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P.E.N.は人材の宝庫。酒も強し(2)

 日本ペンクラブ9月度例会が15日、東京会館(千代田区)で開催された。
 恒例のミニ講演は落合恵子さん(作家、理事)だった。題名は『子供の本の現場から~33年間の奇跡、あるいは軌跡』である。


 彼女は幼いころ母親(シングルマザー)の手で育てられた。貧しかった。書店で立ち読みすると、店主にハタキでパタパタやられた。「大人になったら、本屋をやりたい」という夢を持つ。それが1976年に実現した。彼女が経営する児童書籍の専門店「クレヨンハウス」の運用について、いくつかの事例をあげて熱っぽく語った。
「不可能といわれたら、やる気が出る」
 それが落合さんのエネルギーの源だと語っていた。

       

 阿刀田高会長は、「国際ペン・東京大会」について、会員が来年9月まで発行する書籍すべてに、『国際ペン・東京大会2010』のロゴと文字を入れてもらう、と発表した。それら多数の本の帯が書店に並べば、国際大会がより多くの人に認識されるだろう、と期待を寄せていた。

 パーティーに移った。私は顔見知りの会員と次つぎと小談し、親交を深めた。二次会は「ヨタロウ会」のメンバーが有楽町の居酒屋に集った。
 大原雄さん(元NHK・ニュースデスク)には、現役の社会部・記者だった頃の、新聞記者の取材との違いを聞いてみた。記者クラブを一つにして、たがいに競って特ダネをとる。それは新聞記者もTV記者も変わらない。新聞は文字で表現する。TVは映像が必要になる。どうしても映像が手に入らないときは現場で、記者がマイクを持って語るのだという。資料的な映像は別のセクションで編集するという。

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P.E.N.は人材の宝庫。酒も強し(1)

 国際ペン・東京大会が来年9月23日~30日に開催される。会場は京王プラザホテル(東京・新宿)と早稲田大学である。諸外国から、ノーベル文学賞受賞作家やそれに準じる方が大勢来日する、と見込まれている。

 日本ペンクラブ(P.E.N.)では、その準備委員会が毎月一回、阿刀田高会長の下で行われている。9月14日は同クラブ大会議室で開かれた。東京大会の開催まで、あと一年に迫った。それだけに執行部、理事、各委員長たちの討議は活発化し、議案が次々に決まっていく。

 私は広報委員会の委員として、P.E.N.会報、同クラブ・メルマガの取材で同席している。
 最も感心させられたのは、国際大会でありながら、電通や博報堂など大手広告代理店をつかわず、(9月現在)、自前の会員で立案、展開していることだ。
 日本ペンクラブは営利団体でなく、会員の会費で成り立つ。誰もがボランティアだ。それでいて国際会議が自前でできる。それだけ人材が幅広く豊富だ。会員から、招聘すべき外国人作家の名前などが挙がってくる。
 早稲田大学が文学部創立100周年で、その一環で積極的に支援してくれている。それも強い味方となっている。

 準備委員会が終わると、有志が近くの居酒屋に足を運ぶ。顔ぶれは折々に違うが、いつも十数人くらいだ。
 私は轡田隆史(くつわだ たかふみ)さんと隣り合った。名刺交換から、ともに日本山岳会の会員と知る。轡田さんは、「きょう山岳会・会報用に、書評を書いてゲラを出してきたばかりですよ」と話す。映画の剱岳「点の記」など、新田次郎の原作など話が弾んだ。

 轡田さんは朝日新聞・社会部出身で、「素粒子」を6年間ほど執筆していた。
「ナベツネさんが、朝日の素粒子だけはゼッタイ読まない、と言っていましたね」と私が話題をさし向けた。
「ちょうど、あのころ私が書いていました」
 ナベツネさんの批判は勲章だと思っている、とつけ加えていた。

 私の名刺から、「ホダカ、ケンイチさん、ですよね」と轡田さんが念を押す。それというのも、轡田さんが最近、テレビ朝日(レギュラーのコメンテーター)に出演した日、穂高岳でヘリの事故が起きた。同局スタッフから、「ホダカ、ほたか」どちらですか、と聞かれたという。ホダカは穂高連峰。ホタカは武尊山(2158、群馬)である。
 そこは二人して日本山岳会・会員だけに、読み方の微妙な違いは判っていた。

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いさり火文学賞・受賞作『潮流』が、日本ペンクラブ:電子文藝館に転載

『潮流』が、北海道新聞社『いさり火文学賞』を受賞したのは2004年である。すでに5年が経つ。北方領土が日本に返還されないかぎり、この作品は生きつづけている、と思う。その面では古くならない作品だともいえる。


 この素材は作品化するまで、十年余年を要した。北海道・函館で乗ったタクシーの運転手が、当時のソ連警備艇に拿捕され、ナホトカに連行された。漁船そのものが監獄で、目隠しされて、上陸は一歩も許されなかった、と聞いた。
「よく発狂しなかったな。閉鎖的な船室に閉じ込められて」
 それが第一印象だった。
 その後は何度も北海道を訪ね、その漁船員から密漁の話を聞かせてもらった。当初はミステリー仕立てにした。(四百字詰め原稿用紙550枚)。江戸川乱歩賞は二次予選を通過したが、候補作にはならなかった。そこで、あらためて純文学に仕上げようと、北海道東部に出向き取材した。別の漁船員から、特攻船の体験談なども聞いた。

「いさり火文学賞」を受賞した先が北海道新聞で大変よかった。担当部長が根室支局、釧路支局に問い合わせたり、密漁に詳しい記者を紹介してくれたり、微妙に事実と違う点を指摘してくれた。漁船員のうる憶え、曖昧な点が補強できた。その情報網はさすが北海道に根を張る新聞社だと感心させられた。

 550枚の作品が80枚にまで圧縮された。その面では濃密な、思い入れが深い作品だった。このたび日本ペンクラブ:電子文藝館の『小説』コーナーに掲載された。

 同館には島崎藤村・初代会長からの歴代会長作品、ノンフィクション、詩歌、随筆、小説などいくつものジャンルに分かれている。来年には合計1000作品に達する予定である。無料で読める。
 日本ペンクラブの正会員ならば、既発表作品に限って一年一作を載せることができる。(未発表の書き下ろしは不可)。他方では、過去の著名な作家(会員、それに準じる人)の掘り起こしが行われている。

「小説」コーナーは、既存のペン会員の作品が少ないだけに、過去の著名な作家が目立つ。「潮流」のまえは森鴎外の作品だ。さらに10作を見ても、中山介山、大岡昇平、樋口一葉らの作品が並んでいる。
 これら大物作家の作品に囲まれているだけに、日本ペンクラブの会員になってよかったな、という感慨を覚えた。

日本ペンクラブ:電子文藝館

小中陽太郎さんを囲む「ヨタロウ会」の暑気払いは、鰻屋の老舗で

「ヨタロウ会」は8月4日、東京・南千住の鰻屋の老舗「尾花」で行われた。
 小中陽太郎さん(作家)が、「この猛暑を乗り切り、元気を付けるために、鰻を食べよう」と提案したもの。同会の幹事・瀧澤陽子さんの案内書には、「尾花は超人気の店で予約できない、遅れると入れないかも」という趣旨の添え書きがあった。


 私はそれなりに時間を気にしながら、千住大橋から徒歩で、南千住・駅前の鰻屋に出むいた。7、8分ほど遅れた。和風の座敷に上がろうとすると、店員がストップをかけてきた。順番の割り込みだとみなされ、嫌な顔をしていた。ここは厚かましく、事情を説明し、仲間12人の席につくことができた。

 長テーブルで隣り合うのが、堀佶さんだった。堀さんはかつてポプラ社の名編集で、いまはフリー編集者だ。このたび日本ペンクラブの広報委員会の委員になられた。来年の国際ペン・東京大会にむけて、会報、メルマガで、ともに力を合わせる仲間となった。それらを中心に話が弾んだ。

    

 真向かいは相場博也さん(創森社)である。相場さんは出版社「家の光」の編集部で、主として単行本を手がけていた。出版に思うところがあって、若くして独立し、単行本を発行する会社を興した。社長として、つねに企画のアンテナを張っているという。「一に企画、二に企画、三、四がなしで、五に企画だ」と強調されていた。
 私が42回地上文学賞(家の光)を受賞したというと、同社にいた相場さんは「すごいですね、地上賞の受賞ですか」とおどろかれていた。当時の編集長や選者の名まえが酒の肴になった。

 小中陽太郎さんが席にやってきた。「大原雄さんは急に葬儀に参列することになった。何でもNHKの先輩らしい。こればっかりは予定が付かないからな」という。残念だが、葬式ではしかたない。
「穂高君は伊藤桂一さんの教え子だ」と小中さんが皆に紹介したことから、伊藤桂一さんの話題がひときわ盛り上がった。高齢で頭脳が明晰、80代半ばで再婚した、と多くの人が知る。

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国際ペン・東京大会には、環境の記録映画が上映予定

 日本ペンクラブは、2010年9月に国際ペン大会・東京大会を開催する。東京での開催は、第1回が川端康成会長(1957年)で、テーマ「東西文学の相互影響」)だった。第2回は井上靖会長(1984年)で、「核状況下における文学-なぜわれわれは書くのか」をテーマにした。

 今回は25年振りで、東京大会のテーマは【環境と文学】である。

 日本ペンクラブ環境委員会(中村敦夫委員長)の活動は活発で、月1回は会員向けのミニイベントを行っている。
 今回は8月3日、日本ペンクラブ(東京・中央区)3階会議室で、映画監督の岩崎雅典さんを招き、映画『平成 熊あらし ~異常出没を追う』を上映した。定員の30人が満席だった。

 同映画の狙いは、「2006年にはツキノワグマが4000頭以上も捕殺された。なぜ、熊は人里に出没したのか。人は熊とどう付き合えばいいのか」という問題提議である。マタギ(猟師)の文化、熊の生態、保護活動など、三者の立場から描いている。

 岩崎監督は「人と熊がどう共存できるか、と考えてもらうために制作した」と述べた。日本列島に熊はどのくらい生存しているのか。頭数調査する学者はほとんどいない。一説には数万頭だという。それは定かではない。九州の熊はすでに絶滅し、四国も絶える寸前、という事実は確かだという。


 質疑応答に入った。質問に応えて、「06~09年3月にかけて作成しました。文部科学省選定(少年、青年・成人向き)の受けました」と岩崎監督は語る。

 森が拡大造林で、熊の住む場所がなくなった。ダムができると、熊の棲む場所が分断されて、人里に出てくるようになる。
 映画のなかで、「かつてマタギと熊との緊張関係があって、人間との境界線ができていた」と、マタギが語る。

「この100年間に人間は4倍増えた。熊よりも、これが問題かもしれない」という質問が出た。岩崎監督は、100年前の熊の生存データはないという。

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高橋千劔破(ちはや)さんの「名山シリーズ」三部作の完結を祝う会

 表題の出版記念会が7月17日の夕刻から、東京・千代田区の如水会館で盛大に行われた。発起人は阿刀田高、浅田次郎、新井満、加賀彦、黒井千次など各氏、あわせて12人。世話人は版元の河出書房である。

 
 高橋千劔破(ちはや)さんは日本ペンクラブの常務理事である。かつて歴史物の出版社の名編集長で、歴史物の著作に関しては第一人者だ。と同時に、著作には、『歴史を動かした女たち』『赤穂浪士』『江戸の旅人』『忠臣蔵銘々伝』など多数ある。

 立教大学時代には山岳部に所属し、登山のエピソードは多い。高校時代も修学旅行をすっぽぬかして、奥多摩・川苔山に登った、と私に教えてくれたことがあった。まさに学生時代から山男だ。


 今回の作品は、「北海道から九州まで、名山の歴史と文化と民族を掘り起こした、名山シリーズである。三部作で、百名山が完結した。それを祝う会である。


  (写真・右:高橋千劔破さん。09年6月の日本ペンクラブ・年次総会で)

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報道写真展の取材について

「世界報道写真展2009」が、東京都写真美術館(東京・目黒区の恵比寿ガーデンプレイス)の地下1階展示室で開催されている。

 3年前の同展2006は、PJニュースで紹介したことがある。タイトルはhttp://news.livedoor.com/article/detail/2127972/

この報道写真があなたに何を訴えているか?3回連載だった。

 その写真展で、強く印象に残っているものがある。イラク戦争で死亡した米兵が家族のもとに帰るまで、それを追った組み写真だった。その時の記事を抜粋してみると、
『旅客機の機体から柩が下ろされているが、乗客はまったく何も知らされていない日常の顔だ。このさき兵士の遺体が家族のもとに着く。妊婦の妻が臨月のような、目立った腹部を柩に当てている写真がある。
「戦争は、この家族になにを与えたのだろうか」。生まれてくる子どもの将来を考えると、あまりにも哀れだ』と私は記している。

 この写真が私の記憶から消えることはなかった。同一の取材ネタは極力避けるようにしているが、同展2009を観てみたい、強い衝動に駆り立てられた。

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美しく旅する「中欧周遊」=久能康生(1)

「穂高健一ワールド」1000コンテンツを記念して、新たな取り組みをはじめる。記事、作品、写真の門戸を広げた。
 トップバッターは学友の久能康生さん。彼は北陸の某大学の経済教授を早々と引退し、夫婦で世界中を旅する。そのために、犬好きだが、犬を飼うのをやめたという。

 今回はヨーロッパに旅した写真を提供してくれた。彼は高校時代、某市の写真屋に4年間住み込み、そこで働きながら学校に通っていた。苦学時代の10歳代で、プロから写真技術を叩き込まれている。その下地があるので、とても良い写真を撮る。


 「主要4都市で、それぞれ1~1.5日のフリータイムがあり、ツアーの安直さと個人旅行の気まま、その両方を味わえました」というコメントがあった。

 3回のシリーズです。
 第1回目は「古城街道とロマンチック街道」で、ライン河から、ノイシュバインシュタインまで。



     

  ドイツ南部のライン河下り。このロマンチックな建物は、元通行税取立て所つまり強盗の巣。(写真:右)

             
          


ドイツ、ハイデルベルグ。向こう岸左方向に行けば、ゲーテの小道だったか散歩道だったかがある。(写真:上)

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1000コンテンツを達成。3年半にして。

 穂高健一ワールドは2005年12月7日にスタートした。最初の記事はPJニュース「東京下町冬の風物詩! 中川沿いの巨大ユズ」だった。この記事の写真がいきなり「フォーカス」から転載の申し出があった。
 1000本目のコンテンツは2009年6月23日に掲載された「東京随一の水郷で遊ぶ、20万本の花ショウブを楽しむ=東京・水元公園(下)」である。私は葛飾区在住で、同区の取材記事だった。


 3年半で1000本だから、単純に1日1本の作品の創作されていたことになる。

 穂高健一ワールドはITコンサルタントの肥田野正輝さん(横浜市)が制作してくれたものだ。
PJニュースを中核においたうえで、ジャーナリスト、小説家、登山家、ランナーからはじめた。やがて、「東京下町の情緒100景」に取り組んだ。
 下町の素朴な生き方、古い街並み、昭和の名残りなど、写真とエッセイの組み合わせで展開した。ふだんの生活の見慣れた光景だけに、ネタの取り上げ方には苦労した。取上げる人物、商売など領域を広げてながら展開し、100情景(コンテンツ)が達成できた。
『TOKYO美人と、東京100ストーリー』は、「心は翼」で止まっている。撮影済みのモデルの方には心苦しいので、早め執筆を再開したい。

                           (写真・左が肥田野正樹さん)


 私の執筆は、伊藤桂一(直木賞作家、日本芸術院賞・受賞)氏に学び、約30年にわたり小説一辺倒だった。取材に裏づけされた小説を書く。それをモットーにしてきた。(作者が頭脳の中で、登場人物を都合よく書く、そんな小説は味がないと思っている)。

 北海道・根室の密漁経験の漁船員に取材に行ったり、鹿児島や奄美大島に出向いて歴史物の取材をしたり、二年余り死刑囚と向き合っていたという、拘置所の元副所長から話を聞いたりした。下岡蓮杖を書きたいと下田にも通い詰めた、佐々成政を書くために富山にいった。過去からの累積で、1都2府43県を回りきったのは、いまから15年前だった。


私はともかく取材が大好き人間だった。「会ってくれるかな、断られるかな」と緊張し、アポイントの電話を入れる。了承が取れると、緊張が解けて、未知の人から話が聞ける、という期待が膨らむ。それは心踊るものがある。

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入梅前の低気温で、沢登りは断念。尾根歩き=川苔山

 6月10日、PJニュース・小田編集長と、二人して奥多摩の本仁田山(1224m)と川苔山(1363m)に登ってきた。
 当初は川苔山の逆川(さかさがわ)の沢登りだった。シャワークライム(頭から水を被る)、泳いで対岸に渡るルートだから、気温が低いと、全身ずぶ濡れになる。冷水では凍えてしまう。
「当日の気温によって決めましょう」という二段構えだった。

 当日は朝から曇り空で、気温の上昇が望めなかった。夕方からは雨の予報だ。
「沢はむずかしいですね」
 ふたりは尾根歩きに変更した。

 奥多摩駅(標高343m)からは町役場の前を通り、本仁山の登山口に着く。山葵(わさび)田が多いから、水はきれいだ。ここから一気に急登。途中、山葵田の農道に迷い込んで、10分ほどロスをした。ジグザグの登山道がどこまでも登っていく。すれ違う登山者は一人もいない。標高差が約800メートルの急登つづきだから、一般には下山ルートとして利用されている。

 小田さんは東大(本郷)、早稲田大の講師もされている。自宅から大学まではサイクリング車で通う。脚力は十二分にある。ふたりはハイペースで登る。多少は息が荒くなっても、PJニュースについて諸々と語り合う。登山者とは山頂まで、ひとりもすれ違わなかった。

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