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戦争か平和か。戊辰戦争で学ぶ。「二十歳の炎」は国会議員の必読書に

 江戸時代260年間は国内外で一度も戦争がない平和国家だった。明治時代になると、10年に一度は海外で戦争する軍事国家になり、日本人の庶民の多くの血をとてつもなく流させた、広島・長崎の原爆まで。
 戊辰戦争とはなにか。戦争と平和とは何か。「二十歳の炎」はそれを問う歴史小説である。

『歴史の真実はとかく隠される。それを掘り起こすのが作家の仕事だ』私は、同書のサイン本には、それを明記することに決めた。

 戊辰戦争は会津戦争ばかりが強調されて、仙台藩と相馬藩が官軍(広島藩など)とし烈なる戦いを行った。その歴史は明治政府から消された。
 広島の浅野家が明後40年代に編纂した膨大な『藝藩志』があった。明治政府は、それが世に出ると、「薩長倒幕」の化けの皮がはがれると、発禁処分にした。

 禁門の変で朝敵になった長州は、京の都に入れなかった。大政奉還も蚊帳の外、小御所会議で新政府ができるまで西宮(大洲藩の陣)と、広島・尾道に待機し、長州は倒幕にまったく関わっていなかった。それが『藝藩志』で如実に書き記されている。
「なんでも薩長」は後世の作家の作りものだ。

 政治家は主義主張は違っても、それは当然だが、真実の歴史認識は持っていただきたい。平和を願わない議員はいないけれど、ミスリードが怖い。
 戊辰戦争は平和か、戦争かの境目だった。わずかな判断の違いから、国家が大きく軍事国家に変わってしまった。歴史から学ぶ。それが国や国民のためになる。

 祝「山の日」推進委員のメンバーの私は、超党派「山の日」制定議員連盟の方と面識がある。アポを取り、厚かましく訪ねることに決めた。

 6月26日(務台俊介代議士・長野第2区)、27日(衛藤征士郎代議士・第64第衆議院副議長)に、千代田区の衆議院第一議員会館を訪ねた。

 それぞれの議員には、「二十歳の炎」の作品趣旨を説明させてもらった。そのうえで、幕末志士たちが頼山陽(広島藩)の「日本外史」を必読書にしたように、国政に関わる皆さんには、「二十歳の炎」をぜひ読んでほしい、とお願いした。(これって陳情かな?)

「私たちの勉強会にきて話してもらおうかな。その前に私が読んでみるよ」(務台俊介代議士)
「広島選出の自民党代議士に読んでもらおう」(衛藤征士郎代議士)

 こうした手ごたえを受けた。

【写真の説明】
 
 務台代議士(写真・左)監修「いま『山の日』制定」と、穂高健一(写真・右)著「二十歳の炎」をエール交換する。

 撮影は政策担当秘書の佐藤帯刀さん、衆議院第一会館、6月24日     

山岳歴史小説の執筆依頼をうける。舞台は天保時代の安曇野(長野県)

 6月24日、務台代議士(同推進委員・事務局長)を衆議院議員会館に訪ねた。務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である。
「いま『山の日』制定」の書籍の監修もおこった。(写真)

 この折、2年後の「山の日」(2016年8月11日)にむけた、山岳歴史小説の執筆を依頼された。たんに登山だけでなく、山とかかわりあう人間の群像です、と要望を受けた。背景は、長野県の山と山麓にからむ天保時代である。

「天保の改革」の失敗、「天保の飢饉』による、大勢の餓死者が出たきびしい時代だ。小説としては、そのまま書くと暗さと厳しさが前面に出すぎて、読み手が息苦しくなってしまう。歴史小説だから、極度のひょうきん者など入れて、明るく笑いをとる人物設定などは難しい。

 人間はきびしい中にも、明るさとか愛がある。そこらがポイントになるだろう。
 
 天保時代のころ、僧侶たちの山岳登山が盛んになってくる。槍ガ岳を登った播隆上人の小説だけになると、「山の日」が登山の祝日と誤解を招く。
 山とともに暮らす人々の群像を描く必要がある、と務台さんは語った。地元選出だけに、詳しいので、素材を提供してもらった。
 当時は信州から飛騨に抜けて日本海に出る、「塩の道」の生活山岳道路がつくられた。さらには安曇野には大規模な治水による農地開墾があったという。
 この3つを絡めた歴史小説でいきますと、私はお引き受けをした。

 先々月から、「二十歳の炎」が脱稿し、次なる取材のひとつ阿部正弘(福山藩主・開国の首席老中)の取材に入っていた。ひとつ前の水野忠邦の「天保の改革」時代だから、さして違和感がない。

 私には山岳小説の小説受賞作がいくつかあるので、登山は書ける。有名な播隆上人は過去に著名作家が書いている。それに影響されないように、当座は資料のみを読みこなせば大丈夫だろう。

 山岳道路関係は、信濃大町の飯島善三を子孫を訪ねて調べたことがある。(明治初年に、いまの黒部アルペンルートを開拓した)。その時の知識は残っている。

『水を制する者は国を制する』
 古代から江戸時代まで、各大名は治水には苦労している。新たな治水をするとなると、水の流れ、地形、地質あらゆる条件が付加する。
 題材としては面白そうだが、私は江戸時代の河川工学を学ぶところから始めなければならない。

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幕末歴史小説 穂高健一著『二十歳の炎』が全国で販売を開始しました

 芸州広島藩から書かれた幕末小説は、皆無だった。これまで幕末史は、小説家や歴史家が薩摩藩、長州藩、土佐藩の視点から書かれたものばかり。
 どんな著名な歴史作家でも、広島藩を組みしていない。なぜか。理由はかんたんだ。原爆でお城や武家屋敷などが総べて消滅してしまったからである。

 もう一つある。明治政府の政治家は薩摩出身、長州出身が主体で、広島が目立たないように、と芸州広島藩の浅野家が編纂した『藝藩志』を発禁処分にした。なぜ、発禁か。薩長の恥部を知っているからだ。それを暴露されると、不都合だからだ。

 二つの理由から、広島藩の史料はないのが定説だった。しかし、私は150年前はまだ史実が見つかる。その想いで、約4年半の歳月をかけて取材してきた。
 
 ここに穂高健一著『二十歳の炎』を発刊することができた。
   

            『二十歳の炎』 表紙

 出版社は日新報道で、定価は本体1600円+税。6月24日から全国書店やアマゾンなどネットで販売されている。

 第二次征長(幕長戦争)、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争・浜通りの戦い(相馬藩・仙台藩)へと2年間に絞りこんだ。登場人物はすべて実在である。

 史料がないのは芸州広島藩だけではなかった。戊辰戦争といえば、白虎隊の会津中心に考えてしまう。
 しかし、新政府にとって東北の雄・仙台藩が最大の敵だった。平将門の血を引く相馬藩と2藩が、福島・浜通りを北上してくる官軍と熾烈の戦いを行った。
 
 仙台藩を落とさずして、会津だけ攻めても、新政府の勝利とはならない。この単純な構図が、現代では作家にも歴史家にも理解されていない。ましてや、現地の住人も「ここで戊辰戦争があったのですか」と聞くくらいだ。

 明治政府のトップにすれば、仙台藩や相馬藩の戦いがこれまた目立っては不都合。これまた、歴史事実から消されてきた。

 
 会津城と比べると、浜通りの戦の研究者は少なく、実に薄い資料だった。
 
 それでも、楢葉町、富岡町、双葉町、浪江町、南相馬町、相馬市の各教育委員会の歴史専門員が協力してくださった。
 原発事故で、まだ立ち入り困難区域だった。役場職員だから、一次帰省で、市役所や公民科の資料室から該当資料を運び出してきてくれた。頭が下がる思いだった。 

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「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(下)

 人気アナウンサーの堀江慶子さんの活動を知りたくなった。同行取材となると、こちらも日程を合わせるのが大変だし、おおかた早朝から真夜中と、不規則な時間帯になるだろう。
 それは不可能だ。そこで、慶子さんから、取材中の写真の提供をもとめた。
「テレビカメラに向かっているので、終わった時に皆さんとの記念写真が多いのです」

 『けいこの街なび』はことし(2014年)4月から始まった。まずは、足立区ギャラクシティでクライミングにチャレンジだった。
「この岩場を登る、この体勢から、リポートしました」

 慶子さんは若いね。

「だって、若いもの」
 そんな答えが返ってきそうです。

 「けいこの街なび」は第2、第4木曜日に生中継です。

「ギャラクシティで中継後、ご案内頂いた坂下さん(女性)と、ディレクター、カメラマンの皆さんと記念撮影です。こちらは子どもたちが、落書きができるコーナーですよ」

 慶子さん、あなたがいたずら書きしたのでは?

「ばれたかしら。本番まえに、わたしがスタジオのキャスターのふたりを描きました」

 いたずら書きって、便利なことばですね。上手、下手は問わずですから。


「こちらは、『足立区綾瀬普賢寺バレーボール』の皆さんです。慶子の時間で取材にうかがいました」

 慶子さんのアタックしたところ、運動神経を知りたかったな。

「それはケーブルテレビで見てくださいね」

 再放送はあるのかな? ところで、ママさんバレーに男性がいるの?

「前列の男性は『NOXAH』というバンドの皆さんです。ゲストでいらして歌って下さいました」

 応援歌つきとはすごい。


「みなさんは『AGB467合唱団』の方々です。練習風景の撮影でした」

 国立音大卒のプロアナウンサーだから、最も得意とする分野ですね。

「そうです。もっと質問してください」

 どこにお住まいの方々ですか

「あら、私の音楽力のインタビューの質問じゃないの。♪♪♪足立区綾瀬4丁目、6丁目、7丁目の歌の好きなおじさま、おばさまたちです」

 次に行きましょう。

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「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(中)

 堀江慶子さんは、人前で話すのが大好き人間だ。
「話すのが楽しく、人の話を聞くのも、楽しくて仕方ないんです」
 慶子さんはレポーターとしても、取材相手とたちまち仲良くなる。親しくなる、そんな性格だと話してくれた。

 足立ケーブルテレビとの出会いも面白いんです。父親からふいに、
「おまえにぴったりかもしれないね」
 と局の発足の新聞記事を見せられた。
 当時の慶子さんは、結婚後も、子育てに入っても、テレビ朝日やテレビ東京の番組、さらには千代田区の広報の番組をも担当していた。
「ケーブルテレビって、どんなことするんだろう」
 そのていどにしか思っていなかった。

 1月の成人式で司会をした折り、
「こんど足立区にケーブルテレビが出来るんですよね」
 とかるい話題の一つとして教育長にうかがった。
「堀江さんはとても明るく、元気一杯なので、もしかしたら、あなたに似合う番組があるかもしれないね。興味はありますか?」
 ある日、慶子さんが住むマンションの隣のビルに、ケーブルテレビの看板が出ていたので、びっくりしたという。

「あまりにも偶然なので、神様からやりなさい、と言われた気持ちになりました」
 約2週間後、教育長を介してケーブルテレビの社長室で面談した。同年4月からアナウンサーとして関わることになったのだ。
 ここでフリーのアナウンサーの道に入った。

 かえりみると、テレビ朝日「築地ホット情報」は5年半、テレビ東京「株式ニュース」9年半、千代田区は18年にわたる。この実績はケーブルテレビでも、エネルギッシュに生かされている。こちらもいまや18年が経つ。


 足立区を取材やインタビューで駆け回っていると、沢山の人との新しい出会いがある。とくに驚きの一つがノコギリ音楽だった。

『のこぎりキング下田』(足立区在住)は、世界一のノコギリを使った演奏をおこなう。
「えっ、ノコギリから音が出るんですか」
 慶子さんが下田さんにそう訊いたのが、いまから10年くらい前だった。話すうちに、おなじ梅島小学校の出身だとわかり、感激した。
 その縁から、下田さんのコンサートの司会を行う。

「音楽公演の司会は実に楽しいです。下田さんとは、いまでは家族ぐるみのお付き合いです」
 彼女の交流範囲はさらに広がっていく。


「私の父は警察官でした。退職してから地元綾瀬の警友会に所属し、いろいろな活動をしていました。その縁で、区内警察署の地域安全の集い、警視庁音楽隊の司会などさせていだたいております」
 慶子さんにとって、とくに印象深いのは平成10年7月、101番目の警察署として話題になった竹の塚警察署のイベントだ。その司会役だった、と話す。


 足立区内の魚屋さんを訪ねる。
 かつてテレビ朝日の「築地ホット情報」という番組を担当した時を思い起こしたという。当時は月曜から金曜日まで、太陽が昇る前の、早朝の東京中央区の築地に出向いていた。

 魚屋や魚市場の皆さんから、「大きな声がいいね、元気が出るよ」と褒められたものだ。その時の言葉がいまだに記憶に残る。
「私はアナウンサーに向いているんだ」
 そう自分に言い聞かせて励んでいる。

「慶子さんはちゃきっちゃきの江戸っ子だね。ヌルヌルしたヒラメを素手で触った女子はめずらしい」
 と妙に感心された、そんな記憶もある。

 最近の感動として、
「クリスマスに近い頃です。千住緑町のパン屋さんに取材にうかがいました。店の方が、頭にはトナカイの被り物で、学校帰りの子どもたちを迎えるんです」
 近所の子どもは、パン屋に立ち寄り、「ただいま」と挨拶してから、自宅に帰って行く。『街のお父さん、お母さん』という存在である。

「町全体が家族なんです。それには感激しました」
 アナウンサーとしてレポーターとして、町の人に触れ合うほどに、話すほどに、一般には得難い体験や知識やおどろきがあるのです、と慶子さんはなんども語った。
 
 下町・千住は『奥の細道』で、芭蕉が深川をスタートし、最初に立ち寄った宿場だ。当時の面影はさほど残っていないにせよ、宿場町のおとな・こどもの連帯感は受け継がれてきているのだろう。千住を代表する足立はそういう町場でもある。

「慶子の時間」ですよ=微笑が魅力のプロアナウンサー(上)

 元気で、朗らかな、気さくな人柄は多くの人に好かれる。それが人間のつながり(連鎖)と拡大になっていく。プロ・アナウンサーの堀江慶子さんはじつに明るく、それを感じさせる。まさに、人柄と人徳だろう。

 慶子さんは国立音楽大学ピアノ専攻を卒業した後、テレビ局のアナウンサーとなった。
 人間は明るくても、落ち込んだりするものだ。明るい慶子さんの場合はどうなのだろうか。いきなり、失敗談を語ってもらおとしたけれど、

「わたし楽観主義なんです。みなさんが失敗だと思うことでも、『ああいい経験した』と思ってしまうのです。失敗という意識が薄いのです」
 彼女の辞書には、後悔、くよくよ、失意、落胆はないようだ。

「取材中に、むかしの私を知るひとに出会っても、変わらないわね、慶子ちゃんは。明るいね、とよく言われます」
 彼女にはつねに笑顔がある。

 テレビ朝日『築地ホット情報』、テレビ東京『株式ニュース』を担当した。千代田区広報番組『わが町千代田』、さらには日本フィルハーモニー交響楽団『ファミリーコンサート』などの司会を経て、現在フリーアナウンサーとなっている。

「こちらは足立区役所です。午後5時になりました、外で遊んでいるお子さん達はおうちに帰りましょう」 都民にはおなじみの有線放送だ。足立区の放送は慶子さんなのだ。

「この声のおかげで、足立区の住民とのつながりがいっそう深くなりました。子供ころ、お世話になった商店街や地域の皆さんが、あら、慶子さんの声だったの、と感銘してくれます」
  彼女にはよい宣伝塔(放送)になっているようだ。なにしろ、毎日、一回は区内のどこかで聞くのだから。無意識に、たとえ聞き流したにせよ、どこかに慶子さんだと、ごく自然に入っているはずだ。

 「子どもの頃」どんな性格の女子だったのか、慶子さんに語ってもらった。九州出身の両親のもと足立区・梅島で育った。3姉妹の長女だった。

「元気いっぱいの子供でした」
 慶子さんは迷いなくそう言い切った。

 幼稚園時代に木琴を担当した。それで音楽好きとなり、慶子さんはピアノを習い始めた。ちなみに父親は警察官だった。
「わが家に冷蔵庫やテレビを買う前に、テープレコーダー、ピアノを買ってくれました。それほど両親も音楽好きで、わたしがピアノを弾いていると、ご機嫌でした」

 慶子さんはピアノ、次女はピアノとエレクトーン、三女はバイオリンと、三姉妹はみな楽器を習っていた。音楽一家だった。

「ともかく、世話好きの性格でした。教室のオルガンを弾いてクラスメイトの歌の伴奏をしたり、小、中学校では生徒会役員に選ばれました」
 文化祭では司会を担当した。
「まさか、自分がプロアナウンサーになるとは、夢にも思っていなかったです」
 白鴎高校では、合唱のとき歌の伴奏をしていた。大人になったら、音楽の先生になるんだと、かたくなに決めて、それを目標としていた。 

 国立音大に入っても、ピアノ講師を目指して、子ども達にピアノを教えていた。

 大学の就職掲示板をみていると、アナウンサー募集が出ていた。
「わたしの今までやってきたことが、生かせるのではないか。子ども番組や音楽番組のアナウンサーをやってみたい」
 その想いが突如として募ったのだ。

 テレビ局に国立音大出の先輩はいないだろうか。学生課に問い合わせたうえで、テレビ局に電話を入れて先輩に会いに行き、アドバイスを受けた、と経緯を語ってくれた。

「いざという時は積極的になります。そのお陰で、合格したのかな、と思います」
 入社後に、人事課の方から『下町育ちの元気さがよかった』とほめて下さった、と慶子さんはつけ加えていた。

 テレビ朝日「築地ホット情報」やテレビ東京「株式ニュース」を担当が長く続いた。その頃、足立区役所の方から夕焼け放送のアナウンスをしてほしいと頼まれた。
 それを受けて、最初に録音したのが、今から23年ほど前だった。

 地元紙『足立読売』が、夕焼け放送のアナウンサーとして慶子さんを取り上げた。その記事を読んだ足立吹奏楽団」のメンバーから、足立区に音大出身のアナウンサーがいるなら、司会を頼みたい、と話が舞い込んできた。
 
それは『足立区成人の日の集い』の演奏にかぎった司会役だった。慶子さんは国立音大出だから、演奏会の司会は楽しいだろう、と引き受けた。

 
「せっかくなら、成人式の全体の司会をして欲しい」
 成人式の関係者から、話がさらに拡がった。
「じつは式典とアトラクションの間に、新成人が外に出てしまう人が多い。最後まで会場にいてもらえるよう、頑張って欲しいのです」
 と主催者から要請された。
「頑張るぞ」
 慶子さんはそこで張り切った。

 それから20年も経つ。今年(2014)も、「成人の日の集い」の司会を担当している。成人式の催しは毎年違う。同吹奏楽団との縁もその後に及び。その司会も平成6 年1 月のポップスコンサートより、連続42回目(21年間)担当している。
 双方とも、ロングランのお付き合いとなっている。

 慶子さんの話を伺うほどに、明るい人柄の人物はひとたび縁ができると、長く結びつくものだと思う。笑顔と明るい性格は人間関係を円満なものにする。歳月とか、回数とかが、まさに実証している。



いまはJ:COM足立のアナウンサーとして 生放送「デイリー足立」の「けいこの街なび」という中継リポータ―をしている。女子プロレスの皆さんと撮った写真を提供してもらった。
 慶子さんの明るい表情を如実に写し撮っている。

 フットワークが良い。慶子さんはすぐに現場に出むいていく。
「話すのが楽しい。ともかく、わたしに見合った職業です」
 堀江さんはいまや足立区内において最も人気のプロアナウンサーである。


                                   写真提供:堀江慶子さん

心臓手術4回の80歳でエベレスト登頂。攻めの健康法で成功した

 2016年8月11日には、祝日「山の日」としてカレンダーにのってくる。山にどう向かい合うべきか。
 80歳でエベレストを登る冒険家もいれば、那須の山道の腐葉土を歩きながらふわふわ感を楽しむ山歩きもある。山と動植物の保護の視点から、後世への影響を考える研究者もいる。あるいは断崖絶壁を登る若手クライマーもいる。

 山には数々の楽しみ方がある。山から学ぶこともあるし、一方で後世を考える機会にもなる。

 栃木県の主催によるシンポジウム『ふるさととちぎの山の魅力・山の恵み~「山の日」を考えよう~』が、5月27日(火)に、栃木県総合文化センターで開催された。第1部はパネルディスカッション、第2部は『最高齢エベレスト登頂への道のり』と題した、三浦雄一郎さんの講演が行われた。
 
 福田富一栃木県知事は冒頭のあいさつで、「地元出身の船村徹さん(作曲家)から、「山の日」の提案がなされました。そして、祝日になりました。これからはいっそう山に魂を吹き込み、育て、守り、次世代に引き継ぎましょう」と述べた。


 第1部はパネルディスカッションで、コーディネータは磯野剛太さん(全国「山の日」制定協議会事務局長)である。
「山の魅力は登山やハイキングだけではありません。海に対する恵みを生みだすところです。祝日を機会に、山としっかり向かい合ってほしい」
 と制定後のありようについて語り、パネリストに引き継いだ。

 ・ 萩原浩司さん(山と渓谷社・編集長)は、NHK百名山の編さんに携わる。
「奥日光はコンパクトで美しい配置になっています。山岳、中禅寺湖、戦場ヶ原など天が創造した傑作です」
 と栃木県の山の魅力を語った。

 ・ 谷本丈夫さん(宇都宮大学名誉教授)は、森の生い立ちからの研究に取り組む。最近は特に注目する事柄として、
「酸性雨の被害で、日光の杉並木が衰退しています。鹿と餌の関係で、尾瀬ヶ原などの貴重な高山植物が荒らされています」
 と山が抱える問題点を取り上げた。

 ・ 安間佐千さん(あんま さち、プロフリークライマー・写真左)は、宇都宮生まれの大学生。フリークライマーの世界チャンピオンである。
 2012年、2013年と連続してワールド杯の総合優勝をなしている。フリークライマーの何が面白いのか、と自問して聞かせてから、
「岩場は世界中にある。アイスクライミング、アルペンクライミングと、いろいなスタイルがあります。岩の形状はみな違うし、晴ればかりか、雨風もあります。自然のなかで、人間がギリギリに登れるか否か、そんな山もあります。私は世界の魅力ある岩を登たい」
 とみずから限界に挑戦していく意欲を語った。

 ・ 本間裕子さん(那須平成の森インタープリター)は東京生まれの東京育ちで、小笠原の母島で都レンジャーとして森の保護活動をしてきた。その実績で、那須に移り住む。
「那須に訪ねてきた人たちに、山をゆっくり時間をかけて山と森を観察してもらっています。樹皮のザラザラ感や樹木の温度。腐葉土のふわふわ感など、自然そのものを感じることができるのです。拾ってきた葉っぱを並べてみると、木々が生きてきた歴史の違いが解ります」
 とインタープリターの役割について説明する。 

 
 第2部の講演で、三浦雄一郎さんは70歳、75歳、80歳と3度もエベレスト登頂を成し遂げた。
「80歳で登頂した後、下山では体力を使い果たし、死神の甘い声が聞こえてきました」
 それは人間の限界だったと語る。

 講演では、エベレスト登山そのものよりも、日々の鍛錬を主として語った。登山は登りで体脂肪を燃やし、下りで糖を燃やす。と同時に、心肺機能を高める。こうした医学的な予備知識を聴衆に与えてから、三浦さんは60歳代で、体脂肪40、体重90キロもあり、そのうえ狭心症で心臓がすぐドキドキする、メタボの体だったと前置した。

 ここは体質改善をかねてエベレストを登ろうと目標を定めた。不整脈で4度も心臓手術をしているし、膝の半月板がすり減って1ミリもないし、これまた痛い。そのうえ、スキーで骨折もしている。

 こんな状態で、家族にエベレスト登山など話すと、反対されるに決まっているから、黙っていた。そこで、足腰を鍛えるために、『攻めの健康づくり』に励んだという。それはいかなるものか。
「足首に1キロの錘(おもり)をつけて、ザックを背負い、町なかを歩きました。食生活も改善し、早寝早起きに徹しました」
 そうすることで、体を改善し、鍛えることができた。膝の痛みが少しずつ取れてきて、半月板が4ミリになった。富士登山にも出向いたことから、骨の骨密度が20歳代になりました、と話す。

 エベレスト登山の成功の秘訣は、高度順応(高山病の予防)のために、ベースキャンプまで、若い登山家人よりも2倍の日数をかけて歩いた。それが良かったので、標高8500メートルまで元気よくつけた。ここでは登山の常識をくつがえし、「ウニの缶詰、鮭、手巻き寿司、お茶会もやりました」と面白く、食べ物にも凝ったと話す。
 この先は冒頭の死神がささやくほど、体力と脚力を使い果たすのだけれど。

 三浦さんのふだんの足腰をつくる攻めの健康法は、山好きな聴衆が多い中で、それぞれに体質改善、体力向上のやる気、あるいは何らかのヒントをもたらしたと思われる。

ここしか生きていく道はない=クラッシック歌手・川島由美(下)

 川島由美さんは正統派のクラッシック歌手である。活動の範囲は広く、昭和音楽大学の非常勤講師、東京都ヘブンアーティストの活動も積極的である。ソプラノ弾き語りスタイルで、上野公園、都営地下鉄(新宿西口駅)などにおいて日本の童謡、唱歌、世界の名曲を広める演奏活動をおこなう。

 「円盤投げと歌唱でつかう深部の筋肉は同じです」
 そう語ってくれた川島さんは、身体の軸の使い方などの指導をふくめた、ボイストレーニング講座の活動もおこなっている。

 石井武則さんは3年前から、川島さんから、町田教室でボイストレーニングで声の出し方を学びはじめた。最初の1時間は、胸、横隔膜、腹部の体操である。あとの1時間は歌の発声となる。
「声の出し方がわかりやすく、川島さんは上手に説明してくれます。知っている体験をすべて出してくれます。出し惜しみがない。それが魅力です。だから、生徒数が増えています」
 石井さんは彼女の誠意と情熱に感動し、「川島由美後援会」を立ち上げた。後援会の事務局長である。夫婦でコンサートには出むく。


 川島さんは5月20日に和光大学ポプリホール鶴川(町田市)で開催された『川島由美・CD「四季のうた」発売記念コンサート』では、童謡、歌謡曲、ミュージカル、オペラアリアまで、2時間21曲を歌った。
「すごい体力です。歌手が連続21曲など、ふつうはできません。歌う表情が豊かで、聴く人の心に届くソプラノシンガーです」
 石井さんは体力の賞賛のみならず、彼女の幅広い音域とレパートリーも讃える。秋葉原駅コンサートで聞いた直後だけに、それは納得できた。

 同駅に出むいていた『母よ』の作曲家の石黒さんは、川島さんについて、「母の力強さを明るいイメージで歌ってくれます。たとえ80歳、90歳の老齢になっても、その方が母を思い出すと、それは若い日の母親です。それを歌で表現してくれています」と話す。


 CD『母よ/この街で』が発売されている。このなかの「この街で」は、新井満さん(日本ペンクラブ常務理事)の作曲だ。
 日本ペンクラブは毎年3月3日に、「平和の日」を全国各地の持ち回りで開催している。(大江健三郎さんが提案し、国際ペン・本部ロンドンが3月3日に「平和の日」と決めてから、約25年間余りにわたりイベントを行っている)

 2005年の日本ペンクラブ主催「平和の日・松山の集い」の開催前日に、関係者が市役所に市長を表敬訪問した。「21世紀に残したいことば」で松山市長賞を受賞した「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」が新井さんの目にとまった。この言葉に感動した新井さんが、即興で作曲した。翌日の1000人以上の大ホールで披露した。それが全国に広がったものだ。

 新井さんが日本ペンクラブのフォーラムなどで、折々に歌う曲だ。川島さんの「この街で」は、新井さん同様に感動をうまく歌唱していると思う。


 CDは 『四季のうた』(ダニーボーイ、アメイジンググレイス、津軽のふるさと、百万本のバラほか)などがある。それらは聴く人の感動を誘う。

 彼女のCDはすべて「手作りCD」である。世界の愛唱歌や名曲、明治から昭和までの叙情歌を選曲する。そして、演奏家や音響のプロの友人の力を借りて、デザインや入稿、選曲から、音の選定まですべて自分で手がけている。

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円盤投げの選手から、華麗なる音楽家への道=川島由美(中)

 東京都ヘブンアーティストたちは都営地下鉄の駅構内などでも、演奏活動をする。川島由美さんには演奏者の立場から、第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(主催はJR東日本)は従来(地下鉄駅)と比べて、どうですかと聞いてみた。

「地下鉄駅などでは、ふだんピアノ(ポータブル)を運んできたり、演奏者兼スタッフです。会場はコンコースですから、演奏でお客さんを集めるほどに、かえって乗降客の流れに邪魔になっていないかと、そちらも気になってしまいます。きょうの秋葉原はスタッフがしっかりついてくださり、聴く方の整理をしてくださり、良いスピーカーを使っているし、歌と演奏に集中できました」
 と明るく語ってくれた。
 
 コンサート会場のお客さんはチケットを買ってくるから、どんな曲、ジャンルでも、予備知識があり、じっくり聞いてくれる。駅の場合は、行き交うお客さんの足を止めないと聴いてくれない。その点の選曲について、川島さんに聞いてみた。

「テンポの速い曲でないと、お客さんは立ち去ってしまう、という焦燥感にかり立てられます。しかし、ゆったりした『月の沙漠(さばく)』などは不思議に、集まってくれるのです」
 聴く人は心をクリアし、気持ちを真っ白にしてから、歌に聞き入る。だから、足を止めて集中してくれるのです、と川島さんは解説してくれた。

 たしかに、『アメイジンググレイス』、『翼をください』、『ダニーボーイ』、『花は咲く』など、いずれも郷愁に満ちた曲であった。駅構内で立ち止まった聴き入るひとたちの顔を見ていると、心に邪念がなくなり(童心に戻る)、耳を傾けている表情だった。
「わたしが歌い、その歌が聴く人のものになるのです」
 そう語った川島さんは、30分間の持ち時間内で、最大限に郷愁を提供していた。

 母親の川島温子(はるこ)さんが、よき応援団として観客のなかにいた。どんな娘さんですか、と訊いてみた。
「努力家で、興味津々で、体力があります」
 音楽家の体力とはなにですか。
 高校時代の由美は円盤投げ、槍投げ、砲丸投げの選手だった。記録も持っていますと話す。砲丸投げとソプラノ歌手とはイメージと合わない。
 人生にどんな転機があったのか。

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第1回ステーションライブ・秋葉原で、川島由美が懐かしの曲を歌う(上)

 5月24日、JR秋葉原駅構内の2階コンコースで、生演奏の音楽が流れていた。利用客が足を止めて演奏に聴き入る光景があった。それは第1回「駅ライブ・イン・秋葉原」(Station Live in Akihabara)で、主催はJR東日本だった。
 主催者側の説明によると、JR秋葉原駅の生演奏は初めての試みであり、今後は月1回ほど開催したいと話す。東京都内でも乗降客の多いターミナル駅で、こうしたライブは東京駅に続くものだという。

 過去の日本国有鉄道時代を知る人たちにとって、4月、5月はじつに憂鬱(ゆううつ)だった。賃上げ闘争にからむ順法闘争で、乗客に迷惑をかけっ放し。通勤・通学の時間帯の満員の車内で、乗客は定刻通りに走らない電車にイライラし、ストレスがたまる一方だった。

 民営化した以降のJRには、乗客を大切にする考え方が浸透し、私鉄・地下鉄との競争激化から、より高いサービス向上をめざす。従前は駅構内の人の流れをいかにスムーズに流すか、そこに趣きがおかれていた。、現在は快適にも駅を利用してもらう発想から、構内でイベントがあちらこちらで行われている。
『駅ライブ・イン・秋葉原』のメインテーマは「心躍る時間をあなたに」である。足を止めて愉しんでも乗らう。まさに隔世の感がある。

 第1回は12時から17時まで、全4ステージを行う。各30分毎だった。

 STAGE1 『Dot & Line』(ドット アンド ライブ) NHKラジオなどに採用されているオリジナル曲

 STAGE2 『川島由美』(ソプラノ歌手) 弾き語りスタイルで、ピアノを弾きながら世界の名曲を歌う

 STAGE3 『TOMA』(トマ・苫米地義久) 自然派サックス奏者で「人がやさしく元気になる」ソロ演奏

 STAGE4 『沙羅璃』(しゃらり) 津軽三味線とバイオリンの和洋の楽器によるコラボレーション

 ステージの演奏者たちはすべて『東京都ヘブンアーティスト』(東京都の審査会に合格したアーティストやパフォーマンス・芸人たち)である。

 司会の田中杏奈さんは、「曲がはじまると、年齢や男女を問わず、多くの人が集まってくれました。聴き入る皆さんが心から楽しんでいるのが、伝わってきました」と話してくれた。

 STAGE2のソプラノ歌手の川島由美さんから、話を聞くことができた。曲目としては、『あの素晴らしい愛をもう一度』、『 琵琶湖就航の歌』、『四季の歌』、『みかんに花咲く丘』とつづく。なじみのある曲ばかり。駅構内のお客さんは、親しみをもって聴くことができたようだ。

 川島さんには演奏者の立場から、感想を聞くと、
「秋葉原駅のコンコースが広く、足を止めてくださった聴衆が多くて、気持よく、弾いて歌えました。心がかるく演奏できました」
 と心境を語ってくれた。
 音楽人生まで語ってもらうと、川島さんの意外な面が発見できた。

                         【つづく】