幕末歴史小説・『二十歳の炎』の反響がすごい=薩長同盟は存在せず
6月20に発売された、発幕末歴史小説『二十歳の炎』(穂高健一書著・1600+税)が、出版された。同書の帯にはサブタイトルで『芸州藩を知らずして幕末史を語るべからず』とつけた。
「幕末はなんでも薩長」と信じ込んでいた人には、カルチャーショックだったようだ。読んだ人が、ほとんど驚いている。
「二十歳の炎」は広島藩の視点から幕末を書いた、初めての小説である。(私の知るかぎり)。これまでは、薩長土の視点しか書かれなかった。広島藩が関わったところが、幕末史の空洞だった。
後世の歴史作家たちが、好き勝手に想像で埋めてきた。
私は4年半の歳月をかけて、原爆でなくなったと言われていた、広島藩の史実を掘り起こし、より事実に近いところで書いた。「長州なんて、倒幕に役立つ藩ではなかった」とずばり切りこんでいる。
長州藩は「禁門の変」で京都の町を焼き、朝廷に銃をむけて朝敵となった。その後、京都に入れば、新撰組、会津・桑名の兵士に殺された。長州藩は大政奉還はカヤの外だった。小御所会議の王政復古の大号令で、明治新政府ができた。
ここで倒幕が成立した。
朝敵の長州はここまで、いっさい関わっていない。それは自明の理である。
第二次長州征伐で、幕府軍が長州(藩)に侵略してきた。それをせき止めたのが精一杯である。長州藩は侵略者をただ自藩から追い払っただけである。
「萩藩、下関藩、岩国藩など各藩士の行動はバラバラである。それを一本化して、京都や江戸に戦いを挑んで、德川政権を倒幕できる勢いも、能力もなかった。願いはただ朝敵を外してほしい、という一本でしかなかった」(下関市の龍馬研究者・著名な学芸員)。
この言葉を聞いた時、山口県の研究者がここまで言い切るのか、とおどろいたものだ。しかし、調べるうちに、それは歴史的事実で、「長州は倒幕になんら寄与していない。後世の作り物だ」と明確になってきた。
広島はどうなのか。頼山陽は、広島が生み出した日本最大級の思想家である。かれの尊皇思想は日本じゅうに広まり、頼山陽著「日本外史」(にほんがいし)は、維新志士たちの必読書となった。広島発が、倒幕の思想的な重要な背景となったのだ。
浅野藩主も、家老も、執政も、優秀な心材はみな広島・学問所の出身で、頼山陽の後輩である。皇国思想を学んでいる。「朝廷と幕府と二か所から政策が出てくる国は、いずれ滅びてしまう。徳川家が政権を取っていると、日本は植民地になる、倒幕を目指すべきだ。それが民の為だ。ここで、広島が動かなければ、日本の国はつぶれる」と強い決意と使命感で、藩論が倒幕で統一されたのだ。
当時はまだまだ德川が怖くて、島津公は公武合体、山口容堂は徳川家を守る、松平春嶽も徳川家擁護。毛利公など「そうせい公」で政権略奪には無関心だった。
全国を見渡しても、最終的に、藩論統一(藩主みずから倒幕を目指す)を決めたのは広島藩だけである。
名まえを出して悪いけれど、司馬遼太郎の推量などは、執筆中に原爆で広島藩の資料がなかったにしろ、とてつもなくトンチンカンである。
にせものの船中八策だの、あり得ない薩長同盟だの、龍馬と後藤象二郎が大政奉還を発案したと、主要なところは虚偽で塗りつぶされている。
慶応2年1月、木戸準一郎が京都・小松藩家老邸で、わずか一度の会合(予備折衝)をおこなった。それ手紙にしたためて、龍馬に送り付けて裏書させた。それは備忘録のメモにすぎない。決して薩長同盟の調印書ではない。藩主レベルの締結にはとても及ばず、効力はない存在だ。
それなのに、「薩長同盟による倒幕」まで作品を仕立て上げて、独り歩きさせてきた。なにしろ、長州藩は倒幕まで京都に入れなかったのに、なぜ長州藩がかかわったと、でたらめを書けるのか。作家の良心を疑う。
司馬ファンはそれを歴史の正しい認識だと信じ込んできたのだから、罪づくりだ。
倒幕の主体は薩芸(さつげい)の連帯だった。薩摩の軍事力は広島の御手洗(大崎下島)における密貿易(イギリス、フランス、オランダ)で、軍艦17隻も外国から買っている。幕府すら9隻だった。「二十歳の炎」では広島藩側の資料から、薩摩が何を輸出して、軍艦や最新鋭の鉄砲が買えたのか、と密貿易の実態を展開している。
薩摩と広島が政治・経済で、いかに濃厚なつながりだったか。それが倒幕の核になった、と同書で明瞭に展開している。
薩芸倒幕が、こいに薩長倒幕にすり替えられてしまったのだ。それはなぜか。作家たちは広島藩を知らずして、明治時代の薩長閥の政治家たち=幕末と歴史を見ているからだ。
大藩・広島は頼山陽、その後輩など、有能な家臣が多くいた。広島・辻将曹(つじしょうそう)が主導し、長州をダシに使って取りまとめた「薩長芸軍事同盟」がある。勘違いしてはいけないのが、それと薩長同盟とは無関係の存在である。
薩芸(さつげい:薩摩藩と広島藩)が倒幕を推し進めた。慶応3年12月「小御所会議では長州の朝敵を外させる。そのときには京都御所の警備に就かせる。それまで、西宮と尾道に待機せよ」と広島藩は、長州藩2500人の兵を率いる長州藩・家老たちに命じたのだ。
かれらはその通りにする。これまで幕府と長州の橋渡しをしてきた広島に対して、長州は命令通り、言うなりで従う藩だった。少なくとも、主体ではなかった。
「二十歳の炎」は、このように広島側から数々の史料を掘り出し、「藝藩志」を中心にして幕末史を証拠で構築している本である。
戊辰戦争といえば、会津戦争だと思っている。それも一つの戦い。だが、福島・浜通りで、平将門の血を引く相馬藩と、東北の雄・仙台伊達藩とが熾烈な戦いを行っている。この「浜通りの戦い」は、全国、ほとんどの人が知らない。
奥羽越31藩をまとめあげた仙台藩を叩かずして、奥州戦争の決着はなかった。いわき城から仙台青葉城まで長い距離で、なおかつ連日の激戦つづき、官軍を含めた双方の死者は凄まじいものだった。しかし、なぜか歴史から消されている。
この浜通りの戦いを正面から取り上げた小説は、これまで殆どなかった。どんな激戦だったのか、「二十歳の炎」を読めば、リアルにわかる。
広島藩の砲隊長・髙間省三は、福島・浪江で死す。満二十歳だった。川合三十郎・橋本素助編「藝藩志」には戦いがくわしく載っている。編纂した川合と橋本は、髙間省三とともに「神機隊」の隊長として参戦している。実体験者の記述だから、一級史料だった。
会津戦争は、世羅修三の殺害からと一般的に言われているが、これも正確ではなかった。「藝藩志」では、世羅殺害から42日前に、京都・朝廷から、芸藩に「会津追討」「の錦の旗が芸州・神機隊に渡されている、と明記している。会津戦争の歴史書も小説も、広島藩が皆無の取り扱いだっただけに、「二十歳の炎」から新たな戊辰戦争が発見できるはずだ。
第二次長州征伐~戊辰戦争。この2年間を広島側から知れば、薩長、薩長土肥で討幕を成し遂げたというのは真実でない、と理解できる。戊辰戦争も、相馬・仙台藩らのし烈戦いをなくして、兵糧攻めに徹した会津落城などは語れない。(仙台が落ちるまで待つ。官軍は兵糧攻めに徹し、無益な血を流さず、夜間の会津城の出入りなど自由だった)。
広島藩がわかれば、これら幕末史の空白と矛盾を埋めてくれる。
歴史小説作家「ととり礼二」さんが手紙で次のようにコメントしてくれた。
楽しみにしていましたから、さっそく拝読しました。
「あまりにも片寄った薩長土肥の誇張の陰に隠れ、それまで尽力してきた藩、あるいは人物のことがないがしろにされている日本の歴史」。穂高さんが申されるように、「隠されている真実を掘り起こすことが大切です』。同著はそれをまさに実践されたものにほかなりません。
綿密な調査と史料の読み込みが十分に行われたうえで、時代背景も巧く描かれています。
それよりもなによりも、行間から髙間省三の生きざま、息遣いが直接伝わってくるようで、主人公へ思い入れができる。それが最大の強みと思いました。
綾との恋模様が淡く表現され、作品に花を添えているのも見逃せません。「藝藩志」やその他の資料を読破されたのは、さぞや大変だったであっただろうと、ご推察します。こんな素晴らしい作品が生まれて万々歳です。