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アジアゾウのカップルが愛の発情・上野動物園=貴重な写真か

 1月12日、冬の上野動物園を訪ねてみた。冬眠に入った熊もいれば、発情期の動物たちもいる。


 アジアゾウの愛の瞬間を観察する機会があった。
 動物の発情は、子どもを産むためのもの。多くは1回で妊娠してしまうので、交尾の光景は数年に1回かもしれない。
 おおかた貴重な写真だと思う。類似的だが、生態として、紹介したい。

        

 園内で、象の檻から奇異な鳴き声があがっていた。これまで聞いたこともない響きだった。足を運んでみた。2頭が体を寄せ合ったり、地面に横たわったり、互いに長い鼻で性器をなめあったりしていた。


 牙を持つ雄が、メスの糞を少しずつ食べていた。求愛のしるしなのか。今度は放尿する。消防ホースから出てくるような勢いだ。

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龍馬の「船中八策」は作り話し。司馬遼太郎もダマされていたのか

 明治・大正時代の土佐の文筆人による、坂本龍馬の関連書物には架空の話が多い。随所に作り話を挿入している。それが後世の歴史的な事実として一人歩きし、司馬遼太郎著「竜馬がいく」においても数多くの下地になっている。

 明治16年、土佐新聞に坂本龍馬の伝記が連載された。タイトル「汗血千里の駒」(かんけつせんりのこま)は、維新のために東奔西走した龍馬を、千里を走る馬にたとえている。

 龍馬が暗殺されてから16年後、維新から数えてもわずか16年なのに、龍馬の最大の功績とされる大政奉還の船中八策(慶応3年6月)が一行も出でいないのだ。
 つまり、土佐藩の夕顔丸で、龍馬が後藤象二郎に、大政奉還を示した内容はみじんも記されていない。すると、龍馬は無関係だったのか。

 いったい、どこから「船中八策」が出てきたのか。船中八策と誰が名づけたのか。
 これは推量だが、どうも千頭清臣著「坂本龍馬」1914(大正4年)らしい。疑う理由として、千頭清臣氏にはゴーストライターがいたことだ。

 田岡正枝氏(土佐出身)が『坂本龍馬は、実は千頭さんから依頼されて僕が書いたものだよ。謝礼として80円もらったが、あれはいい酒代だった』と述べている。ここに注目したい。

 現代のゴーストライターは、著名人(政治家、社長、芸能人)の人物をより大きく見せるために、故意に大きく書いたり、他人の業績を横取りしたり、そんな書き方をする者も多い。

 ゴーストライターの田岡正枝氏が無責任に本が売れれば、酒代が弾んでもらえる、同郷の土佐人として、龍馬を大きく見せてやろうと「船中八策」を作り上げた可能性がある、と私は疑っている。


 司馬遼太郎著「竜馬が行く」で、このところは

『第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく、朝廷より出づべき事』
 この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。

 と記す。
 司馬氏はまさに土佐人の作り話に騙され、龍馬に最大の賛辞を与えてしまった、最大のミステークだといえる。少なくとも、同氏は明治16年「汗血千里の駒」から疑うべきだったのだ。

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目黒学園・講師の新年会は、プロの手作りで豪華

 目黒学園カルチャースクール(西澤明夫社長)では、1月10日(祝日)12時から東京・カトリック目黒教会の教室で、新年会が開催された。出席者は講師陣が89人、学園スタッフが8人が一堂に会した。司会、料理、演出、演奏、実演など、すべてプロ講師だから、豪華な新年会である。

 オープニングは角(すみ)照美さん「和太鼓演奏」で、威勢のよい、軽快なリズムが講師たちを迎えてくれた。
 挨拶に立った西澤さんは、「ふだんは顔を知らない講師の皆さんが、この新年会を通して、仲良くなり、生徒どうしがさらに仲良くなってほしい」と述べた。いつかは生徒を交えた、納涼大会をしたい、それが夢です、と語った。
         

 瀬沼克彰さん(桜美林大学名誉教授)によると、全国にカルチャースクールが数多くあるけれど、講師を集めた新年会はこの学園のみである、と話す。各カルチャーは受講生のダウンから、経営が苦しい。そのなかにおいても、講師の新年会を行なう、講師を大切にする、という同学園の経営姿勢は稀有な存在だろう。
 献立は「懐石料理」講師の入江亮子さんで、美食の日本料理が各テーブルに並べられていた。テーブルに飾られた花は岡田外美枝さんで、「英国式フラワーアレンジメント」講師である。


 手打ちソバの実演は「手打ちソバ教室講師」の関根二三夫さんで、二八ソバ(北海道産の蕎麦粉)が使われた。「ソバを打つとき、1秒の違いが味の違いになります」と説明しながら、全員にいきわたるソバを作ってくれた。

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わがランニング人生は10年、われにゲキを=風景写真と文

 マラソンを始めてから、今年でちょうど10年になる。
 若い頃から登山に熱中し、世の中の登山ブームが冷めても、山が無人化しても、私は単独行で山に登り続けていた。月に3、4回は登っていたが、40代、50代になると、体型が肥満型になってしまった。
毎日の運動をしないと、健康に悪い。その気持ちがつねにあった。自宅からは中川(一級河川)は近いし、ジョギングロードがある。

「1日10キロ走る。降雨は休足の日」
 そう決めてから、中川と荒川の周辺でジョギングをはじめた。川辺は美景の連続で、単調さからの飽きは来ない。
      

 中川の護岸路面には200メートルの距離表示がある。荒川のほうは東京湾からのキロ表示がなされている。ともに、スピードが計れる。そのうえ、双方には信号が1か所もなく、車両の進入もない。走る環境としては、実にめぐまれている。大都会の東京において、ここが最高の練習場だろうと思っている。

次女が国立競技場のマラソン教室に通っていた。父親の私に、マラソン大会に出場しないと、持続できないよ、とアドバイスしてくれた。そこで次女とともに米軍横田基地のハーフ・マラソン(約21キロ)の大会にエントリーした。

 戦闘機がならぶ滑走路の脇を走った。これまで見たことも、体験したこともない光景に深く感動した。走ることがやみつきになった。(登山は急減した)


「フルマラソンのほうが面白いよ」
 これも次女のことばで、勝田フルマラソンにエントリーした。となると、必然的に練習には熱が入ってくる。1日20キロ、ロング走は30~50キロと練習量が一気に増えた。それも、長期に継続できた。

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第45回・元気に100エッセイ教室=読者の脳裏に映像を

 エッセイ教室は丸5年の歳月とともに、45回を通過した。


「45」という数字は、私の脳裏のなかで、1945(昭和20)年に結びつく。この年は東京大空襲、アメリカ軍沖縄上陸、各都市で戦禍の焼け野原、広島・長崎原爆投下、そして終戦、さらには飢餓寸前の食糧難である。
 日本人が有史以来、最も苦しみを味わった年ではないだろうか。

 現代の経営者たちが「いまや未曾有の苦難の年である」という手垢のついた、年頭の挨拶などを述べている。それ聞くと、私は1945年を思い浮かべ、歴史認識の甘さから滑稽になる。        (戦禍の体験は、曾祖父母の時代になってきた)


 今回の講義は、書き手の極意・作法に迫ってみた


 叙述の文章(エッセイ、小説)とは、「読者の脳裏に映像を作りだしていく芸術である」という定義をもっている。これは私の独自の考えで、あらゆる講義で指導要綱の根幹としている。

 文章は映画や写真のように、直裁的に脳裏を刺激できない。だけど、叙述文の技法を高めることで、映像化に近づけられる。文章には強い味方がいる。それはTVや映画とは違い、心理描写という技法があることだ。

 作者が情景(風景、人間など)を描写文で描けば、読者は脳裏で、かつての体験から映像化を行なう。心理描写は、読者の心を直裁的に刺激し、感情移入させる。

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えっ、東京にはここしかない、初詣なの=原稲荷神社

 年末のNHK紅白歌合戦が終わると、途端に、わが家の前の通りには初詣に向かう人の足音が聞こえてくる。12時をかなり回っても、途切れることはない。とくに子どもたちの嬉々とした、正月を祝うというか、興奮した声が1時過ぎまで室内に響いてくる。

 わが家から約20m先の原稲荷神社では毎年、元旦O時から、搗きたての餅が1人3個入りのトレーで配られる。甘酒ももらえる。町内の子どもたちは毎年、それを楽しみにしているのだ。

 わが子が幼かった頃、同伴者として、原稲荷神社の深夜の初詣・餅つき大会に連れて出向いていた。下町の子ども特有の天真爛漫な行動で、大勢が焚き火の周りを走り回っていた。
 当時は詣でる人も少なく、餅も余りぎみだったのか、食べ放題であった。

 同境内はふだん町内の人たちが駅への通り道として利用している。かつて社殿は廃れたような形状で、正月の深夜の餅つき大会だけが子どもの関心を買う、というていどだった。町内の多くのひとは、成田山や浅草寺など人気の寺に初詣に出かけていた。

 わが子はもはや30代半ばである。子育てが終わった私は、原稲荷神社の深夜の持ちつき大会にはここ20年ほど無関心だった。ひたすら、除夜の鐘と足音を聞くだけであった。

 社殿はこのところ手が加えられて小ぎれいになってきた。それでも、私が認識する元旦の風景は、小さな境内は閑散としており、通りすがりの人が社殿に手を合わせるていどである。あえて同神社に足を運んできたとは思えなかった。

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卒業生の熱意で、かつしかPPクラブが発足

 かつしか区民大学が10年度から正式に開校した(主催:葛飾区教育委員会)。数多くの講座、講演のカリキュラムが組まれている。すべて単位制である。

「私が伝えるかつしか」はその一つ。文章と写真の技術を磨き、小冊子の作り方を学び、それを媒体にして「葛飾を発信する」、「葛飾をより知ってもらう」という勉学の講座である。春から秋にかけて延べ8回の講座をもって終了した。

受講生の全員がみずから小冊子を制作できるようになった。記事と写真の基本的なことを身につけたことから、PCの知識さえあれば、ネットでもビジュアルな情報が流せる。今後は葛飾ミニ記者として、大いなる活動が期待される。

 第1回卒業生の有志が今後とも「写真と文章の技量を磨きたい」という熱意から、自主グループの立ち上げに尽力してきた。同教育委員会・生涯学習課の支援もあり、12月16日に、「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)を立ち上げた。登録メンバーは12人。総会が行われて、会則も定まった。

 P=ペン(記事) P=フォト(写真)

 講師として、私が迎え入れられた。そのうえで、第1回研究会の日程が2月中旬と決められた。

 同日は事前連絡で、自主研究の作品が持ち寄られていた。卒業作品に比べると、実力は一段と増し、一つひとつに目を見張った。

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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(2)=明治新政府から嫌われた理由

 広島、呉、竹原、御手洗と歩いてきて、私なりに幕末の芸州史観が生まれてきた。 芸州藩が真っ先に慶喜将軍に大政奉還を建白し、それが成就していたならば、倒幕の主導権の維持ができていたはずだ。
(西郷隆盛の暴走による)鳥羽伏見の戦いなどなく、約260年の徳川時代は無血革命だけで終わっていた可能性がある。世界史でも類を見ない、平和な政権移譲となっていただろう

 他方で、司馬遼太郎・史観にも疑問が深まってきた。
 司馬さんは、薩長同盟(軍事同盟ではなく、京の朝廷工作の協定)が結ばれたから、第二次長州征伐で幕府の敗戦を導いた。それが倒幕への道になったと展開している。
果たしてそうだろうか。
 司馬さんは薩摩びいき、西郷隆盛が好きな作家だ。薩摩の存在をより大きく見せたがる傾向がある。小説だからと言い、下関の出来事を長崎に置き換えたりもしている。

 司馬さんは、薩長同盟が勝敗を決したと主張しているが、それは薩摩の過大評価だと言い切れる。
 第二次長州征伐を決めた幕府に対して、薩摩は早ばやと不参戦を通告した。となると、幕府とすれば軍事立案の段階から、薩摩抜きは折込済みだ。ダメージはほとんどなかったはずだ。
 
「薩摩が抜けても、長州に勝てる」と幕府は確信を持ったから、1866(慶応2年)6月7日に長州攻撃を通告し、蒸気船の軍艦を宮島沖に集合させ、陸の幕府軍を広島に進めてきたのだ。

 幕府軍は戦略において思わぬことが起きたのだ。「さあ、出陣だ」というときに、長州と隣り合う、最前線基地の広島藩の家老・辻将曹(しょうそう)が、老中に不参戦を通告したのだ。
「そんなバカな」と老中は激怒した。

 武器弾薬、食料、水など供給基地の広島が「戦わない」となったのだから、これが徳川全軍の士気を削ぎ、決定的な大打撃となった。
 つまり、火ぶたを切る直前で戦いを止めた、芸州藩の戦線離脱が強烈なダメージになったのだ。結果として、長州が陥落せず、そのうち家茂将軍の死去という、長州側にラッキーな面が生じたのだ。

 司馬さんがいう、「薩長同盟で薩摩の不参戦を決めた、だから長州が勝利した」という見方は、あまりにも薩摩の過大評価。薩摩が途中からでも長州に軍隊を送っていれば別だけれど、それすらなかった。

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芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(1)=原爆の資料焼失ではなかった

 幕末史において、「芸州は日和見主義だ」と批判されている。はたして本当だろうか。大政奉還まで、徳川倒幕の主導的な役割を担ってきたはずなのに、なぜ幕末史から消されたのか。それ自体がミステリーに思える。

 11月には、幕末志士・池田徳太郎の地元である竹原市(広島県)に出むいた。竹原書院図書館で、芸州の幕末史料がほとんどない実態を聞かされた。
「この資料探しは厳しいな」
 そんな思いにとらわれた。
 なぜ、資料がないのか。考えられることは、昭和20年8月6日の原爆の炸裂で、広島城、家臣が住む城下、さらには資料館、図書館もすべて焼けてしまったからだろう、という認識があった。


ここはあきらめずに歩かなければ、史料・資料にはめぐり合えない。

 12月第3週には、幕末・芸州藩の資料を探しもとめて広島、呉を歩いてみた。
 広島県立文書館(古文書収集の公的資料館)では、「芸州藩の幕末資料は希薄ですから、山口、土佐、鹿児島、岡山の周辺から見つけ出してくるしかない手はないでしょう」という、途轍もない遠来なアドバイスを受けた。
 と同時に、広島には幕末・芸州藩の専門的な研究者がいない口ぶりだった。

 次に竹原書院図書館で知りた、呉市(同県)の開業医の郷土史家を訪ねてみた。
「原爆で資料が焼失したけれども、他にも要因があります。広島には帝国大学がなかった。明治から戦前まで広島高等師範だったからですよ」と話された。

 高等師範とは何か。明治時代にできた、文部省管轄の中等教員養成学校で、東京、広島、金沢、岡崎の4ヵ所にあった。とくに東京と広島は大学並みの扱い(学士号)を受けていた(校長になるエリート・コース)。つまり、文部省のお抱え指導者だった。
 
 明治新政府の初代・文部卿は、肥前藩の大木喬任(おおき たかとう)である。肥前藩は尊皇攘夷の藩論すらまとまらず、倒幕の成果などないに等しい。それなのに「薩長土肥」を作り上げた。ある意味で、ねつ造だった。

 その後の文部大臣は長州、薩摩、肥前(佐賀)の出身者がぎゅうじっていた。それが起因して、薩長土肥が長く文部省の指導要綱となった。戦後教育においてすら、歴史教育の場から、薩長土肥が消えなかった。
 

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ノーベル文学賞作家・高行健=国際ペン・東京大会の基調講演

 国際ペン・東京大会の開会式で、ノーベル文学賞作家の高行健さんが基調講演を行いました。講演の概略はすでにメディアで報道されてきました。
 日本ペンクラブの保存資料として「講演録」を書き上げました。全文を掲載いたします。亡命作家や国際ペンの活動など、皆さんのご理解が深まれば幸いと考えます。
                 (穂高健一は日本ペンクラブ広報委員会・委員)


 高行健さんは1940年に、中国・江西省に生まれました。62年に北京外国語学院フランス語学科を卒業し、書店、雑誌社に勤務しました。他方で、執筆活動をはじめました。
 ドイツ、フランスに渡り、90年に天安門事件を背景とした、劇作『逃亡』を発表しました。
 現在はフランスに亡命ちゅうです。中国語で創作した作家として、初めて2000年にノーベル文学賞を受賞しました。


              【基調講演・本文】


 高行健は冒頭にひとつの問題を提議した。
「文学は人類が直面している苦境を救うことができるのでしょうか。自然環境の悪化、環境汚染は加速し、深刻さを増しています。これに対して、作家は何ができるのでしょうか」
 作家は特別な地位も、権力もなく、特権もない。かくも弱い作家が神話やSFの力を借りずに、何ができるのか。
「地球のどこを探しても、汚染を受けていない土壌はないのです。人間は生存にかかわる問題に対して、文学は解決できないのです」

 作家は聖人君子でも、超人でもない。神でも、救世主でもない。文学は人間の苦境を描き、現代人の状況をありのままに描く。この状況をどのように認識するか。それが作家の仕事である。
「作家が政治にかかわれば、政治の飾り物になるか、政治闘争の犠牲になるか、どちらかです」
 作家はいかに利益を超越した、創作活動を堅持する。非常にむずかしい問題であるが、圧力や誘惑に抵抗し、精神の独立を維持するものである。
 20世紀はイデオロギーが氾濫する時代だった。

 共産主義から民族主義まで、さまざまな形のイデオロギーが次々に革命神話を作りだした。文学を利用して革命戦争を盛んに宣伝し、革命指導者を賛美し、革命政党のために賛歌をささげた。
「こうした作品は、いまや紙くずとなり、誰も読もうとしません」
 各地の共産主義国家はいま、西洋の資本主義国家よりも、熱狂的に金銭を追求している。空洞化したロジックの骨組みを残すだけとなった。

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