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日本ペンクラブの9月度例会=今年は日本に喜びが2つ、危険が2つ

 2か月に一度の日本ペンクラブの総会が、東京會館で開催された。

 浅田次郎会長は、今年は2つのビッグニュースがあった、とあいさつで語った。
一つは富士山の世界文化遺産に登録だった。浅田さんは幼いころ銭湯通う日々で、大浴槽の壁面には富士山のペンキ絵が描かれていた。気持ちを温めてくれたし、そこからも富士山への愛着が育った。

 国際ペン東京大会で、国際委員のメンバーが東京から京都に向かう車中で、「富士山に近づくと、みんなが窓際に集まった。往路は雨だったが、復路では富士山がくっきり見えた。外国人にいかに人気かわかりました」と話す。

 今年は、もう一つ喜ばしい話題として、東京オリンピックの決定がある。
「先のオリンピックは私が中学生でした。その頃、オリンピックは何度も日本にくるものだと思っていた。いや、長かったですね。皆さんも、こんどは何歳の時かな、と計算されるでしょう。そのときは、私は68歳です」
 みずからの年齢を明かしていた。
 
 その一方で、原発は大丈夫か、と不安な問題を語る。福島原発事故では20万人がまだふるさとを離れてプレハブに住む。ここらの解決がおなざりにならないだろうか、と不安を覚える、と話す。
 東京に一極集中の傾向がさらに強まるのではないか。
 これらは気になるところだ、と功罪の両面を見据えていた。

 吉岡忍専務理事が9月度理事会の報告を行った。

 安倍政権が推し進めている「特定秘密保護法」と、「憲法改正の方向にある」をどう扱うか、という重要な問題が話し合われた。
 特定秘密保護法(秋の臨時国会に提出予定)は、国の機密を漏らした公務員を罰するもの。最高10年の懲役刑を科す内容となっている。公務員を委縮させる恐れが十二分に予測できる。
 さらには、法の解釈と運用によって、同法が悪用される危険性が高く、取材の自由、報道の自由を奪う。日本ペンクラブとしては反対する。 

 憲法の改定も、言論・表現の自由を奪いかねない。ここらはしっかり話し合う必要がある。
『文学と憲法』と出して、フォーラムが10月10日には予定されていると発表した。

 国際ペン2013年がアイスランド共和国の首都・レイキャヴィークで、9月9日から開催された。同大会に参加した、佐藤アヤ子さんが、その報告を行った。同大会が開催される首都レイキャヴィークにつくと、360度見渡せる氷原だった、と話す。
「地球の果てにきた雰囲気でした」
 人口が30万人の国で、そのほとんどがレイキャヴィークに住む、とつけ加えた。

 同大会では堀武昭さんがペン事務局長として再選された。(賛成67、棄権7、反対ゼロ)。任期は3年である。日本人初の事務局長だし、再選されて喜ばしい。

 人権問題に関する議題が多かった。他に目立ったのは、「少数言語の保護」と「表現の自由」におけるエジプトやトルコ(クルド)などの問題だった。

 国際ペンに、新しくミャンマーとインド(これまでは加盟しているが、もう一つ)が加わった。

 来年の開催国で紛糾したが、キルギス共和国の首都ビシュケク(旧名フルンゼ)に決まった。同国は誘致活動が活発で、大統領の特使の大臣も来ていたという。

 佐藤さんは、会場で唐突に指名されましてと言うが、明瞭な語りで報告を行った。さすが大学教授である。

世界における日本文化=近藤誠一(元文化庁長官)(下)

 日本P・E・Nの九月度例会における、・ミニ講演は元文化庁長官の近藤誠一さん(PEN会員・1946年生まれ)で、タイトルは『世界における日本文化』である。


 近藤さんは日本文化の3点を強調した。

①自然観
②曖昧さ(白黒をはっきりさせない)
③眼に見えないものに価値を見出す。

 近藤さんは2番目の『曖昧さ』について語った。

 日本の文化では白でも黒でもない、曖昧さが『間』の表現になっている。余白は単なる書き残しではない。空白に意味がある。その曖昧さには包容力がある。
 悪人にも良い点がある(蜘蛛の糸・芥川龍之介)。善人にも悪い点がある(義経勧進帳)、という考え方である。

 日本で世論調査を行えば、おおかた中間的な意見か、真ん中が大多数になる。しかし、欧米は右か、左である。日本は約2000年間にわたり異民族に支配されたことがない。それらが背景となり、「白でもない、黒でもない」その中間が存在する。

『日本人は眼に見えないものに価値を見出す』
 その点では、相手の心がわかる、という点を強調した。

 夫婦の間をたとえに出す。外国人の夫婦は毎日、「愛している」とたがいに確認する。言い忘れると、相手は嫌いになったのだと決めつける。
 日本人は「好きなの、嫌いなの」と言葉で求めれば、それは野暮だと捉える。日々の生活をみていれば、愛のことばは必要がないし、言葉による確認がなくても、苛立つこともない。
 とかく欧米人にはこれがわからないらしい。

「富士山は人間が作ったものではありません。でも、世界文化遺産に登録されました。自然遺産でなかった。ここに日本文化の特徴があります」
 近藤さんは、文化遺産を強調した。
 世界自然遺産の場合は、地理学的、生態学的に、その自然を残す必要があると認められたものだ。

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世界における日本文化=近藤誠一(元文化庁長官)(上)

 日本ペンクラブ9月例会が、東京會館(千代田区)で開催された。ミニ講演は、元文化庁長官の近藤誠一さん(PEN会員・1946年生まれ)で、タイトルは『世界における日本文化』である。近藤さんは外務省、ユネスコ大使、文化庁長官を3年間ほど歴任している。経歴からしても、文化面な知識が深い会員である。
 欧米と対比しながら、日本の文化特性について語った。

「日本人の性格は、勤勉、清潔、自己抑制(他人への思いやり)です」
 近藤さんはまず3点を強調した。
 明治以降の近代化の流れに乗った日本は、戦後約70年間にわたり、科学面で欧米を真似てきた。ある時期は、「日本製品は安かろう、悪かろう」というレッテルが張られた。その後はクオリティー(品質)重視から、機能、デザインに重きをおいた製品化につとめた。
 そこには日本人の特性が生かされている。それは繊細、緻密、耐久力(とことん突き詰める)という、日本人の3つの特性である。

   ①自然観
   ②曖昧さ(白黒をはっきりさせない)
   ③眼に見えないものに価値を見出す。

 これが日本人の文化の特性だと、近藤さんは語る。それを中心に話を進めた。

 西洋人の技術開発の基本は『人間は偉い、自然の弊害を解決できる』という理念である。合理的、唯物な考えから、人間は自然を克服できる考え方である。
 しかし、日本人は自然を征服しようと考えない。『自然の偉大さ、怖さ、素晴らしい』を受け入れている。自然を征服しようとすれば、自然からしっぺ返しされる、とわかっている。自然との調和を考える。

 たとえば、世界遺産になった平泉の毛越寺(もうつうじ)の、日本庭園は自然のなかに庭造りを行い、庭木や石を配置している。『自然を味わう、自然の流れに沿う、自然の美しさを感じる』という自然にそくした姿勢の庭造りである。

 欧米は二元論である。右か左。イエスかノー。0か1か(デジタル)。そこには便利性とスピードがある。多様な民族が住めば、欲望と物が中心で奪い合いになる。
 ブッシュ大統領はかつて「同盟国か、さもなければ敵か」と関係国に二者択一を迫った。敵は悪だと言い、攻撃したことから、テロの連鎖を引き起こした。
 しかし、日本は相手の文化を重んじる。イランでも、ミャンマーでも、「人権は侵害しているが、良い点もある」という考えから、両国とも接してきた。そこには良いところを引き出してあげる姿勢がある。【つづく】

【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(下)

 江戸時代の甲府は東海・東山をうかがう要衝(ようしょう)の地である。江戸の防御の要の一つ。慶応4年2月1日に、思いがけない官軍の先鋒が現れたのだ。それは『官軍鎮撫隊(ちんぶたい)』だった。

 同隊を先導したが、小沢雅楽介(おざわうたのすけ)である。本名を小沢一仙(いっせん)という、伊豆半島・松崎生まれの宮大工だった。
 かれは発明発見、発想がユニークな人物だった。風変わりな沈まない船を設計したり、琵琶湖と日本海結ぶ運河を作ろうと奔走したり、まずは奇想天外な人物だった。

 大政奉還、王政復興、鳥羽伏見の戦いの頃、小沢はちょうど京都にいた。草莾(そうもう・武士でない、民間人たち)の志士として一旗揚げようと考えたのだろう。公家(くげ)の高松実村(さねむら)を総帥に仰ぎ、『官軍鎮撫隊』を立ち上げたのだ。かれには勤王志士とのつながりはない。高松実村は、父保実の三男で、政治もわからない、ボンボンだった。
 それを担ぎ出したのだ。小沢の単なる着想だった。
 
 慶応4年1月18日は鳥羽伏見の戦いが起きた半月後で、きな臭い京都だった。わずか14人で京都を出発した。『官軍鎮撫隊』とは名前から行けば、江戸・徳川を鎮撫(討幕)することを意味する。小沢雅楽介にすれば、遊び半分だったかもしれない。軍資金もなければ、武器もないのだから。

 小沢雅楽介はいずこでも、「尊王」を声高に叫び、「鎮撫の趣旨」を呼びかける。東海道を東に進む。「官軍の先鋒隊である」、「御一新(ごいっしん)である」と言い、大垣藩、彦根藩などから武器を提供してもらい、兵士を借用する。美濃、信濃へと進む。
 街道沿いの諸藩の家老たちは礼服で迎え、藩士たちを同隊に加えさせた。

 神主や御岳御師(おし)なども組み込む。約3000人からの堂々の陣容となり、宿場では人足、駕籠、馬などを出させる。2月1日には、台ヶ原で、10ヶ条を発表した。
「当辰年は年貢を半分にする」
 そんな農民には夢のような内容である。
「浪人でも、勤王に励むものは朝廷への出仕を許す」
 天皇がどんな存在かも下々のものはわからないし、きっとありがたい話だと信じ込んだ。

 大工が頭で公家を一人連れて「官軍鎮撫隊」を名乗っただけでも、わずか半月で3000人の軍隊が作れる。これはまさに画期的なものだった。


 新政権で孤立を深めていた西郷隆盛は、これを見逃さなかった。
「公家と参謀がいれば、戦闘部隊が作れる。軍費も少なくて、大勢が戦いにはせ参じる」
 即時、2月9日には、東征大総督府をつくった。、公家の有栖川熾仁親王を大総督宮として、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

 新政府の公家たちは戦争経験など皆無なのに、「幕府鎮撫府」と、「東北鎮撫府」の総督として祭上げて、京都から連れ出したのだ。参謀は、西洋式軍隊で実戦経験がある、薩長土の下級藩士たちだった。
小沢雅楽介がやったように兵士と軍糧を現地調達しながら、進軍したのだ。「宮さん、宮さん」という軍歌も作られた。


 江戸城開場までが、西郷隆盛の活躍の場だった。京都から品川まで、「みやさん、みやさん」という小沢雅楽介の方式が通用したのだ。尊王、公家といえば、ひれ伏したのだ。
 しかし、江戸城は明け渡してもらったが、江戸・東京の佐幕派、とくに彰義隊などに通用しなかった。西郷は腕力で押す武将型だ。手をこまねいていた。
 

 長州藩の知将・大村益次郎が緻密な戦略戦術で、一日にして彰義隊を壊滅させたのだ。と同時に、軍師として奥羽攻めの細かな采配を振るった。
 諸藩にたいして武器、兵士の数、食糧、軍資金など、細かく指図した。敵の動きを読み、郡部の各関所に配置する、兵士の数までも決めたのだ。それはすべて当たっていく。
 こうなると、西郷隆盛は無力化してくる。その一方で、長州藩が発言権が強まり、最も影響力を持ち、明治軍事政権への道をまっしぐらに進んでいくのだ。

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【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(上)

 歴史にはとかく空白がある。空白を埋めてくれるのが、資料や史料である。それがない場合は歴史学者は不明・不詳とする。しかし、作家ならば推論、空想の世界で、空間をつなぎ合わせられる、と私は考えている。

 慶応4年1月3日、西郷隆盛の指揮の下、鳥羽伏見の戦いが起きた。幕府軍は京都周辺から敗走した。しかし、西郷隆盛には新政権をいかに強奪するべきか、具体的な知恵や政争がなかった。
「戦いに勝っても、交渉で勝たねばならぬ」
 西郷には、それが欠けていた。相手と対峙したとき、大きくも小さくも響く。だが、自らの発想で推し進める策略家ではなかった。

 西郷は後年、鳥羽伏見の戦いで、(誘発に乗った)幕府軍が発した一発の銃声が生涯で最も嬉しかったと語っている。クーデターのきっかけができた、と殊のほか本人は喜こんだのだ。つまり、武人なのだ。

 京都に成立した新政府(京都政権)の要人らは、鳥羽伏見の戦いは新政府が西郷らに頼んだわけでもないし、あれは薩摩と幕府の喧嘩だと言い放った。

 西郷は軍事クーデターを起こしてみたけれど、新政権のトップになれなかった。総裁は有栖川親王のままである。西郷には徳川家を武力で叩きのめすことだけが目的で、京都に生まれた新政権の内容をすり替えるだの、陰の内閣の構想すらもなかった。

 京都政権は諸外国に承認を求めるなど、外交努力をはじめている。軍人肌の西郷のでる幕は殆どなかった。
「喧嘩は強いが、政治手腕に卓越した知恵はない」
 
 西郷隆盛が鳥羽伏見の戦いをしかけ、幕府軍は京都・大阪から敗走した。一ツ橋慶喜は上野寛永寺で恭順の態度をとった。つまり、それで終わってしまったのだ。
 新政権にはしばらく目立った動きがなかった。戦争よりも、内政重視だった。そうなると、政策通でもない西郷は蚊帳の外だった。ところが突発的に戊辰戦争へと突入した。この空間で、何が起きたのだろうか。
 これは私の長い間の疑問の一つだった。

 9月10日、私は戊辰戦争の調べもので甲府に出向いた。目的は西郷ではなく、芸州藩だった。

 芸州(広島)藩は、上野で彰義隊と戦い、次なる飯能戦争、甲府、小田原戦争、そして東北・浜通りの戦いへと転戦している。甲府にはなにか、芸州藩の戦いの跡か、エピソードはないだろうか。
(きっと史料はないだろう、ダメもとだ)
 無駄は覚悟の上だ。

 甲府・勝沼の戦いとなると、新撰組の近藤勇の敗北が有名だ。甲陽鎮撫府(こようふちんぶふ)は近藤指揮の下、約200人の軍勢が江戸から甲府城に向かった。都下、日野あたりは新撰組の出身者が多い土地柄だ。どこの村でも『祝・近藤勇・新撰組』で、飲めや食えやで大歓迎。調子に乗り過ぎた新撰組(一部会津藩士)にとって、これが大きな失策となった。

 官軍の東山道総督府(とうさんどう そうとくふ)の土佐藩・板垣退助、因州(鳥取)藩の河田佐久馬らに先を越され、1日違いで、甲府城を抑えられてしまったのだ。

 新撰組は甲府城に入れず、その手前の勝沼の戦いで、大砲すら撃てず惨敗した。近藤勇は逃げて流山(千葉県)で捕まり、当時1万石の身分(1万石から大名格)だったが、切腹もさせてもらえず、打ち首だった。

 私には、それ以上の甲府関連の認識はなかった。

 山梨県立図書館に立ち寄った。りっぱで豪華な図書館だった。館長が阿刀田高さん(日本ペンクラブ元会長)だった。私は広報委員として面識があるし、「挨拶しようかな」と一瞬思ったけれども、館員から、非常勤だと聞かされたので、止めた。

 2階の「郷土資料」コーナー担当の男性図書司書に、甲府における芸州藩の足跡を調べたいと申し出た。同館のPC検索サイトには何も引っかからなかった。
「まちがいなく、広島から隊が甲府に来ているんですか」
 図書司書が訊いた。
「広島の石碑文に書かれていますから」
 私は簡略に説明した。
「そうなると、『甲府市史』か『山梨県史』からあたるしかないでしょう」
 それは根気がいる。仕方ないと思い、分厚い市史や県史や関連資料を開いていた。

 幕末の政治、支配者層、産業、文化などの項目から、「山梨は賭博が盛んな土地柄」だと明記されたていた。理由は、藩領でなく、天領で役人の眼が薄かったからだという。甲府・武田信玄は有名だが、徳川時代には藩主がおらず、代官がまとめ役の土地柄だった。

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エッセイ教室70回記念誌(「元気に百歳」クラブ)=序文

 真夏の太陽が海面にかがやく。波静かな海には富士山に似た大崎上島が浮かぶ。竹原港から乗った中型フェリーが、私の故郷の島に向かっている。この島には橋が架かっていない。瀬戸内海では数少ない離島の一つだ。
 東京に出てきたころ、「島育ち」は田舎者の代名詞のようで、人前で語るのは嫌いだった。故郷が恥ずかしいとさえ思ったものだ。
 本州や四国との間で橋が架かると、離島ではなくなる。大崎上島はいま瀬戸内海で最も大きな離島になった。淡路島、小豆島も離島でなくなったからだ。
 船を使わなければ渡れず、近代化や文化が遅れた、過疎の島と形容できる。しかし、不便さが却って人気となり、メディアに何かと取り上げられている、と島民が教えてくれた。不便さが今後の期待につながっている。故郷は静かに変貌しているのだ。
 大崎上島には血筋の身内がいない。それでも私は故郷に足を運ぶ。若いときには、あれほど帰省すら嫌だったのに、と思う。
「故郷は心の財産だな。精神的な支えだ」
 上陸すれば、なおさらその想いが強まった。


 3・11東日本大震災から、2年半が経った。三陸の大津波の被災地は『海は憎まず』として発刊することができた。その後は、原発事故関連の取材で集中して福島に入り込んでいる。私の故郷に対する、見方、価値観がごく自然に変わってきた。
 双方を取材して、私なりに導いた定義がある。
『三陸は大津波による物理的な破壊、福島は精神的な破壊だった』
 福島・浜通りの住人は原発事故直後、恐怖ともに故郷から追い出された。そして流浪の民になった。
 原子炉の底から沈降した核燃料がメルトアウトしている可能性がある。地下水に触れているかも、と住民はそれを恐れる。数年先、数十年先に、高濃度の放射線に襲われるかもしれない。それすら現状では予測できない。住民はもはや故郷に帰りたくても、帰れない、流浪の民となってしまったのだ。


 年配者やお年寄りは故郷に帰って死にたい、と考える。若者は幼い子を放射線のなかで育てられない、と見限る。親子でも連帯感が失われる。夫婦においても考え方の違い、温度差から、離婚が増えている。故郷を失くした人の心はしだいに廃っていく。
 これら福島の人たちと取材で接すると、故郷がいかに大切なものかと解る。と同時に、広島県の離島が、私の人生の根っ子なのだと再認識させられた。


 このたび70回記念誌が発行できた。それぞれ創作の力量は高まり、完成度の高い作品や、生き方を味わえる良品が多い。実に、読み応えがある。
 エッセイは作者の体験・経験がベースになっている。だから、当事者の作者しか知り得なかった、貴重な証言であり、将来は研究資料、史料的な価値も予測される作品もある。滑稽なエピソードが、読み手としては楽しく愉快な作品もある。さらには夫婦、家族愛、人間愛から胸にジーンと響き、涙する作品もある。

 作者側から見れば、創作作品が冊子になっていると、いつでも読み返せる。人生を回帰できる。作品
そのものが「心の故郷」になっているのだ。
 この意義は大きいと思う。


 関連情報

 「元気に百歳」クラブ・エッセイ教室

明治政府は軍事クーデターによる軍事政権である:正しい歴史認識

 各地で戊辰戦争の取材をしながら、おなじ疑問に突きあたる。なぜ大政奉還の後に、戊申戦争が行われたのか、と問うても、多くが満足に答えられない。それは学生時代に教科書で教わっていないからだ。

 いまや政治家の大半が戦後生まれになった。その政治家すらも、明治政府が軍事クーデターで生れた政権だという、正しい認識を持ちえていない。だから、政治的な弊害がすこしずつ出はじめてきた。

 幕末の徳川政権は統治能力が低下し、政治的継続が不可能と判断し、みずから政権を皇室に返した。それが1867年の大政奉還である。世界史でもまれにみる、平和的な政権移譲だった。ほんらいは日本の誇らしい偉業だった。

 大政奉還から、わずか2か月後には、西洋式軍事訓練を受けた、下級武士階級層が軍事クーデターを起こしたのだ。それが鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争だった。成功裏に進み、明治軍事政権ができたのだ。
 

 近年、アジア・中近東で軍事政権が数多く生まれたが、決まって民主的な国家だとカムフラージュする。
 明治政府もたぶんに漏れずだった。薩長土肥の官僚(クーデターの兵士)らによる、初期の教科書作りで、軍事政権だと明記しなかったのだ。
 明治政府は文明開化、富国強兵を推し進める近代国家と称した。それがいまなお引き継がれているのだ。

 新政権を作った志士たちの主義・主張は、「尊王攘夷」だった。攘夷とは外国と通商をしないで鎖国状態を続けることだ。
 江戸幕府のほうは逆に鎖国をやめて開国し、人材を海外に派遣し、すでに外国文化を取り入れていた。
 クーデター政権は、その政策を真似ただけなのだ、

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【推薦図書】 出久根達郎著 「名言がいっぱい」

 人間の性格はそう変わるものではない。ものの考え方、見方は変わる。出久根達郎著『名言がいっぱい』(あなたを元気にする56の言葉)を読んで、そう思った。清流出版、定価1700円+税(9月4日発行)。帯には「心が疲れた……、そんなときに効く あの人のあの名言」と記す。
 それはやや控えめな表現で、出久根さんの内心は、「生き方も変わる、座右の言葉が見つかるよ」と言いたかったと思う。

「名言の背景がわからなければ、名言のありがたみも感動もない。発したものがどういう経歴のかたか知らなければ、通りいっぺんの言葉と聞き流してしまう」。体験から得た言葉は、尊い。そこから元気をもらう、と出久根さんは述べている。

 著者のアドバイスに従って、読者が良く知っている人物、経歴がわかっている、そういう人物から読めば、即座に心にひびく名言に出会う。

 私は幕末史に取り組んでいる今、勝海舟、坂本龍馬、岩崎弥太郎、川路聖謨あたりから、読んでみた。その実、日露修好条約を結んだ川路はあまり好きではなかった。私は下田にもなんどか取材に行った。川路の下田日記が手元にある。他の資料からしても、東海大地震直後のロシア提督との外交交渉は、中村為也(勘定組頭)の苦労に乗っかりすぎている。それで後世に川路の名が残った、と。

 しかし、私は同書から川路を見直した。
「奈良奉行」時代の川路は「おなら奉行」のあだ名をつけられていたとか。奈良では鹿を殺すと死刑であるが、暴れる鹿を取り押さえたが誤って死なせてしまった人に温情判決をしたとか。博打を厳重に取り締まり、与力同心への付け届けを禁じたとか。
 人間としては魅力あるな、という認識に変わったのだ。

 小説家では、夏目漱石、尾崎紅葉、吉川英治、山本周五郎、田山花袋、森鴎外……、と精読させてもらった。周五郎は数多くの文学賞を断る一方で、家計を考えず、ひたすら良い小説を書きつづけていた。タンスの中に夫人の着物が1枚もなかった。
 かれは小説「かあちゃん」のなかで、『貧乏人には貧乏人のつきあいがある。貧乏人同士は隣近所が親類だ。お互いが頼りあい助け合わなければ、貧乏人はやってゆけはしない』と展開する。それら文章が紹介されている。

 尾崎紅葉は親分肌の人で面倒見がよく、弟子たちの文章はていねいに添削し、おめがねに適えば、出版社に売り込んだ。弟子の泉鏡花は「小説作法だけでなく、世間常識、言葉遣い、食事のエチケット、金銭の扱い方、交際法など、人の世に生きるための知恵をすべて教えられた」と語っている。
 私は各講座で、作品の添削をしているので、ここらは肝に銘じるものがあった。
 
 同書から、先入観が変わったのが、二宮尊徳、小林一茶、沢村貞子(女優)、金栗四三(マラソン)などである。

「私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています」(美智子皇后)、「細道を歩む時は、端によけていれば、人は突き飛ばさない」(野口英世の母・シカ)、「長生きをするためには、まず第一に退屈しないこと」(物集高量・もずめたかかず)、目次の名言から入っていった。

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第71回・元気100エッセイ教室=作品の勝負は結末で決まる

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を手にしてから、読んでもらえるか、ポイされてしまうか、それは書き出しで決まります。

 私の友人に、エッセイと小説の双方の「応募作品の下読み」を糧の一つにする作家がいました。かれの話では、100~200編の原稿が送られてきて、約10日間か半月でAからDのランクをつけて、依頼先に返す。C以下は(評価一覧表に記載のみで)、原稿は返さず、廃棄処分にすると話していました。

 AとBは評価理由のコメントをつける。

 
「最初の1-2枚を読んで、ダメなものはどんどん棄てていくんですよ。後でじっくり読みたい作品を別に置いておく。8割くらいは書出しで、ポイしておかないと、これはと思う作品をしっかり読んでコメントする時間が無くなりますからね」
 その友人だけでなく、評論家に聞いても、8割の作品は読むに堪えない、と話す。それらは文章が見劣りする、拙い(C)、基本の文法もわかっていない(D)。8割をはじき出す、アウトにするのは実にかんたんな作業だという。

 作品を最初から最後まで読ませれば、一応の合格点である。(A-B)。一次選考通過、二次選考通過していく。
 そして、編集者が候補作品を選ぶ。

 小説でいえば、どこの文学賞に応募しても、一次選考通過すら、まったく名前が出ないのは、小説を書く以前の状態で、文章を学ばずして、ストーリーで作品が生まれると勘違いしているからです。


 私は何かにつけて「書出し」にこだわり、文章の添削につとめるのは、友人や評論家の話が真実だろう、と考えるからです。
 夢と希望を持って、時間をかけて数か月も、1年以上もかけて作品を仕上げても、ものの3分でポイだと、あまりにも惨めだからです。

 最終候補作品に選ばれると、完成度の高い作品です。あとは選考委員会で、選者の好み、運なども左右します。それはそれとして、決定打はなんでしょうか。作品のエンディングです。

「これは読後感がいい。良い作品だな」
 そう感動させるのは、最後の数行。つまり、作品の評価は「結末」で決着するのです。

『結末に強くなる。結末の力量を高める。結末の落としどころを磨く』
 まず結末まで毎回書かずして、上達などのぞめません。

 作品を勢いよく書きだしても、途中で、あれこれ悩み、投げ出す。別の作品に手を出す。こういう作者はいずれ、書きたい想いばかりで、作品が創れなくなります。
 結末の訓練など覚束きません。あげくの果てには、結末を書く呼吸すらつかめず、失望や創作活動のとん挫で終えてしまいます。

 「書き出したら、何でもかんでも最後まで書く」
 これが身につけば、時どきの出来ばえに甲乙があっても、長い目で見て、確実に作品力が挙がってきます。


【結末のテクニック】

①初稿は多めに書いておいて、うしろの数行、数枚を切り棄てる。カットした先が読後感になる。

②結末は説明文でなく、描写文で終わらせる。映画のシーンのように。

③結末と書き出しと、いちど入れ替えてみる。すると、双方が良くなることがある。

④結末の推敲は念入りにする。誤字・脱字とか、難しく読めない漢字とかがあれば、読後感が悪くなってしまう。


【勝負できる結末】

 ①全体をしっかり受け止めている

 ②作者の言いたいテーマが凝縮している。

 ③導入部(リード文)と、結末がリンクし、題名とも関わっている。

 ここに力量が到達するには、どんな作品でも、途中で投げ出さないことです。そのうえで、結末は何度も書き直して、①~③に近づけることです。

歴史上の人物の描き方=早乙女貢著『世良斬殺』より

 実在した歴史上の人物を小説で描く、その場合はなにが大切か。どんな人間でも長短もあり、裏表もあり、良し悪しの両面が必ずある。それを大前提におくことだろう。作者の先入観、価値観だけで、人物を悪者だ、非道だと決めつけて書くと、歴史観のミスリードになってしまう。

 早乙女貢さんは満州生まれで、生れたふるさとを喪失した、と生前に語っていた。戊辰戦争で、会津落城(開城)で、藩士たちは斗南(青森)に流されて過酷な生活を強いられた。
 会津の悲劇をもっとも世に訴えた作家のひとりだろう。代表作が長編小説『会津士魂』(直木賞受賞作)である。


 私は「戊辰戦争・浜通りの戦い」を執筆することになった。ここ数年、歴史小説から遠ざかっていたので、多少なりとも勘を取り戻すために、江戸時代により近いところで生きていた世代、海音寺潮五郎、村上元三、山岡壮八などの作家の短編集に目を通していた。


 早乙女貢さんが亡くなった年、私は2時間に及ぶロングインタビューをしたことがある。(写真)「薬を飲んだことない、病院に行ったことがない」など元気な語調だったのに、数カ月で逝ってしまった。
 その後、鎌倉・早乙女邸で開かれる「ミニ講演会」も、何度か出向いていたし、会津の早乙女さんの墓参りもした。親しみがある作家だった。

 早乙女貢『世良斬殺』を読みすすめると、言いようのない嫌悪感に襲われた。たとえ悪行に対する批判があったにしろ、地獄の底から現れた人物のように書いたらいけない。それはむしろ作者の偏狭性にすら思えてしまう。

 幾つか取り出してみると、
「世良修蔵は人柄も荒々しく、声も大きく、人相も険悪だった」(世良の写真を見てもそうは思えない)
「長州奇兵隊は狂犬の集まりのようなものだ」
「明治になって、天下を取った長州人の人材の大半が幕末に死んでしまって、残ったのはカスだけだった」
「大島の漁師あがり」(萩の藩校・明倫館に学び、江戸で儒者・安井息軒に学び・塾長代理をつとめる)
「島の荒風と、血のあらしの中で、世良修三という冷酷非常、残忍な性格が醸成されていった」
「世良修蔵の暴虐な行為」
「生り上り者の猛々しく、情の一片もない男であった」
「犬畜生」
 ここまで来ると、もはや文章を拾いたくなくなる。

「東北人は、雪の深い冬を耐えてきている。耐え忍ぶことを知っている」と対比させる。このバランス感覚の悪さはなんだろう。

 世良はなぜ会津の松平容保を憎み、許そうとしなかったのか。早乙女さんは、世良の生まれ故郷・周防大島に脚を運んで、郷土史家たちから話を聞いていない、と推量できる。歴史作家として最も大切な現地取材を放棄した作品だと思う。

 世良が総督府下参謀で、仙台に来たあと、仙台藩士たちが、「会津の松平容保公の武力攻撃はやめてほしい」とくり返し、嘆願した。しかし、世良はいっさい応じなかった。かれの言い方にも態度にも問題があり、仙台藩士らは勘にも触った。世良の悪評がいっきに広がったのだ。


 世良が抱いた松平容保にたいする憎しみは、そのすべては第二次長州征討にある。強引な宣戦布告で、周防大島が突如として、艦砲射撃の砲弾を無差別に撃ち込まれたうえ、幕府陸軍と松山藩に占領されたのだ。占領軍の兵卒は島民に強奪、略奪、婦女の強姦と、惨殺などをくり返す。

 長州藩は、この周防大島に軍勢をまったく置いていなかった。なおさら、占領軍は連日、無抵抗の島民の食料を奪い、抵抗するものは殺し、婦女子を裸にし侮蔑の限りを尽くした。近世日本史の中でも、あまり例がないほど人民を侮蔑し、恐怖に陥れたのだ。

 世良にすれば、「俺たちの島民は何を悪いことをしたというんだ。ふるさとを目茶目茶にされた」という強い恨みがあった。


 第1次長州征討では、幕府が要求した通り長州藩は3人を切腹し、首実検に応じた。これで禁門の変は解決したのだ。
 しかし、一ツ橋慶喜と松平容保は違った。幕府の威厳、意向を見せたくて、その後において、長州藩主・親子を後ろ手に縄にして(罪人として)江戸に連れてこい。なおかつ七卿都落ちの公家もつれてこい、と要求したのだ。

 そんな無理難題は長州が絶対に飲めるはずがないし、拒否をつづけた。さらには桂小五郎と高杉晋作を差し出せ、と要求したのだ。これも拒否する。これは狙い通り戦争への環境づくりだった。一ツ橋慶喜と松平容保は、要求をのまないならば、と帝から長州征伐の「勅許(ちょっきょ)を取って宣戦布告したのだ。(帝は半年間も出ししぶった)。
 大義のない戦いだといい、薩摩、広島、宇和島藩などは出兵拒否だった。

 長州藩は広島藩を通じて、10数回も「戦いを回避してくれ」と願い出ている。
 慶喜と容保のふたりは、権威が失墜してきた徳川家の威厳を取り戻すためだけの戦争だった。
 渋しぶ戦いにやってきた諸藩の兵卒の士気のなさに、如実に表れていた。
 幕閣は一方的に攻撃日を決めると、4か所から討ち入ったのだ。これが第2次長州征討だった。

 世良にしてみれば、「徳川慶喜と、松平容保が一方的に戦争を仕掛けてきて、罪もない島をめちゃくちゃにした。会津は絶対に許さない」と敵意と復讐心に満ちていたのだ。第2次長州征討から戊辰戦争まで、わずか1年半だ。

 現代的に言えば、原発事故でふるさと福島がめちゃくちゃにされた住民にとって、「東電は憎い」。1年半経ったから、まわりから「東電を許してあげください」、と言って許せるだろうか。

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