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死刑囚の首は誰が絞めるの?

 私には、『獄の海』という文学賞の受賞作がある。当初は、死刑囚を書くつもりだったが、とても書けないと解ったから、少年受刑者を主人公にした作品である。選者の藤本儀一、田辺聖子、眉村卓、難波利三の4氏から、作者は刑務官だろう、と言われるほど、取材が利いた作品だった。

 さかのぼること、私は広島拘置所の元副所長(当時50歳前後)から、小説を書く上で、死刑囚について取材を申し込んだ。何度かの手紙のやり取りの末、彼=元副所長が取材に応じてくれた。3時間余りにわたって、赤裸々に語ってくれた。
 退職時には、同拘置所には3人の死刑囚が収監されていたと話す。毎日、死刑囚の観察記録をつぶさに書くという。
「なぜですか?」
「死刑囚が精神異常になれば、刑が執行されないからです。日誌で、正常か、異常の兆候がないか、報告するのです。罪の意識がなくなった精神異常者を殺せば、ただの人殺しですから」
 私にはすべてがはじめて聞く話ばかりだった。

「死刑に最も反対しているのは誰だと思いますか。刑務官ですよ」
 その言葉が強く印象に残っている。
「なぜですか」
「いいですか、刑務官の募集要項には罪を犯した人の更生を図る、大切なしごとです。そう書かれているんです。人間の首を絞めて殺すこともあります、と一行も書かれていません。死刑囚を殺すのは刑務官です」
 殺す。その表現にはどきっとさせられた。
 死刑執行は東京拘置所など、高等裁判所が所在する拘置所である。(高松は大阪に護送)。

「なぜ拘置所ですか」
「裁判で懲役刑が確定すると、刑を執行するために、刑務所に送られます。しかし、死刑囚の刑を執行すれば、それが死ですから、拘置所で終わりです」
「だから、拘置所なんですね」
「東拘(東京拘置所)などに勤務の辞令が出ると、ぞっとしますよ。人間を殺す、そんな任務が自分に回ってくる可能性があるんですから」
 刑務官は転勤で、鑑別所、拘置所、刑務所、少年院と動く。だから、刑務官になれば、だれでも死刑囚を殺す可能性がある、という。

 法務大臣が印鑑を押せば、死刑の執行命令が拘置所にとどく。所長など数人の幹部が、「どの刑務官に、どの任務をあてがうか」と思慮する。
 独房から連れだす人、首に縄をかける人、ぶら下がった遺体を降ろす人、そして安置所に運ぶ人、すべてが複数で行われる。(私の推測・仮に3人ずつにしても、十数人の刑務官で構成される)。

「当日、出勤してきた刑務官を呼び出し、指示・命令すると、殆どが青ざめます」
「なぜ、前日に教えないんですか」
「死刑執行日が、所内に漏れたら、全刑務官が休みますよ。法の執行とはいえ、人間が人間を殺すんですからね」
 ということばがいまだ耳に残る。

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春の海を求めて七里ヶ浜へ=神奈川・湘南

 日本海側は大雪に見舞われている。一般にいう雪国の、積雪量は1メートルをはるかに超えている。
 太平洋側も寒波の影響から、春の花がまだ開花していない。各地で「梅祭り」がスタートしたが、肝心の梅はほとんど咲いていない。

 春の匂いは、湘南の海辺にあるかもしれない、と七里ヶ浜の海岸にやってきた。

 20代の溌剌とした女性たちが砂浜を散策している。彼女たちは若さを海辺まで運んできてくれている。それだけでも、たっぷり春を感じることができた。

 鎌倉から江ノ電に乗って、七里ヶ浜駅までくると、駅から海岸までわずか1、2分の距離にある。磯の香りをかぎながら、海岸に降りていく。
 江の島が近景にあり、多少は雲をかぶっているが遠景に富士山がそびえる。


 海岸には、藻の匂いが鼻孔を刺激する。漂流物には牡蠣(かき)殻がついている。このブイはどこから流れてきたものだろうか。

 みるからに漁師が使う漁具だ。もしかしたら三陸あるいは宮城あたりか。3.11の大津波の後に流れ着いたものかもしれない。

 あながち外れてはいないかもしれない。牡蠣は三陸の特産品だから。
 

 制服姿の修学旅行生が目立つ。グルーブ5-8人ほどでやってくる。

 昭和時代の修学旅行といえば、教師の引率のもと、観光バスで規律正しく見学だった。それも、社寺仏閣がやたら多かった。

 平成の修学旅行は、グループで見学場所が選べる。自主性尊重の良い学校風土ができたものだと思う。
 シーズンはかつて春か、秋と相場が決まっていた。旅シーズンで、交通機関も混雑する。いまや冬場でも、修学旅行は行われている。合理的だと思う。



 太陽がぎらぎら輝く。春を感じさせてくれる、強い日差しだ。海面に反射し、まぶしくも、心のなかには高揚感が広がってくる。

 海と太陽は人間の最大のエネルギー源だ。人類誕生の源でもあるのだから、理屈抜きで、神々として崇拝する人は多い。


 東京都内から、時折見える富士山は小粒である。それでも、富士が見える日は空気の澄んだ、快適な日だ、という感慨がある。それは日本人だからだろう。

 湘南の富士山は大きいな、見事だな、と思わず見入ってしまう。

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著名作家たち「この町は好い。立石はこのまま残すべきだ」と語る

 1月31日の午後3時に、京成立石駅の改札口に、日本ペンクラブの有志5人が集まった。
 顔ぶれは、吉岡忍さん(ノンフィクション作家・日本ペンクラブ専務理事)、出久根達郎さん(直木賞作家)、轡田 隆史さんくつわだ たかふみ、元朝日新聞・論説委員)、それに吉澤一成さん(同クラブ・事務局長)である。
 吉澤さんは一度、立石には来ているが、他の3人は初めてである。

 ことの経緯は昨年の秋にさかのぼる。ある大学の構内で、私と吉岡さんとふたりして小一時間ほど話す場があった。私は、吉岡さんの3.11の取材体験などを聞いていた。話が転じて、
「葛飾・立石は昭和の街で、好い街ですよ。最近、ネット社会で、口コミで広がり、安く、おいしく飲める、と評判ですから、一度来ませんか」
 と持ちかけた。

 それがより具体的になったのは、12月のP.E.N.忘年会だった。
 私が、出久根さんが受持つ「読売新聞・人生相談」について語り合っていた。吉岡さんが側にきて、「穂高さんから、立石で飲もうといわれているんだよね」
 と話を切り出した。
「立石は良い。とてもいい街ですよ」
 出久根さんが称賛した。
「じゃあ、出久根さんも、一緒に行きましょう」
「立石には、仲の良い古本屋の親父(岡島書店)がいる。かれも誘おう」
 そんな話から、
「日本酒が大好きな轡田さんも。サントリー広報部長だった吉澤さんも」
 と即座にまとまった。

 正月早々には日程調整が進み、覚えやすい1/31と決まったのである。
 
 私を含めたP.E.N.5人が集まった。それに古本屋の岡島さんで、「名刺とケータイがないのがウリです」と笑わせていた。

 立石仲見世を中心とした商店街見て回った。人気の店「うちだ」「鳥房」ともに連休だった。中川七曲りの本奥戸橋にも足を運び、東京スカイツリーを見た。そして、「のんべ横丁」にも案内した。

 岡島さんと私が町の特徴を説明した。

 葛飾・立石は終戦直後は赤線地帯(売春)から、夜の町が発達してきた。他方で産業としては、中川を利用した染物(繊維)、ブリキの玩具(輸出も含めて)、旋盤など利用したパーツ品の町工場、さらには伝統工芸・伝統産業品(和雑貨・小物)などが発達していた。

 これらの職人、工員たちが夜勤明けから一杯飲んで帰宅する。だから、立石は昼間から飲み屋が開いている、という説明もつけ加えた。

 商業的には、荒川放水路から、奥戸街道を通って千葉に荷物を運ぶ。これは古くから開けており、四つ木から奥戸橋まで、延々と道の両側に商店が栄えてきた。(推定・5キロ)。四つ木にも、立石にも、複数の映画館が娯楽の中心としてあった。
 立石仲見世は葛飾で最も早くアーケード街になった。

 昭和の後半から、衰退期に入った。いま現在、四つ木などは7、8割がシャッターを下ろす。立石も凋落傾向にあった。ところがここ数年、インターネット普及で、『昭和の町・立石』が急速に人気となり、風前の灯であった、飲み屋街が息を吹き返し、町全体が力を持ってきた。

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第55回・元気に100エッセイ教室=書き出しは作品のいのち

 書き出しは作品の顔である。名作の書き出しは、読者に強く印象で焼き付き、いつまでも残っているものだ。中学・高校の学生時代に習った、……平家物語、徒然草、雪国、伊豆の踊子、草枕など、作品の内容は記憶になくても、書出しはいつまでも口ずさむことができる。

 作者と読者との初対面の場である。初の顔合わせの1行で、作品の第一印象がほぼ決まる。その善し悪しが作品の先入観にもなる。作品のいのちともいえる。

 上手な書き出しの最大の条件とは、最初の1行で次の1行が読みたくなる。これにつきる。逆に、2行、3行も読んで興味がわかなければ、もう完ぺきに放棄されてしまう。読者は義理で読まないから。


魅力的な書き出し法とはなにか

① 情景文(映像的)、あるいは心理描写などで書く。

② 説明文(ビジネス的)はやめる。読者がレポートを読まされる心境になる。

③ 前置きはやめる。エッセイ作品は最初から方向性を示す必要などない。

④ 結論から書かない。作品の底が割れてしまう(読まなくても、結末やストーリーが見えてしまう)。

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立春が近づいた、スイセンと菜の花を求めて湘南へ=神奈川・吾妻山

 真冬。その言葉一つで、外出がおっくうになる。立春と聞けば、もう春かな、どこか菜の花でも観に行きたいし、一足早く春を感じたいと思うものだ。

 東京周辺となると、とかく千倉に代表される房総に目がいきやすい。

 神奈川県二宮町の吾妻山は、菜の花が盛りだという情報を得た。どんな山岳か、装備は必要なのか、という思いが先に立った。

 吾妻山のアクセスは抜群に良かった。東海道線の各駅停車・二宮駅で下車し、目の前だった。駅前には町営の案内板があり、迷うこともなく、まさに家族連れなどには手ごろな山だ。

 標高136.2メートルである。駅が海辺だから、その高さだけ、山道を登ることになる。登り口から約300段あり、階段があるが、観光気分で登れる。

 展望台の周辺には、スイセンの甘い香りが漂う。そこからは傾斜はなだらかになる。

 やや汗ばんできたかな。そう思ったところで、吾妻山の山頂に到達した。眼下には、陽光で光る、相模湾が広がる。視線を引けば、菜の花畑である。

 月並みだが、黄色の絶景である。

 四阿(あずまや)があるが、春日差しを浴びたほうが心地よい。



 花畑周辺には水彩画、油絵など、写生をする人がことのほか多い。

 それらのキャンバスを遠慮なく覗き込み、そこから写実的な美しさを感じ取らせてもらう。これもたのしさの一つである。

 土・日曜日は混むらしい。平日だったことから、山頂は全体に静寂だった。

 グループが腰を下ろして、満開の菜の花の景観を楽しんだり、手作りの弁当を食べたり、おしゃべりしたり、写真を撮ったりしている。

 多くは都会の喧騒を逃れた人たちだろう。どこまでも、のんびりした雰囲気だ。

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大東京の空を飛翔する、鷹の訓練士が語る=葛飾

 中川の護岸をジョギングちゅうに、手にとまらせた鷹に骨付きの餌を与えている男性がいた。
 大自然とはほど遠い葛飾である。自然界の猛禽類などが棲める環境ではないと思っていただけに、めずらしいなと横目で見、振り返りながら、10メートルほど行き過ぎた。そして、私は戻ってきた。

「鷹匠ですか」と問うと、「それを職業としていないので、鷹の訓練士です」と答えられた。

 東京・葛飾区にすむ中里貴久さん(45)である。大都会では、鷹を飼いならすのは大変そうだ。話を聞いて撮影もさせてもらった。

 いまは何の訓練をされているのですか。「この子(鷹)を連れまわし、人慣らしの訓練中です」。 鷹がこの大都会の空に慣れる、人間に慣れる、その訓練だとわかりやすく補足してくれた。

 私が話しかける。それだけでも、鷹は人間に慣れていく訓練になるという。

 ふだんの練習場所は平和橋の下流だが、きょうは中川の上流に来てみたという。左岸は犬がノーリール(紐を結ばない)が多くて、練習場所には不向きだと判断し、いましがた右岸にきたと話す。

 ジョギングの時にも思うが、紐をつけていない犬が多くて、実に迷惑だ。マナーがないというよりも、都条例違反だ。走っているとき、吠えられてとっさには止まれず、からだを傾けて横跳びしたこともある。危うく捻挫寸前の経験もある。

 そんな人は犬を飼ってもらいたくない、と思いながら話を聞いていた。

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新宿区・成人式の新成人たちの抱負(2)=東京・京王プラザホテル

 東京・新宿区の成人式が1月9日、同区・京王プラザホテルで開催された。過去の(全国的に)荒れた成人式が嘘のようなに、明るく、楽しく、秩序ある式典だった。

 昨年は東日本大震災があったことからか、参列者たちには浮いた、ふざけ半分の態度などまったくなかった。


 会場では、20歳になった新成人から、将来への抱負を聞いてみました。(写真の方とは無関係です・以下同じ

①被災地の方に役立ちたい。フクシマではあまり役立たなかった。でも、またボランティアに行きます。

②積極的になれる人間になりたい。


③世界を股にかけた、活躍する人材になる。ビッグになる。

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第54回・元気に100エッセイ教室=人物は描写文で書こう

 この講座は54回を迎えた。今回に限って、教室でのレクチャーの範囲を飛び出してみたい。

 昭和54(1979)年の大きな出来事といえば、米国・スリーマイル島の原発事故だろう。炉心溶解(メルトダウン)で、燃料が溶融し、約20トンが原子炉圧力容器の底に溜まった。レベル5だった。

 それでも、当時の日本では「核の平和利用」という政治家たち、実業界の人たちのことばが信じられていた。メディアもそれに乗っていた。そんな背景から、国民全体としては、スリーマイル島の事故はさほど深刻に受け止められていなかった。

 チェルノブイリ原発事故、さらには東日本大震災によるフクシマ原発事故(レベル7)へと及んだ。いまや核兵器並みに、周辺がセシウムなど放射能で汚染されている。首都・東京も例外でないという。

 人間は核をコントロールできる、という科学者たちの驕(おご)りが原因である。それに輪をかけて、核廃棄物すら処理できない、不完全な原子力発電所の廻りで、「平和利用」という甘い欺瞞の言葉で、お金の汁を吸ってきた、金欲人間たちがいた。それも二十世紀半ば以降から。

 フクシマ原発事故はエネルギー政策の道草ではなかった。容赦なく放射能をまき散らした。否、いまなお撒きつづけている。

 これは核の金に群がる強欲人間が、人間を残酷に裏切った結果なのだ。利益誘導者たちはなんら贖罪(自分の犯した罪や過失を償うこと)をしない。
「元の自然に還れない。ここに痛ましさと恐怖がある。あなたには科される罪がある」と名指しされると、違法ではなかったと、きっと逃げるのだろう。それこそ、人間が決めた法の枠を利用する、人間の醜悪な面だともいえる。

 エッセイとは「人間」を書くことである

 人間の行動や言動は性格と心理によって決まってくる。それに業とか、慾とかとを付加すれば、良きにつけ悪しきにつけ、ごく自然に人物が姿が浮き上がってくる。

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2012年元旦は、奥多摩の山を走る

 元旦の昼前には奥多摩駅(標高343m)に着いた。外気温は6度だった。ジャージに着替えると、鋸山林道の大ダワ(約1000m)にむけてランニングで登りはじめた。多摩川に架かる、弁天橋を渡ると、ヒノキや杉の森林を蛇行する舗道である。

 奥多摩~五日市に抜けるルートだが、道路が完成しても、環境問題から、いっさい使用されていない。公共事業のムダの典型的な道路だ。車が通っていない分、(御前山の登山者を迎えるタクシーは過去に一度見た)、ひとり占めである。時おり、崖上からの小石の落石が散乱している程度だが、危険度はない。

「最後のラン登山がどの山だったのかな」
 雲取山か、函館山か、箱根の山か、榛名の山か、記憶は定かではない。
 第2回東京マラソンに出場した。それ以前はランニングで山に登る練習も取り入れていた。大会から遠ざかると、ふだんの練習量は少なくなった。がむしゃらなラン・メニューもなくなった。

「一年の計は元旦にある。今年こそはフル・マラソンに再チャレンジするぞ」
 今回は、そんな格好いものではなかった。
 大晦日の除夜の鐘、初日の出の取材撮影に行くかな、という計画を立てていた。天気予報は曇り。太陽の出ない、初日の出など取材価値がないな、と気持ちは失速した。
「除夜の鐘もやめた。朝起きて、気ままに奥多摩の山でも登るかな」
 そこで下山後に汗を流せる、奥多摩町営「もえぎの湯」をネットで検索すると、元旦から営業だった。
 
 登山となると昼食用のバーナー・コッフェルとか、食糧とか、装備とかが必要だ。
 一方、ランニング登山ならば、ペットボトル1本と小銭(万一のために)さえあれば充分。奥多摩の低山ならば、ランで登れる。つまり、横着な発想から決めたものだ。

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文学者たちと紅葉の小江戸・川越「喜多院」を訪ねる                 

 11月30日、作家、文学者たち7人が川越の喜多院に訪ねることになった。北からの紅葉がすでに首都圏にも到達していた。同院の奥庭は、江戸城の紅葉山を模すだけに、赤色、黄色の彩り豊かな情景が楽しめた。

 顔ぶれは猛暑の8月に『昭和の街』立石で、下町情緒と居酒屋を楽しんだ、日本ペンクラブの広報、会報委員会の有志である。その折、次なる計画がごく自然にできあがり、「紅葉の川越の歴史散策+飲み会」になっていたものだ。


 清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、事前に教材『野外講座・川越』が配布されていた。
 歴史小説家の山名さん(同会報委員)は江戸時代の将軍、武家、庶民生活まで詳しい。吉澤さん(同事務局長)は川越の喜多院の裏手で育っているから、同院の隅々まで知り尽くす。
相澤さん(広報委員長)は、喜多院で「ボクはここで厄払いした」と思いだすくらいだから、川越に縁がある。

 新津きよみさん(推理小説作家)は埼玉県在住だから、何度か、川越に来たことがあるようだ。

 井出さん(事務局次長)と私(穂高健一・広報委員)は、ある意味で豪華なガイド付きの川越歴史散策だった。

 同日の午前ちゅうは東武東上線が踏切事故で全面運休だった。川越まで埼京線か、西武線か、どちらかに変更すべきか、と判断に迷っていた。12時20分に復旧したことから、それぞれが川越駅、本川越駅から、2時には銀杏の黄葉がもえる喜多院に集合してきた。


 吉澤さんが「私はこのすぐ裏で育った。この寺が遊び場だった」と話す。東京大空襲で、東京の邸宅(吉澤家は映画配給会社)が焼け、映画弁士の口利きで、この地に引っ越ししてきたという。小学生の集団を見て、わが母校だと懐かしがっていた。

 喜多院は平安時代に慈覚大師円仁によって創建された。やがて関東天台の中心となった。
「この院の興隆と川越の発展は、ひとえに天海(てんかい)僧正と徳川家康接見から信頼関係から始まったといえる」と清原さんが多宝塔の側から、すぐさま解説をはじめた。だれもが興味深く耳を傾けた。


 本堂の内陣の先には、徳川3代将軍・家光が生まれた部屋があった。この由来について、山名さんが語ってくれた。

 1638(寛永15)年の川越大火で、同院はすべて焼失した。(一部、山門を残すのみ)。家光の命で、堀田正盛が復興にかかり、江戸城の紅葉山の別殿を移して、それらを客殿、書院にあてた。このときに、家光誕生の間、春日局の間も、同院に移された。
 「15代将軍のなかで、正室の子は家光だけよ」と山名さんが教えてくれた。

 一連の復興で、東照宮なども造られた。だが、明治時代の廃仏毀釈から、現在は別管理になっている。

 室内は撮影禁止だが、紅葉が盛りの奥庭にかぎり、撮影は自由だった。
「前夜のTVで、この庭がライトアップで中継されていたわよ」
 新津さんが話す。紅葉の名庭は素晴らしい。

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