幕末史の空白と疑問(1)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか
大政奉還は世界史でも珍しい、平和裏の政権交代だった。徳川15代将軍の慶喜が天皇に政権を返上した。それなのに、あえて2か月後には、薩長が武力で德川家を倒す策に出た。
日本人の誰が考えても、戊辰戦争などやる必要がなかったのに。
下級藩士だった西郷隆盛はとくに武力主義で、徳川家を戦いでつぶす、という軍事思想家だった。
鳥羽伏見の戦とはなにか。大阪から上洛中の徳川慶喜や松平容保(会津藩)の大勢の軍兵に、西郷たちが奇襲攻撃をかけたのだ。緒戦で勝った。そう評価するよりも、徳川軍には戦う気がなかったのだ。
西郷は、生涯でこの勝利が最もうれしかったという。西郷の考えが、とんでもない、日本の悲劇を生むことになったのだ。
戦国時代まで、国内の戦争は大名どうしの戦いで、下級武士はまったく儲からなかった。戊辰戦争は違った。会津藩が陥落した後、薩長土肥の下級武士たちが東北地方で、会津藩士は一人残らず青森の僻地に追いやり、思わぬ領地を手に入れたのだ。
「戦争は儲かる」
その甘い汁を覚えたのだ。
それら人物が明治政府の中核に座ってしまったのだ。
まず西郷が最初に言い出したのが、韓国を植民地にすれば儲かるという征韓論だった。やがて日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、「勝った、勝った、外国の領土を奪った」という戦争国家に変わってしまった。
江戸幕府は260年間にわたり海外と一度も戦わなかった。江戸時代の平和国家から、戊辰戦争は戦争国家に変わってしまった、大きな歴史のターニングポイントだった。
明治政府とすれば、戊辰戦争の細部は教えてはならない恥部だった。悲しいかな、日本人は教科書で、その構図を教えられなかった。
同政府は「神風が吹く、日本」と神話を造った。「教育勅語」すら、明治天皇はいっさい関与せず、薩長の政治家が勝手に作り、庶民を戦争に連れ出せるように、児童たちに丸暗記させるものだった。そして、徴兵制度で、「お国のため」という名目で、駆り出されていった。結果として、第二次世界大戦では、日本人だけでも数百万人の犠牲者を出してしまったのだ。
日本軍が海外で殺した外国人兵士や庶民の数は教えられていない。
現代でも、なぜ戊辰戦争が必要だったの、と聞いても、知識人を含めて、ほとんど、否すべてと言っていいほど日本人は答えられない。それは明治に作られた歴史教科書がさして変わっていないからだ。平成時代に生きる現代人も、そのこと自体を悲しむべきことなのに……。