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涙の手紙=金田絢子  (#ICAN:ノーベル平和賞 授賞式に読んでもらいたい作品)

 その手紙は母宛に、疎開先の「茨城県猿島郡弓馬田村」に届いたものである。手紙の冒頭の「三月丗一日」の日づけから推して、昭和二十一年のことと思われる。

 差出人は、母の友人の花水さんである。母と花水さんは、府立第二高女(現、都立竹早高校)の同級生で無二の親友だったようだ。

「去年の今頃のことなど、いろいろ思ひ出されます。幼馴じみのお心安だてに、お目にかかってお話しする様に何でも書いて見やうかと思ひますの。讀みにくいけど讀んで下さる?」
 このように始まり、おしまいまで仲良しの“あなた”に聞いて欲しいという、一途な思いにつらぬかれている。
 四枚の便箋の三枚目までは、うらおもてをつかってびっしり文字が並ぶ。
 昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾がおとされた。忌まわしいあの日、花水さんのご主人は、役所にいく途中で、自転車にのって橋をわたっているとき、被爆した。
「午後四時頃『ヤラレタ』と云ってそれでも歩いて帰ってきた姿。もう書けません、「とても大火傷でした。よく此処迄かへって来た、それ程の大火傷でした」
「とに角はじめは元気でしたの」
 ご主人も花水さんも治る、と信じていた。


 ふた月まえの、昭和二十年六月、転任の沙汰があり、同月十九日、夫婦と子供四人の一家は、広島にうつった。「その時、本当に生きて再び東京を見る気持ちは全くありませんでした」

 広島に着いたものの、住むところもない有様だった。七月になってやっと、広島から四里程はなれた可部町で、住まいを得た。
「広島の一つ先の横川駅から四十分程省線で山の方へ入った、静かな町で、大田川が流れ」などの記述のあとに、八月五日の描写が涙をさそう。

 広島へ来てからもご主人は日曜日も休まず役所に通っていた。原爆投下の前日、「日曜日でしたが、午後三時ごろかへり、子供三人(末の子はまだ乳飲児)連れて裏の川へ行って、泳がせたり、遊んだり一時間程楽しさうにやってをりました。それが親子の浅いきづなの最後で御ざいました」

 被爆した主人は高熱で三週間、うわごとを言いつづけた。
「私事は一つも無くて、全部役所の仕事のことばかりでした」
「最後の四日程は意識不明のまま、何の遺言ものこさず自分では治りたい治りたいとあせりながら、亡くなりました」

 三枚目のむすびは「こんな大惨事になるなら、どうして(日本は)もう一週間早く、降伏しなかったのかと恨むのは私だけでせうか。でもこれも皆運命でございませう。私がかうして子供四人を負うて先のわからぬ世に生きてをりますのも、私の運命です」
 三十代の若さが書かせたすばらしく悲しい手紙である。

 涙で文字がかすれ、読めない部分もあるが、全面、真情にあふれている。大切にとっておいた母の気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

 時代をうつして、粗悪な便箋にはやぶれがめだつ。いまにもこわれそうであるが、母の遺志をついで、生涯わたしも、手放すまいと思っている。


【HP管理者より】

「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室、11月度提出作品です。ご本人は都合で当日欠席でした。きょう2017年12月10日に#ICANのノーベル平和賞の授与式がありました。
 被爆者の妻の生々しい描写が、このまま埋もれず、世に知らしめるべきだと判断し、作者・金田さんのご承諾を得ないまま掲載いたしました。(穂高健一)

起こされて  森田 多加子

 暑かった今夏の寝苦しさから解放されて、気持ちよく寝ていた朝、突然スマホのけたたましい大きな音で目覚めた。


 私たち夫婦は、いつも遅起きだ。
 早い朝は熟睡している。けれど、今朝は、突然朝早くから起こされ、何のことやらと、ぼんやりした顔を見合わせた。家は揺れていないので地震ではなさそうだ。
「なんだ?」 
 同時に外からサイレンが聞こえてきた。スピーカーで何か流しているので、聴き耳を立てた。

『北朝鮮によるミサイル発射がありました。北海道地方から太平洋へ通過するもよう』


 このスピーカーは、毎日夕方五時になると、(良い子のみなさん、おうちに帰る時間です)
と、流していた音だ。町全体に響き渡るような音で流れる。当然、これはうるさいと苦情が出たらしいが、
(緊急のお知らせをする必要があるときのための予行練習です)
 と、いう市からの回答だった。

 緊急の時というのが、この報せだったのか。


 すぐテレビをつけた。
 男性のアナウンサーが、私に向かって緊張した面もちで話しかけてくる。外から聞こえているメッセージと同じで、北朝鮮からミサイルが発射されたということと、

「できるだけ頑丈な建物や、地下街などに避難してください」

「できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動してください」

「落ち着いて行動してください」

 何度も、何度も同じ言葉を放送している。

 外ではまだサイレンが鳴っている。
 戦時中の記憶がある私としては、敵機が上空にきているという報せの【空襲警報!】のサイレンにそっくりなので、怖くなって何が何だかわからない状態になった。

「この辺に頑丈な建物や地下街なんてないしねえ」
「うちは鉄骨なので、頑丈な建物のうちにはいるんじゃない? 家にいればいいよ」
「でも、窓のない部屋なんてないものね」
 後から考えると、漫才のような夫婦の会話だったが、ぼそぼそと話しているうちに、ミサイルは北海道上空を通過してしまった。

 Jアラートが発令されて、たったの4分だ。何もできなかった。実際、この上空にミサイルが飛んできたら、避難できる時間ではない。日本のおえら方が「国民を少しおどかしておこう」……なんて……言っている妄想が浮かんだ。

 戦時中の【敵機襲来】の怖さは妄想ではない。
 あの怖さを知っている年齢の人も、もう少なくなってきた。二度と同じ事態にならないようにと、改めて切実に感じた。

 いつもなら、まだ寝ている時間だが、中途半端なので、はっきりしない頭をフリフリして起きることにした。
(大丈夫でしたか?)
(これでは狼少年になりかねませんね)
 ラインに心配したメールがはいる。
 緊急連絡なので、狼少年などになってはいけない。
 ならないように気を付けたいが、4分では避難場所に移動すらできない。

 実際の話、連絡があったときにどんな行動をとればよいのか、未だ全くわからない。

芸州広島藩はなぜ大政奉還に進んだか (中)=御手洗大会の講演より


 御手洗・金子邸で、150年前の薩長芸軍事同盟を語る。

 慶応3年11月26日、薩長芸の軍事密約により、長州藩の家老ら7隊の1200人が御手洗に到着した。広島藩においても豊安号で422人の兵を送りだしてきた。
(大政奉還の直後に、辻執政が広島藩兵を上洛させている。こんかいは補充追加)

 広島藩と長州藩の軍隊が、御手洗港で合流した。町役人の金子邸(写真)の茶室で、二藩の幹部が、挙兵・出航の協議をおこなっている。
 これが『御手洗条約』と呼ばれるものである。


 朝敵だった長州藩は、天皇の敵であり、偽装を必要とした。長州藩の軍艦二隻の船旗(フラッグ)は、ひとつが芸州、もう一隻は薩摩藩にした。つまり、長州兵らは身なりからしても広島藩士、薩摩藩士を装って、上洛するのだ。


 芸州広島藩と長州藩は併せて7隻の軍艦をつかう。


 同月26日夜8時に、広島藩の震天丸を先頭に、7隻の艦隊が御手洗港を進発した。そして、淡路沖、西宮へと誘導していくのだ。

 この3藩進発は浅野長勲、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が中心となった空前の6500人の大規模な挙兵だった。


 その事前の密議が、最近まで、密議がどこで行われたのか、幕末史の最大の謎だった。

 それは慶応3年11月初めに、広島藩領の御手洗で行われていたのだ。広島藩士をはじめとして、木戸孝允、大村益次郎、大久保利通ら11人が4日間にわたる密議を行っていた。

 まさに、ここから歴史が動いた瞬間だった。


 「大政奉還150年御手洗大会の講演会場となった乙女座」


 倒幕をどの時点とみなすか。諸説があるが、

 慶応3(1867)年10月15日、徳川家の大政奉還が朝廷から認められた。ここか。同年12月9日には、京都御所・小御所会議で明治新政府が成立した。ここでは徳川幕府が完全に崩壊した。一般的には、この段階で明治政府が樹立している。

 薩長閥の為政者たちは、慶応4(1868)年、天皇が東京に移ったときから明治時代だとおしえた。古来の定義の「遷都」ではないし、当時から「行幸」という小細工で民の目をごまかしたものだ。

 明治新政府はまちがいなく「御一新」の小御所会議である。いずれ、教科書で、明治維新は1867年と書き換えられるときがくるだろう。鎌倉幕府の成立が変わったように。
 むろん、長州・山口県の関係者の方々は、ずいしょで不都合になってくる。


 新政府「御一新」の小御所会議まで、長州藩兵は朝敵であり、京都に入れなかった。長州藩士はわずか品川弥二郎ひとりが潜伏するのみであった。

「わずか一人で、薩長倒幕なんて、歴史の欺瞞(ぎまん)だと思いませんか」

 えっ、ひとりですか。

「これは隠しようもない歴史的事実です。長州は倒幕に役立っていなかったのです」

 なるほど長州藩士が一人じゃ、薩長倒幕とは言えんのう。
 

 日本人は、お上のいうこと、教科書に書かれたこと、それは信実だと鵜呑みにする。だから、明治政府が都合よくつくった『薩長討幕』という表現に、後世の学者や歴史作家たちはふりまわされてきたのだ。

 明治政府が作った『幕末史』だから真実だろう、と考えたのだ。


 いまだに多くの歴史学者は、幕末の芸州広島藩の役割も、御手洗における倒幕密議すらも、まったく知らない。
 否、長州大好き学者すら、木戸日記に書かれている御手洗からの六か条にわたる出兵協約に目を叛けてきたのだ。
 片や、慶応2(1866)年の京都・小松帯刀邸で「薩長同盟」が、龍馬の龍馬の仲介で成した、とことさらこじつけてきた。

 木戸準一郎(当時)は、小松帯刀邸の談論を箇条書きにし、手紙をもって龍馬に裏書きをさせている。
 ただ、そこには薩摩とか長州とか、ひとことも書いていない。この段階で、2藩の軍事同盟などあり得ないのだ。あくまで、談論だ。

 木戸はこの段階で、徳川家が武力をもって毛利家を排除する、と思っていない。その証拠に、大村益次郎に戦術訓練をさせているが、高杉晋作に戦闘配置などつかせていない。
 幕府のいつもの威圧と嚇しだろう、「毛利家の家老を大坂・京都にさしだけといわれても、いまは病気で出むけない、と偽っておけば、それですむ」とかれは思っていた。

 現代でいえば、北朝鮮が、アメリカの軍事威圧はたんなる脅しだと高を食っているのと同じだった。


 木戸とすれば、小松帯刀邸の談論は皇軍挙兵の打診である。木戸の視線はつねに皇国国家の設立にあった。王政の復古で、長州藩はつぶれてもいい、と当時から木戸は発言している。

 木戸には、長州藩を守りぬく意識すらないのだ。町人出(医者)の木戸は、武士社会を壊す一念だった。めざすものは親政で、身分撤廃の四民平等の社会だった。

(いきなり版籍奉還、廃藩置県、四民平等、日本初の萩城・取壊しなど、木戸がやり遂げた。かたや、すぐさま武士社会温存派の長州・騎兵隊を徹底的に弾圧するくらい、武士が威張る社会が嫌いだったのだ)。

 徳川幕府から「島津幕府」に代替えした西郷隆盛の発想と、木戸孝允とは根本が違っていた。
           

                         【つづく】

                             

第1回 祝「山の日」大崎上島・神峰山大会=ことしからスタート・8月11日

 目的
〇 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げた。
 この祝日に、瀬戸内の名峰・神峰山(しま山100選)に眠る、売春の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることを目的とする。


1.主催者:広島県・大崎上島町地域協議会
後援 : 全国山の日協議会 (谷垣禎一会長)


2.開催の内容

大会名:悲劇の石仏を「洗う・磨く・拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

開催日時:平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日) 11:00~15:00

会場:大崎上島町観光案内所2階

          * 白水港フェリー乗り場から徒歩1分

          * 住所:大崎上島町東野6625番地61/電話:0846-65-3455

3.参加費: 1000円 昼食、お茶、石仏を磨くハンドタオル代等として

4.スケジュール
 11:00 開会挨拶:大崎上島・木江出身の作家・穂高健一
                (日本ペンクラブ広報委員、日本文芸家協会会員)

 11:10 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 短編小説「ちょろ押しの源さん」(400字詰め約40枚)

   第2部 中編小説「初潮のお地蔵さま」(400字詰め約60枚)

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化した

12:00 神峰山頂上へ移動

 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動 

~ 山頂・展望台で昼食  

13:00 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート

  南米ミュージシャン(ミスマ夫妻)が山頂で鎮魂曲を奏でる

13:20 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいく

 タオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布、石仏の巾や前掛けを付け直す

15:00 山頂・石鎚神社前にて解散
          * 希望者は駐車場まで戻り、バスで案内所まで移動

【大崎上島・特徴】

・大崎上島は、瀬戸内海で最大の離島です。(離島振興法にもとづく)

・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が望める絶景です。
 北海道から九州まで厳選された名峰『しま山100選』(公財・日本離島センター)にも、神峰山は選ばれています。日本最大級の眺望です。

・大崎上島町・木江港の街には、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。
(おちょろ舟で、女性が身を売っていた)。そして、多くの悲劇が生まれた。

6.問合せ先: 同実行委員・事務局 平見健次 090-1659-5722

広島藩が『倒幕の密勅』は偽物だと暴露した=浅野家・芸藩誌

 教科書で教えてきた『薩長倒幕」は、史実とちがう。いまさら否定されても困る。それが、学者や作家の偽らず心境だろう。なにしろ、明治政府が、義務教育制度を確立した時から、百数十年間も教えつづけてきたのだから。しかし、いずれ、この『薩長倒幕』という用語も教科書から消える日があるだろう。

 ことしは大政奉還150年である。明治政府が隠ぺいしてきた、広島藩・浅野家の『芸藩誌(げいはんし)』が注目を浴びている。とくに、『倒幕の密勅(みっちょく)』が、天皇の詔書の形態をとっていない、と前々から偽物説は流れていた。
 それを如実に暴露したのが芸藩誌だった。だから、芸藩誌が明治政府によって封印されてしまった。世の中に出たのが、昭和53(1978)年で、わずか300部であった。
 広島市内でも、おおかた5、6カ所程度しか所有していないと思う。大学や研究機関の学者の目に触れることも少ない。
 と言っても、存在しているからには、歴史は真実を求めて動くし、漸次、芸藩誌の関心が高まり、メディアやネットに載りはじめてきた。やがて、火がつくと、一気に幕末史の塗り替えになるだろう。

「芸藩誌」の編さんの経緯は、ほとんど知られていない。当時の明治政府も宮内庁も、広島・浅野家から、こんな家史の編さんが出てくるとは、予想すらしていなかっただろう。

【経緯として】

 明治新政府は、大政奉還から戊辰戦争終了後まで、勝利した王政復古を高々に謳(うた)うために、維新史という編集がはじまった。それは大名家が権力を失った廃藩置県の1872年からのスタートだった。新政府は各大名家にも史料の提出をもとめた。
 薩摩と長州は資金力があり、すでに家史(かし)の編さんをはじめていたし、功名心もあるから、積極的である。
 
 しかし、廃藩置県で武士階級が破壊した直後である。妻や娘を質に入れても、生活もままならないのに、過去の史料を新政府に提出しろ、と命じられても、素直に応じる元大名家など皆無に等しい。
 そのうえ、大名家の主(元藩主)は東京に集められている。家臣の武士は6年分の給料を国債で渡されて解雇されている。
 無給で、過ぎ去った事蹟(じせき)を編さんしろ、と言われても、応じられるわけがない。

 結局、維新史は17年間もかかり、明治22(1889)年に、薩長には都合の良い「薩長倒幕」という維新史ができあがったのである。
 翌年、明治23年から義務教育制度がスタートした。「薩長倒幕」という用語の維新史が、そのまま教科書に落とし込まれたのだ。

 三谷博「明治維新の史学史」によると、明治憲法に基づく帝国議会の開会(明治23年)は、元大名家など政治的勢力の再編のまたとない機会となった。
 維新の敗者たちも議会に進出し、新たな政治参入できる。となると、元大名家は、歴史の書き直しで、明治国家の内部に、自らの地位を確保しようと、家史編さんブームの活況を呈してきた。

 宮内庁はこれを背景にして「維新史」の編さんをめざした。補助金を出して薩摩、長州、土佐、水戸の4家に3年間で、家史を編さんし、提出するように命じた。尊王攘夷運動に関わった大名家と、皇室との関係を強調しようと試みたのだ。

 孝明天皇の誕生から廃藩置県まで(1831-1871年)の資料収集を図った。さかのぼり過ぎたのだ。
 4家だけでなく、公卿の三条、岩倉、中山の3家が必要不可欠となった。共同して4家+3公卿だけでも、資料不足である。
 孝明天皇と親しかった徳川将軍家、会津家、桑名家も加えた。王政復古のときには敵であったが、外せなかったのだ。
 となると、味方となった尾張家と浅野家も必要となり、それぞれに史料の編纂と提出を命じたのだ。(上記は三谷氏資料・引用)

 編さんを命じられた元広島藩主の浅野家は、最後の大名・浅野長勲(ながこと)が健在だった。長勲は大政奉還にも、小御所会議の王政復古にも、中心的役割を果たした人物である。政治の裏舞台を知り尽くす、生き証人だった。

 編集トップには川合三十郎と橋本素助(もとすけ)が選ばれた。元学問所のエリートで、長勲と辻将曹(つじ・しょうそう)の下で、政治活動も展開している。

 慶応3年9月に、薩長芸軍事同盟が結ばれた。それに基づき、御手洗(広島県・大崎下島)から3藩進発で、6500人の兵と最新武器を京都に挙げてきた。川合と橋本らは立案から実行まで、一部始終、それに関わっている当事者なのだ。

 ややさかのぼること、薩長芸軍事同盟が締結された直後、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は、薩摩藩内において島津久光たち公武合体の考えが支配的であり、倒幕の兵をあげにくいと苦慮していた。『天皇の命令ならば、藩内統一ができる』。そこで『偽の密勅』でも良いから、それを薩摩に持ち帰りたい。長州藩も倒幕で藩内統一できているが、うちも書いて貰おう。
 薩長芸の3藩は、そんな内情を話し合い、実行に移したのだ。

 小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛は大坂から、広島藩の船に乗船し、その偽密勅を鹿児島に持ち帰った。翌月(慶応3年11月下旬)、薩摩藩が3000人、長州藩が1200人(+約1000人は尾道待機)、そして広島藩と3藩の船が御手洗港に集合してくるのだ。朝敵である長州藩の船には、広島藩と薩摩藩の旗を掲げさせた。

 それらを取り仕切ったのが広島藩の川合と橋本たちだから、『偽の密勅』は事細かく知り尽くしていた。

『毛利家の復官(朝敵を解く)入京の内勅書は、玉松操が起草し、岩倉具綱(ともつな・岩倉具視の養子)が一時の方便として、これを薩摩の大久保と長州の広沢に交付した。中山卿のごときは、この存在すら知らされていなかった。故に、表面上はそれを用いることはなかった』(藝藩志第八十巻)

 三条実愛は、岩倉具視、中御門経之(なかみかどつねゆき)・中山忠能(ただのり)の4人しか知らないし、当事者の薩長は語らない、と信じて疑わなかった。芸藩誌が編纂されるまで、まさか広島藩がこと細かく『倒幕の密勅』を認知しているとは知らなかったのだ。

 芸藩誌には、もう一つ大きな記載が秘められていた。

 慶応3年9月の段階では、長州処分が解決していなかった。『幕府はいまだに、朝敵の毛利敬親・父子を拘引(後手に縛って)江戸に連れて来いと言っている。ならば、長州の家老をダシにして、6500人の兵をあげよう』と辻将曹と小松帯刀が奇策を話し合っているのだ。
 
 徳川幕府は、第二次長州征討で、敗戦などみじんも認めていない。長州が勝利した、とは四候会議でも、各大名は認識していない。

 大政奉還でも、王政復古の新政府の要人メンバーにも、長州藩はひとりも加わっていない。歴史的事実である。

 西郷隆盛が仕掛けた鳥羽伏見の戦いでは、6500人の兵のうち、長州藩兵が加わり、広島藩は「薩摩と会津の私恨だ」として加わらず、そのぶん土佐藩と鳥取藩が入った。
 ここで、初めて長州藩が顕在化してくるのだ。

 明治10年には西郷が西南戦争で落ちて、翌年に大久保が暗殺された。以降は、長州閥の天下となった。維新史の上に、堂々と乗っかってきた。
 明治40年代に、芸藩誌の「倒幕のダシ」を目にした長州閥の政治家は、どんな気持ちに陥っただろう。むろん即時、発禁処分。片や、大正時代に遅ればせながら、編さん委員を差し替えてまでも、完成させた防長回天史は太鼓をたたいて世に送りだす。

 かれらの先祖である毛利元就は安芸の国・広島から出ている。徳川時代に芸州広島に転封してきた浅野家は、長州戦争では盾になってくれたが、憎き存在だったかもしれない。

 芸藩誌は永遠に封印したつもりだろう。
 それから約100年後、300部が刷られて世に出てきたのだ。

可憐に咲く『誰故草』に想いを寄せる=広島市・船越町

 『誰故草』なんて読むのだろうな。

 一枚の説明書を見たとき、「たれゆえ草」と名を記していた。

 歴史小説の取材で、船越公民館(岡田高旺・館長)を訪ねた。

 そこで、船越の町の花「たれゆえそう」の説明を受けた。
 

「幻の花」はかつて大江谷(おおえだに)で、自生していたという。

 平安時代の大江大納言は、毛利家(長州藩)の先祖だったはずである。

 「ほとんど絶滅する寸前にある花です」

 この船越町では、いちど姿を消している。

 いま保存会の方々が自生を試みている、と語っていた。

 天敵は、土を掘り返すイノシシだとも聞いた。



 
 歌人の藤原為兼(ためかね)が、安芸の国に流されてきた。

 京を想う為兼は、『誰故草』に寂しさを重ねて詠っている。

 船越中学校のグランドの一角で、地上から15-16センチの茎高さで、愛らしく咲いていた。

 これは人間が手を入れて育てた花だ、とわかっていても、この大江谷で『誰故草』に出会えるとは……、と妙にうれしかった。


 船越中学の久保大地くんが、2年がかりで紙芝居を作っていた。

 それを一枚ずつ読むだけでも、町ぐるみで、『誰故草』を誇りにしている、とわかる。

 江戸時代には自生で咲いていたという。

 歴史小説のなかで、主人公が想いを寄せる情景・情感で『誰故草』を組み込みたい。


 ※ 出会った方々が、地名を「広島市」と行政区でなく、かつての安芸郡船越町というイメージで語っているのにも、好感が持てた。
 

        (岩瀧神社の展望台から、船越町・海田町を望む)


 船越町はわずかな時間の滞在だったけれど、なおさら、紫色の花に出会えた、という特別に愛でた心持ちになれた。

【近代史革命】幕末には『大統領制を導入せよ』と主張した優秀な勘定奉行がいた(下)

 明治時代は、武士社会が解体された。

 政府は、失業問題の処理に失敗し、長州奇兵隊の虐殺、萩の乱、佐賀の乱、西南戦争と各地で内乱が発生する。
 明治10年まで、日本人同志が殺し合う社会となった。その前後から、台湾、朝鮮、中国、満州、と侵略軍事主義に代わっていく。かたや、徴兵制が徹底された。戦争の時代に入る。民の目線の政治から遠ざかるばかりである。
 
 宗教面ではキリスト教弾圧が、江戸時代よりも目にあまる虐殺となった。農民一揆も、徳川時代よりも多くなった。

 徳川時代は245年間の政権を支える有能な人材(昌平黌出身者)が多かった。秀才の外交官がいる。洋学(英・仏・オランダ語)も堪能だから、丁々発止と外交交渉はできた。
 ところが、明治政府は、通商条約の改定に40年間もかかっている。無能さらけ出している。太平洋戦争の終焉まで、77年間しか維持できなかった。
 どちらから学ぶべきものが多いのか。ここらはいちど熟慮してみる必要がある。

 能力の低い政治家は、まずなにを考えるか、「自分たちの存在を大きく見せる。過去を大きく見せる」、「都合が良い実績は誇大して残す。不都合を消す」と、国民の目をそらせていく。あるいはねつ造を信じ込ませる。

 現代でも、極度にコンプレックスが強い人は、自分を大きく見せたがる。きらびやかに衣服を着飾り、収入以上の高級車に乗り、高級マンションにすむ。これに類似している。


 薩長閥、長州閥の政治家は、御用学者に過去の自慢話をでっち上げてもらう。それを義務教育のなかで浸透させる。
 たとえば、偽詔書(にせ・しょうしょ)『薩長倒幕』という言葉をねつ造させる。薩長の勇ましさを信じて疑わいない軍国少年が生まれる。
 やがて、成人になれば、軍事侵略思想、徴兵制による国家総動員は善だと思う。祭政一致による国家のために死ぬのは美学だと信じ込む。
 御用学者が太鼓をたたきまくり、悲しいかな太平洋戦争へと突入していった。

 御用学者がつくった標語、『徳川は封建制で、明治から近代化』、こんなのは大ウソである。

 徳川家は、鎖国政策を捨てて、開国で海外貿易による近代化を推し進めた。さらに、大名支配を止めて郡県制(現代の都道府県)をめざしていた。そのうえ、大統領制へと声高に叫びはじめた有能なエリート官僚がいた。
 松平春嶽などは、大名制度がなくなれば、わが身が危ない。その官僚の実行力は抜群だし、春嶽は怯えたと記録されている。


 貿易拡大と外資導入は国を豊かにする。天皇は徳川(家康)に政権を任せている。それなのに京都から、幕閣の政治に口出ししてくる。
「天皇が勅許した阿部正弘の和親条約までさかのぼって、条約を破棄しろ、という。国際信義にも劣る。一ツ橋慶喜をたたきつけて、横浜港を閉港させると、外国奉行を使節団にしてフランスに送り込ませる」
 そんな天皇は承久の乱のように島流しにしろ。そして、わが国に大統領制を導入せよ、と主張した勘定奉行がいた。

 明治の御用学者は、こんな理論が徳川家で渦巻いたとは教えてくれない。自称歴史通の方は、それがだれだか、と歴史を訪ね歩けば、「えっ、徳川家は尊王でなく、大統領制だったの」とおどろくだろう。「徳川は無能だ」と決め込んだ薩長史観の一面からみる歴史の怖さを知るだろう。

 ヒントは、幕末にもっとも近代化を推し進めた勘定奉行である。江戸時代にワシントンで現職大統領にも会っている数少ない日本人だ。国務大臣と日米の通貨交換比率が不公平だと、小判、銀貨幣を持ち込み、化学分析で実証して見せて、アメリカ人を驚かせたと、ニューヨークタイムスに載っている。

 鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が大坂城から江戸に逃げ帰ってきたとき、「それでも将軍か」、「徳川家をつぶすつもりか」と胸ぐらをつかんだ人物である。

 徳川家がみずから封建制を脱却し、現代とおなじ資本主義社会へと1歩も、2歩も、踏み出していた事実がかるだろう。
 近代化は徳川家からである。明治の政治家は、その物まねからスタートした。
                              
                                  【了】
                           

【近代史革命】幕末に、『大統領制を導入せよ』と主張した優秀な勘定奉行がいた(上) 

 来年で、明治維新から150年である。このところ、幕末史にたいする関心度が高まっている。拙著の『二十歳の炎』(芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るなかれ)は、出版から約3年が経つ。いまや5刷りとなった。
 ことしは大政奉還150年であり、そのこともあって講演、講座の依頼が舞い込んでいる。なぜか。独特の穂高史観があるからだろう。

                    *

 現代の幕末史は、明治時代の御用学者が編成したものだ。昭和初期の軍国時代に、為政者に都合よく修正されながら完結した。
 そして、日中戦争、太平洋戦争の精神的な基礎教育と結びついた。

 現代でも、それを受け継ぐ学者はあきれるほど多い。だから、一般人の歴史通の大半が、それを正しいと信じ、
『ペリー提督が来航し、列強に蹂躙されて、わが国は開国した』
『第二次長州征討は長州が勝った』
『薩長倒幕』
『幕末・明治には日本が植民地になる怖れがあった』
『尊王攘夷は正しい
 それら御用学者がねつ造した用語をうのみにしている。

 自称歴史通の一般人は、大学教授や研究者の権威に、盲目的に信じ込んでいる面がある。
 歴史は疑問を持ちながら読まないと、巧妙なもっともらしい学者の論理や、歴史作家のねつ造の罠(わな)に陥ってしまう。


 一方で、確実に、幕末史が見直されている。歴史事実と違う。武勲・英雄史観が軍事国家に利用されてきたと、しだいに問題視されている。
 幕末の勝者の美化からの脱却である。
 


 明治時代の当初は、薩摩、長州、土佐、肥前、津和野が中核になった。それぞれが藩閥をつくっていた。
 祭政一致、キリスト教弾圧、廃仏毀釈、貨幣改革(両から円)、廃藩置県、地租改正、資本主義、外貨導入、徴兵制、軍国主義……。

 これらあらゆる革命要素が、明治に入ると、渾然いったいの怒涛(どとう)となって、政治家たちに押しかかった。

 そのときの、政治家の能力はどうだったのか。

 戊辰戦争に勝利した地方の下級武士が、いきなり中央政治のトップの座についた。政治意欲があっても、どんなに頑張っても、優れた語学力、政治理念、経済の基礎理論がなければ、資本主義社会などは円滑にまわらない。

 農兵で攘夷を振りかざし、進歩派・開明派・外国人を斬りまくっていた連中が、その功績だけで、中央官庁の官僚キャリアーとなっても、高度な財政・金融・外交の実務など満足に推進できない。   

               【つづく】

葛飾区中央図書館で、一か月間の展示コーナー(下)郡山利行


 数人の当クラブ会員が、それぞれ自分の特技を分担作業しての、手作り展示会だった。


 穂高先生紹介パネルの前の、ガラスケース上には、同区立鎌倉図書館と中央図書館のご協力により、先生の出版書≪海は憎まず≫、≪二十歳の炎≫、≪燃える山脈≫を、3冊ずつ、図書館貸出書として、展示期間置いてもらった。


 作品14冊の他には、2枚の当クラブ紹介パネルと、1枚の穂高先生紹介パネルを、展示し、壁面上部にはささやかながら、クラブ名の釣り飾りをした。

 今後、ほかの会場でさまざまな内容で展示する機会があるとすれば、葛飾区の行事・イベントや場所・景観・人物などのテーマでの開催も考えられる。 


 当クラブは、昨年までは同区教育委員会主催の穂高先生講師による、≪区民大学講座≫の修了者でなければ入会できなかったが、今年度からは、同区の≪区民大学≫卒業生で、当クラブ会員の推薦があり、会長が許可した方は入会できるようになった。


          写真・文 = 郡山利行

葛飾区中央図書館で、一か月間の展示コーナー(上)郡山利行

 今年2017(平成29)年3月1日から31日までの1ヶ月間、当クラブとしては初めての、作品展示会だった。

 今回の展示作品は、特別なテーマはなく、14名の会員の各人お気に入りの作品だった。


 図書館内の展示コーナーは、図書館事務所横の通路で、延長約10mの壁面とガラスケースだった。

 原本の作品の大きさは、A4を中折りにしたA5サイズだが、各ページをA4縦に拡大印刷して、クリア・ポケットファイルで製本した。


 それを館内での閲覧展示とした。 原本は、施錠されたガラスケース内に展示した。



 作品14冊の他には、2枚の当クラブ紹介パネルと、1枚の穂高先生紹介パネルを、展示し、壁面上部にはささやかながら、クラブ名の釣り飾りをした。


 数人の当クラブ会員が、それぞれ自分の特技を分担作業しての、手作り展示会だった。


        写真・文 = 郡山利行