What's New

『読書の秋に読もう・推薦図書』 南太平洋の剛腕投手=近藤節夫

 旅行作家兼エッセイストの近藤節夫さん(日本ペンクラブ会員)が、初のノンフィクション作品『南太平洋の剛腕投手』を刊行した。サブタイトルは「日系ミクロネシア人の波瀾万丈」である。発売日は8月18日。出版社は現代書館で、1600円+税。

 作品は昨年来から取りかかっていたもの。主人公はススム・アイザワ(相澤進)で、日本人の父と、旧トラック島(現ミクロネシア連邦)酋長の娘との間に生まれた。戦中・戦後に父の故郷・藤沢市で、彼は逞しく成長した。そして、プロ野球投手として活躍した。
 その破天荒な生涯を描いている。

 ススムはプロ野球を辞めた後、トラック島へ帰島し、大酋長となった。実業家として成功した彼は、島のため献身的にボランティア活動に携わってきた。当然ながら、島民から広く尊敬を集めた。

 作者の近藤さんは、親の代から交流のある森喜朗元首相、そしてプロ野球の元チームメートだった佐々木信也氏と、ふたりの友情の絆を同書で扱った。それだけに、奇想天外のドキュメントだともいえる。

  30数年前、作者はトラック島で大酋長と初めて会った。ススムは行動力のある魅力的な人物であった。一方で、謎をはらんだ言動の多い人物だった。そのミステリアスな点についても、証言、風評を交え、取り上げてている。

 偶々大酋長がすでに鬼籍に入られていると知った。
「もうあのカリスマ的な風雲児に会えないのか。そう思うと無性に寂しい気持ちに捉われました」
 近藤さんには懐かしい気持ちが湧き上がった。大酋長の生涯を二つのふるさと・旧トラック島と湘南地方を背景に描いてみたくなったのです、とペンを執った動機を語る。

 『南太平洋の剛腕投手』は江ノ電沿線新聞社が、湘南地方、とりわけ江ノ電沿線に住民に読んでもらいたいと、座談会を催している。
 佐々木信也さんは、湘南高校時代に甲子園初優勝を成し遂げている。ススムの親戚の藤沢市商工会議所副会頭・相澤光春さん、そして佐々木氏の母校後輩となる筆者の近藤さんがトークを行った。座談会の内容については、「江ノ電沿線新聞」9月1日号に掲載される予定である。


  【著者の刊行案内から、取りまとめました】


【作者・プロフィール】

 東京・中野生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。学生時代に60年安保闘争、ベトナム反戦運動に参加した。
 学生時代・サラリーマン時代を通して、紛争地や戦地に200余り渡航している。訪問国は70数か所になる。
 著書として
『現代 海外武者修行のすすめ』(新風舎)
『新・現代 海外武者修行のすすめ』(文芸社)
『停年オヤジの海外武者修行』(早稲田出版)
 共著として
『知の現場』(東洋経済新報社)
『そこが知りたい 観光・都市・環境』(交通新聞社)

【推薦図書】 Kindleサイズ「短編集 半分コ」=出久根達郎

 Kindleサイズの紙の単行本とは考えたものだ。持ち運びが良い。満員電車でも、簡単に読める。なにしろ流行の先端を行っている。
 液晶画面でなく、紙面で読める。あらたな読者層を広めるだろう。


 出久根達郎著「短編集・半分コ」が三月書房かせ出版された。定価は本体2300円である。

 Kindleサイズの出久根さんのアイデアか。それとも出版社か。後者ならば、編集か、営業か。そんな興味もわいてくる。ご本人に訊いてみたいが、想像にとめておこう。その方が楽しい。
 
 直木賞作家で、現代では第一人者の短編小説集だ。軽妙に手軽く読める。気にいった題名から読めばいいだろう。

 人生半ばを迎えた主人公たちが、ふと過ぎし日を想う時、その何気ない言葉やしぐさに心の内を垣間見る。……どこか懐かしく、そしてほろ苦い16の小さな物語。

 『掲載作品』
    半分コ
    饂飩命
    赤い容器
    母の手紙
    十年若い
    お手玉
    空襲花
    符牒
    紀元前の豆
    名前
    薬味のネギ
    校庭の土
    こわれる
    腕章
    桃箸
    カーディガン     

安曇野に学ぶ「土木技術史」=水を制する者、国を制する

 長野県・安曇野(あずみの)は、かつて北アルプス山麓の広大な原野だった。古代から急峻な山が崩れ、その砂礫が厚く堆積した大地である。結果として、上高地から流れてくる梓川の水が、安曇野に入ると、途中で水が消えてしまう。川底から地下に水が消えるのだ。

 水が枯渇すれば、田畑の耕作に甚大な影響がでる。農家の近隣、村単位、上流と下流とで水争いが絶えなかった。

 村人や松本藩も、なんとか奈良井川の豊富な水量を広域で分け合うことができないだろうか、と考えてきた。それには川を中流で堰(せ)き止め、真横に水路を造り、水を村々で分け与えよう、と計画された。砂礫の原野に川を通す。その治水は簡単ではない。

「水を制するものは国を制する」
 戦国大名や江戸時代の為政者たちは、叡智(えいち)を集め、治水に膨大な資金をつかってきた。それでも、川は氾濫を起こす。人間は自然を力で制圧できない。
 武田信玄の信玄堤など特殊な方法らしい。


 江戸時代の後期、1816(文化13)年に、安曇野に十ケ堰(じっかせき)ができた。その調査・測量などには26年間を要している。
 総延長は15キロで、等高線に添った、ほぼ水平・真横に流れる川を造ったのだ。勾配は約3000の1。3キロ進んで、わずか1メートル下がるだけだ。
 槍ヶ岳が標高3180メートルだから、横倒しにして1メートル下がっているくらい。超精巧な川である。おどろくことに、計画に26年間を要し、工期はわずか3か月である。述べ6万7000人の人手を使ったという。

 十ケ堰が完成すると、安曇野は米や作物は豊富になり、藩外に売れるほど10か村が潤った。

 
 現在も十ケ堰は現役だ。実にゆるやかに水が流れる。江戸時代に、どんな風に川が出来上がったのか。人間はどのように水(自然)と戦ってきたのか。それを歴史小説で書くことになった。

 十ケ堰の功労者は数多くいるようだ。庄屋の中島輪兵衛がくわしい記録を残している。図書館で見てみた。文系の作家にはとても理解できない。
 歴史小説でも、事実にそくした面が必要だ。河川工学とか、土木工学とか、専門知識がないと執筆などできない。ここから勉強することに決めた。


 私は知識を得るために、8月14日、長瀬龍彦さん(都市環境エネルギー協会の専務理事)を訪ねた。そして、3時間にわたり「土木技術史」のレクチャーを受けた。ボードに数式を書いて、実例で教えてくれる。

 水は真正面から腕ずくで抑えない。水は自然の原理しか動かない。

 水は液体だが、零下になれば、氷で個体になる。温度をあげれば、湯気で消えてしまう。水は無音だが、高い処から落とせば音が出る。
「水は奥行きの深いな」。それを実感させられた。

『読書の秋に読もう・推薦詩集』 幻肢痛 = 平岡 けいこ 

  波は下腹部を打ち
  私は私の底に水の音をきく
  冷やかな藍色の音をきく
  水は廻りはじめる            (「水音」より)

  暗い感覚のクライマックス、
  読者はそのとばりの先を覗きたくなるのだ。


 幻肢痛ーー肢または肢の一部を切断後、患者があたかもその部分があるかのような痛みを感ずる状態、もしくはすでになくなっているのに先端があるように感じる症状。

 まさに欠如ゆえの痛覚こそはこの幻肢痛こそがもっともふさわしいだろう。ゆえにこそ、この症状を知ったとき、平岡けいこさんは自分の内なる欠陥を見失わないためにこそ、この言葉を配して、一冊の詩集を編みたいと熱望したに違いないと思う。

(「幻肢痛」考・倉橋健一氏より、抜粋)


【幻肢痛の関連情報】

 平岡けいこ著「詩集 幻肢痛」
 定価2500円+税
 発行所・砂子屋書房(千代田区神田3-4-7  03-3256-4708) 


『平岡けいこ・プロフィール』

 兵庫県出身
 日本現代詩人会、中四国詩人会、関西詩人会に所属

1991年 詩集「わたしの窓から」私家版

1995年 詩集「未完成な週末」近代文藝社
      (第4回コスモス文学出版文化賞)

2004年 詩画集「誕生~ぼくはあす、不可思議な花を植え 愛、と名づける~」美研インターナショナル
      (第4回中四国詩人賞) 

下田港でアメリカ家族(男・女)を初めてみた驚き=川路聖謨

 川路聖謨(かわじとしあきら)は、幕末に活躍した人物である。1854(安政元)年に、「日露和親条約」を結び、エトロフ・国後が日本領土と認めさせた。
 大分・日田代官所に勤務する父親の長男で生まれ育った。行く末は勘定奉行(現在の財務大臣)となり、ロシアとの外交交渉の日本代表(外務大臣)にまでなった。身分制度の厳しい中で、旗本の子だった勝海舟よりも、さらに出世したといえる人物である。

 川路聖謨著「長崎日記・下田日記」を読んでいて、くすくす笑ってしまった描写がある。面白いところを抜粋して紹介したい。

 その前に背景を知っておく必要がある。日米和親条約から、ちょうど一年経った頃である。長崎、下田、箱館が開港した。捕鯨船などが薪水で立ち寄ることを認めても、居住は禁止だった。

 条約の内容を十分に理解していないアメリカ商船のカロライン・フート号が、船員の家族ら11人を下田の玉泉寺に預けて、ロシアの傭船として出航してしまった。女性は船長の妻(35)、操舵手の妻(20)、商人の妻・ダハティ(23)である。ほかに子供たち。
 下田奉行は当然ながらカリカリくる。江戸表の幕府は怒る。しかし、強制退去をさせたくても、商船がいないので致し方ない。

 この頃、日露和親条約交渉が下田で行われていた。川路聖謨が最高責任者下田にやってきた。旅日記は誰しも、めずらしい見聞を書き記す。下田日記の後半になると、アメリカ人風紀がかなり多くなる。


・弁天島に参拝した折、境内にアメリカ人夫婦がいた。(川路の)伴の中間が持参していた床几を見て、この夫婦はめずらしがり、中間から借りめと、ふたりはいろいろしたし(坐ったり)、眺めていた。

・この婦人は、容貌美麗、丹花の唇、白雪の膚、衆人の目を驚かし、魂をとばす。

・アメリカ美人は、日曜日と申すに、黒襦子の衣服を着て、大造りのかみかざりをし、顏は人形遣いのごとく布(きれ)を下げ、装っている。ひょうたん型の三弦(ギター?)をひき、歌っている。人間の声とは聞こえず。されど異人は涙を流している。

・アメリカ人(軍艦?)上官が上陸してきた。遊歩(散策)中に、女湯を見て、ふし穴よりのぞき見ていた。

・今日、アメリカ人の美女をみるに、髪黒し。絹で編んだ頭巾をかぶる。瓔珞(ようらく)なるものを下げていた。腰の細きこと、蜂の如し。日本の女の半分もなし。肌は白きに誇りて、紗(しゃ)のごとき着物をきて、肌がみえることもある。

・アメリカ人の男が上陸し、女房と子供を並べ、眺めて愉しんでいた。(子どもの側で)女房の口を吸うので、番人の日本人は大いに驚いていた。

・船大将なのに、アメリカ美人の上着を持ってあげ、その女の首を抱えながら、白昼に、下田の町を遊歩する。(レディーファスト)国風とてみたり。

・玉泉寺に参り、アメリカ人より、立ちふる舞われた。境内のところどころ花をさし、魚とけだものの肉などを煮て、酒を出す。例の美女は、なり物にてさわぎ、踊る。夜四ツ(午後10時)より暁七ツ(午前4時)まで、踊りづめ。よくもくたびれないことだ。

・船が帰ってくると、夫婦は顔を見て、駆けより、抱き合って、いろいろ泣きくどき、人目を少しもはばからず、口を吸う。そのうえ、夫婦手を引きあい、一間の内に入り、戸を締めて出てこず。見るにたえず。

 
 アメリカ人の男女が白昼、堂々とキスしている。川路聖謨は驚き、奇異に映ったらしい。その瞬間の、川路の心理を読みとると、苦笑してしまう。
 一方で、アメリカ美人の賞賛などはイキイキした文章だ。美女を見つめる男の心理は、いつの時代も変わらないらしい。

 長崎言葉の「よかよか」が下田の異人たちに流行り、下田の勤番役人がなにかしら注意しようものなら、「よかよか」と言い、無視されると記している。


 
 

第12回「歴史散策」は台風接近の横須賀港

 こんかいの歴史散策は横須賀港だった。2014年7月10日は台風が接近ちゅうで、関東に達する進路予想だった。
 世話役は井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)で、数日前から、やきもきされたことだろう。

 作家やジャーナリストたちは、それぞれ予定が詰まっている。7人の日程調整はピンポイントだから、予備日はない。「雨でも、雪でも、台風でも、交通機関があるかぎり決行する」という当初からの方針だ。 

 台風の接近だが、かまわず同港の観光船に乗る。さすが軍港だけに波静かだった。

 写真(右から):井出さん、新津さん(ミステリー作家)、山名さん(歴史作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)、吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、清原さん(文芸評論家)さん、そして私(穂高健一・作家)を含めた7人全員が勢ぞろいした。

 日露戦争の日本海戦・旗艦「みかさ」の甲板で撮影。甲板下にいた若者をデッキまで呼び寄せて、「すみませんね」とシャッターを切ってもらう。


 京急汐入駅に集合は午前11時だった。 台風は九州から四国あたりに進んでいた。いちどは上陸したから、大型でも勢力が弱まりつつあった。
 当日の横須賀の予報は午前中が曇り、午後から雨だった。台風の速度はやや後ろ倒しになっていた。

 同駅前では、強風が傘や頭髪を巻き上げる。

「現地の船会社に問い合わせたところ、軍港めぐりは運航するということです。猿島のほうは中止となりました」と井出さんが説明してくれた。


 横須賀港は軍港だから、台風でも、波が立たない。港内には第7艦隊のイージス艦が接岸していた。1隻が1500億円もする。

 ディズニーランドが一つ作れる。

 戦争はまさに経済力だ。税金は使っても、人の命は使ってもらいたくないものだ。


 ヴェルニー公園には、日本海海戦の石碑などがある。

 和歌や俳句などの石碑もある。

 ヴェルニー記念館では、江戸時代に外国から入ってきた製鉄所の圧延機とか鋳造機がある。本物、模型、実演コーナーがある。吉澤さん、相澤さんが愉しむ。

 作家たちはみな文系だから、理論の吸収でなく、玩具のように遊んでいた。

 軍港めぐりツアーは事前予約が必要。台風にもかかわらず、すでに全部満席だという。

 横浜軍港めぐりは、最近、ずいぶん人気が出ているらしい。

 横須賀の軍港は、日本の海上自衛隊も使用している。

 潜水艦は横須賀と呉(広島県)だと、港内クルージングの案内係が放送していた。

 ちなみに、呉に行くと、リタイアした潜水艦の艦内なかに入れる。そんな説明はなかったけれど。

続きを読む...

信州・三郷から上高地に至る=大滝山・蝶ガ岳

 天保時代の信州を背景にした歴史小説を執筆のための取材に入った。7月27(日)、28(月)の2日間、安曇野側から大滝山・蝶ガ岳経由で、上高地に下る登山を行った。


 松本市にある「浅間温泉・山の会」が、飛州街道の約半分を歩く。長野選出の務台(むたい)俊介代議士も登るというので、私も同行させていただいた。

                                撮影:赤羽俊太郎さん(代議士秘書)

 務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である(写真・右から2人目)。そして登山中には文化・文政、そして天保時代の信州・歴史的な知識を授けてもらった。

 日本ペンクラブ・広報委員の新津きよみさんから、「務台代議士は、かつて松本深志高校で同じ英語研究会だったのよ」と聞かされていた。その面でも、親しみを覚えた。

                               撮影:赤羽俊太郎さん(代議士秘書)
 

 大滝山荘で一泊した。同山荘の関係者に不幸があり、山小屋の主は下山しており、務台代議士も弔辞を読まれるので、宿泊はなされなかった。

 
 7月27(日)は大半が雨だった。翌朝は雲海が眼下にあるので、ご来光がしっかり拝めた。


 飛州街道の歴史の道を歩く。山頂近くの池塘(ちとう)にはサンショウウオがいる、と聞かされた。確認はできなかったが、水が澄んでいた。

 飛州街道の道は当時と違い、一部が迂回している。昨日は雨が降り、ガマガエルが登山道に出ていた。2日目は朝のうち快晴で、高山植物が眼を楽しませてくれた。

「厚真温泉・山の会」の皆さんは、植物の名前をよく知っている。興味と関心度が違う、と感銘させられた。

 播隆上人が41歳の時、1826(文政9)年に、小倉村の中田又重の案内で、初めて槍ヶ岳を登頂した。
 ウェストン氏(上高地を紹介)が名高いために、槍ヶ岳初登頂と勘違いされている。播隆上人の知名度を上げないと、この誤解は根づいたままになってしまう。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」が世に出たけれど、結婚もしていない播隆上人が、若いころ一揆で妻を殺して出家したと記す。物語は面白くなるが、作家の良心として、これはやってはいけない。

 歴史小説も当然ながら創作が入る。過去のわずかな資料から膨らませるのだから。しかし、史実を極端に折り曲げ、人殺しで人的なイメージを壊す。著名・無名の作家を問わず、許される範囲があるはずだ。新田次郎氏はそれを逸脱している。
 なぜならば、多くの人は「歴史小説だから、史実に近いところで書いている」と信じ込むからだ。

 私は、そんな想いで槍ヶ岳を見つめていた。


 飛州街道を作ったのが、小倉村の中田又重だ。務台代議士の配慮で、その子孫がこんかいの登山に加わってくれた。道々に、新道づくりの説明を受けたり、資料を頂戴したりした。

 6尺(1.8メートル)の新道を延々と作る。それも北アルプスの標高2700メートルを越えたり、稜線伝いにだから、想像を絶する。私財をなげうった中田又重には、どんな信念があったのだろうか。
 歴史小説として、どこまで迫れるだろうか。
 
 中田又重のスケッチ図が残されている。よく似た顔立ちなので、写真を正面から撮らせていただいた。後日、再取材する予定である。

『二十歳の炎』がすごい=論説委員が、書評「著者に聞く」を書く

 中国新聞社は、ことし(2014)1月16日付で、「戊辰戦争と広島藩テーマ」「藩士 髙間省三の死に光」と大きく報じてくれた。
 私はまだ初稿の執筆中だった。
 同記事では、高間省三は福島県・双葉町に眠る。「放射線量が高い一帯は住民帰還が実現しない」町で、私が同町・自性院の墓地で手を合わせる写真を載せている。
 「3・11被災地・福島の墓を訪問」。広島護国神社の藤本宮司、同紙の岩崎論説委員と3人が、町教委の特別な協力でやっと実現したものだ。


 中国新聞社の文化欄で6月27日には、「二十歳の炎」が私の顔写真と、書籍の写真とで紹介された。
 この7月6日には、同紙の岩崎論説委員がみずから筆を執り、『著者に聞く』の欄で「二十歳の炎」の書評を載せてくれた。
 タイトルは「広島・福島 維新から続く縁」である。

 記事を抜粋しておきます。

『幕末維新を語るうえで、まず出てこないのが広島藩。その動きを本格的に負う小説は初めてだろう「封印されてきた歴史に光を当てたつもり。実在した藩士髙間省三に光を当てた。「神機隊」と呼ばれる農民隊を率いて戊辰戦争に加わり、福島県浜通りの戦場で満20歳の命を散らした』

『執筆は苦労続きだった。自宅のある東京から広島に繰り返し足を運んだが「どこにいっても原爆で焼失して資料はないと言われ……」。神機隊の生き残りを含む元藩士がまとめた「藝藩志」に、戦場の描写をはじめ当時の様子が克明に書き残されていたのに助けられた』

『「薩長、薩長土肥で討幕を成し遂げたというのは真実ではない。広島には平和な国を作ろうとした多くの優秀な人材がいた」。維新150年向けて地元で再評価の機運が高まり、埋もれた史料が掘り起こされるのを期待している』

『広島と福島の知られざる縁。主人公が戦死する「浪江の戦い」など小説のクライマックスの舞台は、原発事故から逃れた住民が帰りたいと願う古里に他ならない。「歴史に思いをはせることで福島の今、そして原発とは何かも考えてほしい」』


 論説委員は社説を書くのが主たる仕事。あえて、『二十歳の炎』の書評を書いてくださった。その理由については、岩崎論説委員はこう語った。

「いろんな見方 立場はあるとは思いますが、メディア界からすれば、単なる広島藩のローカルな歴史ではなく、「3・11」「フクシマ」と関係があるということでニュース性が際立つことが考えられます。好むと好まざるにかかわらず、その点をうまく生かせば、輪はさらに広がると思います」
 と『二十歳の炎』の今後に期待してくれている。


 なお、中国新聞の文化欄には「緑地帯」コラムがある。私は8回連載の仕事をいただいた。むろん、テーマは『二十歳の炎』の関連内容である。
 7月下旬あたりには紙上に出るだろう。

『二十歳の炎』がすごい=戊辰戦争・浜通りの戦いは歴史の新発掘だった

「二十の炎」の発売後、私の最も驚きは、福島・浜通りの戦いがこうも知られていなかったのか、また小説にすら書かれていなかったのか、という点です。


「幕末の広島藩の活躍は知らなかった」
 これは十二分に想定していました。しかし、戊辰戦争の浜通りの戦いが、まさかここまで歴史から消されているとは思ってもいませんでした。

 献本した南相馬博物館、相馬市教育委員会などは取材先にも関わらず、大切な資料として保管にしますとか、日本文藝家協会のパーテーで名刺を交わし、くちで「二十歳の炎」で説明したNHKエンタープライズ・ライツアーカイブスセンターの部長が購入してくださり、浜通りの戦いをはじめて知ったとか、メールをくださった。

 その一部を紹介させていただきます。


『早速に新刊を拝読いたしました。長編にふさわしく重厚な内容、今までにない幕末視点が新鮮で、薩長土と広島藩の関係がとても面白く、一気に読み進んでしまいました。
ここまでの物語を構築されるだけの取材力には頭が下がります。

広島藩執政の辻将曹、土佐の後藤象二郎の「動き」が語られるあたりはとても面白く、ああ、こういうことがあったのだ、と歴史の裏で渦巻く「人」の思惑が大乗小乗とりまぜて浮沈するさまが伝わると同時に、幕末史観が変わったように思います。

それらとは極めて対照的に高間省三ら神機隊の面々が純粋そのものといった行動力で突き進むのが爽快でありながら、しかし哀しい物語として胸に沁みました。

福島浜通が官軍と奥羽越列藩同盟との激戦地であったこともご著書によって初めて知りましたが、省三終焉の地が浪江であることは今日的にはとてもセンセーショナルな気がします』

 このように、メディア界の方すらも、「浜通りの戦い」が歴史の発掘として捉えてくださっている。


 他にも宮城・福島の出身者が「会津は知っているけど、浜通りの戦いを知らなかった」とおどろいている。……。知っていたという人に、私はまだ出会っていません。

 その面で、「二十の炎」が芸州広島藩と、浜通りの戦い、と二重の掘り起こしになったようです。髙間省三がだんだん立ち上がっていく、浜通りの戦いが世の中に知れ渡っていくでしょう。


 これまでの幕末史は、歴史作家の作り物の面が多々あります。一方で、敗者で消された歴史もあります。歴史作家はそれを起こすのがしごとです。
「二十歳の炎」が史実・事実による展開から、「戊辰戦争の浜通りが、官軍と奥羽越列藩同盟との最大級の激戦地であった」と歴史教科書が書き換えられる、その役目を担うだろう、と考えます。

『二十歳の炎』がすごい=中国新聞・文化面で紹介

 中国新聞の文化部で、「広島県大崎上島出身の穂高さん「二十歳の炎」と題して、作品を取り上げてくれた。「広島の幕末史 藩士生き生き」と表記されている。

 戊辰戦争で若くして命を落とし、東日本大震災の被災地に現在も眠る旧広島藩士を主人公にした歴史小説「二十歳の炎」が刊行された。~中略~。主人公は高間省三で、藩の学問所の助教を努めた人物だ。倒幕の内乱では、農家の志願兵らで結成した「神機隊」の砲隊長に就き、新政府軍の一翼として、激戦地の東北へ。現在の福島県浜通り地方で、有利な戦いを繰り広げながら、浪江の戦いで銃弾を浴びて絶命した。
 ~中略~。
 小説では、若き省三の姿がリアルに浮かぶ。正論をぶちつけ、戦い方も強気。同じ神機隊員が後年まとめた、藩の記録「藝藩志」が礎になったという。
 こうした文献調査から、広島藩が瀬戸内海の要港・御手洗(現呉市)で長州や薩摩、土佐の志士と密議を交わし、大政奉還に絡むなど、時代の変革に深く食い込んでいた実態をあぶりだしていた。

 全体をまとめたうえ、私が広島や福島第一原発で帰還困難区域の取材してきた過程を紹介している。

 記名記事なので、文化部の林淳一郎さんと電話で語り合った。「二十歳の炎」のなかで、第15章「子供を大事にしてやれ」で取り上げた『戊辰戦争余話』(大熊町史)にふれられていた。

 若い母親が、煮え立った鍋で子供を火傷させてしまった。官軍が来るぞ、山に逃げるぞ、といわれても、若い母親は、泣き叫ぶ子を連れていけば、敵に居場所がわかってしまうと言い、逃げなかった。「官軍は鬼だ。若い女に何するか、解らないべ」と父親が執ように誘うが、彼女は断った。

 翌日、大砲が聞こえた。官軍がやってきた。そして、兵士たちが裏手の井戸で水を飲んでいた。若い母親は仏殿にむかって拝んでいた。兵士の1人がこちらに気づいた。
「おんな、なぜ逃げない」
「この子が火傷したから」
「おまえ偉いな、子どもを看るために残ったのか」
 兵士は仏壇を見て、一向宗か、おれもそうだ、久しぶりだ、拝ましてくれ、と汚れた手を合わせた。
「もう兵隊は行った、心配するな。子供を大事にしてやれ。戦争が終わったら、おれも安芸の国に帰る。では、達者でな」
 と立ち去っていった。
 母親は涙が出て止まらなかった。

 現地で拾った逸話だが、他にはなかったですか、と林淳一郎記者に聞かれた。
 取材をはじめた時から、福島県の人たちは、
「えっ、浜通りでも戦争があったんですか」
 と驚かれたほど、現地の人すら、会津戦争だけだと思っているようです、と説明した。
 でも、『戊辰戦争余話』(大熊町史)のような、エピソードが掘り起こせば、まだあるでしょう。維新150年ですから。

『子供のころ、路傍の石に小便していたら、バカ者、とお爺ちゃんに怒られた。相馬藩と仙台藩の戦死したお侍さんが眠っているんだ。官軍は墓を造れたが、わしらの先祖は路傍の石だったんだぞ』
 老人がそんな記憶をよみがえらせてくれました。紙面の関係で、それは「二十歳の炎」には載せませんでしたけれど、と説明した。

 福島の人たちは、官軍の兵士の墓に、いまだ花を添えてくれたり、3.11で倒壊してひび割れた墓を修理してくれたりしている。これには頭が下がる思いだった、と林記者には語った。

「二十歳の炎は一気に読みました。後半になると、高間省三は死ぬとわかって読んでいるだけに、ページが少なくなっていくのがもったいなかったです」と林さんは話されていた。読み終えて、奥さんにも勧められたという。

 地元・広島の記者すらも、幕末広島藩史について、ここまで広島の活躍の認識はなかったようだ。「二十歳の炎」は既成の歴史作品にとらわれず、広島藩からの史料・資料で書き上げた。それだけに、小説とはいえ次から次へと「新発見」が展開されるので、「これはすごい」と反響が大きいのだろう。
 
 

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集