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文学仲間たちと『深川歴史散策』、そして門仲・居酒屋で語る 

4月18日は快晴で、気持ちの良い深川歴史散策の日和となった。集合は清澄白河駅(江東区)だった。日本ペンクラブ・広報委員会、会報委員会の有志で、今回が4回目となり、メンバーは固定している。


 清原康正さん(会報委員長・文芸評論家)、相澤与剛さん(広報委員長・ジャーナリスト)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、井出勉さん(PEN・事務局次長)、そして夜の部だけとなった吉澤一成さん(PEN・事務局長)、それに私の7人である。


 第1回は11年8月9日の猛暑の葛飾立石だった。東京下町の昭和が残る町を見てまわった。2回目は江戸幕府との縁が深かった小江戸の川越。3回目は文人たちの碑が多い浅草だった。

 今回のルートは清原さん、相澤さんの2人によるものだ。まずは荒井白石の墓がある報恩寺に向かった。愉快なお土産物などもあった。


 数日前には、山名さんから郵送で、彼女が執筆した「江戸への旅」(名城をゆく・第9号)(小学館)が自宅に届いていた。
 本所深川界隈『藤沢周平を歩く』に記載された、「蔵前・門仲で下町人情に出会う」とか、「深川の水と闇にたゆたう情念」とか、「両国橋を渡り、柳橋から舟遊び」などが、今回の歴史散策に関連した、興味ある内容だった。


 山名さんは現在、埼玉新聞に「甲斐姫翔る」を連載している。いま秀吉の小田原城攻めで、40数回に及ぶ。この先、埼玉県内で激戦が繰り広げられるので、一段と熱気がある執筆となろう。前々から、彼女が最も書きたかったところだと語っていたから。


 新井白石の墓を目ざす途中で、「出世不動があるぞ。縁起がよさそうだ」と予定外の寺を見つけ、足を運んだ。「作家となった今、出世でもないしな」という軽口も出てくる。
 しだれ桜がとても雰囲気の良い、小さな境内だった。

 報恩寺に足を運びいれた。肝心の荒井白石の墓は囲いがあって中に入れない。(見ることは出る)。白石は晩年に執筆した名著が多く、それらは高く評価されている。

 幕藩体制のなかで偉業をなしたか。見方はそれぞれに違ってくる。徳川将軍の第6代家宣、第7代家継と2代にわたり、一介の旗本の白石が幕政を牛耳ったのだ。良い施策もあるが、独善的な考え方で、「将軍の命令だ」と強引さで貫いた。
 それら白石の推し進めた政策が、あとに続いた吉宗にはことごとく否定されてしまうのだ。

「江戸時代にはいろいろな大改革が行われたが、見方を変えれば、庶民いじめだからね」と井出さんがいえば、相澤さんも賛成する。「田沼意次も決して悪い人物ではなかった」と山名さんも話す。
 歴史作家たちだけに、教科書的な価値観から脱却し、それぞれの意見を繰りだす。


「深川江戸資料館」に向かった。この間に、下町の店などをのぞく。道々、新津さんから「(私の友人の)22日・ギターコンサートの招きをキャンセルして悪いわね」と詫びられた。彼女は著名ミステリー作家だけに、作品がTVドラマ化されることが多い。今回はじめて映画になり、監督や俳優と顔合わせが急きょ22日になったのだという。「映画優先は当然ですよ。ギターはまたの機会も作れますから」と応じた。


 同資料館に入る前、清原さんが「きのうは徹夜し、朝食も取らずに来た」といい、喫茶に入った。私も空腹を覚えていたので、ふたりして太鼓焼とたこ焼きを食べ、小談してから、館内に入った。


 ひとたび足を踏み入れると、そこは江戸時代の庶民の街なかである。火の見やぐら、船宿、籠めや、八百屋、長屋、井戸や便所などが、まさに実物大で再現されている。
 さらには、鶏の鳴き声、ネコの鳴き声、アサリ売りの声、時を知らせる鐘の音がひびく。江戸の雰囲気がわが身を包んでくれる。タイムスリップさせてくれる。
 

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天下の名園・岡山後楽園の魅力たっぷり=写真散策シリーズ

岡山後楽園は日本三大名園の一つです。他は水戸の偕楽園、金沢の兼六園です。

森閑とした、苔むす庭園が県庁所在地・岡山市のど真中にあります。

お城が見える、大名庭園はきっとこの後楽園だけでしょう。



清流と水車の側の小道で、散策すれば、心が休まります。


後楽園は東京都と2か所あります。

まぎらわしいので、小石川後楽園、岡山後楽園と明記しています。


園内に入れば、とにかく広い。

とくに大都会に住む人は「こんなに広い緑があるなんて、ぜいたくだ」と絶賛します。


古風な茶室です。和服姿の女性がお茶を楽しんでいます。

それだけでも絵になります。

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春爛漫(らんまん)の横浜港ですごす

2012年の冬は寒くて長かった。梅の開花が遅ければ、桜も4月に入ってからだった。

待てば春が来る。とたんに、桜花を求めてあちらこちらに出かけたくなる。

横浜港と桜を訪ねてみた。。

桜は日本を象徴する花である。帆船の日本丸と重ねあわせてみた。

航空機が発達する前は、遠洋航海は花形だった。

日本丸は高級船員を養成する訓練船である。

横浜港の全景は美しい。ことばは要らない。


額縁で、高層ビルのランドマークが飾れる


ベーブリッジは現代の横浜港の象徴の一つ。

幕末の1854年の開港から、急速に発達し、いまでは世界的な貿易港である。


花に心を傾けるのは、万国共通である。


巨大な錨が、モニュメントになっていった。

何万トンの船舶が利用していたのだろうな。

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満開の桜の下で、さりげない日常風景=東京・葛飾

「家のなかにいないで、子どもは戸外(そと)で遊んでな」

 下町の親は、自由に遊ばせてくれる。

「大人になったら、読み書きできればいいんだ。商人の子はそれでいいんだ。塾なんか、金を出して行かなくても」
 そんな親父さんも沢山いる。

 子供の情緒の養育は、下町が一番だ

 
                         【撮影日:2010年4月9日】


 きょう始業式だ。でも、帰ったら、遊ぶぞ。

 下町の町工場が閉鎖になり、そこにマンションが次々と建てられています。山の手の貴婦人たちが移り住んでいます。

 飼い犬とは残飯で食べさせるもの。そんな下町の番犬も、ちょっとペットとは言いにくい。いまや散歩に連れ出しにくい雰囲気になりました。


 親が付き添いの子どもたちはいません。まだまだ下町っ子は自由です。

 でも、ママ、ボクは見ててね。


 ワンちゃんがしっかり見ててあげるよ。

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しだれ桜の大名庭園・小石川後楽園(水戸さまのお屋敷)=東京

小石川後楽園はかつての水戸屋敷です。
水戸黄門でおなじみの、德川御三家の一つ。

大都会・文京区のど真中に位置しています。
地価にすれば、どれくらいになるのか、想像もつきません。


                              【撮影日:2012年4月3日】


しだれ桜は優雅な平安時代を想い起させます。

女性にはとても似合う桜です。


水仙から桜にバトンタッチです。

岡山市にも、『後楽園』があります。

東京の方は、「小石川後楽園」として区分けしています。


しだれ桜は優雅、優美の世界です。

俳句や短歌を読む人には、とても良い風雅な庭園です。

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春一番の花がさまざまに咲く=浜離宮恩賜公園・東京

アロエ

東京・浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんし ていえん)は新橋から徒歩で、約7分ていどです。

かつては新橋駅から迷わず行けたのですが、最近は汐留の都市開発から、まるで迷路を通って、やっとたどり着く感じです。

はじめていかれる方は通りがかるサラリーマンやOLに聞けば、親切に教えてくれます。迷うよりも、そのほうが賢明です。


                               【撮影日:2012年4月6日】


園内に入ると、大都会の汐留高層ビルに囲まれます。ところが、この空間が妙に静寂さを保っています。だから、解放感がたっぷり味わえます。

東京のど真ん中の大名庭園です。30万本の『菜の花』が咲きます。見応えは十分にあります。

交通費は安く済むうえ、入園料は300円、65歳以上は150円です。小学生以下と都内在住・在学の中学生は無料です。

入園の時のパンフレットを見て回れば、半日、一日でも過ごせます、德川家の庭園として見どころはたっぷりあります。


菜の花と人物。ともにおおきく大胆に被写体のなかに取り込むと、インパクトがある写真になります。


 黄色が一色ばかりでは、観る側にはときには単調になるので、陰影を組み合わせた写真を取り込んでみました。

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幕末史の空白と疑問(3)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)は、尊皇攘夷の立場をとる大名だった。そんな背景から、孝明天皇からも厚い信頼が寄せられていた。
 慶勝は德川家そのものよりも、むしろ朝廷を尊ぶ、尊王思想だったという。

「尾張藩の初代藩主である義直の『王命に依って催さるる事』を秘伝の藩訓としてきた。つまり勤皇思想の家訓を受け継いでいたからです」
 徳川美術館(名古屋市東区)の原史彦主任学芸員がそう語ってくれた。

「禁門の変」で、朝廷に銃を放った長州に対して、孝明天皇は激怒した。長州藩追討の勅命を発したことから、天皇の信頼が厚い徳川慶勝が、第一次長州征伐の征長軍総督になった。(慶勝は当初固辞していたが、全権委任を取り付けて引き受けた)。

 慶勝は兵を進めながらも、平和交渉で外交に勝ち、終戦に持ち込めた。
 長州藩には禁門の変の責任を取らせて、三家老を切腹させた。
「血を流さず、戦費を費やさず」
 慶勝とすれば、最高の平和裏の終結だった。慶喜からは長州の措置が寛大すぎるとして、非難されて、糞みそに言われたことから、慶喜が大嫌いになった。

 第二次長州征伐のとき、慶勝は個人的な慶喜への遺恨から、もはや尾張藩主でないし、病気を理由に出陣もしなかった。

 大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いが起きた。徳川軍は頭から戦うつもりでなく京都への上洛の途中だった。西郷隆盛ら薩長土芸の軍隊に奇襲攻撃されたのだ。

 德川軍は体勢を立て直し、本気で戦う気ならば、まだ勝算があったはず。しかし、慶喜は会津藩主の松平容保を連れ、大阪城の門番の目をごまかし、こそこそと逃げ出すなど、およそ徳川将軍の振る舞いとは思えなかった。軍艦で江戸に逃げ帰ったのだ。

「徳川将軍も地に落ちた」
 それが長州の和平を糞みそに言った慶喜だっただけに、尊王派の思想だった慶勝は、徳川家そのものを完全に見限ったのだ。

 尾張家からは、德川15代将軍に誰一人なっていない、という潜在的な不信感とか、反発もあっただろう。

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3月末なのに梅はまだ咲かず。待ちきれず吉野梅郷へ=東京・奥多摩

 蝋梅(ろうばい)が満開の吉野梅郷(東京都)です。


 福寿草(ふくじゅそう)が主力に座るほど、梅はまだまだです。
 今年の冬はそんなにも寒かったのかな、という思いです。


 吉野梅郷では、早咲きの梅です。日向和田駅周辺が盆地で、味わいある風景です。

 福寿草を見たあと、だれもが梅がほとんど咲いていない梅林の丘陵を登っていきます。
 多少の期待を持ちながら。


 やっと見つけた梅の木に、ケータイカメラで撮影する人が多い。
 内心はもっと咲いていれば、そんな想いでしょう。 

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幕末史の空白と疑問(2)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)が、なぜ戊辰戦争で勤王側についたのか。その疑問から、名古屋市東区の「徳川美術館」に訪ねた。
 同館の原史彦主任学芸員が、芸州藩研究の私の立場と疑問を理解してくださり、飛び込み取材に応じてくれた。原さんは歴史学の立場から、慶勝を説明する。


 14代尾張藩主になった慶勝は、水戸斉昭らとともに尊王攘夷を主張し、安政の大獄では蟄居を命じられている。このとき尾張藩主を交代した。しかし、幕末の尾張の実質的な藩主だった。

 第一次長州征伐では、幕府は36藩15万の兵で長州へと進軍させた。徳川慶勝が幕府側の総督となった。
「慶勝は慎重な性格でした。戦争とは金と人を浪費するもの。戦いよりも和平を求めたのです。(幕府から全権委任を取り付けていたから)、大勢のひとの血を流させず、長州藩の家老3人の切腹で終わらせた。武力でねじ伏せるよりも、外交で勝つ。それが慶勝の取った最善の策でした」

 この経緯としては、慶勝が戦争を回避させるために、岩国(吉川)藩、下関(長府)藩の2藩が長州藩との仲立ちになるように、西郷を使いに出したのである。

 多くの書物は総督・慶勝を飾り物として、勝海舟が西郷が和平の知恵をつけて、西郷がみずから岩国、下関に出向いて解決したと記している。

「旗本の勝海舟と德川家の慶勝とは、あまりにも身分が違いすぎて、ふたりの間に接点はなかった」
 と原さんは語っている。

 名古屋に来て、尾張の視点から見ていると……、
 勝海舟が龍馬を介して、武力討伐思想の西郷に初めて会い、和平へと仕向けた、これはどうも作り物ぽく思えてくる。
 旗本の勝は常に低い身分の家の出だと意識して生きていた人物である。封建制度のきびしい上下関係からしても、勝海舟や西郷がふたりして36藩15万の幕府軍の戦いを終結させた、とするのはあまりにも無理がある。それはあり得ないのではないか。

 明治時代以降に、德川家の力を過小評価させようと、作為的に作られたものなのか。あるいは後世で、(西南戦争で死す)悲劇の主人公・西郷を英雄視する者が、第一次長州征伐で、德川家総督よりも参謀の藩士・西郷が采配をふるった、と創作したものか。それとも、勝海舟の西郷談に尾びれがついたものが、歴史上の大勢になってしまったのか。いずれかの可能性がある。

 現代人の多くは、山口県という視点から長州藩と他の2藩を混同し、同一視している。しかし、当時は国(藩)はまったく別もの。幕末の2藩と長州藩とはむしろ敵対する面が多々あった。
 高杉晋作などは下関・長府藩の藩士たちに命を狙われ、逃亡しつづけていたのだ。

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幕末史の空白と疑問(1)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 大政奉還は世界史でも珍しい、平和裏の政権交代だった。徳川15代将軍の慶喜が天皇に政権を返上した。それなのに、あえて2か月後には、薩長が武力で德川家を倒す策に出た。
 日本人の誰が考えても、戊辰戦争などやる必要がなかったのに。

 下級藩士だった西郷隆盛はとくに武力主義で、徳川家を戦いでつぶす、という軍事思想家だった。
鳥羽伏見の戦とはなにか。大阪から上洛中の徳川慶喜や松平容保(会津藩)の大勢の軍兵に、西郷たちが奇襲攻撃をかけたのだ。緒戦で勝った。そう評価するよりも、徳川軍には戦う気がなかったのだ。
 西郷は、生涯でこの勝利が最もうれしかったという。西郷の考えが、とんでもない、日本の悲劇を生むことになったのだ。

 戦国時代まで、国内の戦争は大名どうしの戦いで、下級武士はまったく儲からなかった。戊辰戦争は違った。会津藩が陥落した後、薩長土肥の下級武士たちが東北地方で、会津藩士は一人残らず青森の僻地に追いやり、思わぬ領地を手に入れたのだ。
「戦争は儲かる」
 その甘い汁を覚えたのだ。
 それら人物が明治政府の中核に座ってしまったのだ。
 まず西郷が最初に言い出したのが、韓国を植民地にすれば儲かるという征韓論だった。やがて日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、「勝った、勝った、外国の領土を奪った」という戦争国家に変わってしまった。

 江戸幕府は260年間にわたり海外と一度も戦わなかった。江戸時代の平和国家から、戊辰戦争は戦争国家に変わってしまった、大きな歴史のターニングポイントだった。
 明治政府とすれば、戊辰戦争の細部は教えてはならない恥部だった。悲しいかな、日本人は教科書で、その構図を教えられなかった。

 同政府は「神風が吹く、日本」と神話を造った。「教育勅語」すら、明治天皇はいっさい関与せず、薩長の政治家が勝手に作り、庶民を戦争に連れ出せるように、児童たちに丸暗記させるものだった。そして、徴兵制度で、「お国のため」という名目で、駆り出されていった。結果として、第二次世界大戦では、日本人だけでも数百万人の犠牲者を出してしまったのだ。
 日本軍が海外で殺した外国人兵士や庶民の数は教えられていない。

 現代でも、なぜ戊辰戦争が必要だったの、と聞いても、知識人を含めて、ほとんど、否すべてと言っていいほど日本人は答えられない。それは明治に作られた歴史教科書がさして変わっていないからだ。平成時代に生きる現代人も、そのこと自体を悲しむべきことなのに……。

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