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祝「山の日」記念全国大会の第1回・開催地が決定=長野県・上高地

 国民祝日「山の日」が衆参の国会を通過し、法案が可決したのが、昨年(2014)の5月28日だった。施行は2016年8月11日である。

 実施まで、約2年間において、国民が親しめる祝日として、全国「山の日」協議会(会長・谷垣禎一)を中心として、山岳団体、官公庁主催がこの祝日の意義をつたえるイベントを展開している。


 今年度(2015)は、東京・有楽町の国際フォーラムで、全国「山の日」フォーラムが開催された。2日間の総入場者数は約1万8000人で、盛況だった。特徴としては、最近は「山ガール』ブームであり、それを反映した若手登山愛好者の参加が目立った。

 全国「山の日」協議会の平成27年度総会が、5月23日から、衆議院議員第2会館の多目的会議室で、16時30分から開催された。
 今年度は、大分県・九重町で、プレ「山の日」記念、全国大会を開催することになった。

 衛藤征士郎(えとうせいしろう)さん(大分県選出・第64代衆議院副議長)とは、国会内の初映画試写会に招かれた縁である。プレイ「山の日」は伺いますよ、と言うと、ぜひ来てね、と握手された。


 2016年「山の日」記念全国大会の開催は、富士山か、上高地か、と意見が二分していた。5月28日の協議会の審議を通して、長野県・上高地に決まった。

 第1回の記念・全国大会に関する要望書が、阿部守一・長野県知事、菅谷昭・松本市長、上條敏昭・松本市上高地町会長から、同協議会に提出されていた。それが可決されたものだ。
 富士山となると、山梨、静岡、どちらが主体になるか。むずかしい調整があり、場合によると2県に分散した大会にならざるを得ない。それを避けた面がある。

 真夏の上高地は若者、家族連れ、槍穂への登山者が大勢集まる。全国に名高い。これらで、団体代表41人、個人13人(わたし穂高健一も個人会員)、合計54人による満場一致で決まった。

 私個人としては、来年8月11日の祝「山の日」にむけた、歴史山岳小説を取材・執筆している。その小説は槍ヶ岳登山、幕藩体制の下で安曇平と飛彈との間に、天保時代にできた「飛州新道」が背景のひとつである。
 
 主人公は、18歳の「湯屋」(旅宿)の知的な女性・岩岡志由である。豪農の4女の彼女が上高地の一軒家に入るのだ。幕藩体制(飛彈・信州)が、上高地の山奥にもつよく影響してくる。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府の圧力で飛騨新道は閉鎖される。志由は山を下りていく。江戸時代の上高地はここで一度歴史から消える。


 単に山の小説に閉じ込めず、天明天保は大飢饉に襲われた。一方で文化文政の華やかな旅ブームだった背景を織り込む。餓死する農民や農民一揆、栄華を極める豪商たち。当時の日本人の姿を克明に描いていく作品だ。

 務台(むたい)俊介代議士は長野県選出である。「上高地に決まって良かったですね」と声掛けすると、喜んでいた。小説取材先の紹介など、ご協力してもらっている。

 2016年「山の日」記念全国大会の開催が、長野県・上高地に決まった。私の作品もフォーラムの一環に間に合わせたい。その上で、可能ならば、超党派議員などのコンセンサスをとり、祝「山の日」記念出版に持ち込みたい考えである。

よみうりカルチャー「文学賞を目指す小説講座」メンバーと合宿=房総

 小説講座の合宿が5月の連休を利用して、2日間行われた。年初、よみうりカルチャーセンターの小説講座の受講生から、「先生、合宿をしませんか」と提案があった。世間が休みの大型連休・5月か、8月ならば、いいよ、と返事しておいた。

 私が30代のころ講談社フェーマス「小説講座」で、伊藤桂一氏と出会った。その後の同人誌「グループ桂」の活動を通して、伊藤先生らとなんどか合宿した記憶がよみがえった。集中した時間で、濃密な授業ができた。

 別途、同人誌「ちょき舟」にも入っていたので、そこでも小説仲間との合宿があった。朝日カルチャー小説講座生が立ち上げた同人誌だけに、レベルが高かった。合宿では朝から晩まで、仲間の作品を時間をかけて論議できた。実に、有意義な合宿だった。

 これらふたつの合宿が筆力を一気に高めてくれた。

 こんかいの場所は、受講生の森田さんが千倉の別荘を提供してくれる。宿泊代がかからない分、それをバーベキューや飲食代にまわせる内容だった。幹事は山田さんだった。

 早朝の出発は苦手なのだ、私は前泊で千倉にむかった。5月2日(土)は5月連休の最初で、内房線は混み合っていた。

 夕暮れ前に、千倉駅に到着すると、森田さんが迎えにきてくれていた。

 海岸の散策にでた。やさしい湾曲の海辺だった。

 私は波静かな瀬戸内の島育ちだ。太平洋の沿岸にくると、荒々しい波の光景を期待する。
 
 この日はそれに反して静かな磯辺だった。

 見わたしても、釣り人は少なかった。

 磯から海に突きでた堤防で、20代の男性が『ブレイクダンス』を踊っていた。そばでは彼女が一眼レフで撮影する。
 
 私は近づいて、「とても、素晴らしいダンスだね。撮影させてくれませんか」と声掛けした。男性は快く応じてくれた。「ムービーですか、スチールですか」と問う。

「デジカメのスチールです」と答えた。ダンスはハイスピードである。一眼レフと違い、デジカメではシャッター速度がダンスに追いつかず、鈍い。

 妙技のタイミングが捉えられず、ワンテンポ狂ってしまう。懸命に踊ってくれた若者には申し訳にないな、と思う。
 

『ブレイクダンス』が不本意だったので、若者たちにふたたび声掛けして、ツー・ショットを撮らしていただいた。

 ここまで協力してくれたのだから、礼儀として名刺をお渡しした。

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色彩豊かな芝桜が存分に楽しめる丘陵=秩父・羊山公園

 五月連休に入った。この季節には多種多様な花の名所が多い。

 西武線・横瀬駅から15分で、羊山(ひつじやま)公園に出むいてみた。ここには9種類・40万本以上の花のじゅうたんができている。

 遠方には、20代で、何度か登った武甲山が屹立(きつりつ)している。

 
 都心からのデート・スポットだから、若いカップルが多い。

 むろん、中高年も大勢いるけれど。


 

 丘陵(きゅうりょう)の一面が花でデザインされている。

 秩父夜祭は有名だ。その笠鉾(かさほこ)、囃(はやし)し手の襦袢(じゅばん)を催しているらしい。


 スマートフォンに自撮り棒(じどりぼう)を取付けて、若者どうしは自分撮りを行う。構図などはどうなんだろう?

 「シャッター」を押してください。こうした言葉がだんだん少なくなっていくのだろうか。
 
 

 同公園の一角には、チューリップの花壇があった。

 芝桜とは違った、華やかさがある。

 思いのほか人気があった。

  少子化の時代だろうか、街なかで「こいのぼり」を見かけることは数少ない。

  マンションのベランダで、玩具のような小ぶりを見かけるけれど……。

  秩父の空に、雄大な姿で泳ぐ「こいのぼり」は、子どもの日らしい。

  端午(たんご)の節句。この言葉をつかう機会も少なくなったものだ。 

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ことしの登山計画は?「とりあえず飲みながら決めよう」。

 毎年、IT会社インフォ・ラウンジの社員(平均年齢30代初め)と北アルプスに登っている。6-7人である。それに、「すにーかー倶楽部」が加わっている。約10人のパーティーである。
 
 2014年秋の紅葉シーズに、計画は剣岳(標高2,999m)だった。山荘の予約がとれず、すにーかー倶楽部は剣岳、ITグループは立山連峰の雄山(おやま、標高3003 m)、大汝山(おおなんじやま、3015 mの縦走だった。
 
 2015年秋は剣岳の再チャレンジ。昨年の段階では、誰もが信じて疑わなかった。

 4月29日に、「今年の登山はどこに決めるか」と、それを口実に、IT社員が横浜から、葛飾・立石にやってきた。

 立石仲見世の寿司屋「松ずし」で昼食をたべよう。長い列ができている。40分ほど並んで、店員が「もうネタがあまりないですよ」という前置きがあるも、せっかく並んだのだから、とカウンターで寿司を食べた。

 一級河川の中川の「中川七曲り」を散策した。
 最近、この七曲りに新たな河岸道路ができた。行政が洪水対策で、過去3度にわたり、土手をつくり、補強してきた。だから、川と並行して3列の道路が延々と続く。森永牛乳の近くでは、古い道路が残っているから、4列の道路がある。

 日本国内でも、きっとめずらしいと思う。それを売りだせば、と思う。「国家100年の計」からほど遠く、「場当たり的な治水対策だ」とばれてしまうからか、行政は音なしのかまえである。

 皆して、堤防をつぶさに観察すれば、盾のひび割れ(クラック)がいっぱい入っている。「近い将来、大津波が東京湾に来れば、堤防にこんなにもクラックが入っているから、2-3メートルの津波でも倒れるよな」
「岩手県・田老町の世界最強の防潮堤だって、津波は押し倒したのだから、もっと簡単だな」
 ここら海抜ゼロメートル地帯である。津波の恐怖を語りながら散策した。
 
(写真は逆光だから、フラッシュ・モードにセットして、シャッターを頼んだ年配者に手渡したのに、遠くで写すから、光りが人物に届かず、暗くなった。まあ、いいか、人物が入っているだけでも)

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天保時代の槍ケ岳には、地理学者・津田正生が登頂(上)=愛知県

 文政・天保時代の「槍ケ岳の登頂」の取材を続けてきた。郷土史家たちが、念仏行者の播隆上の功績をたたえる。と同時に、仏教面で、とてつもなく高僧として持ち上げている。行者が高僧? こんな疑問があった。
 私は内心は、歴史山岳小説に、あまり宗教色を強く出したくなかった。悶々としていた。

 昭和57年8月の中日新聞に、私の目がおどろきで止まった。
「天保4年7月下旬『尾張地名考』を著した、津田正生という地理学者が、58歳の高齢で槍ケ岳に登っている。残念ながら、津田の残した『槍ケ岳日記』は目下幻の書で、読む機会がないために、詳細はわからない」
 という記事を見つけた。

 これだと思った。幻の書を見つけよう。愛知県を訪ねようと決めた。 

 私はことし(2015)その新聞を目にするまで、津田正生(つだまさなり)の存在はまったく知らなかった。
 津田は、愛知県内では有名な人物だった。かれが執筆した「尾張地名考」は、愛知県の地名のルーツを克明に調べた書物で、現代でも行政関係者や学者らが利用している。
 

 津田正生の研究者を探した。
 愛知県・愛西市に郷土史家で登山家の若山聡さんがいた。岐阜大学・大学院出である。そこで、4月16日に訪ねたいとアポイントを取った。

 
 名古屋に前泊し、愛西市に入った。若山さんは同市の学芸員・石田泰弘さんを紹介してくれた。両氏の史料説明から、津田正生がより克明に解った。
 
 津田は1776年に、尾張国・根高村の酒造りの家に生まれ育っている。尾張でも指折りの富豪である。
 幼少から学問を好み、成人してからも、昼間は家業、夜は勉学にいそしんでいる。一方で、高所登山や、大川を跋歩したり、名神社や古刹を訪ね歩いた。知的な行動人間だったらしい。


 かれの自宅は、津島詣で有名な「津島神社」へ街道に面していた。諸国から参拝者がやってくる。津島街道沿いに茶席(六合庵)を建て、無料で、旅人に茶を振る舞った。その目的は、地理に関する情報を仕入れていたのだ。旅人から第一報の情報をもとに、その裏付けで現地を歩いている。

 かれの代表的な『尾張地名考』は、こうして書かれた著作である。津田は知的好奇心が強く、多くの著作を世に残している。地理学の制度の高さを知った。

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飛騨林業の実態は学者もつかめず=徳川幕府の機密主義(上)

 徳川幕府直轄の飛騨は神秘的だ。文献を調べても、徳川家がいかに飛騨国を支配していたのか、具体的なものが見えてこない。
 飛騨の産業は林業(木曽ヒノキ)、鉱山(神岡鉱山)、農業だ。18世紀に、主力産業の林業のもめ事から、日本最大級の大原騒動(農民一揆)が起こり、悲惨な状況が18年間も続いた。この実態も、あまり知られていない。

 杣(そま)たちが、「元切休山」に反対して、そこから飛騨高山陣屋のトップ大原郡代の圧政がからんだことが原因だという。用語一つひとつが解らない。
 杣とはきこりか。「元切?」「休山?」とはなにか。

 飛騨林業に取り組んでいる私が苦労している。それをこのHPで知った大和田幸男さん(岩手・陸前高田)から、学生時代の林業学の恩師が紹介された。
 大和田さんは3.11東日本大震災で、陸前高田の海辺の製材所が流された被災者だ。「鉛筆一本持ちだせなかった」という。小説「海は憎まず」に取材協力してくださった。現在は知識を生かして材木販売業を営まれている。林業・製材・建築材などプロであり、木曽ヒノキなどは詳しい。

 大和田さんが紹介してくれた恩師は、東京都内の大学で林業学を教えていた塩澤南海治・元教授だ。リタイアした後、故郷の長野県・伊那に帰られている。塩澤さんと連絡を取り、4月17日に訪ねることが決まった。

 前泊なら、伊那の望岳荘(ぼうがくそう)が良いですよ、と勧められた。同宿泊所は天竜川の河岸段丘の上部にあった。
 小学校が廃校になり、モダンな民宿に生まれ変わっていた。校庭の桜は、児童たちが見ただろう、ソメイヨシノの花弁の大半が散る。そして、濃い紅色の八重桜に代わっていた。

 同宿には、『ハチ博物館』があった。世界一の「ハチの巣」が展示されている、と聞いていた。さして期待していなかったが、いつもの好奇心で、「とりあえず見学しておくか」と軽い気持ちで覗いてみた。

 
 世界最巨のハチの巣にはおどろかされた。同館の資料によると、直径2m25㎝、高さ2m70cm、胴回り6m60cmだった。
「 自然界では、女王蜂同士がいっしょに一つの巣を作らない。ハチ研究家・富永朝和さんの長年の研究成果から、2年間で女王蜂114匹と50万匹の通い蜂による、共同作業で完成したもの」
 と明記されていた。

 ハチをつかった芸術品が数々ある。ハチの巣で長野冬季オリンピック「聖火ランナー」を等身大で作らせている。人間の英知がここまで及ぶか、と見あきなかった。


 塩澤さんが伊那の望岳荘まで迎えに来てくれた。「実は、飛騨の林業はよく解らないですよ。いらっしゃる前に、信州大学の林業学の元教授にも訊いてみました。かれも江戸時代の飛騨林業はまったく解らない、というんです」
 林業学者が解らない。徳川幕府の施策はシークレット(機密主義)で、現代でも解明できないのか。

 前16日、愛知県・愛西市の近代史の石田学芸員さんを訪ねた折り、
「岐阜県史の編纂を手伝ったことがあるんですが、幕府領になってからの飛騨は資料がないですね。高山陣屋関係の古文書が出れば、文化財ものだと言われています」
 と難しい取材だと教えてくれた。

 塩澤さんの話とからめて、天竜川の向こうは飛騨国なのに、現代でも徳川支配が解明できないのか、途轍(とてつ)もないところに首を突っ込んでいるな、と思った。
                             【つづく】      

庶民が歴史をつくる = サクセス・ストーリーを書こう

 政治家は歴史を歪曲し、原点をよく見せようとする。
 作家は歴史年表とフィクションで事実のように書く。そして、特定の人物が世のなかを大きく変革した、と物語をつくる。

 この二つをもって正確な歴史が後世に伝えられない。

 坂本龍馬が日本を洗濯した、幕末を大きく動かした、と歴史作家が書けば、それがまるで事実のように捉われてしまう。
 それはあり得ないことだ。たった一人の人物で、世のなかが変わるほど、庶民はバカではない。大勢のひとが歴史を動かし、変えていくのだ。


 坂本龍馬がいろは丸事件を起した。沈没船には金塊と最新銃を数百丁積んでいた、と大ウソを言い、紀州藩から8万3000両をだまし取った。10両の窃盗でも獄門の江戸時代に。紀州藩の家老は切腹寸前まで及んでいた。明治になり、執行されなかった。しかし、船主の大洲藩の家老は、龍馬のために切腹した。
 張ったり屋の龍馬なる人物の性格にも問題がある。


 船中八策は存在しない。龍馬は大政奉還にまったく絡んでいない。土佐藩の船のなかで、大政奉還を考えたという。これこそ作家の作りものだ。

 龍馬は薩摩藩がらみで、長崎にすむ密売人・グラバーと交流を深め、幕府が禁止していた鉄砲・銃弾を西日本を中心とした各藩に売った。みずから運輸業の海援隊をつくり、密かに運ばせていた。
 それら武器が、明治政府樹立後の戊辰戦争で使われ、大勢の日本人が死んだ。大勢の日本人を死に至らしめた「死の商人」につきるのだ。

 薩長同盟といわれるが、実在しない。木戸が小松帯刀・西郷隆盛と話し合った。潔癖症の木戸が、長州の言い分を覚書・メモ程度に手紙にしたため、龍馬に送った。立会人として裏書きをしたにすぎないのだ。
 薩長同盟の成立など、ばかげた作り事だ。鹿児島から、薩長同盟の存在を裏付ける書簡など発見されていない。あるはずがないのだ。

 そもそも長州藩は禁門の変で朝敵になり、小御所会議で明治政府ができるまで、長州人は京都に入れていない。入れば、会津・桑名軍、新撰組などに問答無用で斬られた。これは歴史的事実だ。
 長州は倒幕になんら関わっていないのだ。つまりは、龍馬は倒幕に関わっていないのだ。


「龍馬の精神で政治を行おう」
 そんなことを言いだす政治家がいる。それは実態のない薩長同盟を信じ、小説上の活躍を現実だと錯覚しているのだ。

 幕末には民衆に大きな力があった。徳川を倒したのは庶民だ。たとえば、「ええじゃないか」運動が起きた。大衆は荒れ狂った。
 各地が無政府状態に陥り、経済政策ブレーンをもたない徳川慶喜には手におえず、皇国思想から政権を天皇に還した。


 現代に置き換えればよくわかる。
 東京・大阪で、大勢の庶民が荒狂い、インフで価値が殆どない紙幣を路上でばらまき、企業になだれ込み、書類を待ち散らし、コンピューターを打ち壊す。つまり、現代の打ちこわしだ。職を失った大衆が道路に溢れて、通行すらできない。
 それらエネルギーが全国の地方都市や町村まで拡大していく。

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色彩豊かな春を満喫する、小時の憩い=広島植物公園


 広島県の島に生まれ育ち、18歳で東京に出た。

 それから長い歳月が経った。

 「広島市植物公園」があると初めて知った。

 
 4/10は招かれて、早朝7時から「積極人間の集い」で講演した。参加者は約40人だった。

 私は夜型なので、ふだんは朝4-5時に寝て、11時頃に起きている。

 体内時計が狂ってしまった。

 広島に来れば、観光気分などないし、ほとんど東京へとんぼ返り。きょうの午後くらいは半日、ゆっくりすごそうと決めた。

 

 私は数多く写真を撮るが、自分の写真を撮ることはない。

 むろん、撮ってください、と頼むことはない。

 「撮ってあげましょうか」

 そう言われて断るわけにもいかなかった。

 広島の女(ひと)は親切だな。

 警戒心を持たれない年齢になったのかな。



 頭上の枝葉が網目になり、芸術的な美を構成していた。

 植物の被写体は、時おり、頭上にある。
 


 水連が盛りだった。

 一輪ごとは心に収めておいた。

 見事な花弁は誰でも撮るから、あえて鮮明に取り込まなかった。


 クローズアップした花弁はゼロではない。味気ないから掲載しなかった、というのが適切な表現だろう。

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「先の大戦で」は不適切、「明治から77年の軍事国家」を総括すべし

 終戦から70年を機にして、「先の大戦」という言葉が躍っている。「先の大戦」の謝罪や反省の文言にばかり捉われている。それはちがう。

 日本が大きな罪を犯したのは、第二次世界大戦(太平洋戦争)だけではないはず。明治政府が生まれて間もなく、明治5(1873)に徴兵令を敷き、海外侵略の「征韓論」をとりはじめた。かれらの発想は傲慢な豊臣秀吉の発想とまったく変わっていない。
 韓国はなにも悪いことはしていないのに……。

 あえていえば、吉田松陰が獄中で書き残した、中国大陸への海外侵略の思想が、明治をつくった長州藩士たちに受け継がれた。
 薩長土肥が中心となった明治政府はしだいに長州閥が強まってきた。山方有朋たちが強兵思想を高め、国民の眼を「強い国家・強い政府」という求心力につかった。
 「日本には神風が吹く」と平民を信じ込ませて、軍服を着させて、海外に送り込んだのだ。そして、強引に領土拡張を展開してきた。


 日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと、広島・長崎の原爆投下で終結するまで、77年間は戦いが続いた。
 この77年をもつて日本人は外国人から、「戦争好きの国家、国民」に思われてしまったのだ。戦争を知らない私たち世代すら、そんな目でみられている。
 だれがこんな国家にしたのだ。そう叫びたいのは私たちだ。

 岸元首相、佐藤栄作、安倍現首相と、戦後も長州から歴代首相がでている。安倍首相は東京生まれにしろ、基盤は長州閥の流れを汲んでいる。
 明治の軍功・元老といわれる山方有朋などの長州閥が軍部・政治の核を動かし、日新、日露という大戦争を引き起こしたのだ。中国・韓国は別段、日本に何も悪いことをしていないのに。安倍首相に長州の血があればこそ、「先の大戦の謝罪」だけでなく、「明治からの77年の謝罪」がもっとも相手国の心につたわるし、美くしくひびく。ある意味で、長州人だから、チャンス到来なのだ。


 太平洋戦争の末期には焼夷弾で、日本列島の町が数多く破壊されてしまった。親を失った戦争孤児たちは食べられず、大勢が餓えて死んだ。原爆孤児もしかり。満洲から引き揚げて棄てられた子供もいる。
 その過酷な状況のなかで、生き残った子どもが、いっさい戦争をせず、戦後70年間の平和を築いてきたのだ。

  
 ABCラインの経済封鎖があった。だから、太平洋戦争へ突入したと正当化する影の声は多い。それはちがう。いま現在で考えてみればわかる。北朝鮮の拉致問題にしろ、クリミア問題のロシアにしろ、経済制裁や経済封鎖を課しているのだ。
 他人の領土に「満洲国」という国をつくれば、世界中からバッシングを受けて当然だし、国際連盟から制裁が課せられるのはあたりまえのシナリオだ。

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歴史記録写真集「明治 大正 昭和 志和」 = 吉本正就 

東広島市・志和町(しわまち)の吉本正就さんが、このたび歴史記録写真集『明治 大正 昭和 志和』を発行された。
 吉本さんは、地元の歴史に造詣がふかい郷土史家である。歴史関係資料や写真のコレクターでもある。自宅の2階には陳列ケースがしっかりした展示室をつくられている。

 古写真の収集が1000点ほど溜まったことから、約1年間の編集・追跡取材を行い、発行に及んだものだ。

 私たちは「明治は遠くになりにけり」と言われて育ったものだ。祖父母がまだ明治生まれだったけれど、当時の話をさして聞いておらず、いまとなれば悔やまれる。ただ、それはいつの時代になっても、口から口へと伝承される限界なのだ。

 私たちが祖父母になってくると、いまや「昭和は遠くになりにけり」である。昭和天皇が没したのはつい先日のように思えるが、もはや27年が経っているのだ。
 平成元年生まれの子が、27歳で社会現役の最先端で頑張っている時代だ。
 
 私たちは、両親が生きた太平洋戦争のできごとは、さして言葉で引き継いでいない。敵とは言え相手は生身の人間だ、しょせん人殺しだ、銃弾の殺戮を語りたくなかった親も多かった、と知る。

 小さな記録文、写真を探しだして歴史記録として遺す。70年経ったいまはラストチャンスだ。もう半世紀たつと、写真の裏付けの話しは聞けないし、写真といえども、古文書のように影が薄くなってしまう。


 写真は歴史の断面を正確伝えられる。政治・経済・文化の面からも、実に重要なことだ。ただ、古写真の収集作業は、ことばでいうほど簡単でない。最近はやたら個人情報という弊害が目につく。先祖の写真すらも、提供を嫌がる人もいるだろう。
 吉本さんのように脚で訪ね歩く地道な努力とともに、協力者も必要だ。


 とくに強く印象に残ったのが、昭和14(1939)年に撮影された、看護学校の卒業女子たちの写真である。西志和の女性7人が盛装し、記念写真に収まっている。
 彼女たちは広島市内の病院勤務だった。

 昭和20年8月6日の原爆投下の地獄のなかで、看護に勤務しており、4人が亡くなっている。半数以上の乙女が無残にも命を失くす。

 吉本さんがそこまで追跡して、写真キャプションに書いている。だから、昭和史の大きな出来事の原爆投下の惨さが、集合写真でありながら、しっかり遺されるのだ


 吉本さんはに「歴史記録」と位置づけて、3つの時代明治、大正、昭和と良い面、辛い面、拙劣な面も含め、公平・客観の目線で遺されている。

 志和といえば、私の著作・幕末歴史小説『二十歳の炎』の神機隊が発足し、訓練地した場所である。

 主人公の髙間省三、幕末史に大きく関わった船越洋之助、加藤種之助などが同隊の一員として、農兵とともに、教育・訓練をした土地なのだ。

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