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学友会は、政治評論家の集団か? 「国民の僕って、何ができるの?」

 5人の学友が、11月21日17時に、京成立石に半年ぶりに集まった。ここは「学友会」のホームグランドである。
 元教授の話によると、「立石は昭和レトルト・ブームで有名になったよ」、TVの紹介番組などが反映(影響?)し、最近は20代30代のグループやカップルが首都圏からわざわざ飲みにきているという。と同時に、個人で飲み屋をはじめる新規店舗も増えていると話す。
 
 立石では最も有名なモツ煮『うちだ』がなぜか3日期間の臨時休業だった。ならば、京成電鉄の線路をはさんだ、鳥の唐揚げ(半羽の骨付き)が食べられる『鳥房』に向かった。ここも超有名店である。
 だれもが考えることは同じで、店先には長い列だった。次なるは京成の線路に沿った、中華料理店「海華」だ。

 同店は厨房の料理人、接客女もすべて中国北部の牡丹江(ぼたんこう)出身者である。「安くて、味がよくて、親切なおもてなし」、それは抜群。横浜中華街に決して負けない味で、値段は半額以下である。
 学友会とすれば、公開したくない穴場だ。

        
 元教授は近況報告として、最近の会津旅行を披露する。飯盛山に行けば、イタリアのモニュメントがあり、長州への憎しみの歴史が薄らいでしまう、と語る。

 話題が幕末史に移った。ヤマ屋が、龍馬の「船中八策」は偽もので、明治半ばになって、土佐人が龍馬と後藤象二郎を大きく見せるために作ったものだという。
 司馬遼太郎著「竜馬は行く」は、原本もない船中八策を盲信している、と語る。他方で、下関長府博物館と国立国会図書館に現存する「新政府要綱八策」こそが、正しい史実だ。それは四藩(薩長土芸)の有力者によって作れたものだ、と持論を語る。

         

 元焼き芋屋が話題の突端として、いきなり次回の学友会は「築地魚市場・内市場にしよう」と提案する。つまり、次回の予定を決めておかなければ、気持ちが安定しないらしい。
「魚の仲買人は最近は一般人にも販売しているよ」
 魚市場は朝が早い。朝8時ごろに行けば、もう残り物の投売り。それでも、アジ一匹という売り方はしていないし、アサリなどはキロ単位だ。このメンバー5人で分配すればよい、という提案をする。
 朝からアサリを持ち帰るのは面倒だ。「一杯飲み屋もある」と元焼き芋屋が誘う。「朝から酒を飲む?」あまり乗り気ではない。却下になった。

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竜馬の「新政府綱領」成立の謎=東京新聞

 東京新聞10月31日(こちら特報部)に、龍馬が書き残した「新政府要綱八策」が見開き2ページで取り上げられた。これまで通説とされてきた『船中八策』には原本もなく、存在にも疑問とする、と見出しで報道されている。


 同社「特別報道部」の記者から、私は10月初旬に取材を受けた。
 
「船中八策」は長岡謙吉(土佐海援隊)が書き留めたというが、原書とか、写しすらも存在しない。明治半ばに、最初の龍馬ブームが起きたとき、だれか物書きが、土佐の龍馬と後藤象二郎の業績を大きく見せるために創作したものだろう。
 船中八策は龍馬が書いたように見せかけた、まずは偽物だろう、という見解を示した。

 一方で、慶応3年11月に作成された「新政府要綱八策」は、龍馬の肉筆であり、実名でもあり、国会国立図書館、下関市立長府博物館に原書が残っている。こちらはまさに本物。内容からしても明治憲法の草案である。
 トップ(総理)には誰を据えるか。合議したが決まらず、龍馬はOOOと未定としたのだろう、と推察できる。

 同月15日に龍馬は暗殺された。半月間しか生きていない。この事実から絞り込めば、「新政府要綱八策」の合議の場所が特定される、と話した。

 新谷道太郎著『新谷翁の話』によると、同年11月3日から6日、龍馬が薩長土芸の影響力ある藩士(木戸考允、大村益次郎、大久保利通、後藤象二郎、船越洋之助など十数名)が広島県・大崎下島(御手洗)を集めて密議している。これとぴたり一致する。

 大政奉還の後だし、四藩の軍事行動だけでなく、新政府の憲法をどのようにつくるか、トップを誰にするか、と龍馬主導で話し合った可能性がかなり高い、と説明した。

 その条文を見ると、上院・下院の二院制とか、海外との為替通貨の制定とか、天皇の近衛兵を設けるとか、欧米の憲法を下地にしている。
「船中八策」は龍馬が儒学者の横井小南、大久保利翁(幕閣)の影響を受けて作成したといわれてきた。しかし、その内容を見るかぎり、海外に出向いたことのない儒学者や幕閣の着想ではない。その現物はないし、存在そのものもあやしいかぎり、という否定の根拠の一つとした。

 同記事の一部を紹介すると、

『船中八策は原文書が存在しないことに加え成立過程を詳しく記した資料も乏しい。研究者の一部には竜馬の関与はもとより、存在を疑問視する見方もある。
 幕末研究を続ける作家の穂高健一氏も「竜馬一人で船中八策を発案したとの説には無理がある。新政府のあり方を決めるには、有力諸藩の武士が集まって話し合う機会が必ずあったはずだ」と主張している。』

「新政府要綱八策」の現物をもつ下関市立長府博物館の学芸員の見解なども示し、2ページの記事として、大きく展開されている。

かつしか区民大学「私が伝えるかつしか」講座が8回終了

 かつしか区民大学が今年度から開講した。目標は区民の学びと交流による、「ひとづくり、まちづくり」で、主催は葛飾教育委員会。そのなかの一つ「私が伝えるかつしか」に、私は講師として迎えられた。受講者17人で、5月からスタートし、10月22日に8回シリーズを完了した。

 同講座は、市民の目で葛飾区内の情報を発信していく、ミニ記者の養成である。主として上手な写真の撮り方、上手な文章の書き方、取材の仕方が3本柱となった。


 6回は夜7時からの2時間の講義だった。他の2回は課外活動で、6月は花しょうぶが盛りの水元公園、9月は介護老人保健施設「青戸こはるびの里」、青砥神社の例大祭に出むいた。当日は朝10時に集合し、夕方5時まで、写真撮影の実習と取材の実践を行った。

「綺麗だから写真を撮る、といった撮影から卒業してほしい。伝えたいものがきれい、汚いは関係ない」
 主役と脇役を意識して撮影する。
「人間は人間に感動するものだから、写真には人間を取り込む」
 ポイント1ヶ所では7つの角度からシャッターを押す。そして一つを選びだす。こうした約束事を通して、技量を高めていった。

 受講者には毎回かならず宿題を与えてきた。各人はまずテーマを決める。そのうえで、区内を歩く。講座から学んだ写真撮影、取材の技法を駆使していく。そのうえで、記事にしたり、写真エッセイにしたりして、提出してもらった。提出率は驚くほどで、ほぼパーフェクトだった。
 それを細かく執拗に添削し、返却し、次の作品へと役立ててもらった。数回にして、撮影技術、トリミング技術が向上し、人物がど真ん中に座る、日の丸写真などは皆無になった。

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中国政府は、ノーベル賞の受賞者が大嫌いか?

 今秋は、中国人のノーベル賞に関心をむけていた。日本ペンクラブの広報委員活動の一環で、それを身近に感じる機会が連続していたからだ。

国際ペン東京大会の開会式が9月26日、東京・早稲田大学の大隈講堂で開催された。基調講演のひとりが中国人作家の高行健さんだった(写真・右)。高さんは天安門事件の後、中国にもどれずにフランスで作家活動をしている。2000年にはノーベル文学賞を受賞している。

「文学は政治・イデオロギーを越えたものである。作家には権力や特権はない。創作によってのみ、苦境の社会状況下を描き、(政治)圧力に抵抗することできる」
 高さんは冒頭から、中国には思想の自由がない、という痛烈な批判を感じさせる内容だった。

 同東京大会の最終日に、国際ペンのジョン・ラルストン・ソウル会長および日本側の阿刀田高会長ら代表が、外国人記者クラブと国内記者会見に臨んだ。
 世界中に、獄中につながれた作家・詩人は多い。国際ペンはそれら解放を要求し、家族の支援も行なっている。


         
   (ジョン・ラルストン・ソウル会長、9月30日、外国人記者クラブ)

 ソウル会長から、「一時間ほど前、日本にある中国大使館に、作家・詩人の劉暁波(リウ・シアオポー)氏の身柄拘束を解くように。同時に、中国の言論・表現の自由と民主主義の拡充を図るように、と声明文を渡してきました」と語った。
 劉さんは懲役11年の実刑で服役している。中国の言論・思想の自由と、基本的人権を求める、非暴力の闘いを行なっている、という説明がなされた。

 劉さんは2010年ノーベル平和賞のノミネートされていた。10日後にはその結果がわかる。中国政府の神経は逆立ち、同賞委員会に内政干渉だと批判を繰り返していた。
 ノールウェーでは、最終選考の段階だった。この時期に、国際ペンのソウル会長みずから中国への抗議を示し、世界中にそれが発信されたならば、ノーベル賞の選考にも影響するのではないかな、と記者会見の場で取材しながら、私なりに考えていた。


 10月8日、劉さんの平和賞が決定された。獄中の彼に、どのようにノーベル賞が伝えられるのか。いまの中国のノーベル賞批判を見るかぎり、釈放どころか、授賞式にも参列させないだろう。

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国際ペン・東京大会2010開会式(2)=奄美高校民族演劇部

国際ペンは各国にPENセンターをもつ。その85カ国、200人の文学者・作家が集まった。民族、文化を越えた人たちが一堂に会した。「言論・表現の自由」「戦争に反対」を求める世界的な団体である。


オリンピック、万博、国際ペンの開催は、世界の主要都市のシンボリックなものとして捉えられている。

東京大会の開催式が9月26日に開催された。イベントで、ノミネートされたのが、唯一、鹿児島県立奄美高校の演劇部だった。早稲田大学・大隈講堂に約1000人の前で、民族演芸を披露した。


迫力満点で、一気に観客を魅了した。



女子高校生の魅力的な踊りと歌は、南国・奄美を身近に感じさせた。


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国際ペン・東京大会2010の開会式(1)=挨拶・基調講演

 国際ペン東京大会が25年ぶりに開催された。開会式は9月26日に東京・早稲田大学の大隈講堂で開催された。
 私は広報委員として、開会式の写真撮影と、ノーベル賞作家・高行健さんの基調講演の記事・記録を担当した。
 
 多彩なイベントもあり、写真紹介します。


阿刀田高会長(第15代)が挨拶に立った。最初の東京大会は川端康成会長、2回目は井上靖会長に続く3回目である。


国際ペンのジョン・ラルストン・ソウル会長の挨拶。テーマ「環境と文学」は文学者にとって、今後は一層重要な課題になると述べた。(上)

伴野豊(バンノ・ユタカ)外務副大臣が来賓挨拶を行なった。「政治家にとって、作家は怖い存在です」と話す。(下)

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継続とは力なり=文学をめざす後輩につなげる

 今年の春だった。日本ペンクラブ総会のあと、恒例のパーティーの合間(準備中)に、伊藤桂一さん(日本芸術院会員)と出久根達郎さん(直木賞作家)とがソファーで歓談されていた。ともに知るので、私は伊藤桂一の挨拶で割り込ませていただいた。
「やあ、元気でやっているようだね。君はいつも忙しそうだ。『グループ桂』に顔だせたら、おいで」
 伊藤さんからは、もう30年ほど続く同人誌(純文学)への参加を促された。私はその発起人の一人だったが、いまは足が遠のいている。
 しかし、伊藤さんはなおも継続し指導している。

「伊藤先生は、私の恩師で数十年にわたり、小説の指導していただいたんですよ」
 私は、出久根さんに簡略に説明した。
「えっ、そうなんですか」
「最初は、(文章、小説ともに)下手だったよ、君は」
 といつもの調子で、伊藤さんは笑いながら話されていた。

 伊藤先生の口癖はもう一つ、「いずれ芥川賞か直木賞と期待していたが、君はあれこれやるから小説に集中できていなかったな」という話しをされる。
 そうだろうなと思う。いまの私は、伊藤さんが推薦してくれた日本ペンクラブにおいて、広報委員会、電子文藝館の各委員をやっているので、多少は納得、理解してくださっているようだが……。

 伊藤さんは93歳になられても、同人誌を通した後輩指導を行なっている。他方で、著名な文学賞の選考委員もやっていられる。その情熱には敬服している。
        
       (クループ桂の合評会、2008年11月3日、東京・秋葉原)


「私を育ててくれた、伊藤先生の恩返し」という意味合いもあって、各所でエッセイ教室、小説講座、ブログ講座、さらにかつしか区民大学などで、講師として教えている。
 貴重な時間を割かれるし、負担になるときが多々ある。そんなときは「超多忙な伊藤先生が指導してくれたから、いまの私がある。ボクも、後輩に恩返しするべきだ」と自分に言い聞かせている。

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国際ペンの事務総長に、日本が立候補。歴史的な快挙になるか

 8月23日、日本記者クラブ主催で、国際ペン・東京大会の記者会見が開催された。日本ペンクラブからは阿刀田高会長、浅田次郎専務理事、吉岡忍、堀武昭、各常務理事が参加した。
 国際ペン(本部・ロンドン)代表者会議は、年一回、持ち回りで開催されている。ノーベル文学賞作家など著名な作家が数多く参加する。
 オリンピック、万博、国際ペンの3つを開催して、はじめて国際都市だといわれたりする。それだけに世界的に注目される国際会議である。


 同大会が日本で開催されるのは、1956年(川端康成会長)、1984年(井上靖会長)、そして今回で、各25年ぶり。現在までの参加予定は81ペンセンターで、さらに申し込みが増える見込みで、過去最大の大会になる。
 今回は常連の欧米をはじめとして、紛争国だったアフガン、イラン、イラク、カンボジアなど注目すべきペンセンターも参加する。

 代表者会議は国連総会のようなもので、会議そのものはメディアを含めて、一般はオフリミット。
 他方で、日本ペンが「環境と文学」フォーラを開催する。8月23日~26日、早稲田大学・大隈講堂。(無料・事前申し込み制)

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司馬遼太郎の幕末史観はどこまで正しいのか?(1)

 幕末に活躍した坂本龍馬は、慶応3年に暗殺された。一度は歴史上から消えた人物である。明治半ば、皇太后の夢枕に立って、「日露戦争はわしが勝利させる」と龍馬が語ったという。それが新聞で報じられてから、第1回目の龍馬ブームが起きた。

 2度目は、昭和40年代に、司馬遼太郎「竜馬がいく」が産経新聞に連載されてから、大きなブームがきた。
 3度目は今年で、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が大ヒットしている。

 龍馬は、受取った手紙をその場で破棄していた。とくに薩長同盟のあと2年間は、討幕への地下活動が活発になり、資料が少ない。史料や資料がなければ、作家の憶測、推測が入ってくる。龍馬の人物像は、作者によってずいぶん違っている。

 たとえば密議の場所として、龍馬は御手洗港(広島県・呉市)を利用している。(新谷道太郎・証言より)。どの手紙にも、一行も御手洗の明記がない。
幕府方に手紙が渡れば、重要な機密の場所が露呈してしまう。当然といえば当然である。

 8月19日(木)夜6時から1時間半、横浜国立大学OBの「二木会」で、私は講演を行なった。タイトルは『ほんとうの竜馬像』である。

「いま龍馬ブームで、司馬遼太郎「竜馬が行く」の作品が多くの人に読まれています。歴史的な事実だ、と考え人があまりにも多い。同書はあくまで小説です。虚実が入れ混じっています。司馬氏はあえて『竜』としています。これは実際の龍馬と違う、フィクション小説だ、という逃げ道を作ったからです」
 その辺りを取り上げて説明させてもらった。

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「薩長同盟」がまたしても、NHK「龍馬伝」と同タイム

 隔月誌「島へ。」で、私は「坂本龍馬と瀬戸内海」シリーズを書いている。8月1日発売の同55号では、龍馬の最大の功績「薩長同盟」をとりあげた。サブタイトルは、「幕府の心臓を突き破った 龍馬の知力と解決力」である。

 同1日(日)に、NHKの龍馬伝の放映を見た。龍馬が薩長同盟に動きはじめたところで、私の作品とドンぴたりだった。
 先の54号の同シリーズで「龍馬とお龍~命をかけた夫婦愛~」も、龍馬伝では京都の2人の出会い場面だった。まわりからは「グッドタイミングですね」といわれた。

 私は逐一、龍馬伝を見ているわけでもない。むしろ、影響されないように避けている。月に一度ていど、それも小時TVをのぞき、どの辺りかな? と確認するていどである。

 薩長同盟の取材で、下関市長府博物館、広島大学、京都などを訪ねたのが3月、4月だった。執筆に取りかかったのは5月からだった。
 その頃、TVはたしか勝海舟の神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)あたりだった。その流れからすると、龍馬伝の薩長同盟は8月だろうな、とは読んでいた。

 今回のTVは、龍馬が長崎に亀山社中を作り、中岡慎太郎が手がける薩長同盟に乗りだしていた。私はもう薩長同盟を書き終わっているし、執筆に影響されないし、この日は最後まで観た。

 下関に出むいた龍馬が桂小五郎に、犬猿の仲である薩長の和解を勧める。他方で、中岡が薩摩から西郷隆盛を下関に連れてくる約束だった。
 西郷が瀬戸内海に入ると、ドタキャンして大坂に向った。薩摩への不信感の強い桂が、怒り狂う。そして、翌週へとつづく。

 私の読者から、「龍馬伝のTVの先取りですね」とすぐさま反応があった。

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