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手作りのギター演奏会は格別の魅力=東京

 喧騒とした都会生活から、ひと時、解放された。ギター歴2、3年の生徒が奏でる、静かなメロディーをじっと聞く。「禁じられた遊び」「グリーンスリーブ」「イエスタデイ」「ムーンリバー」などは、思わず口ずさみたくなる。心休まる時を過ごす。


2012年4月22日、自由が丘のチェスナットホールで、第9回「ギターサロンコンサート」が開催された。主催は川瀬のり子ギター教室。自由が丘教室と松原教室の2カ所の生徒たち21人が、クラシック、フォーク、ポピュラー、演歌など2時間余りにわたり、演奏した。他にもゲスト演奏者が2名参加していた。

 川瀬さんが司会進行役で、出演者が入れ替わる都度、ギター歴とか、仕事とか、趣味とか素顔の一面を紹介する。
 ギターの他にも大正琴、ゴルフ、バイク・ツーリングなどに取り組んでいる人が多い。生活のすぐそばにギター教室があり、習い事、学びごととして人生を豊かに過ごす人たちだ。 

 招待をしてくれたのが、関根稔さんだった。「プレリュード第1番」を演奏した。かれは暗譜で演奏していたので、曲に心する情が顔の表情に浮かんでいた。

 なぜ生演奏が魅力なのだろうか。会場にきた聴衆は、単に曲を聞くのでなく、演奏者がどのように曲に心を乗せているか、それを推し量ることができるからだ。だから、演奏者の顔をじっと見つめている。

 演奏者は、間違いたくないと、譜面ばかりに釘付けになっていると、聴衆側にとって、演奏者の心が読み取りにくい。365日練習しても、緊張すれば、弦が狂ってしまう。旋律の多少の間違いなどは、決して恥ずかしいことではない。人間として、当然なんだから。
 来年からはできるかぎり暗譜で臨んでもらいたいものだ。

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おしゃれな自由が丘で、花咲く品のある路地を見つけた=東京

東横線・自由が丘といえば、おしゃれな町です。
隣り合う町が超高級住宅地の田園調布。
そこに住む人たちが、ショッピングを楽しむところ。町全体に品があります。

「自由が丘の街を、緑でいっぱいにしよう」
 そんな取り組みもなされています。上品な路地裏に、色彩豊かな花が咲いています。

 高品質な店がずらり並んでいます。多数な品揃え。週末のみならず、平日も客足が多い路地です。



母と子が町を歩く。母親がどこか進学塾まで、わが子を送り迎えなのか。

 カップルで、花咲く街を散策すれば、恋心も開花するでしょう。

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文学仲間たちと『深川歴史散策』、そして門仲・居酒屋で語る 

4月18日は快晴で、気持ちの良い深川歴史散策の日和となった。集合は清澄白河駅(江東区)だった。日本ペンクラブ・広報委員会、会報委員会の有志で、今回が4回目となり、メンバーは固定している。


 清原康正さん(会報委員長・文芸評論家)、相澤与剛さん(広報委員長・ジャーナリスト)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、井出勉さん(PEN・事務局次長)、そして夜の部だけとなった吉澤一成さん(PEN・事務局長)、それに私の7人である。


 第1回は11年8月9日の猛暑の葛飾立石だった。東京下町の昭和が残る町を見てまわった。2回目は江戸幕府との縁が深かった小江戸の川越。3回目は文人たちの碑が多い浅草だった。

 今回のルートは清原さん、相澤さんの2人によるものだ。まずは荒井白石の墓がある報恩寺に向かった。愉快なお土産物などもあった。


 数日前には、山名さんから郵送で、彼女が執筆した「江戸への旅」(名城をゆく・第9号)(小学館)が自宅に届いていた。
 本所深川界隈『藤沢周平を歩く』に記載された、「蔵前・門仲で下町人情に出会う」とか、「深川の水と闇にたゆたう情念」とか、「両国橋を渡り、柳橋から舟遊び」などが、今回の歴史散策に関連した、興味ある内容だった。


 山名さんは現在、埼玉新聞に「甲斐姫翔る」を連載している。いま秀吉の小田原城攻めで、40数回に及ぶ。この先、埼玉県内で激戦が繰り広げられるので、一段と熱気がある執筆となろう。前々から、彼女が最も書きたかったところだと語っていたから。


 新井白石の墓を目ざす途中で、「出世不動があるぞ。縁起がよさそうだ」と予定外の寺を見つけ、足を運んだ。「作家となった今、出世でもないしな」という軽口も出てくる。
 しだれ桜がとても雰囲気の良い、小さな境内だった。

 報恩寺に足を運びいれた。肝心の荒井白石の墓は囲いがあって中に入れない。(見ることは出る)。白石は晩年に執筆した名著が多く、それらは高く評価されている。

 幕藩体制のなかで偉業をなしたか。見方はそれぞれに違ってくる。徳川将軍の第6代家宣、第7代家継と2代にわたり、一介の旗本の白石が幕政を牛耳ったのだ。良い施策もあるが、独善的な考え方で、「将軍の命令だ」と強引さで貫いた。
 それら白石の推し進めた政策が、あとに続いた吉宗にはことごとく否定されてしまうのだ。

「江戸時代にはいろいろな大改革が行われたが、見方を変えれば、庶民いじめだからね」と井出さんがいえば、相澤さんも賛成する。「田沼意次も決して悪い人物ではなかった」と山名さんも話す。
 歴史作家たちだけに、教科書的な価値観から脱却し、それぞれの意見を繰りだす。


「深川江戸資料館」に向かった。この間に、下町の店などをのぞく。道々、新津さんから「(私の友人の)22日・ギターコンサートの招きをキャンセルして悪いわね」と詫びられた。彼女は著名ミステリー作家だけに、作品がTVドラマ化されることが多い。今回はじめて映画になり、監督や俳優と顔合わせが急きょ22日になったのだという。「映画優先は当然ですよ。ギターはまたの機会も作れますから」と応じた。


 同資料館に入る前、清原さんが「きのうは徹夜し、朝食も取らずに来た」といい、喫茶に入った。私も空腹を覚えていたので、ふたりして太鼓焼とたこ焼きを食べ、小談してから、館内に入った。


 ひとたび足を踏み入れると、そこは江戸時代の庶民の街なかである。火の見やぐら、船宿、籠めや、八百屋、長屋、井戸や便所などが、まさに実物大で再現されている。
 さらには、鶏の鳴き声、ネコの鳴き声、アサリ売りの声、時を知らせる鐘の音がひびく。江戸の雰囲気がわが身を包んでくれる。タイムスリップさせてくれる。
 

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天下の名園・岡山後楽園の魅力たっぷり=写真散策シリーズ

岡山後楽園は日本三大名園の一つです。他は水戸の偕楽園、金沢の兼六園です。

森閑とした、苔むす庭園が県庁所在地・岡山市のど真中にあります。

お城が見える、大名庭園はきっとこの後楽園だけでしょう。



清流と水車の側の小道で、散策すれば、心が休まります。


後楽園は東京都と2か所あります。

まぎらわしいので、小石川後楽園、岡山後楽園と明記しています。


園内に入れば、とにかく広い。

とくに大都会に住む人は「こんなに広い緑があるなんて、ぜいたくだ」と絶賛します。


古風な茶室です。和服姿の女性がお茶を楽しんでいます。

それだけでも絵になります。

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春爛漫(らんまん)の横浜港ですごす

2012年の冬は寒くて長かった。梅の開花が遅ければ、桜も4月に入ってからだった。

待てば春が来る。とたんに、桜花を求めてあちらこちらに出かけたくなる。

横浜港と桜を訪ねてみた。。

桜は日本を象徴する花である。帆船の日本丸と重ねあわせてみた。

航空機が発達する前は、遠洋航海は花形だった。

日本丸は高級船員を養成する訓練船である。

横浜港の全景は美しい。ことばは要らない。


額縁で、高層ビルのランドマークが飾れる


ベーブリッジは現代の横浜港の象徴の一つ。

幕末の1854年の開港から、急速に発達し、いまでは世界的な貿易港である。


花に心を傾けるのは、万国共通である。


巨大な錨が、モニュメントになっていった。

何万トンの船舶が利用していたのだろうな。

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満開の桜の下で、さりげない日常風景=東京・葛飾

「家のなかにいないで、子どもは戸外(そと)で遊んでな」

 下町の親は、自由に遊ばせてくれる。

「大人になったら、読み書きできればいいんだ。商人の子はそれでいいんだ。塾なんか、金を出して行かなくても」
 そんな親父さんも沢山いる。

 子供の情緒の養育は、下町が一番だ

 
                         【撮影日:2010年4月9日】


 きょう始業式だ。でも、帰ったら、遊ぶぞ。

 下町の町工場が閉鎖になり、そこにマンションが次々と建てられています。山の手の貴婦人たちが移り住んでいます。

 飼い犬とは残飯で食べさせるもの。そんな下町の番犬も、ちょっとペットとは言いにくい。いまや散歩に連れ出しにくい雰囲気になりました。


 親が付き添いの子どもたちはいません。まだまだ下町っ子は自由です。

 でも、ママ、ボクは見ててね。


 ワンちゃんがしっかり見ててあげるよ。

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しだれ桜の大名庭園・小石川後楽園(水戸さまのお屋敷)=東京

小石川後楽園はかつての水戸屋敷です。
水戸黄門でおなじみの、德川御三家の一つ。

大都会・文京区のど真中に位置しています。
地価にすれば、どれくらいになるのか、想像もつきません。


                              【撮影日:2012年4月3日】


しだれ桜は優雅な平安時代を想い起させます。

女性にはとても似合う桜です。


水仙から桜にバトンタッチです。

岡山市にも、『後楽園』があります。

東京の方は、「小石川後楽園」として区分けしています。


しだれ桜は優雅、優美の世界です。

俳句や短歌を読む人には、とても良い風雅な庭園です。

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春一番の花がさまざまに咲く=浜離宮恩賜公園・東京

アロエ

東京・浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんし ていえん)は新橋から徒歩で、約7分ていどです。

かつては新橋駅から迷わず行けたのですが、最近は汐留の都市開発から、まるで迷路を通って、やっとたどり着く感じです。

はじめていかれる方は通りがかるサラリーマンやOLに聞けば、親切に教えてくれます。迷うよりも、そのほうが賢明です。


                               【撮影日:2012年4月6日】


園内に入ると、大都会の汐留高層ビルに囲まれます。ところが、この空間が妙に静寂さを保っています。だから、解放感がたっぷり味わえます。

東京のど真ん中の大名庭園です。30万本の『菜の花』が咲きます。見応えは十分にあります。

交通費は安く済むうえ、入園料は300円、65歳以上は150円です。小学生以下と都内在住・在学の中学生は無料です。

入園の時のパンフレットを見て回れば、半日、一日でも過ごせます、德川家の庭園として見どころはたっぷりあります。


菜の花と人物。ともにおおきく大胆に被写体のなかに取り込むと、インパクトがある写真になります。


 黄色が一色ばかりでは、観る側にはときには単調になるので、陰影を組み合わせた写真を取り込んでみました。

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幕末史の空白と疑問(3)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)は、尊皇攘夷の立場をとる大名だった。そんな背景から、孝明天皇からも厚い信頼が寄せられていた。
 慶勝は德川家そのものよりも、むしろ朝廷を尊ぶ、尊王思想だったという。

「尾張藩の初代藩主である義直の『王命に依って催さるる事』を秘伝の藩訓としてきた。つまり勤皇思想の家訓を受け継いでいたからです」
 徳川美術館(名古屋市東区)の原史彦主任学芸員がそう語ってくれた。

「禁門の変」で、朝廷に銃を放った長州に対して、孝明天皇は激怒した。長州藩追討の勅命を発したことから、天皇の信頼が厚い徳川慶勝が、第一次長州征伐の征長軍総督になった。(慶勝は当初固辞していたが、全権委任を取り付けて引き受けた)。

 慶勝は兵を進めながらも、平和交渉で外交に勝ち、終戦に持ち込めた。
 長州藩には禁門の変の責任を取らせて、三家老を切腹させた。
「血を流さず、戦費を費やさず」
 慶勝とすれば、最高の平和裏の終結だった。慶喜からは長州の措置が寛大すぎるとして、非難されて、糞みそに言われたことから、慶喜が大嫌いになった。

 第二次長州征伐のとき、慶勝は個人的な慶喜への遺恨から、もはや尾張藩主でないし、病気を理由に出陣もしなかった。

 大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いが起きた。徳川軍は頭から戦うつもりでなく京都への上洛の途中だった。西郷隆盛ら薩長土芸の軍隊に奇襲攻撃されたのだ。

 德川軍は体勢を立て直し、本気で戦う気ならば、まだ勝算があったはず。しかし、慶喜は会津藩主の松平容保を連れ、大阪城の門番の目をごまかし、こそこそと逃げ出すなど、およそ徳川将軍の振る舞いとは思えなかった。軍艦で江戸に逃げ帰ったのだ。

「徳川将軍も地に落ちた」
 それが長州の和平を糞みそに言った慶喜だっただけに、尊王派の思想だった慶勝は、徳川家そのものを完全に見限ったのだ。

 尾張家からは、德川15代将軍に誰一人なっていない、という潜在的な不信感とか、反発もあっただろう。

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3月末なのに梅はまだ咲かず。待ちきれず吉野梅郷へ=東京・奥多摩

 蝋梅(ろうばい)が満開の吉野梅郷(東京都)です。


 福寿草(ふくじゅそう)が主力に座るほど、梅はまだまだです。
 今年の冬はそんなにも寒かったのかな、という思いです。


 吉野梅郷では、早咲きの梅です。日向和田駅周辺が盆地で、味わいある風景です。

 福寿草を見たあと、だれもが梅がほとんど咲いていない梅林の丘陵を登っていきます。
 多少の期待を持ちながら。


 やっと見つけた梅の木に、ケータイカメラで撮影する人が多い。
 内心はもっと咲いていれば、そんな想いでしょう。 

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