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歴史小説・新聞連載「妻女たちの幕末」=  140回を進行中

 歴史小説「妻女たちの幕末」が、公明新聞で2022年8月1日から連載がはじまった。日曜日をのぞく毎日、読者に読んでいただいている。
 令和4年の年を越し、いまは約半分ほど進行中である。
 
 連載は大づかみに、ペリー提督の黒船の前を半分とし、それ以降は多くの幕末ファンが知るところだし、半分としている。

 とかく私たちは、教科書、歴史書、小説をはじめとして、ペリー提督の蒸気船・黒船がきてから、幕府はおどろきアタフタとして日米和親条約が締結されたと刷り込まれている。

 それ以前にも、アメリカ海軍や捕鯨船、さらにイギリスの測量船など外国艦船が江戸湾に来航し、幕府がしっかり対応している。そこらは、多くのひとが知り得ていない。むしろ、隠されている。

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ペリー提督以前をただしく知らないと、薩長史観のねつ造された歴史観になる。端的にいえば、明治政府のプロパガンダに染まってしまう。

 徳川幕府が倒れたのは、わずかな英雄たちの倒幕活動のよるものではない。戦国時代の群雄割拠のまま、徳川政権がつづいた封建制度が、欧米の近代化という資本主義にそぐわず、政治システムがつぶれたのである。

 それゆえに、徳川幕府の内部崩壊である。そこらの認識のもとに、政治・経済・文化の面からも、新聞連載で丹念に展開している。

 ただしい日本の歴史を知ろう、という信念で、丁寧に描いている。


 
 

『志和と幕末』と題された講演会、志和小中学校体育館の於いて = 土岡健太

 2022年11月30日の午後、志和小中学校体育館で中学校PTA教育講演会 ~志和の歴史に学ぶ~ 『志和と幕末』と題された講演会を聴講させてもらいました。

 中学2年、3年の皆さんと一緒なので「勉強会」と言った方が良いでしょう。地域の方も生徒さんたちの後ろに、10数名が参加されておられました。
志和中学 1aDSCN0115 21.JPG

 受付でもコロナ対策はバッチリ。皆さんマスク着用です。
 体育館は小窓を全開したうえ、暖房ヒーターを使われている。一刻も早く収束してほしいものです。

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 皆は講演内容を熱心にノートしていました。私は穂高先生を熱心に追っかけて?「西連寺」の講演会以来3年ぶりになります。

 この日の講演は無事に終了し、生徒の皆さんが体育館を去られたあと、穂高先生は地域の皆さんから質問を受けておられました。
 少しでも多くの方に「志和の歴史」を知ってほしいという先生の願いが感じられました。

 こんな貴重な機会を作ってくれた関係者の皆さん、寒風のなか、駐車場の案内などに頑張っておられた皆さん、ありがとうございました。

【追記】

 土岡健太さんは、幕末に活躍された池田徳太郎(浪士隊の創設者・のち新撰組)の末裔です。

 2022年11月30日の午前中の講演(同一の演題)は、小学6年生と中学一年生でした。

AIの技術の進化で、「妻女たちの幕末」が音声で聞ける = 山澤直行

文字文化の象徴といわれてきた小説です。過去から朗読の専門家がいて、耳の不自由な方にも、小説が楽しめるものでした。

 いまや、AIの技術の進化で小説の世界まで変革しています。新聞連載の小説も、パソコンで処理し、YouTubeで聞けます。

             ※
 
 幕末芸州広島藩研究会「広報室」では、公明新聞に連載中の穂高健一氏「妻女たちの幕末」をユーチューブに掲載する活動を開始しました。朗読ソフトにて朗読させてみました。

 朗読動画は、幕末芸州広島藩研究会のYoutubeチャンネルにて掲載しています
そして、下記のアドレスでは順番にプレイリストで公開しています。

新聞連載「妻女たちの幕末」YouTube

 朗読動画は追加更新していきます。お楽しみにしてください。

【写真の上で左クリックしても、新聞連載「妻女たちの幕末」YouTubeにはいれます】

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オンラインセミナー幕末芸州広島藩の歴史を学ぶ

幕末芸州広島藩研究会からのお知らせです。
11月29日(火)18時30分から、穂高健一氏によるセミナー
「幕末芸州広島藩の歴史を学ぶ 〜オンライン・オフラインセミナー〜」
 を株式会社ミックス1階DXスタジオにて開催いたします!

現在、オンライン配信視聴用チケットを販売中!詳細は以下のURLからご確認ください!

また、見逃し配信もありますので、当日ご都合がつかなくても後日ご覧になれます。
オンライン参加の受付は27日までになります。
ぜひどうぞ。

公式サイト:幕末芸州広島藩の歴史を学ぶ

~志和の歴史に学ぶ~ 講師穂高健一「志和と幕末」 志和中学

令和4年11月10日
志和中学校保護者の皆様
地域の皆様
東広島市立志和中学校
PTA会長 堀 光都子
校  長  脇坂 治海

志和中学校PTA教育講演会開催について(ご案内)
~志和の歴史に学ぶ~


秋涼の候 保護者・地域の皆様には益々ご健勝のこととお喜び申しあげます。また,平素より本校教育並びにPTA活動の推進に,格別のご理解とご協力をいただき,心から深く感謝しております。

さて,本年度の志和中学校PTA教育講演会は,作家・ジャーナリスト 穂高 健一 氏をお招きし,「志和と幕末」と題し講演会を次のとおり開催いたします。

今回は,新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から,会場の人数を考慮し,同じ内容で2回講演をいただきます。保護者及び地域の方はどちらか都合のよい方にご参加いただけます。

ご多用の折とは存じますが,是非ご参加いただきますようご案内申しあげます。

1 日 時  令和4年11月30日(水)  午前の部 10:30~11:30
                      午後の部 13:30~14:30       
2 場 所  東広島市立志和小中学校 体育館

3 講 師  作家・ジャーナリスト 穂高 健一 氏

4 演 題  『志和と幕末』
       
5 日程及び参加対象者         
日程等 参加対象者
☆ 午前の部 志和小6年生、志和中1年生
       保護者・地域の方
   受 付 10:15~
   講演会 10:30~11:30

☆ 午後の部 志和中2・3年生

 受 付 13:15~
 講演会 13:30~14:30
   
※ 午前でも午後でもどちらでも参加いただけます。
    
6 その他  駐車場は,志和小学校グラウンド及び中学校グラウンドをご利用くだ
さい。

高間省三の墓参  20歳で死す。福島県・浜通りの戦い 

DSC_0567.JPG 3.11東日本大震災から11年経っている。高間省三の参拝で、双葉町の自性院の墓地に入った。周囲の墓石の多くは、いまだ積み木崩しのようだ。目ざす高間省三の墓は自然石でどっしり座っている。

 かえりみれば、フクシマ原発事故から三年目で厳しい立入禁止。特別許可で、防護服で身をつつみ取材・お参りして以来だ。
「このお墓です」
 墓石の文字は風化して読めない。墓前のワンカップの水をかけてみる。『高間省三之墓』と浮かび上がった。歴史の幕が開いたような感慨をおぼえた。
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 同行してくれた楢葉町・町議員の宇佐美さんが、線香を立ててくれる。

 慶応4(1868)年7月、広島藩の第一神機隊は平潟に上陸したあと、相馬・仙台・旧幕府軍の連合を敵とし、磐城、広野、楢葉、大熊、浪江と浜街道を北上していく。激戦続きだった。
高瀬川を渡り、大激戦の浪江で、高間省三は命を落した。
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「ご遺体は、ここに眠っているのですか」
宇佐美さんが訊く。
「そうです。浪江の戦いで、頭部に銃弾を受けて即死でしたから。遺体はここに埋葬されて、遺品はすべて広島に持ち帰っています」
 二百数十点が護国神社に奉納されている。

 当時、超エリートの死を悼み、浅野藩主の長訓、世子・長勲が神社をつくった。それがいまの広島護国神社で筆頭祭神は高間省三である。
「二十歳で筆頭祭神とはすごいですね」
 宇佐美さんがおどろいていた。

「大村益次郎が創った靖国神社よりも、1年早い。つまり創建が一年早いのです」
「高間省三の遺品は閲覧できるのですか」
「いいえ。広島市は、「軍」、「軍人」となると、展示品の閲覧も、銅像も歓迎しないようです。
 そんな語らいをした。

サッカー通でもないのに、メッカ「Jヴィレッジ ホテル」に宿泊する

 サッカー通ではない私が、10月1日に「Jヴィレッジ ホテル」=(福島県・楢葉町)に宿泊した。
センターハウス1階にショップ「ブルーガーデン」があった。そこまでの通路にはJヴィレッジでしか買えない、というオリジナルのサッカーグッズがあった。
DSC_0615 サッカー.jpg
 廊下には歴代の選手や名場面のパネルが飾られていた。きっと、ファンには興味深く、たまらないだろうな、見ごたえがあるだろうな。そんな単純なきもちでただ眺めていた。
 
 ホテル通路には選手団がいた。著名な選手がいたとしても、私にはわからない。
 夜型の私は太平洋側の日の出など拝めない。それでも、私にとって早朝には、宿泊ホテルの窓越しに、眼下にひろがるピッチに、青いユニフォームのサッカー選手たちが大勢があつまっている。

 今年は中東で「2022FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会」がおこなわれる。その認識で、私は散策代わりに練習風景をみてみよう、ときめた。
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 見学者の登録とかその手続きとか、実にややこしくて面倒だった。ちょっと見たいだけなのにと、いい加減に嫌になった。
 それでも、部屋からここまで歩いてきて、手続きの順番を待って、いまさら放棄してひき返すのも、なにかしら無駄な時間の浪費に思えた。いちおう時間をかけて手続きをしてみた。
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 サッカーの選手たちは準備運動だろうが、手で投げて飛ばすブーメランに熱中している。どのチームだ。ボールはどこも蹴っていない。

DSC_0622 手投げ遊び.jpg

広いピッチがかぎりなくつづく。どこも、練習はおなじ手遊びだ。
 こちらが飽きてしまった。ブーメラン、子どもの遊びを見にきたんじゃない、部屋に帰って執筆している方がましだ、と引き返してきた。


■「2022FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会」 試合スケジュール
11月23日(水) 22:00 ドイツ [ドーハ/ハリファ]
11月27日(日) 19:00 コスタリカ [アルラーヤン]
12月01日(木) 28:00 スペイン [ドーハ/ハリファ]

歴史の裏側から、真相が如実に見えてくる =  幕末ストーリーは明治時代につくられた

 新聞連載「妻女たちの幕末」が公明新聞で、8月1日から、スタートして、3カ月半が経過してきた。
 家斉の大御所時代、そして水野忠邦の「天保の改革」へと進んできた。この時代から、天明天保の飢饉という内憂、アヘン戦争のような外国からの脅威という外患、つまり「内憂外患」の時代になった。
 剛腕な水野忠邦を失脚させて、満25歳の阿部正弘を老中首座(現・内閣総理大臣)にさせたのが、大奥・上臈奥女中の姉小路である。彼女は彼女は公家の娘で、悧巧で頭脳明晰で、洞察力に優れていた。
 将軍家慶は重要な問題にたいして大奥・上臈奥女中の姉小路に判断を仰いでいる。つまり、彼女は将軍・家慶の政事代行であった。同時に、幕閣の人事、諸大名の養子・婚姻縁組なども、彼女が采配をふるう。たとえば、諸藩が次の藩主を決める際、姉小路の判断が与されていたのだ。

 阿部正弘の時代~ペリー来航・家慶死去まで、約10年間は『姉小路の時代』といえる。

 姉小路はバランス感覚が良い。彼女の独裁政権ともいえず、老中首座阿部正弘をうまく盛りあげている。二人三脚と称した方が正確かもしれない。
 
 

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 私が新聞連載「妻女たちの幕末」で、いまは主人公・姉小路の目で書いている。それだけに、幕末史のねつ造がよく見えてくる。下級藩士だった薩長の武士たちが、明治時代に入り、自分たちに都合よく幕末ストーリーを作ったか、それがよくわかる。

 上臈奥女中の姉小路の時代は、薩長閥の政治家にとって不都合なものが多い。むしろ、彼女の時代は教えてはならないものだ。
 
 その一つが徳川幕府がもっている海外情報量の膨大さだ。長崎出島の商館長(カピタン)が毎年、往復約90日間の道のりで、江戸にくる。そして「ヨーロッパおよびアジア情報」を報告する。情報提供がオランダがヨーロッパで唯一貿易を独占できる条件だった。幕府はそれら情報を期待している。
「鎖国とは盲目になることではない。より情報の密度を高めることだ」
 その江戸参府はなんと166回に及ぶ。
 オランダはキリスト教徒の国だ。商館長らオランダ人は長崎奉行所の官吏らの警護で、長崎を出発し門司へ、瀬戸内海は船便、大坂に上陸し、京都で所司代に会い、東海道、箱根を超えて江戸にでむく。どの宿場町も白人がくると、どこも大騒ぎだ。
  幕府はカピタンから詳細を聴き取りするので、かれらの滞在は約1カ月間である。日本橋・本石町の長崎屋に宿泊している。まいにち、江戸っ子が白人をみにくるのである。
 
 日本人の画家は写実主義で、美人画などもきれいに描く。北斎をはじめとして、多くの画家がオランダ人を描いている。実にリアルだ。

カピタン 長崎屋.jpg

 これらをなぜ教科書に載せて教えないのだろうか。
 いまだに中・高校生の歴史教科書には、幼稚園児が想像で描いたような、ペリー鬼顔を載せている。印象操作(プロパガンダ)もはなはだしい。

 狩野派の画家たちも任務で浦賀に行ってペリー提督を実写しているはずだ。それを教科書に載せる。徳川幕府の政権下で、オランダ人166回も江戸にきたとなると、日本人が黒船来航ではじめて白人を見て怖がった。おびえて、ペリー提督に蹂躙された、というストーリー建てのつじつまが合わなくなる。

                   ☆

 島津斉彬は藩主としてわずか6年間である。斉彬が領民にどんな良い政治ができたのか。明治以降に西郷・大久保が持ちあげに持ち上げて斉彬を名君に仕立てている。はなはだ疑問だ。西洋に通じていたとするが、幕府が持っている海外情報の質と比べると、足元にも及ばない。
 老中阿部正弘が斉彬の西洋知識を当てにしたという創作までしている。阿部正弘を小説にした取材経験からすれば、老中の阿部正弘にしろ、牧野忠雅にしろ、外様大名に海外知識を乞うなど、そんな事実などない。
 
さらに一橋派(慶喜を将軍跡継ぎ)のストーリーを作った。それが通説となり、安政時代には南紀派と一橋派が将軍継嗣で争う、という筋書きになる。しょせんは無意味な創作である。

 徳川将軍は誰にするか。歴代において権力をもった大奥の影響力がおおきかった。絶大なる権力をもっていた姉小路の時代に十四代将軍は慶福(のちの家茂)と決まっていた。
 かれは家慶の甥っ子で、家定のいとこ、嘉永2年(1849年)にわずか4歳で御三家の紀州藩主になった。

 嘉永5(1852)年に将軍家慶が、三河島の鷹狩に、一橋家の慶喜を連れて行こうとした(継嗣を決める行事)。ところが、姉小路と阿部正弘が、慶喜の鷹狩同行を断らせた。ここで慶喜の将軍継嗣はなくなった。慶福が6歳のときである。

 かえりみれば第7代将軍・徳川家継はわずか4歳で将軍になっている。それは新井白石の力によるものだ。姉小路は新井白石よりも影響力をもっていたと認識すれば、嘉永5年に慶福6歳で決着がついていた。7代将軍・徳川家継の事例から、別段、不思議ではなかったのだ。南紀派は余裕綽々だ。

 安政5年(1858年)安政大老・井伊直弼(彦根藩主)によって、抗争の末に継嗣問題が決着つけられてというのは、明治時代の創作(歴史捏造のプロパガンダ)は、島津斉彬をより大きくみせるための作為である。

 一橋家とは将軍の家門である。一橋家の家主として慶喜は自覚があり、嘉永5年の鷹狩に将軍に不同行で決着付いていると知っている。大奥に嫌われている親父が出てきて将軍家の相続で騒いでほしくなかったのだ。
 慶喜はまわりが騒がしいので、江戸城の井伊直弼に確認に行ったくらいだ。
「家茂と決まっている」
 と井伊に言われて
「そうだろう(将軍家慶がすでに決めている)」
 慶喜は納得して帰ってきているのだ。
 
 strong>なぜ紀州派とか、彦根派とかいわず、「南紀派」というのか。
 そこに回答がある。

 南紀の大物が嘉永時代にすでに大奥の姉小路、将軍家慶、老中首座・阿部正弘から、14代徳川将軍は幼い紀州藩主・慶福(よしとみ・のちに家茂)と取り付けていたからである。
 

不老山(928m)でサンショウバラ鑑賞 武部実

2022年5月28日(土) 晴れ

参加メンバー:L武部実、佐治ひろみ、市田淳子、針谷孝司、金子直美、古賀雅子

コース:駿河小山駅からバスで明神峠 ~ 湯船山(1041m) ~ サンショウバラの丘 ~ 世附峠 ~ 不老山 ~ 駿河小山駅

 
 今回の山行の主目的は、ちょうど見ごろをむかえたであろうサンショウバラを観賞することである。
 出発点の明神峠は、サンショウバラを求めて路線バスで来た人たち以外の登山客も大勢いた。M山岳会のメンバーは貸し切りバスを利用して、30数人が参加とのことだった。

 9:30 標高900mの明神峠を出発した。
 アップダウンがなく平坦な登山路は、ブナの葉などにおおわれていて下界の暑さが噓のような涼しさであった。
 山ツツジが赤い花をそこかしこに咲かせていた。40分ほど歩くと、今回のルートで一番標高が高い湯船山(1041m)に着いた。山頂の周りは樹木で見通しはない。
 この辺りのブナの木は巨木が多いのが印象的だ。


 明神峠から歩いて2時間位からサンショウバラを見かける。この辺からサンショウバラの丘までが群生地である。
 バラは、木という感じはしないが、サンショウバラは木に咲いているのだ。ちょうど見ごろで大小のピンクの花びらを咲かせて、いい香りを漂わせていた。
 ゆっくり観賞したり写真撮影したりで、サンショウバラの丘に11:50に着く。先着の登山客もここでみなで昼食を摂る。
 箱根方面の眺めも良い格好の休憩場所だ。


 12:30出発。5分も歩くと世附峠だ。ここからの登りがこのコースで、一番キツイところ。登山客が増えているのだろう、いままでなかった簡易トイレが設置してあった。
 40分かけて登りきったところが、不老山山頂と駿河小山駅へ下る分岐だ。
 10分ほどで不老山山頂に着く。たしかここにもサンショウバラの木があったと思ったが、二本とも花は無く葉のみ。

 集合写真を撮って下山を開始した。
不老.jpg

 駅に向かう下山ルートは二つあるが、今回は金時公園まわりだ。途中、林道の法面が陥没している箇所があり早期の修理が望まれる。キイチゴを食したりして、順調に駅近くまで来たら、私の足が前に進まなくなった。

 初めての経験であり、皆さんにサポートしてもらい、なんとか16:34発の電車に乗ることができた。
 二か月前に頭を打った後遺症なのか、はたまた別の要因か、電車に乗って休んだら元通りになったが、年とともにアクシデントは起きるものだ。
 ご心配とご迷惑をおかけしたことをここでお詫びします。

 山行としては、初期の目的であった、サンショウバラが丁度見ごろで良かったのではないかと思う。ある旅行会社が私たちと同じルートを一週間後に企画し8800円で募集していた。
 今回はこれ以上の価値があったと思う。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№272から転載

山岳信仰の霊山・両神山(1723m) 金子直美

日 時  2022年6月12日(日)
メンバー L佐治ひろみ、武部実、佐藤京子、金子直美

 前日の天気予報が急変してしまい、朝方に雨は上るけど、12時と15時に傘マークが追加された!
 それも最近頻繁に発生してるゲリラ豪雨予報でした。だが、佐治リーダー武部さん佐藤さん私の日頃の行いを信じて、決行となりました。


 山名の由来は、イザナミ、イザナギの神を祀っているから両神、「龍神を祭る山」が転じて両神山など、諸説あるそうです。

 今回のお山は、秩父の両神山です。
 日帰りは少々厳しく、始発のレッドアローでは町営バスに間に合わず、たまたま私の親友が秩父在住なので甘えてしまい、西武秩父駅から白井差登山口まで車で送ってもらうことが出来ました。
 そこで待っていたのは、前日に入山予約電話を入れたお相手・山中氏(両神山の地主)です。
 コースタイムに余裕が無いのに、話しは面白かったけどちょっと丁寧すぎる説明のあと、入山料(環境整備協力金)1000円は、無事に下山した時にお支払することで、まずは10時に登山を開始した。


 今回の白井差コースは、見事な滝を見ながら渓流沿いを、その先は葉高の広葉樹林帯である、頂上の直前には少しの鎖場。山中氏が小綺麗に整備されたとても歩きやすい登山道でした。

 水晶坂の辺りで声が聞こえるので振り返ると、長靴を履いて片手にクリネックスの空き箱を持って登ってきた山中氏がいた。ここの400mがきついだけだよ、今100m、200mとエールを送ってくれていたのに、いつの間にかお姿は消えてました。

 その後、ブナ平辺りで雷と小雨が降り始めたので、豪雨に備えカッパを着込みました。結果は着なくてもいい程度でした。でも、頂上では雹が降っていたみたいです。
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 私たちが頂上に到達した時には、太陽が微笑んでくれていたので、頂上で昼食を摂る。13時10分に下山を開始する。

 気がつくと、帰りのバスの時間ギリギリになっていて、佐治リーダーが山中氏の家まで先に下り、入山料をお支払した。
 リーダーの交渉のお陰かな? 山中氏にバス停まで軽トラックで送って頂ける事となりました。みんな大喜び! さらにバス停で、16時22分の町営バスが来るまでの約1時間、山中氏の色々なお話をたっぷりと聞くことができた。
 とても楽チンで、たいへんお勉強になった山行となりました。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報272から転載

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