広島藩の藩校「学問所」の取材に行く。そこでみた驚きの史料=修道高校
小説の執筆「戊辰戦争の浜通りの戦い」で、幕末の広島藩の取材を続けている。主人公は高間省三(20歳で死す)だが、資料が少なくて書き出しからけつまずいていた。
困難を極めている。ある意味で、それが歴史小説の創作のやりがいになるのだが……。
広島・私立の修道高校の近川俊治事務局長とのアポイントが8月2日、午後3時だった。時間的に余裕ある気持ちで、羽田空港に10時ごろについた。前日のANA確認では空席があった。ところが夏休み入りで全便満席だった。
「まずいな。どうするかな?」
旅先で、思いがけないアクシデントがあると、とっさの判断が必要になる。それが後のち良い思い出になることがある。かつて広島空港で最終まで待てどもキャンセルが出ず、リムジンでJR駅にもどり、新幹線とか、夜行バスとか、余計な手間をかけて戻ってきたことがある。それも何度かある。
こんかいは初対面の方だ。なにが何でも広島に行く必要がある。羽田から東京駅に戻り、新幹線となると時間的には厳しかった。空港内のANA発着便のボードを見上げた。電光掲示された△印は、岡山空港と山口宇部空港だった。どっちを選ぶかな。
「宇部空港は海岸だ。そこから電車で、景色のよい海岸線を見ながら、広島駅に行くか」
その考えは甘かった。宇部についたら昼前だ。新幹線を使わなければ、時間的に間に合わない。
海岸から、わざわざリムジンで、40分もかけて山奥の新山口駅まで行った。トンネルばかりの山陽新幹線に乗った。こんどは早くつきすぎて、御幸橋の修道高校まで1時間ほど余裕があった。
原爆ドームを見て、太田川沿いに下ってみた。うかつにも「御幸橋」を勘違いしていた。別の支流だった。方向を変えても公共の乗り物だと、約束時間に間に合わない。ふだん使わないタクシーに乗った。
「ずいぶん遠回りして、交通費をかけたな」
私は取材で作品を書くタイプだ。だから、取材費がかかるのは承知のうえだが、極力、タクシーなど使わず、その分より多く取材するポリシーを持つ。こんかいはまるで逆だった。
これまで鳥取藩や岩城平藩、相馬藩の現地取材に出向いた。それなりに足を運んだ価値はあった。ところが、広島はどこに行っても、原爆で資料がないという。
広島公文書館でも、広島城資料館でも、浅野家の分家があった三次歴史資料館にまで足を延ばしても、収穫はほとんどなかった。それが現実だった。
高間省三は秀才で、藩校「学問所」の助教だった。修道高校は藩校を引き継いでいる、と広島の郷土史家から最近教えてもらった。
藩校は全国どこでもエリート高校が引き継いでいる。修道高校は広島県内でも超一流校だ。
同校の近川さんが応対してくれた。「修道歴史研究会のメンバーならば、もっと詳しいのですが」と前置きして、冊子『修道開祖の恩人 十竹先生物語』が差し向けられた。
私は山田十竹なる人物は知らなかった。藩校の学問所を実質的に創設したのは、朱子学者の頼春水(頼山陽の父親)という先入観があったので、「開祖の恩人」にはどこか違和感があった。よく見ると、修道の開祖だった。