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【歴史から学ぶ】ロシアのウクライナ侵攻と、昭和12年の日本帝国の日中戦争はそっくり

 21世紀に入り、まさか西洋諸国どうしの大戦争が勃発するとは、予想外のおどろきである。
 ロシアがウクライナに侵攻した。ロシアがなぜこうもクルミア半島やウクライナにこだわるのか。帝国主義の発想なのか。

 双方の事情を知るほどに、昭和12年から、日本帝国が遼東半島にこだわり、中国に侵略する暴走と実によく似ていると思う。

 昭和初期の日本帝国は、国際連盟の常任理事国という大国の地位にいた。軍事力も優れていた。ロシアは安保常任理事国である。まさに、国力はよくにている。


 このたび侵攻したロシアは、隣国のウクライナを弱小国家として上から目線でみていた。おおかた数日で陥落すると目論(もくろ)んでいたと思う。

 昭和12年の日本帝国は、中国の兵器や軍事力は劣っているし、中国人の士気は弱いと侮っていた。いとも簡単に落とせると豪語し、中国の首都(南京)や主要な都市に攻撃をかけたのである。

 当時の中国といえば、国内の政権が分裂し、蒋介石(しょうかいせき)の国民軍と八路軍(はちろぐん・共産軍)が内戦同様にいがみ合っていた。

 日本側とすれば、八路軍は農兵で粗末な武器でしか戦えないと、あまく見ていたのだ。

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 ところが、日本帝国が侵略したとなると、中国側の蒋介石の国民軍と毛沢東(もうたくとう)の八路軍がともに手をたずさえて死力をつくし、日本に挑んできたのだ。

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 現在のウクライナ情勢に目を移すと、戦況はどうだろう。ロシアの侵攻にたいして、ウクライナのゼレンスキー大統領が、私は逃げないし、死を賭(と)して祖国を守ると、全国民に徹底抗戦を呼びかけた。すると、民は祖国愛から士気を鼓舞し、強力なロシア軍と戦っている。

 これはとりもなおさず中国の蒋介石が南京が陥落しても、首都を奥の都市へ移してでも、日本軍に降伏しないと宣言した。それゆえに軍、官、民の固い結束で日本帝国に挑んできたのだ、その構図はいまのウクライナ国民の戦闘とよく似ている。

 ウクライナにしろ、中国にしろ、侵略してきた軍隊を駆逐(くちく)することにある。こうして、またたく間に、本格的なウクライナ戦争、日中戦争に突入し、ともに全土の戦いになったのだ。

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 クライナ軍は士気が高く、当初の予測よりも、よく持ち堪え、侵略者・ロシアを国外に追いだすまで徹底抗戦の気構えだ。
「あらゆる困難に耐え、抗戦の意思を持続させる」
 ゼレンスキー大統領は首都に留まり、全土の戦いへと一歩も引いていない。

 約100年前と見比べると、ウルグアイの政府軍と、中国の国民軍と八路軍(日本が農兵と侮っていた)の武器は希薄でも、強い意思をもって臨む戦い方がよく似ている。
 
 現在のロシア側は圧倒的な軍事力で、プーチン大統領が核兵器をもちらかせる。昭和12年の日本帝国は圧倒的な火器をもち優位にある、と奢(おご)っていた。

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 いまや、侵略国ロシアは世界の各国から強い批判を浴びせられている。結局のところ、世界各国から厳しい経済封鎖されはじめた。
 
 日中戦争に突入したあと、欧米諸国は日本帝国がこの戦争をやめないと、石油輸出禁止にするといくども警告を発していた。
 日本は都市部の攻撃で連戦連勝であり、勝ち戦なのに、相手が完全降伏しないかぎり和平に応じられないとした。

 これはいまのプーチン大統領の考えとまったく同じである。

 外国から「礼儀正しく秩序を重んじる日本国民だったが、別の国民になってしまった」といわれた。「ロシア人は他国の市民を殺す無情な国民になった」といわれる。
ここらも、良く似ている。

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 西欧諸国は、日本が樹立した満州国を認めず、ホロコーストのドイツ・ナチスと手を組んだ(日独伊三国同盟)日本は中国大陸からの撤兵の意思なしと見なした。やがて、欧米は手を取り日本列島の周辺にABCDラインという経済封鎖を布いた。そのうえで、日中戦争の即時停止と中国からの撤兵をもとめてきたのだ。

 日本国内はしだいに備蓄の石油が無くなりはじめ、軍艦、戦車、飛行機の戦略にも影響が出はじめた。
「石油があるうちに、仮想敵国のアメリカを攻撃した方がよい」という意見も飛びだす。
                 
              *

 現在のロシアは2014年3月11日にクルミア半島を独立国家にさせた。日本がかつて満州国を樹立し傀儡(かいらい)政権をつくったように。実に、よく似ている。

 ここまで似るのか、と思うほどだ。

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 古今東西。戦争突入は簡単だが、和平は難しいといわれてきた。『戦いは安く。和は難しい』という格言になっている。

 ロシアはいま勝利している側だ。ここが重要だ。
 プーチン大統領としては叩きのめすまで戦う。勝っている以上は自分の要求は通すまで講和しない、という気持も解らぬではないが、経済封鎖が利いてきてロシアの国力が弱ると、それはかつて日本帝国が失敗した道なのだ。

① ロシアはいま、ウクライナ側のゼレンスキー大統領から和平をもとめられているのだから、すみやかに「和平と講和」のテーブルにつくチャンスだ。交渉は有利に展開できる。いまが休戦、停戦、講和へと進む最上の道だ。
 なにはともあれ、最高の「講和の機会」のチャンスというとらえ方だ。ここを見間違うと、たいへんな戦争犯罪者になっていく。
 日本でいえば、東条英機元首相のように。

② さらに第三国から和平の斡旋があるいまは「躊躇なく」それに応じることだ。フランス、トルコ、イスラエルなどから和平斡旋の手があがりはじめた。最大の和平の好機と見なす。
 これをむげに蹴(け)っていると、昭和16(1941)年に太平洋戦争に突入した日本帝国のように、世界を見渡しても仲介国が一カ国もない状態になってしまう。外交努力すらもできない。

 プーチン大統領は、帝国主義の古い発想だ。ゼレンスキー政府を倒し、ロシアの意図とする臨時政権をつくっても、それはまちがいなくウクライナ内戦を呼び起こす。泥沼の惨事になるだろう。
 その先は、かつてのアフガンのような最悪の状況になり、五年、10年後にはロシアの経済力がいつそう衰えて撤退する結果になる。
「あの時、止めておけばよかった」
 あらゆる戦争の最後の言葉を吐くことになる。


 最悪のシナリオがある。1853年のクルミア戦争のように、小さな戦争があれよあれよ、という間に英仏とロシアというヨーロッパの大戦争になった。この過去の教訓を生かすべきだ。
 もし、おなじ道になると、NATOとロシアの対立構造というヨーロッパ大戦争になる。戦争がはじまると、双方で冷静さが失われる。
 こんかいも原子力発電所が狙われた。
 となると、戦争犯罪者としてプーチン大統領の命狙いでモスクワ・クレムリン宮殿に戦術核が落とされないとも限らない。

 その危険な状況にもはや近づきある。日本帝国が歩んだ、日中戦争、太平洋戦争、東京大空襲、広島・長崎は他人事ではない。
 まだ100年も経っていないのだ。

 いまは核戦争を止められるのは、プーチンロシア大統領のみだ。 
  
 

国際ペン ― 世界の作家のウクライナに関する声明 ― ノーベル賞受賞者、作家、芸術家

 世界中のノーベル賞受賞者、作家、芸術家は、1000人以上が署名した前例のない手紙でロシアのウクライナ侵攻を非難します

 文学と表現の自由の組織であるPENインターナショナルは、世界中の1000人以上の作家が署名した手紙を発表し、作家、ジャーナリスト、芸術家、ウクライナの人々との連帯を表明し、ロシアの侵略を非難し、流血の即時終結を呼びかけました。
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クライナの友人や同僚に

 私たち世界中の作家たちは、ロシア軍がウクライナに対して解き放った暴力に愕然とし、流血の終焉を緊急に求めています。

 私たちは無意味な戦争を非難し、プーチン大統領がモスクワの干渉なしに将来の忠誠と歴史を議論するウクライナの人々の権利を受け入れることを拒否したことで団結しました。

 私たちは、作家、ジャーナリスト、芸術家、そして最も暗い時間帯を生きているウクライナのすべての人々を支援するために団結しています。私たちはあなたのそばに立ち、あなたの痛みを感じます。
                   
 すべての個人には、平和、自由な表現、自由な集会の権利があります。プーチンの戦争は、ウクライナだけでなく世界中の民主主義と自由への攻撃です。

 私たちは、平和を求め、暴力を煽っているプロパガンダを終わらせるために団結します。

 自由で独立したウクライナがなければ、自由で安全なヨーロッパはあり得ません。

 平和が優先されなければなりません。
             
         (イラスト:中川有子) 
 
【原文・英語】

Nobel Laureates, writers and artists worldwide condemn Russia's invasion of Ukraine in unprecedented letter signed by over a thousand
Sunday 27 February 2022 - 5:30pm
Read the briefing in full
Nobel Laureates, writers and artists worldwide condemn Russia's invasion of Ukraine in unprecedented letter signed by over a thousand

PEN International, the literary and free expression organisation, has released a letter signed by over 1000 writers worldwide, expressing solidarity with writers, journalists, artists, and the people of Ukraine, condemning the Russian invasion and calling for an immediate end to the bloodshed.

Read in Ukrainian, Russian, Arabic, French and Spanish.

To our friends and colleagues in Ukraine,

We, writers around the world, are appalled by the violence unleashed by Russian forces against Ukraine and urgently call for an end to the bloodshed.

We stand united in condemnation of a senseless war, waged by President Putin's refusal to accept the rights of Ukraine's people to debate their future allegiance and history without Moscow's interference.

We stand united in support of writers, journalists, artists, and all the people of Ukraine, who are living through their darkest hours. We stand by you and feel your pain.

All individuals have a right to peace, free expression, and free assembly. Putin's war is an attack on democracy and freedom not just in Ukraine, but around the world.

We stand united in calling for peace and for an end to the propaganda that is fueling the violence.

There can be no free and safe Europe without a free and independent Ukraine.

Peace must prevail.

【孔雀船99号 詩】 思い出集め  望月苑巳

公園で孫とキャッチボール

鬼ごっこ

かくれんぼ

家では誕生日のケーキの上の蝋燭を吹き消す

(何だか命の灯を消すみたいで悲しい気分になるが、本当のことは誰にも言えない

お正月、普段顔を見せない娘夫婦が

birthday-cake 2022.2.14.pngこぞって笑顔を持ってくる

(作り物でないことを祈ろう

そんな時、ビデオで撮っておきたいと思う

ビデオならいつでも再生できるから

(ただ、ビデオには心まで映らないから残念だ

友人が訪ねてくる

スリッパを出す

たくさんの人を招き入れたスリッパだ

匂いがつけば鼻つまみものにされ

ボロボロになれば即お役御免

それまでは文句ひとつ言わず

どんなに臭い足で

穴の開いた水虫たっぷりの靴下も

受け入れてきた可哀想なスリッパよ

お前も思い出集めの仲間になりたくはないか

そうだお前こそ家族の一員だった

ビデオの主役になる権利がある

だからこっそり撮っておこう

孫たちから文句が出ようが

消去しはしない

(そう決めたのに今朝起きてみるとスリッパラックにお前がいない

妻に問えば「昨日、ごみに出したわよ」

思い出集めの終楽章はいつもこんなに

たわいなく残酷だ


思い出集め (1).pdf


【関連情報】

 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

「良書・紹介」 明治に育った『或る船長の生涯』=山崎保彦 (著者・90歳にて)

 山崎保彦さんが、『老船長のLOG BOOK』につづいて、第2作目を出版された。題名は『明治に育った「或る船長の生涯」(大成丸学生航海修行日誌)』で、ことし(2022年)1月10日に発売された。

 著者は山崎保彦さんは90歳である。平易な文章で濃密な内容をもって父・彦吉の人生を世に送りだした。それはとりもなおさず、明治、大正、昭和中期までの海洋・海運および日中戦争の貴重な目撃証言である。
 
                *

 明治時代は近代化、西洋化で海洋国家を目指した。ところが、江戸時代の長い鎖国の影響から当時は大型の外洋船もなく、機関知識も、航海術すらもなかった。

 そこで政府は欧米の先端技術を導入し、造船業を盛んにする。なおかつ高度な操船ができる上級船員を養成することが急務だった。全国から最優秀な生徒が官費であつめられた。
学生たち.jpg かれらは招へいされた外国人教官の下で、英語による航海学・機関学を学んだ。実習は欠かせない。沿岸の練習船において、未熟な学生らの海難事故が多々あった。


 かつて幕末に勝海舟が咸臨丸(オランダから購入)で太平洋を横断したように、東京高等商船学校の学生らは、学び得た高度な操船技術を、その実力をいよいよ試すときがやってきたのだ。

 官立(国立)の東京高等商船学校の帆船・練習船(大成丸)が、明治43年10月26日に横浜港から後藤新平逓信大臣らに見送られ、初の世界一周の航海にむかった。

 その1期生として山崎彦吉(著者の父)が乗船していた。それから15ヶ月、3万6000海里の大航海に乗りだしたのである。暴風雨のなかでも毎日、義務として英文で「商船学校学生航海修業日誌」を正確に記す。現存する日誌は、学生が必死に克明に書きつらぬいた筆跡である。

 その貴重な資料をもとに、山崎保彦さんが英文を日本語にして書き綴った作品である。作中で、読者にわかりやすく東京商船大卒の中川有子さんが随所にイラストを挿入している。
 彼女は帆船の練習船に乗船した経験から、イラストはとてもリアルでビジュアルである。練習船の大成丸とはどんな練習船か。現在、横浜みらい博物館に係留されている帆船・日本丸だと想像してもらえばわかりやすい。
 
出版社 : 紙とペン書房

定価  : 1400円+税

 第1章 彦吉の生涯

 第2章 練習船大成丸世界一周(彦吉の航海日誌)
 
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 第一部の「彦吉の生涯」について、

 現・東京海洋大学のHPによると、官営(国立)の東京高等商船学校は、明治・大正・昭和を通して難関校として有名である。俗に「陸士・海兵・高等商船」と受験生から呼ばれ、陸軍士官学校・海軍兵学校と並び称されるほど、全国から秀才が集まったと記されている。

 練習船・大成丸に乗船し世界一周した彦吉は、超エリートの東京高等商船学校を卒業すると、大正2年4月5日から国策会社の日新汽船に入社した。それは男爵・渋沢栄一が、揚子江流域の航海権を欧米と競う新会社として設立したものだ。むろん、航海士として日新汽船に入社するのは狭き門である。

                   *

彦吉船長 ①.jpg 山崎彦吉の勤務地は上海で、天津、大連など海域を航行する船の航海士であった。このころ中国において排日運動が盛んになりはじめていた。やがて昭和になると、第一次上海事変、さらには満州事変へと戦争が激化してくる。彦吉の日々は生死の境目に立つ航海である。
 
 商船は砲撃の対象になるし、昭和7年には日新汽船は民間事業として成立できなくなった。希望退職が募られた。父・彦吉はすでに結婚し広島を定住の地としており、帰国する。

 しかしながら、旧日本軍は揚子江流域にくわしい彦吉をふたたび上海にひきもどした。
 揚子江水先案内人(マリン・パイロット)として招へいされたのだ。上海港に出入りする民間船・軍用船を問わず、乗り込む水先業務である。やがて、第二次上海事変、さらに本格的な日中戦争へと進んでいく。まさに戦時一色である。

 昭和20年になると、日本側には船舶がなくなり、戦局が最悪になり、揚子江水先案内人の仕事もなくなった。彦吉は帰国を決意した。交通機関も満足になく、難行苦行で朝鮮半島の先端へ、さらに佐世保にわたり、列車で妻子がいる広島・宇品の自家にたどり着いた。

 苦労はそればかりか、翌8月6日は原爆の投下による大惨事である。悲惨な光景の町とか、恩師の娘さん・女子学生の死とかが、保彦氏の筆で客観的に描かれている。
 決して大げさな用語はない。それだけに事実の悲惨さがかもし出されている。

 ちなみに晩年の彦吉は、呉と江田島を結ぶ小さなフェリー船の船長になる。やっと平和な父の姿があった。
                   *

 息子の保彦氏も東京商船大学卒で、外国航路の大型船の船長や、大阪湾の水先案内人を務められた方である。
「航海日誌は事実しか書けません。どんな暴風雨のなかでも、冷静に記録します。ですから、フィクションは書けないのです」
 それだけに父親・彦吉が残した数々の日誌、手帳、手紙に冷静な目で向かい合ってより忠実につづられている。

 これらは日中戦争の下で、民間の商船エリートが正確に遺した史料としても第一級であり、加えて貴重な歴史証言といえる。山崎保彦さんはとてもよい仕事をされたと思う。


「関連情報」

①『明治に育った「或る船長の生涯」(大成丸学生航海修行日誌)』

 出版日 :令和4(2022)年1月10日
 出版社 : 紙とペン書房
 定価:1400円+税

 【お問い合わせ先 geihanshi@gmail.com 住所、氏名、電話番号、注文数】
  
②『老船長のLOG BOOK』

 出版日 :令和2(2020)年12月10日 (2版)
 出版社 : 紙とペン書房
 定価: 1600円+税

 【お問い合わせ先 geihanshi@gmail.com 住所、氏名、電話番号、注文数】
  

「元気100教室・エッセイ」 治験 武智 康子

 令和四年一月四日の夕方、突然、自宅の固定電話が久しぶりに鳴った。電話の相手は、私が、日本語教師として学校で最後に教えた卒業生からだった。

「王健です。先生、明けましておめでとうございます。やっと、僕の研究が実を結びそうです。今朝、事初めの席で部長から報告をいただきました。・・・・・・・・・」
 彼の声は喜びにあふれていた。
「それは素晴らしい。本当によく頑張ったね。・・・・・・・・・」
 私も嬉しかった。


 彼は、二十年前、中国のエリート高校を卒業して十八歳で来日した。初めて会った時は、青年というよりまだ少年のような顔つきだった。
 私は、始めて会った学生には、折を見て個別に面接をしていた。その時の彼は、他の学生と違って顔は少年でも、考えや留学の目的がはっきりしていた。まず、日本語を勉強した後、日本の大学で、医学か薬学を学び、「癌」の治療薬を作りたいという目的を持っていた。それは彼の叔母が白血病で非常に苦しんで亡くなったからだった。

 当時の日本は、アジアの最先進国であり工業技術や医学など科学技術の分野においては、世界に冠たる国であった。

 彼は、非常に真面目で、日本の大学に合格するには、普通は二年かかるところを一年で日本語教育を修了して、信州大学で生命科学を学び、大阪大学の大学院に進学した。そして日本のバイオテクノロジー大手の企業に就職して、研究所で十年越しの白血病の治療薬の研究に勤しみ、やっと治験に辿り着いたのだった。

 今は、三十八歳となり結婚もし、チームのリーダーとして活躍しているそうだ。

 ただ、動物実験に成功したからと言って、必ずしも人で成功するとは限らない。思わぬ副作用が出てくるやもしれない。彼自身も嬉しさの反面、一縷の不安ものぞかせているのは事実だ。
 新薬の臨床試験である「治験」は、厚生省により募集されるが、厳しい健康チェックの後、一、二週間病院に隔離される。もちろん謝礼は払われるが、それをアルバイトにしている人もいるという。

 しかし、治験には危険も付きまとう。大半は安全だが、時に「死」に至った人もあったそうだ。だから、アルバイトではなくボランティアであって、報酬ではなくあくまで協力に対する謝礼であると定義されている。

 一方、彼は、研究中思うようにいかずに、やめたいと思ったこともあったという。動物実験では何匹もの動物の命を奪ってしまった。その時「生命とは何か」を考えたそうだ。その気持ちは、私もよくわかる。
 私自身も学生時代に、人における呼吸酵素の働きを解明するための免疫学の実験で、モルモットやウサギの命を奪った経験がある。その時の気持ちは、今も忘れていない。

 そして、彼は最後に
「やっと治験にたどり着いた今、実験で犠牲になった動物たちに感謝するとともに、これから治験に参加してくれる人達、それが例えアルバイトであっても命を懸けてくれる人たちに感謝したいと思っている。そして、薬が安全で効果があることを証明したいと思っている」
 と話してくれた。

 私は、少年のようだった彼が、単に自分の研究成果だけでなく、研究を通して動物や治験者へも感謝の気持ちを忘れない、立派な一人の人間に成長したことが、何よりも嬉しかった。

 治験が成功すれば、世の中の多くの白血病患者が救われる。誠実な心の持ち主である「王健」の治験の成功を、私は祈らずにはいられない。
 コロナ禍で、心が沈みかけている、令和四年の新春に、この明るいニュースを受けた私の心は、少し華やいだ。
                         了

【寄稿・エッセイ】若返った私 青山 貴文

 令和4年の正月の朝が来た。私は、朝型人間で、正月だろうが4時ごろ目が覚める。といっても朝5時頃は真っ暗だ。

 数年前、「正月くらいはのんびりしなさいよ」と妻にいわれ、目が覚めてから、寝床の中でいろいろ考えたり、本を読んだり、ラジオを聞いたりした。

 その日は、一日中だらだら過ごしてしまりがなく、体調がおかしくなった。それ以来、正月でも目が覚めると、すみやかに床を離れる。


 書斎で、お湯を沸かしお茶を飲みながら、読書や調べものをしたり、数日前に記述したエッセイの推敲をしたりする。文章を数日寝かせると、矛盾点や表現のおかしなところがたやすく見つけられる。
 そこで、いつも数編のエッセイ原稿を、パソコンに保存し、これはという数編を選んで推敲を重ねたものだ。ところが、81歳ともなると、作文力が落ちたのか、1編をパソコンに保存するのがやっとだ。その一編を、数日おきに推敲して、今までなんとか毎月一回、私のブログに掲載してきた。


 私は、新橋のエッセイ教室に、毎月一回通い続けて14年になる。このブログに載せた作品をエッセイ教室に投稿し、穂高健一先生や読者の皆さんのご意見をいただいている。

 先生や皆さんの感想文・ご意見を原作文の次にブログに載せる。数日して、主に先生に添削していただいたエッセイを改作文としてブログに掲載する。エッセイ好きの読者の中には、「青山さんのブログは、どのように改作すればよいか分かるのですごく勉強になる」と言われる。

 「エッセイを志す後輩あるいは同志のために、恥を忍んで、拙作エッセイを世間様に晒している」人間何か一つ世の中のためになることをやっていると、生きがいを感じ、若返るものだ。
 
 私には、この早朝が新鮮で、脳細胞が活性化して事象を深く把握し、文章化できる唯一の時間帯だ。この朝のひと時を有意義に楽しく過ごせば、午後からは何をしても充実した1日になる。
 さて、そんな凡庸な朝型人間だが、今年の正月の雰囲気はいつもとどこか異って感じる。特に、居間から見える奥行きのない狭い平凡な庭の景色も、いつもと変わりはないか、今年はなにか明らかに違う。


 昨年暮れに夫婦して、居間の一間半の大枠の透明ガラス引き戸の網戸を取り外し、裏の軒下に冬場だけ置くようにしてみた。居間から見えるいつもの庭の垣根や草木が、二倍広く見え、大げさだがパノラマの景色を見ているようだ。
 
 さらに、昨年暮れ、吹き抜けの玄関の間接照明にもなっていた二階の洗面所の鏡の蛍光灯を取り外した。そして、LED電球に変えた。すごく明るいわりに電力は17ワットと少なく頗る経済的だ。
 この蛍光灯は、30数年前、家を改築した時の古いものだ。ここ数年接触が悪いのか、点いたり消えたりし、最近はつかないことが多かった。
 
 居間の網戸を外し、二階の用をなさない蛍光灯をLEDに変えた。ともにいつかやろうとしていたことを実行したまでだ。
 懸案の2カ所を明るくしただけで、今年の正月は若返った気がする。

                                  了

「元気100教室・エッセイ」 現状維持 金田 絢子

 令和三年十二月、雪の便りも届き、ぐんと寒くなった。ところどころ、一重の椿がしおらしく赤色を覗かせている。

 ある日、買物の帰り狭い歩道にさしかかると、八十三歳の私と同年輩の紳士が向うからやって来た。私を見ると立ちどまり「どうぞ」という風に身をかがめた。
 私が通り易いように、道の端に体を寄せてくれている。私は「ありがとうございます」と丁寧に言って、通りすぎたが、多分、私の歩き方にどこか不安定なものを感じとったのだろう。

 実は、同年十月十五日、私は左脚の付け根から踝にかけて、激しい痛みに襲われ、その場に凍りついた。かかりつけの内科医に紹介してもらい、歩いて十分ほどの総合病院の整形外科に行った。

 レントゲン検査の結果、左の腰骨のゆがみが神経を圧迫しているのだと診断された。痛みどめと胃ぐすり、寝しなに飲む神経をやわらげる薬を処方してもらった。

 痛みは日を追って楽になっていったが、玄関の三和土におりてドアをあける動作は、向こう脛にひびく。歩くのはあきらめて、四、五日外へ出なかった。家の中はかがんで歩いた。

 それまでもよろよろ歩いていたのだが、なおいけなくなった。力を入れても脚が思うように言うことを、聞いてくれない。年よりだから快復は遅いだろうが、歩かなくてはと痛切に思った。
コロナのせいで、月に一度の新橋のエッセイ教室はしばらく通信で行われていた。が、九月から対面でも実施される運びとなった。

 九月はいそいそと出かけたが、十月は生憎、脚の神経痛で参加できなかった。十一月三十日は思い切って出席を決めた。決めたものの落ち着かず、早すぎる時刻に家を出て、地下鉄の都営浅草線に乗り、新橋まで。駅の長い階段をやっとのことでのぼって、教室のあるビルに辿り着いた時には、全身がふるえるほど嬉しかった。


 思えば、この日の外出は、私にとって久々の遠出であった。

 世界中が、コロナ騒ぎと縁の切れないまま、年が明けた。寒冷前線が猛威をふるい、北国に大雪をもたらし、六日、東京も雪に見舞われた。

 私は七日の十時に歯科の予約が入っていた。テレビは「凍結に充分注意してお出かけ下さい」とくりかえしている。

 普段は、我が家のわきの坂道を通って三分で行かれるのだか、危険なので迂回することにした。医院の入口まで、娘が付き添ってくれた。娘に言われて傘を杖がわりに持って、決死の覚悟で出発した。ともすれば、つるりとすべりそうになる。傘が役に立った。

 診察を終えて、受付のあたりで、
「あしを痛めてから、脚力がにぶりました。でも歩かなければと自分に言い聞かせて、極力歩いています」
 するとS先生は言葉をかみしめるようにこう、応じられた。
「歩いていれば、よい結果がついてきます」
 私より五つ年下のS先生は、ずっと以前から、長距離歩行をご自身に課して来た人だ。信憑性のあるひとことは、胸にしみた。

 歩みをはじめたばかりの新年を前に、勇気づけられ、爽快な気分で、家路についた。幸い往きも帰りも、転ばすにすんだ。

 今さら完治はのぞめないにしても、何とか現状維持で、この年をのりこえられそうな、嬉しい予感がする。

「元気100教室・エッセイ」文明のあり様を考えよう 桑田 冨三子

 世の中にはたくさんの生き物がいる。宇宙にある無数の星の中で、現在、生き物の存在が判明しているのは地球だけだそうだ。地球には海があり、生き物の祖先となる細胞がそこで生まれた。現存の生物はどれも細胞からできており、皆この先祖細胞から進化してきたとされている。人間もそうである。

 人間の特徴は、二足歩行、大きな脳、自由な手、話ができる喉の構造による言葉である。700万年ほど前、ヒトはアフリカの森に暮らしていた。気候が厳しくなり森が縮小し、食べ物集めが苦しくなった。
 ヒトは森を出て遠くサバンナまで行くようになった。
 そこで果実などを見つけたりすると、ヒトはそれを自分一人で食べずに家族と一緒にと思い、それを手でつかみ、二本の脚で立ち上がり、歩き、離れたところまで、運ぶようになったという。これは他の生き物には見られない素晴らしい能力である。強い共感や想像力、信頼感、それに火を使うようになった人間は、調理をし、きれいな装飾品を造ったりして、豊かな生活を営むようになった。

 自然を利用することを知ったヒトは、言葉を用いて皆で協力しあい、農業をはじめた。生活の基本である食べ物を作るための様々な工夫は、食生活を豊かにし、環境を変えた。「農業革命」である。これは人間が持つ能力を生かして生まれた文明といえよう。

 他の生き物とは違う生活を始めた人間は、次に「産業革命」を起こす。石炭・石油・天然ガスの化石燃料を使って物を大量生産し、自動車や飛行機で移動する社会を作り始めた。科学によって、人間も含めてすべてを機械と見做し、分析によってその構造と機能を知れば、すべてがわかる、という「機械論」がうまれた。

 機械を基本にものを考えると、①効率を上げることがよい。②何にでも正解がある。③すべて数や量できまる。という事になる。速い新幹線は便利だ。洗濯機も電子レンジもありがたい。機械が提供してくれる速さは便利で不可欠である。世のお母さんたちはこどもに「速くしなさい」といつも言う。現代文明は人間を機械として見ている。

 しかし、ここで「速い」ということを、ようく考えてみよう。はたして人間は本当に速さを欲し、望む生き物なのであろうか?


 人は生まれ生きていく、という事は時間を紡ぐことである。心地よく時を紡いで長い人生を送る。これが、人の人らしい生き方ではないのか。

 いまやその人類の、素晴らしい文明が深刻な環境問題を起こしている。工場排ガス、自動車排気ガスなどによる地球温暖化、生態系の崩壊、異常気象、土地の水没、ゴミ問題、海洋汚染、水質汚染、土壌汚染、新型コロナウイルスの感染拡大など、数限りない。

 もちろん、文明そのものを否定することはない。ただ、自然に還ろうと言ったのでは人間の人間らしさがなくなってしまう。


 現代文明をどのように見直すか。


 それが今の我々に与えられたテーマではないだろうか。文明を作り出す能力は人間という生き物だからこそできることなので、それを否定しては意味がない。現代文明だけが文明ではない、という基本を考えるところに我々は置かれている。

 文明の有り様を考えなければならない。

(人間とは何か)
 と問い続けたエマヌエル・カントという哲学者が、七一歳になって書いた本『永遠の平和のために』にはこうある。

「殺したり殺されたりするための用に人を当てるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって,人格にもとづく人間の権利と一致しない」

「地球は球体であって、どこまでも果てしなく広がっているわけではなく、限られた土地の中で人間は互いに我慢しあわなければならない」

「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課された使命である」

                               了

【寄稿・エッセイ】永遠の命とは 石川 通敬

 最近テレビで考えさせられる番組を見た。サイボーグとして生きる科学者ピター・スコット・モーガンの話だ。サイボーグがどういうものか知らなかったので私は、妻に聞いた。すると彼女は、
「もう五十年もまえから知られている言葉なのに、ほんとに知らないの。あなたが野球も、サッカーも、相撲のことも知らないでよくビジネスマンが務まったものといつも思っていました」と。

 これ以上口論しても仕方ないので、とりあえずネットで調べると、彼女の言うことが分かった。
 石ノ森正太郎が1966年に作成した大ヒット作、SF漫画「サイボーグ〇〇9」で知られていたのだ。私が好む漫画は、サザエさんとかドラえもん,サトウサンペイなどで幅は狭い。

 アニメにも、SF映画にも関心がない。だから飲み会等がこうした話題で盛り上がっている時は、自分はしゃべらず、静かに酒を飲んでいた。名誉のため付言すると、私が参加した飲み会でサイボーグ009が話題になったことは、一度もなかったと記憶している。

 面白そうな話題なので、過去のことにとらわれず、今回はこのテーマでエッセイを書くと決めた。先ず参考にしたのは番組の録画だ。多分私みたいな人がかなりいると考えたのだろう、再生が始まってしばらくすると、
「サイボーグとは、人が機械と一体化して機能しているシステム」
 との説明があった。

 さらにより話を分かりやすくするための事例がいくつか紹介されている。例えば胃の役割を外付けの器機にさせるとか、排せつ物の処理だ。

 しかし話はすぐわかり難くなった。主人公ピーターのアバター(分身)によるデモンストレーションだ。それは、自分の脳が考えることをAIに覚えさせ、自分の顔をスキャンして映像化された装置がアバターだ。しかもそれを彼の母国語(英語)ではなく日本語に翻訳して話させているから驚かされる。

 もう少し知りたいとネットで調べると、先ず彼の著書の広告が見つかった。同書のカバーには、
「ネオヒューマン 究極の自由を得る未来 今とは違う自分になりたいと闘う全ての人へ」
 と書いてある。
 同氏は、・ロンドンの大学をでた人間工学の専門家で、コンサルタントとして欧米で活躍していた。ところが五〇歳を過ぎた二〇一七年に運動ニューロン疾患(ASL)(手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気)と診断され、余命二年と宣告を受けた。

 彼はこれを「画期的研究の機会」と受け止め、自らを実験台として「肉体のサイボーグ化」「AIとの融合」をスタートさせたのだ。
(実は、その後四年を経て今も健在で、今回のテレビ出演を実現している)。
 私は、彼の著書を早速読んでみた。しかし同書はピーター氏の自伝だったため、私が求める疑問に対する分かりやすい説明は一つもなかった。


 私がまず知りたいと思ったのは、頭脳のサイボーグ化問題だった。それを刺激したのが、将棋の藤井さんだ。彼がAIで勉強しているとよく聞く。
 私は、その彼の頭脳の一部がすでにサイボーグ状態となっているのではないかと考えた。昨年急逝された早稲田大学の高橋透教授は「人間の脳はコンピューターと融合しサイボーグ化せざるを得ない」
「ヒト化するAI対サイボーグ化する人」と言われたが、藤井棋士はその生き証人なのではないかと私は思うのだ。


 次に知りたいと思った問題は、現在全世界の企業が血眼になっている自動車の自動運転だ。

 人間は自分の頭脳・目・耳・手足の機能をまとめて自動車にゆだねようとしている。人間と機械が融合することをサイボーグと定義するのであれば、自動運転車は、人間から独立したロボットに過ぎない。しかしそう遠くない将来両者が、接点を見つけ一体となって機能するようになるのではないかと私は想像する。

 最後に、私が知りたいと思ったのは、人の命とは何かだ。完璧なサイボーグ装置が完成すれば人間は理論的には、永遠に生きられるはずだ。
 生身の肉体を全て機械に置き換え、自動車をメインテナンスするように耐用年数に応じてすべての部品を交換して行けば、そのサイボーグの命は永遠のハズだ。

 しかし頭脳を新しいものに交換する時、
「今後は私の過去にとらわれず、新しい考えで人生を切り開きなさい」
 と指示しときどうなるのだろうかという思いが頭をよぎった。もし新しい頭脳に自分の人生を独自に切り開き、永遠に生きるようにと指示すると、果たして自分の命は永遠だったと言えるのだろうかと、ふと考え込んでしまった。

                      了

賀正 : 徳川慶喜将軍の正式な官位はご存知ですか = これにはおどろいたな

 明けましておめでとうございます

 ここのところ、歴史小説の中編(400字詰め換算80枚)に没頭しており、年末の大掃除も、除夜の鐘も、さらに初詣もいけなかった。家庭内で、あれこれ用事を言いつけられるたびに、
「予定よりも遅筆になってしまった。ほんとうは大晦日を待たず、原稿を仕上げて入稿する予定だったんだ」
「毎年じゃないの。よその御主人は、年末いろいろ手伝ってくれているというのに」
「結婚を決めるまえに、相手を選ぶ目がなかったんだな。それは自業自得というもの。それに男運がないんだよ。あきらめが肝心だ」
 そんな軽口をたたいている間にも、日本ペンクラブ(以下・PEN)の有志による文藝誌『川』の締切りが刻々と近づいてくる。
 2022.1.6.001 川.jpg全員がプロ作家だし、編集長も元大物だ。週刊誌なみに締切りは厳守だ。次号に回されると、3~4か月先だ。

『商業誌は売れるものしか書かしてくれない。それは商品で、文藝とはいわない。むかしの文学同人誌・白樺派(志賀直哉・PEN3代目会長)のように本物の文学を目指そう』
 作品の筆者は印税、原稿料はナシ。その上、一人50,000円を出す。
「自費出版かよ」
 本は50冊/一人の割り振りだ。
「定価1,000円をつけているから、自分で手売りして、ちゃらにして。生活費は別の出版社で稼いで」
 発起人(小中陽太郎・元PEN専務理事)のムシの良い話からスタートとした。
「どうせ、3号で、廃刊だ」
 だれもがそう信じていたし、私もお付き合いだと思い、創刊号から仲間に入っていた。初期の合評会はいつも、これで最後のような打上会の雰囲気だった。酔いが回ったところで、世話人(高橋氏・純文作家)はやや呂律がまわらず、勢いから、
「次回も、だそうか」
 また50,000円取られて書くのか。中村氏(早稲田大を除籍になり、なぜか皇室のいく大学卒)がそう声を張り上げながらも、今回の8号まで来ている。
「うれしい誤算だったよな。『川』に書きたいという希望者が増えてきているし。女性も含めて。この調子だと10号まで行くよ」
 世話人がおどろくくらいだ。裏を返せば、プロ作家がいかに商業誌でなく、自費でも本物の文学を志向しているかだろう。
 また、本気で書き、気合が入っているし、内容が充実しているから、定価1,000円は高すぎるという苦情もきていないようだ。

 私はこんかい福地源一郎を取りあげた。明治初期の大物記者である。個人的には、かれの反骨精神が好きだ。

【タイトルは・ネタバレするので割愛】
 書き出しは下記のとおりです。

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 甲板の手すりに寄りかかるジャーナリストの福地(ふくち)源一郎は、すでに三十歳になっていた。旧幕臣だった福地は、日本人にしてはめずらしい洋装である。出港まえから、デッキの上で、かれは乗客の話題にも聞き耳を立てていた。
 2022.1.5.001fukuchi.jpg「薩長の役人たら、江戸(いまは東京・トウケイ)で、悪口を言いたい放題じゃない。口惜しいったら、ありゃしない」
 和装の女性がそう語る。
「鳥羽伏見の戦いで、四日目に慶喜公が逃げて江戸に帰ってきたから、幕府軍が総崩れになった、と言っておる。だから、愚公(ぐこう)な将軍だと吹聴(ふいちょう)しておる」
「薩長の政治家のいうことはホラが多いし。おなじことを百回も聞かされたら、嘘もほんとうになるというし」
「そもそも、慶喜公が大政奉還で、なぜ二百六十年もつづいた政権なのに投げだしたのか。かわら版を読んでも、それがよくわからない」
 紋付姿の男がはなす。
 永代橋のたもとで、横浜への蒸気外輪客船が、朝九時の出航の銅鑼(どら)を鳴らした。腹にひびく音だった。船尾の日章旗が、十二月の風ではためいている。
 東京と横浜をむすぶ航路を開設させたのは、徳川幕府で、慶応三(一八六七)年一〇月だった。稲川丸が初就航した。ことし(明治三年)は、あらたに横須賀製鉄所で建造された二五〇トン・四〇馬力の木造外輪船が加わったのだ。
 上等席は金三分、並みは金二分だった。
「太政官の役人は威張(いば)りくさって、文字はもろくに読めやしないで。あんなのが天下を取ったなんて、世も末ね。慶喜(ケイキ)さん、なんで頑張れなかったのかしらね」
 この夫婦は身なりからして豪商らしく、横浜の海外貿易で財産を成したのだろう。
 両腕をくむ福地は、記事ネタの生の声として、頭のなかに書き込んでいた。最近は、これに類似した話題が多く耳に入ってくる。
「おおきな徳川幕府が倒れるなど、だれも考えておらなかった。まさか、だったな。十五代慶喜将軍は水戸老公の息子のなかで、一番頭がよくて、回転が速く、家康の再来(さいらい)だとか言われていたんだろう。いまでは幕府をつぶした愚か者だと、江戸っ子からも、わしらの幕府をつぶしたと、焼けくそで、悪口がでるようになった」
 夫婦の話は出帆しても、つづいていた。
 福地の耳は夫妻に、目は頭上の飛ぶ白いカモメを追う。中央の煙突から、黒い煙が青空に舞い上がり、十二月の潮風のなかで消えていく。ガタゴトと両輪の音がおおきくなった。船脚が早まってきた。
 福地源一郎は旧幕臣だけに、自分にもやりきれなさがあった。
 この福地はどんな人物なのか。文久元(一八六一)年に文久遣欧((ぶんきゅうけんおう)使節団の通訳として参加した。慶応元(一八六五)年にも、ふたたび幕府の使節団として欧州に出むた。かれはロンドン、パリで発行されている新聞にふかい興味をよせた。さらに西洋の演劇や文化にも関心をむけた。
 慶応三年十月の大政奉還をきいた福地は、幕府の将来に見切りをつけ、ジャーナリストに転向した。そして、慶応四年閏四月、江戸が東京になる直前だった、『江湖新聞(こうこしんぶん)』を創刊した。翌月には上野戦争がおきている。
 福地は明治新政府にたいして辛辣(しんらつ)な批判記事をつづけざまに掲載した。
『明治政府は良い政権だというが、徳川幕府が倒れて、ただ薩長を中心とした幕府が生まれただけだ』
 これら記事が明治政府の怒りを買った。『江湖新聞』は発禁処分になり、福地は逮捕された。明治初の言論弾圧事件である。
 参議の木戸孝允(たかよし)がとりなして、江湖新聞は廃刊にする条件で、福地は獄から放免となった。
 
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 ※ 福地源一郎の関連資料を読むさなか、徳川第15代慶喜将軍の官位がありました。とても珍しいので、紹介します。

『従一位太政大臣近衛大将 右馬寮御監淳和奨学両院別当 源氏長者征夷大将軍』 
  おぼえられますか。それ以前に読めるでしょうか。

「じゅういちい だじょうだいじん このえたいしょう うめのりょうぎょかんじゅんな しょうがくりょういんべっとう げんじのちょうじゃ せいいたいしょうぐん」

  官位ご昇進の式で、朝廷から賜る将軍の宣下(せんげ)です。

2022.1.5.002fukuchi.jpg 慶喜は当時としては長寿です。大正2(1913)年11月22日で亡くなりました。戒名は御存じでしょうか。
 大僧正から授与された立派な長い長い戒名だろうな、さぞかし。ところが慶喜は神式による葬祭なので戒名がないのです。

 ちなみに、慶喜は上野戦争前に東叡山寛永寺で謹慎しました。しかし、死後は同寺の歴代将軍の区画墓地に入れてもらえません。なぜならば、神式で、仏教徒ではないからです。
 すぐちかくの谷中墓地に、慶喜の墓が前方後円墳に模して埋葬されています。
「これだと、仏教のお寺に入れてくれないな」
 と納得できます。
 
 戊辰戦争を戦わなかった慶喜は『天皇(当時は幼帝)に弓を引かない』という「恭順謹慎」の態度で、江戸城を無血開城します。天皇陵のような前方後円墳の墓をみれば、慶喜が皇室の血だとわかります。
 かれの実母は日本の皇族であり、織仁親王第12吉子女王(よしこじょおう)です。慶喜は七男です。

 歴史は物語風に、勝者に都合よく造られています。このたびの福地源一郎を使った《川》の作品はそれがテーマになっています。

 薩長史観の小説は、とかく慶喜がまるで天皇の敵、尊皇思想の西郷隆盛などが追討令を盾に「慶喜を殺す」と口にしたかのような描かれ方です。イギリスのパークス公使が「先の慶喜将軍の刑死は認めない。ナポレオン一世すら殺されなかった」と新政府軍に殺害を止めさせたとか。

 慶喜は皇室の正統な血筋であり、静寛院・和宮とともに、はじめから殺害などできない高貴な存在なのです。

                      了