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華やかな美女乱舞(下)=S-NTK公演・宝塚歌劇団OGらとともに


 S-NTK 第2回 公演   『復興支援チャリティー公演』


         2015年2月7日(土)・8(日)  大井町きゅりあん 小ホール  


 春・花の夢より


 元宝塚歌劇団のスターたちが、華やかな和服レビューショーをみせてくれます。


 
 「花の民謡メドレー」では、踊り手が軽妙なリズムと唄で楽しませます。



 元宝塚歌劇団のメンバーには、とてつもないスピード感があります。

 それが大きな特徴の一つです。

 S-NTK座長の「五月梨世」の踊りと芸は、一流中の一流だ。

 顔の描写の文字化はむずかしいけれど、

 「眼はパッチリして、眉も濃く、顔立ちは浮彫で、愛嬌がある」
 
 粋な感じがある。

 だから、彼女のファンが押し寄せる

 

 


 日本女性の鑑ともいえる、いにしえの情感に満ちた魅惑がたっぷり。

 どこか恥じらうような優しさを感じさせる。

  



 マドリードの情熱の女。そんな鮮やかな女性だ。

 舞踊も華やかで大きい。

 熱気に満ちた瞳は、ことごとく男の心を惹(ひ)きつける 

続きを読む...

【講演・案内】 朝日カルチャー・千葉で公開講座。3月7日13:00~

 朝日カルチャー千葉で、3/7(土)13:00~15:00、公開講座を行います。タイトルは『幕末歴史小説「二十歳の炎」の講演』です。(有料・関連情報を参照)

 2月1日に、葛飾鎌倉図書館で、講演した内容の概略が葛飾ケーブルテレビ(YouTube)で、紹介されています。
 過去3回の同講演では、ほとんどの参加者が「目からうろこ」と称しています。

 天明・天保 ~ 安政の開国 ~ 幕末 その歴史的な流れが、教科書で習ったことがない、新しい視点としっかりした体系で理解できます。


 ナポレオンが19世紀にオランダを占領した時、『オランダ国』が消えてしまった。これは歴史的事実である。日本はどこか欧米との窓口を必要とし、オランダの代わりに、長崎でアメリカと貿易をはじめた。だから、当時の浮世絵、三味線、草履、下駄、扇子などが米国博物館に豊富にある。

 日本はこのとき日英辞典ができた。ペリーが来航した時には、英語の通詞(通訳)はたくさんいた。だから、黒船来航からわずか1年後でも、英文による条約調印が可能だった。

 なぜ、教科書で教えてくれなかったのだろうか。


 文明開化は鎖国から解き放たれた、安政の開国からである。「明治維新」とは嘘の表現である。「安政維新」が正しい。
 蒸気機関車は幕府が発注し、新橋=桜木町で開通したのは明治だった。こうした実例を知ろう。


  禁門の変で、朝敵になった長州藩は、倒幕に殆どかかわっていない。第二次長州征伐で、現・山口県から幕府軍を追い出したにすぎない。
 「薩長同盟」なんて、その実、後世の作家の造りごとにすぎないものだった。


 江戸幕府は260余年戦争しなかったのに、明治時代になると、10年に1度は戦争する国家になった。明治政府がいかに嘘の歴史をおしえて、国民を軍国主義へと導いたか。


「歴史の真実は、やっぱり隠されていたんだな」
 だれもが、新たな価値観が得られます。


【関連情報】

① 朝日カルチャー千葉で、3/7(土)13:00~15:00の講演案内。詳細のチラシはこちらをクリックしてください。


② 葛飾鎌倉図書館で、講演した内容の概略が葛飾ケーブルテレビで紹介されています。YouTube

正しい歴史認識は『安政維新』なり(2)=偽りの歴史を正す

「明治維新」は本当だろうか。その疑問から、明治政府の樹立まで考える。

 安政の大獄で、さらに桜田門外の変が起きた。開国主義の井伊直弼が暗殺された。しかし、世情が不安定になっても、西洋文明を取り入れる「安政維新」はとどめもなく拡大していた。

「攘夷」という劣悪な外国との戦争論の思想に染まったテロリストたちは、白い肌が嫌いだった。無差別で殺す。治安を悪化させる。武器を持っていない民間の商船に対しても、下関海峡を航行すると、無差別で砲撃する。まさに、狂気の行動だ。


 現代でいえば、ペルシャ湾を航行する日本のタンカーが突如として砲撃にさらされる、それと同じだ。日本が何を悪いことをしたのか。下関を航行する米英オランダの船員は、われわれが何を悪いことしたのだ、と口惜しかっただろう。

 かれらテロリストは朝廷の勢力を取り戻したい「我欲」のために、京都の町を放火して3分の1を焼き払った。家屋を焼失した民衆の哀しみと心の痛みなど考えていない。歴史的に大切な神社仏閣の文化財も数多く失った、(禁門の変)。

 こうした1000年来の文化財を焼いた、かれらテロリストたちの行動は、当時の庶民、幕府、天皇の怒りを買った。
「あなたが今わが家を焼かれたとき、尊皇攘夷の思想犯ために、許してあげますよ」
 そう言えるだろうか。庶民の眼で、歴史を見るとはそういうことだ。天皇を敬う尊皇と、外国を攻撃する攘夷とはまったく別ものだ。

 薩摩藩も赤報隊を使って江戸の町、江戸城の一角にも火を放った。この騒擾(テロ活動)が鳥羽伏見のきっかけになった。


 テロリストは主義主張のためならば、民間人の資産や命までも奪ってしまう。
 現代感覚に戻れば、私たち3ー4代前の先祖は、このテロリストに支配されてしまった。京都市民は家を焼かれ、逃げ遅れた子供は死ぬ。神社仏閣は千年来の文化を失っていく。そこには道義がない。
 私たちが歴史を学ぶときには、「尊王攘夷」のテロリスト思想を正当化させてはいけない。尊皇で留めるべきなのだ。

 テロリスト集団が明治新政府を樹立し、かれらが新たにやった施策はなにか。

 文明開化とは後づけである。産業の近代化は、德川時代の『安政維新』の引き続きにしかない。テロリストが政権を取ったあとの、主だった施策は廃仏棄釈と徴兵制だった。10年に一度戦争を行う軍国主義の恐怖政治の土台作りだった。


 日本は古来、武士が戦場で戦うものだ。農商の庶民は助郷で荷役させられても、武器は持たなかった。
 ところが、明治の徴兵制で、床屋の親父も、教員も、蕎麦屋のお兄さんも、造船所の職工も、赤紙(はがき)で、武器を持たされた。さらに外地に送られて人を殺させられた。それが有史以来の初の徴兵制度だ。
 テロリストが政治の仮面をかぶると、庶民の命が大義の下に犠牲にしてしまう。

 廃仏棄釈で何が起こったか。仏教徒の徹底した弾圧だ。『伊勢神宮=天皇=神』の構造であり、「天皇のために死す」という思想の強要の下地づくりだ。
 廃仏棄釈と徴兵制の国家は、戦争への道をまっしぐらに走った。広島・長崎の原爆投下まで77年間におよぶ。


 戦後、昭和天皇は神でないと宣言し、国民の象徴に座った。あるべき姿に戻った。天皇と軍部を結びつけた政治家たちも排除された。
 そこから現在まで、70年間は海外と一度も戦争しない国家になった。今後30年、50年、100年と延長されていけば、德川幕府が260年間戦争をしなかった歴史と肩を並べるだろう。

 約500年の歴史のなかで、77年間の軍事国家はきっと嘲笑の対象になるだろう。「維新志士」と言うまやかしのテロリストたち。「明治維新」といって、さも文明開化の象徴に見せかけたりした、薩長土肥が作った嘘の歴史は糾弾されるべきだろう。


「勝者が歴史をつくる」。テロリストが政権を取った明治時代だ。虚偽の歴史が実に多い。それらを正す時期にきた。維新志士を英雄視する。これらつられた偶像崇拝の虚像などもう棄てたい。
 
 明治政府(薩長土肥)の虚実は、江戸幕府の有能な人材すらコケにし、小中学生の歴史教科書に落とし込んだ。
 それを鵜呑みにした教師が、疑いもなく、指導していく。誤った歴史観が蔓延(まんえん)していく。それが戦争に駆り立てる「軍国少年」たちを生み出した。私たちの両親や祖父母たちの時代である。教育の怖さがある。
 

 歴史を再評価できるのは、戦後70年にわたり平和が維持されてきたからだ。軍国主義ならば、一気に抹殺されてしまうだろう。
「明治維新」でなく、ただしくは「安政維新」だと、私は世に発信していこうと考える。
 
                                           【つづく】

 

正しい歴史認識は『安政維新』なり(1)=偽りの歴史を正す

 ことし(2015年)は広島、東京、千葉で「幕末史~明治維新」関連で、6本の講演がきまっている。拙著「二十歳の炎」がしだいに広まりつつあるからだろう。「歴女」ということばが生まれるほど、隠れた歴史ブームも背景にあると思う。
 まだ年初なので、このさき12カ月を見わたせば、今後とも講演依頼が増えてくるだろう。極力応じるつもりだ。


 講演のタイトルで、「明治維新」と名づくと、私はいつも首をかしげてしまう。これは正確な表現だろうか、と。
『明治維新』は、時の為政者が作り出したまやかしの表現だと考えている。

『維新』とはなにか。世のなかが急激に大きく変わることである。この認識に立てば、阿部正弘老中首座が鎖国政策を終焉し、開国に進んだ『安政維新』である。

 安政といえば、「安政の大獄」という暗いイメージがある。しかし、幕府は開国した後、事業の近代化に大きくのりだした。国民が肌の白い人から学び、西洋文明・産業を取り入れて、新しい生活を享受できる社会になったのだ。
 まさしく世の中を大きく変える、『安政維新』である。

 江戸幕府は蒸気機関車を発注した、開通したのが明治時代にすぎない。横須賀に製鉄所、長崎には大型造船所。パリ万博で日本文化を伝える。通信も、郵便制度も手がけた。鉱山、鉄鋼、造船、繊維など、広域に及んだ。


『安政維新』からの15年間、日本は有能な人材を留学生として海外に送った。咸臨丸でアメリカなどで渡った。産業、建築、文化など多岐にわたり、海外技術者を日本国内に招いた。
 15年間は近代化路線を突っ走った。

「現代人にとって歴史とは何か」
 歴史の年代とあらすじだけではない。現代と照らし合わせて、その時代の舞台や人々の生き方や思想や行動の考査である。それには正しい歴史認識が必要である。


 勝者によってつくられた偽りのベールをはがすことでもある。


「安政維新」は、現代感覚で読みとるならば、1945年の終戦からの15年間に置き換えてみれば、わかり易い。~1960年である。

 戦前・戦中は暗黒時代である。特高警察が暗躍し、英語すら禁止だった。海外の正確な情報はほどんど判らなかった。軍人支配の暗い国家だった。
 終戦直後から、一気に西欧文化が国内に入ってきた。国民は15年間で、アメリカナイズされた。それは記憶に新しいところだ。

 1960年代からも進歩したが、激動の変化は1945年からの方がより強いものがあった。昭和維新と名づけても良いだろう。


 『安政維新』の15年間において、薩長土の下級藩士たちの無差別テロが横行した。肌が白いだけで斬り殺す。現代版の中近東の無差別テロリストと似ている。
 そんな目で、TV報道を見れば、維新志士と呼ばれる彼らの行動が、いかに暴挙だったかとわかるだろう。

【推薦図書】 本と暮らせば = 出久根達郎 (直木賞作家)

 2015年の元旦は、単行本を1冊、最初から最後まで一気に読もうと心していた。なにしろ、遅読だから、そう決意して、除夜の鐘の後からでないと、一日で読み切れない。
 手にしたのが、出久根達郎著「本と暮らせば」(草思社・1600+税)である。「本との出逢いが、人生だ」という帯が気に入っていたからだ。

 出久根さんは古書店主にして、直木賞作家である。「平たく、わかり易く、それでいて濃密」が特徴だ。エッセイの場合、どこから読むか。サブタイトルから、拾い読みしても、まったく問題ない。むしろ、その方が読み手の負担がない。楽しんで読める。


 サブタイトル「職業当て」で、出久根さんは『最も楽しい読書、というのは、私の場合、蒲団に腹這って好きな本を読むことである』と記している。

 私は時間が経つほどに手と腰が痛くなるし、これはやらない。もし、私がそれが出来て、早々と寝てしまったら、それは書き手の出久根さんの問題だ。
 そんな余計なことも考えながら、読み進む。面白い小説ならば、読みだしたら止められない。だけど、エッセイはどこでも止められるのが特徴だ。時には一気に読んでしまっては勿体ない気持ちにもなる。

 「下街と下町」で、私の名前が出てきた。えっ、と驚き、目が一段と冴えてきた。吉岡さん、轡田さん、新津さん、吉澤さん、と並んでくれば、あの日のあの情景か、とすぐさまわかった。

 私の名前が出ているから、推薦図書にする、どうも心の中がややこしくなったな。実は、元旦はここで打ち切った。中おいて、3日に読むことにした。


 第2部で、『ちょんまげ』があった。きっと新宿で上演された、夏目漱石のあの劇だろうな、と閃いた。まさしくズバリだった。楽しい劇だった。
 出久根さんは、夏目漱石の書物、関連事項の知識では抜群だ。完全消化(昇華)されている。漱石のエピソードなどは、漱石先生の作品を読まずして、知識が身に着いた気分にさせられるから、出久根さんは不思議な作家だ。

 75編のエッセイが次々に魅了してくれる。小説家、文学者の名まえが数多く出てくる。それは当然だ。「本と暮らせば」がタイトルだから。

 おなじくり返しになるが、同書の読み方の秘伝があるとすれば、パラパラっとめくって、自分の好きな作家が目につくと、そこは精読する。たとえば、2日間ほど空腹で、目の前におにぎりが差し出されたように、美味しく味わえる。

「源氏物語」の活字が眼に入れば、パスする人はいるだろう。その実、私はそうだった。「最初から最後まで一気に読もう」と決めておきながら、スルーだ。それは出久根さんのせいではない。

 
 私事だが、2月1日、葛飾鎌倉図書館で講演を予定している。80人くらい収容できるらしい。現地打ち合わせて、1月11日に出むく。
 同担当者から、「穂高さんの推薦する作家を教えてください」と言われている。講演当日に、会場の一角にならべ置いてくれるという。
 恩師の伊藤桂一氏と、出久根達郎さんは頭においている。共通するのは、ともに作品に深みがあり、読みやすい作家だ。読者を裏切らない。 
 
 

播隆フォーラムin大口「おおぐちにやってきた播隆さん」

 山岳関係の歴史小説の取材をしている。メインテーマは、「山の恩恵」だ。天保時代の信州と飛彈が中心となる。各地の関係者を訪ね歩いている。

 山岳信仰があり、国(藩)境越えの生活道路があり、農業用水による田地の豊潤な実り、川水が海に流れて魚介類の栄養源など、山の恩恵は尽きない。これらを複合的に、小説として人物を登場させながらストーリーを付けて書く予定だ。

 本覚寺(岐阜県・高岡市)、玄向寺(長野県・松本市)には、播隆の自筆の史料がある。双方の住職のご配慮で、現物を見させていただいた。安曇野の務台家には、務台景邦の庄屋日記がある。それには播隆上人が出てくる。
 信州大学のデータ・ベースに『槍ケ嶽略縁起』という木版刷りの史料があった。ここらを使って書きたい。

 播隆はふだん濃尾平野の各地で布教活動をしていたらしい。ここらはまったく取材していないので、11月30日、愛知県・大口町歴史民俗資料館で開催された「播隆上人のフォーラム」に出かけてみた。

 播隆ネットワークの主幹・黒野こうき氏と一心寺の住職・竹中純瑜氏との対談があった。司会は同資料館の学芸員の西松さんだった。
 飛騨と信州にまたがる槍ヶ岳を開山したのは、念仏行者・播隆(ばんりゅう)上人だ。天保五年だった。1968年(昭和43年)には、 新田次郎著の伝記小説『槍ヶ岳開山』が出ている。

「史実からかなり外れている。歴史小説でなく、時代小説だ」と黒野氏から批判があった。


 私は執筆に影響されるので、同書はまったく読んでいない。どこまで史実か、どこがフィクションなのか。批判する側の黒野氏の根拠となる史料はなにか。ここらは解らないままに聞いていた。

 一心寺の住職は前日、インドから帰ってきたばかり。同寺に関わる前は、播隆上人は知らなかったという。現在でも、登山関係者と一部の人しか知られていないようだ。

 翌12月1日は、行者たちが修行の場にしていた伊吹山に行きたかった。だが、大雨で止めた。同月2日は名鉄電車で出むいて、黒野こうき氏の住まいに近い喫茶店で、2時間ほど会った。播隆研究『ネッワーク播隆』1-13号まで読んできたので、私なりの確認事項が多かった。

 黒野氏は、新田次郎の著作にふれて、時代小説と歴史小説の違い、さらに実名の使い方について持論を語っていた。私は一つの意見として拝聴するにとどめた。

「播隆の初登頂が文政年間のいつなのか」。黒野氏はその年月にかなり拘泥していた。私はあまり関心なかった。
 なぜならば、平安時代にはすでに険しい「剣岳」に行者が登っていたからだ(錫杖が見つかった)。
 谷川岳の断崖絶壁の一ノ倉すら、江戸時代には登られている。どの時代にも、軽業師のような天才的な身軽な人物がいるし、チャレンジ精神が果敢な人もいる。だから、播隆以前にも、槍ヶ岳に登っている人がいた可能性は高い。

 いま現在、それを裏付ける史料がないだけかも知れない。現在よりも、さらなる後世で、円空あたりが登っていた史料が発見されるかも? そう思うと、播隆の初登頂の年月は、私にはあまり興味がもてなかった。
 山岳信仰として、播隆上人が「槍ヶ岳講」を作った事実だけでよかった。

 黒野氏から、他には教わることが多くあった。

 今年(2014)の7月初旬から、飛彈・信州の「山の恩恵」の関連取材を行ってきた。顧みると、こと播隆上人となると、推理・推論が多く、やたら一人歩きしていた。手にした出版物を見ても、裏付け史料が明確でない。なにが事実だろう、と首をかしげてしまう面に出くわす。
 
 明治時代の半ばに、弟子たちが書いたという播隆上人の『行状記』がある。「後世に書かれた昔の話は嘘が多い」という格言がある。まさに、それだと思う。

 槍ケ岳で猿や六匹の熊が出てきて播隆を敬服するとか、小倉又十郎なる者が槍ヶ岳を初めその他の山々を残らず支配しているとか、槍ケ岳の描写もやたら大袈裟で、これは実際に見ていない書き手だと明瞭に解るほど、怪しげな内容が多い。
 おおかた娯楽読本として書かれたものだろう。

 播隆上人論では、大なり小なり、『行状記』を採用して書かれている。しかし私は、明治時代以降に書かれたものは、二次加工だろうと思い、『行状記』は史実として採用しないつもりだ。

 史料の数など少なくても、別段、関係ないとおもう。務台景邦の庄屋日記、本覚寺、玄向寺に遺る播隆の自筆からストーリーを付けていく。小説は史料と史料の隙間をストーリーで埋めていくものだから。

 天保5年が槍ヶ岳開山(開闢・かいびゃく)だ。この年には、上高地から焼岳・中尾峠を越えて飛騨側に行く新街道づくりの歴史が動きだす。これまでの通説を覆す、古文書も入手できた。
 小説は盛り上がった処から、書きだす。これは鉄則だ。第1行はどうするか。主人公はだれにするか。最も魅力ある人物は誰だろう。
 いまは頭のなかで、それを常に考えている。

江戸時代の恐怖の拷問を考える=飛彈高山陣屋

 飛彈の山々の広葉樹が紅葉した10月30日、高山に出むいた。目的の一つは飛彈高山陣屋の内部にある「白州」を確認することだった。刑事関係の取調べ場所である。
 現代は証拠主義だ。江戸時代は「自白主義」だった。
「やつが犯人だ」「こやつが怪しい」と思えば、徹底的に問い詰める。拷問をかけても自白を取る。

 江戸時代は、映画やTVで、町奉行が死罪を命じる場面があるが、それはあり得ない作り話である。死罪は老中の決裁が必要だった。町奉行、勘定奉行、寺社奉行、道中奉行、あらゆるところが罪を裁くが、死罪は老中が決めるのだ。あるいは認める。

 当然ながら、老中決裁は2-3年経つことも多かった。この間に、獄中死すれば、塩漬けにして、老中が決裁を待つ。現代では信じられないが、死体を保持しておいて、「獄門」など死罪が決まると、死体を打ち首にしたり、獄門台にさらしたりするのだ。
 
 遠島、死罪(獄門、磔など)、追放、百叩き、おもだった刑罰はそんなものだから、現代でいう刑事罰は死罪か追放か、二者択一に近い。なにしろ禁固刑や懲役刑がないのだから。

 容疑者は奉行所や代官所などの白州で取ら調べられる。
 現代感覚の些細な窃盗(10両くらい)、使い込みでも、死罪だ。奥さんと不倫も獄門だ。関所破り、贋金づくりなど、ともかく罪を認めれば、死罪で命を捨てることになりやすい。

 どんな拷問を受けても、「ハイやりました」と言わなければ、老中決裁で、死罪はまず成立しない。白州が生命の分かれ道だ。

 農民一揆は気の毒だ。農民たちが、不正な年貢の取立てだとか圧政を訴えて、江戸に出て直訴すれば、死罪だ。拷問の末に、獄門・晒し首だ。

 飛彈高山で、大原騒動が起きた。18年に間に渡る。農民一揆だ。大原とは大原彦四郎郡代、そして息子の大原亀五郎郡代(現在で言えば、県知事)が、弾圧を加える。農民は徹底して抵抗運動をする。幕府は武器で鎮圧する。それでも、農民は武力なしで、死を決した直訴で抵抗する。

 強訴、籠訴、越訴、など身分の高い人(江戸の勘定奉行・老中など)に直訴すれば、その場で捕まる。飛騨に送りもどされる。白州の取り調べが待っている。


 白州は尖った小石が敷かれている。茣蓙を敷いて、その上に朝から夕方まで正座させられて尋問を受けるのだ。
「誰の命令で直訴してた。名主の指示か」と問い詰める。応えないと、洗濯板のような拷問台に座らせて重い石を抱かせる。自白すれば、芋づる式に白州に呼び出される。だから、答えない。

「これでも白状しないのか」と、役人は逆さづりしたうえで、鞭で叩く。

「殺すな」と指図する。拷問で死んでしまうと、こんどは役人が老中の許可なしに、死罪にした、と責任を問いつめられるのだ。
 だから、調べる側も調べられる側も、命がかかっているのだ。

  私はこれまで「大原騒動」はまったく知らなかった。子どもの頃から農業に縁遠かったせいか、「農民一揆」には殆ど関心を持たなかった。

 歴史小説の仮題「天保の信州」の取材をしているうちに、飛騨側からも覗いてみようと、脚をむけた。そして、田沼意次時代の飛彈の農民一揆を知った。膨大な金額の搾取が、田沼に流れていたのだ。大原郡代は武力で農民の鎮圧を計りつづけた。しかし、抵抗は止まない。

 本郷村善九郎(前・上宝村)が18歳の命を散らした。若い妻は身ごもっていた。彼は飢餓で苦しむ村人のために、壮絶な人間ドラマを演じていたのだ。

 縁遠く思っていた飛騨の歴史だが、「人間はここまでやるか」と為政者側と農村側に、かれらの死闘の極限と炎をみた。
 かれが拷問に遭った。白州を見に出かけたのだ。

 壮大なドラマは18年後に、新たな展開を生んだ。老中・松平定信邸の門前に張り出した、農民の直訴の訴状が、定信の目にとまったのだ。

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「拾ケ堰」を歩き、十返舎一九を発見する=安曇野ブームの原点③

 小説は取材に裏づけられないと、面白くない。だから、私は書く上で取材人間に徹している。
「取材に行けば、かならず得るものがある。新発見に巡り合える」
 それが私のモットーである。
 無駄かな、と思っても、ささいな情報でも、あえて出かけていく。敷居が高くても、拒否は解っていても、ときには強引にアポを取って押しかけたりもする。

 歴史小説・仮題「天保の信州」を書く上で、安曇野(あずみの)市の大規模な拾ケ堰(じゅうかせき・用水路)の掘削事業は外せない。農民の提案から松本藩を巻き込み、紆余曲折の末に成功させた。結果として、荒れ地の扇状地の豊科が生まれ代わり、安曇野と名を変えるほど、豊かな農耕地になった。と同時に、風土と文化を変えた。

 人間どうしの戦い、人間と自然との闘い。そして、和睦(わぼく)へと運んでいく人間の知恵は、小説で描くに十二分に価値あるものだ。まずは現地を知る必要がある。


 地元新聞が紹介したイベント「拾ケ堰開削と十返舎一九の藤森家滞在」10月25日に参加した。大糸線・島内駅8:40から、旗を持ったツアーだ。これまで登山、観光地で、よく見かける光景が、私にすれば初めてのツアー参加だった。
 参加者は地元の人たちばかりで、東京からの参加は私ひとりだった。
 
 奈良井川(ならいがわ・木曽川)の取水口から、拾ケ堰(じゅうかせき)の用水路が真横に伸びる。総延長15キロのうち、川の取水口から約3キロを歩いた。
 

 本流の奈良井川は木曽の山奥から流れて、この安曇野にとどく。木曽の御嶽山で噴火事故を起こした後だけに、ちょっと複雑な心境だった。奈良井川をのぞき見れば、その水流は豊富だ。勢いが良く、水の音にも強い響きがあった。川底が段さになると、白波が立つ。東京で見る淀んだ穏かな川とはまったく違う。

 イベントの主催者が、堰(用水路)の土地確保など如何に苦労したか、どう成し遂げたか、と道々に語ってくれる。

 1799年(寛政11年)に、 庄屋・中島輪兵衛などが計画した。土地買収、測量、一方で住民の妨害などがあった。絵図面と見積願書を松本藩に差し出すまで、約17年の歳月がかかった。

 やがて藩の許可が下りて着工となると、1816年(文化13年)の雪解けの 2月11日から工事に着手し、3か月で工事を完成させた。(新暦だと1か月遅れ)。投入された人足が5万3000人強で、まさに人力による突貫工事であった。

 
 拾ケ堰は奈良井川の取水口から、総延長15キロへと真横に伸びていく。北アルプスの山奥から平野に縦に流れてくる川にいくつも出合う。
 拾ケ堰はこれらの川と十文字の交差する。
「現代ならば、川底の地下に土管を埋めれば、流れるけれど? 江戸時代はどうしたのだろう」
 参加者は口々に疑問を投げかけていた。

「梓川といちど水を合流させ、あらためて水の取り入れ口を作った。梓川の真下を通るサイホン方式は、大正時代になってからできた」
 案内者はそう説明していた。
「ちがうな」
 私はあえて口にしなかった。

 江戸時代にもサイホン方式があった。私はことし土木史学の専門家(大学助教授、水関連の専務理事)に取材し、その施工知識を持っていた。中島輪兵衛の記録にも明瞭に記録されている。この案内者は古い土木用語を知らないから、見落としているのだ。
「小説のなかで展開すればよいことだ」
 あえて主催者に異論を唱えなかった。

 3キロ歩いた後、信濃教育生涯学習センターで座学となった。成相新田組の大庄屋の藤森家善兵衞が当初、十か堰に乗り気でなかった。奈良井川の周辺を中心として、掘削予定地の約半数の土地を持っていた。それを供出するには抵抗があった。
 各村は水不足がちで困っている。水が不足すれば、稲の育ちが悪く、稲穂が病気になる。凶作の都度、救助米を願い出たり、年貢の猶予を申し出るありさまだった。
「大庄屋の権力は強いのです。十か堰など作らなくても、自分たちはさして困らない」
 他の村々は、長年、指をくわえていた。あるいは隠れて測量をした。

 文化11年8月11日。十返舎一九が安曇野の藤森家にやってきた。一日泊まった。そこから藤森家の流れが前向きに変わった、と解説者の丸山さんが推論を述べていた。
 松本藩が856両、民間でも白沢民右衛門が2000両を寄付する。大事業だ。人気がある戯作者の一九が仲介の労を取った。その解釈は無理だな、と思った。
 しかし、流れは変わったことは事実のようだ。やがて拾ケ関の完成につながった。

 この座学で紹介された「安曇野文学」を2冊買い求めた。帰路のバスで読むと、同NO.29には、十返舎一九「御法花(みのりばな)」が翻刻版として載っていた。
 一九が善光寺参りの途中で、安曇野の満願寺に滞在し、そこで得た逸話を小説化したものだ。読んでみると、奇抜な発想の講談の面白さがあった。
 一九は江戸時代に執筆だけで食べられる人気作家だった。「御法花」の作中から、霊魂やキツネなどの登場を削除して読むと、「人間の業と慾」を巧く捉えている、なるほどな、と感心させられた。


 一九の小説が木版で増刷続きとなるほど、全国に一躍その名を知らしめた。その背景には、江戸中期には寺小屋制度の発達があった。女児も簡単な読み書きができる時代になった。だから、平がなで、女子も読める絵本風で、一九作品は人気を馳せた。
 勧善懲悪とか、野次サン・喜多さんの愉快な物語が爆発的に受けたのだ。

「安曇野文学」の「御法花」を読みながら、こんなにも漢字が使われていたのかな、当時の女子はこれだけ漢字があって読めたのかな、と疑問を持ちながら読み進んでしまった。この疑問が私の脳裏で彷徨していたから、感情移入して楽しめなかった面もある。

 作品の解説で、現代用に漢字に置き換えて読みやすくしている、と説明があった。最初に明記してほしかった。


 同誌のなかで、太田千代子作「山田多賀市『人間寄進』を読む」が目にとまった。安曇野を背景とした、悲惨な物語だと紹介している。読んでみたい気持ちになった。

 同誌27号でも、一九の藤森家の訪問が取り上げられている。一九が訪問した8月11日は2016年8月11日から施行される祝日「山の日」と重なっている。
 これも、奇縁だなと思った。

「中房温泉」で発見。松本藩の隠された歴史=安曇野ブームの原点②

 長野・あずみの市の取材協力者から、地元新聞のイベント情報の小さな記事がFAXで入ってきた。それは『拾ケ堰開削と十返舎一九の藤森家滞在』だった。10月25日(土)8時40分に松本市JR島内駅(大糸線)に集合である。

 「拾ケ堰」(じっかせき)は私の歴史小説の主要素材の一つ。これまで車で何度か拾ケ堰を見ているが、一度は丁寧に歩いてみたいと思っていた。

「前泊で行こう」
 夜に到着してホテル入りでは、勿体ない。そこで、24日(金)の早朝、いきなり自宅を出て新宿に向かった。
 朝9時頃のタイミングで、中房温泉の百瀬(ももせ)社長に、午後の取材を申し込んだ。
「今日のきょうのアポだ、どうかな? もしだめならば、松本市文書館に出むく」
 と択一の気持ちだった。

 百瀬氏は快諾してくれた。

 大糸線の最寄駅から乗った山岳バスは1時間余り。車窓の左右は山が燃えている紅葉の盛りだった。乗客はふたり。贅沢三昧な気持ちになれた。中房温泉に到着しても、標高は1500紅葉が周辺の山肌を染めていた。

 文政4年に、庄屋だった百瀬茂八郎(ももせもはちろう)たち、5軒が中房に温泉宿を作った。松本藩が日本でも有数な「みようばん」の採掘をはじめたのだ。採掘の工夫たちが泊まる宿だった。
「ミョウバンは湯に溶かし、絹糸をほぐすと艶が出るんです。高く売れました」と百瀬氏は教えてくれた。
 絹の着物は贅沢(ぜいたく)品だと言い、江戸幕府はなんども奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出している。江戸時代の三大改革など、奢侈禁止法につきる。

 幕府から武士を含めて、贅沢(奢侈・しゃし)禁止を出す。倹約を推奨・強制する。その法令が出されても、その時だけで、直ぐになし崩しになる。人間は禁止されるほどに、贅沢品や嗜好品を手に入れたくなる。むしろ、絹の需要は却って高まるばかりになった。

 松本藩はくるしい藩財政を救うために、幕府の目をかいくぐり、あるいは方針に逆らい、秘かに養蚕振興を推し進めていた。桑畑は目立つからつくるな。しかし、畦に鍬を植えれば、根が強くて畦の補強になる、と口実を設けた。藩は庄屋を通じて、「農商の女は夜なべして養蚕と織物に勤めよ」と命令を出している。


「松本藩は幕府に洩れないように極秘にして、通行手形がないと、中房温泉には入れなかったのです。麓の有明には関所が2か所ありました」
 百瀬社長が語った。
  
 ミョウバンは鉱石でなく、結晶なので、雨に溶けると教えられた。だから、湯に溶けて繭の糸をほぐすことができるのだ。絹の売買は一日市場(大糸線に駅名が残る)などで、藩外からきた商人によって取引がなされていた。

 百瀬家の歴史をひも解くと、長野・三郷の小倉村の庄屋も兼ねていた。槍ヶ岳登頂の播隆(ばんりゅう)上人が登山基地にした村である。だから、播隆とも関わりが深い。
 なぜ、播隆が信州に来たか。それには独自の解釈を持っていた。播隆が百瀬家に長く滞在したので、それなりの根拠があるのだろう。新田次郎氏も、「槍ヶ岳開山」の執筆前に、百瀬家に取材に来たと話されていた。

 通説の播隆の槍ヶ岳登山ルートとは違った見解を持っていた。今後、それらも参考にし、検証していきたい。

【つづく】

「あずみの」開拓は信玄・謙信の侵略から=安曇野ブームの原点①

 長野県・安曇野(あずみの)は、いまや年代層を問わず人気スポットだ。過疎化ばやりの地方にして、安曇野は流入する人口が増加している。その人気の秘密はなにか。
 
 全国でも最大級の美観の土地だが、江戸時代中期まで、豊科と呼ばれ、荒れた扇状地だった。飛騨山脈の裾野にあって山肌が数千年、数万年前にわたり崩れて、川で運ばれ、堆積した石と砂礫の不毛の土地だった。
 上高地から流れてくる梓川は、この扇状地の豊科までやってくると、厚い砂利の堆積岩が、底の抜けた笊(ざる)と同じで、川水が地下水に変わってしまう。
 結果として、山間の上流には水があるが、扇状地の下流に水が及ばない。上流の田畑でたっぷり給水してしまうと、下流の水が枯れ、凶作になる。村どうしの対立が数百年もつづく。さして遠くから、足を運んでくるほどの景観でなく、緑のない灰色の大地だった。

 水は高い処から低いところに流れる。川は上流から下流に流れる。これは水の原理である。

 それを覆(くつが)して、水を真横に流す用水路(横堀)ができれば、扇状地に広域に川水がいきとどく。耕作の水があれば、新田開発ができる。米の石高も上がる。
 江戸時代初期から、しだいに真横に川水を流す、開削技術が発達してきた。この技術は信州地方で自然発生的にできたのではない。

 信州の歴史をひも解くと、武田信玄と上杉謙信が何度も侵略を試みた。その都度、地元の武将や民が犠牲になってきた。戦争は悲惨なもので、人間の醜さが極度に現れる。斬殺された山城も信州に残る。戦争は美化してはならない。とはいっても、一面で兵器や高度な科学技術が持たされて、民政に転用され、その進歩が産業を興したり、発展に寄与したする面がある。

 甲州・武田はなんといっても金銀掘削の鉱山技術が優れている。さらに「信玄堤」で有名な河川土木の技術は日本一だった。
 武田軍勢の豊富な資金と優れた戦術と巧妙な戦術は、信州の武将が太刀打ちできず、落城続きだった。武田軍勢の強い武将たちが、つど長野への侵攻となった。
 侵略者たちは占領地の民から搾取ばかりでなく、経済の向上を図るのが常だ。それがを安定した統治になるからだ。

 武田の鉱山技術や河川土木の技術が信州に入り込んだ。
 それを裏付けるとなるのが、安曇野には甲府武士たちの苗字をもった子孫が実に多い点にある。このことは何を物語るか。武田軍の侵略後、武士は統括の為政者として住み、甲州の技術と知恵を授けながら、信州に定住したきたと解釈できる。

 安曇野には、大小の横堰(真横に流れる川)がおどろくほど多い。これらは『信玄堤』の河川の掘削技術が信州に入ってきたから、成せる技だった。

 代表的な用水路が「十か堰」(じっかせき)で、1817年(文化14年)に完成した。奈良井川(別名・木曽川)から川を横に引き、水を取り入れ、約15キロにわたり、ひたすら標高570メートルに沿って、狂いもなく真横に流れる用水路を作ったのだ。

 この十か堰の完成で、川が養分が豊かな水を運び、豊科の扇状地全体が肥沃な土地になった。 本流の奈良井川にしろ、梓川にしろ、雪解け水で冷たい。稲は南洋からの植物だ。横に流れる浅い川は、本流の冷たい水を直接引き込むよりも、水温が高くなる。それが稲の発育を促した。まさに、松本藩は安曇野だけでも、一万石の石高が上がったのだ。

 松本藩は安曇野だけでも、年間2万5000俵の増産となり、緑豊かな稲作地帯となった。


 安曇野のどの地点に立っても、広大な田園と山岳に囲まれた絶景である。風光明媚な情景にみせられてしまう。聳(そび)え立つ豪快な峻峰が西北にどこまでも連なる。魅せられて見飽きない。黄金色に染まった夕陽が、稜線の肩に知てくると、自然の神秘が心の奥まで染めてくれる。

 江戸時代の長野・善光寺参りの人々はこの美観に感銘し、あえて安曇野を通っていく参拝客が増えてきたのだ。飛騨山脈の美峰が聳(そび)え、安曇野の緑の大地が拡がり、そのコントラストが途轍もなく、旅人の心を潤してくれる。
 それが現在における、安曇野観光ブームの原点にもなったのだ。
 
【つづく】