新聞社から「妻女たち幕末」の連載依頼を受けてから、私は徹底してアメリカ側の史料・資料を調べつくした。ペリーの来航目的が「日本の学術開国」にある、とわかった。
読者から新聞社に寄せられた投稿の中で最も多かったのが、このペリー来航に関するものだった。
一部を示したい。
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日本遠征はジョン・オーリックが特使だった。不祥事から解任された。そこで退役軍人ペリーに代将(提督)の話が持ち込まれた。面談した米海軍長官から、アメリカ大統領国書を日本側に手交し、平和条約を締結せよ、という任務の説明があった。
海軍長官はこういった。「ただ、武器の威嚇により日本と条約を締結しても、アメリカ議会の多数派の民主党がそれを承認しない。最悪は批准されず、日本遠征が水泡に帰す。あくまでも平和的な交渉のみ有効だ」と念押しされた。
大統領は少数政党であった。
メキシコ戦争の英雄ペリーとすれば、軍人の最高の名誉はまず戦争に勝つことだ。武威をもって臨むならば、ペリーは鎖国日本にたいして合衆国に有利な条約締結を成功させる自信はあった。
「自分は軍人だ。外交官ではない。戦争はするなと言われたら、どうする? 話術は巧くないし、デベート力(交渉術)は得意でない。平和使節による交渉の任として、自分は不適切な人選だ」
ペリーは二カ月間ほど熟慮し、悩んだ。
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ある日、親しいハーバード大学の植物学者・エイサ・グレイ教授を訪ねた。そして、日本遠征の話を語った。
教授は身を乗りだしてきた。
日本列島はカムチャッカ半島の近くから台湾付近まで、七千余の島がある。海流は複雑だし、気候も、森林も、降水量も、特殊な地形だ。日本は二百数十年間も鎖国状態である。世界に知らてれていない品種の宝庫だ、と教授は熱く語った。
「北半球の温暖地帯の植物分布において、日本以上に興味深いところはない」
さらにこういった。
「オランダが二百余年も、日本の学術研究を独占してきた。これは欧米の学者にとっても、人類にとっても、不利益なものだ。ペリーが日本に行かれるならば、世界の学者に有益となる、七千余島の日本を学術開国させることです。それこそ、アメリカ人のフロンティア精神です」
日本を学術開国させなさいと推奨された。
ペリーはグレイ教授の話から日本遠征の任命を受託した。
これを新聞が報じた。世界中の著名な学者から乗船希望が殺到した。日本をよく知っているというオランダのシーボルトもいた。シーボルトは必要ないと、ペリー提督は断った。
米軍艦に民間の学者を乗せるのは本来の海軍の趣旨に反する。そこで、記録のために画家ハイネ、銀板写真家、一部の植物学者などに乗船を限定した。あとはどうするか。
「私(ペリー)は航海中に優秀な海軍士官、海軍軍医、従軍牧師らに、通常の任務遂行のほかに、動植物学、博物学、民俗学、火山学、天文学、水深測量など、七十数科目の研究を割りふった。そして、かれらに理解と協力をもとめた。快く応じてくれた。ただし、各々の論文は国務省に帰属する」とした。
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アメリカ東インド艦隊が、ニューヨークを発って地球を三分の二回ってくる寄港地、喜望峰、セイロン、沖縄、小笠原、あらゆるところで半月、ひと月、学術研究で滞在することができた。日本遠征は急がない。植物、鳥類、魚類など学術的な採取とか、スケッチとか、各地の農業に関して現地民からの聞き取り調査をおこなった。
「私は日々かれらの研究論文を読むにつれて、気持ちが高ぶった。これは人生最後の大仕事で、アメリカの学術独占でなく、世界の学術研究なのだという強い決意に変わった」
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初来航のペリー提督は、久里浜でアメリカ大統領の国書を渡し、わずか9日間で立ち去った。
翌(1854)年に、再来航した。横浜で日本側と交渉の席に着いた。
ペリー―は捕鯨船の遭難時の救助要請を行った。聞けば、日本は海難民を虐待しているという。許さないと息巻いた。日本側代表の林復斎は「日本は人道に関しては世界で最も優れている。アメリカと敵対する気持ちはない。嵐で遭難の危機になれば、日本のどこの港には入ってもよろしい。食料と水は差し与える。これが日本の人道精神である」
ここで林復斎は日本側の抗議を持ち出した。初来航の折、江戸湾の測量など違法行為である、アメリカの侵略行為の一つとして考える、と。
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「昨年の浦賀の初来航(1853年)は、私(ペリー)としては、日本沿岸の複雑な水路の海図の作成に集中した。世界中から学術調査船が日本にやってきたとき、とくに江戸湾の水深の海図は欠かせない。この海図作成を最優先にした。小型ボートに乗った海軍士官や海兵らは、浦賀奉行所の監視船の官吏から刀を抜かれて妨害されながらも、数日間にわたり、測量をしてくれた。この海図は米国の独占とせず、世界に配布する」
「幕府はスパイ行為だと警戒したものです。学術開国のためだと知り、いま誤解が解けました」
ペリー来航の真意が江戸城の老中に伝えられた。
老中首座の阿部正弘の決断で、アメリカの捕鯨船および米艦の寄港地として箱館・下田港を提示した。下田追加条約で、植物・動物の採取などを認めた。
「日本は海軍力がない。それなのに科学発展の学術開国をしてくれた。このさき英仏露などが、海軍力がない日本を攻めてきたら、アメリカ大統領が日本を守る」
ペリーはそう約束して日本を立ち去った。
4年後、その約束がタウゼント・ハリスにしっかり引き継がれていた。日米修好通商条約第二条に記載された。
第2条
・日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。
・日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。
・またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。
この第2条が現代の学校教科書に記載される日がくれば、ペリー提督が求めてきた「学術開国」に徳川幕府が応じて開港・開国の道へと進んだ、と正しい認識ができるだろう。
従来の教育で刷り込まれた「癸丑(きちゅう)以来の国難」という明治以降のプロパガンダの呪縛から解き放される。
「妻女たちの幕末」の新聞掲載に関して、読者の投書で黒船来航の真実を知った驚きがもっとも多かった。