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第68回・元気100エッセイ教室=ストーリー力のつけ方

  エッセイは「人生のある一点」の出来事を切り取り、短く表現する創作芸術です。特別にストーリーがなくても、味わい深く、完成度の高い、感動作品が生まれます。

 身辺小説とエッセイとの境界線は曖昧です。
 志賀直哉の「城崎にて」は短編小説だの、あるいはエッセイだの、と意見が分かれています。なぜか。この作品にはほとんどストーリーがないからです。

 一般に、エッセイには制限枚数があります。ストーリーに制約が出てきます。複雑なストーリーに寄りかかると、作品があらすじになり、失敗作に陥りやすくなります。
 むしろ、ストーリーが邪魔になったりします。

 エッセイ作品は一つ事柄を深耕し、一つ内容に拘泥し、書きこんだほうが無難です。成功率は高くなります。単純な素材でも、この作品は考えさせられるな、と深い内容になります。
 ただ、テーマ型のエッセイは、変化が少なく、読者を途中で退屈させるおそれがあります。また、味気ない作品になる可能性もあります。

「この作品は読ませるな」
「この作品は面白い」
 そう評価を得る作品は、筋立てが凝っていたり、構成の運びがよい作品が多いようです。次がどうなるのか、と読者を惹きつけます。
 読み手をつかんで離さない、ストーリー力を身につけると、エッセイでも、短編小説でも、全体の構成が上手になり、作品が光ってきます。


ストーリー力を身につけるコツ 6か条

①タイトルは、内容が見えない工夫をする。

   「夕立の後」 「残り雪」

②書き出しの1行で、何が起きるのか、と思わせる。
 
 「私はドアの前で震えていた」

③本文に入っても、結末が見えない状態にする。底が割れない、とも言います。

④読者の予想を裏切る、意外性のある展開にする。

⑤唐突な事象が出てくる、その前にこまかく伏線を張っておく。

不自然さはつねに伏線で消す

⑥最後に来て、「どんでん返し」は、ストーリーの最大の魅力です。


ストーリー力を磨きたい、あなたへ

 新規の作品を数多く書くことで、ストーリー力は磨かれます。

 一度、完成した作品は不思議に何度書き直しても、さほど良くならないものです。書き直し作品は、まわりの人が再読しても、「どこが変わったの?」と疑問視されるほど、変わっていないものです。

 おなじ力量で何度書き直しても、作品力は横ばい状態だからです。文章がちょっと良くなったかな、という程度。つまり、推敲のくりかえしで、作品の総合評価は上がりません。

 一つ作品をいくらいじっても、「新たな作品」への生まれ変わりはないと思ってください。それならば、一度投稿したり、どこかに提出したりした作品はすぐさま忘れてしまうことです。

 どうしても作品を手直ししたければ、数か年は作品を寝させることです。一方で、新たな作品作りに励む。それがストーリー力をつけていくコツです。

第7回・歴史散策・文学仲間たちと=王子~巣鴨

 日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の文学仲間7人による、「歴史散策」は7回目となった。4月17日(水)午後1時、JR王子駅に集合した。私は福島取材でいわき市から戻ってきたが、乗り物のタイミングが悪く、皆を改札前で20分も待たせてしまった。


 
 王子周辺を歴史・文学散策してから、都電に乗り、巣鴨へ向かう。そして居酒屋にたどり着く、というコース設定である。

 参加者は左から、井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)、吉澤さん(同事務局長)、山名さん(歴史小説作家)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家)、清原さん(文芸評論家)、そして穂高(作家)の7人である。

 王子駅から音無親水公園に出むいた。
 「案内板」には、江戸時代から名所として知られていたと記す。当時の資料には、一歩ごとに眺めが変わり、投網や釣りもできれば、泳ぐこともできた。夕焼けがひときわ見事で、川の水でたてた茶はおいしいと書かれていたという。

 現代では想像もつかない。まるで人工の川だ。


 王子神社はJR王子駅から徒歩5分くらいで、音無川の左岸の高台にある。門前から参道奥へと樹木が茂り、静寂な境内である。

 権現造の社殿は大きく、見るからに威厳がある。祈れば、願いごと(入試)が叶う、と思うのか、学校帰りの学生が立ち寄るところだ。

 神社の境内で出会ったのが「毛塚」です。この塚はなんだろう。

 理容、美容業、かつら屋などが髪の供養のために、昭和36年に建てたもの。世のなかには、いろいろな供養があるものだと、妙に感心させられた。

 珍しいだけに小説、エッセイ、コラムなど、執筆の材料になるのかな。7人のうち、何人かはそう考えているかもしれない。

 春風がやや強かった。下町情緒を楽しみながら、7人は次なる目的地に向かう。皆の頭のなかでは、情景描写として文字化しているかもしれない。

「ここは田中角栄の出身校だ」と知ると、皆が足を止めた。館内の資料館が一般にも開放されている、と明記されていた。

 見学を申し出ると、館長が説明してくれた。建築設計の専門学校で、田中角栄が長く校長に着いていた。戦前の女子たちも、建築設計の分野に進出していたと資料からわかった。

 散策の途中で、スズメが死闘をくり広げていた。路上で、まさに殺し合いである。人間の存在など関係なく、激しく攻撃をしていた。

 誰もがこんなすさまじいのは初めて見たという。
「オスのスズメが、メスを得るための死に物狂いの戦いかな」
 そう解釈していた。 
 

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正式な国名はどっちか。ビルマか、マャンマーか?

 スー・チー女史とともに来日した、ミャンマーの作家・人権活動家、マ・ティーダ博士が4月18日、日本ペンクラブで懇談会を行った。約1時間半。会員の参加は約30人だった。
 ティーダ博士(女性医師・作家)は1966年ヤンゴン市に生まれた、外科医である。1985年から作家活動を開始し、ミャンマーの民主化運動を海外に知らせた。その結果として、軍事政権ににらまれて、懲役20年の刑を受けて投獄された。

 懇談会は外部公開でないので、細部は語れないが、会員から国名に対する質問があった。
「ビルマか、マャンマーか。ヨーロッパや国連ではビルマで通す。ミャンマーという国名に対して、博士はどう感じていますか」
 どう答えるのだろうか。

 日本人には「ビルマの竪琴」などで、その国名の方がなじみは深い。軍事政権が「ミャンマー」の国名を押し付けている、と私は認識していた。

 07年9月27日に、映像ジャーナリストの長井健司さんが、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権の兵士に射殺された。世界を震撼させた。
 翌08年3月14日に、日本ペンクラブの人権委員会主催で、日本プレスセンターホールで、公開シンポジュウムが開催された。パネラーのジャーナリストが国名の報道を問題にした。
 日本政府は軍事政権に肩入れし、支援している。先進国のなかで、日本が軍事政権を国際社会で最も早く承認した。ジャーナリストも毒されているから、ビルマでなく、ミャンマーを使っているのだ、と噛みついていた。国連ではビルマを使用すると、ここでもそれが強調された。私もなるほどな、と影響を受けていた。

 それから5年の歳月が経った。日本人にもミャンマーが定着してきた感がある。懇談会の席で、マ・ティーダ博士が、
「どちらの国名でも別段、問題ありません。複合民族だから、地域的なくくり方で呼称がちがう。外国の方々がどう呼んでも、問題はない。気にはしていない」
 と述べたのには驚かされた。
 あのフォーラムで問題視した、国名のビルマは何だったのか。

 懇談会が終わると、茅場町の居酒屋に流れた。マ・ティーダ博士、浅田次郎会長、堀正昭さん(国際ペン事務局長)など10人ほどが参加した。
「考えてみれば、日本だって同じだな。ジャパンとか、ジャポンとか、どう呼ばれても、日本人はなにも気にしない。ミャンマーでも、ビルマでも、別にかまわないのは東洋人の発想かな」
 西木正明さん(直木賞作家)がそう前置きしてから、ロシア、中国、韓国での日本の呼び名を披露していた。なるほどな、と思った。

「にっぽんか、ほにんか。どっちが正しいのかな」
 浅田さんが首をかしげた。
 日本国憲法と、大日本帝国憲法では、「日本」の発音が違う。ここらも話題になったが、結局のところ、日本人自身も国名が定まっていない、という話になった。

 

朝日カルチャー『写真エッセイ教室』、新宿を止め、なぜ千葉なの?

 朝日カルチャーセンター千葉で、私が受け持つ『写真エッセイ教室』が4月20日からスタートした。講座は朝日カルチャー新宿を今年3月にクローズし、千葉で開設したものだ。

『写真の上手な撮り方、エッセイの上手な書き方、そして冊子の作り方が学べます。ビジュアル化時代で、この3本柱が同一の講師で学べます』
 これがパンフに乗ったキャッチフレーズである。
 11人が参加してくれた。第1回目は体験講座だったので、パワーポイントを使って「上手な文章の書き方」「上手な写真の撮り方」これら今後の指導ポイントの概略を説明した。


「なぜ新宿を止めて、千葉にしたのですか」
「朝日カルチャー新宿のほうが、抜群の知名度があるのに……?」
 数人の知人から、奇異な目で、そんな風に質問された。

 2つの理由があった。
 一つは「海は憎まず」の第2弾として、「フクシマ望郷」(仮題)で、福島県の浜通りに取材に入る。それには時間がほしかった。昨年末には、講座の縮小を考えたのだ。

「どんな事柄にも手抜きはしない。常に全力投球をする」
 この格言はいつどこで学んだのか、それは記憶に定かではないが、私の信条としている。

 提出作品の添削は一字一句を手に入れたり、総評を書いたり、アドバイスを与えたりする。小説講座、エッセイ講座、フォトエッセイ講座、区民記者養成講座、どれにおいても、一つ作品には最低でも3回は精読する。そして、手を入れる。受講生の提出作品数だけ、手間がかかる。

 福島への取材時間を作る。それは講座の数を減らすことだ。添削の負担を軽減できるだけではない。どの講座も半年間にわたり曜日が固定されてしまう。一つ講座を削れば、その日程が毎月空けられるし、取材日へとまわせる。

 朝日カルチャー新宿は止めようと考えた。

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三宅島沖地震、東京直撃の大津波はないのか=明日はわが身

 このところ淡路島の地震、そして 4月17日には宮城地震が発生している。同日の午後5時57分ごろに、三宅島の近海を震源とする地震があった。東京でも、震度4近くの揺れを感じた。
「不気味だな」
 そう感じた人は多いだろう。
 気象庁の発表によると、三宅島の近海地震はこの1回だけでなく、朝から夕方まで震度1以上が21回もあったという。そのうち、震度3以上は7回に及ぶ。今後の警戒が必要だという。
 他方で、震源地が島から離れているので、「三宅島の噴火とは関連がない」と発表された。となると、断層のズレによる地震なのか。


三宅島


 三宅島は相模トラフや南海トラフに近い場所にある。気象庁は巨大地震との関連について、「現状では見守っていきたい」という見解を示す。「見守る」とは実に都合の良い逃げ言葉で、聴き手には危機寸前で教えてくれると錯覚させる、危険な響きがある。わからない、と言ってくれたほうがより親切なのに……。

 3・11の宮城沖の大地震では、三陸のリアス式海岸以外でも、10m前後の大津波の被害に遭った。それが3・11の最大の教訓だった。
 もし、三宅島沖でマグニチュード8クラスの大地震が発生すれば、大津波がストレートに北上し、東京湾に入り込む。社会科の地図からしても、一目瞭然だ。
 類推だが、東京湾に10m前後の大津波襲来もあり得るかもしれない。となると、東京、横浜、千葉の住民はどうなるのか。それが単なる杞憂で終われば、幸いだけれども。

 4月2日から発売された、小説3・11『海が憎まず』が、発行部数が少なかったこともあるが、書店やネット・アマゾンでも売り切ればかりだ。知人から、本がネットで買えない、書店に申し込むと2週間だといわれた、読みたくてもすぐに読めない、と苦言がくる。
 出版社の日新報道に対して、「営業努力せず、売り切れ状態で放置しているんでしょう」と私は何度か抗議した。
「実際に、売れているんですよ」とおうむ返しの回答ばかりだった。


 『海は憎まず』のテーマは「文学は災害に対して、何ができるのか」と問いながら、被災地を回り、3・11の大災害から何を学び、なにを後世に伝えるべきか、と導いていくものだ。

 早くに読んだ、ある読者から、「大津波の恐怖は、明日はわが身ですよ。大正・関東大地震の大火災から、ずっと防火ばかり強調されてきたけど、『海は憎まず』を読むと、東京湾の大津波が怖い。巨大な地震・停電が来たら、まず地下から逃げろ、ビルの上にあがれ、という教訓が学び取れた。東京で大震災が起きたら教本になるから、ぜひ読んだほうがよい、と知り合いに勧めているんです」と話してくれた。

 本の口コミはこんな風に拡がるのか、と思った。 

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タイトル:なぜ「海を憎まず」でなく、『海は憎まず』か。「を」、「は」の違い

 多くの人から、文法的にみれば、『海を憎まず』ですよね、と訊かれる。カルチャー教室でも「小説」を教えている作家なのに、単行本のタイトルの助詞が間違っている。そんな顔もされる。

 人間の立場、人間の眼から見れば、「海を憎まず」だ。それは当然の疑問だろう。

 海を主体に置いた、海の方の視点でみれば、「海はなにも人間を憎んでいない」。大自然は決して人間の敵ではない。
 人間が憎いと思って、海が大津波を引き起こしたわけではない。人間側と海側と、双方の眼から見れば、「海は憎まず」が中庸として成立する。

 さかのぼること、同書を書くために三陸の各地を回っていた。陸前高田市で、ある50代の漁師を取材中に、
「津波は必要なんだよ」
 と真顔で話す。
「えっ。必要なんでか、津波が」
 私はびっくりした。
 
 東日本大震災は人間社会を破壊した。こんなにも大災害で、大勢の死傷者を出し、漁船など生産手段を奪われながら、なぜ津波を怨んではいないのか、私には理解ができなかった。

「津波は、人間が汚した海底の、どぶ掃除をしてくれるんだ。津波がくるたびに、海がきれいな状態に戻ってくる。数年に一度は津波がこない、と日本人は魚介類を満足にたべられなくなるよ」
 そう言われると、人間はあまりにも海を無造作に汚しすぎてきた、と妙に反省するものもあった。

「何十年に一度は、とんでもない大津波がくる。船もイカダも、一切合財津波が持っていかれてしまう。その時は、悲しくてつらい。でも、海から(漁獲で)貰った財産だ、生涯に2度くらいは海の神様に返す。そう自分に言い聞かせている」

 この話は、気仙沼大島の漁師もまったく同様に語っていた。
「2、3年に一度の津波はとてもありがたいんだ。津波は海岸に近いヘドロを沖まで、熊手のように、あらいざらい沖へ持って行ってくれるんだ。台風など嵐は海上の上辺だけが波立つだけで、海底の掃除までしてくれない」

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〝災害文学〟小説「海は憎まず」出版=『東都よみうり』に掲載

 小説 3・11「海は憎まず」(日新報道・1600円)が4月2日から、全国の書店で発売されます。アマゾンなどネットは4月5日頃です。

 東京の東部を中心に20万部を発行する『東都よみうり』(読売新聞の姉妹紙)で、出版を前に、同著の紹介記事が掲載されました。

 タイトルは「津波被災者の内面描き 〝災害文学〟小説「海は憎まず」出版 葛飾区の作家・穂高健一さん」です。作品の骨子とか、プロフィールが紹介されています。


記事全文はこちら

穂高健一著、小説3・11「海は憎まず」の執筆姿勢について

 拙著の小説3・11「海は憎まず」(日新報道)は、岩手県と宮城県の大津波の被災地が舞台になっている。諸般の事情で出版が少しずれ、3月末に刊行し、4月2日から全国の書店にならぶ。

「戦争文学」はあるのに、なぜ「災害文学」が生まれなかったのだろうか。災害後の人間の生き方、心の傷、差別、ねたみ、希望などはフィクションだからこそ、描けるはず。災害報道やノンフィクションとなると、人物が特定されるから、本音はとかく書き切れないものだ。ある意味で、綺麗ごとになってしまう。

 しかし、フィクションならば、「人間って、こういうこともあるよな」、「えっ、こんなことが起きていたの」という人間ドラマが描き出せる。それが「海は憎まず」である。

 関東大震災のとき、白樺派の文豪たちは何していたのだろうか。
 志賀直哉などは蜂の死骸(城崎にて)を書いても、大災害の被災者たちの日々を書き残してくれなかった。谷崎潤一郎は震災後、わが身を案じ、急きょ京都に永住している(遁走)。文豪たちは、後世に伝えるべき震災後の人々を書いてくれなかった。大震災でも、「災害文学」は生まれなかった。

 小説家は「都会の俗塵から離れ、芸術に専念する」という大義名分で逃げてはダメである。

 東日本大震災3・11は千年に一度の大災害である。こんどこそ、小説家は「災害文学」を作り出すべきだと、私は考えた。そして、毎月、三陸に出むいた。
 大船渡、陸前高田、気仙沼、気仙沼大島、南三陸町、閖上、女川で被災者に向かい合った。可能な限り本音を赤裸々に語ってもらい、それらを丹念に取材し、一つひとつをドラマ化し、書き上げた小説である。人間のほんとうの真実がある。

 日本は災害列島である。「災害報道」と「災害文学」は両輪の輪である。ひとたび災害が起きれば、災害報道の写真や記事だけでなく、プロ作家、アマ(同人誌、学校文芸誌など)で、誰もが被災後の人々を描き、あらゆる角度、それぞれの立場で書き残す。
 こうした「災害文学」の機運を作りたいと考えている。

「海は憎まず」が、災害文学の先駆になることを願っている。


関連情報

題名 : 小説3・11「海は憎まず」
著者 : 穂高健一
出版社 : 日新報道
ISBN978-4-8174-0759-7 C009
定価 1600円+税

書店で、予約受付中です。(初版本は予約がお勧めです)
ネット(アマゾンなど)は4/5頃になります。

希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(上)=陸前高田市

 2011年3月11日には東日本大震災が発生し、陸前高田市は16mの大津波に襲われた。

 それから約2年経った、真冬の2月22日、午前9時過ぎに、同市内の中学校が3校合同で、カキ漁船に乗り沖合に出た。

「世界でも、中学校専用のカキ養殖イカダを持っているのは、ここだけですよ」と関係者は語る。

 中学生のカキ養殖体験学習は12年間続いている。

 1年生は春の種付け、2年生は夏のおんとう駆除、3年生になると、冬場の収穫である。だから、今回は3年生だった。

 3・11の大津波では、中学校専用のカキイカダは流出し、学生たちが体育の授業を使って作った、新しいイカダである。

 この地方はイカダに杉丸太を使う。(気仙沼~広島などは孟宗竹である)

 三陸地方のカキは生育・収穫するには2年間を要する。震災後初めての収穫である。


 中学生たちがホイストを使って、ワイヤーをつり上げる。

 2年前の震災の年に、カキの稚貝がイカダにつるされていた。彼らが中学に入学した年である。それがいま3年生となり、生育したカキとして収穫する瞬間である。

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今季一番の寒波到来、雪の盛岡にて=写真散策


盛岡に来て、感動した一つが赤煉瓦の建物だった。明治44年に盛岡銀行本店として建築された。

明治時代の洋風建築の代表的なものである。保存はしっかりなされていた。


「北上川」の情緒を味わってみたかった。9-12月にかけて石巻の河口から「鮭が上る」と明記されていた。

真冬の2月末ともなれば、渡り鳥が静かに川面を泳いでいる。


盛岡城址に行ってみた。

雪のない瀬戸内に育ったせいか、雪景色が静かな感動で心にしみてくる。

宮沢賢治や石川啄木の詩歌の碑よりも、私にはこちらの情感の方が良かった。


真っ白な雪上に散った、1枚の枯葉にも心が奪われる。

雪国育ちの人はきっと笑うだろうな。


台座から、銅像が消えていた。なぜかわびしい。

軍馬に乗った将校は、南部家42代の南部利祥(日露戦争で戦死)の騎馬像だったと表記されていた。

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