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これまでの歴史教育は変わる。ペリー提督の黒船来航は日本の学術開国であった

 新聞社から「妻女たち幕末」の連載依頼を受けてから、私は徹底してアメリカ側の史料・資料を調べつくした。ペリーの来航目的が「日本の学術開国」にある、とわかった。
 読者から新聞社に寄せられた投稿の中で最も多かったのが、このペリー来航に関するものだった。

 一部を示したい。
                   *

 日本遠征はジョン・オーリックが特使だった。不祥事から解任された。そこで退役軍人ペリーに代将(提督)の話が持ち込まれた。面談した米海軍長官から、アメリカ大統領国書を日本側に手交し、平和条約を締結せよ、という任務の説明があった。
 
 海軍長官はこういった。「ただ、武器の威嚇により日本と条約を締結しても、アメリカ議会の多数派の民主党がそれを承認しない。最悪は批准されず、日本遠征が水泡に帰す。あくまでも平和的な交渉のみ有効だ」と念押しされた。
 大統領は少数政党であった。
 メキシコ戦争の英雄ペリーとすれば、軍人の最高の名誉はまず戦争に勝つことだ。武威をもって臨むならば、ペリーは鎖国日本にたいして合衆国に有利な条約締結を成功させる自信はあった。
「自分は軍人だ。外交官ではない。戦争はするなと言われたら、どうする? 話術は巧くないし、デベート力(交渉術)は得意でない。平和使節による交渉の任として、自分は不適切な人選だ」
 ペリーは二カ月間ほど熟慮し、悩んだ。

               *  

 ある日、親しいハーバード大学の植物学者・エイサ・グレイ教授を訪ねた。そして、日本遠征の話を語った。
 教授は身を乗りだしてきた。

 日本列島はカムチャッカ半島の近くから台湾付近まで、七千余の島がある。海流は複雑だし、気候も、森林も、降水量も、特殊な地形だ。日本は二百数十年間も鎖国状態である。世界に知らてれていない品種の宝庫だ、と教授は熱く語った。
「北半球の温暖地帯の植物分布において、日本以上に興味深いところはない」
 さらにこういった。
300px-Asa_Gray.jpg「オランダが二百余年も、日本の学術研究を独占してきた。これは欧米の学者にとっても、人類にとっても、不利益なものだ。ペリーが日本に行かれるならば、世界の学者に有益となる、七千余島の日本を学術開国させることです。それこそ、アメリカ人のフロンティア精神です」
 日本を学術開国させなさいと推奨された。

 ペリーはグレイ教授の話から日本遠征の任命を受託した。
 これを新聞が報じた。世界中の著名な学者から乗船希望が殺到した。日本をよく知っているというオランダのシーボルトもいた。シーボルトは必要ないと、ペリー提督は断った。

 米軍艦に民間の学者を乗せるのは本来の海軍の趣旨に反する。そこで、記録のために画家ハイネ、銀板写真家、一部の植物学者などに乗船を限定した。あとはどうするか。
「私(ペリー)は航海中に優秀な海軍士官、海軍軍医、従軍牧師らに、通常の任務遂行のほかに、動植物学、博物学、民俗学、火山学、天文学、水深測量など、七十数科目の研究を割りふった。そして、かれらに理解と協力をもとめた。快く応じてくれた。ただし、各々の論文は国務省に帰属する」とした。

                    *
 アメリカ東インド艦隊が、ニューヨークを発って地球を三分の二回ってくる寄港地、喜望峰、セイロン、沖縄、小笠原、あらゆるところで半月、ひと月、学術研究で滞在することができた。日本遠征は急がない。植物、鳥類、魚類など学術的な採取とか、スケッチとか、各地の農業に関して現地民からの聞き取り調査をおこなった。
「私は日々かれらの研究論文を読むにつれて、気持ちが高ぶった。これは人生最後の大仕事で、アメリカの学術独占でなく、世界の学術研究なのだという強い決意に変わった」

                    *

 初来航のペリー提督は、久里浜でアメリカ大統領の国書を渡し、わずか9日間で立ち去った。

perry提督.jpg
 翌(1854)年に、再来航した。横浜で日本側と交渉の席に着いた。

 ペリー―は捕鯨船の遭難時の救助要請を行った。聞けば、日本は海難民を虐待しているという。許さないと息巻いた。日本側代表の林復斎は「日本は人道に関しては世界で最も優れている。アメリカと敵対する気持ちはない。嵐で遭難の危機になれば、日本のどこの港には入ってもよろしい。食料と水は差し与える。これが日本の人道精神である」

 ここで林復斎は日本側の抗議を持ち出した。初来航の折、江戸湾の測量など違法行為である、アメリカの侵略行為の一つとして考える、と。

                 *

「昨年の浦賀の初来航(1853年)は、私(ペリー)としては、日本沿岸の複雑な水路の海図の作成に集中した。世界中から学術調査船が日本にやってきたとき、とくに江戸湾の水深の海図は欠かせない。この海図作成を最優先にした。小型ボートに乗った海軍士官や海兵らは、浦賀奉行所の監視船の官吏から刀を抜かれて妨害されながらも、数日間にわたり、測量をしてくれた。この海図は米国の独占とせず、世界に配布する」
「幕府はスパイ行為だと警戒したものです。学術開国のためだと知り、いま誤解が解けました」
 ペリー来航の真意が江戸城の老中に伝えられた。

 老中首座の阿部正弘の決断で、アメリカの捕鯨船および米艦の寄港地として箱館・下田港を提示した。下田追加条約で、植物・動物の採取などを認めた。
「日本は海軍力がない。それなのに科学発展の学術開国をしてくれた。このさき英仏露などが、海軍力がない日本を攻めてきたら、アメリカ大統領が日本を守る」
 ペリーはそう約束して日本を立ち去った。
 4年後、その約束がタウゼント・ハリスにしっかり引き継がれていた。日米修好通商条約第二条に記載された。

第2条

  ・日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、アメリカ大統領がこれを仲裁する。
  ・日本船に対し航海中のアメリカの軍艦はこれに便宜を図る。
  ・またアメリカ領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。

 この第2条が現代の学校教科書に記載される日がくれば、ペリー提督が求めてきた「学術開国」に徳川幕府が応じて開港・開国の道へと進んだ、と正しい認識ができるだろう。
 従来の教育で刷り込まれた「癸丑(きちゅう)以来の国難」という明治以降のプロパガンダの呪縛から解き放される。
 
 「妻女たちの幕末」の新聞掲載に関して、読者の投書で黒船来航の真実を知った驚きがもっとも多かった。
 

明治の登山家と松本サリン事件=上村信太郎


 平成6年6月27日深夜、長野県松本市北深志の住宅街に化学兵器サリンが散布される事件が発生した。それが住民8人死亡、数百人が負傷するという未曾有のあのテロ事件であった。

 当初、県警は事件の第一通報者であり、被害者の河野義行さん宅を家宅捜索して多量の薬品類を押収。河野さんを殺人未遂の重要参考人として取り調べ、事件の原因がサリンと判明してからも続けられた。ずっと後になってから冤罪だったとして警察関係者、新聞社、テレビ局などが河野さんへの謝罪を余儀なくされたのは周知のとおりである。

 事件で自身がサリンの被害に遭い、同時に奥さんを亡くされた河野さんを気の毒に感じていたところ、日本山岳会の会報『山927号』に河野義行さんに関する短い記事を見つけたのでここに紹介することにした。


 記事のタイトルは「河野齢蔵の写真貼」、執筆者は長野県在住の登山史研究家の牛丸工氏。河野齢蔵は長野県生まれ。「日本山岳会」創期会員であり会員番号は九六番。明治から昭和の初めにかけての登山家、博物学者、山岳写真家、高山植物研究家、教育者としても活躍した人物だ。
 四男三女に恵まれたが、男の子はいずれも幼少で亡くなり、後継男子がいなかったのでのちに義行さんが養子になった。」のだという。

河野齢蔵.jpg
 東京新聞出版局刊『岳人辞典』によれば、「河野齢蔵は長野県出身。慶応元年生まれ。

 登山は、明治26年夏の乗鞍岳、明治31年白馬岳、明治37年赤石岳登山、赤石山頂に2泊して高山植物の写真を撮る。昭和7年利尻・礼文植物採集、さらに千島チャチャヌプリ岳でコマクサ群落発見。明治44年に信濃山岳研究会を創立。登山の普及に努めた。著書は『日本アルプス登山案内』『日本高山植物図説』などがある。」と紹介されている。

 このほか、日本山岳会の機関誌『山岳』には河野齢蔵の肖像写真が掲載されている。その姿は旧百円紙幣の板垣退助ソックリのヒゲ姿。また、大正2年に赤石山脈で採集した新種の植物の学名は発見者の名をとって「ロニセラ・コーノイ」と命名されたとの信濃毎日新聞記事も見つけることができた。


 それにしても義行さんはサリン事件の容疑者にされた多量の薬品をなぜ持っていたのだろうとずっと不思議に感じていたが、牛丸氏はその点について「松本サリン事件の際、通報者の河野さんの家が家宅捜索され、大量の薬品が出てきたため〈お前が犯人だ〉とされてしまったが、この薬品は博物学者の河野齢蔵が雷鳥などを剥製にするための薬品の小瓶で、半世紀以上経っても多数残されて家にあった。」と書いている。
 おそらく義行さんは、尊敬する父が使った多量の瓶を大切に保管していた。そのことが不運にも捜査員の疑惑を招くことになってしまったのかもしれない。


 今回、長年の疑問が解け、同時に明治期の一人の著名な登山家の存在を知り得たことでこの文章を書いた。  (記・上村)


(ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№282から転載)

山頂に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ宝篋山=武部実

2022年 3月20日(日) 晴れ
参加メンバー:L上村信太郎、武部実、他11人
コース:土浦駅からバスで宝篋山入口バス停~極楽寺コース~宝篋山~小田城コース~     宝篋山入口バス停

上村 ①.jpg
 
 茨城県を代表する山といえば、誰もが筑波山と答えるだろう。
 その筑波山の南方に位置するのが宝篋山だ。20年位前から、地元のNPO法人らが登山道を整備して人気ハイキングコースになったということだ。

 土浦駅に集合し9:25発の筑波山口行のバスに乗車し、目的地までの料金は640円、しかし土休日に限ってIC系カードを提示すると710円の一日乗車券になる。覚えていてほしい。
 宝篋山入口バス停から5分で小田休憩所があり、ここで一旦トイレ休憩。10:35に出発。登りは極楽寺コース。舗装された林道からは真正面に宝篋山の山頂の電波塔が眺められる。歩くこと15分、今が見ごろとばかりの真っ白な花を咲かせていたコブシが2本と、道路をはさんで緋寒桜が対照的に真っ赤な花を咲かせていて、とても綺麗だった。

 ドングリが一面に落ちている山道を過ぎ、ちょっとした岩場をぬけると、白滝等の小さな滝がいくつか続く。純平歩道との分岐を過ぎると、富士岩の表示板がある。ここから富士山が眺められるのかと思ったら、円錐形の岩が富士山に似ているからのようだ。宝篋城の空堀跡を過ぎれば電波塔が2棟設置されているところが山頂だ。

 12:13標高461mの山頂に着いた。正面に宝篋山の表示板があり後ろには、この山の名前にもなった2.5mもの高さがある、石造りの立派な宝篋印塔が鎮座してあった。
 説明板には「山頂より見渡せる所に棲むすべての生類を極楽浄土へ導く威力をもった石塔です」とある。この見晴らしのいい場所からは相当数の人が該当する、ありがたい仏塔なのだ。

 山頂には大勢のハイカーが来ていたが、人気の理由がうなずける。筑波山の半分の標高で、これだけ展望のいい山はなかなか無い。北方には筑波山や雪をかぶった男体山、西方には富士山そしてスカイツリーまでも、そして南方は霞ケ浦と、眺望に納得の山頂だ。

 13:15に下山を開始する。小田城コースで下る。下浅間神社、幸福の門(狭い岩を潜り抜けること?)を過ぎて、要害展望所で一服。はるか先に牛久大仏がうっすらと眺められた。14:50に小田休憩所に着く。

「天気に恵まれ、眺望の素晴らしい山に登れて最高の一日であった」と参加者一同思っていること間違いなしだ。

 (ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№269から転載)

【孔雀船102号 詩】  あべこべ草紙 ――師・安西均さんの思い出に 望月苑巳

春はあけぼの、などとうっかり間違って書いた

その人は

頭を掻きながらぺろりと舌を出した。

東山のあけぼのは初夏に限る

たわけごとのせいか

眠気は待ってくれないので困ると言う。


氷菓子をくわえて

浜千鳥が揺れる小旗をくぐって

浴衣の少女がふたり

浴衣の少女.jpgねえ、今日はブランコに乗ろうよ

あの公園には嫌な奴がいるから行きたくないわ

そんな会話をなめあう。

緩い風がさらっていく

杜若が小さな池で自己主張をしている

蝸牛はのっそりと葉脈の道をなぞる

空にはセスナ機が旋回して 女の聲を散布してゐる*1

サッカーボールを抱えた少年が通りかかって

宿題はもうすんだのかいというと

少女たちはアッカンベーをした

ボールを当てるふりをして

少年は先生に言いつけてやろうと捨てゼリフ

向日葵が花火のように咲いて

子どもたちが砂場で相撲をとっている

盆踊りの会場は出来上がったばかりだ

蝉の声で埋め尽くされる東山が

足の長い午後をかくす。


あべこべだった方がいい場合だってあると

賢者は言った

噂によればあれは「夏はあけぼの」と書いたつもりだったのに

道長さまが声をかけてきたので手が滑ったのだという

枕草子を枕にじっとりと汗をかきながら昼寝

眠る進化論の夏もよかろう

どこですり替わったのかのかは謎だが

戦争の見える青春といふ展望臺で*2

子どもらは無邪気に遊んでいるのがせめてもの幸せ。


    *


その人は月の輪で寂しく亡くなったと人づてに聞いた。

   (*1)安西均「奈良公園」から。(*2)安西均「寂光院」から。

    *清少納言は京都郊外の月の輪というところで没した


あべこべ草紙 望月.PDF 縦書き

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船102号 詩】 アナザー ワールド 苅田 日出美

ふと見上げると夜空に星が いつになくきらめいていて私の体にふりそそぐのだ。

目にうつるすべての星がキラキラとして 私のところに集まってくる。そんな日には 面白い詩に出会う。

釈迦.jpeg
筋肉少女帯・大槻ケンジの『リンウッド・テラスの心霊フィルム』という詩集のなかに「釈迦」という詩があって私は釈迦というヒトが好きだったし 仏教の世界も般若心経も好きなので 最初に「釈迦」という詩を開くと いきなり トロロの脳髄 トロロの脳髄という言葉があって

トロロの脳髄というのは間違いで あのアニメのトトロの脳髄じゃないのかしらと考えていると

シャララシャカシャカ

という合の手まではいるので 私はもう 釈迦という詩を頭で理解しようとしてはいけないと感じてしまって

ただもう シャララシャカシャカ というリズミカルな言霊の世界にどっぷりと浸かることにした。

それでも詩人は真面目ですから

「詩の読者は詩人の仲間だけになり、一般の知的社会は詩を読まず詩人を相手にしなくなった」― 加藤周一という文章などあちらこちらで引用されたりするのだがでも「ドーシテ」という前に 大きな風呂敷とかシーツとか カーテンとかで この「言葉」でしかものを見られないヒトの前にあるものを梱包してみようじゃないですか。クリストというアーティストがしたように梱包したり巨大な傘を立てたりして景色を一つ変えてみよう

  シャララシャカシャカ
  シャララシャカシャカ
  詩人だからって深刻がらなくてもよいのだと そう思うわけ。

ふと見上げると 月は満ちて 私の体にまぶしいほどの光のプラナをふりそそいでいた

アナザーワールド(アナザー ワールド 苅田日出美 PDF縦書き

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イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船102号 詩】 夢の傾斜 脇川郁也

黄昏をついばんで山鳩が啼く
姿を求めて見上げれば
竹林を吹き抜ける爽やかな風だ
生まれたての緑色をして
まだ残る空の青さと
はっきりしない明日の行方を示している
竹林.jpg
ゆうべ
危うい夢の傾斜に
おののいて目覚めたのは
うなされたままのぼくの分身
もう片方のぼくは観念して
すでに冷たい視線を送っている

見知らぬ土地の記憶を追って
しばらく彷徨ってみたけれど
神がかたどったころの手触りが
ほんのわずか残っているのだ
夢のなかでさえ後悔ばかりの吐息
立ち尽くし足もとの影を見つめた

その日
尖った顎をさらに細くして
ぼくは静かに眠るだろう
目を閉じてから
小さな声をあげるだろう
圧迫された言葉は苦しげだろう
そのとき誰かが空を仰ぐだろう

空は赤く燃えているか
それとも静寂に満ちているか
湿った空気に包まれていようか
焦げた匂いが漂っているだろうか

あした雨にならないように
子等はてるてる坊主を吊すだろう
そしてぼくが死んだ後も
いまと同じように空は青いだろう
やりきれない青さで満ちているだろう

夢の傾斜 脇川.PDF 縦書き

【関連情報】
 孔雀船は102号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

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  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp


イラスト:Googleイラスト・フリーより

終戦記念日にあえて問う。戦争抑止は「兵器廃絶」なのか、政治家の資質なのか

 8月15日は、太平洋戦争の終戦記念日である。日本の主要都市は廃墟になり、もう戦争は止めよう、と国民がみんなして誓った。

 そして大日本帝国憲法が破棄された。あらたに日本国憲法が発布された。前文のなかに、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』と謳(うた)う。
 明治・大正・昭和の77年間における10回の海外戦争は、その発議が政治家にあったと断言できる。

 毎年、終戦記念日を前にして広島・長崎の原爆被爆の式典がおこなわれる。各メディアは大々的に取り上げている。
 核兵器廃絶とか、核の抑止力はなくなった、という論議が中心に座っている。これは「兵器」には核物質をつかうな、という戦術面である。

 核以外ならば、どんな兵器でも許されるか、という反問にもつながりかねない。
 これでは広島・長崎の主張は、核廃絶が達成すれば、それでよしとするもの。本質的な戦争禁止への論旨ではない。

「被ばく=平和」その結合が間違っている。広島・長崎のセレモニーは、「戦争をやめよう」という強い論議につながっていない。なぜならば、投下国がアメリカだとひと言もいわないからだ。

 ウクライナ戦争においても、広島・長崎の声が戦争抑止に役立ったとも思えない。政治家の両県知事や市長が行動で示していない。単独でモスクワに乗り込んで、プーチン大統領を諫(いさ)める、という意気込みすら見えてこない。

 きょうこの日、無人の兵器によって、容赦なく民間の住宅地に攻撃されている。ウクライナが核兵器(1240発の核弾頭と、当時世界第三位の核兵器保有)をすべて廃棄すれば、他の武器でロシアから攻められる、という弊害を生んだ。これでは核兵器を失くそうという大国は現れないだろう。
 民の命を思うならば、「無人兵器の製造禁止条約」をさけんだほうが、まだ現実的だ。
 
               *
   
 どうすれば戦争をなくすことができるのか。プーチン大統領の姿勢をみれば、政治家の資質を問うことである。
 これはロシアだけの問題ではない。
 わが国の副首相(元総理)の麻生氏が82歳にして、台湾に訪問し、「日本は戦う覚悟だ」とまるで日本人を代弁しているような発言をする。元首相となれば、老人の戯言だと笑ってすまされないだろう。

台湾出兵 (2).jpg
1874年(明治7年)に、明治政府がはじめて海外に出て行ったのが台湾への軍隊派遣である。この台湾出兵から太平洋戦争へと連鎖した。

            *

 いずれの開戦前も、政治家・官僚など戦場に行かない高年齢の世代が、勇ましく国民に戦争をあおっている。
 その結果として日本やアジアの人たち、軍人・民間人をふくめてとてつもない戦争被害者を出した。
 
 プーチン大統領のウクライナ侵攻と、麻生氏の台湾での行為はさして変わらない。戦争で解決しようとするもの。タバコを吸う人(中国)の前に火薬をおきに行くようなものだ。

 ウクライナ戦争がはじまったとき、ロシアの若者は数百万人も国外に逃避したという。日本人は戦前とちがい、政治家・麻生氏の尻馬にのって武器をもって台湾海峡で戦う若者たちはさして多くないだろう。はたして何割いるのか。よくよく調べて行動するべきである。

 議員・麻生氏は公人としての行動が『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し』と謳(うた)う日本国憲法の根幹に抵触するものだ。

 勇ましい弁が立つ政治家が戦争を起こす。これは歴史が教えることだ。
 
 

、、

終戦記念日=太平洋戦争はなぜ始まったのか。薩長史観の歴史教育がまねいた惨禍だった

 石原莞爾(かんじ)は関東軍の参謀で、満州事変を起こした首謀者である。かれの〈世界最終戦争論〉が、太平洋戦争の発端となる思想だった。

『いずれ日本はアメリカと航空機戦を戦うことになる。それに耐えうる国力をつける必要がある。五か年計画で経済力をつけてきたソ連が、満州を奪う前に、日本がまず植民地にし、持久戦になっても、アメリカと戦える国力を保持するべきだ』

 この石原理論が実行された。関東軍は占領下においていた奉天(ほうてん)・吉林・黒竜(こくりゅう)江(こう)省に満州国を樹立した。そして清朝(しんちょう)最後の皇帝だった愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)が就任させた。
 それはまさしく傀儡(かいらい)国家だった。

 日本国民は石原理論と関東軍の行動を熱狂的に支持した。それが太平洋戦争につながった。
 12月8日の真珠湾攻撃の日に、軍艦マーチによって米国との開戦が国民に知らされた。ここにおいても国民が熱狂したのである。

 こうした国民の熱気が太平洋戦争への最大のけん引力になった。軍部・政治の強烈な指導にしろ、国民の声をないがしろにできないからである。

 戦争責任を問えば、それは国民にある。

 太平洋戦争の敗戦のあと、東京裁判がおこなわれた。石原莞爾は病気や開戦前に反東條英機の立場だったことから、戦犯が免(まぬ)がれた。ただ重要な証人として、アメリカの判事が石原の自宅を訪ねて訊問している。

「太平洋戦争のA級戦犯は、だれだと考えていますか」
 ーー戦犯は原爆を落としたトルーマンだ。アメリカ大統領こそ真の戦犯だ。
 あ然としたアメリカ判事が次のように質問した。
「日清・日露戦争までさかのぼれば、戦争を起こした最大の責任者はだけですか」
 ーーそれならば、東京裁判にペリー提督を呼んで来い。日本は約三百年間にわたり鎖国政策の下で、他国に対していっさい干渉もしない国だった。自給自作で、国民は平和に暮らしていた。ところが黒船を率いたペリー提督に脅迫されて開国させられた。
 西欧の侵略帝国主義の列強から身を守るために、日本はみずからも帝国主義になった。太平洋戦争に突入した、すべての元凶はペリーにある。
ペリー提督.png
 日中戦争当時において最高の知能といわれた石原莞爾すら、小学校の教科書の『鬼の顔のペリー像』が頭脳にすり込まれた。生涯消えなかった。

              *

 教育が人間をつくる。人格も思想も形成する。

 徳川政権は260余年の平和を維持し、海外といちども戦争をしなかった。幕末に戦争をしたのは薩英戦争(薩摩・島津家)と下関戦争(長州・毛利家)の2つだけである。  
 
 明治に入ると、この二家の薩長閥の政治家たちが天下を取った。
 前政権を見下すために、江戸幕府の老中首座・阿部正弘は、ペリー来航におびえ、砲艦外交に屈して開港・開国した。そんな弱腰だから腕力・武力・知力にすぐれた薩長が倒幕したのだという。
 
 はたして事実だろうか。ペリー初来航はわずか9日間である。かれは統領国書を手交する久里浜に一度だけ上陸し、四隻の海兵はほかに一度も上陸させていない。
 当時の江戸は天然痘のパンデミック下にあり、「自粛」というべきか、市内には人出はなかった。死の街だ。黒船見学や騒動などあり得ない。
 江戸城といえば、将軍・世子の家定の正室および継室(二番目の妻)も天然痘で死去する。将軍・家慶も病で倒れる。
 こんな江戸城にペリーが行こうとしない。うかつに天然痘を艦船に持ち込むと幽霊船だ。
 ペリーは外交の予備交渉すらせず、久里浜で国書を渡すと、さっさと退散した。わずか九日間のうち、浦賀すら上陸していない。そのペリーは日本を離れると、マカオで居を構えている。
 そこで一年間待つつもりでいた。

 明治時代派から始まった義務教育で、少年・少女らに事実無根を教えた。
『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』
 これは明治十年に詠まれた狂歌である。さも、ペリー初来航の強化だと教科書に載せた。

 さらには、江戸城内も大騒ぎ、右往左往し、政治はノーコントールになったと教える。そんな徳川幕府側の資料などない。

ペリーの似顔絵 (2).jpg 挙句の果てには、ペリー「夜叉面の鼻の高い」似顔で、米国にたいする恐怖を煽り立てる。
 当時の幕府は狩野派など精緻な画家をたくさん抱えていた。二度目の来航の時に、写真とほぼ同じような絵画をたくさん残している。
 それなのに、明治政府の教科書編纂委員は、あえて精緻なペリーの顔は載せず、「鬼の顔・ペリー」をどこかから見つけたきたのだろうか、もしかすれば、あえて描かせたのかもしれない。それを載せて、少年・少女に「米国憎し」と洗脳したのだ。

 この薩長史観は、力と腕力に勝れたものが政治の勝者になれる、と教えた。すべからく軍国少年となった。

           *  

 明治政府は富国強兵を目標にした。世界の一流国に肩を並べたいがゆえに、帝国主義で大陸侵略となる日清・日露戦争を起こした。
 かたや、軍国少年らは優秀な生徒があつまる兵学校・士官学校を目指した。海上・陸上で階級を上りつめて、やがて海軍大臣・陸軍大臣となり、さらに内閣総理大臣となった。
 軍人が政治に関与する軍事国家になった。
 国民も、教科書で習ったペリー憎しの歴史を信じていた。政府が言う敵国の米英鬼畜をすなおに信じた。全国民一致で太平洋戦争に突入した。
「教える歴史がまちがうと、国家が破滅する」
 それが石原莞爾が後世に残した教訓だろう。

 教育は見方を変えれば、これほど怖いものはない。この歪んだ教育は、石原莞爾の時代で終わったわけではない。
現代でも、この鬼の顔が平然と載っている教科書があるし、私たちはなおも洗脳されているのだ。

新聞連載の「妻女たちの幕末」は、原稿用紙で何枚くらいですか

新聞連載の歴史小説「妻女たちの幕末」が昨年(2022)8月1日から、ことし(2023)年7月末まで一年間つづいた。そして完結した。日曜日をのぞく毎日で、298回である。
 
 数多くの読者から、「何枚くらいですか」あるいは「400字詰めしてどのくらいですか」と質問される。
 単行本を出版してくれる南々社においても、同様の質問を受けた。

 執筆さなかの私は、日々に与えられた文字数(縦19文字・横26行:これは全国紙・朝日や毎日とおなじ)で、その枠内で書き出しと結末でエッセイのように完結型にさせる。そこに重点をおいていた。
 文字数は気にしなかった。

 第一行目にはつよい求心力に気をつかった。
「疫病が歴史をおおきく変えることがある」
 きょうから連載を読みはじめた方にも、連載の入り口になるように誘い込む。

「ペリー艦隊は初来航で9日間しかいない。それも国書を手交するわずか1日だけである。理由わかるだろうか」
 こうした疑問形で誘い込む。

「大奥の廊下の黒煙が逆巻(さかま)き、奥女中らに襲いかかってくる」
 まさにいま、危機に置かれている、と読者の感情移入を呼び込む。

「天保の改革を知らずして、幕末史を語るべからず、といっても、いい過ぎではない。幕末史における重要な根っ子である」
 ときには2行で引き込む。、
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 一日分は四00字詰めで2枚+5~7行くらいで、約1000文字である。

 1日の結末は明日の紙面への期待につながらないと、連載もそこで断ち切られてしまう。
「長文のぶった切り」では、読者が不完全なモヤモヤ感(未消化)に陥ってしまう。この点はことのほか気をつかった。
 その理由は簡単である。
 私が約15年ほどカルチャーセンターの小説講座の講師として指導している。受講生のほとんどが一気に書き下ろし作品として完成できず、「つづき」ものになる。そのほとんどが単なる「ぶった切り」作品がなる。
 講師としてはつねに未消化な気持ちにさせられる。

「次が読みたくなるような区切り方にしなさい、伏線を張っておきなさい」と口酸っぱくいっている。
 こうした小説指導が、私の新聞連載の1日分のなかで完結型へと重要なチェックポイントとなっていた。

 むろん、「妻女たちの幕末」は全部が全部、1日で完結とはいかないけれど、せめて3日分くらいで政治的な出来事・事件のひとつ舞台としてロットの区切りがつくように思慮した。

「妻女たちの幕末」は298回において四百字詰め原稿用紙に換算すれば、685枚である。ちなみに拙著「安政維新・阿部正弘の生涯」(2019年10月発行)は530枚である。役、3割増しの厚さである。

「妻女たちの幕末」は,先輩作家の海音寺潮五郎、吉川英治、司馬遼太郎氏にない技があった。

 新聞連載の歴史小説「妻女たちの幕末」が昨年八月一日から、ことし七月末まで一年間つづいた。そして完結した。日曜日をのぞく毎日で、二九八回である。
 新聞社は一般に辛口である。文化部・部長から「後半(ペリー来航から)は、新たな幕末史観を興味深く読めたといった感想も多く聞かれ、小説の狙いは成功だったと感じています」と好評だった。
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 ここで、私の執筆の手順を明かしてみたい。まず英雄史観の通説は疑ってみる。私は純文学で世に出てきた作家である。
「人間って、こんなことはやらないな」という疑問をあぶりだす。
 歴史は勝者がつくる。国内の史料はかなりねつ造や隠ぺいがなされている。そこで外国の関連資料から疑問をひも解いてみる。

「ここまでウソをつくか」とあ然とさせられる。

 IT時代でAIがすすむ現代、百六十年前の海外新聞が瞬時に日本語に変換できる。これは先輩たち大作家の海音寺潮五郎、吉川英治、司馬遼太郎氏などにはできなかった芸当だ。かれらは明治の薩長閥の御用学者の術に乗せられている、とわかった。

 面白いほどに、新たな発見があった。国立国会図書館も、デジタルで著作権のおよばない幕末関連の資料は面白いほどに難なく入手できた。
「井伊家史料」などもネットで古本として安く入手できる。先輩諸氏が足で神田古本屋をまわったものだが、雲泥の差になった。次つぎに通説をくつがえす傍証が容易にさせてくれた。

「妻女たちの幕末」は単行本として十月に発行予定。多くの読者が通説の嘘に気づくだろう。

阿部正弘の直系の阿部氏と(福山会にて)