和服ファションショー&幕末講演「篤姫と和宮」=神奈川・大和市
4月22日(日)午前11時から大和市・座間神社で、和服ファッションショーの『プロジェクト幕末・第五回「篤姫と和宮」がおこなわれた。
華やかな和服ショーは中学生から年配者まで、その家族をふくめて、参加者は約60人。主催は(財)天文郷芸術文化財団で、共催は(社)青少年育成支援大和の心である。
私は同タイトル「篤姫と和宮」の90分間の講演をおこなった。参加者の大半が女性だけに、幕末史の知識がなくても、わかりやすく理解できるように語った。
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島津家の篤姫が13代家定将軍の御台所(正室)で入った。家定は病弱で、わずか1年9か月で亡くなった。子どもがいなかった篤姫は大奥にとどまった。
14代家茂将軍の正室として、皇女・和宮が降嫁してきた。和宮は京都御所の仕来りを持ち込む、というのが結婚の条件のひとつだった。
姑の篤姫は、江戸城の仕来りに拘泥する。
一般家庭でも、嫁姑の関係はむずかしいのに、ふたりには待女が200人くらいずついた。大奥で、双方が反目し、軋轢(あつれき)が凄まじかったという。
家茂将軍が大阪城で死去しても、和宮は德川家の人間として江戸城の大奥に住んでいた。
「大奥は一説には、1000人前後だと言われています。夫を亡くした嫁と姑がそこで共同生活です。どんな雰囲気だったのでしょうね」
私にも想像できない社会です、と話した。
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和宮は孝明天皇の妹で、明治天皇が甥である。14代家茂は征夷大将軍だから、内親王の和宮の方が身分が高い。
「ここが歴史の重要なポイントです。和宮が内親王で、つぎなる15代将軍慶喜においても、身分が上だったと認識していないと、歴史を読み違えてしまいます」
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徳川幕府が倒れて明治新政府になった。慶応4年1月3日に起きた鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと戦火が拡大していった。と同時に、「德川家」が大危機に陥った。それは「德川元将軍家」と「天皇家」との巨大な「家」と「家」の戦いでもあった。
女性がひとたび嫁ぐと「家」を守ろうとする執念は凄まじい。篤姫と和宮は動乱の中で、德川家を守るために強く結びついた。
ふたりは持てる人脈を使い、新政府に江戸攻撃の回避を訴えたのだ。
新政府の総裁の有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が、東征大総督に命じられた。
明治天皇から錦旗と節刀を授けられた。そして、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権などが与えられたのだ。
有栖川宮親王は京都を出発した。東海道、東山道、北陸道へと江戸に向かった。親王にすれば、和宮はかつての許嫁だった。内親王で親王よりも身分が高い。まちがっても、江戸で内親王を殺傷できない。
和宮は嫁入りした「德川家」の人間になりきっていた。大奥から従者を京にむけて、明治天皇などに徳川家の家名存続の嘆願書を送っていた。
和宮は、進軍してくる元婚約者の有栖川宮熾仁親王にも、嘆願書が見てもらえるよう橋本実梁(さねやな)に頼んでいる。
親王は、徳川家が「和宮を人質にとって戦う」という戦略に出ないかぎり、江戸城を攻撃しない姿勢だったと推量できる。
篤姫が「薩摩隊長」へと、みずからの命にかけてもと、德川家存続をねがう長文の手紙を出す。一般には西郷への手紙とされているが、篤姫の手紙は最先端にいる島津家臣の隊長宛である。ここらは後世で西郷が美化されて事実とちがう。むろん、西郷が読んだ可能性は多分にあるけれど。
西郷の立場どうか。篤姫がかつて島津家から正室になるとき、父・島津斉彬(なりあきら)につかえており、婚礼の準備をしている。西郷はつねに島津家の家臣の立場でいた。(それが明治政府から下野し、西南戦争までつづいた)。
つまり、篤姫には頭があがらない立場だった。
ともかく、篤姫と和宮は、嫁入りした『家』を本能的に守る必死の手紙をやみくもに幾たびも送っているのだ。
慶応4(1878)年3月15に予定されていた江戸攻撃、開戦ぎりぎり2日前の3月13日、芝の薩摩屋敷で、参謀の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟と話し合いがおこなわれた。
歴史絵画だと西郷と勝のふたり。これはどこまでも絵師の想像であり、双方に複数の立会者が参列していたのだ。写真と違って、絵画はごまかされやすい。
当然ながら、この会談は有栖川宮親王の指示・命令の下で実施された。
「和宮を人質にしていないか」と西郷が問う。
「德川家はそんな姑息なことをしない」と勝が応える。
有栖川宮親王が、その報告を受けると、和宮内親王の処遇において今後とも身の安全が担保されたと判断したうえで、「江戸城攻撃は止めよ」と命じたのだ。
歴史は勝者が作るといわれている。
「一般には、江戸城の開城は勝海舟と西郷隆盛の功績だといわれています。はっきり言って、参謀クラスには決裁権はありません。勝海舟にしろ、西郷隆盛にしろ、かれらが独断で決済できる立場ではない。それなのに、英雄仕立てにしたり、美談にしたりしてはいけません」
……徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権は有栖川宮親王に与えられていたのです。これは歴史的事実である。
「歴史はとかくこのように作り変えられるものです。これはいけません。篤姫と和宮。このふたりが女性特有の執念をもって嫁ぎ先の『家』を守ったことで、江戸を火の海から救い、江戸城を無血開城し、徳川家を70万石で存続させたのです。女性の力です」
それを強調してから、
「女性は身分が低く、文章を書かなかった時代が近年まで続いていました。歴史を洗い直せば、記録に残されていないけれど、女性の力が大きく働いた、政治・経済・文化の重大局面があるはずです。数多くの真実が隠されているはずです」
私は篤姫・和宮をそう締めくくった。
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講演のあと昼食会だった。
琴演奏家の酒井悦子さんが、同会場ですばらしい弦の音色を演じた。さらに、和服姿の学生歌手・中山歌帆子さんが壇上で、軽やかな美声を聞かせてくれた。