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西沢溪谷の一周、10キロ。秘蔵写真の発掘ほどでもないが?

 5月29日の写真がある。このころの西沢溪谷は新緑だった。いまは夏山シーズンに入った7月初旬だ。

 掲載のタイミングを逃せば、まずは見聞に価しないものだ。

 
 しかし、10年来にして、初の20代の女性が加わった。われら登山隊としては歴史的なできごとだ。その写真を封印することはできないぞ。

「さあ、のぼろ。行こう」

 先頭はむろんリーダーだ。


 西沢溪谷の登山口で情報を得ようと、バス停から徒歩5分で、まずは茶屋に入る。

「ほんきかよ。はじめから、ルートくらい情報を持ってこいよ」
 
 ヨモギ持ちを食べ、むヨモギ茶を飲みながら、地図を広げる。

 10年経っても、この登山隊は進歩がないな。



 登山というほど険阻な道でもない。それでも、明瞭な案内図がある。

 遭難事故など起こしそうもないルートだ。

 最悪の事故は、転倒の捻挫ぐらいだろう。

 なめてかかるなよ。
 



 ひとり準備運動に余念がない。


 行動に統一性がないのが、われら登山隊だ。


「個人の意志の尊重」
 と言ってもらいたいな。



 やっと、明るく笑顔で、新鮮な空気を吸いながら、西沢溪谷のルートに入る。

 女性一人はいると、こうも張りきれるものなのか。

 男は正直だよな。


 吊り橋をさっそうと渡る。

「怖くなんて、ないさ」

 渡り終わると、そう言うんだよな。


 集合写真を撮ってもらおう。

 相手は快く引き受けて、笑顔で、シャッターを押してくれる。

 よく見ると、右端には中近東の得体のしれない人物が写っているじゃないか。

 たのむ相手が悪かった。


 あきらめて、 記念写真はこれでがまんしよう。
 
 


 西沢溪谷は、多彩な滝の連続だ。

 これは良いぞ。

 そう思いきや、カメラ目線をむけてくれる。

「あのな。滝を撮りたかったんだ」

 これが見返り美人だったら、いいのにな。



「滝って、渓谷へ下るんじゃないの。なぜ登るんだ」

 そろそろボヤキが出てきたぞ。


 渓流沿いの平たい道にでれば、

「はい、チーズ」

 こんなポーズもできる。


 都会から離れたんだ。

 新鮮な空気だ。

 森林浴だ。

 もっと胸を張って、楽しく行こうぜ。

 野辺の送りじゃないんだから。
 



 滝はスローシャッターで撮るんだよ。

 手ブレをしない。

 脇を固めるか、なにかしら三脚替わりを見つけると良い。

 あれこれ教えるのは簡単。だけれど、やっては見せてくれなかった。

 その調子、その調子だよ。

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第98回 元気に100エッセイ教室 = 結末について 

 作品の三大要素と言えば、

 ①テーマ

 ②書き出し

 ③結末である。

「テーマは絞り込む」、「書き出しは動きのある描写文」、「結末は読み終わって、拍手したくなる」。

①、②は作品を書き出す前の準備段階から、計算できる。また、そうすべきである。ただ、③結末となると、読んでみないと、良し悪しはわからない。

 作品が最後の争いとなると、結末勝負となる。それは読後感、余韻、全体の受け皿など、多種の要素がからむからである。

拙劣な結末」ならば、かんたんに列記できる。

 単なる幕引きはダメだし、締め括りの作者の説明だと失望する。

 落ちをつけると、小細工が目立ち、邪道になりやすい。まして、作中でも言ったことを二度出しすれば、息切れした作品におもえてしまう。


良い結末」にも、それなりの技法がある。

① まだこの続きがある、と思わせる終わり方にする。それには、最後の五分の一くらいは思いきりよく棄ててしまう。それが余韻になる。

② 作品のテーマを最後の1―3行で書き表す。作者が最も言いたかったことがこれか、と理解される。

③ 題名を結末のセンテンスで入れてみる。だから、この題名だったのか、と説得力が出でくる。

④ 書き出しの文章と、結末の文章を入れ替えてみる。双方がリンクしていれば、強い印象に結びつく。

⑤ ラスト一行は、「 」会話文で終わらず、短いセンテンスの地の文にする。

⑥ 予想もしていなかった、目新しい意外性で着地させる。作品が光る。

⑦ 作者があえて自分の心を観察する心理描写にする。読後感が強まる


 体操競技では、着地がぴたり決まる。それが妙技の演技になる。
 おなじことがエッセイの結末にも言える。「巧いな」と言わしめれば、それは作品全体をしっかり受け止めたよい結末である。

 ①~⑦を組み合わせると、それに近づけられる

自民党・谷垣禎一さんから『穂高さん、名刺頂戴よ』= 日本山岳会・晩餐会

 日本山岳会は、創立110周年記念式典と、祝賀晩餐会が、2015年12月5日に、京王プラザホテル本館5階で開催された。皇太子殿下の参列の下、約600人があつまった。

  来賓祝の壇上で、「全国山の日」協議会の谷垣禎一(さだかず)会長が、来年8月11日から施行される国民祝日は、すでにカレンダーに赤い印がついており、第一階の全国大会は長野県・上高地に決まっています、と述べられた。

 この法律は、「山の日」が単に登山の日だけではなく、私たちが山に親しみ、山の恩恵を享受する場だと広く国民に認めてもらう機会であります。

 親と子が山の自然を楽しむ。そして、たくましい人材になってもらう。こうした取り組みでもあります、と述べられた。

 さらに、来年は日本山岳会がマナスル初登頂(世界初)の大偉業を成功させてから60周年記念にあたります。「山の日」と重ねあわせると、2016年は同山岳会にとっても、たいへん意義あるものです、と他に学会長は語った。

 日本山岳会晩餐会では会長挨拶、永年会員、新人紹介、鏡開など、恒例の催しものが展開された。
 これら一連の祝賀が終わると、各テーブルマスターの下で、歓談が行われた。


 わたしは歓談が一段落したころ、 「全国山の日」協議会の谷垣禎一会長のところに、タブレットをもって出むいた。現在・松本市本社の「『市民タイムス社』で、山の日に関連した、新聞連載をしています、とつたえた。「山岳歴史小説・『山は燃える』です。

『毎日なの?」
「はい。この10/1から来年3/31まで8か月、毎日ですから、240回連載です。松本市の画家の絵も毎回入っています。「山の日」に向けた記念小説です。

 さかのぼること、昨年五月に同法案が衆参両議院で可決された後、「山の日」推進メンバーの衛藤代議士、務台代議士などから、「山の日」らしい歴史山岳小説を書いてよ、と言われました。
 
 毎月2度は信州・飛騨に入り、深く取材してきました。約一年余りで、連載に入り、来年8月11日には単行本にして出版します。と概略伝えた。



「楽しみだね。ぜひ読ませて」
 そう言いながら、どんな内容なの? と質問された。


 安曇野は北アルプスの数千年、数百年のがけ崩れから、厚い砂礫岩の地層でした。川が地表深く入り、地表は水田ができない、不毛の地でした。とりもなおさず、水がない貧農の集落でした。

 安曇野は九州の海賊・あずみ族が移り住んだところである。
 農民らはいちずに水が欲しいと思いながら、飢えていた。

 文化・文政のころ、村の有志が、数百年の夢だった、農水路の開削に取り組んだ。奈良井川(旧・木曽川)から、15キロにもおよぶ等高線に沿った水平線の農水路だった。難行苦行。貧農には金がない。土木技術がない。まして水争いの地だ。土地の提供などあり得ない。暴漢に襲われるなど、不承諾の抵抗運動が起きた。十数年の粘り強い努力がなされても、光が見えなかった。


 東海道五十三次の続編の取材で、十辺舎一九が安曇野にやってきた。ここで、大逆転が起きた。そして、 松本藩も協力し、巨大な拾ケ堰が完成した。

 農水路が完成する。喜んでばかりいられない。青々とした水田が広範囲にできることは、米が余り、米価が暴落するになる。そこで、山国の飛騨へ米を送る道を手がけた。


 安曇野からまず常念岳山脈を越えて上高地に下る。そこから焼岳の肩を越える(旧・鎌倉街道)を通り飛騨への道をつくる。これは2600~2700の高所を二座越える、とてつもない大事業だった。

 さらには、政治的な高い壁があった。

 松本藩は許認可を出した。だが、飛騨がわは幕府の支配地で、機密主義である。鎌倉街道はかつて武田軍が信濃から五度も飛騨を攻めた、軍事の道だった。

 徳川家は江戸防衛から、鎌倉街道の開削を承諾しない。しかし、好機がきた。それが天保の大飢饉だった。交易の道が飛騨がわに必要となったのだ。

 この当時、槍ヶ岳を開山した播隆上人が安曇野にやってくる。農民らはそれを支援する。


   【皇太子殿下が撮影された写真のまえで、谷垣禎一さん】


 谷垣会長さんには、、『山の恩恵』の水で、拾ケ堰ができて、いまでは日本一住みたい緑豊かな安曇野になった。上高地を経由する山道で、江戸時代のいっとき交易が盛んになった。そして、山岳宗教が同時代にあった。

 文化・文政、天保時代の安曇野には、まさに祝「山の日」の恩恵を描く素材がありました「新聞小説は実名です。過去には地元作家すら書いたことがなく、大人気だそうです」
 とタブレットをみせながら、説明した。

「来年の8月11日に、その小説も花を添えるね」
 谷垣さんは、大いなる期待をしてくれた。
「期待しているよ。穂高さんの名刺を頂戴よ」
 谷垣さんから言われた。

2年前に名刺を交わしているが、その時は儀礼的だった。こんかいは自民党幹事長みずから、名刺を頂戴、と言われたので、この連載小説にたいして谷垣さんは期待してくれている、と強い気持ちが持もた。

朝日カルチャー・公開講座『柴又を歩く、撮る』(上)取材撮影の方法

 2015年11月14日(土)は雨だった。
 朝日カルチャー・千葉主催の第3回目となる公開の「歩く、撮る」シリーズが、柴又で行われた。講師の私は雨男で有名であり、またしても雨だった。(登山仲間は私といくと雨だと言いきってしまう)。

「場所が写真からわかる。それとなく組み込む」
 寅さんの銅像前で、最初のレクチャーを行う。

「写真は若いカップルの方が印象が強い」

「私は朝日カルチャーで写真を勉強しています。撮影させていただけますか」
 取材あてに声掛けしてみる。身分を明かせば、応じてくれるものだよ、とトークの仕方もおしえる。

 思いもかけず、モンゴルからきた関取だった。引退後、ランニングで、百数十キロの体躯が現在になった。四股(しこ)を踏んでもらった。

「動きを撮りなさい。いちばん動いているものは煙でしょう」
 焼き鳥屋のお兄さんに声がけして、何本も焼いてもらった。

 めずらしいおもちゃ屋がある。
「店だけ撮っても、ダメですよ。たとえ後ろ向きでもいい、人物は入れなさい」

 人物を入れることで、店の大きさも表現できる。

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松本『市民タイムス』新聞連載、山岳歴史小説「燃える山脈」が生まれるまで

 瀬戸内海の島っこが、信州・飛騨の山奥の農民を書く。それも歴史小説として。取材に入った時、農家の生活、農業について、いかに無知蒙昧かと思い知らされた。1ラウンド、10秒でダウン。そのくらいいきなり叩きのめされた。
 それからの取材・執筆で、1か月半で、ことし10月1日からの新聞連載小説としてスタートした。1か月が経った。
 この作品が生まれるまでを振り返ってみよう。

 国民の祝日「山の日」が国会で通過したのが、2014年5月だった。
 私は「山の日」推進委員会のメンバーの一人だった。成立が決まった初会合では、同法案の超党派議員の推進役だった会長・谷垣さん、副会長・衛藤さん、事務局長・務台俊介さんら国会議員が壇に立ち、笑みで、思いのほかに早い制定を喜びながら、
『「山の日」は登山だけでなく、山の恩恵に感謝する日です』
 と趣旨を語っていた。

 会合後の同パーティー会場(憲政会館)で、ふいに務台さんから、「穂高さんって、長野の方」とネームプレートを見ながら、そう問われた。「ペンネームです、学生時代から登山が好きだったので」と答えた。
 その出会いから、「燃える山脈」が生まれた。

 私はちょうど幕末歴史小説「二十歳の炎」(芸州広島藩を知らずして幕末史を語るべからず)を出版していた。
 務台さんから、「山の日」が成立したばかり。同法案の趣旨に関連した歴史小説を書いてくれませんか、と提案を受けた。
 天明・天保の長野には、「拾ケ堰」、「飛州新道」、「槍ヶ岳・播隆上人」の素材があり、同時代的に絡み合っているし、山の恩恵に絡むので、と説明を受けた。

 私は一つ返事だった。その実、2-3年後、某新聞社で、維新150年にむけた、鎖国から開国へ大きく舵を取った『阿部正弘』の連載小説の話が進んでいた。
 天明・天保時代から德川政権の土台がしだいに狂ってくる、幕末史のスタートでもある。阿部の執筆とも結びつくかな、という思いがあった。

 取材は信州(長野県)と飛騨(岐阜県)に入った。
「農業は利口じゃないと、できないんですよ」という話を聞いた。自然環境は例年同じでなく四季の変化に対応する。変化対応業だと教えられた。

 私は広島県・島出身で、造船業の町で、田地はゼロだった。農業はまったく知らない。高校一年の時、山越えした先の学校近くに田んぼがあったから、田植えをはじめて見た。自転車で横目で見た通りすぎた3年間だった。大学から東京でまわりに田地などない。
「農業は無知だ。大変なこと引き受けたな」
 と取材を重ねるほどに、その思いがつのるばかり。

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幕末歴史小説「二十歳の炎」が3刷=芸州広島藩は幕末史を変えるか

 拙著「二十歳の炎」(日新報道・1600円+税)が、出版社から、3刷に入ります、と連絡が入った。
 小説はベストセラーにならなくても、ロングセラーで売れてくればよい。

 過去の大物歴史作家はすべてヒロシマ藩抜きにして、幕末物を書いてきた。なぜか。それには芸州広島藩の浅野家の史料が、明治維新の実態を赤裸々に示すものだと、厳重な封印がなされたからだ。もう一つ、広島城下町が原爆で廃墟になり、史料がすべて消滅したという二重の要員があった。

 解らないことはかけない。当然だ。歴史家は広島藩を迂回して、最もらしく書いてきた。あるいみで、大ウソばかり並べていた。禁門の変で朝敵の長州・毛利家の家臣は京都に入れなかった。それなのに、薩長倒幕だという。あり得ない。

 第二次長州征伐は長州が勝ったというが、山口県に入ってきた幕府軍の火の粉を追い払っただけで、どこにも侵略したわけではない。せいぜい、小倉と浜田くらいだ。日本中に影響など、与えていない。船中八策など偽物もないし、大政奉還には関わっていない。広島県・鞆の浦沖のいろは丸事件で、将軍家・紀州藩から7万両も強奪した龍馬が、なぜ英雄になるのか。かれはグラバーの単なる鉄砲密売人・運搬やではないか。

 過去からの通説、明治政府が作ってウソの教科書まで、見破ったのが「二十歳の炎」である。
 広島のことは知らないから、読者からいちどもクレームが来ない。「知らないことは文句が言えないのだ」。私たちが知らない原子物理学に対して、質問すらできない。ノーベル化学賞者にも、なにも疑問をむけられない。
 そんな現象が芸州広島藩だった。
 
 広島県の小中学校の郷土史も、「毛利元就から原爆まで、一気に飛んでしまう。」というほど、99%の広島人すら知らなかった。

 いま広島で売れている「二十歳の炎」だが、いずれ全国区になる、あるいは歴史教科書を変えていくだろう、と信じて疑わない。
 思想弾圧があっても、いちど発行した本は消えない。それが数十年先でもいい、ただしい幕末史になってほしい。温故知新。故きを温ねて新しきを知る。その古いところが真実でなければ、将来がミスリードになってしまうのだから。

【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (下)= 川上千里

日本の大都市から地方都市まで


 ルメイは日本の6大都市を焼き尽くせば、日本は大混乱になり、降伏するはずだと考えていた。ところが予想に反し、日本は徹底抗戦の姿勢をとり続けた。
 米国空軍が発注したB29は次々と生産され1000機にもなり、焼夷弾も量産されてくる。
早急に実績を上げる必要に迫られたルメイは6月17日から全国の都市爆撃を開始した。
 大都市で焼け出され、地方都市へ避難した人が再び被災した。

                         『廃墟と化した大阪市内』

 爆撃を受けた都市は全国で200ヶ所にのぼり、60都市の市街地が灰燼に帰したのである。


無差別爆撃の始末

 無差別爆撃に関しては、ドイツ軍はスペインのゲルニカに対して実行したり、日本軍は重慶を爆撃し、イギリス軍はドイツのドレスデンに行ったことなどが有名である。しかし、国中の都市を焼き尽くす作戦を実施したのはアメリカのみであり、しかも広島、長崎に原爆も投下している。

 ハーグ条約には軍事関連施設以外の爆撃は禁止されている。だが、戦後、無差別爆撃について国際的に議論がなされることはなかった。

 「私は米国の将軍だったから英雄になったが、敗戦国の将軍だったら処刑されていたであろう。」ルメイは言っている。

 戦後の日本は自国の反省も充分行わず、相手の無法さを指摘することもなく、悲惨な事実に真正面から向き合う姿勢が欠如していた。
 その上、占領軍のアメリカの非が追及されることなく、今日に至っている。

                        『ルメイ将軍』

 事もあろうにルメイ将軍には1964年、佐藤栄作総理の時代に「日本の航空自衛隊育成に協力した」と勲1等旭日大授章を贈っている。
 天皇陛下は贈呈の際、直接手渡す親授はしなかったという。この異例な行為は亡くなった国民に対する配慮であろう。

 知っていることを話す
 私は飛騨の山奥育ちで、小学校2年で終戦になったので、真の戦争体験者とは言えない。しかし伯父をはじめ、多くの村人が戦死した事実に遭遇し、戦後の生活を通してかなりの知識はある。
 定年後に戦前・戦後の写真集やDVDを買い集め、パワーポイントで子供達への語り部を始めた。
 子供たちだけでなく親や大学生なども、ほとんどの人達は初めて詳しい戦争の話を聞いたという。これまで学校では近代史を教えていないのである。我々世代が語り継ぐべきと考え、出来る限り今後も続けたい。

                          『写真週刊20世紀 100冊 』

 早乙女さんの言われた言葉が胸の底に響いている。
「知っているなら伝えよう。 知らないならば学ぼう。平和は歩いてきてくれない。」

                             【了】
             資料提供【東京大空襲・戦災資料センター】

【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (上) = 川上千里 

 筆者紹介。川上千里(男性)は、岐阜県・高山市上宝町本郷の出身です。東京の薬大・製薬会社から、現在は「子ども平和教育」などに力を注いでいます。川上さんの視点はつねに「犠牲者から見た平和」があります。
 そのルーツは「本郷村善九郎」にあります。
 江戸時代中期、幕府直轄領の飛騨国で、18年間にわたる農民一揆(大原騒動)が起きました。日本最大級の一揆で、幕府の弾圧は凄まじく、刑死など犠牲は計り知れなかった。農民に銃までむけました。
 弱冠18歳リーダーで非業の死を遂げたのが「本郷村善九郎」です。かれは死しても、若者の熱意と魂は受け継がれてました。最後は大逆転で、農民の勝利でした。
 老中筆頭・松平定信が、飛騨高山陣屋の役人の腐敗を見破り、大原郡代、元締、手代、手付など「武士として切腹もさせてもらえない」斬首、遠島など、全役人がことごとく処罰されました。

「貧に苦しむ民のために戦う」善九郎の精神が、川上さんの「犠牲者から見た平和」の視点はつねに重なり合うものがあるのです。

                          写真『戦火の下で』

東京大空襲を語り継ぐ (上)  川上千里

 
 
 戦後70年にあたり、戦争の歴史を風化させるなとの声が多い。そこで、東京大空襲について調べてみることにした。
                      
                 
 以前から行きたいと思っていた江東区にある東京大空襲の資料館を訪ねてみた。


 2002年に被災者の家族や市民など4000名以上の人たちが金を出し合って、江東区北砂に作ったもので、土地は篤志家から無償提供された。
 3階建てビルの1階が受付で、入場料は300円である。

 受付の脇には戦災関連図書などが置いてあり、階段を上がると2階が展示場になっている。2階ホールではビデオ上映や、講演ができ、壁面には沢山の資料写真が掲げてある。
都内の学校ばかりでなく、地方からの修学旅行生も多いという。

                   『講演用の2階ホール』


 この資料館の館長は作家の早乙女勝元氏で、設立以来このセンターの運営に携わってきた。
 運営費、建物の修繕費などの捻出のために講演会を開いて寄付を募り、涙ぐましい努力を続けている。
 昨年、同氏の講演を聞いたが、82才の熱い思いに感動した。
                            
                       『館長の早乙女勝元 氏』

東京大空襲

 東京は昭和19年11月14日以降、米軍の激しい空襲を106回受けたが、とりわけ大規模な空襲は昭和20年3月10日未明であった。

 このため東京大空襲といえば3月10日のことを言う。325機のB29が来襲してきて、一夜にして約100万人が被災し、約10万人の死者が出た。

                        『空襲を受ける東京』     

米軍の方針

 米軍は昭和20年に入ると、日本の都市の無差別爆撃を計画した。丁度、空の要塞と言われる爆撃機・B29が量産体制の入り、と同時に日本用に焼夷弾も開発できた。
 都市住民への爆撃は非人道的だ、と拒否する将軍を更迭し、積極的に爆撃を主張するカーチス・ルメイ将軍を任命した。
 そして、東京を皮切りに日本の200以上の都市が歴史上にない大々的な無差別爆撃にさらされることになってゆく。
                         
                      

ルメイ将軍の作戦



 彼はまず、東京の市街地を焼き尽くす作戦を立てた。そして木造家屋の密集した下町に狙いを定めた。B29から、空中戦用の機関砲類や弾薬、爆撃用の照準器などを降ろし、通常の2倍の積載となる6トンの焼夷弾を積みこんだ。
 その上、普段の8000m上空からでなく、高度1600~2200mの低空から夜間爆撃を行った。
                    『焼け野原の東京』 

 東京下町の市街地へ円周状に焼夷弾を落とし、燃え盛る円の中を塗りつぶすように攻撃した。
 爆撃は2時間半にわたり、風の強い日を選んでいたため瞬く間に火が広がって、下町一帯は一夜にして灰燼と帰した。
                         
                       

焼夷弾とは

 センターには焼夷弾の実物が置いてあり、その大きさに驚いた。
 アメリカ軍はユタ州に日本のモデル市街地をつくり、日本の住宅を焼く専用爆弾として開発した。

                    『空中で中から38個が飛び出す』

 飛行機から投下される前のものは長さ1m以上、直径も30cm以上で、重さは220㎏である。中に2.7kgの6角のクラスター爆弾が38個入っており、空中でバラバラになって降りそそぐ。
 この子爆弾は落下すると5秒以内に鋼鉄製の容器が爆発し、ガソリンを含んだゼリーが1300度の高温で燃えながら半径30mに飛び散る。
 東京大空襲ではこのクラスターが40万発投下され、1㎡当たり3発落ちた計算になる。燃焼・爆発力は強力で、近くに落ちると酸素欠乏が生じ、消防車のエンジンが止まり、窒息死する人も出たほどだった。

                      『落下して爆発した残骸』

 日本側のバケツリレーやはたき消火では、高い家の壁などが燃えだすと全く無力だったという。しかも、火事の場合は逃げないで、消火活動をすることが市民の義務とされていたので、焼死者がいっそう増えた。

                           
                            【つづく】

梅雨晴れ間の週末、箱根路は閑散としていた=郡山利行

 今年2015(平成27)年7月11,12日(土日)に、車で箱根を訪れた。

 今年6月30日に気象庁は、箱根町大涌谷園地付近(噴煙地)に、火口周辺警報(噴火警戒レベル3、入山規制)を発表した。
 箱根町は、地域防災計画に基づいて大涌谷園地への立ち入り規制を行った。


 火口周辺警報が出ている地域は、大涌谷噴煙地を中心とした半径約1kmの範囲内である(地図に加筆した朱円)。
 大涌谷を通る箱根ロープウェイは運転を休止し、近隣県道の早雲山~姥子間は通行止めとした。 また自然探勝歩道・散策路・ハイキングコースも立ち入り禁止となり、さらに警報区域内にある別荘地の一部には、避難指示も出された。


7月11日(土) 晴れ

 昼過ぎには、国道1号線の箱根峠付近にある、『道の駅箱根峠』に着いた。駐車場の車の少なさと、施設内の利用客の少なさに、わが目を疑った。
 箱根では宿泊予定していなかったので、箱根湯本の『箱根路 開雲』に電話を入れてみると、即座に予約することができた。 



 芦ノ湖へ下って、正月の箱根駅伝の地や旧関所跡の付近は、歩道も車道も、遠くまで見通すことができた。大型観光バスを見かけることはなかったが、西欧系の外国人散策者をたびたび見かけた。
 元箱根の交差点付近も、湖尻桃源台付近も、仙石原の交差点付近も同様で、車の運転は、ゆったりとできた。午後3時ごろ入ったポーラ美術館は、大涌谷に最も近いためか、一部の展示品を避難させたので、ご理解を との掲示があった。
 館内にはほとんど人がおらず、セザンヌの特別展を鑑賞することができた。


7月12日(日) 晴れ

 午前中、強羅の曲がりくねった急坂の道路も、対向車をほとんど気にせずに、走ることができた。マイセンアンティーク美術館も、来館者はほとんどなく、館長の村田さんと、伊万里・マイセンの磁器談をすることができた。
 正午頃、仙石原の玄関のような所にある、星の王子さまミュージアム(箱根サン=テグジュぺり)へ。若いカップルを大勢見かけて、ようやく少し箱根らしかった。


 最後に訪れたのが、芦ノ湖西岸の箱根スカイラインにつながる長尾峠の展望台である。 パノラマ写真と望遠写真。 約4km離れて大涌谷を、見ることができた。 晴天ながら、もやがかかって鮮明に見ることはできなかった。 この噴煙が、大事に至らないように祈る。


≪(株)小田急リゾーツ 『箱根を観光の皆さまへ』資料より≫
地図 : 国土地理院ウオッチズ地図(部分)に加筆

1000兆円の赤字国債が2倍になった日、天明・天保の飢饉から学べるのか

 いまの日本に天明・天保と同じ規模の大飢饉が来たら、どうするのか。歴史ものの取材をしていると、ついそんな想いがある。「歴史から学ぶ」。ありふれた言葉だが、江戸時代の大飢饉から、学ぶ努力はしていないな、と思う。

 幕末史は面白い。そちらに目が行ってしまう。江戸幕府が破たんしていく根幹は、天明・天保の大凶作から、国民が飢えてしまったからだ。

 現代の日本は1000兆円強の国債がある。一家族当たり1819万円の負債だ。だれが償還できるのか。これが2000兆円になったら、日本国と大赤字国家になる。
「太陽は必ず沈む」
 ある日突然、外国が借金大国の見切りをつける。金は貸さない、貸し倒れになるから。物は売らない、代金回収できないから。
 こうなると、食料がたちまち底をつく。どのように食べていけるのか。草をかじり、樹皮を剥がし。花壇の花も食べつくす。
 
 天明の大飢饉により、米価が高騰し深刻な米不足が起こった。江戸北町奉行の曲淵景漸が「米がないなら、犬や猫の肉を食え」と発言している。これが為政者のことばか、と庶民が怒り狂った、江戸の打ちこわしに発展した。
 現代ならば、さしずめ、コンピューターがあるから、膨大な天文学的な金額の国債が生まれたのだと、官公庁、企業、大学などのサーバー破壊なのか。

 そんなことを考えながら、福井県・越前市の幕府直轄領だった「本保陣屋」の史跡を訪ねた。天保7(1836)年の全国を襲った大飢饉は、悲惨な餓死者を出した。

 越前市だけでも、4000人の餓死者が出た。子どもと老人から死に逝く。道に倒れたこれら死人を片付ける、健常者すらも薄くなっていった。死体は放置された。どの村にも死臭が漂った。

 それは第二次世界大戦で、日本の都市が焼夷弾で焼かれ、町中に死体が転がった光景に似ている。死体が日常化すれば、人間の眼は死人に慣れてくる。それが怖いところだ。

 戦争と貧困は民に劣悪な環境をつくる。だから、為政者は「国民を餓えさせない」「戦争をしない」の2つが最大の目標とならなければならない。

 天保7年。飛騨国のトップは大井郡代だった。出張り陣屋の「本保陣屋」(高山陣屋の飛び地の領地)に約半年も滞在し、飢えた農民の救済に立ち向かった。
 
 郡代(現・県知事)は勘定奉行(財務・金融大臣)の支配下だから、大井郡代はなにするにも江戸の勘定奉行に伺いを立てる義務があった。

 毎日死に逝く人をみていると、伺い書など書いている余裕がない。緊迫化した日々だ。大井はルール違反の切腹を覚悟の上、自己判断で幕府の蓄米を放出し、江戸の私邸の私財も売り払って金に変えさせて福井に送らせた。そして、庶民に米の購入資金に貸し与えた。
 
 村々を回った時に、村役人が良田を見せようとした。「悪い田んぼを見にきたのだ」と叱った。そして、実もついていない稲の田んぼを見て、わが目で判断し、村々の救済を決めていった。

 こんな為政者は諸国を見渡してもわずかだ。

 現代に置き換えてみる。国債を資金に使いまくる政治家が多い。我田引水の理由をつけて、閥、地元へと公共資金を投入させている。いずれくる大恐慌(ハイパーインフレ)が忍び寄っている。
 2000兆円の赤字国家になった時、海外から物資が来ない。私たちは筋肉もない体力もないからだをさらす、皮膚と骨だけの身を路上に横たえる。そして、死んでいく。

 大井帯刀郡代のような、為政者が日本に現れるのだろうか。幕末志士の英雄願望ではきっと解決しないだろうな。かりに作り物の歴史物語そのままの坂本龍馬が出現しても、2000兆円の赤字国家の借金は返せない。解消できないだろうな。

 私たちは歴史から学ぶ。英雄やヒーローからではなく、庶民の生き様から学ばなくてはならない。そんな想いで、天明・天保時代に向かい合って取材している。