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国民の祝日「山の日」が、えっ、こんなにも早く成立=平和を願う議員

 全国「山の日」制定議会(谷垣禎一会長)の通常総会が、2014年5月28日(火)に、衆議院憲政記念館で行われた。法人、個人も合わせた148人の会員(穂高も一員)の過半数以上(委任状も含めて)をもって開催された。

 同総会の冒頭において、「こんげつ23日に、「山の日を制定する」法案が参議院を通過し、可決成立しました。こんなにも早くに制定されるとは思わなかった」と、谷垣同会長はニコニコ顔だった。
 多くの法案は数多くの根回しを要し、「長年の念願だった」と涙と笑顔で語るのが常だ。
 祝日「山の日」は、148人の推進者たち全員があ然としたり、驚きの声を上げたりしているのだ。これまでは、推進の輪が一部報道で紹介されるくらいだった。
 2年後の2016年8月11日から施行される。これも単純な理由で、来年だと、カレンダー屋さんの印刷が間に合わないからだ。
 
 かえりみると、作曲家の船村徹さん(栃木県出身)が、2008年に新聞紙上で「山の日」を国民の祝日にしょうと提唱したことからはじまる。
 2010年、山岳5団体が活動をはじめた。2013年11月11日に、「山の日」制定議会が発足した。並行して、超党派「山の日」制定議員連盟(衛藤征士郎会長・衆議院副議長)ができた。

 祝日は6月がよいか、8月がよいか。山の日が成立するならば、どちらでもいいが、「海の日」のように流動的な日でなく、固定しよう。
 そんな意見や趣旨が固まりつつあった。まずは全国に広く賛同を呼び掛ける。県や市町村など地域ごとに山の日を作ってもらう。こうした地味な努力がはじまったばかりだった。

「市町村から、国の法律を作る手順だと、時間がかかりすぎる。国の法律を作るのは政治家だ」
 超党派で法案を提出しようと、衛藤征士郎会長が最短距離を推し進めた。

 それから約半年後に、あっという間に、衆議院、参議院を通過し、祝日「山の日」が制定されたのだ。この間には、小渕優子議員が8月12日は日航巣鷹山の大惨事と重なり合うから違和感がある、と懸念を示したので、同月11日に修正されたくらいである。

「こんなにも早くと制定されるとは、だれも思っていなかった」
 それが関係者の偽らざる喜びで、口々にそう語った。

 そのひとつの例として、今年(2014)5日27日、栃木県総合文化センター(宇都宮市)に1600人を集めた、『山の日を作ろう! シンポジュウム』が予定された。開催日には同法案がすでに成立していたのだ。関係者には予想外で、会場のパネル、配布資料、背景のスクリーンは「つくろう」のままだった。(別途に紹介)



『山の日』制定議員連盟の衛藤征士郎会長(写真・手前)と日本山岳会の森 武昭会長(写真・奥、24代会長)らが打ち合わせる(2014年5月28日、衆議院憲政会館)


同法案の成立は、国会議員の努力に負うところが大である。同議員連盟の事務局長である、務台(むたい)俊介衆議院議員が、
「山の日は、国民がこぞって、山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日です。日本人は心優しい民族である、とウォール・ストリート・ジャーナルにも紹介されました。日本人は、海の日、緑の日、さらに山の日、と自然を大切にする祝日をもちました。日本人は素晴らしいと、海外メディアが評価してくれています」
 と挨拶された。
 近隣諸国の中においては、反日の日、南京虐殺の日などと、政治色や軍事色が強い提案が出されている。方向性がまるで違う。

 単に祝日が一つ増えるだけではない。日本を代表する衆参議員の大多数が賛成し、スピード採決で、法案を成立させた。この意義は大きい。そこに政治家たちの良心をみることができる。
「祝日法」の第一条を紹介したい。
『自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、または記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける』

 自由と平和と、美しい風習、より豊かな生活。日本人はみんな戦争のない国を願っているのに、政治家たちはときに危なかし方向に進んでいる、とみられがちだ。

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1000万人の安全登山を考える=祝日『山の日』にむけた「勉強会」

 山登りは緑と川と聳(そび)える峰が楽しめる。魅力あるスポーツだ。国土の大半が山だけに、初級から上級まで、その人に見合った山は日本中あらゆるところに存在する。
 一方で、登山は命の危険と隣り合わせである。事故は初心者だけではない。ベテラン登山者でも毎年、遭難事故を起こしている。それを回避するには、初心者もベテランもリアルに山を認識することが大切である。

「山の日」制定協議会は総会の都度、登山知識、山の知識を学ぶ「勉強会」を行っている。国会で「山の日」が制定された直後の、5月28日には、同会が衆議院憲政会館で行われた。

 勉強会のメインが「山の安全」「山の恵み」であり、広く一般の人にも知りえてほしい内容を包括している。

 角谷道弘さん(日本山岳ガイド協会理事)が、題目『山と自然 最新の登山装備と安全』について講演した。
 登山に大切なものは4つある。
  ①準備
  ②体力
  ③登山技術
  ④経験
 登山中の事故で最も多いのが「道迷い」、「転倒、転落・滑落」、「疲労」である。

 道に迷うと、現在地の掌握が難しくなる。迷った時は、位置が分かるところまで引き返すことである。低山は仕事道、枝道も縦横にあり、高山よりも迷いやすいから注意が必要です、と話す。
 地図とコンパスの熟知が大切である。最近はGPSの活用が広がってきた。石井スポーツ勤務の角谷氏によると、5-10万円だという。腕時計の高度時計も必需品の一つ。2万円前後である。
 角谷さんの説明によると、最近は精度が上がり、1時間に登っている標高差なども表示されている高度計があるという。

 転落や滑落は人体に大きなダメージを与える。足腰を鍛え、つまずかない体力を維持することだ。靴ひもをしっかり結び、足が靴の中でぐらつかない。これらの心がけが転落予防の一つにもなる、と話す。

 疲労は、熱中症と低体温症を引き起こす。夏の高温、多湿環境の下で長時間行動すると熱中症が起こりやすい。水分補給を怠ると、体温調整が利かなくなる。

 低体温症は、風雨雪の長時間行動で、身体の深部まで温度が下がってしまい、寒気を覚え、小刻みに体が震えてくる。寒気の段階で、温かいものを飲み、温かい衣類に着替えることが大切である。

 近年、ゴアテックの防寒、雨具が発達してきた。軽くて丈夫な素材である。ただ、下着に濡れないものを着ていないと、雨風にさらされると、低体温症などに襲われる危険性がある。


 阿部守一(あべしゅういち)長野県知事が出席し、自然の宝庫である同県の取り組みについて語った。
 長野県は森林面積が日本で第3位である。3000メートル級の山岳が15座あり、全国で第1位。県民の共通の財産として「山に感謝し、山を守り、育て、活かす」目的で、県独自の『信州 山の日』をつくり、7月第4週日曜日とする。

「山の魅力を発信する一方で、登山の安全対策にも力を入れていきます」と同知事は述べた。

「体力の低下を認識しない中高年者の遭難が多いのです。それに、山の怖さを知らない初心者が増加しています」
 力量を超えた入山者がいるので、遭難防止対策として、山の難易度をつけたグレーディングを行う、と語った。

 グレーディングとはなにか。誰もが登山をする前に山選びをする。その指標となるものだ。
 初心者からベテランまで、「あなたの体力と技術で、どの山が登れるか」、それをより具体的な山岳名でわからしめる情報提供である。

 同県の山岳は地形上の特徴から、5段階の難易度をつける。体力は10段階にする。
 この組み合わせで、初級、中級、上級者Ⅰ、上級者Ⅱの技量に見合った山岳名が示されるのである。グレーディングは初めて山に入る登山者にも、山岳名を教えてくれる。

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社交ダンスは心身を磨く(中)=80歳で優雅な踊り

 阿出川好一さん(81)歳が橘ダンススクールにやってきた。姿勢が良い。身長が高く、手足が長い。格好いい感じだ。
 1955(昭和30)年に早稲田大学・商学部を卒業し、メーカーで経理畑を歩んできた。退職後の生き方として、保護司の活動と、ダンスを習いはじめた。いまやダンス歴は20年に及ぶ。

 橘ダンススクールに通いはじめて約6年間である。自宅から同教室まで40-45分かかる。これまで、幾つかダンス教室の門をたたいたようだ。
「プロにも、ピンからキリまであります。中高年齢者に対しては中途半端な指導する人がいる。それでは困る」と前置きしたうえで、
「橘さんは元全日本チャンピオンで、雲の上の人です。しかし、技術は出し惜しみしない。初心者でも丁寧に教えてくれます。橘さんは本当のテクニックを教えてくれる。ダンスは楽しいし、やりがいと生きがいになっています」
 と阿出川さんは話す。

「阿出川さんは探究心が強い。ダンス用語に対しても質問される。素朴だけれど、大事なところがあるのです。私自身がはっとさせられたりします」
 橘弘子さんは話す。
 技術的な面は如何ですか。
「阿出川さんは年齢から見たら、ダンスのテクニックがすごい。リズム感は良いです。頭脳が明晰です。新しいことは大変だけれど、コツコツ努力される。あきらめない精神があります。ステップは時にあれっ、と思う、間違いはままありますけど、まだ伸びますよ。できないと悔しがる」、その熱意と向上心があるかぎり、大丈夫です、と言い切った。

  人間は誰もがいつか年齢的な限界に突き当たる。阿出川さんは何歳までダンスをやられますか。
「教室の客種として、私は自分の存在を考えています。老人がダンス教室にトボトボやってくれば、迷惑になります。悪貨は良貨を駆逐する。変な客が一人でもいると、全体の質を下げてします。そこらが見極めだと考えています。それまでは精一杯やりたい」
 ダンスに対する熱意が、若さの秘訣になっているのだろう。

 長野在住の娘の好美さんが、父親のレッスンを見に来ていた。感想を聞いてみた。

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社交ダンスは心身を磨く(上)= 元全日本チャンピオンが語る

 ノーベル賞の授賞式パーティーでは、盛装した男女が社交ダンスを踊る。年配者でも、流れるようにリズムに乗り、踊っている。じつに輝いて見える。メイク、ドレス、優雅な非日常の世界がある。日本人の憧憬の一つだろう。
 
 ダンスは健康に良い。流れる音楽で、からだが応じて足腰、リズムを取る。相手(パートナー)がいるから、身体を使う、気を使う、頭を使う。若さを維持できる。

 わが国ではしだいに人口の高年齢化がすすむ。単なる長生きだけではつまらない。欧米のように、社交ダンスを愉しみ、ダンディーな若さを保つ。そうした生き方の心がけも必要だろう。

 81歳になった阿出川好一(あでがわ よしかず)さんが、元全日本チャンピオンの夫婦が経営・指導する橘ダンススクール(東京・駒込)で学んでいると聞いた。5月12日、同スクールに取材に出むいた。阿川さんは午後2時から30分間のレッスンだったので、先立つこと橘弘子さんから話を聞いた。

 指導者の橘正幸さん(61)歳と妻の弘子さんは、プロ競技選手として、「1999年・全日本オープン選手権」で優勝した華やかな経歴がある。現在は夫婦して同公認審査員である。

「わたし東京下町・葛飾立石に生まれ育った。看護婦でした」
 弘子さんは聖路加看護大学の在学中に、友達に誘われて同校「ダンス部」に軽い気持ちで入会した。スポーツ部員として活動したが、学生競技会では、記録を残すほどの成績はなかった。
 彼女は病院勤めの看護師になっても、ダンスを習っていた。夜勤を終えてダンス教室に通っても苦ではなかったというから、根は好きだったのだろう。

 その教室で、あるときプロの橘正幸さんの練習相手に選ばれた。「無料で学べる、ラッキー」と思い、彼女は練習に一段と熱が入った。一方で、好きで進んだ看護師を続けるか、ダンスを選ぶべきか。将来はどちらに行こうかと迷いはじめた。親との対立もあったようだ。

 結果として、夫・正幸さん=ダンスを選んだ。つまり、プロ競技選手(ダンス教師)となったのだ。それは甘くない、いばらの道だった。57キロの体重が2年後には46キロにも落ち込む。漸次、成績を重ねながら、夫婦はイギリスにも留学し、やがて全日本チャンピオンとなった。

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第78回 元気100エッセイ教室=おしゃべりとエッセイ

 エッセイの源泉はすべて体験と経験である。
 人生の部分的な復元でもある。日常会話のおしゃべりもおなじ。自然発生的に、頭に浮かんだ事柄を口にすれば、おしゃべりである。
 おしゃべりは話す相手によって内容を微妙に取り換えられる。直前の事柄から遠い過去の出来事などに及ぶ。話しの組み立て方、話し方など、脈絡などはさして評価されない。曖昧な表現でも通じてしまう。

 多くのおしゃべりは、相手を見て、必要な事柄だけを口にすればよい。事実を伝えてから、「私」はどう考えたか、どう感じたか。相手の顔色とか反応とかを見ながら、感情のおもむくままに話しても、多くは成立する。
 相手がそれを嫌えば、適宜、話題を切り上げれば、すんでしまう。

 それをいざエッセイで書こうと身構えても、文章にはなかなかできない。
 素材があるのに書けない。芸術的、文学的なものは要求されていないにもかかわらず、過剰になりすぎ、途中でとん挫が多くなる。
 経験や体験が豊富な人でも、エッセイは量産できない。おしゃべりは冗漫さが許容されるが、活字では嫌われるからだ。事実に向かい合って簡素に書いてしまえば、メモとか、日記とか、作文とかになってしまう。エッセイはたんなる備忘録ではない。

「さらさらと書いた」
 多くの場合は嘘が多い。事実だとしても、口にしない方が賢明だ。文章の上手下手は別としても、エッセイの形式で書くとなると、文章を念入りに仕上げる、その工程は必然であるからだ。

『おしゃべりで話しを感動させても、文章にすると駄作になる』

 エッセイには創作力が必要である。
   ・テーマ(主題)
   ・構成(ストーリー)
   ・表現力の工夫。
 これが作品を読ませる力の三大要素だろう。

 作者はひとつくらい感動作品をまぐれでも書ける。だが、連続となると、書く経験と、文章力や表現力が必要だ。おしゃべりのくり返しは嫌われるが、エッセイ作品は時間をおいて、くり返し見直しすれば、磨かれてくる。それが筆力になる。

一粒の米に、人生の情熱を込める (下) =埼玉県・幸手市

 日本人が主食とする「米の美味しさ」、つまり食味値は粘り、風味、糖度、そして水分によって総合判定がなされる。

 従来は品質の判定は、人間の勘で決められていた。「新潟・魚沼産コシヒカリ」、「宮城ササニシキ」という銘柄だけで売れた時代だった。消費者も銘柄米に頼り切った決め方だった。

 日本酒はかつて特急酒、1級酒、2級酒という決め方だった。いまや2級酒だった地方銘柄が、地酒ブームで、高価でも、もてはやされている。呑む人の品質、美味しさで、銘柄が決められる時代だ。

 現在、米は科学的な成分分析ができる。国際基準も作られている。個別農家ごとに品質測定ができる。その意味で、「地酒ブーム」と同様に、「米の田家(でんか)ブーム」が到来するだろう。
 工業製品の電化ブームはバブルがはじけても、品質勝負で、外国産の安かろうに対抗し、商品開発を推し進めて、国民の間に信頼度を高め、家電の国産志向を生み出した。

 工業製品、日本酒と同様に、「米の田家ブーム」の到来も当然、やってくるだろう。農家はそれを視野に入れておくべきだ。先駆けになるには、早くから無農薬に取り組んでおく必要もある。一度、田んぼに雑草取りで農薬を入れてしまえば、もう後手、後手になってくるからだ。

 遅かれ早かれ、米の自由化はいずれやってくると思われる。安価を追求するがゆえに、農薬などで手間をかけず、肥料も細く、「不味かろう」それではだめだ。
 国産米だから買ってくれる、という甘い考えは通用しない。国民の多くは、「安かろう、たっぷり農薬の米」など、本心は買いたくないのだ。ここらは農家、JAなどはニーズをしっかり読みとっておく必要がある。

 品質分析をした米が輸入されたら、どう太刀打ちするのか。米の銘柄よりも、分析結果の表示が独り歩きするおそれだってある。

「人間は考える葦です。良い米を追求する、それを生きがいにしています。手をかければ、美味しいお米がまちがいなく作れる」
 幸手市の松田光男さんは明瞭に言い切った。ここ数年は漸次、食味値の数値を伸ばしつづけてきた。昨年度は、第25回国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、食味値87点を収得し、上位にランクされている。

 今年の秋、あるいは来年には念願の「食味値90」を達成したいと、強い意欲で取り組んでいる。特に、お米の一粒ずつにたいする愛情、熱意、熱気が感じられる。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (中) =埼玉県・幸手市

 私たちがふつうに食している米は、農薬を使っているし、一毛作で肥料は1回のみだ。こうした消費者が購入する米の価格は、数十年前に比べても、安価になっている。農家はこのさきTPP(環太平洋パートナーシップ協定)で海外の農作物が自由化、あるいは関税の引き下げになれば、さらなる競争激化となり、低価格化へのプレッシャーは必然だと危機感を持っている。

 日本人はいまやグルメ志向であり、食生活も多様化し、「安かろう不味かろう」にはソッポを向き始めている。美味しいコメを求めている。しかし、農業は今後の外国との競争をにらみ、低価格にたいする危機感を声高に言う。ここに消費者とのギャップが生れている。

 日本人の米のこだわりは独特である。大家族の時代ならば、大量に安い米を必要としていた。現在は核家族だから、1家族2-4人が平均だ。高級車に乗りたい人はたくさんいるように、少量でおいしい米を食べたいのだ。「安さよりも、美味しさ」が求められている。

 国際競争がいくら厳しくても、品種や銘柄、味覚を選択するのは消費者である。とくに米に関して言えば、低価格=品質の劣化は望んでいない。
 しかし、米店、スーパーなどで購入する米は、過去からブレンド騒ぎを起こし、古米の混入など、いま一つ信頼度に欠ける。地域銘柄で買っても、その都度、どこか味が違う。まずは信頼度を取り戻すことである。

 たとえば、JA単位の表示でなく、5kg、10kgの米袋には、農家の顔写真、家族写真を張って出荷する。そうした耕作責任など導入すれば、輸入品にも太刀打ちができる道が作れるだろう。

 つまり、全農家が生き残る発想でなく、品質競争に打ち勝ったところが、高品質=高価格の米で生き残る道をつくることだ。

 全国を見渡せば、良質な米栽培に取り組み、世界大会の上位志向の農家はある。収穫したコメの分析から、さらに上質なものを目指し、肥料を研究し、高コストでも、美味しいコメをつくろうとチャレンジしている。
「ありきたりの米は作りたくない」
 幸手市の松田光男さんは公務員の退職後、農家の跡をついでいる。
「私の作った良質のコメ(食味値87)を、有名な料亭が買い求めてくれました。ところが安い米とブレンドして炊いていると知り、その料亭には売っていません」
 こうした品質に対する自信とブライドが大切だ。

「雑草駆除の農薬はいっさい使いません。他所(よそ)の農薬飛散からも守るために、隔離した水田で米を作っています。いちど農薬を散布すれば、翌年度からは、もう無農薬の米だとは言えません」
 無農薬と一言でいうが、容易ではないようだ。真夏の太陽が容赦なく照りつける炎天下で、水田に入り、雑草を取る。蛭(ひる)もいれば、蛇もいる。直射日光と流れる汗との格闘だ。

 須藤泰規さん(73)は、大手企業をリタイアした後、米作りに加わっている。田植えから雑草取り、収穫まで参加している。
「松田さんの高品質の米作りのこだわりが好きです。収穫期には労働の対価として、美味しい米が貰えますし、収穫の喜びがうれしくて、きびしい雑草取りにも、精が出ます」
 雑草取りの期間は5月20日~7月上旬で、1か所の田圃(たんぼ)にそれぞれ3度入る、と話す。
「稲が実ると、両手でかき分けて、泳ぎをするように進むのです」
「稲が育ってくると、須藤さんの姿が見えず、倒れているのではないか、と心配していると、ふいと頭が見えるんです」
 松田さんがユーモアたっぷりに語る。

「ここの家族はみんなが良く手伝ってます。それは感心です」
 須藤さんの視線が、庭のバーベキューに流れた。

 5月の連休のさなかでもあり、長男の松田裕之さん(32)の職場(介護職)仲間3人が、田植えを手伝いにきていた。ちょうど昼食時で、バーベキューのパーティのさなかだった。それぞれに農作業の感想を聞いてみた。
「裸足で田んぼに入る前、内心、汚いな、と思いました。でも、これをやらないとお米ができない、と自分に言い聞かせました」
 高橋祥平さん(26)が話す。田植え機で、まず苗が植えつけられる。田圃の角や、植え洩れ場所は手で補植する。それらの手作業です、とつけ加えた。
「きょうは朝9時から来ました。ひと苗ごとにていねいに植えると、いい汗です。夕方4時頃まで、田植えをします」
 木村祐樹さん(28)が、塩おにぎりを頬張りながら語っていた。

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一粒の米に、人生の情熱を込める (上) =埼玉県・幸手市

 松田光男さん(65)は、埼玉県・幸手市で、「完全無農薬」の米(水稲)を作っている。国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)で、ここ数年間は上位にランクされている。埼玉県でも1、2を争う存在だ。松田さんはどんな取り組みや創意工夫をおこなっているのか。

 現在、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)が国内外の最大の話題の一つだ。その進展によっては、日本の農家、日本人の食生活おおきく関わり合う。農家の方向性を探るためにも、5月2日(金)には、幸手市の松田さんを訪ねた。市街地から4-5キロ離れた、見渡す周囲は水平線すらを感じさせる、広々した田園地帯だった。

 近くには利根川が流れており、過去から上質で豊富な水に満たされた農業地帯だ。畦で区切られた田圃は、いまの季節はちょうど水が張られたり、田植えの最中だったり、まだ乾燥したままだったり、それぞれ違った顔をしていた。
 松田さんは飛び地で、いくつか田圃(たんぼ)を持ち、それぞれ工夫や研究を行っている、と聞いた。

 大きな構えの松田宅に到着したとき、十数人の児童たちが農業体験学習に来ていた。松実高等学園(まつみこうとうがくえん・春日部市)の初等部の生徒たち12人で、田植えの体験と玉ねぎの収穫実習だった。そちらを先に取材させてもらった。

 同校は6年前に開校している。何らかの理由で在籍小学校に通えない児童たちが通う。遠くは横浜から3時間もかけて通学する。同校に入ると、児童は学校生活を溌剌(はつらつ)と楽しみ、みな皆勤賞だ。
 今年の4月をみれば、8割が皆勤賞で、2割はちょっとした休みだった。(松井寛校長・写真・左の談)。 学校方針、指導者の役割が、いかに子供の成長にとって重要かと知らされた。

 児童たちに、農業体験の感想を聞くと、男女問わず、だれもが明るくはきはきと楽しげに答えてくれた。
「田のなかにバシャバシャ入り、楽しかった。苗をまっすぐ立てて植えました。目の前に、カエルが泳いでいたから、指でつかまえたよ」(小6・ヒカルくん)

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第11回歴史文学散策=江戸城は武将たちの盛衰すらも消えた。春は盛り

 文学・作家仲間の「歴史散策」は第11回目となった。メンバーは7人(日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志)である。初回からおなじ仲間である。

 山名さん(歴史作家)、清原さん(文芸評論家)さんが解説役だ。2人はともに歴史関係の雑誌執筆の常連で、これまでも江戸城の歴史を書いている。同時に、公開講座などでも、歴史散策ツアーの講師として活躍する。

 吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、井出さん(事務局次長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)も、そして私を含めた5人は歴史好きである。

 こんかいは夜の呑み屋が決まっていない。これがいきなりの課題(話題)だった。



 地下鉄・大手町から5-6分で、「大手門」に着く。集合場所では、山名さんの自筆『名城をゆく・江戸城』が配布された。
 その冊子には弓矢を持った太田道灌像がトップを飾る。
 そして、江戸城の年表や特徴が明記されていた。


 江戸城の入園は無料だ。ありがたい。入園の参観札をもらう。(出口で返す)。

 ひとたび城内に入ると、喧騒とした大都会から、別世界に入る。

 相澤さんは、長年この近くの大手通信社(千代田区)に勤務していたのに、初めて江戸城に来た、と妙に感激していた。

 江戸城といえば、すぐに徳川家と結びついてしまうが、1603年、家康が江戸幕府を開く以前の、江戸城の歴史は一般にあまり知られていない。

 1457(長録1)年に、太田道灌によって築城されている。

 道灌は暗殺される。やがて、上杉氏、北条氏などの支配下になる。そして、1590(天正18)年になると、豊臣秀吉が小田原・北条氏を滅ぼし、家康が関八州をたまわり、江戸城を領する。

 ここらは山名さんが詳しく説明してくれる。


 三の丸尚蔵館から、同人番所の屋根瓦に、徳川の象徴・葵の御紋が残っていた。さらに進むと、「百人番所」で、本丸の最大の検問所だった。
 鉄砲百人組の与力・同心が交代で詰めていた。

 大名たちが登城する行列はここで終る。この先に供侍は入れなかった。

 現在はこの先、本丸、二の丸、三の丸(一部)が一般公開されている。

 身分制度の厳しかった江戸時代を想うと、隔世の感がある。


 大手中の門跡、富士見楼は現存する3楼の一つ。

 どこから見ても、おなじ形に見える。江戸初期には、ここが海辺だったという。

 現在では考えられない、海が真下にあったなんて。 

 その後、江戸城の周辺が、どのように造成されてきたか。それが7人の話題となった。

 松の廊下跡にきた。かつては畳敷きの大きな廊下だったらしい。

 ボランティアガイドが団体さんを相手に、「浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件」を語っていた。

 吉良は名古屋に行けば、良い殿様だ。

 「忠臣蔵」が大好きなひとは、おおかた浅野に肩を持つ。それが歴史のおもしろさだろう。

 歴史の看板がなければ、「松の廊下」があったとは思えない。周囲はうっそうとした樹林帯だった。

 江戸城の石垣の大半は、伊豆の石切り場から運ばれてきた。

 これら資金、労力を投入した藩などの家紋が、城石に入っている。

 「丸に一」の島津家もあった。

 

 
 二の丸の雑木林は昭和天皇の意向で、武蔵野の面影が残されている。

 クスノキ、ケヤキ、クヌギ、コナラの森がある。そのなかに、シャクナゲが咲いていた。


 桜が満開だったので、女流作家の記念撮影です。

 人気の女性作家だけに、どこか輝いている。
 


 梅林坂、平川門、書陵部、それぞれの掲示板の前で、皆が食い入るように眺める。

 さすがプロ作家たちだ。一字一句も見逃さず、それを読み込んでから、話題にする。

 何ごとも関心度が高く、好奇心がなければ、執筆はできないから、当然だろう。

 江戸城にはなぜ天守閣がないのか。多くの人には疑問だろう。

「天守台は3度、5層の天守閣が建設されたの。面積は大阪城の2倍以上だった。でも、1657年の大火で、全焼してしまった。加賀前田家がいまの天守台まで築いた」と山名さんは話す。

 保科正之(ほしなまさゆき、家光の弟・会津初代藩主)が、もはや平和の世のなかになったことだし、天守閣の再建費用よりも、焼失した庶民の復興につとめるべきだ、と進言した。

 それが受け入れられたから、江戸城には天守閣がない。

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【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(下)=東京・葛飾

 村澤義信さん(74)さんのもう一つの特技は竹細工だ。葛飾区東四ツ木4丁目の3階建ての庭囲いの化粧フェンスには、太さ18センチ、長さ2.8メートルの、竹の植木鉢があり、そこに春の花を咲かせている。イチゴの苗も育っている。

 竹加工の植木鉢が特殊な構造なのだ。
「簡単そうだけど、この技術は、葛飾区内ではだれもいないよ。真似ができないよ」
 村澤さんに、あえて問えば、直径が18-20センチもある太い竹の加工技術を語ってくれた。

 冬場になると、竹が固く締まってくる。1年物など若い竹は細工すると、すぐに割れてしまう。3年物がしっかりしてよい、と実物を示す。
 ことし(2014年)は、牛久、大多喜から太い竹をもらってきた。最近の農家は人手不足で、竹林が荒れぎみになった。すきなだけ持って行ってくれ、と言われるらしい。

 同区東四ツ木への自宅に持ち帰ると、縁側で、工具を使い、竹の節と節の間をくり抜く。
「この技術が特殊なんですよ。うまくやらないと竹に穴を開けているさなかに、バリーと全体が割れてしまいますからね」
 長さが約3メートルの太い竹の一節ごとに、くり抜いて、そこに土を積めて植木鉢にする。まさに、電車の連結車両のように、花の鉢が並ぶ。別の太い竹鉢には、ずらりイチゴの苗も育っていた。
 
「他人(ひと)と同じものは面白くない」
 話題は瓢箪(ひょうたん)にもおよぶ。約1.5メートルくらい一節ごとに、くり抜いて、多段雛のように飾り棚にする。節ごとに瓢箪を吊るす。
 竹の竹細工と瓢箪の組み合わせで、小さな雪の鎌倉に似た、瓢箪の家もつくる。

 視線を門扉に向けて、よくみると小粒な瓢箪が数多くつるしている。
「盗られないですかね?」
「ここらは泥棒はいないね。あれれ、よく見ると、1個は針金だけだ。これは盗られたあとだな」
 村澤さんは鷹揚に話す。

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