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「妻女たちの幕末」は、通説の裏舞台をよみとく内容が豊富である。①

 新刊「妻女たちの幕末」は、どんな小説だろう、読者は本を手にしてまず目次をみる。ここに工夫を凝らした。

 プロローグ~11章~エピローグまで、縦書きでならぶ。と同時に、新聞小説の挿絵(イラストレーター中川有子・298回)から抜粋して挿入している。

 ビジュアルに、幕末のどんな内容が描かれているのか、読者には多少なりとも連想ができる工夫をしている。大奥一辺倒の小説ではないとわかる。

 幕末史に関心がある読者は、きっとあの場面だなと想像も沸き立つ。

 妻女たちの大奥 目次.JPG

 本文を読んでみないと判らないのが、女性が武士に手打ちになる挿絵だろう。「将軍家慶の側室・お琴が大工と不倫して処刑される」。ここらは知りたいところだな、と思うだろう。

                   *
 
  徳川将軍に謁見の場は、絵が小さいけれど、これは13代徳川将軍・家定である。かれはとても有能で、数々の業績を残している。
 ところが、明治政府には徳川幕府を卑下するするために、故意に家定を病身で無能扱いでこき下ろし、この背景には何があるのだろうか。
  
  この家定は「5か国の通商条約」を3か月で一気に締結させる道筋をつくった将軍である。というのも、日米修好通商条約の締結を前に、老中・堀田正睦(まさよし)がみずから京都に出向いて、天皇から通商条約の勅許をもらう行動に出た。しかし、結果は膨大なお金を公家にバラまいただけで終わった。

  将軍・家定は、京都から帰ってきた老堀田を外し、井伊直弼を大老にすえた。むろん、家定の思し召しであった。(彦根藩の井伊家の資料)

 井伊は国学に陶酔する尊王主義者であった。
「天皇の勅許を待ってから、日米の通商条約を締結したい」
 と家定に申した。

 家定は外国通である。世界の流れをよく知っている。
「堀田が京都にいって朝廷や孝明天皇に説明したが、勅許が得られなかったではないか。何年先まで天皇の勅許を待つつもりだ。中国をみよ、インドをみよ、ベトナム、ラオス、インドネシア、近年ことごとく植民地になっているではないか。植民地になってから勅許をもらっても手遅れになるのだ」とかたくなに突っぱねた。
 
 すると、井伊直弼が大老職の辞表を提出した(井伊家資料六)。

 家定は辞表を受理せず、「これは日本の将来のために必要だ」といい、この日のうちに岩瀬や井上に日米通商条約の締結を命じた。こうして勅許なし通商条約の締結を押し切った将軍・家定である。外国奉行たちは将軍の意向だといい、5か国の言語が違う国と外交交渉をもってわずか3か月という超人的な技で「安政の5か国通商条約」を締結させたのだ。

 そのさなかに、家定は急死した。(当時は毒殺されたとみなされた)。

 安政の大獄の後、水戸藩の浪士が井伊大老を暗殺した。

 ところで、家定・井伊が亡きあとも、開港・開国の流れは加速した。血で洗う尊王攘夷派さえも、海外との交流を止めきれなかった。幕府は、世界の流れから亡き老中阿部正弘が掲げた「富国強兵」をめざし、西洋の近代的な政治、軍事、商業、産業などを模範とすることにきめていた。万延、文久、万治、慶応と幕臣たちの英語、フランス語を習わせる。
 かたや、旗本から抜擢した有能な人材を遣米使節にくりだす。留学生もくり出す。その数は数百人にも及ぶ。

 長州ファイブというがわずか5人、薩摩もその数は19人、幕府の海外視察や留学生の足元にも及ばない。

 幕府は留学生だけでなく、お雇い外国人を招聘し、横須賀に大規模な近代的な造船所をつくる。長崎に製鉄所を作る。築地には豪華なホテルを作る。アメリカには蒸気機関車と鉄道網の敷設を依頼する。近代化に突っ張りはじめた。
 フランスには軍事教練の指導者を招き、歩兵、騎馬、砲兵の編成をする。
 
 小栗上野之助などは、西洋流の群県制を樹立し、政治の近代化を目指した。
 
 財政難の徳川幕府が困難な政治・経済上の条件の下で、西洋文明を取り入れることに鋭意努力し、新しい日本の建設の先駆者になったのである。

 明治時代になると、下級藩士たちによる新政府が樹立したが、かれらには確固たる政治理念がなかった。そこで、幕府の近代化路線を引そのままき継いだ。
「明治から文明開化」と提唱するには、将軍・家定が先見の目がある外交通りの有能では困るのだ。「将軍は無能で、井伊が強引だった」という筋書きが必要であった。

                   * 

 ここで利用されたのが、春嶽の随筆「逸事史補(いつじしほ)」である。明治3年から12年に書かれたものだ。そのなかで、将軍・家定に冷遇された腹いせから、「平凡の中でも最も下等」 と嘲っている。

 家定の継嗣問題が起きた時、春嶽は一橋派擁立しようと画策した。将軍・家定から罰せられ、謹慎・勅許となった。となると、憎き家定なのだ。

 南紀派の勝利で13歳の将軍家茂が誕生した。若き将軍上洛を企画したのが春嶽である。それは長州藩・毛利敬親の建言によるもの。春嶽が京都に一足先に着くと、「天誅の血の世界」の光景があった。つまり、「将軍上洛は攘夷決行日を決めさせる」長州藩の陰謀のである。それがわかった総裁職の春嶽は、自身が計画した将軍上洛なのに、家茂をほっぼり、真っ先に京都から逃げて福井に帰った。これを知った大名たちも雪崩現象を起こし、京都から次々に立ち去った。

 将軍・家茂は孤立し、窮地に陥った。

 この前代未聞の春嶽の醜態にたいし、幕閣は怒り、春嶽の辞表は受理せず、処罰したのである。窮地に立つと醜く逃げまわり、さらに徳川家が瓦解寸前という重要な局面で、新政府側に寝返ってしまう。これが春嶽の実像だ。
 
 随筆「逸事史補」を読めば、数多くの言い訳が羅列されている。幕閣を貶(けな)し、自分を高ぶって見せる、挙句の果てには明治政府の要人には美辞麗句のゴマをすっている。

  故意に酷評した家定と、明治の三傑との評価の落差には、とても正常の知能とは思えない。春嶽はさすがに死に際において、良心が痛んだのか、「逸事史補はぜったい世に出さないで燃やしてくれ」と遺言した。

 ところが明治の学者が、春嶽の遺言を無視したのだ。これは前政権の幕府を攻撃する格好の材料だといい、「幕末期の知られざる逸話」として、随筆・逸事史補を史実として悪用したのである。

 そして、「家定無能だから、一橋派の擁立が正当だった」という筋書きをつくったのだ。それというのも、一橋派の面々が新政府の要人になったからである。
 歴史小説「妻女たちの幕末」において、このように通説の裏舞台を克明に描いている。

歴史小説「妻女たちの幕末」がことし(2023)11月1日から、全国一斉販売

 新聞連載小説「妻女たちの幕末」が単行本となり、南々社から11月1日に全国一斉販売されます。
 定価は2300円+税です。

妻女たちの幕末 3冊写真-穂高健一.JPG

 1年間の連載小説ですから、手にして見た瞬間「厚い本だな」という印象があります。

 私は当初、上・下の分冊も考えたけれども、読者の常として「下」は買わない、読まない、と割っているので、一冊にしました。

「ソフトカバーで、ずっしりとして読み応えがある。歴史小説は重みがあっていいですよ。薄ぺらな歴史小説は味わいが少ないですからね」
 意見がいただけのは、出版業界に詳しい元編集長の平木さんだ(日本N・P・Eクラブ会員)。

 表紙カバーなどの装丁は好評です。

戊辰戦争のなかにも、心打たれるエピソードがある 山澤直行

 RCC(中国放送)ラジオの土曜日の朝、ナレーター岡佳奈(かな)さんによる週末ナチュラリスト『つどいの広場』があります。

 2023年9月2日10時の放送で、福島県大熊町に伝わる「戊辰戦争・余話(ぼしんせんそう・よわ)」を岡さんが朗読されました。

 この民話は、今から156年前の7月28日(旧暦)に福島県浪江町の手前、福島県大熊町で実際におきた出来事です。
 
 広島県出身の作家・穂高健一さんが、「広島藩の志士」のなかで大熊町史に掲載されており、いまも「民話」としても語り継がれていると紹介しています。

                 *

 背景として、芸州広島藩の神機隊が自費で奥州戦争に出向き、相馬藩・仙台藩を相手に連戦連勝していたときです。
 砲隊長・高間省三(20歳)ら大砲隊の十五人が、熊川駅(大熊町)から野上という集落に向かって進軍していた。
 場所は、東電第一原発から約二、三キロの距離(目見当)です。

 三軒の農家があった。前置きはここまでにして、まずは朗読をお聞きください。

       岡佳奈さんの『戊辰戦争余話」の朗読はこちらから

 ちなみに、かれらの上官である砲隊長・高間省三(20歳)は、この逸話の3日後の8月1日「浪江の戦い」で一番乗りをしながらも、不運にも敵弾の頭部貫通で戦死しています。
 現在は広島護国神社の筆頭祭神として祀られています。


「関連情報」
 
 朗読者:岡佳奈(かな)さんのプロフィール
 ナレーター / パーソナリティーです。香川出身で広島在住。福岡(RKB毎日放送)広島(RCC中国放送)で7年間の局アナをへて、2008年からフリーランスになりました。

独立後、声の表現の幅を広げたいと、ナレーションを学び、現在は広島を拠点に、TVナレーター、ラジオパーソナリティーとして活動されています。
声に温度と熱をのせて、空気に色をつけるお手伝いをしたい、と彼女は『声色 コワイロ』屋号にされています。

       岡佳奈さんのホームページ・素敵な写真も豊富です


これまでの歴史教育は変わる。ペリー提督の黒船来航は日本の学術開国であった

 新聞社から「妻女たち幕末」の連載依頼を受けてから、私は徹底してアメリカ側の史料・資料を調べつくした。ペリーの来航目的が「日本の学術開国」にある、とわかった。
 読者から新聞社に寄せられた投稿の中で最も多かったのが、このペリー来航に関するものだった。

 一部を示したい。
                   *

 日本遠征はジョン・オーリックが特使だった。不祥事から解任された。そこで退役軍人ペリーに代将(提督)の話が持ち込まれた。面談した米海軍長官から、アメリカ大統領国書を日本側に手交し、平和条約を締結せよ、という任務の説明があった。
 
 海軍長官はこういった。「ただ、武器の威嚇により日本と条約を締結しても、アメリカ議会の多数派の民主党がそれを承認しない。最悪は批准されず、日本遠征が水泡に帰す。あくまでも平和的な交渉のみ有効だ」と念押しされた。
 大統領は少数政党であった。
 メキシコ戦争の英雄ペリーとすれば、軍人の最高の名誉はまず戦争に勝つことだ。武威をもって臨むならば、ペリーは鎖国日本にたいして合衆国に有利な条約締結を成功させる自信はあった。
「自分は軍人だ。外交官ではない。戦争はするなと言われたら、どうする? 話術は巧くないし、デベート力(交渉術)は得意でない。平和使節による交渉の任として、自分は不適切な人選だ」
 ペリーは二カ月間ほど熟慮し、悩んだ。

               *  

 ある日、親しいハーバード大学の植物学者・エイサ・グレイ教授を訪ねた。そして、日本遠征の話を語った。
 教授は身を乗りだしてきた。

 日本列島はカムチャッカ半島の近くから台湾付近まで、七千余の島がある。海流は複雑だし、気候も、森林も、降水量も、特殊な地形だ。日本は二百数十年間も鎖国状態である。世界に知らてれていない品種の宝庫だ、と教授は熱く語った。
「北半球の温暖地帯の植物分布において、日本以上に興味深いところはない」
 さらにこういった。
300px-Asa_Gray.jpg「オランダが二百余年も、日本の学術研究を独占してきた。これは欧米の学者にとっても、人類にとっても、不利益なものだ。ペリーが日本に行かれるならば、世界の学者に有益となる、七千余島の日本を学術開国させることです。それこそ、アメリカ人のフロンティア精神です」
 日本を学術開国させなさいと推奨された。

 ペリーはグレイ教授の話から日本遠征の任命を受託した。
 これを新聞が報じた。世界中の著名な学者から乗船希望が殺到した。日本をよく知っているというオランダのシーボルトもいた。シーボルトは必要ないと、ペリー提督は断った。

 米軍艦に民間の学者を乗せるのは本来の海軍の趣旨に反する。そこで、記録のために画家ハイネ、銀板写真家、一部の植物学者などに乗船を限定した。あとはどうするか。
「私(ペリー)は航海中に優秀な海軍士官、海軍軍医、従軍牧師らに、通常の任務遂行のほかに、動植物学、博物学、民俗学、火山学、天文学、水深測量など、七十数科目の研究を割りふった。そして、かれらに理解と協力をもとめた。快く応じてくれた。ただし、各々の論文は国務省に帰属する」とした。

                    *
 アメリカ東インド艦隊が、ニューヨークを発って地球を三分の二回ってくる寄港地、喜望峰、セイロン、沖縄、小笠原、あらゆるところで半月、ひと月、学術研究で滞在することができた。日本遠征は急がない。植物、鳥類、魚類など学術的な採取とか、スケッチとか、各地の農業に関して現地民からの聞き取り調査をおこなった。
「私は日々かれらの研究論文を読むにつれて、気持ちが高ぶった。これは人生最後の大仕事で、アメリカの学術独占でなく、世界の学術研究なのだという強い決意に変わった」

                    *

 初来航のペリー提督は、久里浜でアメリカ大統領の国書を渡し、わずか9日間で立ち去った。

perry提督.jpg
 翌(1854)年に、再来航した。横浜で日本側と交渉の席に着いた。

 ペリー―は捕鯨船の遭難時の救助要請を行った。聞けば、日本は海難民を虐待しているという。許さないと息巻いた。日本側代表の林復斎は「日本は人道に関しては世界で最も優れている。アメリカと敵対する気持ちはない。嵐で遭難の危機になれば、日本のどこの港には入ってもよろしい。食料と水は差し与える。これが日本の人道精神である」

 ここで林復斎は日本側の抗議を持ち出した。初来航の折、江戸湾の測量など違法行為である、アメリカの侵略行為の一つとして考える、と。

                 *

「昨年の浦賀の初来航(1853年)は、私(ペリー)としては、日本沿岸の複雑な水路の海図の作成に集中した。世界中から学術調査船が日本にやってきたとき、とくに江戸湾の水深の海図は欠かせない。この海図作成を最優先にした。小型ボートに乗った海軍士官や海兵らは、浦賀奉行所の監視船の官吏から刀を抜かれて妨害されながらも、数日間にわたり、測量をしてくれた。この海図は米国の独占とせず、世界に配布する」
「幕府はスパイ行為だと警戒したものです。学術開国のためだと知り、いま誤解が解けました」
 ペリー来航の真意が江戸城の老中に伝えられた。

 老中首座の阿部正弘の決断で、アメリカの捕鯨船および米艦の寄港地として箱館・下田港を提示した。下田追加条約で、植物・動物の採取などを認めた。
「日本は海軍力がない。それなのに科学発展の学術開国をしてくれた。このさき英仏露などが、海軍力がない日本を攻めてきたら、アメリカ大統領が日本を守る」
 ペリーはそう約束して日本を立ち去った。
 4年後、その約束がタウゼント・ハリスにしっかり引き継がれていた。日米修好通商条約第二条に記載された。

第2条

  ・日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。
  ・日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。
  ・またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。

 この第2条が現代の学校教科書に記載される日がくれば、ペリー提督が求めてきた「学術開国」に徳川幕府が応じて開港・開国の道へと進んだ、と正しい認識ができるだろう。
 従来の教育で刷り込まれた「癸丑(きちゅう)以来の国難」という明治以降のプロパガンダの呪縛から解き放される。
 
 「妻女たちの幕末」の新聞掲載に関して、読者の投書で黒船来航の真実を知った驚きがもっとも多かった。
 

明治の登山家と松本サリン事件=上村信太郎


 平成6年6月27日深夜、長野県松本市北深志の住宅街に化学兵器サリンが散布される事件が発生した。それが住民8人死亡、数百人が負傷するという未曾有のあのテロ事件であった。

 当初、県警は事件の第一通報者であり、被害者の河野義行さん宅を家宅捜索して多量の薬品類を押収。河野さんを殺人未遂の重要参考人として取り調べ、事件の原因がサリンと判明してからも続けられた。ずっと後になってから冤罪だったとして警察関係者、新聞社、テレビ局などが河野さんへの謝罪を余儀なくされたのは周知のとおりである。

 事件で自身がサリンの被害に遭い、同時に奥さんを亡くされた河野さんを気の毒に感じていたところ、日本山岳会の会報『山927号』に河野義行さんに関する短い記事を見つけたのでここに紹介することにした。


 記事のタイトルは「河野齢蔵の写真貼」、執筆者は長野県在住の登山史研究家の牛丸工氏。河野齢蔵は長野県生まれ。「日本山岳会」創期会員であり会員番号は九六番。明治から昭和の初めにかけての登山家、博物学者、山岳写真家、高山植物研究家、教育者としても活躍した人物だ。
 四男三女に恵まれたが、男の子はいずれも幼少で亡くなり、後継男子がいなかったのでのちに義行さんが養子になった。」のだという。

河野齢蔵.jpg
 東京新聞出版局刊『岳人辞典』によれば、「河野齢蔵は長野県出身。慶応元年生まれ。

 登山は、明治26年夏の乗鞍岳、明治31年白馬岳、明治37年赤石岳登山、赤石山頂に2泊して高山植物の写真を撮る。昭和7年利尻・礼文植物採集、さらに千島チャチャヌプリ岳でコマクサ群落発見。明治44年に信濃山岳研究会を創立。登山の普及に努めた。著書は『日本アルプス登山案内』『日本高山植物図説』などがある。」と紹介されている。

 このほか、日本山岳会の機関誌『山岳』には河野齢蔵の肖像写真が掲載されている。その姿は旧百円紙幣の板垣退助ソックリのヒゲ姿。また、大正2年に赤石山脈で採集した新種の植物の学名は発見者の名をとって「ロニセラ・コーノイ」と命名されたとの信濃毎日新聞記事も見つけることができた。


 それにしても義行さんはサリン事件の容疑者にされた多量の薬品をなぜ持っていたのだろうとずっと不思議に感じていたが、牛丸氏はその点について「松本サリン事件の際、通報者の河野さんの家が家宅捜索され、大量の薬品が出てきたため〈お前が犯人だ〉とされてしまったが、この薬品は博物学者の河野齢蔵が雷鳥などを剥製にするための薬品の小瓶で、半世紀以上経っても多数残されて家にあった。」と書いている。
 おそらく義行さんは、尊敬する父が使った多量の瓶を大切に保管していた。そのことが不運にも捜査員の疑惑を招くことになってしまったのかもしれない。


 今回、長年の疑問が解け、同時に明治期の一人の著名な登山家の存在を知り得たことでこの文章を書いた。  (記・上村)


(ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№282から転載)

山頂に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ宝篋山=武部実

2022年 3月20日(日) 晴れ
参加メンバー:L上村信太郎、武部実、他11人
コース:土浦駅からバスで宝篋山入口バス停~極楽寺コース~宝篋山~小田城コース~     宝篋山入口バス停

上村 ①.jpg
 
 茨城県を代表する山といえば、誰もが筑波山と答えるだろう。
 その筑波山の南方に位置するのが宝篋山だ。20年位前から、地元のNPO法人らが登山道を整備して人気ハイキングコースになったということだ。

 土浦駅に集合し9:25発の筑波山口行のバスに乗車し、目的地までの料金は640円、しかし土休日に限ってIC系カードを提示すると710円の一日乗車券になる。覚えていてほしい。
 宝篋山入口バス停から5分で小田休憩所があり、ここで一旦トイレ休憩。10:35に出発。登りは極楽寺コース。舗装された林道からは真正面に宝篋山の山頂の電波塔が眺められる。歩くこと15分、今が見ごろとばかりの真っ白な花を咲かせていたコブシが2本と、道路をはさんで緋寒桜が対照的に真っ赤な花を咲かせていて、とても綺麗だった。

 ドングリが一面に落ちている山道を過ぎ、ちょっとした岩場をぬけると、白滝等の小さな滝がいくつか続く。純平歩道との分岐を過ぎると、富士岩の表示板がある。ここから富士山が眺められるのかと思ったら、円錐形の岩が富士山に似ているからのようだ。宝篋城の空堀跡を過ぎれば電波塔が2棟設置されているところが山頂だ。

 12:13標高461mの山頂に着いた。正面に宝篋山の表示板があり後ろには、この山の名前にもなった2.5mもの高さがある、石造りの立派な宝篋印塔が鎮座してあった。
 説明板には「山頂より見渡せる所に棲むすべての生類を極楽浄土へ導く威力をもった石塔です」とある。この見晴らしのいい場所からは相当数の人が該当する、ありがたい仏塔なのだ。

 山頂には大勢のハイカーが来ていたが、人気の理由がうなずける。筑波山の半分の標高で、これだけ展望のいい山はなかなか無い。北方には筑波山や雪をかぶった男体山、西方には富士山そしてスカイツリーまでも、そして南方は霞ケ浦と、眺望に納得の山頂だ。

 13:15に下山を開始する。小田城コースで下る。下浅間神社、幸福の門(狭い岩を潜り抜けること?)を過ぎて、要害展望所で一服。はるか先に牛久大仏がうっすらと眺められた。14:50に小田休憩所に着く。

「天気に恵まれ、眺望の素晴らしい山に登れて最高の一日であった」と参加者一同思っていること間違いなしだ。

 (ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№269から転載)

【孔雀船102号 詩】  あべこべ草紙 ――師・安西均さんの思い出に 望月苑巳

春はあけぼの、などとうっかり間違って書いた

その人は

頭を掻きながらぺろりと舌を出した。

東山のあけぼのは初夏に限る

たわけごとのせいか

眠気は待ってくれないので困ると言う。


氷菓子をくわえて

浜千鳥が揺れる小旗をくぐって

浴衣の少女がふたり

浴衣の少女.jpgねえ、今日はブランコに乗ろうよ

あの公園には嫌な奴がいるから行きたくないわ

そんな会話をなめあう。

緩い風がさらっていく

杜若が小さな池で自己主張をしている

蝸牛はのっそりと葉脈の道をなぞる

空にはセスナ機が旋回して 女の聲を散布してゐる*1

サッカーボールを抱えた少年が通りかかって

宿題はもうすんだのかいというと

少女たちはアッカンベーをした

ボールを当てるふりをして

少年は先生に言いつけてやろうと捨てゼリフ

向日葵が花火のように咲いて

子どもたちが砂場で相撲をとっている

盆踊りの会場は出来上がったばかりだ

蝉の声で埋め尽くされる東山が

足の長い午後をかくす。


あべこべだった方がいい場合だってあると

賢者は言った

噂によればあれは「夏はあけぼの」と書いたつもりだったのに

道長さまが声をかけてきたので手が滑ったのだという

枕草子を枕にじっとりと汗をかきながら昼寝

眠る進化論の夏もよかろう

どこですり替わったのかのかは謎だが

戦争の見える青春といふ展望臺で*2

子どもらは無邪気に遊んでいるのがせめてもの幸せ。


    *


その人は月の輪で寂しく亡くなったと人づてに聞いた。

   (*1)安西均「奈良公園」から。(*2)安西均「寂光院」から。

    *清少納言は京都郊外の月の輪というところで没した


あべこべ草紙 望月.PDF 縦書き

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船102号 詩】 アナザー ワールド 苅田 日出美

ふと見上げると夜空に星が いつになくきらめいていて私の体にふりそそぐのだ。

目にうつるすべての星がキラキラとして 私のところに集まってくる。そんな日には 面白い詩に出会う。

釈迦.jpeg
筋肉少女帯・大槻ケンジの『リンウッド・テラスの心霊フィルム』という詩集のなかに「釈迦」という詩があって私は釈迦というヒトが好きだったし 仏教の世界も般若心経も好きなので 最初に「釈迦」という詩を開くと いきなり トロロの脳髄 トロロの脳髄という言葉があって

トロロの脳髄というのは間違いで あのアニメのトトロの脳髄じゃないのかしらと考えていると

シャララシャカシャカ

という合の手まではいるので 私はもう 釈迦という詩を頭で理解しようとしてはいけないと感じてしまって

ただもう シャララシャカシャカ というリズミカルな言霊の世界にどっぷりと浸かることにした。

それでも詩人は真面目ですから

「詩の読者は詩人の仲間だけになり、一般の知的社会は詩を読まず詩人を相手にしなくなった」― 加藤周一という文章などあちらこちらで引用されたりするのだがでも「ドーシテ」という前に 大きな風呂敷とかシーツとか カーテンとかで この「言葉」でしかものを見られないヒトの前にあるものを梱包してみようじゃないですか。クリストというアーティストがしたように梱包したり巨大な傘を立てたりして景色を一つ変えてみよう

  シャララシャカシャカ
  シャララシャカシャカ
  詩人だからって深刻がらなくてもよいのだと そう思うわけ。

ふと見上げると 月は満ちて 私の体にまぶしいほどの光のプラナをふりそそいでいた

アナザーワールド(アナザー ワールド 苅田日出美 PDF縦書き

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船102号 詩】 夢の傾斜 脇川郁也

黄昏をついばんで山鳩が啼く
姿を求めて見上げれば
竹林を吹き抜ける爽やかな風だ
生まれたての緑色をして
まだ残る空の青さと
はっきりしない明日の行方を示している
竹林.jpg
ゆうべ
危うい夢の傾斜に
おののいて目覚めたのは
うなされたままのぼくの分身
もう片方のぼくは観念して
すでに冷たい視線を送っている

見知らぬ土地の記憶を追って
しばらく彷徨ってみたけれど
神がかたどったころの手触りが
ほんのわずか残っているのだ
夢のなかでさえ後悔ばかりの吐息
立ち尽くし足もとの影を見つめた

その日
尖った顎をさらに細くして
ぼくは静かに眠るだろう
目を閉じてから
小さな声をあげるだろう
圧迫された言葉は苦しげだろう
そのとき誰かが空を仰ぐだろう

空は赤く燃えているか
それとも静寂に満ちているか
湿った空気に包まれていようか
焦げた匂いが漂っているだろうか

あした雨にならないように
子等はてるてる坊主を吊すだろう
そしてぼくが死んだ後も
いまと同じように空は青いだろう
やりきれない青さで満ちているだろう

夢の傾斜 脇川.PDF 縦書き

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

終戦記念日にあえて問う。戦争抑止は「兵器廃絶」なのか、政治家の資質なのか

 8月15日は、太平洋戦争の終戦記念日である。日本の主要都市は廃墟になり、もう戦争は止めよう、と国民がみんなして誓った。

 そして大日本帝国憲法が破棄された。あらたに日本国憲法が発布された。前文のなかに、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』と謳(うた)う。
 明治・大正・昭和の77年間における10回の海外戦争は、その発議が政治家にあったと断言できる。

 毎年、終戦記念日を前にして広島・長崎の原爆被爆の式典がおこなわれる。各メディアは大々的に取り上げている。
 核兵器廃絶とか、核の抑止力はなくなった、という論議が中心に座っている。これは「兵器」には核物質をつかうな、という戦術面である。

 核以外ならば、どんな兵器でも許されるか、という反問にもつながりかねない。
 これでは広島・長崎の主張は、核廃絶が達成すれば、それでよしとするもの。本質的な戦争禁止への論旨ではない。

「被ばく=平和」その結合が間違っている。広島・長崎のセレモニーは、「戦争をやめよう」という強い論議につながっていない。なぜならば、投下国がアメリカだとひと言もいわないからだ。

 ウクライナ戦争においても、広島・長崎の声が戦争抑止に役立ったとも思えない。政治家の両県知事や市長が行動で示していない。単独でモスクワに乗り込んで、プーチン大統領を諫(いさ)める、という意気込みすら見えてこない。

 きょうこの日、無人の兵器によって、容赦なく民間の住宅地に攻撃されている。ウクライナが核兵器(1240発の核弾頭と、当時世界第三位の核兵器保有)をすべて廃棄すれば、他の武器でロシアから攻められる、という弊害を生んだ。これでは核兵器を失くそうという大国は現れないだろう。
 民の命を思うならば、「無人兵器の製造禁止条約」をさけんだほうが、まだ現実的だ。
 
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 どうすれば戦争をなくすことができるのか。プーチン大統領の姿勢をみれば、政治家の資質を問うことである。
 これはロシアだけの問題ではない。
 わが国の副首相(元総理)の麻生氏が82歳にして、台湾に訪問し、「日本は戦う覚悟だ」とまるで日本人を代弁しているような発言をする。元首相となれば、老人の戯言だと笑ってすまされないだろう。

台湾出兵 (2).jpg
1874年(明治7年)に、明治政府がはじめて海外に出て行ったのが台湾への軍隊派遣である。この台湾出兵から太平洋戦争へと連鎖した。

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 いずれの開戦前も、政治家・官僚など戦場に行かない高年齢の世代が、勇ましく国民に戦争をあおっている。
 その結果として日本やアジアの人たち、軍人・民間人をふくめてとてつもない戦争被害者を出した。
 
 プーチン大統領のウクライナ侵攻と、麻生氏の台湾での行為はさして変わらない。戦争で解決しようとするもの。タバコを吸う人(中国)の前に火薬をおきに行くようなものだ。

 ウクライナ戦争がはじまったとき、ロシアの若者は数百万人も国外に逃避したという。日本人は戦前とちがい、政治家・麻生氏の尻馬にのって武器をもって台湾海峡で戦う若者たちはさして多くないだろう。はたして何割いるのか。よくよく調べて行動するべきである。

 議員・麻生氏は公人としての行動が『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』と謳(うた)う日本国憲法の根幹に抵触するものだ。

 勇ましい弁が立つ政治家が戦争を起こす。これは歴史が教えることだ。
 
 

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