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P.E.N.メンバーが『昭和の町』葛飾・立石の探求

 「昭和の町」葛飾・立石は、下町の風情がたっぷり残る。8月9日、日本ペンクラブのメンバー7人が集まった。同日は30度を越す、猛暑。気温が高い午後3時に京成立石駅の改札に集合した。

 古い町なみの探索、歴史研究、さらに人気急上昇の居酒屋での飲み会。それらが楽しみで、遠方から集まってきた。
メンバーは吉澤一成さん(事務局長)、井出勉さん(事務局次長)、清原康正さん(会報委員長)、相澤与剛さん(広報委員長)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、それに私である。

 女性作家2人はすでに町中を散策してきたといい、汗をたっぷりかいていた。
「暑い、まず軽くビールといこう」
 清原さんが即座に口火を切った。
 繁盛店『うちだ』では、暖簾の外に数人が待つ。こんな時間でも、客が並んで待っていると、驚嘆していた。開店前は20人ほどが両サイドの出入り口に並んで待っていますよ、と教えた。

 店内接客は最上だ。5分ていど待つうちに、7人一同が一つテーブルに着けるように、上手に席を作ってくれた。「モツ煮」は柔らかくておいしい。野菜類がまったく入っていない、とそれぞれが評している。  一皿180円X皿の数=支払い代金。男性が壁面の早見表に関心を寄せていた。
「初めて、モツ煮を食べたわ」という山名さんは、みんなからお嬢さん育ちだな、と冷かされていた。


 仲見世商店街から散策が始まった。手作りの惣菜屋がならぶ。一軒ずつ覗き見る。衣料品店が多いね、と感心していた。人形焼屋、煎餅屋などは手作り自慢だが、時間帯が遅く、どこも火を止めていた。

 薬局屋の壁面には、昭和史の写真が掲げられている。昭和史のビジュアルな研究になる。みんな強い関心を寄せて見入っていた。「このあたりは新潟に疎開していたんだな」「小学校の古い校舎は懐かしいな」「戦後の台風で、こんな被害状況だったんだな」という声があがる。

 一級河川「中川」に向かう。堤防よりも、民家が低い。「ゼロメートル地帯だけに、洪水になると大変ですね」と井出さんが案じていた。東日本大震災で、大津波が記憶に新しい。東京湾に津波が来難いけれど、水門はどうなっているのですか、という質問もあった。平井水門は5メートルくらいですかね。
 三浦半島断層も指摘されている折だけに、下町住民の安全度をも測っていた。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ③=日本写真協会

 文章が上手ですね、と褒められても、私は別段、嬉しいとも思わない。しかし、写真を褒められると、本当ですか、と身を乗り出すのが常だ。
「穂高さんの写真は何を伝えたいか、いつも、はっきりしていますね」
 PJニュース仲間の新聞社勤務の人から、そう評されたことがある。私の写真はテーマがはっきりしているんだな、と理解した。もう4ほど前である。

 小説やエッセイなど文章作品と、写真とは実によく似ているな、と思う。良い文章は無駄なところが削ぎ落され、圧縮・省略の技術が冴えているものだ。写真も同様。ムダな物体や空間を削ぐほどに、密度の濃いすばらしい作品になる。

私はかつて水晶岳の山小屋新築工事現場に出向いた。そこで撮影した写真は、北アルプスの峰々の遠望と相俟って、誰彼に撮れない、珍しい写真だという思いがあった。「峻岳の新築」というタイトルをつけて、ある大きな写真展に応募してみた。入選作品になった。

 後にも先に写真の応募をしていないから、私の写真の実力はわからない。それでも、プロのジャズ歌手のコンサートや、元宝塚歌劇団メンバー「炎樹」から、舞台撮影を頼まれるので、喜んでカメラを持って出かけている。

 私の写真は独学である。ブックオフなどで写真雑誌100円を数冊まとめ買いをしておいて、文筆の一間に読んで学んでいる。
 それだけでは限界がある。写真の専門家に出会うと、つねに「写真の上達法」を聞くようにしている。つまり、耳学問である。

 PJニュース・小田編集長とは一時、高所の山によく登った。小田さんはジャーナリストの観点から、三角形、S字型など構図を中心に教えてくれた。
 同メンバーの池野さんは大きな写真展の審査委員でもある。「良い写真をたくさん見ることですよ」とアドバイスしてくれた。それはどの写真家も異口同音に語る。

「観る機会と、学ぶ機会を増やす」
 その目的から、東京都写真美術館に記者登録をさせてもらった。企画展の案内がくるので、時間が許す限りでかけている。同館の学芸員や著名な写真家みずから、撮影技術、苦労話、テーマに対する説明などが聞ける。これは勉強になる。

 素人とプロとの違い何か。あるとき不意に、学芸員の説明から、著名な写真家や有名な作品には『人物には動きのある』とわかった。それ以降、その視点で観ているが、大半が当たっている。ひとつの法則の発見かもしれない、とかつてに解釈している。

 あるパーティー会場で、田沼武能さん(日本写真家協会・会長)から話を聞くことができた。かつて写真技術は大学の写真学科で学んだものだ。現在はカメラがやってくれる。だけど、写真には上手、下手の差が出る。
 上達するステップとして、「良い写真を真似しなさい。それを売ってはダメですが、真似から上達します」、「主役と脇役を明確にしなさい」と話された。

 写真を学べる環境に身を置く。それには専門家がいる団体に所属し、身近に写真家を感じることだと思い、公益法人日本写真協会に入会した。2年前である。


 2011夏(445号)の表紙は奇抜である。写真は森村泰昌さんの作品で、平成23年「日本写真協会・作家賞受賞」されている。

 同賞・功労賞を受賞された、福原義春さん(東京都写真美術館・館長)に聞く、というインタビュー記事「存在感のある美術館をめざして」が読み応えがあった。一部、同館の村尾知子さんの口添え。

『皆さん苦労されて、よくぞ、ここまで盛り上げたな』と、つよく胸にひびく内容である。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ②=日本ペンクラブ

 2011年の夏に、松山市に行ってみた。一度は道後温泉に張ってみたい。単純な気持ちだった。夏目漱石の「坊ちゃん」で有名である。

 浴槽には「泳ぐべからず」と表示されていた。まさに、明治時代に、漱石が体験した、その通りである。
地場の60代のやや酩酊したオヤジさんが、話好きで、誰かまわず2、30代の青年に話しかけていた。「どこから来たね」と問われて答える旅人は、大半が東京だった。そして、職業を訊いた上で、オヤジさんは人生訓というか、啓蒙的な話する。

 私にもお鉢が回ってきた。面倒なので、「今治の亡父の墓参り」だと応えていた。
 松山市内はいたるところで「坂の上の雲」が観光一色となっていた。駅にも、松山城にも、繁華街にも、お土産屋にも、四方見渡しても、司馬遼太郎「坂の上の雲」を大々的に、売れ出している。
 浴槽のオヤジさんが、それを話題にしておいた。

「ボクは司馬さんの軍人・英雄視の思想は嫌いだよ。西郷隆盛からはじまり、日清戦争・日露戦争の大将たち・軍人たちをとてつもなく巨大化している。韓国侵略を考えた西郷、それ以降の思い上がった軍人たちの思想が第二次世界大戦を導いた」
「あなたの職業は?」
「想像に任せますよ。司馬さんの執筆の底流にはその批判がない。うがった読み方をすれば、戦争賛美であり、戦争抑止の思想に欠けている。司馬さんは二等兵から戦争を見ることができない、作家だよ。悪いね。松山にきて、司馬さんの悪口を言って」
 ふだん思っていることがストレートに出てしまった。


 道後温泉の浴槽のやり取りを思い浮かべながら、日本ペンクラブ「会報」を読みはじめた。

 国際ペン専務理事に就任した堀武昭さんに聞く。「サンフロンティア(国境なき)という言葉が好きです」というタイトルが目に飛び込んだ。
 私は「国境なき子どもたち」からも、何度か取材したことがある。その取材情景をも重ね合わせて一気に読んだ。

 堀さんの言葉を引用すると、『サンフロンティア(国境なき)という言葉が好きです。国境なき医師団、国境なき記者団……、国境なき文筆家というのもあると思う。男だからとか女だからとか、どういう教育を受けたかとか、お金があるなしとか、そんなことに関係なく、人間の尊厳を全員で分かち合える、国境なき組織、上下のない組織、アナーキーなことだけれど、国際ペンでそれができたら、画期的なことですよね』と理想を語っている。

「国際ペン専務理事になると、ノーベル平和賞の授賞式に招待されているそうですね」
 インタビュアー(広報委員・鈴木さん)の質問に答えて、航空運賃は自分持ちですけどね(笑い)。
 誰にでも気さくに語る、堀さんらしいな、と思った。

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ①=日本山岳会

 8月の夜は、夕顔が一晩の白い花を咲かせている。夕涼みの情緒として、この上ないものがある。ひとたび、床に入り、クーラーも扇風機も使わないとなると、寝苦しい。
 寝つけないときは、強いアルコールを少量だけ口にし、ふたたび寝床に入る。成功すればよいが、身体がかえって火照って寝られず、失敗したな、と思ってしまうこともある。

 この夏の真夜中だった。1時間も、2時間も、脳細胞が寝ってくれない。聖書でも読めば、数分で寝られるだろう。信仰心がないので、『般若心経』(はんにゃしんぎょう)も含めて、その類のものは何もない。何を読むかな、と思いを巡らせた。

 春から夏場にかけて、所属団体の年会費の支払いがつづく。各総会には極力出席を心がけているが、送られてくる会報はほとんど読まない。あるいは読む時間がないので、積読になっている。会報編集者の努力はわかるだけに、申し訳ないと思う。
 会報支払いの、この期間に限っていえば、「万単位の会費を払っているのに、勿体ないな」とも思う。そんな気持ちもあり、
「一度、所属団体の会報を読んでみるかな。一ヶ所、ひとつの会報を」
 と寝床から立ち上がり、電気を点け、書斎から目にした会報を持ち込んだ。床に腹ばって、どれから読むかな、と思案した。

 日本山岳会は100年の歴史をもった団体である。2011年の通常総会は、東日本大震災の翌3月12日で参加できなかった。6月18日も参加できなかった。
 会報『山』7月号には、総会は5時間半の審議を経て、定款変更を承認とあった。会員の質問が多い総会が、例年は2時間ていどだから、5時間半となると、議論はかなり紛糾したな、もめたなと推量できた。

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盛夏の阿波踊り・本場の徳島に近づけ=東京・神楽坂

第40回 神楽坂まつりが開催された。

阿波踊り:2011年7月22日(金)・23日(土)/19:00~21:00、盛大に行われた。


    

    日没とともに、踊り手の一段がやってきた。

   

   阿波踊りのグループは、都内の団体を中心として、各地から集まっている。
     ネーミングも、それぞれ地域の特徴が出ている。

  

    神楽坂まつりのサブタイトルは、「浴衣おいでよ」
    沿道の観客には、浴衣姿の若者が目立った。



 東日本大震災の被災者激励の阿波踊り大会でもあった。

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原発を完全廃絶しても、寄港する原子力潜水艦事故のリスクは残る

 日本人はフクシマ原発事故から何を学んだのか。難解な原子物理学が、国民にも平たく理解できたことだ。原子炉が稼動していなくても、炉心を冷やし続けなければ、水素爆発を起こして大災害になる、とわかった。これだけの知識は将来を見通す上で、重要だ。

 一部報道によると、福島第一原発に押し寄せた、津波の高さは約14メートルだったという。原発の防潮堤は遥かに下回る5.7メートルでしかなかった。その結果、津波は原子炉の冷却装置を壊し、炉心部が解けるメルトダウンにまで及んでいる。

 東電は一方的に問題視されている。だが、マグニチュード9.0規模の大津波の予知、予想能力があれば、フクシマ原発はそれに見合った建設設計がなされていただろう。地震学の権威者すら、大津波の規模を予想できなかったのだ。いまさら東電を責めても仕方ないことだ。ただ、原発「安全神話」は崩れたことは確かだ。

「過去から原発には警鐘を鳴らしていた」
 そう発言する人が竹の子のようにメディアの前に現れた。そして、東電バッシングをしている。東電の利権にまで批判が及ぶ。なかには、放射能汚染によって何年も、何十年先までも、廃墟の町になる、と恐怖を煽りにあおっている。

 1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下された。市街地は完全破壊された。大勢が死んだ。と同時に、残留放射能の濃度は高かった。
「広島には100年間、草木は育たない」と言われたものだ。翌月から、広島の復興に大勢の人が入ってきた。原爆ドームの周りは植物も育ち、水も浄化されてきた。数年にして、完全廃墟の町を再生させ、西日本最大の都市にまでなった。
 福島原発事故の惨状がまだ収束していない。フクシマ原発の冷却装置が正常に戻れば、周辺住民の復興は早まるのではないだろうか。それは広島・長崎の経験から推量できる。

 脱原発の意見が飛び交う。環境にやさしく、人体に無害な代替エネルギーはあるのだろうか。水力発電のダムは山岳地下水を遮断し、山を破壊している。火力発電所は大気汚染に悪影響を与える。風力発電は地域住民の体調不良が報告されている。ソーラーシステムはコストと発電能力に問題がある。

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30年来の小説仲間と語る。同人誌「クループ桂」の合評会に参加

 同人誌「グループ桂・64号」の合評会が7月13日、千代田区立和泉橋出張所・区民会館で開催された。私は数年ぶりに出向いた。

 同誌は、昭和50年代半ばに、講談社フェーマス・スクール「小説講座・伊藤桂一教室」で学んだ受講生が1985(昭和60)年に立ち上げたもの。私は発起人の一人だった。
 日本文壇の重鎮・伊藤桂一氏(直木賞作家)も、発足に関わってもらった。

 私は30号くらいまでは作品を掲載していたが、その後はわが道をいくで疎遠になっていた。合評会は、数年に一度くらい。


 伊藤氏は全64号に作品を掲載し、約26年間に及ぶ。93歳の高齢だが、なおも合評会を通して小説指導を続けている。伊藤氏は現在も、国内の著名な文学賞の選者でもある。それだけに、同人誌の講評も鋭い。


 同人は「小説講座」で学んでから、筆歴が30年余りの書き手ばかり。読み手も学んだベースはおなじ。それぞれが遠慮のない意見を述べる。作品に対する意見も、反論も、釈明にも目線の高さが同じだから、理解も早い。
 このように永年にわたり、切磋琢磨してきた筆者だけに、同人誌の質の高さにおいては国内でも最右翼だろう。

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推理作家の新津きよみさん、葛飾・立石を歩く

 新津きよみさんは売れっ子の推理作家だ。彼女の作品の多くがTVドラマの原作になっている。現在執筆中の推理作品のなかで、指名手配犯にかかわる女性の住まいを東京・下町にしたいという着想があった。
 それを聞いたので、葛飾・立石を勧めた。レトロな町で人気があるし、夜の街は若いカップルも多く、『昭和の町』といわれている。これまで、日本ペンクラブの方々を立石に案内すれば、皆さんはずいぶん気に入っていますよ、とつけ加えた。


 新津さんとの話し合いで、6月14日(火)の午後3時から、立石取材の同行を決めた。と同時に、夕方5時からは新津さんのファンとのミニ懇親会をセッティングした。

 待ち合わせ時間に京成立石駅に出むくと、彼女は早めに来て、すでに駅周辺の繁華街を歩いていた。それならば、町なかの案内はカットし、一級河川の中川に架かる本奥戸橋に出むいた。途中で、手焼き煎餅屋に立ち寄った。
 本奥戸橋は古い鉄骨構造だ。近代的な橋にはほど遠い。ところが都内とは思えないほど、この地点は七曲りの蛇行で風光明媚だし、東京スカイツリーが近くに見える。下町の新名所である。そんな説明をした。
「TVロケも使えるわね」
 新津さんは、すでにテレビ化を視野に入れていた。

 駅近くに戻り「葛飾区伝統産業館」にむかった。火曜日は休みだった。下町職人の技と工芸品の展示があり、交代制でつめる職人がみずから工芸の手法から製品化まで説明してくれる。新津さんには絶好の素材だと思ったが、残念だった。

 作中の「指名手配犯にかかわる女性」の住まいはどこにするか。彼女は思案していた。

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小さな奇遇が、3つも連続=ご近所から、徳川家茂と和宮の謎まで

 日本写真協会(東京・千代田区)の総会に出席した。2011年4月1日に、同協会は公益社団法人に認可された。
 宗雪雅幸会長をはじめとした執行理事は、安堵の表情で、総会に臨んでいた。事業報告、決議事項とも、会員からは質問も、反対もまったく出てこない。すべて挙手で、原案通り可決だった。

 文芸関係や山岳関係の総会では、質問が立て続けに出てくる。日本ペンクラブなどは発言者が多く、議事の進行が止まってしまう。それら荒れる総会を知るだけに、写真の会員はおとなしいな、と妙に感心してしまった。

 写真はカメラを被写体に向けて、目と心で語りかけて撮るものだ。口は必要ない。そんな勝手な解釈で、自分を納得させた。

 この総会のさなか、右横の席から、不意に肩をたたかれた。鈴木幸次さんだった。
「これはまた奇遇ですね」
 ふたりの驚きの言葉だった。議事進行中だったから、それだけの言葉だった。

 昨年末には、わが家に一枚の展示会の案内・はがきが届いた。鈴木さんが同会に入会し、名簿を見ると、極々近いところに、私の住居(葛飾区)あると知り、連絡してきたものだ。日程の都合がつかず、展示会には参加できず、そのままになっていた

 約半年が経った。
 2011年6月1日の『写真の日』のレセプションで、私が会員のネームプレートから『かつしか写真クラブ』主幹を見つけて、声がけをしてみた。
「よくわかりましたね」
 鈴木さんが感心していた。
「葛飾区東立石で、わずかな番地違いで、同じ会員とは奇遇ですね」
 ふたりはともに住居の場所を確認し、あまりの近さに驚いていた。 

 鈴木さんは、山岳写真からスタートし、現在は花とポートレートだという。私も略歴を語り、一気に親しい会話となった。

 それから半月後、この総会で真横に座っていたのだ。まさに奇遇に思えた。
 総会終了後は、懇親を深めるために、「お茶しましょうか」と誘った。1階の写真展をのぞいてから、近所の喫茶店に入った。

 鈴木さんが主幹のクラブは会員が約20人、月2回の会合を開催している。構図が中心の指導だという。作品提出は数枚だが、300枚近くを出す方がいると聞いて驚かされた。
「数多くの枚数を撮ったうえで、絞り込むのも能力の一つなのに……。それができない方なんですね」
 そんなコメントをさせていただいた。

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Pops Singars Festial vol.1=写真で楽しむポップス①

沢村まみさんはソロシンガーとして活躍されている。兄には、曲家の著名な・中島安敏さん、姉には故・澤村美司子さんをもつ、音楽一家に育った。、


「Pops Singars Festial vol.1」が、5月30日に東京・赤坂の草月ホールで行われた。


パティオイカウイイさんは、ハワイのシャーマンが名付け親です。プレスリーに憧れで、16歳で世界に飛び出す。


世界的な交流イベントに数多く参加する。レパートリーはポップス、ジャズから、民謡、童謡まで、幅広い。


由紀 真さんは俳優座養成所10期生です。活躍の場はTV、ラジオ、ショー、CMなどと幅が広い。浅草ジャズコンテストの常任審査委員です。


舞台のスポットライト
歌手たちの豪華な世界を演出しています。

さが ゆきさんは5のときに歌手になろうと決めた。84年には中村八大グループの専属歌手になってから、8年間在籍した。

現在は、海外公演も多い。

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