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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(下)=東京・葛飾

 村澤義信さん(74)さんのもう一つの特技は竹細工だ。葛飾区東四ツ木4丁目の3階建ての庭囲いの化粧フェンスには、太さ18センチ、長さ2.8メートルの、竹の植木鉢があり、そこに春の花を咲かせている。イチゴの苗も育っている。

 竹加工の植木鉢が特殊な構造なのだ。
「簡単そうだけど、この技術は、葛飾区内ではだれもいないよ。真似ができないよ」
 村澤さんに、あえて問えば、直径が18-20センチもある太い竹の加工技術を語ってくれた。

 冬場になると、竹が固く締まってくる。1年物など若い竹は細工すると、すぐに割れてしまう。3年物がしっかりしてよい、と実物を示す。
 ことし(2014年)は、牛久、大多喜から太い竹をもらってきた。最近の農家は人手不足で、竹林が荒れぎみになった。すきなだけ持って行ってくれ、と言われるらしい。

 同区東四ツ木への自宅に持ち帰ると、縁側で、工具を使い、竹の節と節の間をくり抜く。
「この技術が特殊なんですよ。うまくやらないと竹に穴を開けているさなかに、バリーと全体が割れてしまいますからね」
 長さが約3メートルの太い竹の一節ごとに、くり抜いて、そこに土を積めて植木鉢にする。まさに、電車の連結車両のように、花の鉢が並ぶ。別の太い竹鉢には、ずらりイチゴの苗も育っていた。
 
「他人(ひと)と同じものは面白くない」
 話題は瓢箪(ひょうたん)にもおよぶ。約1.5メートルくらい一節ごとに、くり抜いて、多段雛のように飾り棚にする。節ごとに瓢箪を吊るす。
 竹の竹細工と瓢箪の組み合わせで、小さな雪の鎌倉に似た、瓢箪の家もつくる。

 視線を門扉に向けて、よくみると小粒な瓢箪が数多くつるしている。
「盗られないですかね?」
「ここらは泥棒はいないね。あれれ、よく見ると、1個は針金だけだ。これは盗られたあとだな」
 村澤さんは鷹揚に話す。

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(上)=東京・葛飾

 葛飾区をつらく平和橋通りから、ふいに脇道をみると、3階建て民家の軒下には、瓢箪(ひようたん)がずらり吊り下がる。極小~超特大まで。表面が多彩な色彩画もあれば、金色もあるし、肌が素のままの瓢箪もある。

「葛飾区内で、ここまで瓢箪に凝っているのは、きっとわたし一人でしょう」
 そう話すのは、同区東四ツ木4丁目の村澤義信さん(74)である。地域でも、「ヒョウタンおじさん」で名高いひとだ。

 村澤さんは茨城県・内原町(現・水戸市)の出身である。東京に出て農家のハウス栽培の仕事についていた。
 15年前から、埼玉県・三郷に30坪の菜園畑を借り、瓢箪作りをはじめている。村澤さんから一連の話を取材させてもらった。

 畑には、まず農業用パイプで棚をつくる。(ブドウ棚に似る)。冬場には畑を耕し、肥料を与えておく。タネは春の彼岸に撒(ま)き、秋の彼岸には収穫する。瓢箪の種類(品種)によって、成熟した瓢箪の大きさがちがう、と話す。
 7センチ(品種改良品)、15センチ(秀吉・千成)、70-80センチ(通称・大玉)が、村澤家の軒下に吊り下がっている。
 
『大玉』は高さが約70センチ、腰回りが約1メートルにもなる。その作り方を説明してもらった。 
「人間と同じで、さまざまな形があるよ」
 1本の蔓(つる)に対して、形のよい瓢箪のみ3ー4個に絞り込む。1-2個だと、栄養分がまわりすぎて、破裂する。(スイカが割れるのに似る)。逆に、数が多いと大玉が小粒になってしまう。

  瓢箪の蔓(直径は約5㎝)は太いが、それでも自重15キロが負担となり、落ちてしまう。ひもで吊してやる。葉っぱも大きいから、台風被害が心配になると話す。

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【書籍紹介】明治~昭和のおもしろ記事・発掘エッセイ=出久根達郎

 豊富な雑学は、知識とみなすか、教養とみなすか、物知りとみなすか。すくなくとも、雑学は人間生活の潤滑油になることは確かだ。では、雑学はどこから得られるか。品質を問わなければ、テレビ、新聞、雑誌、人の話など、アンテナを張っておけば、いくらでも得ることができる。

『人間を学ぶには、雑誌が一番である』
 直木賞作家の出久根達郎さんが、最近の著書『雑誌倶楽部』(実業之日本社・1600円+税)で述べている。同書には明治から昭和の雑誌から、面白い記事が盛りだくさんだ。
 覚えても何にも役立たない。だから、この世には「雑」が必要だ、と出久根さんは強調している。

『雑誌は面白いか否かだ。パラパラと適当にめくって、目に止まった題名から読んでみる』
 それはまさに『雑誌倶楽部』そのものを言い表している。庶民の暮らし、偉人の素顔、艶笑な話、珍事件など、38冊の雑誌の1月号から12月号まで、月ごとに紹介されている。
 ユーモラスだったり、エッチな内容だったり、おどろきの事実だったり、よくぞここまで「発掘」できるものだと驚かされてしまう。
 さすが古書店の目利きだ。半世紀にわたり、あらゆる雑誌、書籍、冊子を見てきて、値段をつけてきた出久根さんの眼力だから、なせる技だろう。

 パラパラめくっていると、山手樹一郎の活字が目に止まった。中学生時代の私(穂高)は、貸本屋通いで、小遣いのほとんどをつぎ込んでいた。大衆小説を片っ端から読み漁っていた。そのなかで、山手が最も好きな時代小説作家だった。理由は簡単で、思春期の少年にとって、ちらっと色っぽい描写が必ず一度は出てくるから、それがたまらない昂揚感になるからだ。

『大衆文藝』(昭和24年3月)に載った、山手作品が紹介されている。
「一度家の若い女中に、いきなり唐紙をあけられたことがある。……」
 男女のいとなみが見られた瞬間が展開される。実にうまい描写だな、と感心させられる。
 いとなみ。こんな安易なことばでなく、山手は絶妙なことばで展開しているのだ。そのうえ、短編小説でありながら、小田原戦争のさなか、斬首寸前の主人公へと及ぶ。ぎりぎりで助かる英知は実に巧妙で、見事だ。作家として、よくぞ、ここまでリアルに書けるものだと感心させられた。それを紹介する、出久根さんもすごい作家だ。

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共通一次試験「国語」、作者が解けず腹が立った=黒井千次(作家)

 『青い工場』は現代国語の試験問題に、よく取り上げられるんですよ。大学入試・共通一次の現代国語の設問でも、その作品が取り上げられました。私は(新聞に出た)入試問題を解いてみたんです。
 『これを書いた時の作者の気持で、一番正しいと思うものを選べ』
 黒井さんは、おかしな設問だな、という気持ちで向い合った。手を離れた作品だし、あまり覚えていない。マークシートだから、おおかた解答3-4から選択する方式だろう。

「一つひとつ答えを読んでみたけれど、どれも、私の気持ちに合致していない。まじめに解答を考えているうちに、私はだんだん腹が立ちましたよ」
 挙句の果てには、答えは違っていた。
「私の作品なのに、私が答えを出せない」
 そう笑いながら話すのは、黒井千次さんだ。

 日本文藝家協会が主催による「文芸トークサロン」が、文藝春秋ビル新館5階で、午後6時から2時間、月一度のペースで開催されている。参加者はいつも20人程度で、大半が熱心な文学愛好者だ。作家の本音がボロボロ出てくるから面白い。

 私は同協会の会員であり、時間が許すかぎりトークサロンに出向いている。
 
 こんかいは24回で、4月18日(金)、トークは著名作家の黒井千次さん(2002年−2007年 同協会理事長)で、題目は『小説家として生きて』だった。
 

 小説は体験+虚構によって成立する。どんな体験だったか。それを知ってもらう必要がある、と前置された黒井さんは、人生の前半で、小説家を目指したころに話を集中させていた。

 1945年の春に、小学校卒業式があり、全員が集まったところで空襲警報が鳴りひびいた。卒業証書を貰わず、逃げた。府立中学の入学試験は、大勢が集まると危険だと言い、書類選考だったと思う。(黒井さんの推測)。
 中学生になったときから、11人が同人誌活動を行った。(いま現在亡くなった人は5人だから、もう一人出ると、生存者の方が少なくなる)。そこが小説家活動一筋のスタートだった。

 学制改革で、府立中学が都立高校になった。だから、入学試験は大学(東大・経済学部)だけだったと語る。
 父親がずーっと役人(最高裁判事)だったから、生産する民間企業に勤めたかった。地方にはいきたくなかった。東京・もしくは近郊の会社を狙った。日産を受験したが、マルクス経済学の学生の身には、近経の設問は難しくて、不合格だった。

 中島飛行機の解体後にできた「富士重工業」に入り、太田工場など勤務した。ベルトコンベアーの前で働く労働者がめずらしく、かれらとの対話(雑談)などが小説の材料になった。5年ほど経つと本社勤務で、マーケットリサーチが主な仕事だったという。
 勤務のかたわら同人誌活動を展開してきた。最初のうち、黒井さんは会社内で小説活動は隠していた。やがて、どこからか知れ渡ってしまった。
「小説とは良い趣味ですね」
 このことばが一番腹立たしかったという。
「趣味で、こんなものが書けるか」
 黒井さんはつよい反発を覚えていた。

 小説は書きたいモチーフや衝動だけで、作品を書けるものではない。「何を書くか」、それを「如何に書くか」と考え、創作していくものだ。それは趣味をはるかに超えたものだ。
 小説家になってからも、小説ひと筋で、余裕がなく、世間でいう趣味らしいものはなかった、と話す。

 20代で『青い工場』を発表して注目される。36歳の時には、『聖産業週間』で芥川賞候補になった。38歳のときに発表した「時間」で、芸術院奨励賞をもらった。この段階で退職した。
 退職してから、食べることが大変で、ルポ、ノンフィクション、なんでもやったという。

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『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

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『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ

 明治に入ると、芸州広島藩は長州閥の政治家から、徹底して封印されたり、ねつ造されたりしている。
 広島藩主の浅野家はいまなお資料を公開していない。長州の刺客に狙われるとでも思っているのだろうか。そう疑いたくなるほどだ。実物は広島市中央図書館に眠っている。歴史研究者はのどから手が出るほど欲しいのに。
 
 浅野藩主の末裔が代々隠しても、当時の有能な学問所メンバーが編纂した資料が現存していた。だから、私は芸州広島藩からの幕末歴史小説を書くことができた。


「長州が倒幕に寄与した。そんな作り事は、司馬遼太郎が書いてはいけませんよね」
 山口県のある著名博物館の、主任学芸員がふいにそう発言した。取材で訪ねた私が作家だったから、そう示唆してくれたのだ。

 それには「えっ」と驚いたものだ。
 4年前のその言葉が、私の脳裏には強く焼き付いている。だから、こんかい長編幕末小説を書き上げた。とくに、司馬史観の誤り、事実に反するところ、作り話は明確にするべきだ、その一念で書き上げた。随所にはかなり織り込んでいる。
 6月には刊行予定だ。

 最大のポイントは、「薩長の倒幕」など、常識的に考えても、あり得ないし、事実に反していることだ。

「禁門の変」で、長州藩は朝敵となった。長州人が京都に入れば、新撰組などに殺されていた。幕府から「殺せ」という命令なのだから、当然、殺す。

 大政奉還から、小御所会議で京都に新政府ができるまで、長州は軍隊を京都にあげていない。主要な会議にも出ていない。長州藩は徳川家の倒幕にまったく役立っていない。どんなに折り曲げても、それが事実だ。

 新政府が樹立した後、長州の軍隊が戊辰戦争で暴れまわっただけなのだ。


 長州・政治家が、薩芸(さつげい)の徳川倒幕を「薩長の倒幕」へと巧妙にすり替えた。「薩長土芸」すら、「薩長土肥」に変えられている。『肥』って、なあに、という人も多い。

 慶応4年8月1日に、神機隊・高間省三砲隊長が20歳で、戊辰戦争・浪江の戦いで死んだ。かれは頼山陽以来の広島藩きっての秀才だった。
 死を予期したのか、かれは死の直前に、父親(武具奉行・築城奉行)に手紙を書いている。『絶命詩並序』というタイトルで、七言絶句を添えている。まさに、学問所・頼山陽の後輩らしい。

 高間省三は軍人必読『忠勇亀鑑』で紹介されている。それだけに、高間省三の手紙は明治時代から昭和(終戦まで)の軍人たちの手記や遺書でずいぶん引用されている。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 秋山真之は、ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦の名言とされている。しかし、それは高間省三の手紙文の引用であり、秋山が考え出した言葉ではなかった。

 高間省三は手紙には、こう書き残している。 
『天皇は明徳を想い、純心に武士や民を赤子のごとく愛す。皇国の興廃は今日の戦いにありです。この徳に報るためにも、男児の死ぬべき時は今です』
 慶応4年7月末である。約38年前だ。

 広島出身の内閣総理大臣・加藤友三郎は、さかのぼること、明治38年1月、第1艦隊兼連合艦隊参謀長となり、5月27・28日の両日の日本海海戦に旗艦「三笠」艦上で作戦を指揮した。そして、バルチック艦隊と同航しつつ、「わが半ばを失うとも敵を撃滅せずんばやまず」との捨て身の「丁字戦法」(敵前180度回頭)を展開させた。
 ロシア・バルチック艦隊との戦いで功績を挙げた。やがて総理にまでなった。

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満開のソメイヨシノが墨絵のごとく咲く=御茶ノ水駅

 4月30日は日曜日だ。ソメイヨシノの桜が満開の行楽日となった。青空のもとの桜は見ごたえある。だが、都心部は朝から雨だった。桜見物を楽しみにしていた人たちは、きっとがっかりだろう。

 わたしは新宿『BLACK SUN」で開催された『東日本大震災復興支援 LIVE2014』の実行委員の方々の会合に参加した。武内紀子さん(俳優)の紹介だった。そこで、求められて、わたしは東北(岩手、宮城、福島)の取材報告と、知るかぎりの現状を紹介させてもらった。
 主催者から、11/8に二松学舎大学で開催される、同イベントの講演を頼まれた。わたし単独の話でなく、現地・東北の被災者を招いたトーク・ショーなども閃いた。
 まだ、半年以上もあるので、追々、煮つめていくことにする

 帰路、新宿・小田急鉄道のロマンスカーの指定券売り場で、長い行列ができていた。「雨、それでもいく」と心が勇んでいるのだろう。


 乗換の御茶ノ水駅は細いプラットホームだ。古い駅舎だから、横殴りの雨となると、突っ立っていると、衣服も顔も濡れてしまう。多くの人は、総武線の各駅停車の電車がやや遅れているので、乗客たちは階段下などに逃げ込み、雨宿りしていた。

 都心部のみならず、地方都市でも、これほどまでに古い駅舎や細長いいプラットホームはもはや見当たらないだろあ。隣駅の水道橋・神田駅への線路すら曲がりくねっている。
 近代化に取り残された、超ローカル駅が都心部に温存されているのだ。それはうれしいかぎりだ。少なくとも、私の母校・中央大学が遠く八王子に移転してしまったから、御茶ノ水は味気ない街だ
 ただ、4年間通った駅がそのままの姿で残ている。実にありがたいし、来るたびに懐かしい。少なくとも、ホームに立つだけでも、青春を思い起こさせてくれる場所だ。

 私が東京にきた1960年代と、周辺の風景はまったく変わっていない。対岸には丸ノ内線が走る。地下鉄がいちどは陸上に姿を見せる。それが愉快だった。一瞬の地上で、車体はぐさまトンネルに入る。
ただ、丸ノ内線の紅い車体が消えてしまった。そこには歳月の流れを感じさせる。

 正面には湯島聖堂がある。江戸時代には全藩の秀才たちが集まった昌平黌だ。現在では朱子学などなじみがないが、当時は論語や孟子など真剣に学んでいた。てまでは、学問の神様と崇め奉られている。
 眼下には神田川が流れている。大学生のころ、ひどい悪臭だった。いまは清流とまでいかないが、川船が行き交う、情感がある。
 湯島の坂道通りには一本の桜が満開で咲いている。傘をさした人が歩く。墨絵のような情感があった。これも江戸の風情だろう。

 東京は車社会よりも、電車と徒歩の社会だ。地方では整備された道路で歩く人は殆どいない。だけど、東京では歩く人が多い。人間を見る街をもみると、町そのものが生きている。
  こうした懐かしい光景は、数分に一本の上りの快速・東京駅が、同ホームに入線すれば、私の目の前から消されてしまう。
 雨だけに前景は墨絵のようだ。地下鉄・丸ノ内線と桜と湯島聖堂を組み合われた写真が撮りたかった。それだけ愛着がある、私にとっては貴重な場所だ。

 私は横殴りの雨の中で、遅延した総武線を待つ。 地下鉄がやってきた。と同時に、中央線が入線してきた。
 私には味わい一瞬の花見だった。

日本人として祝日『山の日』をつくろう=山河の恵みのためにも

 日本の国土の7割は四季折々に変化する、美しく緑豊かな山地でしめられている。山々は清流を生みだし、大地の田畑をうるおして、海にそそぐ。古(いにしえ)から、日本人はこの山河と深くかかわり、日常生活の場、精神の安らぎの場としてきた。
 日々の生活や健康に寄与する、国民の貴重な財産である。と同時に、山と海の素晴らしさは、日本人の最大のほこりでもある。

 日本の繁栄には山と海が欠かせない。そこで、4年前から主要な山岳団体が、国民の祝日「山の日」をつくろう、と活動を推し進めている。昨年11月には、全国「山の日」制定協議会(谷垣禎一会長)が発足した。同会は2014年3月4日に臨時総会と勉強会を実施し、その活動をいっそう加速している。
 美しい自然、とりわけ、山と海、双方の恩恵に感謝するためにも、「海の日」(7月の第3月曜日)と「山の日」と両立させるべきだと、その意義を強調している。

 富士山の世界文化遺産の登録がなされた。一座の賛美だけでなく、日本中の山に感謝の念をもつ。そして、子どもや家族、老若男女を問わず、山に親しむ。そのためにも、祝日「山の日」は夏休み期間が望ましいと考えている。

 8月11日が有力候補の日である

 国民の祝日は、国民と国会が決める。現在は超党派の議員が「山の日」法案を提出するべき活動を展開している。


 同祝日に関する、これまでの主だった経緯をみてみると、

 1997年に山梨県で、「山の日」の行事が始まった。その後、広島県、大阪府、岐阜県、群馬県と「山の日」の制定が展開された。

 2002年、国際山岳年として、「山の日をつくろう」建言がなされている。

 2008年、船村徹さん(作曲家)が、新聞紙上で「山の日」を国民の祝日に、と提唱した。

 2010年、山岳5団体(日本山岳協会、日本山岳会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳ガイド協会、日本ヒマラヤ・アドベンチャー・トラスト)による、「山の日」制定協議会が発足した。

 2013年、超党派の国会議員(100人以上)が参加し、勉強会を開催している。 


 わたしたちは後世に美しい、恵み豊かな山岳をいかに残していくか、という点で数多くの課題や問題点を抱えている。
 山林の荒廃、良質な水資源の確保、開発と環境保全、動植物の保護、鹿などによる被害、観光資源の活性化、東北(福島)の山々の放射能除染など多岐にわたる。

 国民一人ひとりがこれら山河の諸問題を再認識し、将来のビジョンを示す、そのためにも祝日「山の日」の制定が必要である。

全国「山の日」制定協議会が、国民からより多くの賛同を求めるために、会員(仲間)を募集している。呼びかけ人は、こちらを左クリックしてください


『関連情報』

全国「山の日」制定協議会 入会のご案内


同協議会・入会申込書(個人用)

町おこし・村おこし傾向と対策、学びたい『おかげ横丁』=三重県・伊勢市


 『赤福』といえば、「伊勢参り」と同一用語のように、有名である。

 江戸時代からの老舗だ。店内で、団子とか、ぜんざいとか、喫食できる。

 人気店の割には、接客がとても行きとどいている。

 有名店は「胡坐(あぐら)をかかない」

 これが、町おこしの基本だ。


 若者に人気がある。どのように若者を呼ぶか。
  
 すべてにおいて、最優先する。

 若者が来ない町はやがて、その勢力を失う。

 かつて全国は温泉街が流行っていた。

 結果として、若者に見捨てられ、高額のホテル・旅館がなだれを打って衰退したように。


 ネーミングはとしも重要だ。

 『これよりおかげ横丁』

 訪問者に感謝の気持ちがある。

 心から感謝は、まず形から入ることだ。

 ここでわかるのは、日本語である。

 横文字を使って、得意がっているのはしょせん借り物だ。

『~ランド』などは、メディアから見放されると、凋落の一途だ。



「常夜燈」とか、『道中安全』とか。かつては旅人に欠かせない道案内だった。

 若者を大勢呼ぶ町。そこにはさりげなく江戸時代の言葉を組み込んでいる。

 長い伝統は決して廃れない。ここらは抑えどころだろう。


  各市町村のお役人や商工会の(町おこしの旗を振る)が、ここで立ち止まり、腕ぐむ。

 この常夜燈から、なにを学び取るか。ヒントになった。となれば、それは町おこしの本ものの感性がある。

 ここは人工の街だが、テーマが明確だ。それは江戸時代の風景の再現だ。

 ひとつ一つの店舗は、私有財産だから、何をどう作ろうが勝手だが、調和、統一がある。

 イメージは古来のものだが、すべて新品だという特徴も見逃せない。

 

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無冠の帝王 最後の大物・小中陽太郎さん「第1回野村胡堂賞」受賞

 1月31日、浅草ビューホテル「飛翔の間」で、「第1回野村胡堂賞」(主催・日本作家クラブ)の受賞式が開催された。受賞者は小中陽太郎さんで、作品は『翔べよ源内』(平原社刊)である。平賀源内の一生に光を当てた、魅力あふれる時代小説だ。

 第1回の文学賞は名誉あるもの。と同時に話題性がある。報道陣、著名な来賓者、文学仲間がたくさんお祝いに駆けつけていた。
 野村胡堂はロングセラー「銭形平次」で有名であり、神田明神には碑もある。ストーリー立ても江戸下町・浅草が舞台のひとつになっている。それだけに来賓者には、浅草に縁がある芸能、舞台、寄席関係者が多かった。

 小中さんは日本ペンクラブ理事であり、文壇の大御所だ。授賞式で、「無冠の帝王」と聞かされて、えっ、と驚きを覚えた。プロ作家のほとんどはなにかしら文学賞歴がある。それだけに、小中さんは胸に秘めた思いがあったのか、壇上ではふだんに増して微笑みがあふれていた。

 同賞の審査委員長の奥本大三郎さんは、挨拶のなかで、
「野村胡堂は仏文のインテリです。小中さんも東大卒の仏文の教養人です。源内は理系と文系の両道の人でした。源内がしっかり描かれた作品です」
 と評していた。

 小中陽太郎さんは受賞挨拶のなかで、
「子どもの頃は鞍馬天狗、銭形平次、ロビンソン・クルーソーが愛読書でした。源内は四国出身の才能に満ち溢れる人物。他藩に召し抱えられること相成らぬ、と申し渡されていただけに、多彩な才能・発明のなかで、戯作で憂さ晴らした面がある」
 と源内の生き方にふれていた。

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