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心優しく、絵心で、明日をめざす=柏木照美さん

 2013年の梅雨明けが予想よりも早く、連日の猛暑だった。
 7月8日には、東京銀座1丁目のBartok Gallary(バートック・ギャラリー)で開催された、『紙芝居塾7期終了展』に出向いた。午後2時ころだった。地下鉄から会場まで、直射日光の暑さで、胸や背中に汗が流れ出るのがわかるほどだった。
「こんな猛暑の昼間ですから、お客さんはいらっしていません」
 案内状をもらった柏木照美さんが出迎えてくれた。梅雨入りしたばかりの猛暑日は、たしかに出かける人は少ないだろうし、ギャラリーが独り占めできた。


 出品者は10人の展示会で、手作りの創作紙芝居だった。柏木さんの作品は、『おいしい紅茶の入れ方』で8枚の絵だった。
 彼女に頼めば、仲間内のどの紙芝居でも披露してくれる。

『ほこらの龍』(ひぐちりかこ作)を頼んでみた。池に住む龍と村人と、あつれきと交流を描いた、心温かい内容の作品だった。柏木さんの口調はやさしく、擬人法の龍に感情移入できた。
(童心にもどれたのは何十年ぶりだろう)
 たまには童心に帰って、素直に楽しむのは良いものだ。

「私はナイーブなアートを目指しています」
 淡い色合いの作品に特徴がある。それだけに、彼女は「上野現代童画展」にも何度も入選している。

 紙芝居を始めた動機について訊いてみた。「会場は紙芝居と絵画の展示も行っています。私が最初に出品したのは 宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』を模した絵でした。それをみたギャラリーの女性オーナのジェイン・トビイシさんが、紙芝居を勧めてくれたのです」
 それから毎年出品しているという。物語の創作(ストーリー)、それに紙芝居の絵と、双方に才能が発揮できるので、彼女には向いていたようだ。

 8月には16人による『ありがとうがいっぱいサニー10歳記念展』(江東区・ギャラリーコピス)にも、作品を出品する。作品の売上の一部は東日本大震災チャリティーとして寄付される。

 柏木さんには、絵画とは別の顔がある。13年3月、「日本紅茶協会認定ティーインストラクター」のジュニア資格を習得した。1年間はしっかり勉強して習得したという。次回はおいしい紅茶を入れてもらい、紙芝居を楽しみたいものだ。

大阪も水没するのか。南海トラフで、JR大阪駅には津波が最大5m

「あすは、わが身」
 それが災害列島に住む人間の心構えである。
 大阪の市民は、大地震が来たら、津波を警戒して、地下鉄から逃げた方がいい。私たちは東北と関係ないと思ったら、危ない。


 「南海トラフ巨大地震」で3・11なみの地震規模のマグニチュード9・1が発生すれば、約2時間後には大阪湾が大津波に襲われる、と大阪府は公式に発表した。さきの中間想定の見直しを図ったものだ。

 津波が到達した後、JR大阪駅(北区)など市西部一帯は深さ最大5メートルで水没するという。

 大阪中心部は地下鉄網が発達している。地上が水没すれば、当然ながら、地下に浸水する。津波に襲われたら、地下からは強力な海水の水圧で逃げ切れない。地下街も、地下鉄も水没する。ここまで具体的に発表していないが、簡単に想像がつく。


 一部報道によれば、松井一郎知事は8日の記者会見で、「厳しい想定だが、被害が起きてから『想定外だった』と言い訳することはあってはならない。堤防崩壊を防ぐ強化工事などに力を注ぎたい」と述べている。内心は、地下街、地下鉄の水没など、脳裏に浮かべた発言だろう。

 行政は地下鉄浸水など最大のリスクを明瞭に言わない。これはある種の危機管理の欠如である。

 危険と危機との違いを知ろう。

 危険とは、まったく想定をしておらず、突然、危ない目に遭うことである。
 危機とは、システムの欠陥から、危ない目に遭うことである。行政が明瞭に予測しない地下浸水はシステムの欠陥である。


 穂高健一著『海は憎まず』でも、東北地方で行政が定めた「広域避難所」が低地すぎて、大勢の人が死んでいる、と被災地の事例を取り上げている。行政の方々も多く亡くなっているから、一概に批判もできない。だが、この経験は生かさなければならない。
 同書では、大都会が津波に襲われた場合の、地下鉄の危険性なども取り上げている。

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高校生の教科書から「漢字」を学ぶ=書宗院展

 第57回「書宗院展」が東京銀座画廊美術館の7階で開催された。最終日の7月28日に展示会に出かけた。書家・吉田翠洋(本名・吉田年男)さんの作品が出展されていた。

 書宗院展は古典の書を手本にした、書道である。歴史に名を成す大家に、より近づこうとするものだ。展示品は、たとえ模したにしても、古代から現代まで、名家の書を見られるのが特徴だ。今年は高校生の部の出品があり、制服姿の男女生徒らも会場で作品を観ていた。

 「書聖なる王義之らの生きた時代に思いを巡らし、その息子・『王献之尺牘』の書を出展しました」と吉田さんは語る。


 吉田さんから会場で、興味深い話を聞くことができた。

「楷書があって崩し文字が生れた、と多くの人が信じていますが、それは逆なんです。紀元前1300年ころの甲骨文(こうこつぶん)から、文字は始まっているのです」
 甲骨文を含めた篆書(てんしょ)、そして草書(そうしょ)、行書(ぎょうしょ)、楷書(かいしょ)の五書体が順次生れた、と話す。

 それが2013年度の高校教科書(書道)に出ているという。その実、吉田さんは教え子が書道教室にその教科書を持ち込んでいたので、それを見て知ったと話す。

 吉田さんは一つひとつ解説し、丁寧に教えてくれた。

「篆書」ということば自体はふだん聞きなれない。中国で生まれた最も古い書体で、甲骨文、金文(きんぶん)、小篆(しょうてん)を含めているという。秦の始皇帝時代に確立している。

 左右相称で曲線が多い。ただ、書写には時間がかかる そこで簡素化して前漢時代に隷書(れいしょ)が出現した。躍動感があふれる、動的な美しさだという。

 次に生まれたのが、日常の手紙などの早や書き用として、「草書」である。それは前漢の時代だった。「行書」は後漢に表れはじめた。双方とも、実用的に文字として発達してきたのだ。

「楷書」の兆候は早くにあったが、長い歳月をかけ、合理的な文字として、唐の時代に完成した。それが現代まで続いている。その後には新しい書体が生まれていない。
「明の時代、新の時代にはりっぱな書家はいるが、現在と同じです」と吉田さんは教えてくれた。

 こうした一連の記載が高校教科書(書道)に載っている。教科書からも、学ぶものも多いな、という思いを持った。

夏のPEN例会で、「思想・表現の自由」の重要性を再認識する

 日本ペンクラブ七月例会が7月16日午後5時30分から、千代田区の東京會舘で開催された。
 浅田会長は冒頭の話題として、7月の35度が4日間もつづいた猛暑を取り上げた。昭和元年から同20年まで35度の日は1回しかなかった。さらに昭和時代はわずか数日で、それも連続35度は一度もなかった。平成時代に入ったいまの異常気象を語る。
 浅田さんはパソコン(ネット)をやらない。書斎にはそれらの知識を引き出せる本が積まれている口ぶりだった。

 毎回、例会では20分間のミニ講演がある。佐藤アヤ子さん(明治学院大学教授)がタイトル『国際会議に参加して』のスピーチを行った。日本の文学作品がもっと海外に翻訳出版される、そうした体制を作るべきだと強調していた。

 パーティーに入ると、野上暁さん(常務理事・写真右)と、6月21日の日本ペンクラブ「憲法九十六条改変に反対する」声明と記者会見の内容について語りあった。
「野上さんの説明はとても解りやすかったです。中学生、高校生でも理解できるように……」
 その会報記事(写真・文)を担当する私は、記者会見の場を取材していた。

「総選挙の低い投票率を考えると、全有権者の3分の1くらいで議員に当選している。その議員が3分の2で憲法改正を発議しても、国民の総意からすれば少ないくらい。それなのに、議員の半数で拳法が改定なんて、暴論ですよ。国民の総意をまったく反映していない」
 野上さんはそう強調されていた。

 憲法と法律の違いについて、吉岡忍さんの説明も解りやすかった、と2人して話す。

『憲法は国家権力がどういう範囲内で、行政、立法、司法をやってよいか、と政治の枠組みを定めた、為政者の行動を規定するもの。法律とは国民の行動を規定するもの』
 一般の法律のように、議員の半数で憲法が改定される、とハードルを下げてしまえば、衆参の半分以上の議席を取った与党がそれだけで、憲法改正の発議ができる。時どきの政府が自由に憲法を変えれば、社会の根幹を変えてしまう、と吉岡さんは記者会見で説明していた。

 このさき憲法を改正し、「公共の秩序の維持」、という甘い言葉で法律までもが変えられたら、まさに官憲の弾圧を招いた、戦前の治安維持法の暗黒の時代に逆戻りする。九条とともに、重要な問題である。それは野上さんと私の共通認識だった。

 日本ペンクラブの約1800人には、多種多様な考え方、見方、思想がある。思想信条の自由がある限り、それぞれが自身の意見を述べていくべきだろう。それが作家の役目の一つだと考える。

 夏場のパーティーは毎年、出席者が少なめである。およそ200人くらいだろう。国際弁護士の斎藤輝夫さん(ニューヨークにも事務所)から声をかけられた。
「ネットで日本ペンクラブを検索していたら、穂高さんのHPにヒットしました。多彩な活動で読み応えがありますね」と妙に感心された。
 斎藤さんはこのたび国際委員会に任命されたという。同委員長とはまだ面識がない、と話す。ミニ講演の佐藤アユ子さんが同委員長である。私はよく知る人だ。
「ご紹介しますよ」
 彼女のいる場所に案内した。二人は国際通だから、すぐに打ち解けていた。


 その場を離れると、吉岡忍さんが声をかけてきた。
「2、3日まえに、(穂高)着歴があったけど?」
「轡田さんが立石に来るから、ひと声かけてみようか、と思っただけですよ」
 すぐに返事をもらえる吉岡さんだけに、忙しさは読み取れたと話す。
「いまメチャメチャ忙しくて。電話をかける余裕すらなくてね。実はTVドキュメントとの審査委員長で、ずっと映像を見っぱなし。9月の立石の飲み会は10月にしてよ」
「9月末か、10月に設定しましょう」
 弁護士の斎藤さんも、講談師の神田松鯉さんも楽しみにしている。

「海は憎まず」の話題が吉岡さんから(帯を書いてくれた)出てきたので、私はいまフクシマ取材をしていると近況を話した。
 先日は飯舘村の村長に取材しましたよ、と補足した。
「ぼくもあの村長に会ったよ。飯舘はしっかり追いかけると、これまでにない作品が生まれるよ。日本人が誰も描かなかったものが……」
 時代の切り口が鋭い吉岡さんだ。フクシマ小説に対するいくつかのヒントを頂いた。


 ととり礼二さんに会ったので、先月は幕末因州藩の取材で鳥取市に出向きましたよ、と戊辰戦争の一部を語った。

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猛暑の企画ミスから端を発し、「立石で飲もう会」に21人の酒友

 朝日カルチャセンター千葉は特別企画『昭和が残る立石を歩く、撮る、語る」を募集した。7月17日(水)午後2時に集合だった。ここ連日は猛暑で、熱中症が連日報道のメインになり、外出を控えるように言われている。
 私が企画したのだが、日時の設定ミスだった。参加応募者がわずか3名だった。当初は梅雨を心配してたいたが、猛暑となると、当然だろうな、と思った。
 12日(金)なって、この企画は最終的に流れた。

 ただ、石井朝日カルチャー社長、轡田隆史さん(元朝日新聞論説委員)も、参加を予定していた。こうなれば、私的な飲み会にしよう、と即判断した。集合時間は同日夕刻4時とし、仕事などの都合があれば、来れる時間とした。かつしかPPクラブ(6人参加)から声をかけてもらう。岡島古本屋の店主、石戸さん(かつしかFMに1時間番組をもっている)など、町を良く知る人が来てくれる。

 私の方は作家仲間の高橋克典さんを誘う。とならば、ストリップ作家の牧瀬茜さん、在日作家の金子京花さん。読売エッセイ教室の受講生だった、高橋さんも呼ぼう。葛飾区教育委員会の佐藤さん。

 朝日カルチャセンター千葉の大岩さん、栗原さんも「いらっしゃいよ」と声掛けする。当初申し込んでいた夏目さんも来てもらう。轡田さんはニュースステーション時代のディレクターを誘われていた。 

 あおばの女将には、事前に「飲み放題・食べ放題3500円」で、4時半から10時半まで借り切る、と話を通しておいた。
「何人来るの」
「わからないな。最低でも7~8人。多ければ、15人かな」
 こんな曖昧さだ。

 同日4時には、京成立石駅に10人が集まった。葛飾区伝統産業職人館を見た。夕刻から雨が振りはじめたことから、奥戸橋から東京スカイツリーでも眺めて、と思っていたが、それはやめた。呑んべ横丁から、踏切を渡り、仲見世を通って、あおばの方角へと向かう。


 仲見世で、桜井惣菜店の桜井さん(店主)とちらっと立ち話をした。彼は会うたびに、「立石をしっかり報道してね」と言われる。
 5年ほど前、立石の斜陽化が進んでいた。京成電鉄の高架が目前まで来ているので、商店街が消えていく危機感が漂っていた。
 住民の私は歳月の流れの中で、次第にさびれてく立石を見ていた。このままだと、ドロップダウンが加速するだろう。私なりになにかしら昭和が残る町を残せないか、寄与できないか、と考えていた。

 ネット・ニュースの企画ものとして、「立石仲見世の理事長・理事の『正月座談会』を行った。それも連載ものにした。若手理事の桜井さんは、先行きの暗さを最も語っていた人物だ。

 ホリエモン人気に乗ったネットニュースで、私は何度も「昭和の残る葛飾・立石はいいぞ、いいぞ」と記事にしていた。(読者層は若者だった)。四季の立石のイベントも取り上げた。
 酒場の紹介となると、日本ペンクラブの作家仲間に立石に来てもらい、杯をかわし、下町・立石の感想を載せた。と同時に、かれらの執筆の中で取り上げてもらったり、女性作家にはミステリー小説の舞台に立石を使ってもらったりしていた。
  

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かつしか区民記者・養成講座②=インタビューの実践ポイント

 かつしか区民大学の区民記者養成講座で、「書く」、「撮る」、「取材」の仕方を座学と実践で教えている。
 大手新聞は狭い地域の記事となると、内容が限られてくる。しかし、市民記者による、市民の媒体ならば、記事に厚みが出る。しっかり読んでもらえる。
 それだけに市民記者の取材力、インタビュー力は重要である。

 区民記者の養成講座では、課外活動として、インタビューの実践活動を行った。

 記者経験のない市民が、突如として手帳やカメラを持って、見も知らずの人に声をかけて呼び止める。あるいは著名な人に話を聞くのは「勇気」がいる。話しかけられなければ、なにも進まない。
 インタビュアの最大の資質は、「勇気」だといえる。これを前提にした上で、基礎的な知識を会得し、技術的なインタビューの実践を行った。

インタビューのポイント


① 最初に自己紹介をする。ノートとカメラはあえて見えるようにすると、信用度が高まる。

「私は葛飾区民大学(記者養成講座)の受講生です。きょうのイベントを取材しています。お話を少し訊かせていただけますか」


② 取材の冒頭から拒否された場合は、

 不快感を示さない。「ありがとうございます」と礼節をみせる。


③「どこで発表するんですか」という質問に対して、

  「区民大学の教材です。まだ勉強中ですから」と即答する。

 ・ メモを取りながら、話を聞く。

 ・ 常に聞き手だという態度を貫く。


③ 記者が知っている内容でも、初めて聞いた態度で接する。記者は自分の知識を話したり、関連内容や私事を語ったりしない。


④ 論争はゼッタイにしない。相手の話の腰を折らない。

⑤『質問』は相手が応えやすい、数字で応える質問から入る

 ・このイベントに来たのは何回目ですか

 ・どこで、このイベントを知りましたか

 ・いまご覧なった範囲内で、一番関心を持たれたものは何ですか。


⑥「はい、いいえ」の答えになる質問は、後が続かなくなる。


⑦ 取材する相手のプライベート情報は、極力後ろ倒しにする

 ・どちらからお越しになったのですか

 ・差支えなければ、お名前を聞かせていただけますか。

 ・ご年齢は、何歳でしょうか
 

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第70回元気100・エッセイ教室=「光る文章」について

 創作エッセイは、同じ素材、似た内容を取り上げても、書き手の技量によって作品の完成度が違ってきます。
 全体の骨組みがしっかりした作品であることが前提ですが、「きらっと光る文章」が2か所以上あれば、評価の高いエッセイになります。

 「光る文章」とはなにか。一言で言えば、読者の心を一瞬にしてつかむ、気のきいた文章です。思わず『巧いな』と呟くのが常です。と同時に、読者はくすっと笑ったり、思わず涙したり、ジーンと胸にひびいたり、文章自体が強く印象に残ります。

 もう一つは観察の目が鋭い描写の場合です。「なるほどな」という説得力が織り込まれています。このように「光る文章」は、文体と観察の2つの面で要約されます。


文章面で光るとは

①ふつうは考え付かない、素晴らしい表現がある。
②独自の想像力が働いた、巧みな言い回しの文がある。
③何度も書き直し、練り直し、文を磨いた切れ味の良さがある。


観察の面で、光るとは

①人間の言動の一瞬を巧くつかまえている。
②対象物が正確なぴたり見合った言葉で書かれている。
③丹念に観察したうえで、限りなく短い言葉で言い表している。

 文章は書き慣れてくると、職人芸に近づいてきます。
 文章の技量が増すほどに、やさしい言葉で文章を光らせます。それが読者の共感や共鳴を誘い、感動作品を生みだす道になります。

 しかし、書く量は多いけれど、光る文章がない(殆どない)人もいます。なぜでしょうか。それは一つ作品に対する推敲する回数が低いからです。
 2、3度の推敲では、光る文章どころか、意味不明で首を傾げたくなる文も混在しています。これでは文章上達はさほど望めません。(中級止まりで、上級は難しい)

 文章が上手な人ほど、プロほど、一つ作品にたいして推敲する回数が多く、一字一句もおろそかにしない態度で臨んでいます。推敲の重要さを認識しています。
 だから、「巧い文章だな」、という光るものが根気で生みだせるのです。

歴史的な写真発掘 高間省三と最新式短銃=龍馬すらも写していない

 私は、ここ5年ほど前から、幕末の芸州(広島)藩の役割と再評価への取材を続けてきた。2011年にはフクシマ原発事故が起きた。それから2年経った今年、広島藩の戊辰戦争に目をむけた。

 興味深い人物が浮上した。鉄砲奉行の長男の高間省三である。秀才中の秀才が、農兵(神機隊)に飛び込み、出兵している。福島・浜通りの浪江の戦いで、一番乗りしたが、顔面に銃弾を浴びて死んだ。

 取材内容の一部は、穂高健一ワールド【フクシマ取材ノート】に掲載もしている

 20歳で戦死した若き砲隊長・高間省三の取材では、双葉郡の各教育委員会(4町村)の学芸員、さらには広島・鳥取の戊辰戦争研究者の方々も協力してくれている。

 別途、高間省三の子孫がわかり、川崎康次さんからは貴重な史料が貸与してくださった。脱筆までの条件で。ここには貴重な高間省三の写真が含まれている。


 1868(慶応4)年、広島・御手洗港から「神機隊」は戊辰戦争へと、芸州藩船で出港し、大阪で一度上陸している。高間省三が大阪の写真師の下で、写真を撮ったのである。
 撮影後、省三は父親(鉄砲奉行)に手紙を添え、この写真を送っている。(死の5か月前)。

 坂本龍馬も長崎で写真を写している。だが、短銃を持った写真はなく、突っ立っている姿だ。高間省三の写真は武装した姿だけに、戊辰戦争の戦力の違いなど、多く読み取れるものがある。幕末史の研究者たちにも、広く役立つ写真なので、あえてこのHPで掲載した。

         【写真コピーは厳禁いたします】      

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かつしか区民大学・区民記者の養成講座①=「インタビューの仕方」実践

 情報時代とは何か。発信側と受け手との境目がなくなり、大小メディアと市民とがおなじ土俵に乗り、だれもが豊富な情報を共有化できる文化になったことだ。

 市民側が発信する媒体としてブログ、冊子、SNS、フェイスブック、ツィターなど多種多様である。これらが一堂に会するので、ネット検索で、あらゆる情報が瞬時に入手できる。
 つまり、情報化時代とは大手マスコミの独壇場の崩壊ともいえる。

 情報化時代がこの先も、いっそう進化するほどに、市民側からの発信比率が高まってくる。ただ、発信する市民側に、「記事を書く、読ませる」の基礎知識や訓練がなされていないと、独りよがりになってしまう。

 受け手側にも選択の自由が広がる。いくら書いても、写真で見せても、取材力がなく、内容が薄く、独りよがりで裏付けがなく、嘘が混ざっていたりすれば、受け手から無視されつづけてしまう。

「他人(ひと)には、より正確な情報を伝える」
 それは簡単そうでむずかしい。
 市民といえども、記事を書く上で、ジャーナリズムの技術の会得は必然である。

 かつしか区民大学では、区民が区内の情報を発信する時代がくる、その先取りで、5年前から連続して「区民記者養成講座」を開催してきた。市民記者としての基礎知識を学ぶものだ。
 講座は8か月のワンクルーで、2時間の講座が6回、1日の課外講座(7時間)が2回で、合計8回の受講となる。

 記事の書き方、報道写真の撮り方、インタビューの仕方、この3つを柱としている。

 記事の書き方は座学でもできる。インタビューは模擬演習でなく、町(現場)に出て実際に体験しないと身につかない。さらに場数を踏むことで、身に付き、上達していくものである。

 2013年度の課外活動の第1回目は、6月16日(日)、「テクノプラザかつしか」で開催された『かつしか環境・緑化フェアー』(主催は葛飾区環境課)で行った。受講生12人中10人が参加し、同大学を運営する葛飾教育委員会の担当者が3人同行した。

 集合場所の青戸地区センターで、まず30分間の基本的な知識の再確認を行った。

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推薦図書 出久根達郎著「七つの顔の漱石」(エッセイ)=文豪の素顔

 夏目漱石といえば、日本を代表する大文豪である。東京帝国大学教授、作家、朝日新聞の記者。ここらは多くの人が知る。あとはどんな顔があるのだろうか。

 夏目漱石をこよなく愛し、漱石の生き方まで研究しているのが、直木賞作家の出久根達郎さんだ。「漱石に七つの顔があった」。それは七変化のように、作家から素早く、身を変える正体不明な人物ではない。漱石は多彩な人物で、幅広い能力を持った人だという。

 学生時代は器械体操の名手であったと、同級生が証言している。富士登山は2回、ボートは東京から横浜間、乗馬やテニス、相撲観戦などと多彩である。
 漱石のイメージといえば、胃病に苦しむ憂うつな表情である。それだけに、スポーツマンの漱石はおよそ従来のイメージと結びつかないものがある。

 これらをエッセイで楽しく読ませせてくれるのが、5月20日に発行された、出久根達郎著「七つの顔の漱石」(晶文堂・1600円+税)である。

 第一部は「七つの顔の漱石」である。

 漱石が大好きの出久根さんは、漱石に関連ある書籍、手紙、掛け軸などは片っ端から集めた。これら資料から、漱石の七つの顔を一つずつ丁寧に紹介している。

 多くの漱石研究書は内容が良くても、論文調でなかなか作中に溶け込めない。しかし、同書はユーモアたっぷりのエッセイで、とても読みやすい。単なる偉人紹介でなく、七つの顔が解き明かされていく、楽しさがある。と同時に、ごく自然に漱石の人物像に近づくことができる。


 漱石の本は『漱石本』と称し、装丁の図柄、色彩、品格などが同時代の書籍に比べて抜きんでている。古書界において、カバー自体にも美術工芸品としての高価な値がつく。漱石が単なる作家でなく、美術評論家、装幀家の顔があった、と同書で記す。
 出久根さんは古本屋稼業が長かっただけに、古書の価値となると、説得力がある。

 漱石がソバが好きだったか、饂飩(うどん)が好きだったか。
 それにまつわる数々のエピソードが同書で紹介されている。「吾輩は猫である」の内容からすれば、ソバだろう。
 漱石がなぜ松山中学の教師に赴任したのか。それはいまだに謎である。漱石は松山への都落ちを受け入れた理由は饂飩党だったからかもしれない。
「好物が人生を変えた」
 出久根さんはそう愉快に推論する。

 漱石は友人らに、いまでいう自筆の絵手紙を送っている。自画像のスケッチもあれば、日露戦争の時に、裸婦の絵も送っている。官制はがきだから、役人から不謹慎だとクレームがつきそうだが、漱石は堂々と差し出している。

『吾輩は猫である』
 夏目家に迷い込んだ捨て猫は、育てられながらも、名前が付けてもらえなかった。その猫が死んだ。漱石は門下生に、はがきに黒枠の猫の死亡通知を出した。漱石の機知か、猫への愛情か。
 出久根さんも、それを真似て愛犬が死んだときに、「ご会葬には及び申さず」と死亡通知を出したところ、花や悔み状が届いたという。
 読んでいて、思わず吹き出してしまう。

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