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《日本百名山の達成》 その想いを語る = 関本 誠一

 55年前、大菩薩嶺が最初の登山…日本百名山は筆者にとって登山人生そのものになった。

 当初、気ままな山行を繰り返していたが、20年後転機が訪れる。…、八ヶ岳(24座目)山頂小屋で同年代登山者との出会いを機にピークハンターとなる。


 だが、80座で頓挫し諦めかけていたが、当倶楽部入会にあたりリベンジ。今夏7年目にして達成する。応援してくれた山仲間に感謝の気持ちで一杯だ。


 阿寒と知床連山の中間にそびえる斜里岳は知名度低く目立たないが独立峰なので、近づくにつれ徐々に大きくなるその姿に一種の感動を覚える。

 見晴らしの滝、七重の滝、霊華の滝、竜神の滝と続き、やがて傾斜が緩くなり流れがみえなくなると新道と旧道が合流する上二股だ。

 沢沿いに進む旧道は次から次へと現れる滝を楽しんでいくと、自然に高度を稼いでくれて疲れを感じさせないが、ところどころ滑りやすくとても危険だ。

         【作品から一節】


 今後は身の丈あった登山を楽しみたいと思ってます。


       ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№209から転載

【近代史革命】  西洋の自由主義は、日本の浮世絵が輸出した

 日本人はとかく被害者意識が強い。幕末は、欧米列強に蹂躙(じゅうりん)されて開国した、という見方で、歴史をとらえてきた。
 しかし、視点をヨーロッパにおいた場合、かれらは鎖国が解けた日本の開国から、大きな自由主義を学び取ったのである。それはとてつもない人類の財産になっている。


 西洋人は古来つねにキリスト教の神々に拘束されてきた。一神教である。他の宗教は認めていない。ヨーロッパの戦争といえば、その大半が宗教戦争である。かれらは政治、経済活動のみならず、文化面においても、キリスト教の枠内でしか、行動できなかったのである。



 画家が絵のなかに婦人を描く場合においても、キリストとか、聖書とか、十字架とか、マリアとか、最後の晩餐とか、その範囲内でしか画けなかった。

 かれら画家には自由奔放に表現する活動が許されなかった。つまり、キリスト教の範囲内しか、文化活動ができず、宗教の鎖で縛られていたのである。

 日本の浮世絵は写実的だし、風景画、美人画、役者絵など、宗教的な拘束は皆無である。江戸時代の信仰が仏教、儒教が主体だった。
 浮世絵がそれに縛られる、という制約はみじんもなかった。

 まして、春画などは、嫁入りの女性に、寝床に入ったら、こんなふうに夫に身を任せるのよ、と親代わりの性教育の助勢であった。
 人間の本能の男女のいとなみを赤裸々に描ききっている。男女の性器までもリアルである。


 開国した安政通商条約で、日本から物品が海外に輸出された。お茶、生糸など諸々の商品が箱詰めされたうえで、横浜、長崎、凾館の港から、欧米に送りだされた。


 ヨーロッパ人は、あっとおどろめいた。「世界のなかに、こんなに自由に絵が描ける国家があったのか」
 パリの画家たちは競って、浮世絵をまねた。単なる筆のタッチだけではない。日本の浮世絵から自由を学んだ。
「よし、自分たちも裸婦を描いてみよう」
 売春婦のヌードでもかける。(写真・ネットより)。
 当初は、キリスト教の冒涜だと、社会から大反発、大反論があった。


 しかし、画家たちの自由主義が一大旋風となり、止めどもなく文化、文学、科学へと一気に広がった。思想的のなかにも、政治、経済のなかにも、自由主義が取り入れられた。
 欧米のあらゆる面の自由主義は、日本から発信されたものだった。

 欧米は大量のお茶を輸入する。茶箱に浮世絵技術の絵が描かれている。包み紙代わりに、浮世絵の刷り絵が無造作に入っている。開国で、日本のお茶の味が好まれたと教えているけれど、その実、茶箱と包み紙の魅力にあったのだ。

 
 当時の日本人にすれば、浮世絵は、現代の週刊誌を買うくらいの感覚だ。歌舞伎役者が見飽きたら、新しい人気役者の浮世絵を買う。
 旅もの富士山の絵をみて、富士信仰につかう。地域の情報収集に役立つ、庶民文化、そのものである。
 
 日本の幕末史においては、日米通商条約を悪者扱いしている。それは尊王攘夷派の活動をいまでも正当化させるためのものだ。
 尊王はよいが、攘夷は最悪だ。日本は神の国だ、聖地を踏ませるな。白い肌を見れば、斬れよ、という思想だった。
 
 こんな攘夷思想を美化する視点は、もうやめたほうが良い。

 徳川政権をあえて見下し、明治政権を優位にみせる。これら薩長閥たちの捻じ曲げた史観が怪しいぞと、このところ文献、報道に多くみられるようになってきた。


 日本の宗教は古来、なにを拝んでもよく、神仏混合だった。キリスト教のような鉄の鎖、生死の重圧、殉教(じゅんきょう)というものはない。
 全国の神社仏閣は宗派を問わず、いろいろな神を祀っている。あるいは同居している。

 古くは畏敬(いけい)の対象が太陽、月、川などの自然崇拝だった。まさに火の神、水の神である。
 やがて、神々のなかに人物が出てくる。天照大神、義経神社、村の顕彰者、だれを祀っても、参拝者にたいして強制ではない。だれを祈っても、自由である。
 ところが、明治政府になると、一神教の強制になった。まずはキリスト教への弾圧で、長崎のキリスト教信者たちが津和野藩をはじめとして、10万石以上の大名家に送りこまれ、多くの殉教者(死者)を出した。(踏絵は、老中首座・阿部正弘が止めさせていた)。
 さらには、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、お寺を壊し、仏像を壊し、日本古来の自由信仰を殺した。日本人ならば、神教に統一しろ、と強要した。


 日本の歴史で、宗教の暗黒時代が明治時代からはじまり昭和20(1945)年の終戦までつづいた。この77年間にはまちがいなく信仰の自由が抑制された。国家神道になった。


「昭和天皇の人間宣言」で、日本人は本来の自由主義に立ちもどれた。あるいみで、よくぞ、天皇は自由主義を取り戻させてくれたものだ、といえる。

 一般に譬(たと)えられるのが、クリスマス(キリスト教)、大みそかの除夜の鐘(仏教)、元旦には神社の初詣。むろん、山の上や海辺で「初日の出」を拝んでもよい。「明治神宮」でも、「浅草寺」でも、どこへ行っても自由である。
 初詣に伊勢神宮に参って、古代の神々を仰ぎ祀らなくてもよい。合格祈願だけでも良いのだ。参拝者がなにを拝んでもよい、という日本独自の宗教、文化がある。


 東京は桜がそろそろ満開になってきた。靖国神社の境内で、花見を楽しむひとが、大村益次郎の銅像など、このひとだあれ? と気にかけなくてもよい。だれを祀っているのか、知らずして、「家内安全」、「五穀豊穣」、「合格祈願」とだけでも良いのだ。

 
 教科書においても、現在やっと歴史の真実に近づこう、本当の歴史を教えようという機運になってきた。鎌倉幕府の年代がちがう。聖徳太子の名前がちがう、鎖国はなかった……、賛否両論はありながらも、しだいに薩長閥が曲げた歴史教科書からの脱皮がはじまってきた。


 安政の五か国通商条約は、世界史からみれば、世界に自由主義を輸出した価値あるものだ。欧米は宗教の拘束や蹂躙から解放された。現代において、あらゆる分野に自由主義が活用されている。

『ヨーロッパの自由主義は、日本独自の浮世絵から学んだものだ』

 明治政府の視点から、「江戸時代の開国は不平等条約だ」とばかり教えないで、この通商は世界の歴史を変えたのだと、小中学校教育で教えるべきときにきた。


 広く国民がこの歴史認識に立てば、外国から靖国問題があれこれ言われても、毅然とした態度がとれる。靖国神社に参拝した政治家が、翌週はミサにいっても、その次は菩提寺に行っても、日本人はだれも文句など言わないだろう。
 信仰の自由は、世界に勝ったものだ。


 戦後の日本人はいちども戦争などしていない。もう銃を撃った戦争体験者は皆無ともいえる。それは世界でも数少ない民族・国家である。戦後70年はまだまだ、徳川政権は260年間、海外と戦争をしなかった。そんな歴史をもった国家だ。

 靖国神社の境内にいって花見だけでも良いではないか。本殿を拝んでも、拝まなくても、桜を愛(め)でれば、それはそれでよい。旧陸海空軍の紋章だった。靖国神社で、そんなことを考えながら、観るひとはいないだろう。

 先祖は侵略加害者だったにしろ、戦場を知らない私たちは、外国から、せめて宗教問題はあれこれ言われたくない。耳ざわりだ。このままでは、政党など問わず同世代の政治家たちが、素朴な気持ちで、千鳥ヶ淵から靖国神社の花見にも行けない。
 はやくに歴史教科書で、日本は浮世絵を媒体にした、世界に誇れる自由主義の発信国だと教えよう。そうすれば、諸外国が苦言する教科書問題などは、早期に解決するだろう。


 桜は日本の国花である。桜を愛(め)でる。古来の信仰である。他国にほとんど例をみない、宗教の自由主義が桜じたいにあるのだ。

17回・作家たちの歴史散策:桜の名所なる哲学堂から新井薬師へ


 日本ペンクラブの歴史が好きな作家たち7人が、ごく自然にグルーブができた。2017年3月1日の歴史散策は、こんかいで17回目となった。
 西武新宿線の新井駅(中野区)に、午後1時に集合だった。

 写真は中野区内にある、皇室にちなんだ「プリンセス・雅」という桜である


 清原康正さん(会報委員長・文芸評論家)、山名美和子さん(歴史小説作家)である。ともに、歴史は精通している。豪華な案内人である。

 林芙美子記念館にでむく。彼女は「放浪記」「浮雲」が名作として、現代でも読まれている。
 
 同館には、彼女の書斎、日常の部屋、さらに林芙美子資料室がある。

 手入れがしっかりなされた庭園である。


 新津きよみさんは、推理小説作家で、売れっ子である。今回の歴史散策は、どんな作品で登場するのだろうか。

 なにしろ坂道が多い街である。
 階段の先頭で、井出勉さん(PEN・事務局次長)は慎重に下る。


 
 中井御霊神社は、文化・文政の頃の、「雨乞い」に用いられたむしろ旗が1枚残っている、と明記されていた。

 歴史資料に接すると、作家たちはすぐさま話題が多岐にわたる。

 相澤与剛さん(広報委員長・ジャーナリスト)は、哲学堂に詳しい。


 哲学堂の池淵にくると、静寂な雰囲気のなかで、作家仲間たちは文学を語る。

 新井といえば、なんといっても、この薬師だろう。

「たきび」の歌」の発祥地である。

 かきねの かきねの まがりかど

 「子どもの頃は、たき火をこんなふうに、当たっていたわよね」

 山名さんが身振りで説明する。


 訪問先が、世の東西を問わず、どんな宗教でも、ふたりはていねいに手を合わせたり、香炉の煙を浴びたり、賽銭を入れたりする。
 
 ご利益はふたりにあれ。


 哲学堂や新井薬師の界隈は、川沿いの道が多い。

 かつて大雨が降ると、坂道が沢になり、泥流があふれていたらしい。いまは、遊歩道である。

 さて、夜の部は中野駅前の陸蒸気(おかじょうき)である。どんな雰囲気の居酒屋化、どんな話題が出るか、楽しみである。

「かつしかPPクラブ」が創立6年にして、展示会=葛飾中央図書館

「かつしかPPクラブ」とは、なにかしら。

 東京都葛飾区教師委員会が、単位制の「かつしか区民大学」を立ち上げた。それからすでに6年が経つ。「写真と文章で伝える私のかつしか」と題した講座が、当初から開講された。この講座は途切れることなく、つねに毎年十数人の受講生が学んでいる。

 第1期生が約20人ほどいた。『葛飾区内を歩く、撮る、取材する、そして書く』。この三拍子を学び、小冊子にするものだ。8回の連続講座で、添削はプロ作家・プロジャーナリストだから、一字一句、写真の構図にも、容赦なく朱を入れてきた。取材も、度胸だと言い、飛び込みを行う。それを繰り返して、力量をつける。

「学んだことをこのまま終わらせたくない」
 浦沢誠さんら複数の有志が提案し、自主クラブが発足した。それが「かつしかPPクラブ」浦沢会長である。

 年4回の小冊子発行は欠かさず行ってきた。そして、穂高健一による、きびしい指導の下で、配本してきた。そこには、取材力、撮影力、記事文の文章力には妥協しなかった。
 諸般の事情で、『去っていくものは、追わない』、そして残されたものが、力を磨いていく。その方針も、ぶれなかった。

 かれらの力量は、大手のメディア記者、あるいは雑誌ライターと比べても、まったく遜色がない。それだけの充分な力をつけてきた。

 最大のメリットは、読み手、読者にある。葛飾区内の大きな話題でも、メディアを見ても、ほんの少し、わずか数行しか載らない。これでは欲求不満だ。

「かつしかPPクラブ」の小冊子は、徹底して掘り下げている。読み手には、ふかい感慨を与える。葛飾区をより深く知ることができる。

 こうした力量アップの上で、作品の展示会を決めた。3月1日から3月31日まで、1か月間の特別展示である。

【関連情報】

 展示場所:葛飾区中央図書館

 最寄り駅:金町駅(JR、京成)

 問合せ先:同図書館 03-3607-9201

     :かつしかppクラブ・窓口 090-8689-8166

 

秩父宮殿下のマッターホルン登頂=上村信太郎

 スイスとイタリアの国境に優美な山容でそそり立つ名峰のなかの名峰マッターホルン(標高4476m)は、世界中の登山者を引きつけてやまない。

 この名峰に、アルプスの日本人登山者はまだ数えるほど少なかった大正15年に、昭和天皇の弟宮、秩父宮雍仁(やすひと)殿下が登頂に成功されたことはあまり知られていない。宮様24歳。若き日の英国留学中の山旅であった。


 では、宮様のアルプス登山はどのように実現されたのであろうか。まず英国最高峰のベン・ネヴィス(標高1344m)登頂後、念願のマッターホルン登攀計画を日本に打診した。すると宮内庁は「とんでもない。けがでもしたら誰が責任をとる! 」と猛反対。断念を強く説得されるも、宮様の意思は固かった。
 結局、アルプス登山実施が決まり、準備が進められた。

 肝心の宮様の案内役は、すでに宮様と山スキーの経験があった槇有恒に決定。槇は、すでに11年前に英国に帰国していたウォルター・ウェストンに助言を求めた。同行する人たちは松方三郎、松本重治、渡辺八郎の各氏で、彼らは準備のために一足先にスイスに入った。

 8月12日、宮様が登山基地のグリンデルワルドに到着。ウェストンらの出迎えを受けた。同時期、スイスには細川護立侯爵(細川護熙首相の祖父)、浦松佐美太郎(後にウィンパーの『アルプス登攀記』翻訳)、麻生武治(後に日本初の冬期オリンピック選手)、東京朝日新聞の特派記者藤木九三などが駆け付けた。

 一行はトレーニングを兼ねて周辺のいくつかの山々を登攀後、ツェルマットへ移動。8月31日、朝3時に山小屋を出発。マッターホルンの頂をめざす。宮様と槇の前後はスイス人ガイドが付いた。6時40分ソルベイ小屋着。8時15分イタリア側頂上着。ここで宮様から少量のブランディが振る舞われた。30分後、イタリア側へ下山開始。シュワツゼー・ホテル着は深夜になっていた。

 宮様とウェストンの親交は、じつはこのアルプス登山のみではなかった。同年5月、ウェストンは宮様から午餐に招かれていた。さらに昭和12年には、国王ジョージ五世の戴冠式参列のため渡英した宮様に招かれた他、アルパイン・クラブ(英国山岳会)の総会に出席された宮様をエスコートしている。


 アルプス登攀後の宮様は穂高岳、槍ヶ岳、小槍を登攀され、その後もアルパイン・クラブの会報に山の紀行文を寄稿されるなど、終生、山への関心を持たれた。
 宮様がアルプス登山の際に使用されたピッケル、ザイル、登山靴などの記念の品々は、昭和34年に開設された東京・国立競技場内の「秩父宮記念スポーツ博物館」に一般公開されている。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№57から転載


     写真:Google写真フリーより 

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(下)

 鳥羽・伏見で戦火が広がると、徳川慶喜は1月6日に、大阪城の城兵に『徹底抗戦せよ』と指図してから、松平容保や重鎮の老中とともに、江戸城に移っている。

 孫子・呉氏の兵法を知らない、後世の御用学者は「将軍が逃げ帰った」という。京都近郊で戦争が勃発して、最前線に残る将軍ならば、最低の愚将である。

 大阪城の位置づけは、寺社奉行→大阪城代→京都所司代→老中への登竜門である。そんな大阪城に留まり、将軍が捕縛されたら、どうなるのか。
 将軍は本来、最もリスクの少ない安全な場所にいるべきである。本陣の江戸城にもどり、巨視的な立場から、国内外の動きを見ながら、先々を読み、さまざまな指示する。それが知将である。


 慶喜は兵法通り、大坂城を抜け出た。おおかた、影武者も使っただろう。慶喜、松平容保、老中ら重臣は小舟で米国艦へ、そして幕府海軍の船に乗り移り、という史料もある。
 本もの慶喜と影武者の動きは超シークレットのはず。現在、一般に言われている「貧しい姿でコソコソ逃げた」という脱出方法は、後世の御用学者の根拠のない創作と見なしたほうがよいだろう。
 知将は、痕跡をまったく残さず、さっと消えるものだ。そうそう目撃者などいるはずがない。

 この面では木戸孝允(桂小五郎)は、池田屋でも戦わず、禁門の変でも乞食にふんして京都を脱出し、出石(但馬)に240日間も逃亡した。わが身を守り、出番を待っているのだ。やがて時宜(じぎ)をみて下関に帰り、ここから幕末史が最も大きくうごいた。

 慶喜は大坂城を立ち去るにあたり、榎本武揚(たけあき)には海軍の軍艦をつかって、大坂城の財宝、18万両の御用金も持ち去らしている。

『武士は城を枕にせよ。敵に軍資金は渡すな』という幕臣たちに格言を与えている。
 かれら幕臣は、1月9日の早朝、和睦(わぼく)と称して新政府軍を大坂城に招き入れる、と同時に放火し、火薬庫、武器庫を爆破炎上させているのだ。絢爛(けんらん)豪華な大坂城は、2-3日間燃えつづけて、全焼である。

 こうなると、西郷隆盛は黒焦げた大坂城に入ったけれど、取り分はゼロである。

 鳥羽伏見で銃弾を使いまくり、大阪城は丸焼けである。……このさき慶喜追討、江戸城を攻めるにも、軍費は必要だ。兵士は宿泊費・現在ならば、一泊三食で1万円だ。

 さて、西郷は今後の戦費をどう都合つけるのだ。となると、経済学に弱い愚将・西郷となってしまう。かれの古い朱子学、陽明学では解決できない。資本主義的な財政・金融論が必要だ。

 当時の明治新政府の閣僚は、大名と公卿たちで構成されている。下級藩士の西郷めが、天皇を守るための、京都御所の警備用武器を無断使用したと言い、責務を問われる。(明日がどうなるか、誰も見えない混沌とした状況下だ)。強いバッシングを受けたことだろう。ちなみに、新政府の要人から、西郷は約1か月間ほど干されている。

「こんど江戸城は焼かせるなよ。ぜったいに。江戸城の金銀、財宝は外国に売り払って、奥羽越列藩31藩と戦争するのだ」
 それに失敗すれば、西郷隆盛の存在は消されてしまう。
 

 西郷は、戦えというよりも、戦うな、と言われるほど、苦悩する性格だろう。京都から悶々と軍隊を進めていく。
 彦根の井伊、尾張の徳川、静岡の各城主、箱根を超えて小田原城主、これらはすべて戦争回避をしておかなければ、江戸城は燃やされてしまう。
 一触即発で、かりに井伊家と戦争でもしたら、次々に、自焼(負け戦になれば、城を燃やして、敵に戦費を与えない作戦)されてしまう。ともかく、箱根の山は戦争せずに越えられた。


 慶喜はみずから江戸の上野寛永寺で謹慎に処した。なぜ、これができたのか。慶喜は外交に強くて、国際法を知っていた。
『敵の総大将(元首)は殺さない。かの有名なナポレオンでも、死刑にしなかった
 幕府はフランスと仲が良い。慶喜にはその知識ある。かれは外交に強い。欧米への働きかけから、イギリス・フランスは、『慶喜や大名は殺すな』と明治新政府に圧力をかけた。
 新政府軍は、慶喜に手出しができなかった。大名の殺戮もゼロである。

 この間に、小栗上野介が江戸城で、
「徳川家をつぶす気か。それでも将軍か」
 と慶喜の胸ぐらをつかんで抗議した。小栗は勘定奉行を4回もやり、財政・金融にも優れた、日本の近代化を推し進めた人物だ。なおかつ陸海の両奉行の経験がある。小栗には、駿河湾を利用した、打倒・新政府軍の戦略に勝算があったのだ。

 しかし、慶喜は戦争による国家の分断を嫌った。小栗を解雇し、片や、勝を登用し「江戸城を明け渡せ」と無血開城を指図したのだ。
 
 勝海舟は氷川清話で、「おれが江戸城を無血開城させた」と述べている。自慢したい気持ちはわかるが、幕臣の一人やふたりの知恵で、世の中が動かせるほど甘くない。
 自惚れ屋が妙なものを書き残すから、慶喜は腰抜け扱いにされてしまったのだ。

 つまり、知将とは戦わずして、事を治める人をいうのだ。 

 西郷隆盛はともかく至上命令で江戸城を焼かずに進軍できた。しかし、西郷と勝はふたりして江戸の治安維持に失敗している。もう、西郷はお払い箱に近い。
 
 新政府の木戸孝允は、知将の大村益次郎に期待した。大村は京都から江戸府に出てきた。怜悧に、江戸城内の金銀、財宝、すべてイギリス、フランス、オランダなどに売り払った。(現・国宝級文化財は一品も残っていない)。大村はこうして奥羽越戦争の軍費を作ったのである。

 上野の彰義隊にたいしても、最小限の費用の半日で決着をつけている。江戸の治安は早ばやと取り戻しているのだ。
 ただ、大村益次郎は、小栗上野介の陸海軍による駿河湾・待伏せ戦略がもし実行されていたならば、『自分(新政府)の首はなかった』と回顧している。

 慶応3年、小松帯刀が京都に不在だった2か月間で、西郷隆盛は鳥羽伏見で派手に戦争をやった。けれども、大阪城を炎上させてしまった。あとさきの必要戦費の計算も、みずから軍費の調達もできなかった。愚将である、という批判が怖かったのだろう。
 戊辰戦争が終わると、西郷隆盛はすごすご薩摩に直行し、帰っていった。
 
 最悪が西南戦争である。血気盛んな若者が、『われら薩摩が天下を狙い、蜂起する』と炎上した。それを止められる人物は唯一、西郷だった。しかしながら、逆に、それに乗ってしまい、大勢の将来ある鹿児島県の若者たちを死に至らしめた。
 
 幕末・明治の歴史は、薩長閥の御用学者によって編纂されたものが多い。鳥羽伏見の戦いは、西郷軍が最新の西洋銃を持って、幕府軍の旧式の軍隊に打ち勝った。
 15代慶喜将軍は、大阪城からこっそり逃げ帰った。そのようなバカげた史観で塗りつぶされている。

「戦争は金がないと戦えない」
 そうした財政・経済学の視点から、歴史をとらえると、名将から愚将にかわってくる。愚将が名将になる。
 ちなみに、日清戦争、日露戦争は、日銀が外国から金を借りまくって(外債発行)から、戦争を勃発している。もし外債の引き受け手がなければ、ロシア・バルチック艦隊が来ようが戦うことなどできないのだ。
 ただ、太平洋戦争のように、戦費の裏付けも満足にないのにパール・ハーバー(真珠湾)に奇襲攻撃をしたり、本土決戦だといい国家総動員令で、お寺の鐘、家庭の鉄をつぶして軍艦をつくり、木の飛行機と竹やりでB29と戦おうとしたりした愚将もいるけれど。 
 
 小松帯刀は明治3(1870)年7月20日に大坂で死去している。36歳だった。それから西郷隆盛は7年後、大久保利通は8年後まで生きている。
 このふたりが小松帯刀日記・慶応3年のありかを知っていないだろうか。むろん、これは推理小説的な推論である。ある意味で、歴史小説作家も、歴史学者も、仮設と推論で展開していくものだ。
 ここから掘り下げると、意外と実証の現物が見つかったりするケースもある。

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(中)

 西郷隆盛は、小御所会議の当日、御所警備だった。山内容堂が、この場に慶喜将軍がいないのはおかしい。年少の明治天皇をたぶらかせている、と強い批判をしてもめ始めた。
 参列した大名は、徳川を外すのはおかしい、と容堂に同調する空気だった。
 
 西郷は、下級公卿の岩倉に短刀で容堂を脅せよ、助言したのだ。つまり、土佐藩の容堂を殺してでも、会議をまとめろ、と強要したのだ。
 岩倉は前日まで、謹慎処分だった。かれによって王政復古のクーデター政権が誕生したのだ。


 西郷はかたやテロ活動をおこなっている。薩摩藩士の伊牟田尚平や益満休之助をつかい、江戸市中において騒擾(そうじょう)を起こさせているのだ。強盗、略奪、放火などで、江戸市民は恐怖におびえた。庶民の目で見ると、ひどいテロリストだ。
 かれらテロリストたちは、追われるといつも芝薩摩屋敷に逃げ込む。

 怒った小栗上野介(勘定奉行)が、庄内藩に薩摩屋敷を焼き討ちを命じたのだ。庄内藩はドイツから購入した最新銃や、大砲をもっている。大砲を撃ちこんだ。伊牟田や益満たちは、芝から品川の海岸へ。漁師の舟をかっぱらい薩摩艦に乗り込み、逃げていく。

 榎本武揚(たけあき)は最強の幕府海軍で、逃げる薩摩艦を大阪湾まで追っていき、撃沈させている。そして、大阪湾の制海権を握った。

 これより以前に、西宮・尾道に待機していた長州兵2500人が上京していた。

 会津藩が「討薩表」をもって明治天皇に、勅許を得るために京都にむかった。戦うためには天皇の勅許を必要としていたのだ。

 鳥羽・伏見街道で待ち伏せしていた西郷隆盛が、それら会津・旧幕府軍に襲いかからせたのだ。

 それに長州軍がすぐさま反応し、薩摩軍に加わっていく。ここで歴史上はじめて薩長連合軍が成立する。(薩長討幕というけれど、新政府ができた後だから、御用学者のねつ造である)

 やがて土佐と鳥取が薩長軍に加わる。かたや、芸州広島は反戦主義で外れている。
 約3日間で、旧幕府軍は破れて、大阪城へと敗走していった。

 わたしは鉄弾の実価格は知らない。仮に一発1000円だったとすれば、兵士が1分間に10発が撃てば、1万円である。仮に6500人いれば、1分間で6500万円である。10分間で、6億5000万円である。
 銃筒が熱くなるから、そうも連続して撃てないにしろ、1日分はもっと戦費が伸すだろう。戦争は引き金を引けば、金が飛び散る。
 大砲の弾などは一発10万円以上とおもう。100発も撃てば、たちまち1000万円である。

 鳥羽伏見の戦費の資料は見つからないので、正確な数字はわからない。3日間の戦いで、おそらく100万両(80億円)くらいだろうか。

 小松帯刀がやがて慶応4年1月18日に、京都にやってきた。鳥羽伏見の戦いの経緯を知るだろう。
「御手洗から6500人の兵は、最新銃と弾薬をもって上京してきた、その背景を考えろ。この軍隊は京都御所の護衛と京都の治安目的だ。西郷は、武器使用の目的をはき違えている。
 つかった西洋銃の弾丸は、輸入するまで、かなり時間がかかるのだ。この先、京都御所の警備に不都合が生じるだろう。旧幕府軍が、急きょ、体制を立て直して、挑んできたら、どうするのだ」
 と怒るだろう。

 木戸孝允は小松よりも3日後の1月21日に京都にやってきた。木戸は西郷嫌いで、討幕の方向だ。
 木戸はかつて江戸三大道場の一つ、斉藤弥九郎道場の塾頭だった。池田屋事件、禁門の変、第2次長州征討、と危険をかいくぐってきた人物で、肝っ玉は据わっている。
 前年1月の京都・小松邸で、俗にいう薩長同盟の場で、木戸はいきなり西郷隆盛を罵倒している。(岩国藩の資料による)。

「戦争は、見返りの勝利品があって成功といえるのだ。鳥羽伏見で、弾を消耗しただけじゃないか。この先の戦費は、いったい、どこで作る気だ。戦争は無料(ただ)でできないんだ。新政府は大阪商人から金を借りるほど信用ができていないだろう。徳川家500万石はまだ健在なんだ」
 と噛みついただろう。

 戦争は力技だけ名将といえない。
 徳川慶喜は孫子・呉氏の兵法から、ここらをしっかり計算している知将だ。勝利品は西郷たちに渡していない。

 後世の御用学者は勝者側に立って、慶喜が江戸に逃げ帰ったという。決して、弱くて逃げたのではない。

           【つづく】


 写真:雑誌「太陽コレクション」(平凡社・昭和53年5月発行)の「かわら版・新聞Ⅱ」

【近代史革命・鳥羽伏見の戦い】西郷隆盛の苦悶=名将か、愚将か(上)

「金がなければ、戦争はできない」
 幕末・明治の歴史は、この大前提に立って見つめないと、まちがいをおかす。御用学者が都合よく作った年表に乗せられてしまう。
 慶応3年~慶応4年(明治元年)は、歴史の大変革である。

 2月半ば(2017)、ある新聞社の文芸部・歴史担当の記者と、夜、ふたりして酒を飲みながら、大政奉還~小御所会議~鳥羽伏見の戦いなどを語り合っていた。
「小松帯刀日記が某所にあるというので、先日、休暇を取り、新幹線を使って見にいったんです。慶応3年(33歳)がそっくり抜けていたので、がっかりしました」
 記者はずいぶん落胆していた。
「だれが、いつ、どのように日記から抜いたんでしょうね。小松当人とは考えにくい」
 慶応3年の小松日記が残っていると、不都合な人はだれなのだろうか。
 ふたりして、考えたけれど、その場の結論は出なかった。

 記者と別れてからも、わたしは慶応3年12月9日の重要な小御所会議に、薩摩藩の若き有能な家老・小松帯刀がなぜ臨席しなかったのか、とこだわって思慮していた。

 小松帯刀は五代才助などをつかい政治、経済、貿易を取りしきっている重職だ。と同時に、久光の信頼が厚く全権をもっていた。
 大久保利通、西郷隆盛は歴史の上でトップクラスで目立っている。ただ、身分の序列が厳しい薩摩において、かれら下級藩士が家老・小松帯刀や藩主およびその父・島津久光などには、とても逆らえる相手ではなかった。
 後ろめたいことをしていないだろうか。名将にはかならず影がある。

 小松帯刀は三条実美と親しいけれど、岩倉具視をかつぎ上げる根拠に乏しい。もう一つ、かれは武力討幕派ではなかった。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が決まる。それは軍事的な圧力をかけて、徳川家から朝廷に政権を奉還させよう。それが成せば、京都御所の警備につこう、という同盟だった。
 そして、翌10月初に、土佐・後藤象二郎と芸州広島・辻将曹から、15代徳川慶喜将軍に、大政奉還の建白書が提出された。
 慶喜将軍は、小松帯刀もふくめて意見をもとめた。小松には徳川家を排除する方向性はなかった。
 朝廷(天皇)の下に、徳川、薩摩、芸州広島、土佐、諸々家が並列におかれる、という常識的な考えだった。これらは山内容堂なども同様だった。

 このころに、あやしい動きが薩摩にあった。「偽の討幕密勅」という悪質な手法だった。大久保利通が公卿に「この偽物でも良い、武力討幕の天皇の勅許がほしい」と策略しているのだ。
 15歳の天皇が、500万石・徳川家を討て、と逆立ちしても、指図できるわけがない。広島・浅野家『芸藩誌』には、薩摩側の策略や偽物を書いた筆者までも、克明に記録されているのだ。おなじ内容で翌日には、長州の毛利公に出している。武力討伐する気がない広島は断っているのだ。
 つまり、小松帯刀家老と大久保利通とは、まったく違う動きをしている。

 慶応3年10月15日に大政奉還が成された。徳川政権がなくなったのだから、会津藩は京都守護職から外れる。
 薩長土芸にすれば、京都御所の警備兵士の増強が急務である。1日でも早くやらないと、佐幕の巻き返しが怖い。

 大政奉還の2日後、小松帯刀は大久保、西郷らを引き連れて薩摩に帰っていく。むろん、広島も土佐も国元へ使者を遣わす。早急に、軍隊を上げよ、と。
 長州はひとまず朝敵のまま、京都の手前、西宮で挙げさせるという策だった。

 ここから歴史の謎が出てくる。
 大久保が袂に持っていた「偽の討幕密勅」が薩摩藩でどう使われたのか。島津藩主と久光に、どの時点で見せたのか。あるいは見せなかったのか。

 同年11月後半、広島県・御手洗港に3藩6500人(薩摩・3000人、長州2500人、芸州広島1000人)が終結し、京都へ進発がなされた。

 政変が最も激動している最中で、小松帯刀が約2か月間におよんで、薩摩にとどまっている。それも、脚気の病気療養だった。
『ご家老、霧島温泉でも行って静養してください。われら薩摩隼人が3000人の兵を京都に挙げますから』
 誰かにそう言われたのか、小松自身がみずから静養に出むいたのか。小松帯刀日記の『慶応3年』が現存していれば、克明にわかるはずだ。

 年が変わって、慶応4年1月18日に、小松帯刀は京都の明治新政府の参与・総裁顧問として着任している。つまり、この2か月間、日本史でも、最も歴史の大きな転換があった。それも、薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛によるものだった。

 大久保利通が、まず岩倉村から謹慎処分ちゅうの岩倉具視を京都に連れ出してきた。公明天皇から罪人にされた岩倉が、15歳の明治天皇に許可をもらわず、小御所会議に臨んだ。厳密にいえば、大久保らが前日に勝手に罪を解除したのだ。長州の朝敵も解き放たれた。
 そして、王政復古の大号令というクーデターで、組閣した。

              【つづく】

 写真:雑誌「太陽コレクション」(平凡社・昭和53年5月発行)の「かわら版・新聞Ⅱ」

これってインチではありませんか。天下り天国か=遠矢 慶子

 日本の車社会は1970年頃からで、あっという間に車優先の社会が作り上げられた。

 路面電車はほとんど消え、大きな量販店は郊外に移り、車なしの生活が出来ない地域が増えた。そんな中で、仕方なく高齢者ドライバーは増え続けた。

『83歳の女性の運転する車が歩道に突っ込み、男女二人死亡』
『87歳の男性の運転する車が、小学生の列に突っ込み男女二人死亡』

 高齢運転者の交通事故が、毎日のように報道され、社会問題になっている。 私も、2、3年前から、夫や子供たちから運転を辞めるようにうるさく言われてきた。
「大丈夫、遠出はしないし、夜は運転しないし」
と、車を手放す気にはなれなかった。

 ただ、なぜか車体のあちこちに、知らない間に擦り傷があり、そのうえ車庫入れなどで運転感覚がにぶっている。
 それでも、視野が狭くなる身体的なことと、自分の経験や技能を過信していたことは事実だ。

 こうした高齢ドライバーのデーターを参考に、最近は免許証の自主返納の促進策が叫ばれている。

 昨年、終の棲家、便利なマンションに移って、車の必要性もなくなり、55年の車の運転も終わりにした。
 免許証も、ついにあと1か月で切れてしまう。

 やはり手放し難く、返納して運転歴記録の申請をすることにする。
 免許証と写真を持って交通安全協会に行った。
「証書代1000円と写真代700円です」
「ここに写真は持ってきたのですが」
「6か月以内の写真ではないのでダメです。免許書とまったき同じですから、撮影日は古いですね。ここで撮れば700円ですが、隣のスーパーは800円とられますよ」
「免許証として使うわけでもないのに、6か月以内とはきびしいのですね。それで申請をして、これはなにに使えるのですか」
「さー、シニア割引とか・・」
 あいまいで、首を傾げる。何のために発行しているのか、まったく熟知していない。
「返却すると3万円もらえる市町村もあると聞きますが、葉山町は何か特典がありますか?」
「何もないです。ご自分の運転歴を証明するためです」
 と本音をおしえてくれた。
「マイナンバーと、どう違うのですか?」
 わたしは強い疑問をおぼえた。
「マイナンバーを持っているなら、これは必要ないですね。これはご自分の運転歴を10年間証明するだけのものです」
 事務員の話を聞いて、実にバカらしくなってきた。
 何のため1700円も出して、使えない免許を作るのか。運転歴なら自分が知っている。
「それなら申請やめます。この1000円の証書もお返しします」
 と言って、写真代とも1700円を返してもらう。

 交通安全協会のために、使えもしない免許歴証明を1700円で買うこともないと思い直し、腹が立てきった。このお金は何に使われるのだろうか。
 交通安全協会は、名前はもっともらしいが、警察署長らの定年後の就職口のために作り、運転免許の申請の仕事をしている。かれらの高額な給料にまわるのだろうか。
「免許証自主返納という制度を作って、運転を辞めようとする老人にたちに、免許履歴をちらつかせ、最後まで、お金を取ろうとしている。それが見えみえだ。

 金取り仕事の「交通安全協会」だ。言い過ぎだろうか。これが交通行政か、考えるほどに腹立たしくなってきた。

 免許証は、これまで、身分証明の代わりに使われてきた。生活習慣になっている。マイナンバーははそれに代わる身分証明証だ。国民にまだ浸透していない。
 年配主者は新規なもの、個人情報にたいする警戒心から、その申請に躊躇(ちゅうちょ)している。マイナンバーが浸透まで、数年はかかるだろう。その狭間を狙った、ずるい行政のやり方だ。

 交通安全協会で、『マイマンバーは身分証になります。それでも、運転履歴の証書を必要としていますか』 と親切なマニュアルをつくれば、申請者は半減以下になるだろう。解っていながらやらない。悪質とはいえないにしろ、ちょっとひどすぎではありませんか。
 警察行政のお偉いさん。年金生活者の立場、弱い者の立場に立ってちょうだい。
  
 政府は、いまや高齢者の免許返納の課題視野にして、ライドシェア(自家用有償旅客運送)とか、完全自動運転の規制緩和をすすめている。また、地域ごとの対策も考えられているが、実用化には、時間がかかりそうだ。

 私はこのところ期限の切れた免許証をみせて、美術館の割引を受けているし、映画館のシニア割引の証明にもなっている。
 写真がついているし、住所、年齢と身分を証明するには充分だ。65歳以上、70歳以上の証明は、古い免許証でも、生年月日がわかるから有効だ。

 いま持っている免許証に『免許・返納済み』とハンコを押せば、その手間もお金もかからないはずだ。新規に作る1700円など、まったく必要もない。それが親身な行政だとおもう。

 お役人の天下り対策は、もういい加減やめにしましょう。弱者や高年齢者を敵に回さないでください。

  イラスト=Googleイラストフリーより

消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより