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『維新志士・新谷翁の話』に、思わぬ所から整合性を発見した

 雑誌「島へ。」に連載「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズの第1回で、新谷道太郎が60年後に明かした、四藩軍事同盟を取り上げた。

『維新志士・新谷翁の話』のなかで、1867(慶応3)年11月に、大崎下島・御手洗町・大長にある新谷道太郎の実家(住職の宅)で、薩摩、長州、土佐、芸州の4藩の主力志士が集まり、軍事同盟を決めた。

 年若い新谷は龍馬から、「60年間は他言するなよ、急ぐと必ず暗殺の危険が身に来るぞ、よくよく注意したまへ」とアドバイスを受けた。当の龍馬が8日後に暗殺された。 13人のメンバーは明治維新になってからも口を閉ざした。
 新谷は昭和11年まで、沈黙を守ってきたのだ。

 新谷道太郎は広島県・大崎下島で、寺の住職の長男として生まれた。実家を飛び出し、勝海舟の門下に入った。勝がつねに供人にするほど、頭脳明晰な人物のようだった。

 私は同書の取材・裏づけを取りに多くの人に会った。昭和の初めに、新谷道太郎の講演を聞いたという人物に出会えた(竹原市在住)。当時の新谷道太郎は90歳だったが、すごく頭の良い人という印象を持ったという。
 子孫の縁戚の方々にも会った。長寿の家系らしく、元校長、住職と80代の年齢を感じさせない、明晰な方ばかりだった。
 新谷道太郎が90歳で残した本には、記憶が確かだろう、と考えた。

 慶応三年ころ、新谷家に得体の知れない人物が出入りしていた、という証言の記録も出てきた。新谷道太郎の話は間違いない、これは幕末史の新たな発見だ、と判断をした。

『維新志士・新谷翁の話』のなかで、ただ、数ヶ所は90歳の老人の自慢話かな、と疑う点があった。

 四藩軍事同盟が結ばれる同年の半年前、根回しの会談が御手洗・大長でおこなわれている。慶応3年3月18日の「桃見の会に龍馬を励ます」という項目の一部を紹介したい。

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「坂本龍馬と瀬戸内海」いろは丸事件、反響について

 隔月誌「島へ。」に連載している「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズで、第2回目は「いろは丸事件」を取り上げた。
 坂本龍馬が船将として乗り込んでいたいろは丸が、備後灘(広島県と香川県の境)で、紀州藩の軍艦と衝突し、沈没した事件である。
 海援隊は脱藩浪人ばかりを集めた集団。一方は水戸黄門ではないが、葵ご紋の紀州藩である。あまりにも、地位が違いすぎる。龍馬はそこから8万3千両の賠償金を取ったのだ。鞆の浦、長崎へと交渉の場が移った。
 龍馬の巧みな交渉術と、その推移を紹介した内容だ。
 多くの方から取材のご協力を得た。私自身は納得できるいい記事が書けたと思っている。一通の感想文を紹介したい。


【読者感想】
「石垣島」が、これだけ詳しく書いてあると、遠いと思った島が少し小さくなりました。
 TVで「龍馬伝」を楽しんでいますので、「坂本龍馬と瀬戸内海」はグッドタイミングです。今回の(いろは丸事件)では、龍馬の性格がよく出ていますね。紀州藩が、執拗に食い下がる、交渉相手に辟易している様子がよくわかります。
 丁寧な取材によるのでしょう。同じ作者で「海は燃える」が新連載! 第1回だけでは「坂本龍馬……」の方に軍配をあげますが、これからを楽しみに待ちましょう。


 取材のご協力をいただいた広島県・教育委員会からも、ていねいな謝意の手紙を頂戴した。そこには 龍馬への見方、文学の発祥地「鞆の浦」という、あたらしい視点が述べられていたので、紹介したい。

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連載・ミステリー小説「海は燃える」がスタート=「島へ」53号

 4月1日発売の、雑誌「島へ」53号で、ミステリー小説の連載をはじめた。
 最近は取材を中心とした、ジャーナリスト活動が多かった。多くの人に会って、いろいろな話を聞く。それらは、いつしか小説の素材になる、という気持ちがあった。

 カルチャーセンターでも、「小説の書き方」の指導をおこなっている。他方で、小説の実作発表は遠のいていた。小説の文学賞は9つある。それを活かして、小説家として、もっと書かなくては……、という意識が常にあった。ときには焦燥感もあった。
 今回の連載・ミステリーで、小説家の道、原点に戻る、という良い機会を得た。

 推理ものだから、内容は省略させていただく。舞台は瀬戸内海の芸予諸島である。どんな事件か……? 

坂本龍馬を美化しない、だからこそ龍馬のすごさがわかる=「島へ」53号

 雑誌「島へ」53号が4月1日に発売された。「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズの2回目となる。今回はいろは丸事件だ。
 龍馬の率いる海援隊の蒸気船・いろは丸(商船)が、紀州藩の軍艦と衝突し、沈没した事件だ。
 海援隊は全国から脱藩浪士ばかり集めた、貿易・政治結社だった。相手は水戸黄門で同じみ、葵のご紋の紀州藩だ。そこから約8万3000両を賠償金として取った。

 衝突回避は国際法で、双方の右旋回を義務づけけられている。このルールを守れば、たがいにすれ違える。しかし、いろは丸は逆に左旋回した。そのために衝突、沈没した。
 
 多くの学者や研究者たちは、「当夜は霧が深く、突然、紀州藩の船が現れた。すでに目と鼻の先といった緊急事態だった。いろは丸は臨機応変に左に舵(かじ)を切った。だから、決して悪くない」という、こんな作り話が主流だった。
 英雄・龍馬が悪い、と書けない雰囲気が脈々と続いてきたのだ。

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38回「元気エッセイ教室」・文章の上達法

 いくら読書しても、多くの名文を読んでも、自分で書かなければ、文章は上達しない。

 文章の上達法は、できるだけ数多く書くことである。ただ、数多く書いても、推敲をくり返さなければ、文章は磨けない。書きっぱなしではダメである。

 推敲の重要性を認識することが第一歩である。文章上達への坂道は「書いて、書いて、書きまくる」、「推敲のくり返し」、この両輪で登っていくことができる。

 日記はいくら書いても、数十年書いても、推敲しないから、文章力は磨かれない。エッセイは読者を対象とするから、推敲が必要であり、文章の修練になる。

 書き上げたばかりの原稿は、自分に甘えている。(独りよがりの面が多い)。読者に通じず、不正確で、流れが悪かったりする。

 一度書き上げたら、大きな声を出して読む。そして、読みながら文章を修正する。ていねいに直したつもりでも、翌日にあらためて見れば、不備があるものだ。2、3日してから、ふたたび推敲する。

 文章の流れ、誤字、脱字など、完璧にできたら、次は「読者に読みやすく、わかりやすく」という面で、推敲する。時間をかけるほど、推敲は完全になる。 

 文章の上手な人ほど、文章の厳しさと恐ろしさを知っている。一字一句も疎かにしない。だから、語彙に対する、注意力が増してくる。

「小説の神様」志賀直哉は、原稿を書き上げてから、いかに催促されても、一ヶ月は手元においていた。推敲をくり返してから、編集者に渡していた。

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「倒幕同盟に芸州」「竜馬の功績に新説」の見出し=東京新聞

 雑誌「旅へ」52号(2月1日)で、私は「坂本龍馬と瀬戸内海」のシリーズもので、「四藩連合の軍事同盟は大崎下島で結ばれた」という記事を書いた。東京新聞特別報道部の記者・秦淳哉さんから、「たいへん興味を覚えました、わが社でも、ぜひ取り上げたい」と連絡があり、快く取材に協力した。


「薩長同盟だけでは江戸800万石の徳川幕府を倒せるはずがない。それに土州(土佐藩)が加わったにしても、ムリである。西日本最大の雄藩である芸州藩(広島)が加わったから、徳川を倒せた」
 私は秦記者にたいして、そのような考えを述べた。
「毛利元就が関が原の戦いで、徳川に敗れた、という積年の恨みが芸州にある。だから、精神的にもすんなり加われたと思う。龍馬には、その辺りの読みがあって芸州に接近したのではないか」と、作家としての想像も語った。


 東京新聞3月21日(日)の朝刊「こちらは特報部」のコーナーにおいて「倒幕同盟に芸州」というタイトルで、見開き2ページで、大きく取り上げられた。


 この四藩軍事同盟の発掘は、1936年発行「維新志士 新谷翁の話」という文献の発見によるものだ。その書物によると、慶応3年11月3日から3日間の御手洗の密議がおこなわれた。大久保利通、桂小五郎、山形有朋、後藤象二郎、池田徳太郎など十数名という、そうそうたるメンバーだ。
 この密議で、四藩が急いで京都に兵糧を送る、と軍事同盟が成立した。(約2ヵ月後には鳥羽伏見の戦いで、徳川軍を破った)


 もし徳川に敗れたとき、この志を誰が後世に伝えるか、という話題が出てきた。皆の年齢を確認した龍馬が、最も若い新谷道太郎を指名した。
「(伝承)責任は君にあるぞ。ただ急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも60年は黙っておれ。60年経てば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出てくまい」
 龍馬は助言している。
 新谷道太郎は60年余、沈黙を守った。そして、昭和に入って、この事実を語ったのだ。


 龍馬は四藩軍事同盟が成立させた、翌7日に御手洗を出発した。8日後の同月15日に、京都の近江屋で暗殺されたのだ。あまりにも悲痛な話だ。
 龍馬が芸州藩を巻き込んだからこそ、徳川幕府が倒せた。四藩軍事同盟こそが龍馬の最大の功績だった思う。この事実をもっと世に知ってもらいたいと思う。
 東京新聞の記事の一節、「歴史を覆す新事実となるか」という秦記者の文章からも、8日後の死という悲劇の龍馬にたいする熱い想いが感じられた。

取材こぼれ話、店名のない美味しい、お好み焼き屋=鞆の浦

 鞆の浦は、瀬戸内海の中心に位置し、江戸時代に発達した、商港だ。帆船時代は潮待ち、風待ちに最適な港だった。

 当時の面影が数多く残る。歴史的、伝統的な価値が高い。鞆の浦港や仙酔島の情景は国内でも最上のものだけに、大勢の観光客でにぎわう。

 医王寺への登り口には、木造家屋の「お好み焼き屋」があった。暖簾(のれん)も店構えもどこか古い。昭和の最盛期に流行っていたような店だ。一見して、観光客あいてではない、とわかる。港に出入りする船員、漁船員たち、それに地場の人たちがお客だろう。

 店内に入ってみた。鉄板の回りでは、地場のおばさん2人がお好み焼きで、昼食を取っていた。昭和時代の雰囲気が読み取れた。
「こっちに座りんさい」
 お客どうしが隣り合わせに座った。

 店主の玉井恵子さんが、鉄板の上で器用にお好みを焼く。彼女の話によると、鞆の浦・元町にはかつて「お好み焼き屋」が7軒ほどあったという。
「この元町では、もう1軒だけよ。うちだけになった」
 バス停近くには観光客あいてお好み焼きはあるけれど、と補足していた。この店を選べてよかったと心から思えた。
 店名を聞いたけれど、特にないと笑って答える。
「はい、どうぞ」
 多めにソースを塗ってもらった。その味が格別だ。

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あなたは、なぜエッセイを書いているんですか?

「元気に100百歳」クラブのエッセイ教室は37回を迎えた。教室の冒頭30分は、講師(私)によるレクチャーである。
 好いエッセイとは良い素材が先か、磨かれた文章力が先か。文章家の間でも、どちらがより重要で優先するか、と意見の分かれるところだ。

 良いエッセイの条件の一つは、すくなくとも文章で蹴躓(けつまず)かないことだ。だから、同教室では文章作法や技法というテクニックの強化を中心においてきた。かなりの成果が得られてきた。

 今回はあえて書く事への原点にもどってみた。「あなたは、なぜエッセイを書いているんですか?」という質問を向けてみた。個々の受講生にはその回答を求めなかった。
 参考になるだろう、3項目をあげてみた。

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龍馬はなぜ大崎下島で、徳川幕府を倒す4藩軍事同盟を推し進めたのか

『島へ』52号に掲載した「坂本龍馬と瀬戸内海」について、読者からの反響があった。いくつか紹介したい。と同時に、穂高の見解で補足してみます。

「これまで、薩長で徳川幕府を倒したと、教わってきました。2藩で倒されるほど、江戸支配の800万石の徳川は脆弱だったのか。東京人としては長い間、悶々としていました。今回の記事で、龍馬が広島を巻き込み、4藩で徳川を倒したといわれると、すっきりした」(植木さん・目黒区)


  芸州(広島)藩は、西日本一の雄である。豊富な軍資金と兵器と物量をもつ。徳川幕府についたままならば、薩長土にとっては大きな障壁となる。巻き込めば、徳川を倒せる可能性がある。重要なキャスチングポートだった。(穂高)


「私は会津出身です。薩長土の3藩はよく思っていません。龍馬が西日本の大きな芸州藩を巻き込んだから、徳川が倒せた。それについては納得できました。会津は犠牲になりましたけど」(鈴木さん・江戸川区)

 龍馬はあえて広島藩・大崎下島の新谷道太郎宅(寺の住職宅)に3藩の主力メンバーを集めたうえで、同藩との軍事同盟を結んでいた。(道太郎述書より)
 芸州藩はその直後、御手洗港から倒幕の軍兵を送り出している、という明確な出兵事実がある。(穂高)


「親父が九州の海運業だったから、瀬戸内航路の特徴は良くわかります。薩摩藩(九州の最南端)、長州(本州の外れの日本海側)、土佐藩(四国の外れ)で地の利が悪い。京の都や江戸から最も遠い藩。薩長土で戦うとなれば、瀬戸内海を通って大阪湾から京都に上がる必要がある。もし、芸州藩(広島)が戦略的に瀬戸内を封鎖したら、3藩は身動きがとれなかったはずです」(東さん・福岡)

 御手洗の周辺は潮流が早くて、汽帆船でも港に入って潮待ちしないと航行できない。芸州藩が薩長土の船を港に入れてくれなければ、兵力は送れなかったはずだ。(穂高)

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かつしか区民大学「写真と文章で伝える、私のかつしか」で野外実習

 表題の講義は昨年11月13日(金)にスタートした。講師を受け持ち、4回目となった。これまでは「柴又学び交流館」の室内で、金曜日の夜の座学だった。
 1月17日(日)は晴天で風は弱く、真冬にすれば、天候に恵まれた。同日は10時~17時まで、葛飾・柴又かいわいで野外活動を行った。

 一級河川・江戸川の土手にはランニングやサイクリングを楽しむ人出が多かった。
此岸の河川敷グランドでは、いくつもの少年野球チームが練習する。対岸には緑豊かな市川市の丘陵が横の帯状に広がる。同市の円い独特の給水塔が童話に出てくる帽子のように見える。上流、下流の鉄橋ではともに電車が行きかう。都会の喧騒とした町並みから開放された、視野の広い快い光景だった。

 午前中は写真の撮り方で、構図を中心とした実技を行う。
「一枚の写真から、説明がなくても、『葛飾』の風景だとわからせてください」 と受講生たちに課した。

 下流の駅舎には「新柴又駅」の表示がある。土手のポールには「海からの距離」、河川敷備品倉庫には「葛飾区施設」と記されている。少年野球のユニフォーム「葛飾」を指し、構図のなかに取り込むようにとアドバイスした。
受講生が一団となって、熱心にシャツターを切る。


 寅さん記念館、山本亭、矢切の渡しなど、葛飾・柴又を代表するスポットに足を運んだ。写真の「キャプション、タイトル」を考えながら撮影し、メモも取るように、と指導する。

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