村上水軍を訪ねて。能島の潮流に生きる、漁師が語る(2)
南北朝時代から戦国時代に活躍した、村上水軍は3家(来島、能島、因島)に別れている。この島を取り巻く海域は、帆船時代は瀬戸内海航路のなかでも最も重要なところだった。村上水軍は制海権を握り、陸上の毛利や小早川など大名と結びついていた。
前期村上水軍の村上義弘(海賊総大将)は、鎌倉時代の後期に、能島(のしま)に居城を構えていた。後醍醐天皇の皇子で、九州大宰府に落ちた、護良親王(もりよししんのう)と結びついて、九州・四国、さらには関西まで戦いの手を伸ばし、百戦錬磨の勢いだった。彼には子供がいなかった。
養子縁組などから、その後は3家に分かれている。(後期村上水軍)
愛媛県・今治市からしまなみ海道を通って、「大島」の宮窪港に行ってみた。小春日和だった。
2キロほど沖合いに能島が浮かぶ。想像よりもはるかに小さな島だった。宮窪瀬戸は干潮と満潮は、とてつもなく激しい潮流を生む。大潮のときは約1mの段差ができる。時速が20キロの激流となる。島全体が天然の要害である。
漁港の宮窪では、漁師の藤森さんが刺し網の漁網(長さ約800m)に『浮き』をつける作業をしていた。藤森さんから、興味深い話を聞くことができた。
この付近の海域は厳しいが、それが却って豊富な魚場になっているという。.
刺し網は、回遊する魚が網に入ると、三角巾に閉じ込められたように逃げられなくんなる。もがくほどに抜け出せなくなる仕掛けだ、と具体的に教えてくれた。
「イカ、タコ、サザエやアワビも、この網に掛かるよ」と、私を驚かせた。貝は夜行性であり、磯から磯に渡るとき、仕掛けた漁網に引っかかるという。