。日本では信じがたいが、皆無に近いのが現実だ。どうするのだ。水やビールは飲まない。主要駅には有料トイレがあるから、そこまで我慢するのみ。
 
 ところで、アポイントを取っていた著名な学者から、レーマンの勤務地が「咸臨丸(かんりんまる)」の造船所のすぐ近くだと知った。それは驚きである。
 咸臨丸とはなにか。ペリー提督が来航した年に、老中首座の阿部正弘が、長崎出島のオランダ商館長を通じて発注した蒸気船である。太平洋横断という業績を成した。日本史のなかでも、輝かしい歴史を飾るものだ。

 レーマンは機械・土木技術者であり、造船工学にもくわしい。咸臨丸の船体、蒸気機関の構造など知り尽くしたうえで、日本行きを決断したのだろう。このようにストーリが類推できた。
 歴史作家はたとえ海外でも、現地取材を豊富に脚しげくすることだ。古き出来事を訪ねるだけでなく、新たな歴史発見が生まれるのだと、再認識した。



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