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「走るぞ」。気合を入れたら、強い雨風だった。

 東京マラソンまで、残すところ2ヶ月を切っている。大会を視野に入れると、ロング走やスピードなどに練習不足がある。そこに焦りを覚えてしまう。

 急激な練習量アップは、からだに大きな負担を与える。故障の原因になりやすい。それが怖い。両膝と、左右の踵(かかと)が鬼門だ。過去には足を痛めて、階段の上り下りなど、一歩ずつ顔をしかめるほど激痛に襲われたことがある。そうなると、短期間には回復せず、東京マラソンの出場すら危ぶまれる。

 練習不足のまま大会当日を迎えたら、これも悲しい結果になる。
 1月30日と31日は、『走るぞ』と気合を入れた。取材など予定はいっさい入れなかった。ところが皮肉なもので、30日朝から、低気圧の通過で、東京は強い雨風となった。「何で、こんな日に雨なんだよ」と天を恨む。1日のなかで雲の切れ間がないか、と期待してみたが、虚しかった。

 他方で、これだけ強い風雨ならば、天気予報以上に低気圧の通り抜けは早そうだ、と想定した。
 31日の午前中も雨脚が強かったが、午後になると、想定通り、小雨になってきた。「走りはじめて身体が温まれば、多少の雨は問題ない」と、ジョギングの身支度をはじめた。膝の安全を保つために、シューズは底の厚いものを選ぶ。

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遠方より友来る。葛飾・立石は安価で、人情味ある飲み屋がひしめく。

「東京下町の情緒100景」が完了したのは、昨年の桜が咲くころだった。葛飾・立石を中心とした。堀切菖蒲園とか、柴又とか、浅草とか、メジャーなところは外し、素朴な面ばかり。それでも、いまだに読者がついている。

 先般も葛飾区教育委員会で、『かつしか区民大学』の発足について話を聞く機会があった。主事が一通り読んでおり、「葛飾にも、いろいろな面があると再認識させられました」という。それには驚かされた。素朴な情景も100景となると、厚みがあるようだ。


 葛飾・立石には町工場、家内工業、商店が集中する。下町の中心地のひとつ。仕事が引けると、工員、店員たちは帰り路で飲み屋にちょっと立ち寄る。長居はしない。飲み屋の多くが一人1000円台で呑める。庶民の町の飲み屋街なのだ。

 最近は親しい方に、「葛飾・立石は下町情緒たっぷりで、昭和が残っている街ですよ」とアナウンスしている。その上で、1000円台で飲める店が豊富にある、とも語る。
 大学時代の学友は随分気に入り、年に数回は葛飾立石に集ってくる。かつてITコンサルタントの肥田野正輝さん、旧友の関根稔さん、古関雅仁さんもやってきた。

 1月27日は、二上薆さん(エッセイ教室・受講生)と、松本道湛’さん(いまや写真家)が来てくれた。2人はともに元日本鋼管の先輩・後輩だという。(写真左:松本道湛’さん、右:二上薆さん)

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犯罪的な取材行為は、「取材の自由」ではない=オピニオン

 奈良県田原本町で、06年6月20日に、16歳の少年が自宅に火を放ち、3人を焼死させた事件が発生した。
 奈良地方裁判所は少年の行動に疑問を持ち、精神鑑定を行った。担当したのが精神科医の崎濱盛三(もりみつ、53、写真)さんで、放火した少年は広汎性(こうはんせい)発達障害をもつと診断した。


 草薙(くさなぎ)厚子著『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)が世に出た。そこには警察や検察の供述調書が多数引用されていた。情報源として、崎濱さんがジャーナリスト、講談社に供述調書などを洩らしたとして逮捕された。そして、秘密漏洩罪に問われて起訴された。

 昨年6月13日、日本ペンクラブと(社)自由人権協会の共催で、大手町サンケイプラザで、『言論が危ない』のフォーラムが開催された。鑑定医の崎濱盛三さんが対談形式で、吉岡忍さんの質問に応えて真実の一端を明かした。

「少年は殺人者ではなかった。それを世に伝えてもらいたくて、ジャーナリストに警察や検察の供述調書などをみせました。このときの約束事は、『見せるだけです、コピーはダメです、供述調書の直接引用はしない』というものでした」と打ち明けた。

「私は外出するので、草薙厚子さん、講談社の記者、カメラマンなど関係者4人に住まいの鍵を預けました。その間に、調書や鑑定書をデジカメで撮影したものです」と明らかにした。さらには、「出版前には、崎濱さんへの原稿の最終チェックさせてもらう、という約束も反故にされました」と語っている。

 同フォーラムが終了後、居酒屋で十数人が飲んだ。崎濱さんは一つ席が離れた場所に座り、吉岡忍さんや江川紹子さんらと語り合っていた。「誠実な人柄だな」、という印象を強く持った。

 今年1月27日付の朝日新聞によれば、14日の奈良地裁で、検察官の質問で、草薙さんは被告席の鑑定医の崎浜さんに謝罪し、取材源だったことをはじめて認めた、という。

 閉廷後、崎濱さんは「いまさら謝罪されたって、どうってことない」と冷淡に草薙さんを突き放している。「なんで、今ごろ(情報源)言うのかな。草薙さんや講談社に(調書)を見せたことを強く後悔している」と語った。

 奈良地検の検事は「草薙氏が取材源を明らかにしたことで、鑑定医の供述と一致し、立証は前進した」と話している。つまり、崎濱さんはなおいっそう窮地に陥れられたのだ。

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尾道の旅情と志賀直哉の旧邸を訪ねる

 1月13日の朝、夜明け前に尾道駅に立った。私は幼いころ父に連れられて尾道魚市場に何度もきたものだ。朝の薄暗い時間帯に、セリの声が響いていた。市場の一角で、温かい中華そばを食べさせてもらえた。魚介類の出汁だけに、たまらなく美味しかった。いま流行する尾道ラーメンのルーツかもしれない。


 駅付近で、魚市場の所在地を聞いてみた。だれもが首を傾げた。思い出深い魚市場は既になくなったようだ。

 尾道水道は向島との狭い水路で、フェリーボート、小型ボート、貨物船、漁船などのさまざまな船が行き交う。対岸の造船所では、大型の鋼船が建造されている。
 タワークレーンから夜明けの陽が昇ってきた。シルエットが水面に映る。船舶との陰影の組み合わせは情感豊かなものだった。

 魚市場がなくなった尾道港だが、海岸線は整備された、気持ちの良い散策道が続いた。右手には尾道城が見える。私が幼い頃にはなかった。(1964年に観光目的で築城)。

 尾道といえば千光寺だ。尾道水道と向島が一望できる、風光明媚なところ。両親に連れられて、千光寺の桜を観に来たものだ。桜がなくても、冬場でも、最上の景色だと知る。そちらに足を向けてみた。

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新年早々

 元旦は快晴だった。羽田発の広島行2便の旅客機から、眼下に白雪の富士山を見た。山頂の噴火口も鮮明にのぞけた。機内から、こうも間近に富士山を見下ろしたのは初めてだった。
 スチュワーデスがコーヒーを差し向けながら、「とても素晴らしい富士ですね」と声をかけてきた。彼女の笑顔の一言も、心をうるおす。09年早々の素晴らしい光景だ。

 一昨年12月には富士吉田側の一合目から、富士山・山頂を目指した。アクセスが悪く、なおかつ積雪をなでる強風で、七合目半で引き返してきた。そんな登攀の思い出がよみがえった。

 正月に、広島に帰省するのは数十年ぶりだ。大学生のころか、少なくとも24歳で結婚した頃まで遡らないと、記憶にはない。子どもが生まれてからは、年末年始の帰省ラッシュに、郷里の島に帰ってことはない。難儀して交通機関の指定券を取る。そんな苦労はムダだと考えていたから。

 3日前の、12月29日の夕刻、瀬戸内の島で一人暮らしする老母が倒れた。島から救急車で竹原市の病院に搬送されていた。30日は島の親戚筋、31日は私の妻と息子。そして、元旦には私が現地に向かった。
「横浜にいればよかったものを」
 私はつぶやいていた。

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「ヨタロウ会」の忘年会は、出版記念会を兼ねる?=神田

 小中陽太郎さん(日本ペンクラブ・理事)の支援者たちの集まりが「ヨタロウ会」だ。その忘年会が12月27日(土)夕刻6時半から、千代田区内神田の居酒屋『樽平』でおこなわれた。幹事は瀧澤陽子さん。
当初の予定(25人)を越え、出版関係者、作家、ライター、日本ペンクラブの幹部など約35人が集まった。

 小中さんは東大卒で、NHK(ディレクター)を解雇されたあと、市民活動や文筆に身を投じてきた。現在は大学教授。気さくで、笑顔の素敵な人である。今年11月20日に講談社から『小田実と歩いた世界』を発行した。「市民たちの青春 ベトナム戦争を止めようとした男」というサブタイトルがついている。
 
 べ平連代表だった小田実さんが、07年7月に死去した。小中陽太郎さんが「小田実さんの素顔を書き残したい」とペンを取ったものだ。

 同書に登場する、べ平連の関係者は多岐に渡っている。本の発売と同時に、ブログなどを通じた反響は大きいようだ。人それぞれ見方が違う、考え方も違う。当時の市民運動の捉え方も違っていたと思う。「絶賛する人もいれば、些細な事実の違いを大げさにいう人もいる」、と小中さんが挨拶のなかで、語っていた。

 同書を読んで感銘した人が、忘年会に駆けつけていた。版元の講談社・出版部長・三ッ間詳二さんも参加する。まさに出版記念会の雰囲気だった。とくに同書に登場した人たちは、1分間スピーチという時間制約を超え、それぞれがべ平連の思い出やエピソードを披露していた。

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Xmasイブは、報道写真展とチャリティー・コンサートで

 12月24日のXmasイブは、楽しみながら、HPの取材と決め込んだ。朝日新聞のコラムで知った、日本橋・三越の本館7階で開催中の「2008年報道写真展」(無料)をのぞいてみた。大地震や集中豪雨などの痛々しい現場、華麗なスポーツの美、動物の世界など多彩な写真が数多く展示されていた。

 さすが選ばれた写真だ。迫力あるすさまじい写真が多く、幾つも感動させられた。他方で、ポートジャーナリストが事件・事故の現場をどのように捉えるか、どんのような切り口から伝えているか、その面からも参考にもなった。
 同展には、望遠カメラの実物が展示されていた。連写のシャッター感覚が楽しめた。

 夕刻6時には、六本木ヒルズ内、テレビ朝日「umu」に出むいた。Xmasイブの特別企画、動物愛護のクリスマス・チャリティー・イベント『Animal Protection Activity』が開催されていた。ライブ音楽は「沢村まみ・ボーカルグループ」のジャズ・ミュージックだ。出演者の沢村まみさんから、案内をいただいていた。

 同グループは、11月27日の仏教音楽祭で第1位を受賞した。その作品、『君はひとりじゃない』は聞くほどに、これはヒットするな、と予感がはたらく。会場では沢村まみさんと挨拶ができた。
 PJニュースの音楽祭の記事が気に入ってくれていた。パソコンを持たない人にプリントして渡しています。「先般、ラジオに出演したときに、記事を紹介させていただきました」と話す。書き手としても、冥利だった。

 ジャズは好きだし、クリスマスソングだけに知っている曲が多く、ドリンクを飲みながら、快い時間を過ごせた。ふだんの忙しい取材でなく、リラックスした、Xmasイブを楽しむことができた。

 六本木けやき坂のイルミネーションをも楽しむことができた。

3度目の正直となった、『東京マラソン2009』のエントリー

 抽選結果が11月7日に出た。『東京マラソン2009』の「フルマラソンの部」(42、195キロ)に出場が決まった。抽選方法の透明性については、何度か批判をしてきた。それが拭えたわけではない。だけれど、エントリーが決まったからには大会に向けて努力したい。


 12月13日の夕方、他の取材で浅草・雷門にいった。日没後、折り返し地点にはイルミネーションの五重塔と、東京マラソン・3月22日の電光掲示板が光り輝いていた。次の大会は出られるのかと思うと、感慨深いものがあった。

 ことしは同場所で、取材をした。浅草芸者が櫓の舞台で太鼓を叩く、という情景が印象的だった。それら写真は記事のなかに組み込んだ。来年はランナーの目で見ることができるのだ。


 今年は「かすみがうらマラソン」に一度出場しただけだ。その後の練習不足は甚だしいものがある。人間は不都合な理由はかんたんに見つけ出せるものだ。
「きょうは執筆に追われているから、練習は半分だ」
「カルチャーの講師の日だし、遅れられないし、止めておこう」
「雨の日はムリして走ることはない」
 そんな口実は難なく出てくる。3日も、4日も走らない日が生じていた。

 これら半年間を省みると、月間で延べ100キロくらい。身体は重くなっている。ロング走はまったくできていない。このままだと、来年の東京マラソンは3時間台で走れず、4時間を越えてしまう。

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推量小説作家・新津きよみ著『トライアングル』がフジTV・ドラマで放映

 11月26日は、「ペンの日」だ。東京會舘(千代田区)のローズ・ルームで、約300人ほどが参加した、親睦会がおこなわれた。日中文化交流の代表団も参加していた。

 広報委員会の仲間数人がいつも一つテーブルを囲んで快談している。同委員の新津きよみさんが、「私の推理小説「トライアングル」(角川書店刊)が原作で、フジTVの火曜日夜10時から放映されるの。スタートは1月6日からで、3月まで」と話す。


 彼女には「どんな内容なの」と訊いてみた。
「ことばで説明するのはむずかしいわ」といいながらも、国際刑事警察機構(ICPO)の捜査官が帰国し、警視庁に勤務。彼は医師のライセンスを持つ。さかのぼること25年前、彼が10歳のとき、同級生で初恋の女性が誘拐されて殺された。迷宮入りになり、時効が成立している。ここからドラマが始まる、と説明していた。

 関西テレビ50周年記念のドラマで、出演者は江口洋介、広末涼子、稲垣五郎、北大路欣也など。原作は20年前だけど、江口洋介の実年齢にあわせたらしく、25年前に替わっている、と教えてくれた。

 新津さんの実父は長野県の医者で、県警の監察医でもある。だから、ICPOの捜査官が医者というシチュエーションの作品も書けるのだろう。同書は9月からソフトカバーで販売されているが、来月からはドラマ化という帯を付けてくれると、話す。

 日本ペンクラブ・阿刀田高会長がやってきて「TVドラマは、原作はずいぶん変えられるんだよね」と話しに加わっていた。(右)

 写真左は、広報委員会・副委員長の鈴木康之さん(編集担当)。

伝統職人(47師)の宝庫に住みながらも

 葛飾区には『戦後』という街はもう見当たらない。戦後から一筋という伝統工芸の職人は多い。現在47人が活躍している。国宝級のひともいる。

 終戦直後からの華やかな、最も発達した町は立石だった。葛飾の中心で、葛飾区役所がある。メインの街なのに、いつのころからか京成立石駅には特急が止まらなくなった。
 渥美清さんの「寅さんシリーズ」の映画が上映されると、柴又人気が急上昇した。葛飾を代表する町に思われはじめた。

 私はそのころ全国に旅行する機会が多かった。問われて、東京・葛飾に住むといえば、きまって「柴又ですか」と聞かれた。面倒になって、そうですよ、と言いたいが、「いいえ、立石です」としっかり否定してきた。相手はとたんに興味がそがれた顔をするのが常だった。

 妻の母方の実家が葛飾・柴又だから、決して無縁ではない。だが、葛飾立石にこだわり続けた。いまや寅さんブームが去った。葛飾・立石は『昭和の残る町』として息吹を取り戻してきた。

 PJニュースを書きはじめてから500本を超えた。地域、分野を問わず、自分の知識や活動の領域を広げるつもりで、記事を書きつづけてきた。初対面の人から話を聞くのが好きだから、インタビュー記事も積極的に取り組んできた。他方で、葛飾の地元関連の記事が少なかった。

 地元から目を逸らしていたわけでない。写真エッセイ『東京下町の情緒100景』を執筆し、そちらを中心に回っていた。100景が達成した頃から、葛飾発の記事も積極的に書こう、と決めた。
 それが昨年末で、立石仲見世の凧の取材記事を書いた。これが縁で、仲見世の理事の方々に同事務所に集まってもらい、将来を語る座談会を開いてもらった。それを連載した。

 京成立石駅から2分のところに、葛飾区伝統産業職人会の会館がある。伝統工芸品を売っている。訪ねたことはなかった。身近でいつでも取材できるという立地のよさから遠い存在だった。

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