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消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより

新金線は大願成就なるか? 葛飾の夢をもとめて=櫻井 孝江

 葛飾区内には、北から常磐線、京成線(本線と押上線)、総武線(快速・各駅)が東西に横切っている。

小松橋から新小岩駅方面を写す

 しかし、南北を繋ぐ鉄道はない。亀有等から東西線の葛西へ行く時は、バスを利用するか、都心を通って大きく迂回して行くしか方法はない。

 不便を感じている区民もいた。そこで、金町・新小岩間にある線路(貨物の新金(しんきん)線(せん))の利用を旅客用に考えた人々がいた。記者もその一人であった。
 葛飾区内の南北の旅客鉄道の願いが、どのようになっているか 調べることにした。


明治30年12月27日(1897)   金町駅開業

大正15年7月1日(1926) 新金線開通(同時に新小岩操車場開設)

昭和3年7月10日(1928)    新小岩駅開業

操車場を停車場(駅)に変更した

昭和21年(1946)  新小岩駅にて貨物営業開始。

昭和38年(1963)  新中川開通(線路が一部変更になる。奥戸中学校あたり)

昭和39年(1964)  新金線電化

昭和43年(1968)  駅の貨物営業分離で、新小岩操車場駅開設

           操車場跡



・新金線のJR戸籍上は、総武線支線 貨物線である。

・区間は、新小岩信号場駅から金町駅迄である。

・距離は、6,6㎞の全線単線である。


2、新金線の今

 現在の新金線のダイヤは下記の10本である。

① 金町駅発➡新小岩駅着

   0027➡0038(日曜休)

   0624➡0635
 
   1017~1049➡1223~1053

   2131➡2141

   2250➡2301

② 新小岩駅発➡金町駅着

   1523➡1533(日曜休)

   1745➡1758

   1920➡1930

   1949➡1959

   2230➡2241


『新金線に沿って15ヶ所の踏切がある』

 新小岩寄りから、

 奥中区(おくなかく)道(どう)・立石大通り・細田・東京街道・耕道・耕道第二・小松川街道・高砂・新堀・新宿新道・柴又・浜街道・三重田街道・第二新宿道・新宿道である。

 (人・自転車のみ通行)

 新宿新道は、国道6号線と交差している。その他は、のどかな住宅地の中である。

 高砂付近で、金網で囲まれた線路を、金網の隙間から入って、反対側に歩いていく女性を見かけた。

  『これからの展望』

 葛飾区内の南北の鉄道がないので、バス路線が区内の隅々まで行き渡ってきた。新金線沿線を取材していると、かつて、旅客化・複線化を考えていたのではないか と思える場があった。

 新中川を渡る陸橋に沿って、橋脚がもう一列ある。

 橋を渡った線路沿いの一部には、盛り土が幅広くなっているところがある。線路際にある細田小学校の場所に駅を作る予定であった という噂もあった。

 葛飾区都市計画マスタープラン地域別まちづくり勉強会のまとめ(平成21年9月 6日)には、金町・新宿地域と奥戸・新小岩地域から 

○新金線の活用で旅客化できないか。


○電車を走らせなくても、既存線路を活用した新交通システムを活用したい。
 等の意見が出ていた。しかし、JRからは、「貨物線の廃止は、代替路線がないためできない。」と説明済みの返事であった。

 平成28年区議会でのくどう きくじ議員の質問にも同じ回答が寄せられている。

 区議のうめだ 信利さんが、今も新金線の活用を訴えている。

 旅客化となると、国道と交差している部分の問題などがあり、難しくなり、現実化は厳しいと分かった。

                          
                2016.9.19~10.4取材 10.28編集


【情報使用(写真、時刻表、文章)の場合は、下記のクレジットを明記してください】


     かつしかPPクラブ  櫻井 孝江

【寄稿・コラム】 奇跡ってあるんだ~!ご縁も奇跡?= 広島hiro子

 新聞の正月記事は特に念入りにチェックする。国の行く末、平和につながる良いアイデアはないかーと、もう20数年になるだろうか、お陰で私の部屋は新聞記事、書籍などのスクラップの山なのです。あ~~若いころは音楽と恋とお洋服が私のすべてだったのに。
 ひとは出会う人やきっかけ次第でこうも変わるものなのですね。ひとの縁こそが私にとっての奇跡・・・感謝&畏怖する年初であります。

 今日は、1月3日の中国新聞オピニオン記事のなかの奇跡(?)を他ふたつご紹介します。
 ひとつは、物や仕事の縁のことです。穂高健一氏が掘り起こしたといえる「芸藩誌」がそうだと思います。核兵器で壊滅し、歴史をさぐる資料をほとんど失くした広島に、奇跡的に残った「芸藩誌」、これなくしては『二十歳の炎』という高間省三を描いた歴史小説も、生まれていませんよね!?

 仏教大歴史学部の青山教授も史料から、芸州が明治新政府の中心の可能性もとお考えです。学会はまだ注目されていないようですが、青山教授を中心にこれから研究のご予定らしく、歴史を覆す新しい発見になるのではないかと私もワクワクしています。

 しかし、こんなすごい史料、よくぞ突き止められましたね。穂高さんの行動する執念がこの奇跡を呼んだのでしょうね。 求めれば与えられるという奇跡があるんだということが、またすごいと思います。


 それともうひとつの奇跡があります。それは偶然のようなひらめき、インスピレーションです。例えば小説家ならば、予期せぬ言葉が、話をしているときや、一心不乱に小説を書いているときなどに湧いてきたりします。
 私でもありますよ。お風呂で髪を洗っているとき、あるいは目覚める前とか。これがイノベーションに繋がったりしてきます・・・、皆さまのひらめき経験はどうでしょうか?

 このオピニオン記事にある『富国富民』は、きっとインスピレーションという奇跡が起こした言葉なのでしょう。少なくとも私のなかでは奇跡です。
 歴史にある「富国強兵」とは真逆の言葉なのですから。私の希望する平和は、軍事国家で儲ける富国でなくて、民が強く優しく豊かになる国です。

 歴史はシロウトの私が想像するに、幕末の志士たちが欲したのは、近代技術や金融システム以上に、それまでの身分がすべてであった封建時代とは相反する、理想的な民主主義の考え方だったのだと思います。
 実際には本物の民主主義にはほど遠いものにすり替わったのですが、福沢諭吉や二宮尊徳の名言が、これから未来にこそ生きてくると期待しています。

 穂高さんの持っておられる奇跡は、歴史家に不足しがちな経済的理論です。経済学部首席で卒業された? 異色の歴史作家の強み。それに広島出身という地縁も、奇跡的だと感じられます。

 できれば、これからの先生方の歴史の検証をきっかけとして、今昔、誰も民を中心に考えなかった施策に、歴史の偉人たちの熱き志を呼び戻してもらえますように願っています。

 ちなみに、宗教学者からの重要なメッセージがありました。奇跡は、宗教だけの専売特許ではなく、どこにもあるのだそうです。2017年は良くも悪くも、「変化の年」だと思います。勇気ある行動は、思いがけない奇跡を呼ぶかもしれませんね。
 皆さまに、たくさんの奇跡や幸せがありますように。年の初めにて、お祈り申し上げます。


            写真:広島城(原爆で完全焼失したので、復元です)


                                             【了】

小説3.11『海は憎まず』その後は?=防潮堤は身命を助けるか、凶器になるか②

 大堤防、それとも防潮堤なの。巨大なコンクリート壁だ。これが有名な復興の一つなのか。海が人間を見たくないと拒絶したのか。まるで、人間が隔離されているみたいだ。

「この先、大津波がきても、これじゃあ、海の様子はまったくわかりません。押し寄せる津波の恐怖と緊張が実感できず、逃げ遅れるひとも多いでしょうね」

 3.11の体験者によると、防災無線が低い波高を報じたから、それなら大丈夫だ、と油断して津波にのまれて亡くなったひとが多いと話していた。
 家屋が二重ガラス窓で、防災無線は聞こえなかったという人も取材してきた。

『災害無線は大災害に瞬時にして、的確な情報を流せない』
 これは共通認識ではなかったのか。


『大津波は自分の目と肌で恐怖を感じ、避難するものだ』『てんでんこに逃げる』(親でも、子ども、無視して、わが身はわが身で守る、という教え)

 なぜ海が見えない、高さ12メートルもの巨大コンクリート壁を作ったのだろうか。私にはまったく理解できなかった。
『自然災害は、人間が物理的な抵抗をするほど、被害を大きくする』
 そんな教示をした学者もいた。ヒアリングもなかったのか。意見が通らなかったのか。

「漁師さんが沖合から、一せいに海辺に逃げもどってきた先、この高い壁はどう乗り越えるんでしょうかね」

 探せば、巨大な壁のどこかに石段がきっとあるはずだ。現在は工事中で立ち入れず、特定できない。むろん、ゼロとは思っていない。



              写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん


 大防潮堤の外に海水浴場ができるらしい。想定では、真夏には大地震がこないのだろうか。

  賑わう海水浴客が、一気に避難する際、巨大な防潮堤はとんでもない障害物になるだろう。私にはかんたんに阿鼻叫喚(あび-きょうかん)地獄絵の大混乱が想定できた。これは作家の単なる架空の空間だろうか。


                      *


 人間は災害パニックに陥ると、ふだん使ってないルートが判らずして逃げ惑う。この人間心理は真実である。それをどう理解し、この構築物に織り込んでいるのだろうか。

 過去からくりかえされてきたホテル・旅館火災の死傷事故は、心理学的にも、大防潮堤にも当てはまるはず。漁師も海水浴も、われ先に狭い石段に押しかけていくだろう。
 大津波は容赦なく、タイムラグさえもなく、背後から大勢の人間を瞬時に飲み込んでいくだろう。


 
「コンクリートは50年でひび割れしてくる。内部の鉄筋が、沿岸部ならば、なおさらも塩分で酸化してきて腐り、もろくなりますよね」
 これは事実だ。
『固い頭の人間ほど、硬いものは強いと信じやすい』と揶揄(やゆ)したくなる。

  鉄は塩分に最も弱いのだ。強烈な圧力の大津波がきたら、ひび割れたコンクリート堤など持ちこたえられるはずがない。それは杞憂ではない。

 思うところをずばり、歯に衣を着せず、言い切ろう。50年に一度、その都度、巨大な防潮堤が作り変えられるはずがないだろう。

 いまから約50年まえに、「建設国債」というひびきのよい債務が発生した。いまや、それが1000兆円の赤字国債だ。あの建設という枕ことばはどこに行ったのか。


 これからの50年後は、日本人は不安に思っている。倍々ゲームでいけば、おおかた3000兆円くらいになるかもしれない。となると、世界屈指の債務大国だ。ある日突然、世界銀行から融資打ち切り、と同時に、超緊縮の政策指図がもとめられる。世界各国からは、債権の取り立ての渦が巻く。

 泣いても、叫んでも、容赦なく、防潮堤がひび割れていても、日本人の生死にかかわると言っても、外国人は冷淡にいっさい見むきもせず、IMFはびた一文も追加融資などしてくれない。

 債務超過国家となれば、「ない袖は振れない」、その施策しかないのだ。第二次世界大戦後、『予算がない』が役人の唯一の仕事だった。


「高田松原の松林遊歩道」が、大津波で消えてから、5年余りで巨大な防潮堤に変身した

写真提供 : ㈲高田活版 福呼う本舗  撮影者 : 佐藤操さん


「政治は100年の計」どころか、50年先の約3000兆円の国家赤字財政すら、為政者らは視野に入れていなかったのだろうか。
 目先の復興予算を使う。このていどの認識だったら、為政者の資質を問われる。選んだ選挙民が悪いのか。賛成したのは住民だ。論旨はここに落ち着くのだろう。

 なにかにつけて「多数決」「大多数」という便利な道具で、片づけられてしまう。民主主義と人命主義の優劣など……、この場ではやめておこう。
 

 これだけの大規模な予算を使うならば、四車路の避難路をつくったほうが、より安全じゃないのかな。モータリゼーションだから、津波発見となれば、かならずや車で逃げる。緊急車両も視野に入れると、四車線は必要だ。

 為政者は、まさか施工費の高い方を選んだのではないだろうな、と私は疑ってしまった。

【寄稿・】 創造する平和にむけて = Hiro子

 今日、金融機関は平常勤務なのだが、一日早い休みを取った。
 みんな年末であわただしいというのに、私は原爆ドームを前に新しくできた「折り鶴タワー」で、コーヒーブレイクだ。正直、年末大掃除もまだだけど、ちょっとだけ勘弁して下さい。

 今、幕末・明治維新の歴史が熱い。
 明治維新の近代化が日本の夜明けとなったとの一言で、かたずけられている空白の10年。その歴史の大転換点に、注目が集まっている。
 メディアでは最近こぞって、徳川の埋蔵金や、坂本龍馬が死の間際に得た8万両もの資金をめぐる番組などを流している。歴史にうとい私の家族も、いつもならすぐにバラエティー番組に変えてしまうところなのに、先日は最後まで釘づけだった。

 もう何年も前から、幕末の志士たちによる美談にぼやかされた近代のイメージに、待ったをかける話題や書籍は多くなっていた。
 しかし、今は歴史オタクでなくとも、頻繁に庶民が目にするようになってきた。事の正否は別にしても、だ。

 数年前より先んじてネットや新聞で、歴史作家兼ジャーナリストの穂高健一氏が、
「明治維新以来、10年ごとに戦争する国に誰がしたのか?」
 と訴えておられた。

 同氏は更に、こう言われていた。
「明治維新は、それまで(江戸幕府時代)の、封建社会から資本主義社会に変わる転換点だったのだと、日本の金融から世界の金融に変わったのだと、はっきり教科書で教えればいいんだ」、と。

 世の流れは、さらに隠された歴史に潜り込む。
 年始の地元紙では、明治維新に関わる、それぞれの話題を特集するようだ。
(何かが変わってくるのかもしれない……)
 また密かではあるが、そう思えてくる。

 師走の原爆ドームは、今日も静かにたたずむ……、何をかいわんや。

 そうだ、帰って掃除しよう!
 まずは家族の平和から創造するのだ!!


                                【了】

一度は廃城になったが、本ものが残る美城 = 松江を歩く


 鳥取県立博物館で調べ物をした翌日、松江へ足を運んでみた。  

 全国には、本ものの天守閣は12カ所ある。

 その一つが松江城(島根県)である。



 その実、松江でなく、『隠岐騒動』が起きた「隠岐の島」に足を運びたかった。海を渡る1日の日程だと、現地取材もままならず、断念して、松江城にきてみた。

 文献によれば、慶応4年(1868年)の戊辰戦争のおり、隠岐を治めていた松江藩の代官が、島民の蜂起により放逐されている。

 隠岐ではしばしば飢饉への対処が悪かった。さらには外国船の来航・上陸するが、松江藩は無為無策ぶり、成すことも後手後手だった。島民の不満がとうとう爆発したのだ。

 新政府の下で、隠岐に自治政府が成立した。その後、松江藩に奪い返されたが、鳥取藩と新政府の介入でふたたび自治政府が開かれた。


 明治2(1869)年2月25日には廃藩置県よりも2年も早くに、『隠岐県』が誕生している。

 明治維新では、ほとんど語られない『隠岐騒動』の自治政府には、関心がある。もしかしたら、幕末・維新のエキスがあるかもしれない。

 お城ブームで、全国には「復元天守」、「復興天守」、観光目的の「模擬天守」が多数ある。

 ときにはうんざりさせられることもある。

 この松江城の天守閣は本もの。深みと味がある。


 平家・源氏の台頭から約1000年もつづいた武家社会が、明治時代からわずか最初の10年間で消滅した。
 こんな短期の社会革命は、世界史のなかにおいても、めずらしい。

 新政府による「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われた。武家政治の象徴であるお城が「廃城令」で、全国の城・陣屋が次々に取り壊された。「廃刀令」、「断髪令」も加わり、武士という身分制度がこの世から消滅した。
 西南戦争をもって、2度と武士社会はよみがえらなかった。

 なぜ、「廃城令」のなかで、松江城の天守はなぜ残ったのか。

 1873(明治6)年。松江城は、廃城令に基づき、大蔵省の管轄下で、(天守を除く)、お城の建造物が4円~5円(当時の価格)で払い下げられた。解体されて、木材、瓦などが売り払われて国庫に入ったのだ。

 次なる天守も、大蔵省査定により180円(当時の価格)で売却されることが決まった。

 片や、出雲郡の豪農、元藩士らが解体に忍びないと、同額180円で、大蔵省に納めて買い戻されたのだ。そして、現在まで保存されてきた。


 松江藩は親藩で、18万6000石

 松江城は慶長16(1611)年に築城された。

 天守の建造は慶長12(1607)年である。

 幕末の松江藩は、政治姿勢が曖昧で、優柔不断だった。大政奉還・王政復古後の新政府ができても、藩内の意見は、幕府方・新政府方どっちつかず。

 挙句の果てには、新政府の不信を買ってしまった。

 最終的には、新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。

 こうした藩だから、明治2(1869)年は、さっさと『隠岐県』が誕生してしまったのだ。

 歴史は後からなんとでもいえるが、当時は様子見が最善だったのかもしれない。  


 小泉八雲は、ギリシャ生まれのイギリス人であった。元松江藩士の娘セツと結婚して、明治24年6月から同年11月まで、約5ヶ月間の新婚生活を過ごした。


 小泉八雲旧居の目の前には、松江城のお濠がある。

 西洋人の観光客が多く、のんびり景観を楽しんでいた。


 見ごろは桜とお城だろう。

 遠景はいつでも楽しめる
 
 日本さくら名所100選

 日本の歴史公園100選

 日本100名城(64番)
 
 美しい日本の歴史的風土100選


 
 お濠の橋から覗き見と、屋形船にはしっかり広告が記されていた。


 城下の武家屋敷は、江戸時代に心を運んでくれる散策になる。


宍道湖(しんじこ)は、夕日が美しい、と聞いていた。

日本海側の天候は不安定だ。

昼間は晴れていたが、夕暮れには雲が多くなった。

日本海の海水接しているので、「淡水湖」ではなく「汽水湖」である。

 平均の塩分濃度は海水の約1/10らしい。


 嫁ヶ島(よめがしま)は、宍道湖唯一の島である。全長110メートル、幅約30メートル、周囲240メートルと紹介されていた。

 湖岸から島までは220メートルていど。水深は最大130-140cmと浅く、歩いて渡る行事もあると聞いた。

 島の名前の由来に興味をもってみた。

 若嫁が、姑にいじめられて身投げした、とか悲しい伝説にもとづいているようだ。類似した伝説は多く、どれが真実か、解りかねる。

猊鼻渓の舟下り、写真で美観を愉しむ=岩手県


  岩手県の猊鼻渓(げいびきょう)の初冬に遊ぶ



 渓谷の岩稜と清流は、魅せられてやまない。

 


 新緑、紅葉も好いがらしいが、冬場は樹木の遮りがないので、切り立つ岩盤は見事だ。


 自然の造形美は、数千年、数万年の歳月をかけてつくられたもの。

 見厭きることはない。



 上り、下りの舟遊びは一時間半ゆっくり、人生の余裕すら感じさせる。

 北からの渡り鳥の鴨が近寄ってくる。

 愛らしく、心から楽しめる。



 カップルは、心と写真に想い出を残す。


 観光客の視点は、岩盤の一点に注がれていた。

 小さな穴に、瀬戸物の皿を投げ入れる。

 見た目よりも、遠くて、とどかない人が多い。


 
 案内したくださったのは、大和田幸男さん

 3.11小説「海は憎まず」で、取材協力してくださった。

 大和田さんも、猊鼻渓は初めてだと、景観に感動されていた。


「おおーい、帰るぞ。取り残されたら、泳いで帰ることになるぞ」

 船頭さんが呼びかける。


 全員乗れたかな?


 人命を預かる船頭さんの竿捌きは、巧いものだ。


 竿の尖端は、怪獣の爪のようだ。



 夏場は船頭が一人。冬場は屋根がかかっているので、ふたりの船頭が乗り込む。

 ひとりは説明は、民謡を披露してくれる。

 謡う喉はプロ級だ。


 船頭の美声に聴き入る


 渓流の美の彼方に、すれ違っていく船がさっていく。



 船下りの料金は、大人 1,600円  小学 860円です。

 こたつ舟運航期間は12月~2月末まで、

但馬国・出石城の仙石騒動って、なんて読むの?   紅葉が真っ盛り

 幕末小説「桂小五郎・木戸孝允」の取材で、いまは各地を飛びまわっている。


 長州藩兵ら2000人が、京都御所の蛤御門に突入を図った。かれらは敗れて逃走した。「禁門の変」である。

 長州藩の京都留守居役(朝廷工作の責任者)だった桂小五郎も、追われて、兵庫県の但馬に逃げた。

 隠れ住んだのが、但馬国の出石城下である。



 藩主は千石家で、天保時代のお家騒動でも有名である。

 関東在住のひとで、「但馬?」「出石?」「千石家?」がすんなり読めたら、そうとうの歴史通である。


 出石(いずし)城は、兵庫県北東部の但馬(たじま)にある。


 戦国時代は、山城で、有子山城が山頂にあった、赤い有子橋を渡っていきます。

 これも、読みにくいな


 
  有子山(ありこやま)城は、江戸時代は山麓に降りてきて、出石城となった。

 この出石城「二の丸」は、紅葉がまさに盛りだった。



 本丸への階段には、赤い鳥居が連続する。

 稲荷神社かな、と思ったが、そうでもなかった。

 


 黄葉も、見ごたえがあるな。 

  太鼓橋で、家族が紅葉を楽しんでいる。

  大勢の人出だった。


 


 
 紅葉ばかり見ていると、白堊(はくあ)の建築物も、みょうに新鮮に思える。


 辰鼓楼(右手)は、時計台だった。

 関東だとソバは信州だが、関西では出石だった。

 江戸時代に信州上田の大名家が転封(てんぽう)し、そば好きの大名が家臣らとともに、そば職人をつれてきたという。



 訪ねた日(2016年11月16日)が、出石自慢の『新ソバ大会』だった。

 出石役場の前には、一人前(小皿・5皿)が500円である。見るからに市の職員や、近隣のお手伝いさんが懸命に働いていた。
 



 旧・武家屋敷の銀杏は、青空にむかって映えていた。



 いずこの寺院の境内も、紅葉で燃えている。


 落ち葉を踏みしめる音は、じつにさわやかだった。


 
 「宋鏡寺」は、沢庵和尚で有名である。ここら、タクアンが全国に広かったという。

 桂小五郎は雑貨屋に扮装していた。

 この通称・たくあん寺で、散策でも、来たかな、と思い浮かべてみた。逃亡者は心理的に、紅葉狩りのの余裕などないかな。

 名刹は、夕方にかぎる。観光客はひとりもおらず。

 無人で、静寂で、ひとり秋の情感を味わえる。

 「出石資料館」に出むいた。建物は明治だった。

 「出石城の甲冑」はいま土蔵が工事中で観られないといわれて、がっかりした。

 受付の方が、あまりにもがっかりしていたからか、土蔵の内部が工事でないので、特別に閲覧させてくれた。

 蔵の展示のなかで、歓声をあげたいくらいの、慶應4年3月の「太政官」令をみつけた。


 明治政府は初年からキリスト弾圧をとった。この「太政官・令」が証拠品であり、英仏・アメリカから強い抗議で、撤去の要請が出てきた。

 まだ、勝海舟と西郷隆盛の話し合いで江戸城が開城する前だった。


 明治新政府は 「太政官」令のお触書で、戊辰戦争のさなかにもかかわらず、いきなり重大問題を起こしてしまったのだ。

 桂小五郎(木戸孝允に名前を変える)は、長崎浦上の隠れキリシタンの処罰問題で、大きくかかわった。

 さらに岩倉使節団が明治4年((1871年)年11月12日から明治61873)年9月まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された。副使に木戸孝允・大久保利通とした政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

 日米通商条約な欧米との条約改定の期限が、翌年に迫っていた。その交渉が主たる目的だった。
「キリスト教徒を弾圧する野蛮な国家と外交交渉をしない」
 と剣もほろほろに扱われてしまった。
 さらには、岩倉使節団は行く先々で、民衆から石も投げられた。結果として、どの国とも、条約改定の外交交渉はできなかつた。

 かれらは帰国して、慌てて「太政官・令」の撤去を命じたのだ。

 「出石資料館」受付の方に、よく「太政官・令」がありましたね。というと、「最近、お城の蔵から発見されたのですよ」
 と教えてくれた。
 お礼を言って立ち去った。

 先々月は長崎、先月は萩、津和野、このキリスト教の「太政官・令」は見られなかった。まさか、この出石で見られるとは思いもかけなかった。

「生物多様性とは、人間の勝手で作った言葉だ」市田淳子さん

 伊吹山(いぶきやま、いぶきさん)は、主峰(最高峰)標高1,377 mの山である。滋賀県米原市、岐阜県揖斐川町にまたがる。植物の宝庫である。

 現況において、さまざまな問題があるようだ。「すにーかー倶楽部」の市田淳子さんが、「地球温暖化」と「生物多様性」を取り扱った作品を寄稿してくれた。


 伊吹山は長い間行ってみたかった、と彼女は記す。『なぜ行きたかったかというと、特異な気候と地質、固有種の多さ、そしてお花畑を見たかったからだ。』

 登山をしながら、山頂の三角点を確認し、そこでみたものは、柵に囲まれたクガイソウ、ミヤマコアザミ、サラシナショウマなどの群落だった。
 保護が必要となったのは、シカなどの食害というより、温暖化によるアカソ、センニンソウ等の繁殖力だそうだ。ここから、現況から今後を見渡す問題点を抽出している。

 温暖化とはよく聞くことばだ。片や、最近は急激に高山植物の体系が変化してきている。どこかしこも、高山植物で美しく輝いていたお花畑が全滅してきた。『雑草だらけの山だ』という声すらもある。
 それは単に温暖化だけの問題ではない。自然に対する人間の向い方だ、と彼女は言う。

 登山者からの叫びや提唱だけではない。山登りをしない人も、「自然と人間の関わり方」として認識するべき問題だろう。


 穂高健一ワールドの『登山家』『新しい寄稿作品』に掲載されている。

恩師・伊藤桂一さんを悼む=出会い、戦争文学を学び、非戦文学の道へ

 私の人生の転機は伊藤桂一先生との出会いである。先月末、先生は99歳で死去された。死の床には、同人誌「グループ桂」への寄稿の「詩」が用意されていたと聞く。

 先生の死を悼みながら、想いはまず出会いだった。もっと前の、なぜ小説の道に進んだか、そこまで、私はさかのぼってみた。

 28歳のとき、大病(腎臓結核)で長期療養を余儀なくされた。腎臓はふたつある。手術で腎臓を摘除すれば、わりに早く治る。そのうえ、病後の再発リスクも少ない。

「あなたは登山をなされている。一つを摘除し、残る一つの腎臓が登山中に破損すれば、即座に死になります。薬をつかって治療(化学治療)で治すとなると、数年、もしくは10年にも及ぶ。どちらを選びますか」
 と医師に選択肢をもとめられた。
「薬で治します」
「10年くらい、薬を飲み続ける。つまり、10年間は通院の覚悟が要りますよ」
「だいじょうぶです。通います。治癒したら、山には登りたいですから」
「そうなさい。実は病院に来たり、来なかったりする患者には、この治療(化学治療)は勧められないのです。なぜならば、結核菌は強い細菌で、かつ薬に対して耐性をもつ。そのうえ、結核菌はからだのどこにでも付着するんです。人体のどこで再発するかわからないリスクがありますからね」

 次女が産まれた翌日から、私の長い入院生活がはじまった。さらには自宅療養がはじまった。性格的には、さして病気は怖れないし、むしろ楽しむように中国古典を読んでいた。前穂高の岩場と大雪渓の間で滑落したとか、雪山の滑落で捜索隊を出されたとか、「これで死ぬのか」という死の瞬間の想いは、20代だけでも、2度も体験していた。
 それに比べると、薬さえ飲んでいれば、治るのだ。悲壮感など微塵もなかった。

 ただ、病床で分厚い古典本を読むとなると、腕には負担となり、朝夕つづけて読むのには疲れてしまう。
「寝ながら、なにかできることはないかな」
 と思慮した。


 小説ならば、寝て考えて、起きたときに、それを書けばいい。そんな安易な動機で、予備知識もなく、小説まがいの作品を書いてみた。
 時間はたっぷりあるが、はたしてこれが小説なのか、という不安がつきまとった。
「だれか教えてくれる人はいないかな」
 経済学部卒だし、そんな想いが長く続いていた。

 腎臓結核が回復途上なのに、膀胱腫瘍が発見されて開腹手術になった。さらには、無呼吸症候群という寝ながらにして呼吸が止まる厄介な病気にも陥った。(大腸腫瘍の手術も)。
 働くよりも、闘病生活で寝ている方が多い。病気の宝庫のような、ありがたくないからだだった。
「あなたは医者運が良いわね。どれ一つとっても、死んでもおかしくないのに」
 親戚筋から、そんな声が聞えてくる。
 妻への負担は、一言ふたことでは表現できないものだ。
「父親の病院見舞いなど、ぜったいに行くものか。本を読むか。原稿を書いているだけだ。あんなの病人じゃない」
 子どもはそっぽを向いていた。

 どの病気の合間か、忘れたが、電車のなかで隣の人が夕刊フジを見ていた。そこに『講談社フェーマススクール』で、「小説講座募集」と広告が載せられていた。
 下車し、迷わず買ってかえった。応募者には数枚の原稿が科せられていたと思う。
 電話で問い合わせると、「伊藤桂一教室は純文学です」、「山村正夫教室はエンター(当時は、中間小説)です」という答えがあった。
 私は迷わず伊藤桂一教室を選んだ。教室に通いはじめると、「あなたは純文学じゃないわよ。ストーリーテラーよ。山村教室に変わったら。そうしたら、世に出るのは早いわよ」と、何人からも、何度も言われた。
 現に、山村教室からは、宮部みゆきさん、篠田節子さん、新津きよみさん、と次々に文学賞をとり、プロ作家へとすすんでいく。
 純文学の伊藤教室は、鳴かず飛ばずで、8年間で『講談社フェーマススクール』は閉じてしまった。


 その後、伊藤桂一先生の好意で、同人誌「グループ桂」が立ち上がった。巻頭には、伊藤桂一先生の詩が掲載されている。先生自身も強い愛着を示されて、毎号、欠かさずに、詩を寄稿されていた。私のほうは、プロ作家になって同人誌活動はしていない。それに比べると、伊藤先生はすごいな、と思う。


 朝日新聞の「天声人語」(11月3日・文化の日)に、伊藤先生に関連する記事が掲載されていた。


 これを読みながら、私は先生の影響を強く受けているのだな、と思った。そこに、「グループ桂」の追悼文の依頼があった。文字数が限定されているので、上記の出会いなど書けなかった。そこでいま執筆する歴史小説に関連して書いて寄稿した。
 それを全文、ここに掲載します。

【伊藤桂一先生・追悼文】

『最近の私は、歴史小説の執筆に傾倒し、それをひと前で話す機会が多くなってきた。戦争は起こしたらおしまいだ、起こさせないことだ、と熱ぽく語る。今や、それが人生のテーマにもなっている。

「江戸時代の260年間は、日本は海外戦争をしなかった。しかし、明治から10年に一度は、海外で戦争する国家になった。広島・長崎の原爆投下まで、77年間も軍事国家だった。いまだに、日本人は戦争好きな民族だと思われている。だれが、こんな国家にしたのか」

 私たちは原爆の被爆者だ、核廃絶だと叫んでも、それは真珠湾攻撃からの戦争問題になってしまう。もっとさかのぼり、幕末の戊辰戦争までいかないと、根源はみえてこない、と広島育ちの私が語る。なぜ、こうも非戦にこだわるのか、と自分でも不思議に思っていた。

 伊藤桂一先生の死去の悲しみに接したとき、そうか40年間にわたり、恩師の影響をごく自然に受けていたのか、と理解できた。

 文学をめざした頃、私は伊藤桂一・小説教室に通いはじめた。先生は直木賞作品『蛍の河』など、自作の戦記物などを取り上げ、作品づくりや文章作法を懇切丁寧に教えてくださった。と同時に、作品批評も鋭くなさっていた。それから長い歳月が経つ。
 数年前、伊藤先生と最後の顔合わせとなった、ある懇親会(日本ペンクラブ)の場で、
「君の歴史ものは、下手だったよな」と、にたっと笑われた。

(なぜ、下手だったのか)
 習作当時の私は、武勇、武勲の武士や尊王攘夷の志士などを書いていた。そこには戦いや戦争を憎む姿勢がなかったと思う。先生はきっとそれを遠回しに指摘されたのだ。
 それが今にしてわかった。』

                             了

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