旅の情景=津和野は美観。しかし、明治時代に残酷な歴史があった
津和野に出むいた。
山口線の駅でSLに出合った。
そうか観光目的で、この路線を走っているのだ。
すれ違いの列車に乗っていたが、すぐさま降りて、3枚ほど撮った。
車掌の制服が良かった。
そちらに向かって小走りになった。
なにしろ、わが列車はすぐに出るかもしれないのだ。
私に真似して、5、6人が降りてきた。
「もう出ますよ」
こちらの運転手に急かされて、戻りながらも、なおもシャッターを押していた。
過ぎ去っていくSLのアングルもいいかな
一両列車の最後尾に行った。
萩・津和野はなにかとセットで捉えられている。
だから、津和野は山口県だと思われている。
その実、島根県だ。
はじめてきた街だが、よく整備されたうつくしい街だった。
この町に、明治初期に悲しくも、過酷な歴史があるとは思えないほどだ。
長崎浦上の隠れキリシタンが、幕末から明治にかけて弾圧された。とくに、明治時代の弾圧は、人間が、老若男女に対してそこまで残忍なことが出来るのか、というものだった。
幕末の各国との通商条約は、宗教の自由を認めるものだった。長崎に教会ができた。すると、隠れキリシタンが礼拝にやってきた。幕府は日本人のキリスト教崇拝は認めなかった。大量に捕縛された。それが「浦上四番崩れ」とよばれる隠れキリシタンだった。
翌年、明治時代になった。新政府はこれらキリシタンを長崎から名古屋から西の10万石以上の藩に移送し、懇々説諭を加えて改宗する狙いだった。
4万3000石の小藩の津和野藩にも、割り当てられたのだ。
なぜ小藩の津和野藩なのか。明治は祭政一致からはじまり、津和野の藩主以下がその指導的な国学者であった。藩主の亀井玆監(これみ)は、岩倉具視に次ぐ地位にいたのだ。
津和野の国学者たちは、「宗教は宗教で改宗できる(善導)」と言いつづけていた。
「そこまで言うのなら、やれるものなら、やってみよ」
最初に隠れキリシタンの中心的な人物が、津和野藩に28人が送り込まれた。津和野藩は、乙女峠の光琳寺に収容した。さらに増えて、小藩の津和野藩に153人のキリシタンを抱えた。
乙女峠のキリシタンたちは、善導しても改宗しない。津和野藩の役人はしだいに焦りを感じてきた。藩主には生殺与奪が与えられていた。拷問は過酷というよりも、人間とは思えない残虐性を持ってきた。
同藩で死亡した殉教者は36人に及んだ。
德川政権下においても、島原の乱が起きた。当初は過酷な年貢の取り立てからはじまった農民一揆だった。それがキリシタン弾圧の口実につかわれた。
原城に立てこもった籠城した老若男女3万7000人は全員が死亡した。(実数は不明)。
江戸時代半ばからは、過度なキリシタン取調べは薄れてきて、日米和親条約がむすばれると、阿部正弘は踏絵を廃止している。
しかしながら、明治時代は祭政一致の政策、さらに廃仏毀釈から、苛酷なキリシタン弾圧となったのだ。
明治時代に配流された者の数3394人のうち662人が命を落とした。純然たるキリシタン殉教者である。
この惨事が西欧じゅうに報道されていた。
そうとも知らず、岩倉具視たち視察団が、江戸幕府が結んだ条約改正に欧米に臨んだ。行先々の王室とか、国会とかで、強い非難を浴びせ続けられたのだ。1年半も面と向かってバッシングされて、あげくの果てにはキリスト教弾圧を理由に、1か国も条約改正に応じてくれなかったのだ。
かれらは帰国後に、キリスト教信仰の自由を認めざるを得なかった。
津和野には、美観と残忍な歴史が織り込まれている。