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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(上)=東京・葛飾

 葛飾区をつらく平和橋通りから、ふいに脇道をみると、3階建て民家の軒下には、瓢箪(ひようたん)がずらり吊り下がる。極小~超特大まで。表面が多彩な色彩画もあれば、金色もあるし、肌が素のままの瓢箪もある。

「葛飾区内で、ここまで瓢箪に凝っているのは、きっとわたし一人でしょう」
 そう話すのは、同区東四ツ木4丁目の村澤義信さん(74)である。地域でも、「ヒョウタンおじさん」で名高いひとだ。

 村澤さんは茨城県・内原町(現・水戸市)の出身である。東京に出て農家のハウス栽培の仕事についていた。
 15年前から、埼玉県・三郷に30坪の菜園畑を借り、瓢箪作りをはじめている。村澤さんから一連の話を取材させてもらった。

 畑には、まず農業用パイプで棚をつくる。(ブドウ棚に似る)。冬場には畑を耕し、肥料を与えておく。タネは春の彼岸に撒(ま)き、秋の彼岸には収穫する。瓢箪の種類(品種)によって、成熟した瓢箪の大きさがちがう、と話す。
 7センチ(品種改良品)、15センチ(秀吉・千成)、70-80センチ(通称・大玉)が、村澤家の軒下に吊り下がっている。
 
『大玉』は高さが約70センチ、腰回りが約1メートルにもなる。その作り方を説明してもらった。 
「人間と同じで、さまざまな形があるよ」
 1本の蔓(つる)に対して、形のよい瓢箪のみ3ー4個に絞り込む。1-2個だと、栄養分がまわりすぎて、破裂する。(スイカが割れるのに似る)。逆に、数が多いと大玉が小粒になってしまう。

  瓢箪の蔓(直径は約5㎝)は太いが、それでも自重15キロが負担となり、落ちてしまう。ひもで吊してやる。葉っぱも大きいから、台風被害が心配になると話す。

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【書籍紹介】明治~昭和のおもしろ記事・発掘エッセイ=出久根達郎

 豊富な雑学は、知識とみなすか、教養とみなすか、物知りとみなすか。すくなくとも、雑学は人間生活の潤滑油になることは確かだ。では、雑学はどこから得られるか。品質を問わなければ、テレビ、新聞、雑誌、人の話など、アンテナを張っておけば、いくらでも得ることができる。

『人間を学ぶには、雑誌が一番である』
 直木賞作家の出久根達郎さんが、最近の著書『雑誌倶楽部』(実業之日本社・1600円+税)で述べている。同書には明治から昭和の雑誌から、面白い記事が盛りだくさんだ。
 覚えても何にも役立たない。だから、この世には「雑」が必要だ、と出久根さんは強調している。

『雑誌は面白いか否かだ。パラパラと適当にめくって、目に止まった題名から読んでみる』
 それはまさに『雑誌倶楽部』そのものを言い表している。庶民の暮らし、偉人の素顔、艶笑な話、珍事件など、38冊の雑誌の1月号から12月号まで、月ごとに紹介されている。
 ユーモラスだったり、エッチな内容だったり、おどろきの事実だったり、よくぞここまで「発掘」できるものだと驚かされてしまう。
 さすが古書店の目利きだ。半世紀にわたり、あらゆる雑誌、書籍、冊子を見てきて、値段をつけてきた出久根さんの眼力だから、なせる技だろう。

 パラパラめくっていると、山手樹一郎の活字が目に止まった。中学生時代の私(穂高)は、貸本屋通いで、小遣いのほとんどをつぎ込んでいた。大衆小説を片っ端から読み漁っていた。そのなかで、山手が最も好きな時代小説作家だった。理由は簡単で、思春期の少年にとって、ちらっと色っぽい描写が必ず一度は出てくるから、それがたまらない昂揚感になるからだ。

『大衆文藝』(昭和24年3月)に載った、山手作品が紹介されている。
「一度家の若い女中に、いきなり唐紙をあけられたことがある。……」
 男女のいとなみが見られた瞬間が展開される。実にうまい描写だな、と感心させられる。
 いとなみ。こんな安易なことばでなく、山手は絶妙なことばで展開しているのだ。そのうえ、短編小説でありながら、小田原戦争のさなか、斬首寸前の主人公へと及ぶ。ぎりぎりで助かる英知は実に巧妙で、見事だ。作家として、よくぞ、ここまでリアルに書けるものだと感心させられた。それを紹介する、出久根さんもすごい作家だ。

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共通一次試験「国語」、作者が解けず腹が立った=黒井千次(作家)

 『青い工場』は現代国語の試験問題に、よく取り上げられるんですよ。大学入試・共通一次の現代国語の設問でも、その作品が取り上げられました。私は(新聞に出た)入試問題を解いてみたんです。
 『これを書いた時の作者の気持で、一番正しいと思うものを選べ』
 黒井さんは、おかしな設問だな、という気持ちで向い合った。手を離れた作品だし、あまり覚えていない。マークシートだから、おおかた解答3-4から選択する方式だろう。

「一つひとつ答えを読んでみたけれど、どれも、私の気持ちに合致していない。まじめに解答を考えているうちに、私はだんだん腹が立ちましたよ」
 挙句の果てには、答えは違っていた。
「私の作品なのに、私が答えを出せない」
 そう笑いながら話すのは、黒井千次さんだ。

 日本文藝家協会が主催による「文芸トークサロン」が、文藝春秋ビル新館5階で、午後6時から2時間、月一度のペースで開催されている。参加者はいつも20人程度で、大半が熱心な文学愛好者だ。作家の本音がボロボロ出てくるから面白い。

 私は同協会の会員であり、時間が許すかぎりトークサロンに出向いている。
 
 こんかいは24回で、4月18日(金)、トークは著名作家の黒井千次さん(2002年−2007年 同協会理事長)で、題目は『小説家として生きて』だった。
 

 小説は体験+虚構によって成立する。どんな体験だったか。それを知ってもらう必要がある、と前置された黒井さんは、人生の前半で、小説家を目指したころに話を集中させていた。

 1945年の春に、小学校卒業式があり、全員が集まったところで空襲警報が鳴りひびいた。卒業証書を貰わず、逃げた。府立中学の入学試験は、大勢が集まると危険だと言い、書類選考だったと思う。(黒井さんの推測)。
 中学生になったときから、11人が同人誌活動を行った。(いま現在亡くなった人は5人だから、もう一人出ると、生存者の方が少なくなる)。そこが小説家活動一筋のスタートだった。

 学制改革で、府立中学が都立高校になった。だから、入学試験は大学(東大・経済学部)だけだったと語る。
 父親がずーっと役人(最高裁判事)だったから、生産する民間企業に勤めたかった。地方にはいきたくなかった。東京・もしくは近郊の会社を狙った。日産を受験したが、マルクス経済学の学生の身には、近経の設問は難しくて、不合格だった。

 中島飛行機の解体後にできた「富士重工業」に入り、太田工場など勤務した。ベルトコンベアーの前で働く労働者がめずらしく、かれらとの対話(雑談)などが小説の材料になった。5年ほど経つと本社勤務で、マーケットリサーチが主な仕事だったという。
 勤務のかたわら同人誌活動を展開してきた。最初のうち、黒井さんは会社内で小説活動は隠していた。やがて、どこからか知れ渡ってしまった。
「小説とは良い趣味ですね」
 このことばが一番腹立たしかったという。
「趣味で、こんなものが書けるか」
 黒井さんはつよい反発を覚えていた。

 小説は書きたいモチーフや衝動だけで、作品を書けるものではない。「何を書くか」、それを「如何に書くか」と考え、創作していくものだ。それは趣味をはるかに超えたものだ。
 小説家になってからも、小説ひと筋で、余裕がなく、世間でいう趣味らしいものはなかった、と話す。

 20代で『青い工場』を発表して注目される。36歳の時には、『聖産業週間』で芥川賞候補になった。38歳のときに発表した「時間」で、芸術院奨励賞をもらった。この段階で退職した。
 退職してから、食べることが大変で、ルポ、ノンフィクション、なんでもやったという。

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『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

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『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ

 明治に入ると、芸州広島藩は長州閥の政治家から、徹底して封印されたり、ねつ造されたりしている。
 広島藩主の浅野家はいまなお資料を公開していない。長州の刺客に狙われるとでも思っているのだろうか。そう疑いたくなるほどだ。実物は広島市中央図書館に眠っている。歴史研究者はのどから手が出るほど欲しいのに。
 
 浅野藩主の末裔が代々隠しても、当時の有能な学問所メンバーが編纂した資料が現存していた。だから、私は芸州広島藩からの幕末歴史小説を書くことができた。


「長州が倒幕に寄与した。そんな作り事は、司馬遼太郎が書いてはいけませんよね」
 山口県のある著名博物館の、主任学芸員がふいにそう発言した。取材で訪ねた私が作家だったから、そう示唆してくれたのだ。

 それには「えっ」と驚いたものだ。
 4年前のその言葉が、私の脳裏には強く焼き付いている。だから、こんかい長編幕末小説を書き上げた。とくに、司馬史観の誤り、事実に反するところ、作り話は明確にするべきだ、その一念で書き上げた。随所にはかなり織り込んでいる。
 6月には刊行予定だ。

 最大のポイントは、「薩長の倒幕」など、常識的に考えても、あり得ないし、事実に反していることだ。

「禁門の変」で、長州藩は朝敵となった。長州人が京都に入れば、新撰組などに殺されていた。幕府から「殺せ」という命令なのだから、当然、殺す。

 大政奉還から、小御所会議で京都に新政府ができるまで、長州は軍隊を京都にあげていない。主要な会議にも出ていない。長州藩は徳川家の倒幕にまったく役立っていない。どんなに折り曲げても、それが事実だ。

 新政府が樹立した後、長州の軍隊が戊辰戦争で暴れまわっただけなのだ。


 長州・政治家が、薩芸(さつげい)の徳川倒幕を「薩長の倒幕」へと巧妙にすり替えた。「薩長土芸」すら、「薩長土肥」に変えられている。『肥』って、なあに、という人も多い。

 慶応4年8月1日に、神機隊・高間省三砲隊長が20歳で、戊辰戦争・浪江の戦いで死んだ。かれは頼山陽以来の広島藩きっての秀才だった。
 死を予期したのか、かれは死の直前に、父親(武具奉行・築城奉行)に手紙を書いている。『絶命詩並序』というタイトルで、七言絶句を添えている。まさに、学問所・頼山陽の後輩らしい。

 高間省三は軍人必読『忠勇亀鑑』で紹介されている。それだけに、高間省三の手紙は明治時代から昭和(終戦まで)の軍人たちの手記や遺書でずいぶん引用されている。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 秋山真之は、ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦の名言とされている。しかし、それは高間省三の手紙文の引用であり、秋山が考え出した言葉ではなかった。

 高間省三は手紙には、こう書き残している。 
『天皇は明徳を想い、純心に武士や民を赤子のごとく愛す。皇国の興廃は今日の戦いにありです。この徳に報るためにも、男児の死ぬべき時は今です』
 慶応4年7月末である。約38年前だ。

 広島出身の内閣総理大臣・加藤友三郎は、さかのぼること、明治38年1月、第1艦隊兼連合艦隊参謀長となり、5月27・28日の両日の日本海海戦に旗艦「三笠」艦上で作戦を指揮した。そして、バルチック艦隊と同航しつつ、「わが半ばを失うとも敵を撃滅せずんばやまず」との捨て身の「丁字戦法」(敵前180度回頭)を展開させた。
 ロシア・バルチック艦隊との戦いで功績を挙げた。やがて総理にまでなった。

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満開のソメイヨシノが墨絵のごとく咲く=御茶ノ水駅

 4月30日は日曜日だ。ソメイヨシノの桜が満開の行楽日となった。青空のもとの桜は見ごたえある。だが、都心部は朝から雨だった。桜見物を楽しみにしていた人たちは、きっとがっかりだろう。

 わたしは新宿『BLACK SUN」で開催された『東日本大震災復興支援 LIVE2014』の実行委員の方々の会合に参加した。武内紀子さん(俳優)の紹介だった。そこで、求められて、わたしは東北(岩手、宮城、福島)の取材報告と、知るかぎりの現状を紹介させてもらった。
 主催者から、11/8に二松学舎大学で開催される、同イベントの講演を頼まれた。わたし単独の話でなく、現地・東北の被災者を招いたトーク・ショーなども閃いた。
 まだ、半年以上もあるので、追々、煮つめていくことにする

 帰路、新宿・小田急鉄道のロマンスカーの指定券売り場で、長い行列ができていた。「雨、それでもいく」と心が勇んでいるのだろう。


 乗換の御茶ノ水駅は細いプラットホームだ。古い駅舎だから、横殴りの雨となると、突っ立っていると、衣服も顔も濡れてしまう。多くの人は、総武線の各駅停車の電車がやや遅れているので、乗客たちは階段下などに逃げ込み、雨宿りしていた。

 都心部のみならず、地方都市でも、これほどまでに古い駅舎や細長いいプラットホームはもはや見当たらないだろあ。隣駅の水道橋・神田駅への線路すら曲がりくねっている。
 近代化に取り残された、超ローカル駅が都心部に温存されているのだ。それはうれしいかぎりだ。少なくとも、私の母校・中央大学が遠く八王子に移転してしまったから、御茶ノ水は味気ない街だ
 ただ、4年間通った駅がそのままの姿で残ている。実にありがたいし、来るたびに懐かしい。少なくとも、ホームに立つだけでも、青春を思い起こさせてくれる場所だ。

 私が東京にきた1960年代と、周辺の風景はまったく変わっていない。対岸には丸ノ内線が走る。地下鉄がいちどは陸上に姿を見せる。それが愉快だった。一瞬の地上で、車体はぐさまトンネルに入る。
ただ、丸ノ内線の紅い車体が消えてしまった。そこには歳月の流れを感じさせる。

 正面には湯島聖堂がある。江戸時代には全藩の秀才たちが集まった昌平黌だ。現在では朱子学などなじみがないが、当時は論語や孟子など真剣に学んでいた。てまでは、学問の神様と崇め奉られている。
 眼下には神田川が流れている。大学生のころ、ひどい悪臭だった。いまは清流とまでいかないが、川船が行き交う、情感がある。
 湯島の坂道通りには一本の桜が満開で咲いている。傘をさした人が歩く。墨絵のような情感があった。これも江戸の風情だろう。

 東京は車社会よりも、電車と徒歩の社会だ。地方では整備された道路で歩く人は殆どいない。だけど、東京では歩く人が多い。人間を見る街をもみると、町そのものが生きている。
  こうした懐かしい光景は、数分に一本の上りの快速・東京駅が、同ホームに入線すれば、私の目の前から消されてしまう。
 雨だけに前景は墨絵のようだ。地下鉄・丸ノ内線と桜と湯島聖堂を組み合われた写真が撮りたかった。それだけ愛着がある、私にとっては貴重な場所だ。

 私は横殴りの雨の中で、遅延した総武線を待つ。 地下鉄がやってきた。と同時に、中央線が入線してきた。
 私には味わい一瞬の花見だった。

日本人として祝日『山の日』をつくろう=山河の恵みのためにも

 日本の国土の7割は四季折々に変化する、美しく緑豊かな山地でしめられている。山々は清流を生みだし、大地の田畑をうるおして、海にそそぐ。古(いにしえ)から、日本人はこの山河と深くかかわり、日常生活の場、精神の安らぎの場としてきた。
 日々の生活や健康に寄与する、国民の貴重な財産である。と同時に、山と海の素晴らしさは、日本人の最大のほこりでもある。

 日本の繁栄には山と海が欠かせない。そこで、4年前から主要な山岳団体が、国民の祝日「山の日」をつくろう、と活動を推し進めている。昨年11月には、全国「山の日」制定協議会(谷垣禎一会長)が発足した。同会は2014年3月4日に臨時総会と勉強会を実施し、その活動をいっそう加速している。
 美しい自然、とりわけ、山と海、双方の恩恵に感謝するためにも、「海の日」(7月の第3月曜日)と「山の日」と両立させるべきだと、その意義を強調している。

 富士山の世界文化遺産の登録がなされた。一座の賛美だけでなく、日本中の山に感謝の念をもつ。そして、子どもや家族、老若男女を問わず、山に親しむ。そのためにも、祝日「山の日」は夏休み期間が望ましいと考えている。

 8月11日が有力候補の日である

 国民の祝日は、国民と国会が決める。現在は超党派の議員が「山の日」法案を提出するべき活動を展開している。


 同祝日に関する、これまでの主だった経緯をみてみると、

 1997年に山梨県で、「山の日」の行事が始まった。その後、広島県、大阪府、岐阜県、群馬県と「山の日」の制定が展開された。

 2002年、国際山岳年として、「山の日をつくろう」建言がなされている。

 2008年、船村徹さん(作曲家)が、新聞紙上で「山の日」を国民の祝日に、と提唱した。

 2010年、山岳5団体(日本山岳協会、日本山岳会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳ガイド協会、日本ヒマラヤ・アドベンチャー・トラスト)による、「山の日」制定協議会が発足した。

 2013年、超党派の国会議員(100人以上)が参加し、勉強会を開催している。 


 わたしたちは後世に美しい、恵み豊かな山岳をいかに残していくか、という点で数多くの課題や問題点を抱えている。
 山林の荒廃、良質な水資源の確保、開発と環境保全、動植物の保護、鹿などによる被害、観光資源の活性化、東北(福島)の山々の放射能除染など多岐にわたる。

 国民一人ひとりがこれら山河の諸問題を再認識し、将来のビジョンを示す、そのためにも祝日「山の日」の制定が必要である。

全国「山の日」制定協議会が、国民からより多くの賛同を求めるために、会員(仲間)を募集している。呼びかけ人は、こちらを左クリックしてください


『関連情報』

全国「山の日」制定協議会 入会のご案内


同協議会・入会申込書(個人用)

町おこし・村おこし傾向と対策、学びたい『おかげ横丁』=三重県・伊勢市


 『赤福』といえば、「伊勢参り」と同一用語のように、有名である。

 江戸時代からの老舗だ。店内で、団子とか、ぜんざいとか、喫食できる。

 人気店の割には、接客がとても行きとどいている。

 有名店は「胡坐(あぐら)をかかない」

 これが、町おこしの基本だ。


 若者に人気がある。どのように若者を呼ぶか。
  
 すべてにおいて、最優先する。

 若者が来ない町はやがて、その勢力を失う。

 かつて全国は温泉街が流行っていた。

 結果として、若者に見捨てられ、高額のホテル・旅館がなだれを打って衰退したように。


 ネーミングはとしも重要だ。

 『これよりおかげ横丁』

 訪問者に感謝の気持ちがある。

 心から感謝は、まず形から入ることだ。

 ここでわかるのは、日本語である。

 横文字を使って、得意がっているのはしょせん借り物だ。

『~ランド』などは、メディアから見放されると、凋落の一途だ。



「常夜燈」とか、『道中安全』とか。かつては旅人に欠かせない道案内だった。

 若者を大勢呼ぶ町。そこにはさりげなく江戸時代の言葉を組み込んでいる。

 長い伝統は決して廃れない。ここらは抑えどころだろう。


  各市町村のお役人や商工会の(町おこしの旗を振る)が、ここで立ち止まり、腕ぐむ。

 この常夜燈から、なにを学び取るか。ヒントになった。となれば、それは町おこしの本ものの感性がある。

 ここは人工の街だが、テーマが明確だ。それは江戸時代の風景の再現だ。

 ひとつ一つの店舗は、私有財産だから、何をどう作ろうが勝手だが、調和、統一がある。

 イメージは古来のものだが、すべて新品だという特徴も見逃せない。

 

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無冠の帝王 最後の大物・小中陽太郎さん「第1回野村胡堂賞」受賞

 1月31日、浅草ビューホテル「飛翔の間」で、「第1回野村胡堂賞」(主催・日本作家クラブ)の受賞式が開催された。受賞者は小中陽太郎さんで、作品は『翔べよ源内』(平原社刊)である。平賀源内の一生に光を当てた、魅力あふれる時代小説だ。

 第1回の文学賞は名誉あるもの。と同時に話題性がある。報道陣、著名な来賓者、文学仲間がたくさんお祝いに駆けつけていた。
 野村胡堂はロングセラー「銭形平次」で有名であり、神田明神には碑もある。ストーリー立ても江戸下町・浅草が舞台のひとつになっている。それだけに来賓者には、浅草に縁がある芸能、舞台、寄席関係者が多かった。

 小中さんは日本ペンクラブ理事であり、文壇の大御所だ。授賞式で、「無冠の帝王」と聞かされて、えっ、と驚きを覚えた。プロ作家のほとんどはなにかしら文学賞歴がある。それだけに、小中さんは胸に秘めた思いがあったのか、壇上ではふだんに増して微笑みがあふれていた。

 同賞の審査委員長の奥本大三郎さんは、挨拶のなかで、
「野村胡堂は仏文のインテリです。小中さんも東大卒の仏文の教養人です。源内は理系と文系の両道の人でした。源内がしっかり描かれた作品です」
 と評していた。

 小中陽太郎さんは受賞挨拶のなかで、
「子どもの頃は鞍馬天狗、銭形平次、ロビンソン・クルーソーが愛読書でした。源内は四国出身の才能に満ち溢れる人物。他藩に召し抱えられること相成らぬ、と申し渡されていただけに、多彩な才能・発明のなかで、戯作で憂さ晴らした面がある」
 と源内の生き方にふれていた。

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【書籍紹介】茂吉のプリズム=齋藤茂吉歌集 150首妙

 日本文学の原点ともいえる短歌が英訳されて、海外で広まっている。
 結城文さんは、歌人であり、日英翻訳者である。日本ペンクラブの会合でお会いした時、「茂吉の英文・和文の短歌を発刊しました」と話された。翻訳自体よりも、茂吉の短歌が読んでみたくなった。その旨お話すると、彼女から『茂吉のプリズム』(ながらみ書房・定価2100円)が届いた。

『齋藤茂吉歌集 150首妙は、訳者は北村芙紗子、中川艶子、結城文の各氏で、監修はウイリアム・I・エリオットさんである。同書の「あとがき」を引用させていただくと、

 いま海外で最も知名度が高くて、研究されている歌人は石川啄木であり、与謝野晶子である。日本の伝統定型詩や短歌を紹介していくうえで、齊藤茂吉の歌をすこしまとめて英訳していく必要がある。

 短歌に対する茂吉の終生ひたむきな姿に、訳者の3人は心うたれたという。かつてはドナルド・キーン氏のコロンビア大学の教え子の研究と英訳がある。
 3人氏は日本人の側から英訳をみたい、同じ気持ちから、同翻訳に取り組んできた。

 茂吉は少年時代から、東北から斉藤紀一の養子になり、東京に出てきた。戦時ちゅうには東北に疎開し、終戦後、ふたたび上京する軌跡をたどっている。その身は東京にあっても、みちのくに深く根を下ろしていたといえる。

 茂吉は『万葉集』の研究に傾注した。それをもって短歌には声調をなによりも重じた。もう一つは欧州に滞在体験した、一種のグローバリズムである。
 ニーチェも、ゴッホも、人麻も、芭蕉も、西行も、茂吉のなかでは同じ平面に生きてきた。

 もう一つ特筆すれば、茂吉がこの上なく忍耐の人であった。辛抱づよく、苦難に満ちた、一生を感受しつつ生き抜いた。

 短歌史的にみて、「上海のたたかいと紅い鳳仙花(ほうせんか)」「めん鶏と剃刀研人(かみそりとぎ)」の歌のように、まったく関係ない二物衝突の、今までの和歌にない新境地を短歌の世界にもたらした。つきせぬ泉のような魅力を読者に与える。(同書・あとがきの抜粋)


 上記、説明文にからむ、短歌として、

『たたかいは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり』

「めん鶏ら砂あび居(ゐ)たれりと剃刀研人は過ぎ行きにけり」


茂吉の人生にからむ

『をさな妻こころに持ちてあり経(ふ)れば赤き蜻蛉の飛ぶもかなしも』

『みごもりし妻いたはりてベルリンの街上ゆけば秋は寒しも』

『終戦のち一年を過ぎ世をおそる生きながらへて死をもおそるる』

『陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えた蔵王の山の雲の中に立つ』

 これらが同書で英文にて掲載されている。短歌と英訳の関係で、奇妙な現象が起きた。
 茂吉の短歌には母親を詠った平明なものから、内容が読み取りがたい難しいものまである。難解な短歌は知ったかぶり、あるいは読み飛ばしてしまうのが常だ。
 短歌が英文だと、却ってこういう意味なのかとおぼろげながら理解できたりするから不思議だ。
  日本人の訳者3人による、短歌の解釈だとすると、茂吉の短歌が妙に説得力を持ってくる。


【関連情報】

発行所 ながらみ書房
     〒101-0061 千代田区三崎町3-2-13
     03-3234-2926

ウイリアム・I・エリオットさん:関東学院大学・名誉教授

北村芙紗子、中川艶子、結城文の各氏は日本歌人クラブ会員