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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(上)

 日本ペンクラブの月例会では毎回、ミニ講演会が行われている。11年9月例会では、吉岡忍・専務理事よる題目『被災地を歩いて』の講演と、企画委員会である杉山晃造さんの「三陸被災地の写真」が展示された。
 吉岡さんは、3.11の東日本大震災が発生した直後から現地に入り、岩手、宮城、福島など数十ヶ所の市町村を歩いてきた。と同時に、多くのメディアを通してさまざまなレポートをしてきた。


「発生から半年経った今、20分でしゃべるのは難しい」と前置きした吉岡さんは、被災地と文学との関連について話をされた。

 今回の震災では、約1万5千人が亡くなり、五千人余りが行方不明となった。その内訳がなかなか表に出ず、詳しい調査が進んでいない。
「漁師さんとか、漁業関係者とかで亡くなった方は意外と少ないのです。たぶん1割いるか否ないか。犠牲者はどういう人だろうか。港の後ろ側で、飲み屋、ホテル、住宅がある、町場(市街地)の人たちが犠牲になっています」
 大地震の発生が昼間だったことから、働いている人は一斉に逃げている。あるいはあまり犠牲者が出ていない。他方で、組織的でないところに居る人、高齢者に多くの犠牲者が出ている。

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戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(4)

 木戸孝允は、吉田松陰の皇国の思想を受け継ぐ、長州藩の外務大臣役だった。
 日米通商条約など海外の各国との条約は、形だけでも天皇の勅許を必要とした。尊王思想の志士たちはそれを逆手にとり、天皇の勅許を阻止させる行動に出た。

 幕府は天皇の勅許が欲しい。徳川幕府の目がごく自然に、京都・御所の天皇に向かってきた。つまり、江戸中心だった政治が京都に移ってきた。長州・木戸孝允は功労者の一人である。

 ところが、会津と薩摩が仕掛けた8.18クーデターから、長州は7人の公家たちとともに朝廷から追い出だされてしまった。
 京都に残って政治工作をする木戸は池田屋事件で、新撰組に命を狙われた。禁門の変でも、かろうじて逃げ延びた。それでも京都に残った木戸は、ホームレスに身を扮して情報してきた。
 艱難辛苦の髄にいた木戸は、諸悪の根源は会津だと最も憎んでいた。これは事実だ。

『長州藩は過去からの憎しみで、会津藩士の死骸の片付けを翌年まで認めなかった』と福島在住ジャーナリストが堂々と書いている。
 白虎隊の武将姿ガイドなども、観光客相手に「少年たちの死骸を片付けさせてくれなかった」と説明する。
 会津城が落城したあと、新政府軍は本当に埋葬を許しなかったのか。

 修羅場をくぐってきた木戸は、知的判断力に富んだ人物だ。彼が会津を強く憎んで、仕返しを考えていたにしろ、「死体を片付けさせるな」という指図(法令)を出すとは思えない。

 その疑問を持ちながら会津を歩くほどに、埋葬禁止令の物証などない(2011年までに発見されていない)し、死体が野犬やカラスに食べられている史料も絵画も見当たらなかった。

 長州の主力の奇兵隊は、河井継之助の長岡藩に手こずり、会津城の攻撃に間に合っていない。そんな長州藩から「死体を片付けさせるな」という命令が下せる状況にはない。会津との降伏交渉は、土佐の板垣退助だった。板垣も、埋蔵禁止令など出していない。

 実際はどうだったのか。
「死骸が市街地とか、峠とか、範囲が広く、会津藩だけでも数千人の規模と膨大過ぎた。勝者の新政府軍から片付けはじめたのです。現在もその墓地があります」と研究者は語る。

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戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(3)

 第二次長州征伐の長州は一藩で、全国の諸藩を集めた幕府軍と戦った。そして勝利している。戊辰戦争の会津軍は、米沢、仙台、庄内、桑名藩など奥羽列藩同盟軍だったが、破れた。この違いは何だろうか。

 会津藩の身分制度はことのほか強く、戦いは武士で行うものだと決めていた。農兵は殆どいなかった。
 長州の場合は高杉晋作たちが農民など区別なく募集し、奇兵隊を作った。そして、藩の主導権を握った。かれらは西洋的な散兵戦術(狙撃隊)で訓練された部隊である。少人数で、大勢の徳川軍に襲いかかれたのだ。

 会津藩の家老たちは、保科正之の時代から二百年余に渡る世襲制度だった。それら家老たちがトップとなり、会津盆地の出入り口となる4ヶ所の峠をそれぞれに固めた。火縄銃と、槍と刀による、戦国時代からの戦法の踏襲だった。
 武士道、会津魂だけで戦う、時代遅れの戦法だった。

 戦略面でも、会津軍政局は4ヶ所の峠を固め過ぎていた。城下や城周りの防御があまりにも手薄で、老人と少年たちだけで、無防備に近い状態だった。

 薩摩、土佐、長州など、西の各藩を結集した新政府軍はライフル銃を使い、西洋式の訓練を受けている。会津の峠を打ち破り、一気に会津城下に流れ込む。会津藩はまったく防御の手立てがなく、逃げ惑う婦女子や少年たちが大勢犠牲になった。ここに会津の悲劇が生まれたのだ。

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第52回・元気100エッセイ教室=語尾には敏感になろう

 エッセイ作品は小説と違って、限られた文字数のなかで、人生を上手に描き出す必要があります。その枠組みのなかでも、書き手によって短い作品、長い作品、と得意分野が違ってきます。短距離ランナーと長距離ランナーと似た体質の違いです。


 読み手も同様です。短くてシャープな作品が好きとか、多少長くても、じっくり味わえるほうが良いとか、それぞれです。
 いずれにしても、エッセイはストーリーよりも、文章の深みと味わいがより重要になります。

 人間の行動や心の動きは、ほとんどが動詞で表現されます。日本語の場合は、動詞が語尾にきます。
 作者はすぐれた作品を書くためにも、ワンセンテンスごとに、語尾に敏感になる必要があります。ふだんの何気ない言動や感情でも、語尾の動詞を上手に変化させていけば、魅力的な文章になります。


【今講座のレクチャーは、語尾の工夫と留意点です】


 ①体言止めは味付けの無い文章になり、素材・情報だけの提供です。

    ・危険だ、と彼は背を丸めた姿勢。
      ⇒ 危険だ、と彼は背を丸めて身構えた。

   ・私は姉と妹の三人兄弟。
      ⇒ 私は姉と妹の三人兄弟で仲がよかった。

   ・話の途中で、彼は相づちばかり。
      ⇒ 話の途中で、彼はうなづきばかりで、心の中がわからない。

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戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(2)

 長州と会津の敵対関係は、関が原の戦いにさかのぼる。毛利(当時・広島)が徳川に敗れた。毛利には徳川家を嫌い、260年余り倒幕思想が脈々と流れていた。そこから考える人もいる。

 一般的には、会津の悲劇は松平容保(かたもり)が京都守護職を引き受けたときからはじまったといわれている。
 当時の京都は尊皇攘夷の旋風が吹き荒れ、テロリストたちが横行していた。治安と御所の警備をつかさどる京都守護職(きょうとしゅごしょく)には、リスクが大きク、どの藩も敬遠していた。しかし、その権限は大阪にまで及び、強烈なものだった。


 会津藩の家老たちは反対した。しかし、藩主の容保は保科正之の家訓(かきん)を忠実に守り、引き受けた。(第一条・徳川家の危機には忠誠を尽くせ、という趣旨)。

 その実、松平容保は松平春嶽たちに口説かれて引き受けている。容保は小藩から会津藩に養子にきた人物だ。京都守護職は魅力的で、強い権限で自分を大きく見せたかったのかもしれない。保科正之の家訓は後付という見方もできる。

 長州と会津の憎しみの発端は、会津が薩摩とともに謀った「7卿の都落ち」で有名な8.18クーデターである。さらには新撰組による池田屋事件で、長州藩士たちは殺戮された。それが一つの発端となり、長州藩は武力をもって京での勢力奪回を図り、上京してきた。

 御所で会津軍と衝突した。五分五分の戦いだった。夕方、薩摩軍と芸州軍が駆けつけてきた。長州軍は発砲しながら敗走した。(蛤御門の変)
 長州藩は有能な人材を大勢亡くしたうえ、屈辱的な朝敵にさせられたのだ。

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炎天下でも、意欲がいっぱいの課外活動=かつしか区民大学

 9月18日(日)は陽射しが強く、気温が30度を超す、真夏日に戻った。帽子を被って歩いているだけでも、汗が噴きだす。
 かつしか区民大学・主催は葛飾教育委員会の「写真と文章で伝えるかつしか」第6回の課外活動が朝10時から夕方5時まで実施された。炎天下で四つ木と亀有に出向き、意欲的な取材活動が行われた。

同講座は区民がみずから地元情報の提供ができる、ミニ記者の養成講座である。講師は穂高健一、受講生は20人。年間8回にわたる講座を通して、
  ①取材の仕方、
  ②報道写真の撮り方
  ③記事の書き方
 この3点を学ぶ実践講座である。

 昨年の卒業生は「かつしかPPクラブ」を立ち上げ、区内で活発な活動を展開している。

 通常は夜7時から9時まで2時間。提出作品の講評を通した指導を行っている。うち2回は1日を通した課外活動で、写真取材・インタビューを実践している。前回は6月に、堀切菖蒲園・しょうぶ祭りで行われた。


 今回の参加者は17人。午前中はアポイントのある取材活動である。
 シャッター街となった葛飾・四つ木で、町の再生・活性化を目指す、ユニークな取り組みを行う「ミルクショップワタナベ」の社長・渡辺浩二さん(42)への取材である。

 葛飾・四つ木の往年は荒川の海運の荷揚げ場で、千葉方面に物資を運ぶ基地として栄えていた。奥戸街道の両側には、多種多様な商店が延々と並んでいた。複数の映画館も、病院も、娯楽施設も、飲食店も多くあり、同区内では最も活気ある商店街だった。

 昭和40年代からトラックで物資が運ばれる陸路の時代になると、四つ木は急に衰退した。現在はその7割が店舗営業を停止している。まさにシャツター街の町だともいえる。
 同ショップの渡辺社長から、森永牛乳の配達屋さんから脱皮した、その経緯の説明がなされた。「老人の孤独死に気づかず、牛乳を配達し続けていた。死を知ったときはショックでした。何で、気づいてあげられなかったのか、と」、コミュニティーに取り組んだ動機を話す。

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作家の素顔、日本ペンクラブ・9月例会で出会った人たち=東京會舘

 日本ペンクラブ9月例会のミニ・講演会で、会員を前に、タイトル『被災地を歩いて』を語る、吉岡忍さん(専務理事)。このHPでも近日中に、講演録を紹介したい。

 杉山晃造さん(左)は企画事業委員。東日本大震災が発生した後、被災地に入った。取材写真がパネルで同会場に展示された。
 吉岡忍さんがインタビューアーになって、一枚ずつ、写真の説明を求めた。

 下重暁子副会長の質問に答えて、杉山さんは撮影時の現地状況などを語る。


         

 高橋千劒破さん(常務理事、元人物往来社・編集局長)は、つねに総合司会役で、PENの顔の一人である。
 穂高は10月度にある講演会で、「会津の悲劇」について話す予定。高橋さんから今、戊辰戦争の会津関係の知識を授かっている。先週も故早乙女貢邸で約2時間半も単独レクチャを受けた。

 パーティー会場でも、「会津の資料を、明日、FAXで送ってあげるよ」とさらなる親切を頂いた。


 関東大震災の被災地の惨事、原発に対する、PEN・文学者はどう向かい合うべきか。
 会員はみんな真剣に語り、聞き入る。

             

 山名美和子さんは会報委員で、すっかりPENの名カメラマンになられた。歴史作家の彼女には、早大後の教師歴を質問してみた。
 小、中学、高校、と3つの教師を経験したと話す。「そんなことができるの」というと、その仕組みについて語くれた。


 東京會舘はカレーライスが名物である。
 相澤与剛さん(広報委員長・時事通信出版社の元常務)は、いつも両手がユニークな表情を作ってくれる。被写体としては、とても価値ある人だ。
「お願い、頂戴、カレーライスを」こんなキャプションを考えてみました。


       

 清原康正さん(会報委員長・文藝評論家)は、同志社大出身である。
「再来年のNHK大河ドラマは新島八重(新島襄の妻)で、同志社も脚光を浴びますね」
 私が話しを向けると、満更でもない顔だった。そして、・会津落城の折、八重が銃で戦った話になっていた。
 口の悪い作家が、脇から、「ドラマはきっとヒットしないよ。新島襄じゃ」と水を差していた。

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歴史ファンは必見、故早乙女貢さんの邸宅見学と文化サロン=鎌倉

 読書の秋である。木々が色づく紅葉が近づいてきた。初秋から晩秋にむかう鎌倉は魅力がいっぱいである。

 故・早乙女貢さんは歴史・時代小説の大作家だった。(2008年12月23日に没)。その邸宅では、ほぼ毎月1回、「鎌倉文化サロン講演会」が開催されている。2010年7月からスタートし、約1年間で17回開催されてきた。主催は「士魂の会」(佐藤会長・8人のメンバー)で、定員は30人(事前申し込み制)。なんと無料である。

 早乙女貢さんは直木賞作家で、文士の町鎌倉を愛し、執筆に励んだ。歴史小説の大作『会津士魂』(全21巻)で、吉川英治文学賞を受賞している。

                            生前の早乙女貢さん
                             (撮影:鈴木康之さん、2008年2月15日)                                           

 早乙女文学とは何か。薩長が作った歴史観に異議を唱え、見直しを説き、それらを様々な作品群に描き込んでいる。

 講演会のメイン講師は、生前の早乙女さんと親交の深かった、高橋千劒破さん(『歴史読本』編集長、編集局長を経て、日本ペンクラブ常務理事)と清原康正さん(文藝評論家・同理事)である。

 

 敗れた会津から歴史を見ると、江戸時代の平和国家(一度も国内外で戦争をしない)が、明治以降は軍事国家に変えられてしまった。(西南戦争の後は、10年毎に外国と戦争を引き起こす、戦場はすべて海外だった)。

 260年間も戦いのなかった徳川幕府を倒した、薩長の権力者たちは、京都御所の明治天皇を遷都もせず、江戸城に移して閉じ込め、神化した。その上で、何ごとも「天皇のお言葉だ」と捏造し、それを利用して強欲、私欲に走った。その一つが、政治家と軍部がともに利権と利益を得られる戦争だった。


 明治天皇はみずから考え、言葉にし、それを発したものなどほとんどない。「教育勅語」すらも、天皇自身の思慮でなく、薩長の人物が都合よく天皇利用で創作したものである。それを国民に押しつけ、天皇の名の下に、戦いで尊い命を捨てさせた。


 会津側の敗者から見れば、これら薩長の欺瞞の本質が見えてくる。敗者の史観から、日本近代史を見ることも大切である。(講師の説明より)

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寝苦しい夏の夜長に、「会報」をよむ・シリーズ④=シニア大樂

 シニア・ブームの最先端をいく。あるいは口火を切った、それがシニア大樂だろう。
 団塊の世代が60代を迎える。その数年前の、2003年4月に同大樂が発足している。当時から、4大新聞などメディアに、団塊世代の先駆け、指針になると、数多く取り上げられてきた。むろん、いまなおである。

 田中嘉文理事長から発足時の話を聞いた。「シニア・ライフ・アドバイザー」資格を持ったメンバーが、ハワイ大学の加齢学セミナーに出席した。(米国では進んだ学問)。帰国後、呼吸の合った男女6人が、われわれは何ができるか、と半年ほど語り合ったという。
「60歳で赤いチャンチャンコ」という日本人の感覚を打ち破り、欧米並みに豊かな心になれる人生を創りだそう。そういうアドバイザーになりたい。

 リタイアした人は残る人生を有意義に過ごしたい、企業のなかで培われた能力や才能がこのまま廃ってはもったいない、という気持ちがある。それを引き出し、生かす、その手立てのアドバイスをする。
 シニア大樂が立ち上がった。すぐさま、「出前講師をやろう」という藤井敬三副理事長の発案で、同大樂に講師紹介センターが生まれた。

 一般的に、民間の講師斡旋業者に派遣講師を依頼すれば、2時間で数十万円が相場である。なかには100万円台の超著名人もいる。多くはイベントで招かれる。聞き手は「○○」の話しを聞いたよ、見たよ、という自己陶酔に終わってしまう。

 シニア大樂の幹事は、次世代の人たちが安く学べる講師陣を揃えよう、幅広く知識を提供しようと考えた。そこで2時間・数万円で出向ける人材を募った。それがヒットした。
 9年目にして登録講師は500人を超えている。国際空路のパイロット、大使、大手企業の管理職、真打の落語家、建築士、高級官僚、アナウンサーなど枚挙に暇がない。


 同大樂では、【シニア大樂ニュース】を発行している。夏の寝苦しさのなかで、開いてみた。
 講師陣の大道芸人、落語家、手品師などがシニア演芸団 「演多亭」を立ち上げ、毎年、定期公演を行っている。今年の7月7日は6回目を迎えた。文京シビックホール370人の定員が満席で、当日券も売切れだった。
 2011.8.1の第32号には、メインタイトルが『七夕の笹揺れ、演多亭シビック公演大盛況』である。
 第1部は、ヘブンアーティストのオンパレード
 第2部は、落語と漫談とマジック
 公演の成功ぶりを熱く報じている。

 穂高健一ワールドでも、【寄稿・写真】これぞ、熱演・芸人たちの顔=滝 アヤで写真紹介している。

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