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「二十歳の炎」が「東都よみうり」で紹介=幕末史の視野を広げる1冊

『東都よみうり』は、隅田、江東、江戸川、葛飾、港区台場など20万世帯に配布される。毎週金曜日。同紙が10月17日号で、幕末歴史小説「二十歳の炎」を取り上げてくれた。
 タイトルは「幕末史の視野を広げる1冊」である。幕末の動乱のなかで、命を散らした広島藩士を主人公にした小説がこのほど出版された、と書き出す。

『幕末といえば、薩摩、長州、土佐、徳川家、会津などを時代を時代の主役に据えた物語が多いが、それ以外の地域や人々が決して時代のうねりと無縁で生きていたわけではない。この小説を読めば、そのことに気づかされる』
 このような講評などが盛り込まれている。

 同書はいま広島で、中国新聞、広島護国神社、修道高校、および関係者が推してくれている。漸次、拡大している。
 髙間省三を全国で知ってもらうために、メディアを通じた首都圏の販路拡大が課題である。その一歩が踏み出せた。

 当日、よみうりカルチャー金町から、「文学書を目指す小説講座」の新規申込者が複数ありました、と案内がきた。おなじ「よみうり」系列だけに、反応が早いな、と思わせた。

 かつしか区民大学の受講生に、同区・葛飾鎌倉図書館の女性職員がいる。彼女も同新聞の記事を読んでいた。
「幕末史に興味をもった住民の方々向けに、図書館内で講演してあげましょうか」
 と提案すると、喜んでもらえた。
『東都よみうり』の縁から、即日に、次なるステップへと歩み出した。

「神機隊と髙間省三」の講演をおこなう=広島・海田町

 10月8日、広島県・海田公民館で、「海田郷土文化研究会」の主催で、「神機隊と髙間省三」について講演を行った。13:30から2時間。
 その発端は、ことし(2014)8月30日から始まった中国新聞・文化「緑地帯」のコラム「広島藩からみた幕末史」の連載だった。8回目の最後の記事は、
「修道学園には原爆投下前の学校疎開によって、頼春水、山陽父子以来の広島学問所の史料が保存されている。神機隊の子孫の家には従軍日記などが残っている可能性が高い。広島はこれから幕末史料の宝庫になるかもしれない」と結んでいた。

 
 同研究会の土本誠治さん(後列・左端)から、「神機隊の日記があります」と同紙の文化部に情報が寄せられた。そして、記者から私に連絡があったので、土本さんとコンタクトをとった。
「会のメンバー(出野さん・前列・右から3人目)の、曾お爺さんが神機隊隊士の堀田幸八朗さんです。その従軍に日記が現存しています」
 新聞で予想したことが、まさに的中したのだ。
 
 「二十歳の炎」の取材では、「海田町ふるさと館」の青木義和さんにお世話になった。そんなお話から、「海田郷土文化研究会」に招かれたものだ。

 神機隊の本陣があった志和町の取材で、協力してくださった吉本さん(前列・右から2人目)もいらしてくださった。再会が懐かしかった。

 講座の前に、桐箱に入った『堀田幸八朗・従軍日記』を拝見した。「二十歳の炎」で福島・浜通りの戦いがはじまった、久ノ浜(いわき市)から記載されていた。和紙で丁寧に書かれている。

 神機隊は農兵とはいえ、入隊時に苗字・帯刀を許される武士扱いになる。だから、庄屋を通して、勉学と武術ができる優秀な人材の推薦をもとめた。堀田日記はまさに学力の高さを示すものだ。

 1行ずつ読んでみると、目のまえに戦場が浮かぶ。髙間省三は浪江の戦で死んだ。「堀田幸八朗・従軍日記」は相馬・仙台藩が熾烈な戦いを行う、駒ケ岳の戦いや仙台城に凱旋の入城から、帰路まで書かれていた。
 大変貴重なものだ。

 その日記も参考にさせてもらいながら、「二十歳の炎」の描かれた2年間について語った。そして、質疑応答では、神機隊の本拠地・志和の方も出席しており、数々の質問があった。
「木原秀三郎をもっと描いてほしかった」という声もあった。神機隊の生みの親だから、その想いが強いのだろう。ただ、木原は従軍する前に、広島藩に呼び戻されているので、そこらは触れていない。

 広島護国神社の筆頭祭神・髙間省三は、広島藩きっての秀才だった。「子孫はどうなんですか」という質問があった。省三は戦死したが、実弟の子どもは海軍中将でした。さらに追うと、東大・物理学者ですが、私は取材していません、と答えた。

 省三の子どもを産んだ「綾」についても質問が出た。広島護国神社に綾の和歌が3通残されている。子孫の方が東京に在住し、仏間には「二十歳の炎」の表紙と同一写真が遺影として飾られている。
「綾の子(女子)の子孫だ、間違いないと確信を持ちました」と話した。

 語る方も、聞く方も、有意義な時間だったと思う。

 
 

 

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(下)=岩岡伴次郎と飯島善三

 ことし(2014)8月には、飛騨高山市の市史編纂室の学芸員を訪ねた。飛騨新道が小倉村から神河内まで出来た。そのさき飛騨まで、なぜ7年間も新道掘削の許可がなされなかったのか。その背景を知らずして、小説は書けないと思った。
 飛騨郡代の職域を聞いた。幕府の勘定奉行の直轄下にあった。その権限は強く、実石20万石以上があり、大大名に匹敵していた。

 飛騨郡代は、勘定奉行の直轄にあったと知った瞬間、
「これだと、小さな松本藩も、まして庄屋も手も足もでないな」
 とすぐさま理解できた。
 実際に、松本藩は小藩だし、郡代の足元にも及ばず、新道共同掘削などつよく申しできなかったようだ。
 むしろ、7年にして、よく許可が下りたな、と思った。

「飛騨代官、郡代のうち、19代の大井帯刀永昌(ながまさ)が、最も好かれた人物でした」
 学芸員からそう聞いて、幸運だったな、と思った。


 新田次郎著「槍ヶ岳開山」で、庄屋の伴次郎と、農夫の又重郎を並列に置いているのは、かなり違和感がある。

 播隆上人と道案内役の又重郎が槍ヶ岳に登った。それは間違いない歴史的な事実。庄屋の岩岡伴次郎と、農夫の又重郎がふたりして、飛騨新道許可(上高地から飛騨の間)を求めて、本覚寺の椿宗(ちんじゅ)和尚に頼みに行った、と物語は展開する。

 寺の住職は寺社奉行の管轄であり、飛彈郡代に影響を及ぼさない。もし、僧侶が大名格の飛騨郡代に直訴すれば、重罪だった。(1770年代の飛騨・大原騒動で、郡代の施政に口出しした僧侶や神官は死罪になった)。かれらが椿宗和尚に頼むことは、死を覚悟させることであり、あり得ないだろう。大原騒動は上宝村が中心の一つだから。

 さらに、庄屋と農夫とでは、身分の差がありすぎる。新田氏は、庄屋の機能をあまり掌握していなかったのか。あるいは史実が判らず、想像で埋めてしまったのか。
 故人になったから、もはや聞きようがないけれど。


「森を伐り開いて、どのような工法で牛馬が通れる山道が造れるのか」
 小説で新道作りの技法を描くとなると、私には知識がない。そこで、岩岡さんに訊ねてみると、新道の開削技術に関連した資料が焼失しているので解らないという。


 岩岡伴次郎と飯島善三にはしっかりした共通点が見いだせる。幕末と明治初年と、多少の年月のずれはある。しかし、安曇野と信濃大町は隣り合っている。
 北アルプスを越える新道づくり。その掘削技術はほぼ同じだろう。となると、10年前の飯島善三取材が、いまや伴次郎史料の不足を補ってくれる。

「善造は北アルプスの新道現場に何度も出向いている」
 庄屋は多忙だ。伴次郎も当然ながら、時おり、飛騨街道の新道現場に出向いていただろう。実際に道路を作っていたのは、開削技術を持った黒鍬職(くろくわしょく)に依頼していたはずだ(請負業)。

 現代の文献を見ていて、大名や藩がからむ「御普請」制度をあまり理解していないのではないか、と懐疑的になる。松本藩が飛彈新道に対して、ある割合で費用分担している。これは「御普請」である。
 松本藩(役所)を窓口とした請負契約が必要となる。現代でいえば、請負はゼネコン(黒鍬職)である。江戸時代の行政のやり方が、現代に通じている面が多々ある。行政が金を出す決定となると実に長いが、一旦、予算が下りると、工事は短期に仕上げる技術がある。


 工事を請け負ったゼネコン(黒鍬職)は測量や土木技師や監督官をだす。村人は一般に特殊技術がないので、単なる手間賃の労働者だ。飛彈新道が「御普請」である以上、小倉村の農夫だった又重郎(播隆上人筆『槍ヶ岳略縁起』の表記)は、道路人足、単なる下働きだった可能性が高い。むしろ、そう考える方が自然だ。

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北アルプスの新街道に情熱をかけた人(中)=岩岡伴次郎と飯島善三

 北アルプスは登るだけでも難儀だ。そこに街道を通す。難工事がかんたんに想像できる。

 信濃大町の大きな庄屋・飯島善造は、信濃大町から針ノ木峠(標高約2800m)を越え、黒部川に橋をかけ、立山(標高約3000m)を越え、富山まで道路を完成させた。幕末期から計画を立て、明治に入ると、松本藩と富山・加賀の双方に許可をとった。
 緻密な計画と設計と、膨大な人員の投入で2年間で完成させた。新道は越中から牛馬で塩を運ぶ道となり、日本初の有料道路だった。

 しかし、冬場は雪崩や土砂崩れで、メンテナンス費用の調達が難しく、完成からわずか2年で廃道に追い込まれた。そして、飯島家は破産してしまった。
 それから150余年が経って、新たに黒部アルペンルートとして蘇(よみが)えってきた。いまは立山、針ノ木峠はトンネルで抜けられる。

 私が今から10余年前に、長野県大町市の飯島善造りの子孫に取材した。電話で取材を申し込んだ当初、御主人は電力ダムに勤務する技術屋だった。

「私は歴史はなにもわからないんですよ。養子にきた善造が、新道作りで庄屋を破産させて、座布団が数枚しか残らなかった、という言い伝えしか聞いていません」
 と拒絶された。
 そこは厚かましく粘り、あえて大町市の自宅にお伺いした。

 1時間ばかり夫婦の話に耳を傾けた。電話の通り、なにも新しい情報がなかった。ほぼ雑談だった。
「納屋の奥に、むかしから長持ち(約1.2m)が2つありました。何が入っているか、知りません。子どもの頃から明けたことがありませんし。作家の方がくるので、とりあえず、別室に出しておきました」
 と案内された。

 長持ちを開けてビックリした。アルプス越えの新道開削の資料がびっしり詰まっていたのだ。設計図、人足の延べ人数、黒部川に架けた橋の設計図。富山側からの掘削の費用や延べ人員。さらには新街道に沿った旅館開業や宿賃、通行券、各種の看板の資料が目一杯詰まっていた。
 さらには江戸初期の検地の史料までも残されていた。

「150余年、密封された長持ちを開けて、空気に触れてので、専門家による保存をする必要があります」
 私は子孫の方と、その日のうちに、「大町山岳博物館」に出向き、学芸員の方に事情を説明し、文化財として保護をお願いした。
 数か月後、520点余りが大町市の指定文化財になりましたと連絡がきた。その新聞発表の記事が私のもとに送られてきた。無事保管で、安堵したものだ。

 歴史小説の取材をしていると、随所で、思わぬ発見がある。過去の作家が知りえなかったと思うと、灌漑を覚える。
 飯島善三の史料は私の経験のなかで、最大の発見だった。

北アルプスの新街道に情熱をかけた人(上)=岩岡伴次郎と飯島善造

 江戸時代には偉人が多い。一つの目標に人生をかける。命をかける。
 歴史小説の取材をしていると、それら偉人が思わぬところで結びついたりする。信州の庄屋・岩岡伴次郎が造った飛彈新道と、大町の庄屋・飯島善造が作った「信越連帯新道」だ。ともに北アルプスの2座を越える、大工事だった。
 完成後、ともに自然の威力に負けて廃道になり、波乱に満ちている

 岩岡伴次郎の新道から紹介しよう。
 文政3(1820)年から天保6(1835)年にわたり、信州(長野県)の安曇~上高地~飛騨(岐阜県)の飛騨の上宝村を結ぶ、飛騨新道(別名・伴次郎街道)が作られた。
 伴次郎は二代にわたり長い歳月をかけて新道を開削した。そして、上高地に湯屋(旅館)を開業した。ここから問題が起きた。肝心の飛騨側の工事許可が取れなかったのだ。
 飛騨は幕領で、郡代(勘定奉行が任命した者が江戸から赴任する)が為政者だった。実質、20万石以上を支配する。
 郡代がなぜ7年間も許可を出さなかったのか。そこが小説的な好奇心だった。調べるほどに、飛騨の18年間に及ぶ悲惨な百姓一揆「大原騒動」が、底流においてかかわっていた。
 第19代郡代・大井帯刀永昌(ながまさ)は、歴代の郡代のなかで、とくに有能だった。松本藩と連帯で、幕府に自責で申請したのだ。

 岩岡伴次郎(英棟)、2代目・英総、3代目の英勝たち3代は、約41年間にわたり北アルプスに情熱をかけた。命を懸けたといっても、決して大げさではない。
 完全開通から26年間が経った。飛騨新道は暴風雨で破損し、通行不能となった。文久元年(1861)年には新道の歴史に終止符が打れたのだ。

 ことし(2014)9月30日に、伴次郎の子孫である岩岡弘明さんを訪ねた。かつて3代にわたる資料が行李(こおり)2個があったらしいが、火事で消滅したと話す。
「このままでは、岩岡家の歴史が消えてしまう」
 そう考えた弘明さんは、関係者の証言や資料を収集し、限定私家版『飛彈新道と有敬舎』を出版されていた。
 筆者のひとり植原脩市さんも、この日、同席された。飛騨新道と播隆上人(槍ヶ岳初登頂)について、私が用意した質問に数々応えてくれた。

 播隆上人は北アルプスの名峰・槍ヶ岳を初登頂し、信者たちが登れる山にした(開山)。「播隆を最も支えていたのが、野沢村の務台家ですよ」
 弘明さん、脩市さん、ともに口をそろえていた。

 歴史小説では、岩岡家3代の波乱万丈の生き方、山に対する情熱と、播隆とは深い人間な関わりをもった務台家を立ち上げていく執筆をしたい。

写真:植原脩市さん(左)、岩岡弘明さん(右)

                                     【つづく】

2人の大正演歌・歌手に出会う=岡大介、神川仁

 かつしか区民大学の『区民記者養成講座』は、記事の書き方、報道写真の撮り方、取材の仕方を3本柱としている。2014年度の同講座の5回目で、課外活動「取材の仕方」だった。9月7日、東京理科大学葛飾キャンパス(同区・金町駅より徒歩8分)で開催されていた『第30葛飾区産業フェア』に出むいた。活動時間は10時~16:30まで。

 
 東京理科大学での同フェアは初めての試みである。
 テント村で、受講生がまず取り囲んだのが、「ノンキ節」を歌うカンカラ三線の大正演歌歌手の岡大介さん(36)で、「船頭小唄」など歌っていた。三線じたいがとてもユニークで、受講生の目を惹いたらしい。


 受講生のインタビューがはじまる。
「カンカラとはなんですか?」、
「業務用の豚肉を詰めた缶詰の、空き缶です。手作りで作りました」
 岡さんは三線のボディーを指して説明する。

 受講生が経歴を聞く。岡さんはかつて流しギター歌手(ストーリー・ライブ)だった。新宿とか、葛飾では亀有の飲食街を流していたと話す。
「オッペケペー節」で一世を風靡(ふうび)した川上音二郎(かわかみ おとじろう)の大正演歌に魅させられ、26歳で、この道に進んだ。


 ギターで大正演歌は歌えない。いろいろな楽器でチャレンジしてみた。カンカラ三線にたどり着いた経緯について、
「沖縄の小学校で、児童が手作りで、このカンカラ三線を作っているのを見たのです。これだと思いました」
 弦はパラシュートの糸を使った。岡さんは沖縄の素朴な楽器を、プロの音楽界に持ち込んだ。それが人気となった。

 この独創性の楽器と美声が買われて、
「現在では浅草木馬亭をはじめとする、都内の演芸場、イベント出演など、年間350を越えています」
 と岡さんは語る。つまり、毎日、どこかで大正演歌で、観客を魅了している。

「大正時代の古き、良き曲を今に伝えたい」
 岡さんは活動への熱意を語った。

 
【関連情報】

HP:岡大介のお酒のめのめブログ
 

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中国新聞『緑地帯』のコラム、「広島藩から見た幕末史」連載はじまる

 私が執筆する「広島藩からみた幕末史」が、コラムとして、中国新聞・文化欄『緑地帯』で、8月30(土)から掲載される。2回目は9月3日(火)からで、8回連載である。

 幕末歴史小説「二十歳の炎」がことし(2014年)6月に発刊された。作品の趣旨、執筆の動機、取材のプロセス、幕末史の捉え方など、作品の背景となるものを記している。

 第1回目の書き出しだけを紹介すると、

『江戸時代の260年間、日本は戦争をしなかった。しかし明治時代に入ると、10年に1度は戦争をする国になった。広島、長崎の原爆投下まで77年間も軍事国家だった。外国から、日本人は戦争好きな国民と思われてしまった。
 誰がこんな国にしたのか。さかのぼれば、幕末の戊辰戦争に行き着く。大政奉還で平和裏に政権移譲したのに、戦争が起きた。日本史の中で最も分かりにくい。民主的な政権ができた後、薩長の下級藩士による軍事クーデター(鳥羽伏見の戦い)が起きた―とはっきり教えないからだ。~』

 と展開していく。

「二十歳の炎」は、地元の中國新聞、髙間省三を筆頭祭神に祀る広島護国神社、学問所の伝統を引き継ぐ修道学園など関係者が強く推してくれている。
 広島の書店も平積み同様に扱ってくれているところが多い。また、取材先関係者を通して、口コミで広めてくださっている。東京広島県人会なども。
 多くの読者がアマゾンのプレビューにも、書き込んでくれている。

 広島はことし何かと話題になっている。音楽家の不祥事、広島カープの活躍、広島市内の土石流災害、崇徳高校・野球部の50回延長戦とか。

 広島藩からの幕末に絞り込んだ歴史小説は、きっと初めてだと思う。読めば、これまで多くの歴史作家が無理してこしらえてきた、幕末史観が変わると思う。虚像の多さには唖然とするだろう。

 多くの作家が維新志士の美化に夢中で、その後の軍事国家をつくった危険な思想の持ち主だったという批判もほとんどなされていない。かれらは「誰がこんな軍事国家にしたのか」、という人物につながっているのだ。そんな思いのコラムである。

 幕末・広島藩が、二十歳で死んだ髙間省三を通して、世間一般に知れ渡り、正しい歴史認識になることを期待している。
 中国新聞はそれを理解してくれたから、執筆の最中の1月、書籍紹介の6月、「作者に聞く」の書評の7月、さらにはこの8月からのコラムと紙面を割いてくれたのだ。

「作家の文章は、それ自体に著作権がありますから」
 文化部の記者は、私の思い通りに書かせてくださった。

江戸時代に、槍ヶ岳に鎖がつけられたのか~=播隆上人を訪ねる

 江戸時代には、日本で鉄鎖が作れなかった。その技術がなかった。
 日露和親条約の締結にきた、プチャーチン提督の乗ったディアナー号が、1853年の東海大地震の大津波で大破した。下田から修理のために、伊豆半島の付け根にある戸田(へた)港に曳航中に、富士山の吹き下ろしの突風に遭い、沈没してしまった。

 私は今、それを素材にした歴史小説を執筆中である。
 一方で、天保の信州の歴史小説を書くために、長野と飛騨(岐阜)の両面から取材している。安曇野、飛騨高山、奥飛騨と8月18日-20日まで出むいた。(写真・飛騨高山の陣屋跡)
 ふたつの作品が妙なところで結び付いた。

 501人のロシア人を帰国させてやりたい。老中首座の阿部正弘は、戸田で新造船を作らせてやる、と決めた。このときのドラマがある。
 水戸斉昭は攘夷(じょうい)論のかたまりで、「元寇以来の神風が吹いた。ロシア船を沈めてくれたのは、神の思し召しだから、500人を皆殺しにしろ」と正弘に迫った。

 それは国際信義に反すると、御三家の意向を突っぱねた。

 斉昭はこんな狂気の思想だった。「尊王攘夷」の提唱者で、生みの親だ。なんでも薩長で、尊王攘夷が正しい、と思っている人のなかには、斉昭の崇拝者すらいる。
 攘夷とは問答無用で砲撃してしまう戦争理論であり、下関の四カ国砲撃、薩英戦争などにつづいた。第二次世界大戦までも。

 江戸時代のヨーロッパの軍艦には、船体が砲撃された時でも自前で修理できるように、造船技師や設計者が多く乗り込んでいる。母国への道を閉ざされたロシア人は、戸田で建造をはじめたのだ。

 狂気の斉昭を相手にしなかった阿部正弘は、全面協力で、木材、鉄材、銅、むろん人手も含めて最大に協力した。
 黒船来航の時代で、鉄が重要である。江戸から東海道筋の鍛冶屋が、幕府の命令で、戸田に集められた。現地では、鍛冶屋小屋の設備も作った。

 ロシア海軍だから、当時の様子が克明に記録されている。日本の大工は器用で素晴らしい、と讃えている。ただ、鍛冶屋の腕前は旧態としていたようだ。

『船首から鎖(くさり)を下ろし、錨(いかり)をうつのであるが、鉄の輪を製造することは、日本の技術と戸田村の施設ではとうてい不可能で、船の用材として用いた木の根を焼き、「木タール」を作り、これを麻縄に浸透させて「タールロープ」を作り、これをもって代用した』

 幕府が集めた有能な鍛冶屋でも、鉄鎖(チェーン)は作れなかったのだ。それからさかのぼること、1/4世紀(25年前)に、播隆上人の頃、日本で鉄鎖ができていたと思えない。その考えすらも、ありえたか否か?

 私は、できるだけ歴史的な事実に立脚した作品を書きたい。それが私のポリシーである。

 新田次郎著「槍ヶ岳開山」とか、穂刈貞夫著「槍ヶ岳開山」とかがある。作家の勘で、これはあやしいな、調べてみよう、と思うものが出てくる。

 播隆上人の初登頂は素晴らしい。だから、より事実で書いてあげたい。信州側を取材していくと、庄屋の家書には「天保の凶作で、稲が取れなかった。播隆上人が槍の穂先に使う、縄を分けてほしい、と言われたので、一昨年の古いのしかなく、それを差し上げた」と記録に残っていた。
 古い藁でも、ありがたがる播隆上人の姿がより鮮明になってくる。これぞ、あるべき人間の姿だろう。

 しかし、多くの作品は、この後、播隆上人は槍穂に鉄鎖をかけるために、各地を回り、鍋、釜など鉄類を集めてきた。松本藩に鉄鎖を差し止められた。播隆上人の死後に、念願の鉄鎖が槍穂にとり付けられた、と記す。

 幕末の造船技師の大尉や少尉たちが、指導しても、日本人は鉄鎖が作れなかったという事実がある。これに照らし合わせると、播隆上人が鉄鎖の発想をもちえたのだろうか、という疑問になる。
 鉄の輪は一見安全ではあるが、一か所でも外れると、人命にかかわるものだ。拙劣な鉄鎖は付けられない。

 ある書物には、播隆上人のかけた鉄鎖が何者かに盗まれたとある。こうなると、裏付けを消す、虚構の世界になる。
 
『開山暁播隆大和上行状記』(通称・行状記)は明治26年に世に出た。播隆上人の死後、約半世紀以上もたっているし、棚橋智暁→岡山隆応→漆間戒定へと執筆が委託されている。3人の手を回って書いているので、フィクションも加わってくる。小説と同じスタイルになりがち。歴史の真実が曲がったする。

 行状記には疑問の所が随所にある。たとえば、播隆上人の道案内役は中田又重郎となっている。

 江戸時代は庄屋でなければ、名字帯刀はもらえない。又重郎は庄屋ではなかった。松本藩の資料にも、庄屋として存在しない。中田又重郎ではおかしい。
 行状記が史実とするならば、小倉村又重郎、と正確に記するべきだ。

 播隆自身は「槍嶽畧縁起」でどのように表記したのかと、原文を調べてみた。『農夫又重郎』だった。播隆自身の表記にするべきだった。

 歴史小説の執筆は、ちょっとした疑問から、途轍もなく真実に近づくことがある。だから、時間もかかる。権威者・著名作家の名に惑わされない。どこまでも、歴史の真実を掘り起こしていく。それが私の仕事だ。

 

『読書の秋に読もう・推薦図書』 南太平洋の剛腕投手=近藤節夫

 旅行作家兼エッセイストの近藤節夫さん(日本ペンクラブ会員)が、初のノンフィクション作品『南太平洋の剛腕投手』を刊行した。サブタイトルは「日系ミクロネシア人の波瀾万丈」である。発売日は8月18日。出版社は現代書館で、1600円+税。

 作品は昨年来から取りかかっていたもの。主人公はススム・アイザワ(相澤進)で、日本人の父と、旧トラック島(現ミクロネシア連邦)酋長の娘との間に生まれた。戦中・戦後に父の故郷・藤沢市で、彼は逞しく成長した。そして、プロ野球投手として活躍した。
 その破天荒な生涯を描いている。

 ススムはプロ野球を辞めた後、トラック島へ帰島し、大酋長となった。実業家として成功した彼は、島のため献身的にボランティア活動に携わってきた。当然ながら、島民から広く尊敬を集めた。

 作者の近藤さんは、親の代から交流のある森喜朗元首相、そしてプロ野球の元チームメートだった佐々木信也氏と、ふたりの友情の絆を同書で扱った。それだけに、奇想天外のドキュメントだともいえる。

  30数年前、作者はトラック島で大酋長と初めて会った。ススムは行動力のある魅力的な人物であった。一方で、謎をはらんだ言動の多い人物だった。そのミステリアスな点についても、証言、風評を交え、取り上げてている。

 偶々大酋長がすでに鬼籍に入られていると知った。
「もうあのカリスマ的な風雲児に会えないのか。そう思うと無性に寂しい気持ちに捉われました」
 近藤さんには懐かしい気持ちが湧き上がった。大酋長の生涯を二つのふるさと・旧トラック島と湘南地方を背景に描いてみたくなったのです、とペンを執った動機を語る。

 『南太平洋の剛腕投手』は江ノ電沿線新聞社が、湘南地方、とりわけ江ノ電沿線に住民に読んでもらいたいと、座談会を催している。
 佐々木信也さんは、湘南高校時代に甲子園初優勝を成し遂げている。ススムの親戚の藤沢市商工会議所副会頭・相澤光春さん、そして佐々木氏の母校後輩となる筆者の近藤さんがトークを行った。座談会の内容については、「江ノ電沿線新聞」9月1日号に掲載される予定である。


  【著者の刊行案内から、取りまとめました】


【作者・プロフィール】

 東京・中野生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。学生時代に60年安保闘争、ベトナム反戦運動に参加した。
 学生時代・サラリーマン時代を通して、紛争地や戦地に200余り渡航している。訪問国は70数か所になる。
 著書として
『現代 海外武者修行のすすめ』(新風舎)
『新・現代 海外武者修行のすすめ』(文芸社)
『停年オヤジの海外武者修行』(早稲田出版)
 共著として
『知の現場』(東洋経済新報社)
『そこが知りたい 観光・都市・環境』(交通新聞社)

【推薦図書】 Kindleサイズ「短編集 半分コ」=出久根達郎

 Kindleサイズの紙の単行本とは考えたものだ。持ち運びが良い。満員電車でも、簡単に読める。なにしろ流行の先端を行っている。
 液晶画面でなく、紙面で読める。あらたな読者層を広めるだろう。


 出久根達郎著「短編集・半分コ」が三月書房かせ出版された。定価は本体2300円である。

 Kindleサイズの出久根さんのアイデアか。それとも出版社か。後者ならば、編集か、営業か。そんな興味もわいてくる。ご本人に訊いてみたいが、想像にとめておこう。その方が楽しい。
 
 直木賞作家で、現代では第一人者の短編小説集だ。軽妙に手軽く読める。気にいった題名から読めばいいだろう。

 人生半ばを迎えた主人公たちが、ふと過ぎし日を想う時、その何気ない言葉やしぐさに心の内を垣間見る。……どこか懐かしく、そしてほろ苦い16の小さな物語。

 『掲載作品』
    半分コ
    饂飩命
    赤い容器
    母の手紙
    十年若い
    お手玉
    空襲花
    符牒
    紀元前の豆
    名前
    薬味のネギ
    校庭の土
    こわれる
    腕章
    桃箸
    カーディガン     

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
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