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和服ファションショー&幕末講演「篤姫と和宮」=神奈川・大和市

 4月22日(日)午前11時から大和市・座間神社で、和服ファッションショーの『プロジェクト幕末・第五回「篤姫と和宮」がおこなわれた。
 華やかな和服ショーは中学生から年配者まで、その家族をふくめて、参加者は約60人。主催は(財)天文郷芸術文化財団で、共催は(社)青少年育成支援大和の心である。

 私は同タイトル「篤姫と和宮」の90分間の講演をおこなった。参加者の大半が女性だけに、幕末史の知識がなくても、わかりやすく理解できるように語った。

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 島津家の篤姫が13代家定将軍の御台所(正室)で入った。家定は病弱で、わずか1年9か月で亡くなった。子どもがいなかった篤姫は大奥にとどまった。

 14代家茂将軍の正室として、皇女・和宮が降嫁してきた。和宮は京都御所の仕来りを持ち込む、というのが結婚の条件のひとつだった。
 姑の篤姫は、江戸城の仕来りに拘泥する。
 一般家庭でも、嫁姑の関係はむずかしいのに、ふたりには待女が200人くらいずついた。大奥で、双方が反目し、軋轢(あつれき)が凄まじかったという。
 家茂将軍が大阪城で死去しても、和宮は德川家の人間として江戸城の大奥に住んでいた。
「大奥は一説には、1000人前後だと言われています。夫を亡くした嫁と姑がそこで共同生活です。どんな雰囲気だったのでしょうね」
 私にも想像できない社会です、と話した。

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 和宮は孝明天皇の妹で、明治天皇が甥である。14代家茂は征夷大将軍だから、内親王の和宮の方が身分が高い。
「ここが歴史の重要なポイントです。和宮が内親王で、つぎなる15代将軍慶喜においても、身分が上だったと認識していないと、歴史を読み違えてしまいます」

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 徳川幕府が倒れて明治新政府になった。慶応4年1月3日に起きた鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと戦火が拡大していった。と同時に、「德川家」が大危機に陥った。それは「德川元将軍家」と「天皇家」との巨大な「家」と「家」の戦いでもあった。

 女性がひとたび嫁ぐと「家」を守ろうとする執念は凄まじい。篤姫と和宮は動乱の中で、德川家を守るために強く結びついた。
 ふたりは持てる人脈を使い、新政府に江戸攻撃の回避を訴えたのだ。

 

 新政府の総裁の有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が、東征大総督に命じられた。
 明治天皇から錦旗と節刀を授けられた。そして、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権などが与えられたのだ。
 
 有栖川宮親王は京都を出発した。東海道、東山道、北陸道へと江戸に向かった。親王にすれば、和宮はかつての許嫁だった。内親王で親王よりも身分が高い。まちがっても、江戸で内親王を殺傷できない。


 和宮は嫁入りした「德川家」の人間になりきっていた。大奥から従者を京にむけて、明治天皇などに徳川家の家名存続の嘆願書を送っていた。
 和宮は、進軍してくる元婚約者の有栖川宮熾仁親王にも、嘆願書が見てもらえるよう橋本実梁(さねやな)に頼んでいる。
 親王は、徳川家が「和宮を人質にとって戦う」という戦略に出ないかぎり、江戸城を攻撃しない姿勢だったと推量できる。


 篤姫が「薩摩隊長」へと、みずからの命にかけてもと、德川家存続をねがう長文の手紙を出す。一般には西郷への手紙とされているが、篤姫の手紙は最先端にいる島津家臣の隊長宛である。ここらは後世で西郷が美化されて事実とちがう。むろん、西郷が読んだ可能性は多分にあるけれど。

 西郷の立場どうか。篤姫がかつて島津家から正室になるとき、父・島津斉彬(なりあきら)につかえており、婚礼の準備をしている。西郷はつねに島津家の家臣の立場でいた。(それが明治政府から下野し、西南戦争までつづいた)。
 つまり、篤姫には頭があがらない立場だった。

 ともかく、篤姫と和宮は、嫁入りした『家』を本能的に守る必死の手紙をやみくもに幾たびも送っているのだ。


 慶応4(1878)年3月15に予定されていた江戸攻撃、開戦ぎりぎり2日前の3月13日、芝の薩摩屋敷で、参謀の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟と話し合いがおこなわれた。
 歴史絵画だと西郷と勝のふたり。これはどこまでも絵師の想像であり、双方に複数の立会者が参列していたのだ。写真と違って、絵画はごまかされやすい。
 当然ながら、この会談は有栖川宮親王の指示・命令の下で実施された。
  
 
「和宮を人質にしていないか」と西郷が問う。
「德川家はそんな姑息なことをしない」と勝が応える。

 有栖川宮親王が、その報告を受けると、和宮内親王の処遇において今後とも身の安全が担保されたと判断したうえで、「江戸城攻撃は止めよ」と命じたのだ。

 
 歴史は勝者が作るといわれている。
「一般には、江戸城の開城は勝海舟と西郷隆盛の功績だといわれています。はっきり言って、参謀クラスには決裁権はありません。勝海舟にしろ、西郷隆盛にしろ、かれらが独断で決済できる立場ではない。それなのに、英雄仕立てにしたり、美談にしたりしてはいけません」
 ……徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権は有栖川宮親王に与えられていたのです。これは歴史的事実である。
「歴史はとかくこのように作り変えられるものです。これはいけません。篤姫と和宮。このふたりが女性特有の執念をもって嫁ぎ先の『家』を守ったことで、江戸を火の海から救い、江戸城を無血開城し、徳川家を70万石で存続させたのです。女性の力です」
 それを強調してから、
「女性は身分が低く、文章を書かなかった時代が近年まで続いていました。歴史を洗い直せば、記録に残されていないけれど、女性の力が大きく働いた、政治・経済・文化の重大局面があるはずです。数多くの真実が隠されているはずです」
 私は篤姫・和宮をそう締めくくった。

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 講演のあと昼食会だった。
 琴演奏家の酒井悦子さんが、同会場ですばらしい弦の音色を演じた。さらに、和服姿の学生歌手・中山歌帆子さんが壇上で、軽やかな美声を聞かせてくれた。

神機隊~志和で生まれた炎~≪5≫隊を創設した木原秀三郎=プスネット連載より 

 木原秀三郎(適處)はどんな人物か。
 東広島市高屋町(旧・檜山村)の庄屋で、志高く、満27歳で長崎に遊学している。その後は江戸で勝海舟の門下生になり、築地の軍艦操(そう)練所(れんしょ)で航海術、砲術を学ぶ。やがて、広島藩・江戸藩邸で抱えられ、応接方(おうせつがた)(藩の外交官)に任命された。広島に帰国して軍艦付となった。

 第二次長州征討のまえ、広島藩の若者たち55人は切腹覚悟で、小笠原老中の暗殺で戦争を止めようとした。木原もいた。しかしながら、戦争が勃発した。

 長州藩兵が岩国から小瀬川(おぜがわ)を越えてきた。芸長の不可侵条約を無視し、幕府軍を追って大竹、大野、廿日市、広島城下近くまで攻めてくる。この間、広島領民にたいして強奪、略奪、放火までやった。

 広島藩の農兵といえば警防団ていどで役立に立たず。やがて、西洋式軍隊の紀州藩兵と幕府海軍の艦砲射撃で、長州藩兵は岩国まで追い返された。

 木原は農閑期のみ訓練をする農兵でなく、毎日、訓練する壮兵(そうへい)(職業軍人)の軍隊をつくるべきだと、約一年前から主張していた。木原は洋学をも学び、世界最強のイギリス軍隊の知識があったのだ。
 
 広島藩庁は、領民の大被害を知り、やっと木原の考え方を理解し、神機隊の創設を許可したのだ。
 志和盆地の地形・風土を知りつくす木原が、本拠地を志和にきめた。

 結成時、志和冠村の庄屋・近藤権之助が山野の練兵所、食糧の確保、兵舎づくりなどおおいに協力した。優秀な家中(浅野家臣)が約30人と、賀茂郡八十八か村を中心に近郊から1200人が隊中として入隊してきた。
 藩庁の許可は200人の費用のみだった。

 差額の隊費は、藩の要人・小鷹狩(こだかり)介之丞(かいのじょう)が配慮し寄付金でまかなった。武器弾薬は、武具奉行の高間多須(たす)衛(え)(省三の父親)が、西洋式最新銃と銃弾を貸与し、志和練兵所の訓練では十二分につかえた。

 神機隊の優秀な家中が交代で、城下から約30キロの志和にきて、数日間は寄宿し、寝食をともにし、思想教育、軍事教育、軍律の厳しい指導にあっても、家中・隊中の人間関係は良好で、日本最強の軍隊をつくりあげていくのだ。

                     【つづく】


 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第4回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

「広島藩の志士」がベストセラーに、「広島郷土史」の教育の礎になるか

 広島県下の学校教育には、江戸時代をふくむ郷土史がない。広島、呉、竹原、大竹、瀬戸内の島嶼(とうしょ)部の小中学校において、生徒は「郷土史」を教わらない。

「歴史を知る。遠き過去を訪ねて、わたしが明日に働きかける行為である」
「郷土史とは、郷土愛と郷土の誇りを育てる土壌である」

 郷土史を教わらない義務教育は、異常な現象で、恥ずかしいかぎりである。


 1945年8月6日に悲惨な原爆投下があったにしろ、被災地は中心部から10キロていど。広島県下全体でみれば、江戸時代から明治時代の政治、経済、産業、文化、庶民生活などの史料・資料は広域に残存する。
 その気でさがせば、いくらでも歴史関連資料はあるはず。それをなぜ怠っているのか。広島県下で、なぜ郷土史を教えないのか、と私は疑問をもって育ってきた。

 

 しかし、広島県下でも福山地区はちがう。かつて備後の国である。水野家が備後福山を拓いた、と福山の小学校では、郷土史を教わる。

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 原爆後の被爆教育、平和の願い、その教育行政だけでは、広島の子どもは歴史視点から将来を見渡せる人材にならない。もっと真剣に、江戸時代からの広島の郷土愛を育てるべきだ。

「長崎には歌がいっぱいある。広島にはまともな歌はない。なぜか」
 長崎はこぞって歴史を大切にしているからだ。長崎は原爆の被災もある。だが、江戸時代からの出島、長崎奉行所、オランダ坂、グラバー邸、長崎造船所など諸々の歴史を庶民が愛着を持って大切にして語り継いでいる。そこには郷土の誇りもある。

「歴史は情感をつくる。その情感が詩になる。歌になる」
 長崎の鐘、長崎は今日も雨だった、長崎ブルース、~、


 広島は被災後の平和教育だけである。論旨的な核廃絶という平和だけでは片手落ちだ。これでは郷土への愛着や情愛が薄い。「広島は今日も雨だった、カープの試合が流れた」となると、歌にはならない。
 100年後の人材を育てる。それには、広島は歴史を100年、200年にさかのぼり、現代を捉える、そして未来を見通す教育をおこなう。
 そこから、生徒たちに広島が抒情、情感的に愛され、歌が生まれて、名曲となり、歌い継がれていく。

「現代の広島人は、幕末・維新に無力感を持っている。残念ながら、原爆前を知ろうとしない。現代と過去(歴史)との意志疎通ができていない」
 広島で、私はくり返し講演し、幕末研究会などで、そう語っている。一方で、「広島の小中学で、江戸時代をふくめた郷土史を学べる、教育の場をめざそう」と訴えてきた。

「教育は100年の計」だから、教育行政トップから教壇に立つ教職員までが、前向きに、積極的に、江戸時代・明治時代から戦前の歴史・知識を取りにいく。その努力が必要だ。

 それがないがしろにされると、生徒らには広島の政治、経済、文化、風土を教えられない。なにしろ、教員自身が郷土の歴史を知らないのだから、教えられるはずがない。

 そこで教職員が、「芸州広島藩」といわれた時代からの歴史に興味を持ってもらう。そのためには、作家の私が広島を舞台にした歴史小説を書くことだとおもった。より事実に近いところで。
「二十歳の炎」(芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るなかれ)を世に出した。売れたのは広島でなく、おもいのほか、首都圏で好評だった。(薩長史観が東京(德川・江戸)では煙たがられていた面もある)。ただ、同書は5刷で、出版不況からクローズとなった。

 出版社が閉鎖すると、その本は暴落するのがふつうである。
 ところが、『二十歳の炎』は、絶版本として、いっとき3万円台(アマゾン・中古)にまで暴騰した。これでは同書を読みたい人が読めない。読めないことは、幕末・芸州広島藩が闇のなかに歴史から消えてしまう。

 私は手持ち在庫とか、カルチャーセンターに委託しカウンターで販売している「二十歳の炎」をかき集めた。そして、アマゾンの中古市場にながした。いっとき4-5000円台まで下がった。ところが、またしても8000円から数万円を行き来する。そこで、私は中古市場の冷却を諦めた。あらためて再版してくれる出版社をさがした。

 そして、今回の広島・南々社「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった!)の出版となった。
 数多くの教職員が目にしてくれる。それには、文化の発信の場を提供してくれる書店の協力が大きい。感謝したい。

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神機隊~志和で生まれた炎~≪3≫神機隊発足の芽生え=プレスネット連載より 

 長州藩は倒幕の主役ではなかった。毛利家は藩内の内乱ばかりで、明治新政府樹立まで表立って関わっていない。そういえば、「えっ、ウソ」とおどろく人は多いだろう。

 慶応3年10月15日の大政奉還では、長州藩はカヤの外である。同年12月9日の京都の小御所会議(こごしょかいぎ・写真)で、明治新政府が誕生するが、このとき主な長州藩士で京都にいたのは品川弥(や)二郎(じろう)だけである。
 情報収集で潜伏(せんぷく)する品川ひとりをもって巨大な徳川政権を倒した主役だとはいえない。

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 倒幕の足音はいつからか。
 天保・天明の大飢饉(だいききん)で、徳川政権の経済基盤が傾き、ペリー提督の来航から鎖国(さこく)防衛ができず、開港へとおよんだときである。

 日米通商条約が締結されると、外国人を排除する攘夷(じょうい)運動が盛んになった。長州藩が朝廷をかつぎだし、国内政治の中心を江戸から京都の天皇へと移させた。
 しかし、長州藩はあまりに過激攘夷すぎて、孝明天皇からかえって排除された(八月十八日の変)。

 毛利家の三家老が失地回復をもとめて、元治元(1864)年、軍隊を引き連れて京都に挙がり、禁門(きんもん)の変(へん)を引き起こした。御所にむけて発破し、藩邸に火を放ち、京都の約半分を大火災にさせた。

 激怒した孝明天皇が、長州を征伐せよ、と家(いえ)茂(もち)将軍に命じたのだ。
 これでは勤王を標榜(ひょうぼう)する長州にとっては台無し。幕府と天皇を敵にまわして倒幕どころか、本州の西端に封鎖された。
 朝敵の毛利家中は京都にも、広島すらいけない禁足が、王政復古による明治新政府誕生までつづいたのだ。
 ところで、第一次長州征討は、長州藩の関係者の切腹・斬首で終わった。その後、長州藩内で高杉晋作など過激派の力が強まり、德川幕府はそれを危険視し、第二次長州征討へむかっていく。

 広島藩が戦争回避の周旋にのりだした。
 小笠原老中が広島に赴いてきた。広島藩の執政(実質・家老)の野村帯刀が小笠原に強く非戦の意見を具申する。逆に謹慎処分にされた。同様に、辻将曹・執政が大儀のない戦争だとくりかえし、謹慎。怒った優秀な若者55人が、切腹覚悟の行動にでた。ここから神機隊発足への芽生えとなった。

                       【つづく】  

 【関連情報】

① 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載しています。
 同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第3回目です。
 
② ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪2≫幻の歴史書だった芸藩誌=プレスネット連載より 

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第2回目です。
 
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 慶応4年(明治元年)7月、戦史にのこる神機隊の激戦は広野駅(宿場)からはじまった。広野は米作の平野で、遮蔽物(しゃへいぶつ)がほとんどない。
 相馬軍・仙台軍・旧幕府軍の連合4000~4500人の大軍団が埋めつくす。朝昼夜、なんどきも銃弾と砲弾が飛び交う。

 新政府軍の鳥取藩軍は、その恐怖から途中で退却した。孤軍となった神機隊280余人の精鋭部隊は、一歩も引かず、全方位の敵兵をあいてに壮絶な戦いに挑む。死傷者が連続する。
4日間の死闘で弾薬がつきてしまう。
 砲隊長の高間省三が、とてつもない奇襲攻撃をかけて、敵本陣の広野駅を奪ったのだ。

 川合三十郎・橋本素助編『芸藩(げいはん)志(し)』には、こうした壮絶な戦場が克明に描かれている。
 明治半ば、浅野長勲(ながこと)(最後の大名)が、幕末の政治活動をともにやった川合と橋本に、幕末・維新の家史編纂(へんさん)を命じた。
 ふたりは藩の応接掛(外交官)で、政治の裏舞台を知りつくす。さらに、志和で神機隊を旗揚げした中心人物である。なおかつ戊辰戦争には隊長で出陣している。

 編集要員は約300人で、完成は明治42年だった。

 当時は、薩長閥の政治家がつよい権力を持つ。かれらはかつて足軽の身分にも満たない中間(ちゅうげん)や貧農の出身者だった。幕末の頃はまだ下級藩士で、政権内部の機密情報など知りえる立場ではなかった。

 やがて総理や大臣になると、自分たちを偉くおおきく見せるために、腐敗していた徳川政権を俺たちが打倒したのだと豪語していた。

 芸藩志となると、かれらが語る幕末史とは真逆が多い。自尊心をへし折られたかれらは強権で即刻、封印させた。
 幻の歴史書だった芸藩志が昭和53年に、300部出版された。すでに「竜馬がゆく」の司馬史観が世のなかで固まっていた。

 わたしには、それら通説をくつがえし、歴史教科書すらも書き換える内容におもえた。明治政府が修正をもとめず封印したことが幸いし、手垢がついていない。
 その認識のもとに、芸藩志により近く、「広島藩の志士」(二十歳の炎・改訂版)を執筆した。さらに、「芸州広島藩 神機隊物語」も4月1日に発売予定である。


 【関連情報】

①「広島藩の志士」(定価1600円 南々社)は、二十歳の炎の新装改訂版です。3月12日から全国一斉販売されます。
「まえがき」「あとがき」「口絵」が付加されています。
 この「あとがき」には、おどろくべき幕末の焚書(焼き棄てる)が明記されています。幕末の重要人物の日記がまったくない。誰が燃やし、破棄したのか。
 悪質な歴史のねつ造は誰がやったのか。従来の幕末史観が、真逆になる可能性があります。

 
②㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

神機隊~志和で生まれた炎~≪1≫戊辰戦争 連戦連勝の軍隊=プレスネット連載より

 神機隊~志和で生まれた炎~ 「プレスネット」に歴史コラム10回連載します。同紙は毎週木曜日発行で、掲載後において、「穂高健一ワールド」にも、同文で掲載します。今回は第1回目です。

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 広島には、毛利元就から原爆まで、その中間の歴史がない、といわれてきた。なぜか。学校教育でも、郷土史として習っていない。芸州広島藩は倒幕の先駆けで中心的な存在だが、倒幕には無縁だ、と殆どが思い込んでいる。
 慶応3(1867)年9月、広島藩は、徳川慶喜に軍事圧力で政権返上を迫るために、広島・薩摩・長州の薩長芸軍事同盟を成功させた。

 そこで旧来の農兵とちがう、実戦につよい西洋式軍隊が必要となった。藩の有能な応接掛(外交官)たちが、農商の子弟、神官、医者などに呼びかけて神機隊(しんきたい)を結成した。同9月、志和(東広島)で旗揚げする。職業軍人として、日々、実戦型の訓練で、軍律も厳しく、最新武装の軍隊だった。

 この9月から歴史に加速度がついて、大政奉還、三藩進発(挙兵)、王政復古、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へと拡大していく。

 神機隊は、広島藩庁に戊辰戦争の出兵を申請した。だが、大政奉還で徳川政権は終わっている、と拒否された。かれらは承服せず、藩から一両も貰えずしても、あえて自費で全隊員約1200人から精鋭300余人を選び参戦した。
 上野戦争、奥州戦争へと転戦し、命を惜しまない壮絶な戦いを行った。


 諸藩が参戦した戊辰戦争だが、神機隊は連戦連勝の最強の軍隊だったと、知る広島県人もまずいない。

 神機隊の砲隊長は高間省三である。かれは18歳にして学問所の助教というエリートだった。満二十歳で、福島県・浪江の戦いで戦死する。この若さで広島護国神社の筆頭祭神に祭られている。

 どれだけ武勇にも優れた人物だったか。

 明治26(1893)年に、『軍人必読 忠勇亀鑑(ちゅうゆう きかん)』が発行された。
 そこには日本武尊、加藤清正、徳川家康など英雄がならぶ。戊辰戦争ではひとり。西郷隆盛、板垣退助、大村益次郎でもなく、高間省三である。
 幼少の強い性格、頭脳明晰の優れた人物、戦場での大胆な戦い方、浪江の戦いの壮絶な戦死まで紹介している。

「えっ、芸州広島藩に、こんなすごい人物がいたのか」
 実のところ、私自身もまったく知らなかった。

          写真=最新銃をもった高間省三(広島護国神社蔵)


【関連情報】

 ㈱プレスネットの本社は東広島市で、「ザ・ウィークリー・プレスネット」を毎週木曜日に発行している。日本ABC協会加盟紙。
 日本タウン誌・フリーペーパー大賞2017において、タブロイド部門『最優秀賞』を受賞している。

「隠された幕末史」・穂高健一が100人の区民に講演=浦沢誠

 歴史作家の穂高健一が、2018年1月28日 葛飾区立立石図書館・研修会(2階)で、14:00から2時間0の講演をなされました。題名は『隠された幕末史』です。

 当日は晴天のもと、参加者はまるで計ったようにジャスト100名でした。

 年少者は小学生(男子)で、大半は60代を超える年齢の方がたでした。

 講師は『穂高史観』で独特の切り口を持ち、幕末史をひっくり返すような内容で、2時間を熱く語りました。


 立石図書館の白井館長が、冒頭のあいさつで、「作家・穂高さんは、葛飾区史の『郷土ゆかり人』(100人)に載られていますが、私自身、あまり認識がありませんでした。HPを見ると、小説家、登山家、ジャーナリスト、写真家など幅広く活動されています。おどろきでした」と語った。


 「きょうは、明治維新から150年。大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、これらの歴史の舞台裏がどのように語られるのか、とても楽しみです」


 明治22年に、伊藤博文の下で、明治憲法が発布された。この22年に、大久保利通の家屋が全焼し、大久保利通の日記が燃えてしまった。

 白版に『鳥有』と文字を書き、「とりう、と読みます。すべてなくなることです」。つまり大久保日記が全焼したことを意味します。

 国立国会図書館のアーカイブから確認できます、と付け加えた。

「この全焼は放火ではなかろうか」
 なぜか、放火か。幕末史にかかわる主要な人物たちの慶応3年の肝心な日記がことごとく、燃やされたり、抜かれたり、まったく現存しないからだ。

 まさに明治20年代の政府トップは、焚書(ふんしょ)を謀ったのだろう。事実ならば、ヒットラー、毛沢東とともに、明治政府は「世界三大焚書」を成した、後世に重大なる責任を負わねばならない、と語った。

 

 自著の幕末歴史小説「二十歳の炎」(2014年6月に発行)にサインをなさった。

 表紙の英雄・高間省三の写真がとても格好いい。

 明治時代発行の軍人携帯必読「忠勇亀鑑」には、日本古代の武人、日本武尊、加藤清正、豊臣秀吉、徳川家康らがならぶ。戊辰戦争はたったひとり。西郷隆盛、板垣退助でもなく、唯一の武勲と紹介されているのが、表紙の高間省三です。。

 日本人にはぜひ知ってもらいたい人物です、と穂高講師はつねに語っています。


 穂高講師から学ぶ「かつしかPPクラブ」のメンバーが講演にかけつけました。PPクラブを下支えしてくださる立石名物・岡島古書店の岡島さん、四つ木郷土史家の石戸暉久さんたちも、講演参加されました。

 二次会では、幕末の要人の日記がことごとく「焚書」されたが、どれがやっのか、その犯人探しで、盛りあがりました。
 

【講演・案内】 隠された幕末史 = 葛飾区立立石図書館 1月28日(日)

 穂高健一による『隠された幕末史』を講演する。

 日時: 2018年1月28日 14:00~16:00 2時間

 場所: 葛飾区立図書館・研修会(2階) 無料
 
 メインタイトル「隠された幕末史」

主内容として:
 明治維新から150年、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の知られざる歴史の舞台裏を語る。


 私たちが現在一般に知り得ている幕末史は、焚書のうえ、ねつ造されたものである。

 ここら焚書は学者、歴史作家らは知らないか、知っていても、伏せているのか。これが一段と明白になれば、わが国の幕末史が通説と大逆転するし、「薩長倒幕」など死語になる可能性がある。広辞林からも消える。

 この講演で、それを赤裸々に明かす。

 通説に固まった歴史家にとっては、あまりにも恐ろしいことだろう。論文で綴った学術書、歴史小説などは『根拠も裏付けもなく、知ったかぶりして、嘘ばっかり書いて』と一律に不評を買ってしまうだろうから。


 幕末史のねつ造は、「国民を皆兵」にして、戦争国家へ導く作為につながった。だれがそんな悪質な焚書の工作をしたのか。講演では、犯人探しも試みる。

 
 明治政府のスタートは薩長土肥だった。薩長閥の政治家が中心だった。ただ、薩摩島津(鹿児島)、長州毛利(山口)の体質は根本でちがう。ここらは一律にできない。


 明治の三傑だった西郷隆盛が西南戦争が起きたとき自決して死んだ。同年には長州藩の木戸孝允が病死した。翌11年には大久保利通が東京・紀尾井町で暗殺された。
 一時期の創設者たちが、時おなじくして消えたのだ。


 その後、約10年間にわたり、薩長閥の力の均衡が崩れ、薩摩(鹿児島)は落ちていく。シーソーゲームと同じで、こんどは下級藩士だった長州(山口)閥の政治家たちが伸してきた。かれらは産業界と見苦しくも癒着し、金の力で政府を支配下におき、ほほ独壇場になる。


 伊藤博文による明治22年の憲法発布がおこなわれた。

 さかのぼれば、幕末の長州藩は朝敵だった。小御所会議の段階で、京都には品川弥太郎がひとり毛利藩藩士として情報収集で潜伏していた。たった一人で、逆立ちしても倒幕など言わない。長州藩は倒幕にまったく役立ってはいないのだ。
 
 伊藤博文は極貧農に生まれ育った。井上馨は下級藩士、山縣有朋は中間(ちゅうげん、武家に奉公する小者)の子ども、寺内正毅 は貧しい藩士、田中儀一は駕籠(かご)かきの息子、三浦伍楼は武士の奉公人の又家来(またけらい)の出である。
 かれらは下級藩士というよりも、藩士以下の身分だった。


 身分が極度に低いもの、学歴のなかったものが、最も高い政治支配の地位に就くと、どうなるか。過去を誇大視し、わが身を英雄視し、偉そうに語りたがるものだ。傲慢(ごうまん)な人間ほど、悲しいかな、そうなってしまう。
 極貧の出の豊臣秀吉は天下を取ると、自分をより大きくみせるために、あえて朝鮮侵略をやってみせた。それとまったくおなじである。

 戦争とは自己誇示の最大の道具なのだ。

 長州は、朝敵で挙兵の旗も挙げられなかった。それにも関わらず、自分たちを大きく見せるために、嘘はいくらでも平気でつく。
「長州藩は徳川を倒しただの、徳川よりも優れていたんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから、われらは倒す必要があっただの」とウソをでっち上げたのだ。

 金と権力をもった長州閥の政治家は、「この辻褄(つじつま)に合わない、大名・家老、公卿たちの不都合な日記は全部消せ、この世から消してしまえ」と焚書を一気にやったのだろう。


 長州閥を中心とした明治政府は、わが国、つまり政治家の自分自身を大きくみせるために、世界に君臨する日本国をつくる、軍事大国の欧米に肩を並べてみせる、と豪語した。
 
 そのためにも、歴史をねつ造し、かつての異人を討つ攘夷思想は正しい、国民皆兵は正義だ、聖戦だと教科書で教え込んだ。

 小学生の歴史教科書は明治時代の当初、自由発行で、開明主義の教育だった。外国の知識を広めさせていた。
 ところが、長州閥が政府の中枢に座ると、急激な変化が起きた。

 明治23(1891)年から、歴史教科書が検定制度になった。外国史教育は廃止され、小学校では日本歴史のみと決定された。そして、日本史上の「偉大な」「英雄」人物と重要な事件をとりあげていくものに変わったのだ。
 それは戦争史観から選択された人物たちだった。
 1904(明治37)年には「国定制」へと、一歩ずつ国家統制が強められた。


 ナチスドイツは焚書から、ユダヤ弾圧で思想を統一し、侵略戦争へと進んでいった。日本は聖戦で思想統一した。


『三つ子の魂百まで』、教科書は正しいと思う。教職員、神職、僧侶までも、鉄砲をかついで人を殺しにいく。日清戦争、日露戦争、第一世界大戦、日中戦争、太平洋戦争、といちずに太平洋戦争へと導かれていった。
 聖戦の結果が、祖国の廃墟か、となった。

 戦争の予兆はいきなり鉄砲ではなく、保管すべき公文書の偽造、焚書から芽が出てくるものだ。

『公人による焚書は戦争の原点になる』これは格言として知っておくべきだろう。

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(下)

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった歴史上の人物らの日記が、奇怪にも存在しないのだ。ことごとく現在進行形の日記がない。なぜないのか。これは焚書(ふんしょ)以外の何ものでもないだろう。

 これまで学者、作家はいったいなにを根拠に学術書、小説などを書いてきたのか。まったく理解できない。

 明治新政府の顔ぶれは、松平春嶽、尾張・徳川慶勝、浅野長勲(浅野家は松平の姓を名乗れる)。山内容堂(佐幕派)、島津忠義(家定将軍の正室・篤姫)というすべて徳川家である。
 徳川公方様のケイキ(慶喜)さんが身を引き、ほかの徳川家の方々に代わられた。人事の一新を図った、という意味合いで、明治時代のひとたちは『御一新』(ごいっしん)と呼んでいた。大正時代まで、その呼称だった。
 
 一般庶民には、徳川慶喜は、ながくケイキさんと慕われてきた。松平容保すら日光東照宮の宮司になった。戊辰戦争で一人も大名が殺されていない。これは徳川倒幕ではない。
 後世の造語である。
 明治維新となると、昭和に入って言われ始めたものだ。2.26事件の青年将校が「昭和維新」と叫んだことから、政府関係者が「明治維新」と後付したのである。
 

 偉人伝で現存する日記に類似する史料は、あらゆるものが後年の聞き取り、あるいは勝海舟の「氷川清話」のように記憶で書いたものである。勝海舟の書で解るように、都合のよいこと、差しさわりのないこと、我田引水ばかりである。

 現在、NHK大河ドラマの主役となった西郷隆盛の日記も存在しない。

「南洲翁遺訓」となると、旧出羽庄内藩の関係者が作成したものだ。庄内藩といえば、鳥羽伏見の戦いの引き金となった慶応三年12月に江戸の薩摩屋敷を焼き払ったことで有名である。
 かれら庄内藩はかつて江戸の治安部隊だった。
 そこに江戸騒擾(強奪、略奪、美女狩り・強姦、二の丸放火)などテロ活動が横行した。江戸を恐怖に陥れさせた西郷隆盛は最大の憎い敵だった。だから、庄内藩は大砲を撃ち、テロリストの多くを惨殺した。
 その庄内藩士が西郷をほめたたえる「南洲翁遺訓」となれば、怪しいものである。戊辰戦争後、恭順した庄内藩が、新政府に媚(こ)びる面が強い。内心は腹立たしいのに。

「動乱の世は、だれも明日がみえない。迷い、疑心暗鬼、試行錯誤が日記に表れるものだ。それが歴史的事実になる」
 歴史を後ろから作り直した聞き書きは、すべてストレートに辻褄(つじつま)が合いすぎている。怪しいものである。


 土佐藩でみてみよう。山内容堂の日記はない。最も重要な史料がないのである。つづく後藤象二郎、板垣退助、福岡 孝弟( たかちか)らも、当時の現在進行形で書かれた日記がない。なにをもって土佐藩を知ることができるのか。
 龍馬は届いた手紙はすべて焼き捨てている。木戸孝允からきた手紙の裏書き一通だけが現存するのである。鉄砲密売の自分から出した手紙など、どこまで真実か解らない。密なる商売の性格から、はったりも、ウソも、駆け引きも、見栄ぱりの面も多々あるだろう。

 幕末の政治改革は、「薩長倒幕」でなく、德川の人事一新である。あるいは「徳川内部崩壊」だとしても、龍馬の活躍など、大半が作り物だと言っても過言ではないだろう。
 ありもしない船中八策など、いい加減な倒幕という創作幕末史に、私たちはごまかされてきたのだ。


 広島の講演で、質問が出た。
「そんな大規模な焚書(ふんしょ)ができますかね?」
「やる気になれば、できますよ。江戸幕府がつぶれて武士は失業し、食い扶持を探していました。全国260余藩の隅々に散っていた公儀隠密だって、食べていくためには、新しい仕事を探す。明治政府の秘密警察に組み込まれたり、あるもは軍隊の憲兵になったでしょう」
「なるほど。なれた職のほうが働きやすい」

「江戸時代の商人は『各藩の紳士録』を持っていました。商いの重要な資料です。これをみれば、260余藩の上級藩士は、一目瞭然でわかります。明治22年以降に、政府が元公儀隠密の秘密警察に、これこれの日記を処分しろ、と命じたとすれば、かれらは水を得た魚のように、天井裏、床下から深夜に忍び込み、いとも簡単に日記を盗み出すでしょう」

「公儀隠密は、それが仕事だったんですよね」
「そうです。江戸時代に公儀隠密という260余年も徳川政権を支える裏と影の組織があった。だから、明治政府があえて新規に作らなくても秘密工作員の土壌があったのです。中野学校のスパイ養成などの教官にもなったでしょう」

「だれが焚書をやったのでしょう?」
「徳川家が内部崩壊なのに、『幕府倒幕』ということばを世の中に発信した人ですよ。ほんとうの意味で倒幕はなかった。その証拠に、薩長土肥の下級藩士は、明治2年ころまで大臣クラスはいない。せいぜい次官か、局長クラスです。とても、倒幕と言えたものではない」

 徳川家の内部における人事の一新を、「徳川倒幕」にすり替えた。なぜか。
「そうしなければならない存在の人物がいたからです」
 身分の低いもの、学歴のなかったものが最も高い政治的な地位に就くと、過去を誇大視し、偉そうに語るものです。
「実際には倒幕していないのに、自分たちは徳川を倒しただの、徳川よりも優れているんだぞ、江戸幕府は劣悪な政治だったから倒す必要があっただの、と故意に大きくみせる造作の必要を感じた政治家がいたのです。それが焚書のボスです」
 その心理は現代でも同じです。端的な例は、私の先祖はすごい、と自慢したがります。本当に、そうなのか、と疑っても、まま聞き流して終わりにしてしまいます。

 だが、歴史はそうはいかないのです。

 人間は突然変異なことはしないものです。だから、「歴史から学ぶ」ことができるのです。私たちが現在から将来を洞察するとき、過去の事例はとても大切です。人間はだいたい同じことをしますから、歴史の事象は指針づくりにとても役に立ちます。

 しかし、為政者が自分を大きく見せるために、史料を焚書し、歴史的事実をねつ造していると、私たちは将来にたいする判断や指針が狂ってしまいます。
 
「私が調べたかぎりでは、幕末政治の中心にいた人物の肉筆の日記は、いまの段階では確認できていません」
 皆さんで、大名と家老、そして上級公卿たちの現在進行形の日記を探しましょう。発見できなければ、明治時代、あるいはそれ以降の政治家が、自分たちの不都合で焚書したことになります。指示命令した人物が特定できなくても、大規模な「世界三大焚書」として汚名をきることになるでしょう。

 ぞっとすることですが、事実だったら、目を反らすことはできません。後世の国民を裏切った悪質な政治行為ですから。糾弾されるべきです。

                                  【了】

【近代史革命】世界三大焚書か=明治政府の幕末史のねつ造は(上)

 2018年度1月のスタートにおいて、広島市内で、幕末芸州広島藩研究会と、狩留家(かるが)郷土史会の講演があった。
 歴史小説家として、私が前々から疑問に思って調べていた、謎の幕末史について言及した。

 紀元前200年ころ、秦の時代に焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)がおこなわれた。入試には読み方がよく出る。あえてここでは説明しない。

 近代史・現代史において、ナチスドイツと毛沢東が書類や本を焼く焚書(ふんしょ)で有名である。身勝手に、都合よく思想をゆがめたのである。
 まさかと思ったが、日本の幕末史も明治政府によって焚書がなされたはずだと強い確信に至った。そして、『世界三大焚書』と称し、ナチスドイツ、毛沢東、明治政府を並列においた。


 慶応3年12月9日小御所会議に参加した大名の日記が、それに該当する箇所が無いのだ。さかのぼれば、大政奉還から、明治初年の「五箇条のご誓文」あたりまで、小御所会議の5大名や家老たちの日記が燃やされたり、破られたりしているのだ。

 もっと掘り下げると、松平春嶽、徳川慶勝の日記は、慶応3年末の項が抜かれたり焼かれたりしているのだ。浅野長勲、島津茂久の日記も存在しない。小松帯刀も同時期の日記が抜かれている。
 山内容堂の日記は存在しない。主役とされる岩倉具視すら、政変の内情を実証できる日記が存在しないのだ。
 これはどうなっているのか。


 幕末史に関わる主要人物(大名・家老クラス)の日記は、現在進行形で書かれたものはないのだ。徳川慶喜、小栗上野介も無い。


 国立国会図書館のアーカイブの「大久保利通日記」の冒頭には、明治22年に家屋が火災に遭い、日記の本物が焼失した、と明記している。運よく筆写もあったが、その後、霧消したと述べている。

 明治22年ごろから焚書が行われたと推量できる。大久保利通が暗殺されたのは明治11年だから、薩摩藩閥の力が弱まったころだ。
 明治22年は、伊藤博文の憲法発布がなされた重要な年である。

 大久保家の全焼はたんなる失火とは思えない。焚書だろう。その仮想定のもとに、さらに調べてみた。

 木戸孝允は毎日、日記を書いていた人物である。(死ぬ直前まで必ず書いている)。だが、「木戸孝允日記」も、明治元年4月1日以降である。それ以前はない。だれが、それ以前の日記を外したのか、あるいは盗んだのか、この世から抹消したのか。

 幕末史の大政奉還や小御所会議にかかわった、当時の歴史上の人物は、ことごとく現在進行形の日記がない。これは焚書以外の何ものでもないだろう。
                            
                                  【つづく】   
 

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