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【孔雀船100号 詩】  のどけからまし  望月苑巳

夜桜イラスト.jpgさくらは下を向いて咲く

そろりと

人に見上げてもらいたくて

静かに


ぼくの心から出ていってしまった人も

そろりと

咲いたことがありましたね


本郷三丁目駅の

クジラの目のような出口から

春も咲きました

うるうると目頭を押さえて

一歩、二歩、三歩

電車が散ってしまっても

つまづきながら咲きました


あれから長い時が

短い慟哭を越えてゆきましたね

けれど伊勢物語のように

春の心は のどけからまし

というわけにはいかなかったのです


夜になって

夜鬼がでしゃばって

さくらの枝がしなりました

きっと

そんな過去は折ってしまえと思ったのかも知れません


そろりと

地下鉄はぼくを呑み込んで

クジラになりました


*世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平(伊勢物語八十二段)

PDF・縦書き のどけからまし.pdf


【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

平山城址公園と多摩丘陵ハイキング  藤田京子

2022年1月13日(木)晴れ
参加メンバー: L佐治ひろみ、SL古賀雅子、開田守、蠣崎純子、武部実、渡邊典子、藤田京子

コース:長沼駅 → 長沼公園 → 平山城址公園 → 七生公園 → かたらいの道 → 高幡不動 →
高幡不動駅


 からっと晴れた日差しとは裏腹に館の風が頬に凍みるなか長沼駅を出発した。(10:00)

 間もなく都立長沼公園の看板を見て、枯木の木立を進んでいった。ここは多摩丘陵の北側の端だそうだ。可愛いアオジが餌をついばんでいた。
 時期が合えばウグイスなど色々な鳥が見られるらしい。

 丘陵を上っていくと、景色が良くなっていった。春から秋の頃は花や緑で気持ちいいだろうが、冬の今は葉がなく見通しが良い。つまりどの季節でも良いと言うことだ。

 となりの平山城址公園へ行くには、急な階段を降りて、住宅地を抜けていく。

 LとSLのリードで無事に平山城址公園へ。
 本当の城はあったのかなかったのか? そんなことを話しながら適度なアップダウンを繰り返し、中央付近の京王研修センターの入り口に着いた。
 ここからは歩きやすい道だ。見晴台で昼食。ここは奥多摩~奥武蔵の山々の眺めが素晴らしい。(11:55)写真撮影。

 新型コロナのオミクロン株の急拡大が心配されるので、ディスタンスを十分にとって、しばしの休憩。腹ごしらえもできて後半へ。(12:40)
多摩.jpg
 平山城址公園を出て、多摩メモリアルパークでトイレ休憩。そこを抜けると、以前は多摩テックがあったところ。そのそばを通り広い道路に出た。信号を渡り、ふたたび里山らしい雑木林の道へ。
 家のゆずが鈴なりに実って、道路に飛び出していた。ここは都立七生公園の中らしい。やがて「かたらいの道」の看板がでてきた。

 またしても、アップダウンの道を辿っていくと、多摩動物公園のフェンス伝いの道に出た。Lが下見の時はオランウータンが見られた、という。そこに期待していたのだが、オミクロン株のために休園だった。
 オランウータンは残念だったが、少し先の猛禽類の檻で鷹か鷲か?の勇姿が見られた。ラッキー! アップダウンは少々きつかったが、時おり聴こえるかわいい鳥の鳴き声に癒やされて高幡不動の八十八カ所巡礼地に入っていった。


 ここではお参りの人が巡るらしく、出会う人の数が増えてきた。椿・紫陽花・彼岸花も有名である。今度は花の時期に来たいと思った。
 立派な五重の塔がそびえ立ち、私たちの到着を迎えてくれた。本堂では護摩焚きが行われ、線香の煙が疲れた身体をほぐしてくれた。
 仁王門は古めかしく、この寺の歴史を感じさせてくれる。
 ゆかしい門を出て高幡不動駅へ。(15:10)

 久しぶりの山歩きで心も体もスッキリ。ありがとうございました。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№268から転載


【孔雀船100号 詩】  千人針 苅田 日出美

七度目の年女になってしまった
寅年うまれの女の子は
武運長久
縁起がいいからお願いね

千人針.jpeg真夜中に起こされて
白い晒し木綿に赤い糸で結び目を作らされた
母さんに手を取って教わった
結び目の作り方も知らなかった
五歳の私

『虎は千里行って千里帰る』と縁起良し
千人針の腹巻をしていたら
鉄砲玉にあたらない

赤い結び目ぎっしりの
白い晒しを真っ赤に染めて
ニューギニアで戦死した叔父

結婚して一週間で出征して
骨さえ無かった叔父の
引出しに残されていた
タガログ語の字引が空しい

真夜中に起こされて
時間がないから
あと五枚ほどお願いね
寅年うまれの女の子だった私の
結んで作った赤い糸結びの赤い玉
千人針に心を込めるしかなかったのね
母さんたち

PDF・縦書き 千人針(苅田.pdf

【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

新聞連載小説「妻女たちの幕末」 = 8月1日より開始

 今年度(2022年)8月1日より歴史小説「妻女たちの幕末」公明新聞で連載されます。
 現在は宮部みゆきさんの小説「三島屋変調百物語青瓜」が7月30日で終了し、そのあと穂高健一「妻女たちの幕末」がはじまります。むこう一年間(日祭日を除く)です。


③公明新聞・予告2.07.261024_1.jpg

 これまで、私を含めて男性側の視点から歴史小説が書かれています。大別すれば、薩長史観&徳川史観という対立構造です。
  
 この世には男性と女性が半々いるし、対立もする。歴史は男だけで動かない。思い切って女性の視点から幕末史にチャレンジします。むろん、随所には男性の活躍も加わります。

「歴史は庶民がつくる』
 現在でも国会議員だけが歴史をつくっているなど、誰も考えていないでしょう。それなのに、歴史となると学術書も、小説も、為政者に偏っています。

 できごと、事件のとき組織の頂点にいだけでしょう。先頭に立つて采配をふるったとか、先見の目があったとか、英雄が創作された。おおむね単なる飾り物か、後世の美化でしょう。

 極限られた少人数の英雄たちだけで、千年もつづいてきた封建制度、および武家政権が短期間に都合よく消えるわけがない。

 そこにはおおきな民衆の力と渦巻く流れがあった。かれら民衆が、やがて徳川幕府を瓦解させた。その本質を忘れ得ずして、市民の目線も加えて展開していきます。


関連関連情報
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 ただし、私の連載小説は日曜日版の掲載がありません。

 

「元気に百歳」序文から = なぜ、人を殺したがるの

「人生五十年」(織田信長)、一つの到達点に立った。この時、これまで以上の悲惨さとか、おぞましさとか、その見聞はもうないだろうなと考えていた。

 なにしろ顧みても、子どものころ銭湯に行けば、ケロイドの人がいた。広島市街地はバラック建てで、気味が悪いほど乞食同然の人があちらこちらに浮遊していた。
「こんな戦争をしたのは大人が悪いんだ。原爆はアメリカが強いから落としたんだ」
 小学校から帰路で、仲間どうし、そう語り合っていた。
 当時はみなが極貧で、広島の島でも食べ物はなかった。米穀の弁当など持っていけない。バナナをはじめて食べたのが小三、チーズは小五だった。遊郭の女郎は美味しいものを食べていたな、という記憶がある。

「もはや戦後でない」、「所得倍増論」、「高度成長期」と世の中がすすみ、私は東京の私大入学で上京し、その後は「経常収支の黒字」と拡大成長がつづく世のなかで生きてきた。

 敗戦直後の惨事な出来事などほぼ忘却していた。

 世が好景気のさなか登山にも夢中になれた。その後の私は長い闘病生活、執筆生活の失敗や挫折も多かった。貧困ゆえに夫婦げんかも絶えなかった。
「なんで、うちの両親は離婚しないのだろう。毎日、喧嘩しながら」。そんな子供の声もあった。夫婦が喧嘩するのは八、九割はお金と子供の教育だといい返してやりたかったけれど喉もとでとめおいた。

 五十年の折り目から先も、ほぼ予測可能な社会だった。

 ところがここ数年、突如としてコロナウイルスが世界中に蔓延し、あらゆる活動が停滞した。100年前の第一次世界大戦中のスペイン風邪とそっくりだった。地中海のマルタ島まで、その取材を兼ねてでむいた経験から、コロナも三年はかかるだろうと、覚悟できた。

 2022年にはウクライナ戦争が勃発した。第三次世界大戦か、核兵器の使用か、と世界中の人々を震撼させた。広島が叫んでいた「平和」は無益だったな、と思わせた。

 安倍晋三元首相が、奈良市の街頭演説のさなかに射殺された。一報を聞いた時、奈良は天皇陵が多い土地柄だ。天皇関係の射殺かな、と思った。過去から「君側の奸」(くんそくのかん)で天皇を利用したと批判された人物が暗殺されている。大久保利通、岩倉具視、2・26事件などが脳裏にひらめいた。

 報道では宗教関係が絡みだという。人間は「殺したい」という殺意が実行に移るとき複数の動機がある。一つだけではまず殺さない。ここらはミステリー小説を書くときの基本である。
 政治家の暗殺事件は裁判にならないと、動機とか真実とか、まず世に出てこないだろうな、と思う。
 ジャーナリストたちは生活のためか腰が引けているし、真実がストレートに伝わってこない。SNSの生の書き込みの声とはずいぶん乖離している。

 ことし(2022年)6月半ば、小説上で不可欠な公家ことばの指導をうけるために京都にでむいた。約束時間より一時間半ほど間があった。京都駅に近い東本願寺の広い本堂で本でも読んでいようと考えた。そこに足を運ぶと同寺には『第13回非戦・平和展』のパネル展があったので、のぞいてみた。

 明治43(1910)年に、おぞましい「大逆事件」が起きている。パネルは同事件の「新宮グループ」六人を中心にした内容だった。
 全国で26人が逮捕されて、24人が死刑判決を受けた。内12名は判決翌日に、天皇の恩命として無期懲役である。

 当時は未曽有の大事件だった。敗戦後、国家による捏造(ねつぞう)事件であると判明した。見入った私はその日のうちに新宮に入った。翌朝、事件にくわしい方を取材した。

 事件の犠牲者は6人で、アメリカ医学を学んだ開業医、出版など手掛けたジャーナリスト(中央大学出身)、雑貨商、臨済宗妙心寺の僧侶、地方新聞の記者、牧師らである。取材するほど、息苦しくなった。日本人のシンボル、象徴の天皇を利用した、悪質なえん罪などなぜ行うのだろう、とむごさに心を痛めた。

 ウクライナ戦争でも、為政者は奪った領土をあの世に持っていけるわけでもないのに、むきになって人を殺す指令をだすのか、と狂気を感じさせた。

歴史とは自国の都合だけでうごかない。 世界情勢と連動している

 1853年といえば、世界史では有名なクリミア戦争(野戦のナイチンゲールが活躍)がぼっ発し、3年間つづいた。英仏とロシアが大戦争をはじめ、その戦火がアジアにも拡大してきた。

 鎖国とは世界にブラインドを下ろすことではない。積極的に世界の情報を取りにいかないと危険きわまる。阿部正弘は老中首座(現・内閣総理大臣)になったときから、アジアで発行されている英字新聞をオランダ語に翻訳させて(別段風説書)逐一、世界の動きをみていた。

――クリミア戦争に突入した欧州は、いま日本に派兵できない、清国が被ったアヘン戦争の二の舞にならないと阿部はみなした。

 嘉永6(1853)年6月に米国のペリー提督が浦賀に来航し、翌7月にはロシア帝国のプチャーチンが長崎にきた。ともに黒船(蒸気船)を従えていた。

――ここは千載(せんざい)一遇(いちぐう)のチャンスだ。

 鎖国から開国と舵を切った。翌七年三月に、まずクリミア戦争と無縁なアメリカと日米和親条約をむすんだ。半年後の八月、イギリスがカムチャッカ半島に領土的な野心からロシア軍を追撃してアジアに出兵してきた。かれらは長崎に寄港し、幕府に燃料・食料の供給基地として、長崎・函館の港の利用をもとめた。

「米国と同文ならば、和親条約を結んでもよい。さもなければ、貴国の軍艦がわが国に立ち寄ることはいっさい断る」

 長崎奉行の水野忠徳(ただのり)が高飛車な姿勢を貫いた。イギリス艦隊司令・スターリングは、日本側の条件をうけ入れた。これに怒ったのが、東洋を管轄するイギリス香港総督で、
「通商規定の条文がゼロで、日本の港では日本の法律に従うと明記されている。屈辱だ」
 と破棄の添え書きをつけて、イギリス政府にその条約文を送った。

 イギリス国会はクリミア戦争に勝つことが最優先だといい、批准してしまったのだ。
 その翌安政二年、クリミア戦争の敗戦が濃厚なロシアにたいし、日本側は有利な立場で、「日露和親条約」をむすび択捉・国後を日本領土とした。

 阿部政権は、クリミア戦争が日本に有利な風だととらえて米、英、露の三か国の大国と和親=平和条約を一気に結んだのである。


 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争をまったく教えず、アメリカの黒船が来航したといい、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔をのせる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされた。

             ☆

 令和4年のいま、ウクライナ戦争が世界中に、武器供与、経済封鎖、石油、穀物輸入など影響をおよぼしている。戦争当事者でなくとも、アフリカは食糧危機に直面しているし、世界のいずこの国も、無関心でいられない。

 1853年に勃発したクリミア戦争では、勝利国となった英仏も、敗戦国のロシアも、非戦の米国も、わが国が鎖国だろうが、関係なく、軍艦や商船でなんども来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪の戦闘までしかけている。
 日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

 クリミア戦争当事国の英・仏・露は、軍艦の燃料・食料の中継機能として、日本の港が喉から手がでるほど欲しかった。幕府はこの地の利で、外交交渉で優位な立場にいた。

 ところが、下級藩士によって樹立された明治政府は、かつて上級武士が支配した徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『徳川幕府はアメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。
 まさに幕末史のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる七年前に、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米大統領の親書をもって来航している。
 捕鯨船マンハッタン号、イギリス艦、デンマーク軍艦も来航している。幕末史は黒船以前の歴史から紡(つむ)がないと真実はみえない。

歴史&現代の京都の町を取材で歩く  浦沢 誠(下)

 京都取材は、2日目(5月16日)です。
 観光でなくも、じっくり取材できる。写真が撮れる。それで決まったのが、銀閣寺、哲学の道(約2km)、南禅寺です。

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銀閣寺で管理の仕事をしている職員の方に、境内の美しい波線の銀沙灘に関する文化と、台形の『向月台』の作り方について取材する穂高先生です。

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 滋賀県の琵琶湖から水を引いている「水路橋」は明治23年に竣工したものです。
 近代化に突っ走っていた時代だけに、土木技術は進んで、巨大な「水路橋」が高架で、南禅寺のなかを通り抜けています。

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 平安神宮の赤い大鳥居。目立ちますよね。高さ24m、幅18mの大鳥居です。

 建設は平安時代ではありません。

 昭和3年に、昭和天皇御大礼の記念事業として造られました。

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 コロナ禍から解放されて、さすが京都です、修学旅行生が目立ちました。

歴史&現代の京都の町を取材で歩く  浦沢 誠(上)

 2022年(令和4年)に、かつしかPPクラブで、京都を取材旅行にでかけました。

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 京都市役所のまえにきたならば、桂小五郎像にいこうよ。元長州藩屋敷のあった場所です。
 禁門の変で、敗戦濃厚になった長州藩士らが、藩邸を自焼しました。いま、京都ホテルオークラです。

 その敷地のなかに桂小五郎の像が立っています。

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 鴨川と三条大橋。このネーミングだけでも、気持ちは幕末の志士たちに近づけます。

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 先斗町通りにて。

『富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も」という『お座敷小唄』が思い出します。
 それは昭和生まれの証拠なのかな。

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 四条花見小路の付近で、昼食の店をさがしまわました。結構、あちらこちら、と。
「ここにしよう」「この店は、あたりだね。さがし甲斐があったね」
 おもわず笑いが出てきました。

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 今回の最大目的地は、予約して入場できる「京都仙洞御所(せんとうごしょ)」です。

 太上天皇・法皇など、主に退位(譲位)した天皇の御所です。ただ、平成天皇はここでなく東京です。

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 京都仙洞御所の池の縁に佇む、幻想的な「青鷺」です。

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 三条河原町通りの、旧池田屋跡は、いまは居酒屋『池田屋』です。
 ここを夕飯場所に決めました。

待望の京都へ、いざ取材旅行へ =  蘭佳代子

 かつしかPPクラブは、年に一度はきまって遠距離の取材に出かけていました。思いつくままに列記すると、新潟の凧揚げ大会、鹿児島の歴史をたずね、広島および瀬戸内海の島々巡り、岩手県の3.11被害者をたずねて、と北から南へと歩いていました。
 
「足で書く」これをモットーとしているだけに、取材は写真と記事と両面で展開しています。

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 世界的なコロナ禍の下で、遠距離も、東京都内においても、ほとんど取材ができなかったので、じつに開放感に満ちた旅行です。

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 最近は新撰組人気で、「池田屋事件」が脚光を浴びています。かつては薩長史観、さらには皇国史観から、新撰組は悪の権現に扱われたそうです。

 幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、尊攘派の志士を大勢殺害したかどで。

 きっとおじいちゃん・おばあちゃん世代は、「新撰組なんてね」とおおむね嫌いでしょうね。
 
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 宿泊予定地のホテルに、荷を預けてから、歩きはじめて数分で、「あれ。ここに本能寺がある?」妙にひっそりした門です。

 織田信長が明智光秀に殺害された、あの有名なお寺です。
「ほんものかな。子寺かな」
 そんなことを言いながら、まずは四人で境内に入りました。実は裏門でした。

 広い境内と、いまでも信長人気がわかる本能寺で、大勢の方々が参拝していまいた。歴史の流れ、というか、戦国時代の大事件を感じとれた一瞬でした。

 写真は本能寺の正門です。

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  今晩はここに決まり。食事と軽くアルコールを入れて、「あすは何処にまわりましょうか」と語り合う、楽しいひと時です。

ウクライナ侵攻で、バレてしまった幕末史の大嘘= 明治のプロパガンダ (下)

 わが国の歴史書となると、嘉永6(1853)年といえば、世界最大のクリミア戦争を教えず、アメリカの黒船が来航した際の、鬼のような奇異なペリー提督のかわら版の顔を載せる。

 そのうえ狂歌『泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(かみきせん)たった四はいで夜も寝られず』と記す。
 それは明治10年に創作された狂歌だと、いまや化けの皮がはがされている。

           *

 下級藩士による明治政府が、上級武士だった徳川政権を恣意的(しいてき)に見下すために、
『幕府は西洋を知らず、アメリカに蹂躙(じゅうりん)されて、砲弾(ほうだん)外交で開国されられた』
 と歴史をねつ造した。まさに明治政府のプロパガンダである。

 そもそもペリー提督が江戸湾にやってくる7年前には、アメリカ東インド艦隊のピッドル提督が浦賀に米国大統領親書をもって来航している。

 ほかにも民間の捕鯨船マンハッタン号が日本人遭難者22人を人道的に浦賀に連れてきてくれている(弘化2年・1845年)。イギリスの測量軍艦、意外なところでデンマーク軍艦も江戸湾の入りまで来航している。

            *   

 嘉永6(1853)年、ペリー提督が浦賀に初来航したとき、交渉に臨んだ香山与力が、{ところで、あなた方の国のパナマ運河にそった地峡横断鉄道はもう完成しましたか」と質問しており、アメリカ側は日本の世界情報収集力におどろいたと記録している。

 このように、アジア(広東・シンガポールで)で発行されていた英字新聞の内容が、幕臣たちにまでも伝わっていたのだ。

 1852年9月28日の記事から、ワシントンでは、日本遠征計画の準備が熱心に続けられていると報じられている。
 当然、日本の幕閣は読んでいる。

 オランダからの別段風説書で、ペリー提督の日本遠征内容の詳細が伝えられた。
『......、最近の情報によりますと、北アメリカ合衆国は艦隊をだして、日本と交易を取結ばんと、御国(日本)へ参上すると申しています。合衆国より日本帝(将軍)へ使節を差しだし、アメリカ天徳(米国大統領)の書簡を奉り、かつ日本の漂流民を連れて参るそうです。

 この使節は、北アメリカの民間交易のために、日本の一つ二つの港に出入りを許されんことを願っています。かつ、また相応の港をもって、石炭の置き場と為す許しを得うて、カルフォニアと中国との間を往復する、蒸気船の用意に備えん、と欲しているとのことです」

北アメリカの軍船が、いま中国周辺の海にいるのは、次のとおりです。
 サスケハナ号    軍用蒸気フレガット船 
 サラトガ号      コルヘット船
 プリモウト号     コルヘット船
 シント、マリス号   コルヘット船
 ハンダリア号     コルヘット船

 上記の船は、アメリカ使節を江戸へ送るように命じられたそうです。また、最近の情報では、艦隊司令長はオーリックでしたが、ペルリと申すものと交代となり、前文の5隻の軍艦のほかに、なお次の軍艦を増加致すそうです。

ミスシシッピ号  蒸気船  指揮官ペルリはこの船で参るそうです
プリンセトウン号 蒸気船 
ペルリ号 ブリッキ船 
シュプリ号 輜重船

 新たな情報が加わり、陸軍の攻城の諸道具も積んでいるそうです。ただし、四月下旬以前には出帆せず、多分もっと先になるだろう、と聴いています(1852年情報)』

 こうした大規模な派兵だ。アメリカ海軍は陸軍部隊を乗せて、地球の裏側から1年がかりで日本にやってくる。

 阿部正弘はこのオランダ情報に対して、幕閣と対策を考える。
DSC_0509 福山会.jpg 『阿部正弘の末裔・阿部さんと』

「世界情勢をみれば、アジアの国々への列強の侵略がはじまっており、いまや異国船撃攘(げきじょう)の令を出して必勝を期することはできない。もう勝てぬのならば、敵がやってきて、強攻に追い払って負けるならば、恥辱となるだけだ。日本の小さな舟では異国の軍艦に対抗できないのみならず、江戸湾の出入り口をふさがれて、江戸近海の通商が断たれて、食糧欠乏に陥るのみである」
 軍艦を製造できる能力を得るまで、外国との戦争は無謀だと、非戦を決めていた。

 ところが後世学者たちの多く、一年前にオランダからペリー提督来航の情報がありながら、生かされていなかった無策の幕府だと批判する。
 批判のための批判だ。日米の武力の差は歴然としており、外交で勝敗を決する、と非戦を決めた阿部正弘に、学者はいった何をどうすれば、良かったというのだろうか。
 
 それは水戸藩の徳川斉昭の「攘夷論」を称賛し、攘夷論者がやが明治政府を樹立する立役者だったと展開する前ぶれのためだ。
これは七年前の斉昭の書簡にあったものだ。
「異国人と交渉すると見せかけ、白刃一閃(はくじんいっせん)、敵将の首を取り、乱入し、船も人も奪ってしまおうではないか。そうすれば、難問一挙に解決し、軍艦四隻も手に入る。一挙両得の名案だ。これでいこう」
 
 実際にペリー提督が来航すると、
「いまとなれば、(軍艦も作れない、大砲も鋳造できない)、打払いが良いとばかり言えない。衆議をつくして、ご決断せよ」
 これが徳川斉昭の生の声だった。

攘夷だ。外国人は徹底的にぶち殺せ」という過剰な攘夷論は、斉昭の名誉のために、あえて言及すれば、後世の学者のねつ造ではないだろうか。

              *
 
 1853年にクリミア戦争が勃発すると、戦争がアジアに拡大し、当事国の英仏露は軍艦や商船で、わが国の港にひんぱんに来航している。
 伊豆下田港では、なんとロシア海軍兵がフランス商船の掠奪を謀り、戦闘までしかけている。
 これには日本の下田奉行は厳重な抗議をした。

           *
 
 2022年のロシアのウクライナ侵攻戦争が新聞、テレビ、映像などで日々に報じられている。
 いつぞやロシア潜水艦が北方四島近くで、ロケットの発射演習していた。ヨーロッパの戦争がさして遠い話ではない。わたしたちは無関心でいられない。

 嘉永6年、7年(安政元年)の日本人の武士、町人、農民を問わずクリミア戦争が最大の関心事だったにちがいない。幕府の対応をじっくりみていたと思う。

 結果として幕府はよくやった。わが国はクリミア戦争のさなか、地の利を得て、植民地にならず巨大国家の欧米3カ国と、ほぼ同時的に和親条約(平和条約)を結んだのだから。

 この認識に立てたのは、2022年ロシアのウクライナ侵攻戦争で、「歴史は自国の都合で流れない」という原点にもどれたからだ。ウクライナ侵攻があったから実に幕末の対外政策がリアルに理解できたのだ。

 こんにち日本の首相がウクライナ支援とか、経済制裁とか、石炭の輸入禁止とか、石油や駅がガスはどうするか、と世界を飛びまわっている。
 老中首座の阿部正弘も、英米仏露の戦艦がわが国に来航するたびに、現場対応の奉行から早馬がやってきて、内容を吟味し、幕閣と逐一対応を協議する。そして、現地に指示をする。おそらく休む暇もなかっただろう。

                *
 
私たちが1853年の黒船来航からの「幕末史」の書籍を手にしたとき、当時の重要なクリミア戦争が欠落していれば、その学者・作者には世界史観がまったくないか、重大なクリミア戦争という前提がない粗悪商品だ。

 言い方を変えれば、きよう新聞を見て、世界の政治・経済・燃料・食料問題が絡むロシアのウクライナ侵攻が1行も載っていないようなものだ。学術書といえども、既成の攘夷思想が正しいと刷り込まれた、薩長史観に感化された作品に違いない。歴史の中心・コアが欠落した、内容の希薄な、架空、想像で書かれた不良品だろう。
 私たち日本人は、これまでそんな類の幕末史に染められてきたのだ。


 『明治のプロパガンダ』とはなにか。
 いまも薩長史観で、1868年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっている。
 明治以降の日本人を悪くした原因は、権謀に富み、事実を隠蔽し、嘘で歴史を作り上げた薩長人の天下を取り成したことをいう。
 国民は騙されて、戦争国家の兵員として利用された。

 平成・令和の世でも、政治家らが重大な事実を隠し、公文書を隠蔽し、賄賂と癒着政治をおしすすめていても、時間が経てば国民が忘れるという思想が底流にある。これらは明治プロパガンダが未だに清浄されていないからである。、

                      (了)

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
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