明治・大正時代の土佐の文筆人による、坂本龍馬の関連書物には架空の話が多い。随所に作り話を挿入している。それが後世の歴史的な事実として一人歩きし、司馬遼太郎著「竜馬がいく」においても数多くの下地になっている。
明治16年、土佐新聞に坂本龍馬の伝記が連載された。タイトル「汗血千里の駒」(かんけつせんりのこま)は、維新のために東奔西走した龍馬を、千里を走る馬にたとえている。
龍馬が暗殺されてから16年後、維新から数えてもわずか16年なのに、龍馬の最大の功績とされる大政奉還の船中八策(慶応3年6月)が一行も出でいないのだ。
つまり、土佐藩の夕顔丸で、龍馬が後藤象二郎に、大政奉還を示した内容はみじんも記されていない。すると、龍馬は無関係だったのか。
いったい、どこから「船中八策」が出てきたのか。船中八策と誰が名づけたのか。
これは推量だが、どうも千頭清臣著「坂本龍馬」1914(大正4年)らしい。疑う理由として、千頭清臣氏にはゴーストライターがいたことだ。
田岡正枝氏(土佐出身)が『坂本龍馬は、実は千頭さんから依頼されて僕が書いたものだよ。謝礼として80円もらったが、あれはいい酒代だった』と述べている。ここに注目したい。
現代のゴーストライターは、著名人(政治家、社長、芸能人)の人物をより大きく見せるために、故意に大きく書いたり、他人の業績を横取りしたり、そんな書き方をする者も多い。
ゴーストライターの田岡正枝氏が無責任に本が売れれば、酒代が弾んでもらえる、同郷の土佐人として、龍馬を大きく見せてやろうと「船中八策」を作り上げた可能性がある、と私は疑っている。
司馬遼太郎著「竜馬が行く」で、このところは
『第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく、朝廷より出づべき事』
この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。
と記す。
司馬氏はまさに土佐人の作り話に騙され、龍馬に最大の賛辞を与えてしまった、最大のミステークだといえる。少なくとも、同氏は明治16年「汗血千里の駒」から疑うべきだったのだ。
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