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旅の情感、萩を訪ねる 「世界遺産とは大げさだな」

 山口県の萩に歴史取材に出むいた。

 廃藩置県で、最も早くに、お城を壊したのが萩城だ。

 ここらは小説で描くのだが、

 それにしても、お城が石垣だけとは、妙にさみしいものだな。 

 

 博物館に出むいたが、吉田松陰と高杉晋作ばかりがやたら目立っていた。

 松陰は、幕末の侵略軍事思想家だった。
 かれの思想の影響で、どれだけ多くの戦争犠牲者を出してしまったことか。

 高杉晋作がつくった奇兵隊は、荒れくれ者を大勢集めていた。結成当時から、略奪・強奪をしている。戊辰戦争が終われば、不満分子の巣窟となり、乱を起こす。
 最終的には、木戸孝允に鎮圧される。

 世界遺産となった宿命なのか。

 博物館が歴史的な公平さを欠いて、負の面を隠して賛美し過ぎているので、失望した。


 大学生のころに来た萩だが、

 街なかを散策しても、当時の記憶はほとんどよみがえらなかった。

 

 取材に旅立つ前日、山口県・下松(くだまつ)市の親友ふたりと、東京・大崎で懇親した。

 かれらは萩の街並みを賛美していた。

 とくに城壁の町はいいよ、自転車で回ったら、と強調していた。

 
 城壁の町はなぜ残っているのか。

 萩藩が幕末に、藩政を山口に移したから、

 萩の町は古いまま残っている。


  

 干し柿の構図が面白かった。

 もうすぐ寒い日が来るのだろうな。

 日本海側の冬は過ごしたことがないので、体感的にはわからないけれど。

 和服の女性が、ともにスマホで写真を撮っていたので、

 声がけして、撮らせてもらった。

「被写体にも、責任を持ちなさい」

 私は、そんな写真指導をしているので、彼女たちにいくつかのポーズをお願いした。

 狙い通り、ふたりは笑顔を浮かべてくれた。

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (3)

 日本国内では、このごろ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平などを中心として「朝鮮討つべし」という征韓論が巻き上がっていた。
 鎖国政策の朝鮮が、明治天皇の国書の受理を拒否した。その国書には「皇」、「勅」という文字があり、それは清皇帝しか使えないものだ、こんな国書は朝鮮に対して無礼だと言い、突き返したのだ。
 江戸時代を通して、朝鮮は対馬藩しか交易をしていない。新政府とは交易しないという。日本政府が幾度となく交渉をくりかえしても、国書を突き返される。

「明治天皇の国書は、欧米の国は快く受け取っておる。隣国の朝鮮がひじ鉄をくらわすとはけしからん。朝鮮を征討するべし」
 それはかつてペリー提督がわが国にみせた、武力威圧的な開国要求を真似たものだった。日本中がその方向に流れていた。征韓論が閣議決定された。
 
 明治6年9月13日、岩倉使節団が欧米9か国から帰国すると、征韓論に反対を唱えた。西郷たち征韓論派は、政府の中心から排除された。

 徳川幕府を倒した主力は薩摩藩なのに、新政府は冷遇している。薩摩の下級藩士は爆発寸前にあった。下級武士の不満のエネルギーを台湾征伐に使おうと、薩摩出身の西郷隆盛も、大久保利通も、大山綱良の出兵提案にたいして賛成、推進派だった。
「ここは、清国に琉球住民は日本に帰属すると意思表示する好機だ」
 日本が清に対して強気の態度を見せる。
 宮古島の台湾遭難事件が、征韓論から台湾出兵に目を逸らす好機ととらえたのだ。

 明治政府は、まず外交交渉に及び、副島種臣を清に派遣した。
 清国側は、「琉球は清国の属国であり、琉球人が害を受けたか、否かを問わず、日本には全然関係ない事件である」と突き放した。
「それでは清国は、台湾の生蕃(せいばん、中央政府に従わない原住人)をしっかり統治しているのか」
 副島種臣が問うた。
「生蕃は化外(国家統治の及ばない地)の民である」
「化外の民とは、つまり統治できていない民という意味だ。わが国は兵を派遣して、害を及ぼす台湾の生蕃を討つ。そのときになって異議を唱えないように」
 副島は揚げ足を取ったのだ。

 副島は帰国して、台湾征討の必要性を強調した。薩摩藩の下級士族などは狂喜した。

 しかし、徹底して反対したのが木戸孝允だった。日本国内は経済的も疲弊している。
「国力増強、富国と近代化が優先だ。戦争などすれば、日本は疲弊してしまう」
 それでなくとも、明治の御一新で期待した人民の不平が高まり、士族の乱、農民一揆が多発している。戦争などしている場合ではない。木戸孝允はかたくなに台湾出兵を反対して下野してしまう。

 明治7年、閣議決定で台湾征討が決定した。明治天皇は出兵の勅許を出した。そして、西郷従道にたいして台湾征伐の命令が下った。

 ところが、台湾征伐中止の事態が起きるのだ。
                              
                                     【つづく】

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (2)

 明治時代~昭和半ばまで、海外侵略の軍事国家となった。日本の為政者たちは、「戦争」という表現を回避し、事変とか、征討とか、出兵とか、自国民の目をごまかす言いまわしが得意だ。その実、やましい侵略だから、事故・出来事のような語彙でカムフラージュしてしまう。

 私たちは、歴史年表で明治7年の『台湾征伐』と教わるていどで、経緯などほとんど知らない。ましてなぜ、他国を征伐する必要があったのか。

 この『台湾征伐』には3つの侵略目的があった。
① 明治新政府には、一つは独立国の琉球国を日本に組み入れる。
②「台湾」を植民地にする。
③ 国内的には、戊辰戦争の原動力になった下級藩士らが、職も、身分も奪われた新政府の冷遇にたいして反乱を起こしはじめたから、台湾征討で、その不満を逸(そ)らすためである。


 琉球国とはどんな国であったのか。歴史をさかのぼってみた。

 文保元(1317)年には、宮古島の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)と記録されている。このころから「蜜牙古(みやこ)」と歴史書に現れてくる。
 1365年には、与那覇原軍が宮古全島を統一した。豊見親(とぅゆみゃ)時代となった。
 
 沖縄本島に琉球王国ができたのは、14世紀から15世紀だった。この琉球王国が武力で、先島諸島を攻めてきた。結果として、宮古群島と八重山群島が、琉球王国の支配下に入った。16世紀である。

 17世紀に入った途端に、1609年3月、薩摩藩が軍船100余隻、兵3000余を投入して琉球全土を侵略してきたのだ。わずか一週間で、琉球王府を屈服させた。

琉球は清国の属国でもあり、薩摩藩の植民地であった。

 琉球王朝は、「清王朝」を宗主国として、君臣関係の冊封(さくほう)あった。わかりやすくいえば、琉球の産物を貢物として清の国王に献上し、「臣」(属国)となっていた。
 片や、17世紀に薩摩藩が侵略した殖民地でもあった。沖縄本島の那覇には、れっきとした琉球政府があり、薩摩藩はそれを認めながらも、過酷な税で搾取していたのだ。

 薩摩藩の侵略の狙いはなにか。それは琉球・清国貿易に目をつけたもので、その「交易」利益を薩摩に貢がせるものだった。片や、領土権、施政権は琉球王府にあり、独立国家として存続させた。

 ここに複雑な問題が残った。
 宗主国の清王朝からみれば、琉球国府は存在しており、君臣関係の冊封(さくほう)があり、支配下にある、という考えだ。

 那覇の琉球王府は、清王朝と薩摩藩に、二重に貢ぐことになった。自分たちの負担を軽減するために、1637年から宮古・八重山に『在番』が常駐させて、人頭税を課した。
 15歳から50歳まで(数え年)の男女にたいして、頭割で村ごとに連帯責任による税を課した。その平均税率は8公2民であり、世界でもっも重い過酷な税だった。
 土地は硬く粘土質で、石ころの痩せており、肥料も買えず、毎日が重労働だった。栄養失調と体力消耗で過酷な使い捨ての命だった。

 人頭税反対の一揆も起きたが、弾圧されてしまった。先島諸島のかれらは、毎年、帆船で那覇に税を運んでいた。(明治36(1903年)に廃止)。

 ペリー提督が浦賀に入港し、翌年に「日米和親条約」を結んだ。同じ(1864)年に、同提督は琉球国政府と交渉し、『米琉和親条約』を結んだ。欧米から見れば、琉球は国際的には独立国だった。これは歴史的事実である。
「植民地になったからと言い、国家が消えたわけではない」
 ここらは現代でも、勘違いしているひとが実に多い。


 明治4(1871)年9月に、明治新政府は清の間で、「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」を結んだ。双方が対等な立場で結んだ条約だった。

 ところが翌年、明治5(1872)年9月に、明治新政府が、琉球国(尚泰王・しょう たいおう、19代最後の琉球王)を琉球藩として、日本に日本の版図(はんと。勢力範囲)に組み込み、琉球藩とし、尚泰王は藩主となった。
 怒ったのは清国である。日清の双方はここから対立がはじまった。

 このときに、宮古島の台湾遭難事件が起きた。同年10月18日、宮古島の『頭』(郡長・島のトップ)仲宗根玄安ら、主従が那覇に人頭税(年貢)を納めた帰り船(144石積み船)4隻が、嵐に遭遇し、台湾に漂着したのだ。
 台湾の原住民(パイワン族、クスクス族)によって、54人が殺害された。

 鹿児島県知事の大山綱良が、明治政府へ提出した「上陳書付属書類」には、生き残った者の証言から、
「殺した人の肉を食うという説がある。また、脳を取りだして薬用にする、という説がある」
 と報告がなされた。
「琉球藩の日本国民だ。国民に害を及ぼしたものを問罪(罪を問いただす)する」
 大山綱良が出兵を明治新政府に要請した。

 琉球国を琉球藩にした直後だ。当然ながら、琉球は日本人ではない、と清国は猛烈に明治新政府に抗議する。

【つづく】

北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(下)

 150年前、朝鮮は興宣大院君((こうせんだいいんくん)の時代だった。日本と同様に、かたくなな鎖国政策をとっていた。1866年には、開国を強要するフランス軍が上陸し、侵攻してきた。朝鮮はそれに打ち勝った。フランスは大勢の犠牲者を出した。(日本が、長州征討の年)
 それから5年後の1871年には、アメリカが開国を要求し、力で侵攻してきた。朝鮮はそれも排撃した。当時の朝鮮は、ロシアに門戸を閉ざし、明治新政府となった日本からの、修好条約の要求を退けている。外国からの強要や威圧には、精神的にも強かった。

 かれらは朝鮮民族は優秀だ、世界最強の軍隊だという自負心をもった。そして、かれらは朝鮮全土に斥和碑を建てた。『侵略してくる洋夷と戦わなければ、結果はそれらと和することになる。和を主張するのは売国なり』と記す。

 その左側には、『わが子々孫々を戒めて、丙寅年(1866)年に創り、辛未年(1871)に建立するとする』と刻まれている。

 日清戦争後、朝鮮は日本の植民地にされてしまった。しかし、『和を主張するのは売国なり』と言い、太平洋戦争のさなか、金日成が独立への旗揚げした。かれらは旧日本軍とたたかった。

                    『写真 : 李朝時代の末期に活躍した興宣大院君』


 日本が敗戦で戦争が終結した。その後、朝鮮が南北に分断し、北朝鮮という国家が誕生した。朝鮮戦争においても、北朝鮮は最強のアメリカ軍を釜山まで追いつめていった。反撃に遭い、38度線で、和平に応じたのだ。

 朝鮮は内戦に強い歴史がある。TVなどで北朝鮮の国民が声高に、米帝国主義に打ち勝つ、というのも、そんな歴史的な背景があるからだ。

 日本の評論家や政治学者は、米国、中国、ロシアを中心としたパワーバランスで、北朝鮮の核武装を論じている。150年の近代史、現代史から、北朝鮮の軍隊的特徴があまり加味されていないのだ。


 いずこの軍隊も、突然変異的な軍事行動はまずしないものだ。民族的な特性や、過去の歴史的な特徴、そして現在の環境から軍事行動がきまってくる。

 朝鮮の特徴とはなにか。豊臣秀吉、旧日本軍とちがい、内戦は強いが、外国侵略をしないことだ。ここらは最も重要視するべき点だろう。


 イデオロギー面で、社会主義国家としてソ連は失敗した。中国もどちらかと言えば、もはや資本主義理論でまわっている。
 北朝鮮もこの先、経済的な資本主義に巻き込まれていくだろう。全体主義から個人主義へと静かな移行がはじまるはずだ。
 片や、狭い国土で、くり返される核実験は、国民に放射能被害をおよぼす。為政者が強行する核実験においても、ブレーキがかかってくるのは自明の理だ。


「攻撃は最大の防御だ」という日本人的な発想で、わが国が他国と共同歩調で北朝鮮に侵攻すれば、激しい戦争になるだろう。核兵器だって使ってくるだろう。

 朝鮮の150年の歴史をしっかり分析すれば、ミサイルを持ち、核を持った北朝鮮を「世界最強の軍隊の一つだ」とおだてておけば、満足する民族だ。

 アメリカが社会主義のキューバの核武装化に脅えた時代がある。ベトナム戦争で、北ベトナムの南下にも脅えた。それから半世紀たてば、和合しあえるのだ。
 中国と台湾がいまや手を取り合う時代だ。

 日本にはABCラインという経済封鎖で、太平洋戦争への突入になった苦い歴史がある。いま、北朝鮮の「核の使用」という過剰な恐怖におびえ、経済封鎖が声高になっているが、私たち負の歴史の経験からしても、それは逆効果になる。

 国連において制裁の決議でなく、経済面で、北朝鮮を世界市場へと導く、交易の門戸を大きく開くべきだ。ならば、世界中を駆け巡る北朝鮮のビジネスマンが大勢生まれる。社会主義からごく自然に資本主義に移行してくるだろう。

 個人にしろ、国家にしろ、制裁には報復がつきものだ。朝鮮はみずから軍事力で出てこない民族だけに、北朝鮮の軍事活動を国外へ呼びださないことだ。(旧日本軍のパールハーバーのように)。

 核の脅威を拭い去る最大の道は、北朝鮮の国民一人ひとりが、はやくに個人主義へと移行できる、加速させるように導くことだ。それが北朝鮮の核の拡大を根本から止めさせる道になる。歴史から導かれる最良の策だ。
 
 

                                            【了】

 

防護服で、「高間省三」碑に墓参 = 福島・双葉町

神機隊の砲隊長・高間省三が、戊辰戦争の激しい戦いの浪江の攻防戦で死す。有能な藩士で、頼山陽2世ともいわれた、頭脳明晰で、文武両道に通じる若者だった。

 広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。



 さらいねんは維新150年である。広島護国神社(藤本宮司・写真の右端)は、高間省三の遺品が劣化しつつあるので、約200点をすべて写真撮りし、永久保存版の本にしたい意向がある。

 その作業がスタートした。

 神社の所蔵写真から、現在は広島藩の兵士らの墓地の写真撮りへと移った。ことし2016年7月20日から2泊3日で、茨城県・福島県の、それぞれの墓地に出むいた。
 
 高間省三が眠る双葉町は、福島第一原発の事故から、現在も残留放射能の濃度が高く、特別許可が必要である。

 7月22日は、その双葉町に出むいた。


 戊辰戦争で亡くなった広島・浅野家藩士ら一部は、東京・泉岳寺にも祀られている。そちらの写真撮りも成されている。

 泉岳寺といえば、赤穂浪士「四十七士」の墓で名高い。なぜ、と思われるだろうが、広島・浅野藩42万石は宗家であり、赤穂浅野家は5万石で分家だった。

 赤穂浅野家はお家おとり潰し(改易)で、家臣は浪人になり、四十七士は斬首でなく、切腹になった。むろん墓地などない。浪人といえども、元もとは浅野家の家臣たちである
 宗家・広島浅野家の配慮で、菩提寺・泉岳寺に祀られたのである。


 ちなみに、大石内蔵助の遺髪は、当時、生き残った志士のひとりが宗家・浅野家で祀ってほしい、と広島まで持ってきた。その遺髪が現在、広島市内の墓地に祀られている。
 あまり知る人がいないけれど。(そこには高間省三の顕彰碑もある)。

 浅野家家臣の有能な高間省三は、なんと18歳で、藩校・学問所(現在の修道高校)の助教だった。第二次長州征討が勃発寸前には、同校OBら55人で、広島にきた小笠原老中を暗殺を企ててまで、戦争を阻止しようとした。

 しかし、それはかなわず第二次長州征討は起きてしまった。大政奉還後も、鳥羽・伏見の戦い、さらに戊辰戦争へと戦火が拡大した。

 高間省三ら神機隊は自費で出陣した。そして、相馬・仙台軍と激しい戦いに望んだ。

 ひとたび戦争がおこると、反戦の若者でも出征して命を落とす。「戦争は起こさせたら駄目だ」。それを小説で感じ取ってほしい、と私は高間省三を主人公にした「二十歳の炎」を出版した。

 現在は三版。少しずつではあるが、高間省三の生き方を通して、明治政府が封印した芸州広島藩の幕末の動きが知られはじめた。
 
 幕末の中心は薩長土肥でなく、「薩長土芸」だと認知されてきた。

幕末史の真実を明らかにする。「近代史革命」と名づけたい

 最近は海外で、江戸幕府の政治が注目を浴びてきているという。それを『德川の平和(パックス・トクガワ)』と称しているようだ。

 戦国時代という大混乱を経験した後、徳川政権が樹立した。延々と260年間も戦争しなかった、平和を維持できた要因はなにか。政権の仕組み、豊富な人材、戦争否定の思想と掘り下げられているようだ。

 私たち日本人は、明治政府が作った教科書の延長線上いる。だから、維新三傑「木戸孝允(長州). 西郷隆盛(薩摩). 大久保利通(薩摩)」.は素晴らしいとおしえられてきた。

 それは本当だろうか、と疑う日本人は少ない。『民を豊かにし、富国にする』のが、真の政治家の努めだ。それでなければ、政治家になる資格がない。それなのに、広島・長崎に原爆投下されるまでの、77年間もの戦争国家の下地を作った人物たちを英雄視している。


 「島原の乱」を経験した江戸幕府は、そこから治安の安定を図るために長く鎖国をしてきた。しかし、西欧列強のアジア進出が強まり、中国から、琉球、さらには日本(当初は長崎)へ外国船がやってくる。

「天保の改革」に失敗した水野忠邦だが、開国への模索をはじめていた。つぎなる阿部正弘政権になると、米国の国書をもったビットル提督、7年後にはベリー提督がともに江戸湾の浦賀に来航してきた。


 江戸幕府は、德川将軍の独裁性を放棄し、全藩の合議、意見を聞くという、中央政権型に移行させた。大小の藩主、公家、楼閣の主までも意見書(上書)を出し、そこで幕府が選択したのが『戦争しないで開国』する道だった。
 日米和親条約の第1条の自由尊重にもとづいて、みずから全国一斉に「踏絵」を禁止させた。開港し、友好を高めながら、通商・貿易で国を富ませる近代化へのレールを敷設させたのだ。

 これらができる有能な人材が政権内にいて、近代化路線と中央政権づくりを進めていく、自浄能力があったのだ。
 ある意味で、日本人の素晴らしさだ。


「外国に蹂躙(じゅうりん)されて開国した」、「德川は無知蒙昧だった」、「西南雄藩は先進性で、江戸幕府は後進性だった」、そんなふうに、私たちは学校教育でおしえられてきた。
 
 その論旨は日本国内で通用しても、『德川の平和(パックス・トクガワ)』を高く評価する海外の人たちには通用しない。

 なぜならば、雄藩と自負する薩摩や長州などは、藩政改革と言いながらも、藩=領地にこだわる保守型で、後進性が強かったからだ。
 德川政権がおしすすめる開国思想には猛反対し、藩の権利を守ろうと、攘夷(じょうい)を叫び、国内を騒擾(そうじょう)させた責任は重い。


 徳川幕府は政権の限界を知り、みずから平和裏に天皇に大政奉還をした。ところが「鳥羽伏見の戦い」という下級藩士のクーデターで、京都にできた明治新政府を転覆させてしまったのだ。それが東京の明治政府だ。


 暴力で政権を得れば、おおくは戦争国家をつくる。この政権は、崇拝すべき天皇を神として利用し、国民を支配し、戦争へと突き進んだ


 このところ『維新150年』と一部で声高になってきている。この節目が、もしや潮流の変わり目で、歴史評価があるべき姿に変わるかもしれない。
 なぜならば、日本は海外からの影響を受けやすい民族だから、『德川の平和(パックス・トクガワ)』が広まるほど、対比法で、明治時代の恥部が次つぎに露呈してくる可能性がある。


 これまで日本人が声を大にしなかった出来事が、表面化してくる。たとえば、キリスト教徒の外国人からみれば、浦上四番崩れ(よんばんくずれ)などは問題視する。江戸幕府は「踏絵」を止めさせた。しかしながら、明治政府は一転し、日本は神の国だと言い、長崎市・浦上天主堂を中心としたキリスト教徒たちへ大規模な弾圧事件をおこなったのだ。

 かつての隠れキリシタンの信者たちは、数千人の大規模で、津和野、萩、福山に送り込まれた。老若男女を問わず、真冬の水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前で子供を拷問するなど、その陰惨さ・残虐さは近代史最大の恥部だ。

 それを長崎で指揮したのが木戸孝允だった。ローマ法王など外国からみれば、木戸孝允は無辜(むこ)の民のいのちを蔑にした、異常な性格の政治家だと言い、日本近代史のなかで、とてつもなく評価を下げる。
 海外の目からみれば、ゼッタイに許せない非人道的な宗教弾圧なのだ。150年経っても、その恥部は消えない。

 
 鳥羽伏見の評価も変わるだろう。……、「鳥羽伏見の戦い」が、德川政権り平和国家から、明治政府の軍事政府に変わったターニングポイントだ。

 京都の天皇に「討薩の表」を持参する德川家の大目付役、それを警備する先頭の数百人(見回り組)は銃に弾詰していなかった。つまり、戦う軍隊ではない。
 それなのに、西郷隆盛の命令で、無抵抗な相手に銃弾を撃ち込んだ。

 当初から戦闘する気などない相手に奇襲して勝った、幕府軍に勝った、慶喜将軍は大阪城から逃げだした、と明治政府はおしえてきた。
 明治政府の情報にはウソが多く、これみよ、と高々に謳(うた)いあげる英雄史観で金メッキをほどこされている。虚偽が多いから、鵜呑(うの)みにできない。

「まだたった150年ですからね、真実は幾らでも出ますよ」
 これが歴史学者の共通認識だ。150年前の家屋、物置などが現存し、そこに資料が眠っている。海外の大学、博物館の倉庫は、日本の幕末史料の宝庫かもしれない。 
 なぜならば、当時はかなり外国人が日本にいたからだ。
 イギリス、フランス、アメリカ、オランダ人(軍隊指導者)から、実態はこうだった、と書き残した客観的な目撃証言なる海外資料がきっと発見されてくるだろう。

 
 明治10年の西南戦争は、西郷隆盛にしろ、大久保利通にしろ、必要な戦争だったのか。大勢の薩摩の若者を死へ導いた。むろん、政府軍側も血を流させた。
 戦争終結後から、結果として、山縣有朋の徴兵制を勢いづかせてしまった責任は重い。


 長州閥の政治家の伊藤博文、井上 馨、山形有朋が共謀し、日本の公使・三浦 梧楼(ごろう)が実行犯で、朝鮮の王妃・閔妃(びんひ)を殺害した。
 4人とも長州出身だ。
 かれらの残虐な行為が日清戦争の引き金になった。そして、10年に一度の戦争国家へと突き進む。

 他国の王室の皇后陛下を殺害した事実は、日本の歴史教科書で学べなくても、海外からはなんども発火してくる。隠しようもない事実だから。


 『德川の平和(パックス・トクガワ)』が発端となり、明治政府がねつ造した幕末史のメッキが、海外からはがされてくる可能性は否定できない。
 となると、維新三傑「木戸孝允. 西郷隆盛. 大久保利通」などは、逆評価が加速し、日本史上の最悪の人物とみなされる可能性すらある。

 過去の英雄たちの歴史評価が真反対にくつがえされる。歴史学からすれば、『近代史革命』と称しても良いのではなかろうか。

 
 私は各講演、講座で、この『近代史革命』を推し進めようと考えている。それが私のテーマ、だれが77年間もの戦争国家をつくったのだ、という解答になるからだ。


写真撮影、土本誠治さん : 第6回幕末芸州広島藩研究会  

途中下車の旅、真夏の京都で散策=観光外国人が多し

 

 中学の修学旅行は、奈良・京都だった。

「また、寺か」

 バスのなかで、私はウンザリしていた。そのつぶやきが、側にいた教師に、聞こえたらしい。

「おまえは、車内に残っておれ」

 夕方、旅館につくまで、ずっと車外には出られなかった。

 京都に来るたびに、それを思い出す。



  京都は、ことし(2016年)2月にきた。真冬だから、人出は少なかった。

  広島に行く途中で、真夏の京都に立ち寄ってみた。


  西洋人でも、女性はきものを着ると、3歩下がって歩くのかな。
 

  声をかけると、気安く、笑みを浮かべて撮影に応じてくれた。

  あまりにも、かしこまってしまい、写真としては歩く姿の方が良かった。


  中学の修学旅行で行けなかった寺のひとつが、銀閣寺だった。

  京都はよく立ち寄るが、これまで銀閣寺は意地でもこなかった。

  約半世紀たった今、やっと心の解禁だった。



 そうそう、龍安寺も、修学旅行で来なかったな。


 祇園から八坂神社あたりは、このところ着物、和服姿の女性が多い

 ことばを聞けば、7-8割が東洋人だ。

 きものは人気なのか。


 日傘にきもの姿は情感がある。

 きっと日本人だろうな。

 ふたりの雰囲気からして。

 

 私は旅先の買い物(みやげ物)はまったくしない。

 ちらっと横目でみるだけだ。


 店の外で、戯れているのは、アジア系のひとたちだ。

 存分に、楽しんでもらえばいい。

 「旅は恥のかき捨てだ」

 死語になったのかな、最近はきかない。

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天草下島の見聞の旅=景観と歴史

  天草にきたな、という実感がわきます。

  河浦の地には、コレジョ(大神学校)が開講されました。(1591-1597年)

  


 案内者の坂本龍爾さんが、崎津教会に案内してくれました。


 天草の民家の造りを見れば、豊かなところだとわかります


 開放感に満ちた光景が、旅の心をのどかにさせてくれます。

 陶芸工場に立ち寄ると、江戸時代の大変珍しい、陶器を利用した藩札をみせてくれました。


 
 世界平和大使の人形の館です。

 57か国・117体のお国柄の人形は、見応えがあります。民族衣装にはウットリさせられます。



 水産高校の練習船が停泊していました。船長にモデルになってもらいました。



 

  富岡港に停泊する水産高校の練習船です


 グーデンベルグ印刷機です。

 日本初の金属活字による印刷が行われました。

  



 「天草市立天草キリシタン館」を訪ねました。

 天草四郎の陣中旗などが展示されています。なぜ、天草・島原の乱がおきたのか。それが理解できます。

 夏休みの子どもの学習には最適です。


 天草沖合に出れば、イルカの群れがみえるそうです。

かつしかPPクラブが、鹿児島、日置とで、交流会 = 郡山利行

 かつしかPPクラブ会長の浦沢誠、穂高健一、そして私・郡山利行が、2016年7月19日は鹿児島で、20日には日置市で、現地の方々と交流会をおこなった。

 3年まえ(2013年6月)の新潟県・『白根大凧合戦』の交流取材に次ぐものだ。

 7月19日は夕方6時から、約3時間、芸州の作家の穂高健一さんと、薩州の近代史第一人者の学者・原口泉さんらを中心とした交流会をおこなった。
 やがて、作家と学者が延々と幕末維新談を問い語りしはじめた。

 原口先生は、初めてと思われる芸州情報にいっぱい接し、『今日は、目からコンタクトが・・・』と、嬉しそうに、お湯割り焼酎を何杯もお代わりした。 

 写真の撮影時刻は、午後9時半ごろのお開き直前である。


 日置市では、郡山宅に、成田浩さん(日置市議会・議長)ら、市役所のお2人を招いて、「かつしかPPクラブ」の活動を浦沢会長が熱心に語った。

 歓談会の飲み物は、ビールから焼酎(ロックとお湯割り)。肴は、吹上浜で獲れた魚の刺身や、ニガウリなどである。

 地元の行政にかかわる人たちに、持参した小冊子を披露した。私の砂時計の取材記事は特に関心を持ってもらえた。
「日置市でも、こうした活動がなされると良いですね」
 と穂高さんが勧めていた。

 掲載写真の撮影時刻は、7月20日午後8時7分である。戸外はまだ暗くない。(東京よりも、約1時間ほど日没が遅い)。それを利用し、ろうそくの明りにこだわってみた。

 幕末維新の志士たちが、熱く明日を語った。そんな雰囲気を、ささやかに真似てみた。

   

西沢溪谷の一周、10キロ。秘蔵写真の発掘ほどでもないが?

 5月29日の写真がある。このころの西沢溪谷は新緑だった。いまは夏山シーズンに入った7月初旬だ。

 掲載のタイミングを逃せば、まずは見聞に価しないものだ。

 
 しかし、10年来にして、初の20代の女性が加わった。われら登山隊としては歴史的なできごとだ。その写真を封印することはできないぞ。

「さあ、のぼろ。行こう」

 先頭はむろんリーダーだ。


 西沢溪谷の登山口で情報を得ようと、バス停から徒歩5分で、まずは茶屋に入る。

「ほんきかよ。はじめから、ルートくらい情報を持ってこいよ」
 
 ヨモギ持ちを食べ、むヨモギ茶を飲みながら、地図を広げる。

 10年経っても、この登山隊は進歩がないな。



 登山というほど険阻な道でもない。それでも、明瞭な案内図がある。

 遭難事故など起こしそうもないルートだ。

 最悪の事故は、転倒の捻挫ぐらいだろう。

 なめてかかるなよ。
 



 ひとり準備運動に余念がない。


 行動に統一性がないのが、われら登山隊だ。


「個人の意志の尊重」
 と言ってもらいたいな。



 やっと、明るく笑顔で、新鮮な空気を吸いながら、西沢溪谷のルートに入る。

 女性一人はいると、こうも張りきれるものなのか。

 男は正直だよな。


 吊り橋をさっそうと渡る。

「怖くなんて、ないさ」

 渡り終わると、そう言うんだよな。


 集合写真を撮ってもらおう。

 相手は快く引き受けて、笑顔で、シャッターを押してくれる。

 よく見ると、右端には中近東の得体のしれない人物が写っているじゃないか。

 たのむ相手が悪かった。


 あきらめて、 記念写真はこれでがまんしよう。
 
 


 西沢溪谷は、多彩な滝の連続だ。

 これは良いぞ。

 そう思いきや、カメラ目線をむけてくれる。

「あのな。滝を撮りたかったんだ」

 これが見返り美人だったら、いいのにな。



「滝って、渓谷へ下るんじゃないの。なぜ登るんだ」

 そろそろボヤキが出てきたぞ。


 渓流沿いの平たい道にでれば、

「はい、チーズ」

 こんなポーズもできる。


 都会から離れたんだ。

 新鮮な空気だ。

 森林浴だ。

 もっと胸を張って、楽しく行こうぜ。

 野辺の送りじゃないんだから。
 



 滝はスローシャッターで撮るんだよ。

 手ブレをしない。

 脇を固めるか、なにかしら三脚替わりを見つけると良い。

 あれこれ教えるのは簡単。だけれど、やっては見せてくれなかった。

 その調子、その調子だよ。

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