春の郊外を歩く、大震災を考える=作家として、何をなすべきか
東日本大震災から、約1ヵ月たった。日本人が一つになって、復興・復旧へと向かいはじめた。とはいっても、いまなお暗い雰囲気が漂う。
メディアは相変わらず、政府関係者や東電をバッシングし、妙に利巧ぶっている。為政者を攻撃しなければ、知的集団ではないと、ジャーナリストたちは勘違いしているのではないか。そんな想いが強くなるばかりだ。
今回の大震災の発生後から、私はどこかジャーナリストでなく、小説家として自分を置きたいと考えている。そんな自分を意識している。
東京・仙台までの新幹線が開通した。被災した現地に足を入れようかなと考えた。いま出向いて、暗い報道ばかりを伝えても、大手メディアの二番煎じになるだけだと思い直した。
状況が落ち着いた頃、ジャーナリストでなく、小説家として被災地に出向きたい。被災地で、人々が経験した「人間とは何か」という根幹を求めて現地を回ってみたい。
単に事実の伝承、報道の上滑りでなく、災害時の人間の本心、本音、思考をさぐり出したい、浮かび上がらせたいというものだ。
4月末の晴れ間を狙って、東北には向かわず、初めて目にする千葉県・柏市の郊外を歩いてみた。近郊農家もある。あけぼの山農業公園もある。
田畑や花や土地の匂いを感じながら、いま文学は何をするべきか、何を書き残すべきか、と考えてみたいと思った。
2008年2月、日本ペンクラブ主催の世界フォーラムで、「災害と文化」が行われた。国内外の著名な作家たちの作品が紹介されたり、朗読されたりした。
大自然はある日突然、巨大なエネルギーで人間に襲いかかる。人間は為すすべがない。脆弱な姿をさらしだすしかない。
人間が自然災害と立ち向かったとき、いかに弱いものか。そのなかで、人間は何を考え、どんな行動をするか、それらが作品化されていた。
人間は自然災害を制御、防御、コントロールできる。そう信じるのは人間の驕(おご)りだと、多くの文学者・作家たちは語っていた。
予想も、予知もできない。人間の思慮を超えたりするものだ。
災害を被った直後、人間は何を考え、どんな行動をとり、どんな希望へと結びつくのだろう。
希望が得られない人は絶望になる。