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中國新聞で、執筆中の歴史小説が紹介される=もう一つの戊辰戦争

 中國新聞社の岩崎誠論説委員から、年初に「髙間省三の小説はいつ書きあがりますか。何月に出版ですか」と問い合わせがあった。執筆中であり、まだ初稿の段階で、すこし戸惑った。
 予定は3月には脱稿し、5月には出版だから、その通りにお応えした。問われて、タイトルは未定です、と話す。小説執筆は仮題が必要なので、『二十歳の炎』としているが、活字になってしまうと、拘束されるし、出版社は売れるタイトルが必要なので、題名は言葉にしなかった。

 中国新聞1月16日朝刊で、自衛艦が広島沖で釣り船と衝突事故を起こし、一面トップを飾る、その日の文化欄(12)で大きく取り上げてくれた。『戊辰戦争と広島藩テーマ』が目に飛び込んでくる

 記事のリード文のみを紹介すると、
『明治維新に一定の貢献はしたが、薩長土肥の陰で新政府の表舞台に立てなかったのが広島藩だ。時代の変わり目にどう動いたかは地元でもほとんと知られていない。
 その中で戊辰戦争に身を投じ、現在の福島県浜通り地方の戦場で21歳の命を散らした悲運の藩士がいたという。高間省三。ことし歴史小説の主人公になる』
 という記されている。

 同紙で書かれたように、幕末の芸州広島の活躍は殆ど知られていない。作家や研究者はいまなお少ない。理由は二つある。
 ひとつは1945年の原爆は広島城の真上を狙った、城を取り囲む武家屋敷は廃虚で、史料は喪失した。致命的である。
 もう一つは戦前の広島は帝国大学がなく、高等師範学校だった。だから、文部省の与えた教科書を教えるだけで、帝国大学のように、独自の芸州広島藩の研究がなされていない。結果として、活字になった幕末や戊辰戦争の研究資料が発表されていない。
 
 薩摩、長州、土佐の豊富な史料に比べると、芸州広島の資料はあまりにも少なすぎる。実に、100分の1以下だろう。ある意味で、薩長土の資料からの小説にしろ、幕末紹介記事にしろ、それは書きつくされている。坂本龍馬ひとつとっても、大同小異、内容はほとんどおなじだ。

 その点では、未開発の幕末広島史は、もう一つの戊辰戦争の意味合いが出てくる。従来の史観からすれば、まったく逆とか、途轍もない資料が見つかることもある。だから、「船中八策は偽物だ」とも断言できる。
 大政奉還は広島藩が早くから推し進める。後藤象二郎が横取りした。それだけならばよいのに、後藤は広島の執政・辻将曹(家老級)にあることないことを告げ口した。それまで倒幕が薩芸で推し進んでいたけれど、薩摩と芸州広島の仲を裂く行為に及んでしまった。

 広島藩・浅野家臣の船越洋之助が、辻の口からそれを知り、中岡慎太郎に抗議すると、
「貴藩に申し訳ないことをした。後藤象二郎を斬る」
 と刀を手にした。
 こうした史実も見つかる。

 土佐側の書き手から、中岡慎太郎が後藤象二郎を斬る、という内容は中岡の日記からわかっていても、前後の流れが判らず、世には出してこないだろう。まして、龍馬・中岡暗殺にも絡みかねないし。
 ちなみに、同席していた品川弥二郎(長州)が、おどろいて中岡を諭し、後藤象二郎暗殺を思いとどまらせたのだ。

 戊辰戦争の会津追討にも、思わぬものが発見できる。「会津の悲劇」となると、学者や研究者や作家など、長州・世良脩蔵の傲慢さを中心にしてまわしている。基点がそこにある。
 広島側の史料から見ていると、「えっ」というものが出てくる。京都・太政官(岩倉、有栖川)などは、送り込んだ公家、下参謀の世良などは早ばやと見捨た、第二次の行動に出ているのだ。
 世良が殺されても、殺されなくても、関係ないじゃないか。そんな発見もある。

 幕末の芸州広島はつねに新たな発見があり、おどろかされる。それは手垢がついていない歴史に携われる魅力でもある。小説の決められたページ数となると、素材が多すぎ、目移りがして取捨選択に苦慮してしまう。

 中国新聞には大きく取り上げられていたし、もはや時間のかかる一次史料の読み込みよりも、ここらで小説執筆上の取りまとめにウェイトをかけよう、と決めた。

人物の名づけは難しい? (下)= 現代かわら版

  カルチャーセンター「小説講座」で、折々に、登場人物の読み方が判らない作品に出合う。ルビをふってくれると、それなりに人物像が描けるが、「純紀」、「海月」、「凛々魅」になると、『なんて読むんだろうな』とそちらばかりに気がとられて、人物の造形が薄らいでしまう。
 講師の立場だと、途中で投げ出さないが……、そこらが解っていない受講者もいる。

 名まえに凝る時間があるのなら、もっとテーマにこだわってよ。そう言いたくなる。「騎士」(きし)と読み込んで添削し、教室で受講生と向き合うと、「ナイト」だという。

 ペンネームが読めないひともいる。プロ作家になって、作者名が難しいと不利になる。そう思うのだが、当人がこだわって名づけたのだから、あまり余計なことは言わない。

 大人のペンネームは自責だけれど、親が出産後につける出生の名まえとなると、読みづらくて、その将来は如何なものか、と思う。

 昭和時代には、繁華街のキャバレーやパーの女性の名だな、そんな名刺をもらったな、という記憶がよみがえる。このごろはその手の名まえがずいぶん多い。当て字がやたら目立つ。
 横文字を日本語にあてたりしている。「愛」(ラブ)となると、誰もが「あいちゃん」と読んでしまう。

 あなたのお子さんの名前は? と問うて、「すばる」、「ありす」、「たける」、「あいら」と返ってくると、とうてい漢字がすぐに浮かばないし、書けもしない。無理して、ここまで名前を凝る必要があるのかな。小学校の先生は大変だろうな、と気の毒に思う。

「柊」が書けるようになるのは、中学生くらいだろうか。それを「のえる」と他人に読ませるとなると、至難の業だ。
 親が、わが子を「あーちゃん」と読んでいるから、どんな字ですか、訊くと、「あとむ」だという。もはや漢字まで訊いても、小説では使えない。

 現代をかわら版的に風刺すれば、名前がすんなり読めると、「個人情報保護の時代」に見合っていない。人物名まで伏せ字にする時代だ。
 これら難解な名まえブームは、この子らが大人になるまでか。なに事にも反動がある。わが子には読みやすい名まえをつける時が到来するだろう。
  
 路上で、「あいらちゃん、こっちよ」と呼ぶから、ふり返ると、ペット犬だったりする。人間にもおなじ名まえがあったな、と妙な感慨を覚える。
 動物には戸籍登録はないし、どんな難解な名前でも、ご自由に……、と思ってしまう。

 名まえには、「真知子」、「裕次郎」など、つねに時代を反映した流行がある。かつて寺の住職や漢学者や知識人に命名してもらうブームがあった。難解な名前が多かった。

 気取って名づけられた子ども、親も迷惑なはなしだ。頼んだ手前、「先生、もっとやさしい名まえにしてくれますか」と親は拒絶もできず、そのまま出生届けになってしまう。

 ちなみに、私の妻は「倭香」である。電話で、相手にどう伝えるべきか、ひと苦労である。「人偏に、右は……」という。あるいは「倭寇という字に……」、「わこうって、どんな字だったけ?」、と問い返される。「ところで、どう読むの?」 ひらがなにすれば、義経の愛妾とおなじである。
 さすがに、いまだ犬にはこの名前を聞いたことがない。
 
 
 

人物の名づけは難しい? (上)= 現代かわら版

 現代小説、時代小説をとわず、登場人物の名づけは苦労させられる。とても気の弱い人物に、「熊五郎」と名づけると、読み手のイメージからほど遠くなる。気立ての優しい美しい女性に「魔子」とつけると、内面が怖い女性に思われてしまう。

 一度、小説の主人公で使った名まえは、作者の頭のなかで人物像が定着しているから、書きやすい。性格や容姿など書くには楽である。だけど、またおなじ名まえか、と思われてしまう。
 過去の名まえは極力使わないようにする。すると、なかなか思う名まえが浮かんでこない。

 シリーズ物(連載)の主人公は苦労しない。だけど、小説はけっして一人だけではない。脇役まで過去の作品とおなじだと、ストーリーが似通ってしまう。だから、登場人物は都度、名まえを変える必要がある。

 執筆ちゅうに、新たな人物が登場してくる。そのたびに、学生時代の同級生名簿、所属団体の名簿から探してみたり、本棚にならぶ書籍の背表紙から、名まえをあれこれ考える。なかなか決まらない。
 一度決めても、しっくりこない。「黒川」から「白川」へと途中で変えると、奇妙なもので、人物のイメージがなんとなく変わってしまう。ストーリを運ぶほどに、当初のあらすじとは違ってくる。

 その点、歴史小説は名まえに苦労しない。坂本龍馬、勝海舟などはそれだけで解ってくれる。人物描写はほぼ不必要だ。「暗殺前の龍馬が、33歳の中年太り」そんな風に創作すれば、嘘っぽくなってしまう。ここらは描写しないほうが賢明だ。徳川家康ならば、太り加減でも通じるだろうが。

 手もとに今ある史料には、「小鷹狩之丞」と名まえが記載されている。漢文調だったり、候文だったり。そこから性格などとても判読できない。銅像でもあれば、まだわかりやすいが、それすら彫刻家のイメージである。
「綾」が書いた流暢な和歌がある。書体からしても、女性だろう。だが、美醜の顔立ちなどわからず、背丈すら見当がつかない。数行の和歌からだと、それこそ作者の勝手な人物イメージで書くしか方法はない。


「歴史小説くらい、嘘っぱちな小説はないんですよ」
 というと、たいてい驚かれる。会話文など、99%ウソだといっても、決して言い過ぎではないだろう。

「駿府の大御所様に報告せねばならぬ」
「そのからだで駿府に行けるか」
「たとえ、張ってでも」
 こんな形式で史料が残っているわけがない。作者が数百年まえに遡ってみたり、訊いたりした事実は100%あり得ない。残された手紙すら、文字数にすれば、ほんのわずかだ。

 作者が嘘を組み立てて、それらしく、その時代を描写するのだ。読者がその時代に感情移入してくれると良いのだから、と割り切って書くものだ。

 ただ、歴史小説は人の名まえは嘘を書けない。ここらが唯一の真実だろう。むろん、手紙や日記など、自分の都合の良いことしか書いていないから、内容など疑ってかかったほうが良い。

安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(下)=幕末史から学ぶ

 鳥羽伏見の戦いの前 慶応3年12月の小御所会議で、長州の朝敵が解除された。そこで初めて長州藩が京都にやって来れたのだ。
 淡路島沖、西宮の足止めで、倒幕に関与できなかった、うっ憤が長州藩兵にあったのだろう。

 近衛兵の任務に就くべき長州軍隊だが、約2週間後だった。薩摩藩が徳川を挑発し、仕掛けた鳥羽伏見の戦いに、長州藩兵がすぐ乗ってきたのだ。
「島津は徳川将軍の正室に入っている。これは島津家と徳川家の身内戦争だ。やらずもがの戦いだ」と山口容堂の命令で土佐兵も動かず、広島藩の近衛兵たちも、傍観の立場で、動かなかった。
 
 それなのに長州藩兵の参戦が火を点けたのだ。ここから日本の歴史が軍国主義国家への道、と切り替わってしまった。

 幕府軍、会津・桑名が、異議申し立ての建白書を朝廷に届けるために、ほとんど無警戒で京都に上っていた。(会津容保が3、4人の侍を連れて京都・朝廷に持ってくればよかった……。その失策はある)。参戦した長州藩が火に油を注ぎ、容堂の指示を無視した土佐軍がさらに加担し、大きな戦争になっていった。

 勝海舟の功績だろう、江戸城が無血開城した。
 戦争がどれだけ庶民を悲惨な目に遭わせるか。長州の思想には、そんなことお構いなしの面が強い。西郷に代わり、長州藩は軍師・大村益次郎を投入し、上野で彰義隊を討つ、会津を討つ、と戊辰戦争へと拡大していったのだ。

 会津落城(開城)の後はどうなったのだろうか。天皇を東京に移し、大元帥の下に、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に参戦し、日中戦争、第二次世界大戦へと、軍人と庶民の血を流させた。

 戦争でも儲かるのは、政治と癒着した経済を動かす人だ。現代ではどうなのか。

「原発建設」を海外に売り込む。庶民への口ふさぎの「特別秘密保護法案」を成立させる。国民の知る権利は守ると言いながら、情報を教える側がいなければ、民は知る由もない。さらには大村益次郎たち長州藩が造った靖国神社、A級戦犯を合祀する、同神社への参拝へとつづく。

 安倍首相は靖国神社の境内で、「おらが長州の大先輩」だと、関東・東北を血の海にした大村益次郎の像まえで、胸を張って歩く。
 これで終わったわけではない。2014年は何をしでかすのか。

 長州閥の政治家たちが作った、嘘の歴史、「薩長同盟」の美化から、日本人が抜け出さないかぎり、この流れは止まらない。鳥羽伏見の戦いが日本を血の国家にした。それが靖国神社へと密接に結びつく。そう教えなければ、日本人は歴史から学べず、現在から今後の流れを予測できないだろう。

 安倍首相、さらなる軍事思想の政治家たちが目指す、次なる暴走はなにか。「徴兵制度」が次のステップだと、明治の近代史から学びとれるのだが……。
                                                   【了】
 

安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(上)=幕末史から学ぶ

 こんな危険な安倍晋三さんを、だれが内閣総理大臣に選んだのか。途中で政権を投げだした人を、再度、首相にさせたのか。この選択肢の誤りは、将来の遺恨につながるだろう。
 そう言いたくなるほど、安倍首相の一連の動きは、当人の意識・無意識にかかわらず、まちがいなく軍国の道へと歩んでいる。

 幕末の長州藩がいかに乱暴な、軍事色の強い藩だったか。それと安倍政権はずいぶん重なり合うものがある。
 
 後世の人から見れば、安倍首相ひとりのせいだ、といえないのだ。私たちが手を貸そうが、貸すまいが、政権を黙認してきた、社会の一員なのだ。安倍首相から政権を取り上げる努力を怠っておいて、軍国への道を走らせてきた。私たちは、その一切を時代のせいにはできないのだ。

「鳥羽伏見の戦い」以降は、長州藩の暴走は目に余るものがある。それでも反旗を翻せず、徴兵制を認め、軍事国家の道を表向きは賛辞してきたと、その時代に生きた人たちの責任になる。
 いち個人の力だけではとうてい抵抗できず、わが身を守れず、治安維持法で口をふさがれ、1枚の赤紙で戦地に借り出されて死んでいく。妻子は本土空爆や原爆で家屋を焼かれ、死んだり、飢えていく。

 鳥羽伏見の戦い以降は、日本は血の歴史だった。それでも、その時代に生きた人は、時代のせいにできない。

 安倍首相が「不戦の戦い」とか、「戦没者への哀悼の誠」とか、どんなきれいごとを述べようとも、長州藩の軍事優先思想が、戦争の大悲劇を招いたのだ。その道が底流でいまなお引き継がれている。

 現代の政治、昭和の歴史をあきらかにするには、明治維新まで遡らなければならない。

 幕末の長州藩はひたすら「攘夷」を叫び、下関の砲台から外国船に砲弾を撃ち込む。翌年には仕返しに、四か国連合艦隊に襲われてしまう。むろん、犠牲になったのは藩士よりも、民・領民である。
 蛤御門の変では、長州藩士たちは京都御所に発砲し、たんに退却すれば良いものを、京都の町に火を放つ。大火災が、京都庶民や住民の資産を焼きつくす。現在において、もしわが個人資産が一瞬にして灰になれば、どんな悲しい想いになるだろうか。

 戦いの大義すらあれば、民の生命財産などどうでもよい。少なくとも、長州藩には庶民への配慮がなさすぎる戦いが多い。わが身に置き換えれば、どれだけ罪な行為か、理解できるはずだ。

 長州はなにかと「薩長同盟」で倒幕した、と誇らしげにいう。けれど、これは嘘の歴史である。かれらが後世につくった、政治的なまやかし(欺瞞)である、と断言できる。

 慶応3年の大政奉還で、徳川幕府から朝廷に、政権が平和裏に返還された。長州藩はこの大政奉還にまったくかかわっていない。朝敵で、京都にすら入れなかったのだ。
(一部の藩士は隠密的に偵察していたけれど。これが後世に英雄として誇張されている)。

  大政奉還後、慶応3年11月末、(龍馬と中岡慎太郎が暗殺された直後のころ)、薩摩藩と広島藩は京都へと兵をあげた。会津・桑名藩と御所警備に代わる、近衛兵の役が目的だった。

 幕閣がもともと、「毛利家の家老を、長州征伐の罪を問うから、京都に連れて来い」と命じている。そこで薩摩と広島藩は、毛利家老の護衛を口実に使おうと決めた。つまり、長州はダシだった。

「ならば、長州藩の兵も一緒につれて来よう」
 薩摩と広島はそう決めた。広島県・御手洗港に3藩が集結し、長州軍艦には広島藩の旗を掲げさせた。そして、淡路沖までくると、その船内と、西宮に駐留する大洲藩の陣内で、長州藩兵をかくまっておいたのだ。

 なにしろ暴走する藩だ。とくに広島藩などは隣国で十二分にわかっていたから、広島藩士・船越洋之助が大洲藩に、「長州を西宮に上陸させるから、そのまま引き留めておいてくれ。朝敵だから、京都に来させないでくれ」と依頼しているのだ。大洲藩はそれを守り切った。

 小御所会議で、明治政府が正式に誕生した。長州はこの場にも関わり合っていなかった。つまり、倒幕に役立つ藩ではなかったのだ。

【書籍紹介】 知られざる『富士山』=上村信太郎

 富士山ブームだ。その富士山が世界文化遺産に登録された。自然遺産ではなく、「文化遺産」という点に、私たち日本人は価値が見いだせる。つまり、地球の天地創造による「美」よりも、平安時代の和歌から、浮世絵、そして現代までの人とのかかわりが評価されたのだろう。

 それは文学、絵画、音楽、浮世絵など、富士山が私たちの心の奥底まで入り込んだ、象徴としての存在である証しだ。

 登山家の上村信太郎さん(日本山岳会、日本ペンクラブの会員)が『富士山』を発刊された。(山と渓谷社・1200円+税)。富士山の驚きの事実が147話がある。どれも、読者に投げかける疑問形のスタイルを取っている。

「山頂から展望できる山はいくつあるか」

「富士山の山開きはなぜ7月1日か」

「銭湯のペンキ絵に、なぜ富士山が多いのか」

「富士山と同じ標高の山はあるのか」

「冨士とつく、横綱はこれまで何人いたか」

「どのくらい遠くから富士山が見えるか」

「富士山のライチョウはなぜ絶滅したか?」

 上村さんは海外の高所・初登頂を成した人だ。一方で、ユニークな作家である。資料・史料から、新たな発見、新事実を見つけるのが得意だ。ヒマラヤにせよ、日本の山にせよ、かれの著書には必ず人間がからむ。それが登山家だったり、地元の人だったり、ガイドだったり、意外な人が取り上げられるのが常だ。

「えっ、芥川龍之介が初期の槍ヶ岳に登っていたの。だから上高地・河童橋を知り尽くし、名作『河童』が生れたのか……」 と上村さんから教えられることが多い。島崎藤村が日本山岳会の会員だったことも、上村さんの山岳連載誌のコラムから知った。

 12月半ば、歴史取材の帰りに松山空港から飛行機に乗ると、「左手に富士山が見えます」とアナウンスがあった。デジカメの窓越し撮影はうまく撮れるはずがない。それでも、シャッターを押したくなるから、不思議な魅力ある山だ。

 帰宅すれば、上村さんの新著「富士山」が届いていた。ページをめくるごとに、おどろきが多い。筆力のある作家だけに、エピソードや情報や知識が実に読みやすく、わかりやすく、巧くまとめられている。これなら、電車のなかでも簡単にすらすら読める、愉快な内容ががたくさんあるし……、それが第一印象の本だった。

 3分間スピーチで、「富士山」のエピソードを取り上げるには、最良の本だと思う。あるいは講演の講師が、イントロで、いきなり余談ですが、
「富士山頂で起きた事故や事件は、どこの警察署が管轄だと思いますか?」
 と受講者に投げかければ、一気に壇上に視線を集め、会場の緊張を和らげてくれるだろう。

 あなたは日本人として、「147話の質問」をどこまで知っているか。それにチャレンジしてみる。あるいは友だちの話題のなかに差し込んでみる。いつしか富士山に登りたい人は読んでおく。
 自分好みの読書方法がある、面白く、愉快な良書だ。

広島空港で頑張ってる、手作り自然食品=広島西条農高

 広島に私用があり、12月16日はトンボ帰りだった。
 先週はお茶の水女子大の図書館で、『広島市城下町絵図(幕末)』が閲覧・コピー入手ができた。広島藩の藩士約350人が住んでいた家屋敷の絵図だ。一軒ずつ探しながら、あるかな、あるかな、と丹念に見ながら、私が現在・執筆している歴史小説の主人公「高間省三」の家を発見することができた。家主は父親「高間多須衞」の名だった。発見できた瞬間のうれしさは歴史小説を書く冥利だ。
 
 その家は京橋川の橋の袂だった。当然ながら、1945年の原爆投下で、広島の城下町は跡形もないけれど、それでも現地を歩いてみたかった。
 ただ、この日は夕方6時から日本ペンクラブの理事・委員の忘年会がある。またの機会がある、と広島・絵図歩きは後日にまわした。午後3時発に乗るために、広島空港に戻ってきた。

 旅先では土産物は買わないタイプだ。空港ロビーで、女子高生たちが遠慮がちに呼び込んでいた。『活き、活き。やっぱりおいしいね、広島畜産』と幟が建てられている。 広島といえば、カキ養殖の水産業が有名だが、東広島市で農作物、畜産業も活発におこなわれているようだ。足を止めてみた。

 広島県立農業高校の女子生徒たち約10人だ。文部省指定「スーパーサイエンススクール」の学校案内も配られていた。家畜の飼育から食品づくりまで一貫して学んでいる。同校は園芸、農業機械、生物工学など幅広い教育の場である。

 販売品をのそき見た。「ウインナー・ソーセージ・150g」(350円)、「金粉入り・ビスケット」(50円)、「ゆず飲料・缶250g」などを販売していた。
 彼女たち高校生が熱意と努力で作った食品だけに、買い求めたくなった。その熱意を土産にしよう、と決めた。

 小袋に入ったビスケットは安価だった。コスト割れだろうな、利益がないだろうな、と余計な心配をした。高校生の段階では原価管理・計算の指導は及ばないのだろう。もしかしたら、学校教育では利潤を出したらいけないのかもしれない。
 自分たちの手作りの食品をまず食べてもらう。学校の存在を知ってもらう。農業高校のカリキュラムを理解してもらう。そうした趣旨と展開だろう。
 男子教師は地味な存在で、パネルや販促物の取り付けの指導をしている。

 愛想の良い女子高生たちが「ウインナー・ソーセージには保冷剤を入れますか」と訊く。飛行機の出発待ち時間を使って賞味してみたいけれど、持ち帰ることにした。

「西条農高は全国マラソンに出るの?」
「陸上は強いです」
 年が変われば、恒例で、高校生の全国大会が京都で行われる。同校が出場することがあれば、応援したい気持ちになった。少なくとも、広島空港で見た、あの農業高校だろう、と校名は思い出すはずだ。空港には全国各地から旅人が来る。学校名を売り込むためにも、教育内容を理解してもらうにも、良い企画だと思う。

 
 

初戯曲は大好評、『庭に一本なつめの金ちゃん』=作 出久根達郎

 夏目漱石が生誕してから150年が経つ。漱石が五高(現・熊本大学)の教授として赴任してから120年である。熊本で約4年3カ月を暮らす。この間の生活体験が、「草枕」、「二百十日」など名作の題材にもなっている。それだけに、漱石と熊本は深い縁がある。

 直木賞作家・出久根達郎作『庭に一本(ひともと)なつめの金ちゃん』が初の戯曲として、熊本(11月26日)と、東京(12月7日)で公演された。演じるのは熊本在住の劇団員。出久根さんは現役作家のなかで、漱石に関して第一人者だけに、ストーリーの運びがよく、ユーモアが随所にあり、内容の濃い演劇であった。

 東京公演の12月7日(土)「夜の部」の観劇には、出久根さんから、私と面識がある受講生たちが「課外授業として」と招かれた。

 第一場は熊本の古書店が舞台である。時代は明治31年だが、古本屋・河杉書店の主人はいまなおちょん髷(まげ)を結う。容姿そのものが愉快だ。むろん、語りの口調も独特でユーモラスだ。

 漱石が古書店で立ち読みしている。店主が、『北斎漫画』(北斎のスケッチ画集)を近ごろ入手したと言い、誘い込む。私の懐でまかなえる代物じゃない、と漱石が語る。そこからストーリーが運ばれていく。

 もう一つのストーリーとして、漱石が前田卓(まえだつな・2度結婚に失敗した、30歳美人)と河杉書店を利用して密会している、という噂から細君が訪ねてくる展開だ。妻は嫉妬心でカリカリしている。
 ここらは喜劇的な演劇で、書店の娘・東洋子の恋もかぶさってくる。理屈抜きで楽しめた。 

 舞台装置は3D方式で、1階(右手)と2階(左手)が同時進行していく。窓には柿の木が見える。

「渋柿は渋柿のまま、甘柿は甘柿のまま。それが当たり前なので、人間だって、変る人は信用できないわ」
 含蓄のあるセリフだ。

「古本屋は古い思想を売るのだが、一方で新しい考えを買わなくては……」
 出久根さんが長くたずさわった、古書店人生から得られた、本ものの言葉だけにひびく。

 第二場は東京・早稲田の古書店。孫文や宮崎滔天(みやざき とうてん・自由民権運動家)など、中国の革命家たちのたまり場(アジト)である。孫文は清朝(しんちょう)政府から懸賞金つきで追われている人物だ。

 修善寺温泉で吐血した漱石が、東京の入院先から抜けだし、古書店にやってくる。熊本で密会相手だった前田卓が『75歳のばあや』の変装で、警察の目をかいくぐり、中国の革命家たちを支援していたのだ。

 観客のなかには、清朝時代の革命・思想運動を知らない、理解できない人が仮にいたとしても、だれもが漱石の作品名を知るだけに、
「吾輩は猫である」の文豪、夏目漱石先生ですよ、「草枕」で私をダシにした小説家の先生、
 と前田卓が革命家たちに紹介するので、演劇には親しみがわく。

 思想家たちの内容がやや混み入りはじめると、
「吾輩は猫である、という小説で、一つ、お尋ねしたいことがあるのですが」
 と作品の登場人物のモデルを問いただす。さらには、
「知に働けば角が立つ、山路を登りながら、こう考えた」
 と草枕の書き出しが飛び出してくる。

 これらは観客の親しみやすい心理を推し量った、出久根さんの絶妙な呼吸だろう。むろん、演劇者たちも戯曲者の空気・空間を読み込み、コミカルに演じていた。飽きさせない。
 

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【オピニオン】 政党政治はもはや死に態だ=平成の治安維持法

 安倍政権が11月26日、「特定秘密保護法案」を強行採決で衆議院を通過させてしまった。次の世代には間違いなく1000兆円を上回る国債の借金、さらに「平成の治安維持法」の悪法まで作り、大きな負担を与えるだろう。
「あなたたち(親、祖父)の世代はなんて酷(ひどて)いことをしてくれたのですか。……」
 次なる世代には、私たちは糾弾されるはずだ。

 大正時代の『治安維持法』が国民の不幸に及んだ。この法律を拡大解釈した、ときの政府は国民に思想弾圧を加えた。「安政の大獄」よりも、はるかに多い獄中死をもたらした。
 だれもが逮捕が怖くて、戦争突入すら反対を言えず、結果として緑豊かな日本の多くの都市が焼け野原になり、若者たちが血を流し死んでいった。
 国土を焦土化し、廃墟にしたのは、まさに世界最悪の悪法とまで言われた「治安維持法」があったからだ。この歴史から、学ぶことはできなかったのだろうか。

 政権や権力者は不都合なことを隠したがる。それが外国に漏えいすること
よりも、国民に知られることが怖いからだ。だから、「特定機密保護法案」を出してきた。
 衆議院を通過した今、国民が声を大にして「参議院でストップ」と言っても、ほとんど関与できない現実がある。この際、「政党政治」ははたして正しい民主主義なのだろうか、と問うてみよう。

「選挙で選ばれた数百人が政治を支配する」。国民比率では数万分1のわずかな国会議員が、数年間にわたり、やたら法律を作りつづける。これは期間限定の独裁主義ではないだろうか。民主主義という、口当たりの良い言葉で包み込まれているが、どう考えても「期限独裁主義」である。

『紙』の時代は投票用紙しか手段がなくなった。ある意味で、政党政治は最も有効な手段だった。『デジタル』の進化した今、政党政治はしだいに民意が反映しない、老朽化した政治体制になってきた。IT時代に即した、国民が立法に対して意思表示を示す、『直接投票政治』へと進むべきだろう。そのほうが民意を十二分に反映できる。

 一つ法律、予算、事案ごとに国民が成否を出すシステムは作れるはずだ。

 かえりみても、衆議院・参議院選挙はムードで決まる。メディアが持ち上げた政党が大量に票を伸ばす。小泉政権、民主党政権、安倍政権はすべてムードで誘導されて大量得票を得てきた。「郵政」「自民逆転」「経済成長」一つ政策の掲げ方の賛否を問う選挙だった。
 その結果として何が生れたのか。政府は全信任を得た顔で、あらゆる法律を作っていく。この矛盾はもはや解消すべき時代にきている。
 政党政治が陳腐化してきたと、国民自身も自覚するべきだろう。

 明治時代から西洋の民主主義を学び、取り込んできた。その欠陥が見えた今、それを改善し、新たな立法システムを作るべきだ。「立法」は国民が決める。選挙で選ばれた政権は「行政」を担う。「司法」も国民が関わる。
 外国に先駆けて、日本人がこうした最新の民主システムを構築していくべきだろう。世界の魁(さきがけ)となってもいいだろう。

 これを推し進めれば、国会議員はきっと利権を失いたくないから、大反対するだろう。『ITに弱い人はどうするのか。身体障害者は投票できるのか』と難癖をつけるだろう。「賛成」、「反対」とテレビに向かって一言いえば、音声で読み取れる時代は、もうそこまで来ているのだ。

 IT進化はすさまじい。わずか1秒間あれば後楽園ドームの観客3万人の1人ひとりが特定できる。ボイス(声)認識はもうセキュリティーのなかに組み込まれている。
 有権者が一言「賛成」、「反対」といえば、瞬時に国会で集計できるのだ。せめて、重要法案はこのシステムを組み入れるべきだ。

 いまから投票システムを研究する国家的プロジェクトをつくれば、勢い推進されるだろう。矛盾に満ちた政党政治から脱皮し、新しい政治体制の社会を作るべきだ。

 こんかいの「特定秘密保護法案」は平成の治安維持法だとまで言われていながら、メディアの動きが鈍かった。月刊誌、週刊誌はほどとん取り上げず、新聞も片隅に置いてきた。
 思想信条、報道の自由の危機なのに、新聞は衆議院通過の「強行採決」のほうが目立つ。本気で報道の自由に立ち向かっているのか、「特別秘密法案」に反対しているのか、と疑いを持ってしまう。

 一部新聞は『参議院の力が試される』としているが、ジャーナリストは「報道の力」、作家は「ペンの力」が試されているのだ。本質の捉え方が違うし、タイトルの踊り方がちがう。

 大正時代の「治安維持法」が10年、20年後になって牙をむいてきた。そして昭和時代に生きた人たちを最恐の生活に陥れた。「若い命を大切にしなかった」時代に及んだ。このままでは、平成の「特定機密保護法」が可決され、次世代を苦しめることになるだろう。

 あなたも、私も、ともに同じ世代としてこの法案を作った責務があるのだ、と認識するべきだろう。

「特定秘密保護法」は、闇の公安警察が欲しがる法律 ③ 青木理

 公安警察とは何か。警視庁警備部・公安部が、戦前の特高警察の流れをくみ、それを引き継いでいる。個人の情報を収集し、蓄積し、管理している。その活動はベールに包まれているが、令状なしの違法捜査が日常化している、とも言われている。

 作家やジャーナリストが公安部の情報を入手し、外部で報じれば、「特定機密保護法」で、刑罰10年-5年を課せられる。戦前の治安維持法の刑罰と、ほぼ同じである。そうした法律が国会で審議されている。

治安維持法(大正十四年法律)
第一條 國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス


11月24日、東京・文京シビック小ホールで、『特定秘密保護法に反対する 表現者と市民のシンポジウム』が開催された。3番手として、ジャーナリストの青木理(あおき おさむ・元共同通信社)さんが指名された。
 
 青木さんは冒頭に、秘密保護法に関しては、どうしてもこれだけは言っておきたいことがあります、と述べてから、
「この法律は安倍政権とセットで語られていますが、本当に欲しがっているのは、安倍政権よりも、警察官僚なんです。民主党政権のときも、尖閣諸島のビデオ流出事件から、仙谷由人(せんごく よしと)官房長官が先導した経緯があります」
 内閣情報調査室(通称・ナイチョウ)は大した組織ではない。職員もせいぜい200人程度の規模で、たいした能力もない。ここは基本的に警察官僚の出島なんです。警備・公安警察のトップ、準トップクラスがかならず長に座り、その下には警備・公安警察官あがりの職員が大挙している。
 むろん、それ以外にも外務省、防衛省、公安調査庁などがいますけれど。主は警備・公安警察の出先機関であり、ここが今回の法律の事務局になっているんです。

「公安警察が欲しがる法案。その視点で見ていくと、外交・防衛のためにというけれど、どの官僚よりも、警察官僚が最も使い勝手が良い法律になっているんです」

 他の省庁は秘密を大臣が指定することになっている。警察官僚の頂点は警察庁長官になる。これは警察内部で完結し、外部のチェックがまったく入らない組織です。

 特定機密保護法が内閣情報調査室の手で、立案される過程で、「テロ対策」の項目が忍び込まされた。
「テロ対策という名目がつけば、警察に対する情報がすべて秘密になってもおかしくない」
 青木さんは強調した。

「外交・防衛の重要な問題では、情報の流出は好ましくないと考える人もいる。。機密は多少なりとも必要だろう、と皆はお考えでしょう。それでも、ある程度・機密の範囲が限定されます。しかし、テロ対策となると、警察のありとあらゆるものが秘密になりかねない」
 極端なことを言えば、交番がどこにあるか。それすら全国交番一覧表はテロ対策から公開しない。いま警察が必死に隠していて全容がよく解らないけれど、自動車ナンバー読み取り装置(俗称は「Nシステム」もそうです。(Nシステムは、手配車両の追跡に用いられ、犯罪捜査の重大な手がかりになっているらしい)。これらは完全に特定秘密になるでしょう。

 警視庁公安部の人員配置図とか、公安委員がどこにいて、どこに事務所を置いて活動しているか。まちがなく特定秘密になる。
「つまり、警察がいちばん使い勝手がよくできている法律なんです。外交防衛は建前として掲げているけれど、この法律によって、一番強化されるのは治安なんです。平成の治安維持法。言葉遊びでなく、治安維持法になるんです」 


 青木さんの主張からは、市民生活に暗い影を落とした、戦前の特高警察の再来があり得るだろう、と予測させられる。一世代前は、隣人が隣人を密告して罪に陥れた暗い社会だった。路上やひと前で迂闊なことを言えず、政府・軍部・天皇批判などできない暗黒の日本だった。
 それからまだ68年しか経っていない。歴史のはるか彼方の話ではない。治安維持法が息吹いてきたのだ。