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吉岡忍さんが明治学院大学で講演『3.11を考える』、そして懇親

 「ペンの日」懇談会(11月26日、東京會舘)で、佐藤アヤ子さん(明治学院大学の国際平和研究所教授)と吉岡忍さん(日本ペンクラブ専務理事)のふたりlが語り合っていた。同月29日、吉岡忍さんが同大学で『~3.11を考える~』に90分間の講演をする、という話題の最中だった。
 そこに、私が入り込んで挨拶した。
 

 佐藤さんから「聴講にいらっしゃいませんか」と誘われた。
「どんな内容ですか」
「平和学講座(秋学期)の授業です。国際平和研究所が受け持つものです」
 佐藤さんがコーディネーターとして、自他の大学から平和学研究者、外国大使館の大使・公使、作家などを講師として招き、「3月11日を考える」というもの。14回のシリーズの一つとして、吉岡さんが90分間の講演するという。吉岡さんは3.11が発生した4日後から、東北の被災地に入っている。

 私とすれば、3.11がこの先の執筆活動のメインテーマだけに、即座に身を乗り出した。

 明治学院大学(港区・白金台)の訪問は初めてである。吉岡忍さんは待合室で、学園闘争時代、この大学には何度か足を向けたと語っていた。教室に立てこもる男女が別々のフロアで寝泊まりしていた。他大学は男女が雑魚寝だったと、懐かしげに語っていた。

 同月29日午後2時45分から、吉岡さんの講座が始まった。講師の吉岡さんは知名度が高く、世相に対してシャープな切り口だけに、大教室いっぱい約300人の学生が集まった。ボランティア活動で現地に入った学生も多く、より関心度が高かったようだ。
 
 
 吉岡さんはまず鴨長明「方丈記」の無常感から入った。古来から、日本人と災害は切り離せいないと言い、3.11の被災地で目撃した悲惨な状況、瓦礫の凄まじさなどを生々しく語りはじめた。
「これまで、外国の被災地を数多く見てきました。3.11の被災地に入り、瓦礫を見たとき、外国と比べて、日本人はなんて物持ちだろう、と思いました」
 箪笥から衣服が飛び出す。それが水にふやけて3倍になる。それにしても、膨大な物量の瓦礫だったという。そのなかに遺体がうつぶせになっていたし話す。

 2万人が一度に死ぬのは、戦争以来にはあり得なかった。
「助かった人の話もたくさん聞きました。津波で流される屋根に乗った人が、写真を撮っていた。生死の境にいて、思いのほか冷静なんです。3月の冷風の風よけに、流れている発泡スチロールを採り、かぶつていたが、気を失った。意識を取り戻した時、収容されていたそうです」


 60代女性が流される家のベランダにいた。部屋に戻り、衣装ケースから服を出して着替えをはじめた。いつもの習慣で、窓にカーテンを閉めた。

「津波のさなかですよ。誰も流される家の中を見ていない。パニックにならず冷静に着替えているんです。この方は家が突堤にぶつかり、そこで降りて助かった。こういう冷静さもあるんです」

 三陸には小さな半島や小さな浜の集落が数多くある。漁師たちは漁船、漁網、カキやホタテの養殖いかだも津波でなくしてしまった。日本人の食生活は、さんま、カキなど水産業の季節にも大きく関わっている。こうした文化の基盤も失った。

                    佐藤アヤ子さん(明治学院大学・国際平和研究所教授)


 漁師たちは家族、友達を亡くし、生活基盤を失った。失ったものは大き過ぎた。若者たちは「もう一度やろう」という気にならない。ところが、20~60才代の女性10人ほどが浜に出てきて、カキの養殖に必要な、ホタテ貝の穴をあけ(カキの種付用)作業を始めた。茫然自失男たちはそれを見て、やる気を出したと聞きました、と話す。
「女性の力はすごい」
 吉岡さんは強調した。
 
「被災者は、とかく災害弱者と見られがちです。弱者ではない。生産手段をなくした漁師は、いまを生き延びるために、天然のワカメを採りはじめました。それを塩漬けにして、細々ですが、出荷しています。強く生きようとしている。弱者じゃない」

 漁師たちは一国一城の主である。漁具、漁網は高価なもので、所有者が決まっている。津波で散らばった漁具を集めてくる。津波で残った船を使い、沖に漂う『浮き』(一つ3万4万円する)を集めてくる。「数年間は、『自分のものだと主張しないようにしよう。共有物にして使おう』と決めたのです」
 被災地が共同体として連携と、人間のつながりで復興しようとする。

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伝統ある日本山岳会に、13歳の女子中学生が新入会員

 日本山岳会は1905(明治38)年に発足し、100年以上の歴史がある。同山岳会は1956(昭和31)年5月9日にマナスル(8163m)初登頂に成功した。日本人がヒマラヤ8000m級の初登頂を成し遂げたと言い、日本中に登山ブームを起こした。

 現在でも、同会は日本登山界のリーダーである。一方で、会員の高齢化が進み、若返りが大きな課題となっている。

 日本山岳会の晩餐会が12月3日、東京・品川プリンスホテルで開催された。全国から会員が約500人参加した。皇太子殿下も(一般会員として)出席された。

 尾上昇会長が挨拶のなかで、「少子化が進んでいる世の中ですが、若返りを含めた、会員の増加への策に取り組んでいきたい。数は力です」と述べた。


 11年度の新入会員36人が壇上で紹介された。代表挨拶が中学1年生の三上マリモさん(宮城県、13)だったことから、会場にどよめきが起こった。

 三上さんは壇上の代表スピーチで、「5歳の時に、親に連れられて岩木山に登り、山が大好きになりました。オボコンベ(標高約400m・宮城)で岩登りに興味を覚えました。将来は剣岳に登りたいです」と、しっかりした口調で、数々の登山歴と、将来の登山活動への抱負を語った。

 彼女はさらに「将来は雪の山にも、キリマンジャロにも、ヒマラヤにも登りたいです、山に関する幅広い知識を学びたいです」と堂々たるスピーチだった。
 皇太子殿下もテーブルからにこやかに聞き入っていた。

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熱唱する魅惑の歌手たち・第4回澤村美司子音楽賞(下)

           YOKO 『イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング』

 長野県出身です。スタンダードから、ポピュラー、ボサノバまでレパートリーが広い歌手です。とくにバラードは原曲の詩とメロディーを大切にする、その歌唱法を支持するファンは多い。

           演奏 大西敏明シックステッド

           altsax 加藤 朝雄


           石橋みどり 『ロスト・アラウンド・ミッドナイト』

東京都出身、独協大卒です。こんかいの第4回澤村美司子音楽賞で、みごと優秀歌唱賞を受賞しました。JAJの国際線スチュワーデスになって、欧米を回るうち、ジャズボーカルの魅力を知り、やがでプロデビューしました。

           財津 光子 『マイ・ウェイ』
            
 1930年に広島で生まれる。64年に東芝からデビューしましたが、交通事故で声が出なくなりました。70年に復帰後、病を乗り越えて、計3回のメキシコ公演を行っています。
 2011年には歌手生活60年の記念ライブを行いました。


           由紀 真 『ザ・シャドー・オブ・ユア・スマイル』

 俳優座養成所10期生です。ソフトな歌いくちで、スタンダードから、ソウル、ポピュラーまで、幅広く活躍されています。TV、ラジオ、ショー、CM、CFと多彩です。

           有 桂 『オールモスト・ライク・ビーイング・イン・ラブ』

第4回澤村美司子音楽賞で、特別奨励賞を受賞しました。
京都外国語大学の軽音楽部に所属し、学生プロとして、関西のライブハウスに出演しました。卒業後は、音楽活動をしながら、英語教師の仕事にも従事しています。

            旗 照夫 『イッツ・ア・シン・トゥ・テル・ア・ライ』

 1933年、東京生まれ。都立日比谷高校卒業後から、ラジオ東京(現・TBS)の歌番組で、ジャズからデビューしました。
 本格歌手になってから、紅白歌合戦には7回出場しました。江利チエミ、美空ひばりなどとね芝居、ミュージカルに多数出演されました。
 あまい歌声はいまも健在です。

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熱唱する魅惑の歌手たち・第4回澤村美司子音楽賞(上)


第4回澤村美司子音楽賞の授賞式が、2011年10月20日に、東京・渋谷区のけやきホール(古賀正男音楽博物館)で開催されました。主催はJapan Pops Singars Asspciatio (J.P.S.A)です。


今年のメインテーマは、東日本大震災の復興を願って
「君は一人じゃない」
私たちは祈っています。 あなたの幸せを


                       YUKO  『夜明けの歌』


東京大学を卒業後、メーカー勤務から一転し、公認会計士の道を行く。超多忙の日を送るが、ボイストレーニング、ライブ、そしてボランティア活動を行っています。
J.P.S.Aの主力メンバーです


                      弓 のり子 『翼をください』


弁護士秘書を務める傍ら、JTプロダクション所属のプロ司会者です。

2010年6月ラスベガスのガリブ氏と、師匠である中島安敏作曲の『恋の別れ道』『京都の夜』をデュエットでCDをリリースしました


               新井夏実、中野由美子、村石保子 『ドリーム』    


               中島 えりな

シンガーソングライター。1995年にTVアニメ「ウェディングピーチ」の主題歌でデビューしました。2009年から新たなパフォーマンスを取り入れるために、定期的に渡米しています。
2010年に、ラスベガスにおいて、CDレコーディングやジャズフェスティバルに出演しています。

歌唱のみならず、作詞、作曲も手がけています。


                   中島 えりな

2011年に、米国・ワシントンのソングコンテストにおいてオリジナルソング『エトランゼ』が最優秀賞を受賞しました。

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第53回・元気に100エッセイ教室=紀行エッセイの書き方

 江戸時代は日本橋から京都まで、「東海道五十三次」を徒歩で行く。一日中歩いて、まず品川宿に着く。旅籠で宿泊し、翌日も次なる宿場町・川崎にむかって足を運ぶ。53日間がすべて晴れている、それはあり得ない。風雪を考えると、旅人は大変な苦労をしたと思える。


 毎月1回の作品提出のエッセイ教室が53回を迎えた。(8月と12月は休み)。5年以上も、「次は何を書くかな」と頭はつねに休む間もなく、考え続ける。

 講師の私からは、「病気、孫、自慢話し」は書かないでください。そんな条件付きだから、書く材料・素材が枯渇した気持ちにも陥ったことだろう。

「楽にすらすら書かない。隠したいこと、伏せてきたこと、恥部を描くように。苦しんで書く」という付帯条件もある。となると、妻子や友人に作品をみられたら? とプレッシャーが生じてくる。

 書きあがった初稿は、数日寝かせ、大きな声を出して読み、圧縮と省略を図り、無駄な文言を削るように。そうなると、作品の仕上がりにも時間がかかる。

 徒歩で行く「東海道五十三次」と、5年間エッセイの筆を執る。どっちが楽か、苦しいか。ともに体験者でなければ、回答が出ないだろう。

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男体山で、幹部研修の登山(下)=同行レポート

 男体山はもともと「空海」に関係した僧侶(仏教徒)が登攀し、開山している。二荒山神社の社務所で、ルールとして500円/一人払うと、「お札」とともに概略登山図が手渡された。

『男体山は二荒山神社の御神体山であり、古来より、山岳信仰の御山として多くの崇拝を集める、関東第一の霊峯であります。山頂には当神社の奥宮がありますので、諸願をこめて御参拝ください』
と明記している。

 仏教徒の開山を伏せたうえ、さも神教の神官が開いた男体山のように見せかけている。歴史をごまかしたうえ、登山者から金をとっていると思えた。むろん、神社側の釈明など聞かず、登山道に入ったから、相手側の言い分などわからない。

 他のメンバーは安全登山のために、胸元にお札をぶら下げていた。「白紙も信心しだい」「鰯の頭も信心から」という諺もあるし、信仰は自由だ。私は神社に対する腹立たしさなど口にせず、自分だけのものとした。

 降りつづく雨で、紅葉を楽しめる男体山ではなかった。雨具のヤッケを身に着けると、一合目、二合目としだいに足が上がらず、体が重い。登攀には時間がかかる。ヤッケはやめた。

 登山は思いもかけない予想外のことが起きる。転倒、骨折、強風でテントが飛ばされる、凍傷など……。それをどう対処できるか。それが登山者の経験と力量でもある。

 わが5人パーティーは4合目あたりで、小さなアクシデントがあった。

 若山さんが高校時代に使ったきりの登山靴の裏底が剥がれてしまったのだ。かれは靴紐の劣化を想定し、紐2本だけは買ってきていた。
 それで結び、創意工夫しながら登る。都度、剥がれてしまう。理系の4人が、強度とか、補強とか、それぞれ知恵を出し合う。それでも、体重が靴底に集まる強度には対応できなかった。
『メンバーにアクシデントが生じれば、無理に山頂は狙わない』。それは山の鉄則である。8合目で「おでん昼食」を楽もう。全員が気持ちを切り替えた。

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男体山で、幹部研修の登山(上)=同行レポート

 10月24日(月)は快晴ならば、中禅寺湖の紅葉が見事な季節だ。

 東武電車が朝かすみの利根川を渡り、栃木県に入ると、車窓は斜雨で濡れはじめた。男体山(2484.2m)登山にむかう。山の天候がしだいに気になってきた。同山は急斜面が連続する、直登だけに、降雨だと、古(いにしえ)の修験者のように難行苦行となる。晴れの山と雨とでは、登山の軽重が雲泥の差となる。

 日光駅に近づいても、沿線の山々には雨雲が深く被さっている。

 肥田野さんはITコンサルタントで、私とは6年来の登山仲間だ。かれがIT企業「インフォ・ラウンジ」(横浜)を興してから5年経つ。この秋には増資をして、役員も整え、次なる飛躍への地固めをしていた。
「役員研修に、登山を入れました」と結束かためが目的の一つだと話す。他方で、肥田野さんは同社に「インフォ・ラウンジ山岳部」を設立していた。

 私は、同山岳部の顧問という大義の同行だった。葛飾住まいの私は浅草に近いし、早朝の出発は楽だった。他の4人のメンバーは横浜に住む。それぞれ自宅の最寄り駅から、浅草まで遠い。

 浅草駅から乗ったのは肥田野さんと、横浜・戸塚の小林さんだ。小林さんはITデザイナーで、9月から同社の役員に加わっている。自宅から戸塚駅までバイク、横須賀線、新橋駅から浅草まで銀座線と乗り継いできたという。


 車中では、肥田野さんと小林さんがiphoneで、日光の天気予報を調べる。午前中は雨、午後は曇り。このところ天気予報の精度は高くなり、よく当たる。それだけに、雨の登山の覚悟を決めた。
 同社の伊藤さんは高校時代に山岳部員だった。東工大に進んでから山は登っていないが、9月の奥穂高では健脚ぶりをみせている。彼はおなじく横浜住まい。最寄の路線の始発電車を利用しても、浅草駅6時20分発の快速には間に合わないので、東京駅から新幹線「やまびこ」を利用し、宇都宮から日光線に入ってくる。
 同列車には若山さんも加わっている。私立・桐朋高校の1年生の時に、学校行事で登山をした。山はそれ以来だという。

 かれらは理系のITコンサルタント。会社は平均年齢が31歳だという。日ごろフィットネス・クラブで汗を流しているから、体力はある。そこに60代作家の私が一人加わった、5人パーティーである。

 晩秋の日没は早くて4時40分だが、5人の体力からしても男体山の山頂に登っても、陽があるうちに降りられるだろう。

 日光駅に着いても細い雨が降る。登山中にカメラを濡らさないためにも、私は駅構内の売店で、透明の折り畳み傘(500円)を購入した。ひとり傘を持つ身となった。
湯元行きのバスが、いろは坂を登る。中禅寺湖でも、車窓の側に雲が流れる。紅葉の情景など楽しめなかった。

 二荒山神社前のバス停で、5人が集合した。

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かつしかPPクラブが本格な活動開始、区長に直撃インタビュー

 11年10月10日(祝)に、第56回葛飾区民文化祭の「葛飾川柳大会」が、同区・金町区民センター5階で開催された。主催は葛飾川柳連盟で、川柳の愛好者たち120人が参加した。
 「かつしかPPクラブ」の浦沢誠会長、郡山利行副会長が同日11時に会場に入り、取材活動を行った。

 
 同クラブは、2010年度かつしか区民大学「私が伝える葛飾」(市民記者養成の講座)の卒業生(一期生)たちが自主的に立ち上げたものである。区民記者たちはそれぞれ区民の目、住民の立場で、区内の情報を伝えていくことを目的としている。

 葛飾川柳大会では、浦沢さんがインタビューアー、郡山さんがカメラマンの役を担った。まずは来賓の青木克徳( あおき かつのり )区長にインタビューを申し込んだ。
「この川柳大会を含め、18の葛飾文化区民祭があります。私はそれらに基本的にすべて参加しています」と行政として、同祭にたいする意欲的な取り組みを語ってくれた。

                                 青木葛飾区長(撮影:郡山利行さん)

「区民大学は活動が盛んですね。OB会(PPクラブ)の活動にも、今後は期待していますよ。正面で、一緒に写真を撮りましょう」と、青木区長みずから記念写真を提案してくれたという。

 同大会の田中八洲志会長(葛飾・堀切在住)は、インタビューに応じて、「川柳は20歳から始めて、いま82歳まで続けています。今回の川柳の宿題(課題)の一つは『祭礼』ですが、葛飾区民文化祭からヒントを得ました」と話してくれた。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(下)

 田老地区にはすでに強大な防浪堤があった。ところが、60年代に新たな防波堤が角度を変えて着工された。1979年には新堤防ができた。この防波堤は、津波に向かって正面から受け止める、という考え方で作られたものだった。

 古い堤防が一つの時、堤の外側はワカメの干し場、漁業の作業場だった。角度が違う、新たな防波堤ができると、新旧はX型になり、そこには中間の空き地ができた。
 二つ堤防の組み合わせだから、町の人は二重に守られている、と考えた。中間地の空き地は出入りができることから、家が建ちはじめた。当時は、核家族時代の到来で、人口が増えないが、家が必要になってきたころだった。130、140軒ほどできた。

 3.11災害被害で、二つの堤防を持った田老地区は他の地域と歴然とした差があった。新旧の中間地点に建つ家が全壊し、死んだ人も多数。一番被害の多い地域となってしまった。

「新しい堤防の内側は、きれいさっぱ流されています。古い堤防の内側には瓦礫(がれき)が、ふつうの町の4倍から5倍ありました。一瞬、町全体(新旧の中間の町)が巨大なバスタブだと思いました」と話す。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

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