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IOCのブランデージ会長・バッハ会長=「黒い9月」のさらなる悪の連鎖を起こさないか

「平和の祭典」。きれいなことばの響きの裏には、報復と復讐の恐ろしい連鎖がある。「東京2020オリンピック大会」はコロナに関係する緊急事態下で、開催の是非をめぐって国論が二分した。

 開会式の直前になっても、運営面の方々から不祥事が起きた。しかし、IOCのバッハ会長、日本国政府は、無観客による開会式に踏み切った。NHK、全世界の国営級で、約4時間にわたり放映された。
 私も大きな騒ぎになった開会式だから、TVを観ておく必要がある、と最初から最後まで一部始終ていねいにみていた。

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 開始式の冒頭に「ミュンヘン・オリンピック大会」(西ドイツ)のイスラエル選手殺害事件の犠牲者、およびコロナ犠牲者に対して追悼式の黙祷がおこなわれた。東京会場は無観客でもあり、静寂な雰囲気が伝わってきた。

「えっ、ずいぶんハイ・リスクなことを背負うのだな。こんな追悼式のセレモニーを日本で催して、日本政府、JOC、バッハ会長らはだいじょうぶなのかな」
 と私は思わずつぶやいてしまった。

 いま、日本国民はTVを観て、金・銀・銅だと歓喜に沸いている。

 しかし、政治家や大会関係者らは、イスラエル・アスリートの追悼式の後が気にならないのだろうか。

「日本赤軍の岡本公三(こうぞう・熊本出身)は、いま英雄として生存しているんだ。日本赤軍の壊滅宣言はまだ出されていない? もしや、この東京2020オリンピック会場にパレスチナ武装組織『黒い9月』の連鎖と報復から、かれら日本赤軍がある日、突然、会場に現れないだろうか」
 私は内心ひやひやしている。
 
 この大事件は1972年8月、オリンピック開会式から10日目に起こった。とてつもなく重大な国際事件だった。関係者はそれを失念しているのか、勉強不足ではないだろうか、と思う。             


【ミュンヘン・オリンピック大会事件の経緯をたどってみよう】     

 1972年5月30日、岡本公三ら複数の日本赤軍が、テルアビブ空港(イスラエル)で自動小銃を乱射し、民間人を26人を殺す。ロビーを血の海にした痛ましい事件が起きた。
 ただひとり逮捕された岡本は、裁判で終身刑になった。捕虜交換後、出所して現在は、レバノン政府が岡本公三の政治亡命を認めている。

              ※

 岡本公三らのテルアビル空港乱射事件から、約3か月あと、同年8月26日から『1972年ミュンヘン・オリンピック大会』が17日間の予定で開催された。
 開催日から10日が経ったときにイスラエル・アスリート殺害事件が起きたのだ。

 アラブのテロリスト8人が覆面をして、自動小銃と手りゅう弾などで武装し、ミュンヘンのオリンピック選手村に侵入し、イスラエル選手の宿舎のアスリートやコーチを人質に取ったのだ。そして「黒い九月」と称するかれらは犯行声明文を出した。


 イスラエルに監禁されているパレスチナ人、日本赤軍の岡本公三、ドイツ赤軍幹部、あわせて234人の釈放を要求してきた。期限内に解放されないと人質は射殺する、と。

 そこには、日本人の岡本公三の名前が具体的に出ている。それほど、岡本と日本赤軍はこの問題から重要視されて注目されていた。つまり、日本人が深くかかわった事件なのだ。

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 イスラエルは国防軍部隊の派遣すると、西ドイツ政府に申しでた。西ドイツは他国の軍隊の自国での活動を認めなかった。

 当時のドイツは第二次世界大戦の戦後処理が完了しておらず、国内の領土が西ドイツ、東ドイツ、と分割されるなど、ナチス・ドイツ時代の暗い影が色濃く残していた。西ドイツ政府は 軍備も武装も積極的でなかった。
 それゆえに西ドイツはテロ対策の特殊部隊をもっていない。地元警察がこの事件の処理に当たった。
 かたや、各TV局がこの事件を生中継しており、「黒い9月」側のメンバーには、政府側の情報が筒抜けとなっていた。

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 西ドイツの作戦は、『テロリストと人質を空軍基地に移動し、そこからルフトハンザ航空で、カイロに逃亡させる』というところまで事態を運んでいった。
 その先、手違いもあり、地元警察が「黒い9月」と銃撃戦をおこなう。装備に不十分な警察が逃げ出してしまった。かたや「黒い9月」のほうも基地内のヘリコプターを自爆させた。手足がつながれて目隠しされたアスリートたちは逃げ出せず、全員が死んだ。(一名は選手村から脱出していた)

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 この間、IOCのブランデージ会長は、「テロごときに脅されて辞めるような脆弱な祭典ではない」とつよい信念で、競技の継続を訴えた。
 ドイツ国民は中止をもとめて猛反対した。各地でデモも起きた。ブランデージ会長は反ユダヤ的な言動だったといわれている。「何としてでも、大会は中止しない」と言い放った。わずか数日の間があったが、競技を継続させた。

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 これだけで終わらなかった。IOCのブランデージ会長の強気と反ユダヤ的な態度と思想が、イスラエル側をより刺激させた。
 この事件のイスラエル報復作戦がすさまじく、シリア・レバノンの空爆をおこなう。そのうえ、イスラエル諜報特務庁(モザト)を発足させて『神の怒り作戦』と称し、「黒い9月」を支援したり、関係したりした人物をヨーロッパ各地から探しだし、暗殺していく。その数は20人以上だともいわれている。

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「目には目を」アラブ側も、民間航空機のハイジャック事件などを起こす。「復讐と報復」の連鎖になった。中東戦争の原因にもなっている。

 この根本には第二次世界大戦が起因となった民族・宗教問題の根深い対立があるのだ。当時、日本赤軍がそこに加担していたのだ。
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 その後において現代まで、ドイツ政府は「ミュンヘン事件」公式の調査・検証がなされていない。この問題は長く尾を引いてきた。
 その証拠に、4年に一度のオリンピック大会が開催されるたびに、イスラエル側が『アスリートの犠牲者追悼』を求めてきた。いずれの開催国(都市)も、関わり合いを避けてきた。IOCは45余年間にわたり一度も追悼式を行わなかった。それが由縁である。

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 このたび「東京2020オリンピック大会」で、49年目にして初めて「ミュンヘン大会犠牲者の追悼式」がおこなわれた。
 追悼式を決めた日本政府の菅首相、JOCの橋本会長、バッハIOC会長らは、このミュンヘン大会後の「復讐と報復」の連鎖がもはや終了したと確信をもって、東京2020オリンピック大会・開会式に追悼式を催したのだろうか。

 全世界の人々はTVで実況中継を見ている。イスラエルも、アラブの国々のひとも。日本の立つ位置をどう見なしているのか。

 ミュンヘンオリンピック大会のイスラエル選手殺害事件には、当然ながら、岡本公三たち複数の日本人の左翼思想革命家がつよく関わっていると知っているはず。それを承知で、日本政府やIOCは初の「追悼式」を行ったと見とみなすかもしれない。とても、気にはなるところだ。

 極左テロ組織の日本赤軍といえば、多くの日本人には、「あさま山荘事件」、「旅客機同時ハイジャック」「商社マニラ支店長誘拐事件」など痛ましい国内外の事件が数々に焼き付いている。
 かれら日本赤軍はアラブ諸国で英雄視されたうえで、現地人らは日本赤軍の自爆テロを模倣し、幼い子供らも命と身を犠牲にしている。それはいまなお現代まで続いているのだ。
 わが国において、警察庁・公安の発表と報道がないので、日本赤軍の存在はわからない。消滅しているのか。ならばよいが。岡本公三のように「英雄」として存在する人物もいる。かれらが組織テロをおこなっているとすれば、何をするかわからない。この認識が一般的だろう。

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「東京2020・オリパラ」の大会が終了したあと、200余国のアスリートたちがそれぞれ帰国していく。それら民間機がハイジャックされないか、と心配になる。これは単なる杞憂(きゆう)だろうか。
 
 オリ・パラの選手と関係者たちが、無事に母国に帰れるまで、日本政府、JOC関係者、バッハ会長らは責任を背負うべきだ。特に、バッハ会長はドイツ人にして、より事件の重さと追悼式の位置づけを知るはず。IOCのブランデージ元会長も、決して良い判断だったと思えない。今回の追悼式を開催させたバッハ現会長は、この点のリスクをよくよく重く受け止めておくべきだろう。 
 
 日独がともに同盟を結び、敗戦を背負ってきた。この歴史は消えていない。
 
 日本人はミュンヘン・オリンピック大会から、この双方の痛ましい犠牲者の霊を背負っている、と忘れてはならない。
 開会式に端を発して最後の最後まで何が起こるかわからない。警備をふくめて緊張感をもって臨む必要がある。すべてのアスリートの身を守ってあげるのが、国際的な責任だ。

 メダルの数とか、アスリートからの感動や感銘、安全安心をもって成功だった。ワクチンとスポーツでコロナに打ち勝ったとか。安易に打ち揚げてはならない。「東京2020オリンピック大会」の成功とはすべてのアスリートたちの無事の帰国をもって行うべきだろう。
  
                            「了」
 

藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか、RCCラジオ7月9日放送

RCCラジオ(中国放送)で、毎月第2土曜日の9時05分から『歴史スペシャル』で、穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」が放送されています。

(2021年)7月9日は、『藝州広島藩の神機隊は、なぜ自費で戊辰戦争に参戦したのか』というタイトルです。

 幕末の歴史で、広島藩がどう関わったのか。薩長という言葉はよく聞くが、広島について語られることは少ない。なぜか。たしかに広島藩は42万石の大藩であり、「日本外史」の頼山陽を生みだすほど皇国思想の要の藩でありながらも、「天下の駄藩」と蔑まれるほど、政治に関わっていません。

 ペリー提督の来航、水戸藩からの尊皇攘夷、長州の過激攘夷論、桜田門外の変、薩摩による公武合体論、文久の改革、と幕府の根幹が一気に崩れますが、広島藩は我関せずです。

 その理由のひとつとして、浅野家は徳川御三家に近い血筋が多々入っている。かたや、豊臣政権時代には、浅野長政が五奉行の筆頭(内閣総理大臣)という、複雑な立ち位置にあったからです。
 そんな広島が急激に動いたが「禁門の変」で、長州藩の毛利家が朝敵になり、孝明天皇の征討の勅命が幕府に出たときからです。
 長州戦争を前にして、幕府と長州を仲介する役がいない。まわりの諸藩は逃げ回っていた。ならば、徳川系にも、豊臣系にも、顔がきく広島藩が双方の仲介役を買って出たのです。
 ここから、広島藩が強烈に幕末歴史に登場してきます。  

【今回の放送内容のあらすじ】

 総督の尾張慶勝(元尾張藩主)と参謀・西郷隆盛(薩摩藩)らが、孝明天皇から幕府に朝敵の長州を討て、という大命題に添わず、毛利敬親・親子の処分を行わず引き揚げた。
「芋の悪だくみに、慶勝は乗せられた」と一橋慶喜の怒りを買った。そこで、14代家茂将軍を江戸城から大坂城へと出陣し、諸藩にふたたび出陣を要請した。


 画面を左クリックすれば、入れます



  越後高田藩の出兵風景。明治最後の絵師:揚州周延(橋本直義)の作

 35藩のいずこも、「わずか四か月のあと、また長州出兵か」とウンザリ。戦意もなく、死にたくないし、武器砲弾も自前だし、それも消費したくない。厭戦気分だった。

 ちなみに、越後高田藩は、幕府の第二次長州征伐の出兵要請で、4500人の藩兵は慶応元(1865)年5月に大阪に向けて出発した。幕府の方針が細部で煮詰まらず、半年は大坂で無為に過ごす。やがて、大坂から広島藩領の海田に12月に到着した。ここからも明日の戦いはやるのか、やらないのかと、長期に7カ月も滞陣する。厭戦ムードは高まるばかり。

  かれら国元、あるいは江戸藩邸を出てから延べ13カ。妻子や家族を想う望郷の念の書簡が多く残されています。

「なんで第一次で決着できなかったのだ』と不満が募る。第二次長州征討の戦いに勝ったところで、幕府から報奨金が貰えるわけではない。兵士にかかる衣食住と宿賃は、幕府の補填がなく、すべて藩の負担になる。

            *

 広島藩は「この2回目の征討には大義がない」と猛反対だった。
 慶応2(1866)年6月には5月、広島藩学問所(現・修道高校)のOB・若者たち55人が、前線基地の広島にきていた老中・小笠原にたいして暗殺予告まで行う。騒然となった。広島藩は藩主・長訓、世子・長勲の仲介で、広島藩出兵拒否で解決を図った。

 翌6月には、第二次長州戦争が勃発した。6月は長州軍は岩国から大竹・大野に入り、旧式武装の彦根藩、高田藩を打ち負かし、広島城下に近い廿日市、五日市に勢いよく進軍した。
 それを見た幕府は真剣になり、フランス式最新部隊の紀州藩を芸州口の最前線に投入してきた。紀州藩は互角以上に戦うし、沖合の幕府軍艦から連続して艦砲射撃で長州兵を打ち負かす。長州藩は岩国に近くまで逃げ帰った。

 芸州広島藩が乗りだし、安芸領(広島領)で戦争するな、領民が迷惑だと言い、長州軍と幕府軍の間に割り込んだ。戦争以前の状態にもどさせた。
 芸州口の戦いは、後世で言われるほど、長州の勝利ではなかったのだ。

1か月後の7月、大坂城で、14代家茂将軍が20歳の若さで死去したのである。
「将軍が死去して、本州の外れの一藩と関わっている暇はない。勝海舟、休戦してこい」
 一橋慶喜の命令で、海軍奉行の勝海舟が単独で広島城下にやってきた。広島藩の執政・辻将曹が勝と面談したうえで、宮島(広島県)で、双方の休戦協定が結ばれた。

 長州は、馬関海峡をはさむ小倉藩との戦いでも、九州男児の死に物狂いのゲリラ戦だの、小倉城を自焼するだの、決して楽な戦場ではなかった。沖に幕府海軍の軍艦が終結している。まだ、火を噴いていない。
 長州側も、徹底抗戦し、大坂、京都、江戸に攻め入る力などない。辻将曹の和解に快く乗ってきた。9月初旬に、幕府と薩摩との和平協定が結ばれた。しかし、長州の朝敵と、毛利家処分問題が解決したわけではない。たんなる戦争の現状維持の停止だった。

 この慶応2年12月には、ペリー来航以来、朝廷政治を取り戻そうとする孝明天皇が死去した。政治が混沌としてきた。ただ、長州の朝敵が外れたわけではない。

 その後においても、幕閣(江戸城組)は、未解決の毛利処分を言いだす。芸州広島藩などいくつかの諸藩に、萩城の毛利敬親・定広の親子を捕縛し、江戸に連れて来い。処分は江戸で命じるからという。
「そんなことはできるはずがない」
 どの藩も拒否すると、幕閣はならば、第三次長州征討を言い出す。

「ここで3度目の長州征討をやれば、疲弊した民は塗炭の苦しみに陥る。西洋諸国は、内戦を口実に内政干渉し、植民地になる恐れがある。こんな幕府は政権を朝廷にもどさせよう」

 広島藩主の浅野長訓、世子の長勲はそう決断した。慶応三(1867)年正月、広島藩の執政・石井修理が老中筆頭・板倉勝静(かつきよ)に「大政奉還の建白書」を提出した。これは一般にいわれている後藤象二郎の「大政奉還の建白書」よりも、10カ月も早いものだった。
 しかし、幕府は拒否でもなく、無視だった。


写真=ネットより
                
 この慶応3年5月に、幕府と雄藩の有力大名との「四侯会議」が京都で開かれた。「長州藩処分問題」と「兵庫港の開港問題」が主要課題だった。
 島津久光(薩摩藩)が音頭を取り、松平春嶽(前越藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)らによる幕府の諮問会議の形態だった。ただ、薩摩のイニシアチブを嫌う德川慶喜が、この「四侯会議」を分裂・解体させたのだ。

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 「四侯会議」の分解をみた広島藩は、幕府に期待するものがないとして、「大政奉還」を藩論とした。執政の辻将曹など、多くの有能な広島藩士が、大藩に「大政奉還」に働きかけた。薩摩、土佐。さらに岡山藩、鳥取藩、徳島藩などである。


 御手洗港(広島県・大崎下島 写真)で、薩芸交易が盛んにおこなわれている。かたや、宮島(広島県)で芸長交易がある。これは薩摩、長州、広島は深い三角貿易の経済圏であった。
 この3藩がやがて結びついて、薩長芸軍事同盟ができる。
 
 まず、広島藩の辻将曹の働きかけ、薩摩の島津久光が「大政奉還」に乗ってきた。薩摩家老の小松帯刀も賛成した。小松が札度同盟土佐藩にも持ち込む。後藤象二郎は山内容堂から、建白書の提出は良いが、武力圧力に反対された。

 広島藩は、この「四侯会議」の空中分解を機に動き出す。まず、薩摩藩の島津久光、
「土佐がダメならば、朝敵の長州を誘い込もう」
 小松帯刀の奇策に対して、長州は待ちに待っていたと乗ってきた。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれた。

 ただ、後藤象二郎が抜け駆けで徳川慶喜将軍に、大政奉還建白書を出した。慶喜が公議政体論者でもあったことから、これにのって政権を朝廷に返還した。朝廷も受理した。
 
 大政奉還のあと、藝州広島藩は藩論が割れた。鳥羽伏見の戦いが勃発したが……。広島藩は非戦を唱えた。広島藩は伏見街道に、軍隊を出しながらも、辻将曹は一発も撃たせなかった。「これは薩摩と、会津の遺恨に過ぎない戦いだ」
 その認識が、広島藩の幕末の存在を消してしまったといえる。

 広島は日和見主義、臆病風が吹いた、と侮られた。これが広島に伝わると、かれら神機隊の320人は憤り、戊辰戦争の関東、奥州への出兵を決めます。広島藩の藩政府は彼らの出兵を認めなかった。すると、神機隊の320人は全員が脱藩届を提出し、自費をもって、出兵します。

 第二次長州征討には小笠原老中を暗殺してまでも、無益な戦争を止めようとしていた若者たちです。それなのに、かれら若者は命を惜しまず、出兵します。そして、最も激戦地を選び、戦います。

 くわしくはこちらからお聞きくださいからお聞きください

徳川幕府を揺るがせた「攘夷思想」の誕生 

攘夷思想は「黒船とペリーが原因」だと歴史教科書では教えられていますが、「実は、そうではない」と、穂高健一が判りやすく解説します。

① 開国派、攘夷派とは

② なぜ、水戸徳川家が攘夷論を言い出したのか?

③ 孝明天皇は、どうして攘夷派になった?

④ 尊王攘夷は正しいのか?

 この①から④まで、幕末史ではとても重要です。薩長史観では、これまでかなり史実が曲げられてきました。穂高健一が、より歴史的事実に近いところから解説しています。

 「広島テレビ・カルチャーセンターにて」

広報室  山澤直行


【映像を左クリックすれば、YouTubeで動画を見ることができます】

清い水槽は誰のため   青山 貴文

 吹き抜けの玄関を入った左側に、大人の背丈の半分くらいの高さの下駄箱がある、その上に水槽(巾60×奥40×深さ30センチ)を置いて、ほぼ5年になる。この水槽の水は、フィルターを通して循環し、かつポンプで空気を水中に補給している。だから、常に酸素の豊富な水流を水槽の中に作っている。


 これまで、この水槽の清掃は、毎年数回行っていたが、だんだん億劫になってきた。ここ数年は年一回しか洗浄や水の入れ替えをしていない。

 5年前、当時小学4年生の孫が、近郊の別府沼の小川から1センチくらいの小魚6匹を捕まえて、この水槽に入れた。
 そのうち4匹は、1年経って子供の拳くらいの大きさに育ち、髭もある。鯉であったら、この水槽は小さすぎる。妻と孫たちと一緒に元の小川に行って、放流してやった。残っているのは2匹だけで、大きさ7センチくらいだ。魚の種類はどうもタナゴらしい。


 数日前から、妻と顔を合わせると、
「青苔が水槽に付着して中が見えないわ。そろそろ清掃しなくてはね」と言う。
「我家の水槽は、水が循環しているから魚は平気だよ」
「清掃しないなら水槽を片付けるから、魚を別府沼の小川に戻してきてよ」
「今ごろ戻したら、自然対応力がないから、すぐ死んでしまうよ」
 と言って、水槽の洗浄を伸し伸しにしていた。
 
 事実、水槽のガラス全面に苔が付着しているが、水流のお陰で水質は綺麗で無臭だ。しかし、玄関に苔むした水槽が置いてあると、はなはだ格好がわるい。特に、来客があると見栄えが悪く、妻はそれが嫌なようだ。

 水温むころになった4月11日、天気予報によると翌日から天気が下り坂になるらしい。水槽の洗浄は、晴天の今日こそやるべきだと重い腰をあげた。 
 3年日記を見ると、水槽の洗浄は、去年5月12日、一昨年4月7日に行っていて決して遅くはない。

 私は昼食後、掃除道具として、水槽の水を吸い上げるサイクロン、バケツ2個、ブラシ類や網などを玄関に揃える。まず、ホース付きのサイクロン全体を水槽に沈めて、出口側のホースをバケツに入れる。
 だが、うまく水が出てこない。一年前は難なく出来たのに、どうも巧くできない。いろいろ試して、やっと水を上手に吸い上げられるようになる。私もまだ捨てたものではない。

下駄箱より低い踏み台に載せたバケツに水槽の水を貯める。バケツの7分目くらいに水が入ると、空のバケツに置き換える。交互にバケツを替えながら、水槽の中の水を殆ど放出する。二匹のタナゴを網で掬いだし、バケツに移す。魚たちは、毎年のことで覚えているのか、バケツの中では静かにしている。

 水がなくなり軽くなったとはいえ、水槽の底に砂粒が入っているので、一人では水槽を上げ下ろしができない。妻と声を合わせ、水槽の両端を両手で持って、下駄箱から玄関の外の三和土(たたき)に降ろす。去年は、確か、自分一人で動かしたはずだ。傘寿を過ぎてから、急に用心深くなった。

 私は水槽のガラスや砂粒を、妻は循環器の部品やパイプあるいはフィルターなどの洗浄をおこなう。私が中腰になって、水槽のガラスに付着したコケをブラシで落とす。
 なかなか落ちない。
 何度も丹念にブラシをかける。また、水槽の砂粒の水を何度も入れ替えて砂粒同志を擦りながら洗浄する。腰が痛くなり、何度も立ち上がって、腰を伸ばす。

 十数年前から、中腰の仕事をすると直ぐ足腰が痛くなる。妻を見ると、水道栓の近くで、彼女専用の折り畳み台に腰かけて、一心にパイプなどの苔を除去している。彼女は、なかなの合理主義者だ。

 洗浄後、水槽を下駄箱の上に設置し、水の循環装置を取り付ける。ホースで水道水を水槽に入れる。水槽の中で、2匹のタナゴが、よりそって泳いでいる。苔むしていたころは、2匹は別々にわかれて物陰に隠れてじっとしていた。

 玄関の水槽回りの空気がよどんでいて暗かったが、洗浄後は、透き通った水槽の回りが明るい清潔な雰囲気に様変わりした。
 清掃はやり出せば、3時間弱で滞りなく終わった。終わってしまえば、腰の痛さも心地よく、何か新しい力が湧いてきた。
 自分の心の内にはいつももやもやとした闇が漂っていた。清掃が終わったとたん、その闇がすっと消えて心身ともにすっきりした。

 水槽の洗浄は、タナゴのため、いや来客のためと思っていた。ここまで言うのは妥当性を欠くかもしれないが、妻のため、いや自分のためであったのか。

 今朝も、透き通った水槽に二匹のタナゴがゆったりと泳いでいる。

              イラスト:Googleイラスト・フリーより

≪東日本大震災≫ 10年間の思い  ① 郡山利行

【 1.はじめに 】

 2011(平成23)年3月11日、東日本大震災(以下、大震災または震災)の発生から、10年の歳月が流れました。筆者にとって大震災とは何だったのだろうと考え、この10年間を振り返ってみました。


 大震災発生の日の情報は、テレビ映像からの衝撃で始まりました。

 大震災発生の日の午後2時46分、筆者は、葛飾区立石6丁目にある区立のシニア活動支援センターで、高齢者を対象とした『回想法』のボランティア活動をしていました。
 地震の揺れが続いている時に、『窓ガラスから離れて、部屋の壁のほうに移動して!』と、回想法に参加されていた方々に叫んだのを、昨日のように思い出します。
 付近の街の状況は、特に異常が見られませんでしたが、すぐ近くの京成線は、高架でもありましたので、恐らく当分運行できないことが予測できました。また道路にも異常はなかったようですが、バスの運行の状況まではわかりませんでしたので、高齢者の方々には、『安全を確認しながら、ゆっくり歩いて帰宅してくださいね』と、見送りました。

 筆者は、区の中央を流れている中川の右岸道路を、自転車で帰宅しましたが、河川災害は生じていませんでした。

 その後は、聴取していたラジオ番組の被災地支援イベントや、筆者が居住している地元町会の、支援行事への参加がありました。
 また、かつしかPPクラブでの活動を経て、福島県飯舘村の菅野村長への取材と、津波被災地の2年半後の状況取材を実行しました。そして、これらの行動で感じた体験は、風化させないために、この10年を1冊に記録しました。

≪写真説明≫  『巨大津波襲来』宮城県名取市 2011年3月11日
  第52回2011年報道写真展記念写真集より
   【3.11 津波襲来の瞬間】特別賞(新聞協会賞) の1枚です。

【 2.TBSラジオ番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』 】 

 番組途中で呼びかけられた、乾電池電源式小型ラジオを、被災地の避難所に届けるキャンペーンに、呼応しました。

 2011年3月18日午前11時、筆者は、東京都港区赤坂にあるTBS本社前広場の、特設会場に駆け付けました。持参した物は、イヤホン式小型ラジオ、非常用ライト付きラジオ(単2乾電池4個)、強力ライト(単1乾電池4個)、中型電卓、ポケット型電卓でした。すでに150~200台の様々なラジオが、多くの人達から届けられていました。


【 3.地元中之橋町会の震災避難者支援活動への参加 

 福島県からの避難者が、葛飾区水元学び交流館に入館しました。その直後に、2011年3月20日、避難者が希望する品目メモが、水元地区の民生員連絡網に、FAXで送られて来ました。

 その翌日、筆者は次の物品を届けました。
 ハンガー、歯ブラシ、ひげ剃り、爪切り、洗濯ばさみ、ひも、便せん、鉛筆、消しゴム、コピー用紙、米、食用油、しょう油、食料品若干など。

 
 同年4月9日(土)には、筆者居住の葛飾区水元中之橋町会が、上記水元学び交流館で避難生活中の、16世帯約50名の、昼食炊き出し活動を行いました。当日は、区と町会連合会の役員の見舞い挨拶もありました。筆者は地元町会長から、記録写真撮影を依頼されました。


 4.東電福島原発事故からの避難 鈴木會子(あいこ)さん 】

 福島県双葉郡楢葉(ならは)町は、福島第二原発の西側に位置します。その町から葛飾区四つ木地区に避難してきた鈴木さんは、2012年から「かつしかPPクラブ」に入会して、同年2月から2013年5月まで、6回の課題作品を作成しました。パソコンは使わず、手書き手作りの冊子は、鈴木さんの人柄そのもののような、きりりとした取材記事でした。

 2013年2月19日、立石居酒屋≪あおば≫にて。右から二人目が鈴木さんです。


 2013年5月19日、『ここに、この人 ありがとう』の冊子で、鈴木さんは四つ木地区でお世話になった人達への、お礼の気持ちを記事にしました。
 この年の夏に、鈴木さんは、楢葉町に近づいた、福島県いわき市へ移住しました。短い期間の出会いでした。クラブ員として、思い出深い方です。

 
【 5.飯舘村全村避難 菅野典雄村長への穂高先生取材に同行 】

 東京電力福島第一原子力発電所の、津波による災害直後、低気圧による南東からの風は、原発災害発生現場から北西に30~50kmも離れた飯舘村に、放射能を運んで飛散させました。この時には村人達は、『うちの村は原発とは全く無関係、だから絶対安全だ』と、信じ切っていました。

 ところが、2011年4月10日の夕方、菅野村長は、内閣の福山官房副長官から電話で、飯舘村は【計画的避難区域】に設定されたと聞かされました。これは、1ヶ月以内に全住民が、村から避難することという通告でした。村役場の移転は、同年7月から2016年6月までの、5年間でした。飯舘村の、輝かしい小規模農村作りの、努力と成果が、全て消えました。

 2013年7月4日(木)午後4時から、福島市飯野町に移転していた、飯舘村役場飯野出張所での取材でした。
菅野村長は、「放射能による災害と、地震・津波による災害には、大きな違いが二つあります」と、語り始めました。
 「一つ目は、地震・津波での災害は、家族を亡くした、家が流失した、家が壊れたなど、目に見える物理的災害です。重い軽いという表現ならば、放射能の精神的災害より何十倍も重いです。でも、何年か経れば、必ずゼロからのスタートができる時がきます。しかし私達は、どれ位のマイナスの規模かわかりませんけれども、ゼロに向かって、おそらく世代を超えて何年もかかって、不安と戦いながら、そしてまた汚された土地での生活苦とも戦いながら、生きていかなければなりません。そのことが、放射能による災害が、他の物理的災害と全く違うことです」

「二つ目は、地震・津波などによる災害は、家族も地域も自治体も、復興への力が結束して、『力を合わせて頑張ろう』となります。
 ところが放射能では、それと全く逆で、心の分断の連続となってしまうことです。家族の中でも、年寄りと小さい子供を持った若い人達と、考え方がぜんぜん違います。
 夫と妻とも違ってきて、かなりの数の離婚にまでなっています。同じ自治体の中で、放射線量が高い所と低い所で、避難先から帰る時期が違い、賠償金の額まで違ってくるので、大きな問題になります。また、避難生活は賠償金で行われていますので、労働への意欲がどんどんなくなりつつあります。農村で育った人達が、突然都市部で生活を始め、都会での便利さに急速に慣れてきたので、身も心も病んできているのが現実です」


 菅野村長が語った多くの事がらの中で、東日本大震災での、原発放射能とそれ以外の災害とでは、村の人々がこうむった精神的被害の決定的な違いという対比が、強く心に残りました。    そのほか避難先を決めた時の事、村内各地区での意見交換会の様子、村の将来に向けての事などを、約束の1時間の中で、熱く語りました。
 穂高先生は、質問とメモ筆記に集中されていましたので、菅野村長は筆者に向かって語り続けられました。その目には、穏やかさの中の力強さを感じました。
【つづく】

作者が取材から語る「安政維新・阿部正弘の生涯」

 日本の国難を救った人物は、北条時宗、阿部正弘だと言われています。
 みなさんは、どの程度、阿部正弘を知っているでしょうか。もし、39歳で死去した老中・阿部正弘がわが国にいなければ、尊皇攘夷論の旗の下で、強烈な軍隊をもった西洋列強と戦争したでしょう。そして、清国のようにアヘンがまん延し、わが国はまちがいなく殖民地になっていたでしょう。
 薩英戦争、下関戦争、という薩長の悲惨な負け方からも、かんたんに想像がつきます。

「夷狄に打ち勝つ。それが大和魂だ」。この尊皇攘夷思想は、とても危険な思想です。第二次世界大戦まで、軍部を支えた中枢の思想です。
「勇ましく西洋人に打ち勝つ」.日本は古来、二度の蒙古襲来で、『神風が吹いた』という神がかりから、北条時宗は1945年の原爆投下、敗戦日まで、神さま扱いです。実際に、学徒、予科練、あらゆる若者が徴兵されて、「神風特攻隊」と名のもとに、命を失くしました。

 かたら、軍国主義の目線から、「ペリー提督が浦賀にきたとき、阿部正弘は蹂躙(じゅうりん)させられて、開国した」という、水戸藩の徳川斉昭の法螺(ほら)を太平洋戦争末期まで、引きずりました。

『北条時宗は英雄、阿部正弘は日本を売った』、という歴史のねつ造が軍国教育でまかり通っていたのです。

                *

 アジア、アフリカ、南アメリカを見わたせば、日本が唯一植民地にならなかった国です。厳密にいえばタイ国も半独立を保てていました。この国は疫病のまん延で、西洋諸国の軍隊が入っていけなかったのです。
「西洋は強烈な武力をもってくる。日本は優秀な人材を選りすぐって外交で勝つ」
 これが阿部正弘の戦略です。
 
 阿部正弘が老中首座のときに設立したのが「誠之館」です。いま広島県立誠之館高校になっています。小学校は東京都文京区の誠之館小学校です。いつ設立されたか。皆さんはご存知ですか。嘉永6(1853)年12月です。

 この年にはペリー提督が6月3日に浦賀にやって来ます。ペリーはアメリカ大統領の国書を持参し、来年には回答をもらいに来る、と立ち去ります。すぐさま、第12代德川家慶が急死し、身体障害者の家定が13代将軍になります。
 すべての責任が老中首座の阿部正弘の力量にかかってきます。
「德川御三家」が幕政に口を出すのは家康の時代からご法度(同族の政治は短命だという家康の考え方)。老中政治が250余年支えてきました。
 しかし、水戸藩の斉昭は、老中首座の阿部にたいして攘夷を振りかざします。神風が吹く、大和魂で退治せよ、と執拗に申し出ます。阿部は拒絶します。
 そういう多難な同年に、阿部正弘は江戸と福山に、人材育成のために「誠之館」を設立するのです。
 こんなすごい人材主義の阿部正弘は、日本人の誇りだと思いませんか。現に、植民地にはなっていません。


 誠之館高校の会報の5月号に、穂高健一が「阿部正弘について寄稿しています。

 (写真を左クリックすれば、内容が読めます)


こちらからPFFで読めます

                    広報室 山澤直之 (監修・穂高健一)

戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

 戊辰戦争は、なぜ幕府軍は負けたか。戦争はお金がなければ、勝てない。それを150年間も隠し続けたのが、学者や歴史作家である。
「学者が隠す、薩摩藩の悪質な密貿易、贋金づくりが徳川家をつぶした」

穂高健一が史料から、暴露する。

【写真を左クリックすると、YouTubeに飛びます】

戊辰戦争は、薩摩の膨大な贋金で、西軍が勝利した

坂本竜馬が新谷道太郎に、御手洗の重大な4藩密議「薩長芸土軍事同盟」は60年間は伏せておけよ、と語った

 慶応3(1867)年の慶喜から朝廷に、大政奉還から小御所会議、鳥羽伏見の戦いまで、幕末史の謎の空白です。

 大政奉還が慶応3(1867)年10月15日です。坂本龍馬が暗殺されたのが、翌月の11月15日です。その1週間前には、大崎下島・御手洗港の新谷道太郎の本堂で、重大な4藩軍事同盟が結ばれました。(薩長芸土の大物たち)。大政奉還が成功したので、どんな新政府にするか、どのように挙兵し、京都から幕府の一会桑を武力でおいだすか、という極秘の戦略です。

 極秘ゆえに、幕末史の空白が生じています。それゆえに、当時の学者たちは推定、推論を交えた仮説を立てました。その推論が独り歩きし、幕末史が整合性が合わなくなっても、やがて国民的常識になったのです。
 戦後になると、司馬遼太郎著「龍馬がゆく」が、それに輪をかけたので、薩長芸土の密議の存在を問うとか、真剣な討議がなされなくなっています。
 かたや、学問的な公平さから、坂本龍馬の業績は何か、と問われて教科書から外れてしまいました。
しかしながら、慶応3年11月3日から、御手洗港の4藩軍事同盟の主要人物として、坂本龍馬が参加していたことは間違いないでしょう。龍馬の直筆で「新政府綱領八策」が、二通現存していますから。

写真を左クリックしますと、YouTubeに飛べます

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<p>  この密議の最終日に、龍馬が新谷に「これは60年間黙っておれよ。口にすれば、佐幕派から殺されるぞ」と極秘としました。<br />
 昭和に入り、新谷道太郎が島根県の湯野津で語り、当時グンゼの総務課長が口実筆記したものが、「維新志士の話 新谷翁の話」諏訪正編者として、現存しています。<br />
 当時から現在まで、学者はこの話はでたらめだと否定しています。</p>

<p>「新谷道太郎の話はウソ?ホント??」</p>

<p> 広島テレビカルチャーセンターのキャンパスで、穂高健一が「維新志士の話 新谷翁の話」の書籍を発見するまで、推移を語っています。<br />
                         広報・山澤<br />
【ユーチューブ】<br />
<a href= >穂高健一が語る坂本龍馬の謎


「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」

 RCC(中国放送)ラジオで、毎月、第一週の土曜日の9蒔05分から穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャル!が放送されています。「明治政府に隠されてしまった大崎下島「御手洗」です。今月もかなり重要です。
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イラストを左クリックすると、《一文字弥太郎の週末ナチュラリスト》に飛べます


 前回まで、ここまで第一次長州征伐で、長州征討総督の尾張藩元藩主・徳川慶勝と、同参謀の薩摩藩・西郷隆盛がうやむやな戦後処理をしたところまで、穂高さんは語られています。

 毛利家の処分はせず、「なんのために大規模な征討だったのか。朝敵の毛利家になんら処罰をしていなかった」。
 一橋家の徳川慶喜は、征討総督の尾張藩の慶勝が、参謀の西郷隆盛から「まんまんと、芋を喰わされてしまった」と激怒しています。歴史的な事実です。

 それはどういうことか。芋とは当時、民衆まで、薩摩人を芋と称しています。日本人は米の日本酒を飲む。薩摩人は貧しい芋焼酎を飲む、犬猫を食していると、さげすんだ言葉です。
 「芋を喰わされた」とは、陰謀の多い薩摩・西郷の罠にかかったという意味です。

 時代的なみても、討つべき毛利家は過激な攘夷派の長州だった。西郷は水戸藩の斉昭の攘夷派とつながっていた。さらに慶勝は水戸斉昭の血筋で、実の甥ッ子だった。さかのぼること安政5年(1858年)には、水戸斉昭ら、水戸藩主の尾張藩主の慶勝らが、不時登城(幕府のご法度)をおこなった。これが井伊直弼の逆鱗に触れて、大勢が血をながす「安政の大獄」が始まったのである。その主要な責任の一端は攘夷思想に固まった慶勝にもある。

 こう見てきますと、第一回の征討の大軍の総督の慶勝も、参謀の西郷も、朝敵となった毛利家も、みな攘夷派だったのです。処分に甘いという処分に終えたというよりも、なんら罰を与えなかったのだ。これが遺恨を残しました。

 現代的に現代的にいえば、数千の兵士で京都御所を襲い、孝明天皇を拉致しようとした長州軍の最高責任者だった毛利敬親と定広にたいし、総督府は起訴留保としたのです。

 そんな攘夷派の尾張・慶勝が、長州征討の重要な参謀を西郷に任せてしまった。30藩15万人の兵を向かわしながらも、結果として、肝心な毛利家処罰はしていない。「いったい何のための出陣だ」と慶喜は激しく批判をしたのです。慶勝は「芋を喰わされてしまった」と、西郷の意見を鵜呑みで、薩摩の陰謀(ペテン)にかかってしまったのだと激怒したのです。

「これは孝明天皇が幕府・征夷大将軍に命じた毛利家処分の征討だ。このままでは、孝明天皇に示しがつかない」
 そこで、第二次長州征討が企てられます。幕府は体面上から徳川14代家茂将軍の出陣をうながします。将軍はみずから大阪城まで出陣してきます。

 他方、広島藩などは第一次征討で決着したはずだ、ここで幕府と長州が大規模な戦争となれば、わが国の民は疲弊し、西洋列強の内政干渉を誘い、武力陥入する口実を与えてしまうだろう。最悪は植民地になる。
 広島藩はゆいいつ幕府の方針に逆らい、戦争回避の建白書を次々と大阪城の家茂将軍、各老中にさしむけました。その数は10数回におよびます。広島藩は先陣の出兵拒否もした。しかし、幕府側は広島藩執政の野村帯刀、辻将曹らに謹慎処分を出します。

             *

 広島の学問所の若者・OBたち(後の神機隊の設立者たち)は、広島に滞在する小笠原長行に、暗殺予告をします。暗雲たちこめた広島城下です。

             *     


 慶応2(1866)年6月14日に、幕府軍と長州軍が戦闘状態に入った。その戦争の最中に、家茂将軍(20歳)が大阪城で死去した。ここに、広島藩立会いの下で、幕府側と長州藩が宮島で一時休戦を結ぶ。

「長州戦争などはやってはならない。民が塗炭(とたん・極貧)の苦しみに陥る」と徹底的反対してきた広島藩は、とうとう倒幕路線になります。
「こんな幕府に政治を任せていては日本国がつぶれてしまう。徳川家には、政権を朝廷に返還させよう」と大政奉還が藩論になります。そして、広島藩はまず薩摩藩に呼びかけ、さらに長州藩も巻き込みます。
 ここに薩長芸軍事同盟が結ばれて、倒幕へと突っ走っていきます。


 御手洗港の胡子屋前  島々に囲まれた〈汐待ち、風待ちの良港〉、薩摩藩の贋金が発掘された


 第15代将軍の徳川慶喜から朝廷に政権が返還されます。『大政奉還』。それにとどまらず、慶応3年11月3日から7日まで、土佐藩の坂本龍馬も含くめて、御手洗で薩長芸土の4藩軍事同盟の密儀が行われます。
 1週間後、坂本龍馬は京都で暗殺されます。その土佐藩は山内容堂に出兵を拒否されますが、薩長芸の三藩は6500人という幕末最大の大規模な挙兵へと進みます。


 ここらは詳しくは、RCC(中国放送)ラジオ6月12日の穂高健一の「幕末・明治・大正の荒波から学べ」歴史スペシャルでお聞きください。
 このコーナーはポッドキャストでも配信中です。


             広報室・山澤直行

小京都ミステリー ~大崎上島への想い~  黒木せいこ

 私は、2時間ドラマ、中でもミステリーが大好きだ。なぜなら、1話(2時間)ですべてが完結するからだ。どんな難解な事件でも、お気に入りの主人公たちが、困難を乗り越えながら、さっそうと事件を解決する。旅のシリーズならば、各地の観光地にも必ず訪れる。名所での謎解きは、売りになっている。

 そんなわけで「西村京太郎トラベルミステリー」や内田康夫の「浅見光彦シリーズ」など、私にはいくつかの好きなシリーズがある。

 その中のひとつに山村美紗の「小京都ミステリー」がある。これは、片平なぎさ演ずるフリーライターの柏木尚子(しょうこ)が、相棒のカメラマン山本克也(船越英一郎)とともに、取材のため日本各地にある「小京都」と呼ばれる場所を訪れ、そこで起こる難事件を解決していくドラマである。


 20年ほど前の作品だが、人気シリーズなので、CS放送で継続して再放送している。その日も私は、あらかじめ録画しておいた「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」を何気なく見始めた。今回は広島の話らしい。
 小京都とは、古い街並みや風情が京都に似ている街である。現在は、日本全国で40ほどの市町が小京都と呼ばれているという。

 今回の舞台、竹原市は広島県の南部にあり、室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。今は「安芸の小京都」と呼ばれており、街並地区が「都市景観100選」に選定されている。

 ドラマでは竹原市で、尚子と克也が、全国的に有名な俳句の先生が主催する「小京都吟行」が行われると聞き、取材に出かける。街を歩きながら俳句を作る吟行は、この竹原の街にぴったりと言えるだろう。

 そこで二人は、俳句の天才少女の川口真木という女子高生と知り合う。知り合った途端、まきの父親が今度の「小京都吟行」に、娘のまきを参加させるかどうかで、俳句協会の役員ともめている現場を目撃する。
 それには、どうやらまきの交際相手の昭一(しょういち)の父親が関係しているらしいので、父親の住む大崎上島へ行ってみることになった。


「えっ、大崎上島?」
 針仕事をしながら何気なくテレビを観ていた私は、思わず顔を上げた。
 大崎上島は、私のエッセイの師である穂高健一先生のふるさとである。と同時に、私の好きな先生の著『神(かみの)峰山(みねやま)』の舞台でもある。

 この本は、太平洋戦争後の庶民の悲惨な姿を描いた五つの中編小説で構成されている。先生御自身の記憶も織り交ぜ、しっかりとした昭和史の証言が、叙情的な文章で描かれている本である。

 なかでも「ちょろ押しの源さん」を読んだ時は、涙がこぼれた。中年男の源さんは、船員らにからだを売りに行く女郎が乗る「おちょろ船」の船頭である。
 
 女郎たちの悲惨な生活が、源さんによって静かに語られていく。亡くなった女郎たちの霊を弔う石仏を、神峰山にかつぎ上げる源さんはどんな想いだっただろう。本を読んだ時から大崎上島には興味があった。


 そんな時、偶然にもドラマに登場するとわかり、私は身を乗り出してテレビ画面にくぎ付けになった。


 大崎上島は、竹原港からフェリーで30分ほど、人口約8,000人の瀬戸内海に浮かぶ島である。造船業や、温暖な気候を利用した柑橘類の栽培が盛んだという。


 ドラマでは、こんなのどかな島の果樹園で、俳句の天才少女・真木の恋人の父親がナイフで殺害されるという事件が起こる。第一発見者はライターの尚子(しょうこ)とカメラマンの克也である。

 そして、その時島に来ていた、真木の父親が犯人として逮捕される。以前から、真木と昭一のことで、もめ事があったとの情報があったからだ。まきの父親は、警察の取り調べで、なんと「自分が殺した」と自供してしまう。謎は深まり、ドラマは大きく動いていく。

 あまりのショックに、高校生の真木は「小京都吟行」には出場しないと言い始める。十八年前に行われた俳句会での事件や、真木の出生の秘密など複雑に絡み合った謎を、尚子がさまざまな推理を働かせ、次第に明らかにしていく。


 だが、私としては、こんな平和な島が殺人事件の舞台となってしまったことが、とても残念だった。それも、果樹園で刃物で刺されて亡くなるとは、何ともむごい話である。


 尚子の活躍で、事件は、俳句協会の役員が、以前の俳句会での不正を隠すために行った犯罪だったとわかり、真木の父親は釈放された。彼は、真木の実の父親でもある俳句の師匠が犯人ではないかと思い込み、嘘の自白をしていたのだった。

 こうして真木の家族に再び平穏が戻り、まきはまた俳句の道をまい進する決意をした。
 

 同じ土地が舞台でも『神峰山』で描かれたのは、女郎たちの悲惨な出来事だった。
 時代の流れの中で、若い女性が生きて行くための必死な生活から生まれた悲劇である。一方、現代のドラマでは、人間の欲や恨み、妬みなどの薄汚れた感情が動機となった犯罪から生まれたものである。悲劇といっても、ずいぶん質が違う。時が流れ、戦争もなく平和な時代でも様々な形で悲劇は起こるものだ。
 
 今回、ドラマでは島の情景を見ることができたが、私は、いつか『神峰山』の本を携えて、実際に自分の目で大崎上島の地を踏み、ちょろ押しの源さんの足跡をたどりながら、神峰山に登ってみたいと思っている。

                       了

【関連情報】

・ 黒木せいこ さん
   熊本市出身、趣味はパッチワーク、エッセイ歴は約10年。

・アサヒカルチャ―センター 千葉教室 フォトエッセイ提出作品 

・ ストーリー写真:日本テレビ系「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」より

   竹原市(ウィキペディアより)         

       

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