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【穂高健一の歴史エッセイ】 米国で「日の丸演説」= 伊藤博文

昨日(2021.10.9)の大河ドラマ「青天を衝け」を観ていると、明治4年に岩倉具視使節団が横浜港から欧米に旅立つシーンで、次回への期待になった。
 
 次はどんなドラマになるのかな。伊藤博文の張ったり「日の丸演説」はきっと描かないだろうな、と思った。もし、それがドラマで展開されるならば、脚本家にネタバレして申し訳ないけれど。
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 伊藤博文は第一代の内閣総理大臣である。このたび岸田文雄さんが100代に就任したので、ちょっとした新鮮なネタかな。

 伊藤博文は歴史エピソードの宝庫だ。かれの人生は捧腹絶倒もずいぶんありだ。長州藩のド田舎の百姓の倅から、内閣総理大臣になったのだから、豊臣秀吉と肩を並べる。木下藤吉郎が信長に仕える、伊藤は木戸孝允の書生のような存在だった。

 松下村塾で吉田松陰から学んだと当人はいうけれど、どの程度の学力かわからない。日本国内の学歴は寺小屋・松下村塾までだ。が、文久時代にはイギリスに留学している。下関戦争の噂を知り、早々と日本に帰ってきたから、1年足らずである。

 この人物のすごさは英語が堪能で、ずば抜けていたことだ。聴感と記憶力が良かったのだろう。かたや女に手を出すのも早い。蓄財よりも、祇園の舞子、下関の芸子(妻にしている)、新橋の芸者らとの女遊びが派手だ。
 一晩に数人の女を相手にする、とまわりは呆れている。信頼度は不明だが、時おり2人、3人の女が同室の横の寝床にいた、という。この手の噂は尾びれがつくから、真実はわからない。

           ☆
   
bn_1000f_c.jpg  第一回目の総理大臣は誰にするか。伊藤本人はまさか自分が首相になるとは思ってもいなかったようだ。まして、将来、紙幣の肖像になるとは思ってみなかっただろう。天皇親政を掲げた明治政府だから、公卿(くげ)がなるものだと伊藤は考えていたらしい。

「我が国は近代化で、外国の公使らと英語で話せないと、風采が悪い」
 たぶん井上薫の弁だろう。その一言で、伊藤博文が首相に決まった。

 当人は女遊びが派手だし、政治家といえども、金の成る木があるじゃないし、初代内閣総理大臣に任命されても、伊藤には住まいがなかった。狭い借家住まいだった。
 それでは外国から要人がきたときには,わが国のトップとして示しがつかない。当時の政治家たちが考えたのが、総理大臣の執務と住居をともにできる「首相官邸」だった。

 最近、TVは首相官邸から中継されるが、その建物は伊藤博文の女道楽の賜物である。 
 
           ☆
 
 ところで「日の丸発言」に話をもどすと、明治4年12月14日夜、岩倉使節団の歓迎会が、モントゴメリー街のグランドホテルで開催された。会場には日章旗と37星の星条旗が掲げられていた。
 参列者は知事、南北戦争で勝利した将軍、上級住民たち300人だった。米国人らは、初めてみる日章旗だ。
 かれらは太陽という認識でなく、ウイスキーの赤い栓(封蠟・ふうろう)だと言い、会場でクスクス笑っていた。

 星条旗は星、日の丸は太陽、という違いなど、だれも理解できていない。 
 ここで伊藤博文の愛国心に火が点いたのだ。持ち前の大ぼらと張ったりと、とてつもない上手な英語力とで、
「この日の丸は、維新革命で生まれた崇高な賜物である。赤き丸は、朝日が昇るときの尊い徽章である」
 ここで止めておけばよいものを、
「我が国は封建の永き悪しき制度が、一発の銃弾を放たず、一滴の血も流さず、人民の自由の自覚でなされたものである」
 と演説をぶった。

 戊辰戦争を知る使節団の高官らは英語がわからない。米国人は日本の歴史を知らない。あるのは南北戦争で60余万人の死者を出してしまった歴史的な暗い事実だ。
 それゆえに、伊藤の語る無血革命におどろいたのである。
 
         ☆  

 明治4年7月、岩倉使節団が出発するまえ、廃藩置県が行われている。これは戦国時代からつづく群雄割拠260藩の大名制度を総てなくしたうえで、郡県制で一つ国家に統一したものだった。それ以前は260藩がそれぞれ「お国」という幕藩体制だった。
 たしかに、この廃藩置県をみれば、強固な封建制がひとりの死者も出さず、成し遂げられた。世界的にまれにみる大革命であった。
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 ただ、日本人は明治新政府による戊辰戦争という東西分裂の大戦争があったと知る。
「廃藩置県」にかぎって言えば、あながち一発の銃弾も撃たなかったという事実は間違っていない。さかのぼれば、15代将軍徳川慶喜の大政奉還も、幕府が政権を朝廷に返上した。これも世界史ではまれにみる無血革命だった。

 伊藤は、戊辰戦争を語らず、大政奉還からすっとんで廃藩置県の双方の無血革命を語ったのだろう。

          ☆ 

 伊藤博文が「日の丸」は太陽であり、自由と平和の象徴だと世界に知らしめたおおきな功績だった。
 しかし、太平洋戦争でわかるように、日本軍の戦旗として「日の丸」が使われた。世界中から、日の丸は「平和精神の象徴」という信頼度を一気に失墜してしまったのだ。
 明治4年のアメリカにおける伊藤博文の名演説だったが、いまや教科書に「日の丸演説」として登場してこない。

 次回の大河ドラマで、出てくるか否か。脚本家の史観しだいである。

      千円札紙幣 = 日本銀行のHPより     

スズメ 廣川 登志男

だいぶ昔のことだと思うが、都会のスズメが姿を消しつつあるとの記事を思い出した。

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私が小さかった頃は電線に鈴なりになるスズメをよく見たし、家の周りに少しは残っていた空き地で、米粒を蒔いて笊籠でスズメを捕ろうという人もいた。品川区の都会育ちではあったが、スズメは身近な鳥だった。

五年ほど前に、家内がバラ園芸を新たに始めた。新しい趣味を始めると、トコトンその道を究めたい性分なので、いろいろと頼まれごとが増えるのは間違いない。しかし、それにうまく付き合うことが夫婦円満の鍵だと、私は思っている。

さっそく、家内から話があった。隣家との境に植えていた、十五本のカイヅカイブキが大きくなりすぎたので、それを伐採して、そのあとにバラの棚を作りたいという。もちろん、それに付き合って、私は根元からの切断を、家内は絡み合った小枝の処理を行う。我が家では、新たに作るような大きな外仕事は夫婦共働で行う。設計や力仕事は私で、多少力が必要でも単純作業なら家内がすることになっている。

高さ3m、幅13mのバラ棚も共働で作った。立派なものが完成し、今では、七十数本のバラの木が育って、玄関までのアプローチとデッキ以外はバラ一色になっている。盛期には、色とりどりの花が咲き誇り、庭中が良い香りで満ちるまでになった。

昨年、家内が、棚に這わせているツルバラの剪定を終え、枝だけになった棚の隙間に針金製の四角い受け台を取り付けた。そこに、二つに割ったミカンなどを入れている。野鳥をおびき寄せようとしたのだろう。

昔の庭は和風だったが、小鳥がよく来て囀っていた。家内はそれを思い出したのかもしれない。もともと、鳥の趣味もあって、メジロやヒヨドリ、それにムクドリやシジュウカラが来ていると、結構、鳥博士になって楽しんでいた。しかし、バラの木を植えてからは、美味しい実のなる果樹木がなくなってしまい、小鳥を見かけなくなっていた。

ミカンの効果が効いたのか、少し大きく灰色のヒヨドリがミカンを啄みにくるようになった。四,五月はヒヨドリの繁殖期だが、この時期は縄張り争いが激しく、他のヒヨドリやメジロなどが近づくと激しい攻撃で追い払う。そんなヒヨドリだが、繁殖期を過ぎた五月頃からピタッと来なくなる。あれほどうるさく鳴いていたのが嘘のように静かになってしまう。

小鳥と言えば、私にはせっかく懐いていたスズメを追いやった苦い思い出がある。

四年前だったか。二階の書斎にある北側の換気口にスズメが巣を作った。年に三,四回、卵を産み、子育てをする。ヒナが孵り飛び立つ前までチュンチュンとうるさくさえずるが、普段はほとんど気にならない。それどころか、ツガイの親が隣のベランダに飛来して巣を眺めているのが窓から見える。ヒナが心配で見張っていたのだろう。子を案ずる親心が感じられ、気持ちがほぐされたのを覚えている。

しかし、鳥の巣に虫が湧くことを知り、枯れ草が敷き詰められた巣を、昨年二月にきれいに掃除した。それでも、春になると、たまに二羽のスズメが隣家のベランダに来てこちらを窺っていたが、しばらくすると来なくなった。考えてみれば、親スズメが子育てに利用していた巣を無残にも取り壊してしまったのだ。「かわいそうなことをした」と、心が痛んだが仕方が無い。


小鳥たちは果物では寄って来ないと家内は悟り、今年になってから別の場所に直径20cmのエサ台をセットし、古い無洗米をそこに入れた。すると、ほとんど来なかったスズメが、古米の匂いを敏感に察知したのだろう。翌朝、裏の家の軒に、エサ台に向いて鈴なりに並んだスズメがいた。
さらに、多くのスズメが台周りに陣取り、五,六羽がエサ台に入り、満員状態でエサを啄むようになった。以来、よく見ていると、面白い行動をしているのに気がついた。

 空になった台に新たにエサを入れると、暫くしてその匂いで、一羽が裏の家の軒先にやってくる。徐々に増えていくが、警戒心が勝るようですぐには台に近づかない。

そのうち、一羽が台近くのバラ棚に降り立つ。辺りをキョロキョロした後、安全だと納得したのか、台に飛び込みエサを啄み始める。すると、残りの多くのスズメも安全を確信したようで、我先にと台の中に入ってエサの取り合いが始まる。

その一団が十分食べたと思われる頃合いに一羽が飛び立つ。すると一斉に、その一団が飛び去ってしまう。程なく、先ほどと同様に一羽が先着し、さらに十数羽となってエサをむさぼる。どうも、群れはいくつもあるらしく、それらが順次同じ行動をするようだ。これほど多くのスズメがどこに隠れていたのだろう。

スズメの巣を取り壊したことへの後悔や、都会のスズメが少なくなった記事に胸を痛めていたが、思いがけず鈴なりのスズメを見たり、さえずりを聞いたりしたことで、ありがたいことに、何かホッとした気分に浸れるように、今はなっている。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

2022年8月1日から新聞連載小説に備えて、「接続詞」の勉強中

来年(2022)8月1日から、新聞の連載小説がはじまります。某紙で公称80万部、実売50万部。日曜を除く毎日で、一年間の契約です。
 いまは宮部みゆきさんが歴史小説「三島屋変調百物語」を連載中です。その次が私で、題名は『妻女たちの幕末』です。時代背景は天保(1830年)~戊辰戦争(1868年)までです。
 
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写真・左より:篤姫、皇女・和宮、德川美賀子 (ネットより)

 私の近著として『安政維新』(阿部正弘の生涯)、『紅紫の館』があります、一つは老中首座の阿部正弘を主人公にして天保時代の後期から安政時代までを描いています。紅紫の館は徳川史観で、桜田門外の変、からは戊辰戦争まで展開しています。
 2冊を一つに考えれば、幕末そのものです。

 政治や動乱は男の表舞台です。
 女は歴史の裏舞台です。

 2冊は男性の視点だったけれど、3冊目は女性の視点でより史観
に近いところで小説化するものです。きっと薩長史観を逆なでるものだと思います。

 これまで名君と言われていた大名が、女の視点から描くと、女の心を無視した政略結婚を企てる、とんでもない暴君になってしまう。
 かれらは農民から搾取した金で、大奥の女を利用するために、湯水のごとく賄賂をさしむける。とりもなおさず、支配者たちが名誉、権威、威信を得るための欲だった。
 
 幕末史を掘り下げると、男たちの強欲な暴走であり、影で女の欲の底力がある。男と女の対立を描かずして歴史が語れない。
 
           *
  
 私の出自は純文学です。特徴は叙述の文章で心理描写、情景描写文、そして会話文に徹するものです。かたや極力、説明文を排除してきました。
 これは小説の登場人物に、読者の感情移入を誘い込むものです。私の過去の文学賞はすべて純文学でした。

 幕末動乱期には避けて通れない、大きな事件や出来事が連続します。かぎられた新聞紙面で、濃密な心理描写など展開すれば、ストーリーが先に進ません。

 となると、政変、内戦、陰謀、外交、騒擾、事件、貧困、疫病など、これらは説明文を多用し、時間軸の年月を進める必要があります。
 心理描写を圧縮し、事件の概要説明や補足説明などは、下手をすれば、論文調でゴツゴツした内容になってしまいます。

江戸城・大奥
      揚州周延の浮世絵 (上越市立総合博物館)      
 
 新聞の読者からすれば、「妻女」というから艶っぽい、情欲的な小説かと思いきや、「これって、学者が書いたの」という批判にもなりかねません。
 
 私は「よみうりカルチャーセンター」と、「目黒学園カルチャースクール」では、「文学賞をめざす小説講座」を指導しています。
 受講生たちの文体は尊重しながらも、私が得意とする叙述文の書き方の指導になっています。
 説明文は「主語+述語」のかかり方が正確ならば、それでよい、と考えています。提出作品を添削するときに、「主語+述語」がおかしければ、作品に朱を入れる程度です。
 あえて指導はしていません。なぜか。学生から社会人になる段階で、作文、論文、ビジネス文、報告書で、記事など、だれもが一通りマスターしてきている。
 講師の私がなにも説明文の指導する必要がないと考えていました。

 説明文のコツがあるとすれば、巧い接続詞で、文章と文章が溶接されていれば、読者を的確に誘導できます。

 つまり、接続詞とは車のウィンカーとおなじで役目です。右方向に行くよ、後ろに下がるよ、左に曲がるよ、と読み手に予測の提供するものです。

「かれこれ、10年前にもどれば」と接続詞で説明すれば、ひと昔まえにさかのぼる。「江戸奉行は、現代に例えれば、警視くらいである」と使えば、一気に150年後まで高跳びできます。
 このように、時空も自在に展開できます。

 エッセイストが文章の書き方で口にするのが、「起承転結」です。まったくナンセンスだと、私は考えています。自由に思うままに書けば良いので、意味不明な難解な「起承転結」を要求するから、文章を書くことが嫌になってしまうのです。
 
 話をもどせば、私は小説を叙述文で書いて、説明文が排除してきました。それゆえに「接続詞」のボキャブラリーは抱負ではない。

 新聞連載まで、あと10カ月あります。ここは100くらいの接続詞を存分に使いこなせる努力をしたいと考えています。


『接続詞の一部紹介』
 原因・理由(それで)、場面転換(すると)、言い換え(つまり)、相反(しかしながら)、予想外(それにしては)、対比(一方で)、決着(いずれにせよ)、結果(こうして)、次の場面(それから)、・・・・・・

* 接続詞とはまさに車のウィンカーと同じで、タイミングよく出せば、読者に文章の先を上手に、ごく自然におしえられます。

 説明文は接続詞を効果的に入れると、読み易い文章になります。ただ、前後におなじ接続詞をなんども使うと、作品の品質をさげます。そこは要注意です。

講演会の案内 幕末の足立(紅紫の館) = あだち区民大学塾・10月2日

演題「幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組」で、10月2日が講演会がおこなわれます。


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会場 :足立区生涯学習センター(学びピア21)

足立区千住5-13-5 五階 研修室1
受講: 1500円

定員: 50人

申込み方法: info@gakugaku.main.jp
住所、氏名、電話番号、「幕末の足立」と明記

問合せ先 : 03-5813-3759

共催 : NPO法人あだち学習支援ボランティア「楽学(がくがく)の会」

  : 足立区教育委員会


『講座案内』
 桜田門外の変、大政奉還、膨大な徳川埋蔵金、新選組足立屯所、上野戦争、寛永寺貫主の輪王寺宮の「東武天皇の即位」など一連の幕末の出来事が語られます。
 
 その時代に生きた武蔵国足立郡の郷士・日比谷健次郎の活躍を通して、薩長の新政府がつくりあげた歴史の裏側と幕末の足立との関連を明らかにしていきます。

 
       

『穂高健一のエッセイ』 恐怖のサイレン

 私には絶対音感がないから、音痴である。楽譜通り、まともに歌えない。中学の音楽の時間に、私にすれば真面目に歌っていたのに、音楽教師がなぜ、何回も音を外す、と声を荒げた。
 悪質な生徒だと見なされたのか、運動場を三周してこい、と命じられた。
 広い運動場を一人走っていると、各教室から顔を出して愉快がる生徒らが大勢いた。私は照れ隠しで、手を振った。それを咎められて、職員室に立っておれ、と怒られた。
 それがトラウマになったとはいわないが、絶対音感は育たないものだ、いまも、お金を出してまで、カラオケに恥をかきにいきたくない心境である。

 こんな私にも、ふるい曲に思い出が重なっている。ふと耳にすると、当時を思い出す。小学生のころ隣家のお好み焼きだったので、窓越しに「お富さん」の曲が流れ込んでいた。中学生は「カラタチ日記」で、同級生の女子との噂をながされ、からかわれる曲に使われた。島の高校は「恋の片想い」で悶々とし、勉強がまったく手につかず、人生の岐路を変えた。進路指導は広島か岡山の大学だったが、東京の私立大学に進学した。

 瀬戸内の島育ちだから、東京から交通費を出してまで房総や三浦海岸まで行きたいとおもわない。もっぱら八ヶ岳や北アルプスで「山男の歌」である。

 こうした曲名をならべると、私は昭和人間だとわかってしまう。むろん、昭和生まれを隠す気持ちなどみじんもない。むしろ戦中、戦後の極貧、高度成長、日本が第一回サミット加盟国という誇らしさ、平成の悲惨な大自然災害、令和の世界的な疫病のまん延という波乱に満ちた時代を体験できた。

 小説家としては多様な変化に満ちた体験世代だとおもう。

 さかのぼれば、高度成長期には、私たちがはたらいた税金の何割かが、太平洋戦争の加害国として、アジア諸国に戦争賠償金、資金援助としてつかわれてきた。親の世代で戦争をして、子どもの時代で支払う構図だった。当然支払うべきものだと抵抗はなかった。

 話しはさらにもどるが、私が一歳半のときに終戦である。本来ならば、戦時体験など記憶にあるはずがない。ところが私のからだには戦争の恐怖がしみ込んでいる。

 高校卒業で島を離れるまで、町内の火災を知らせるサイレンがことのほか怖くて、いつも脅えていた。それは不思議な現象だった。
戦時中、島の港内に停泊する商船が機銃掃射で狙われていたらしい。母から、今治の町が爆撃で真赤に燃えて怖かったし、防空壕の出入口から恐るおそる見ていたと聞かされた記憶がある。
「サイレンが怖いのは、これだったのか」

 想像するに、当時24歳だった母は、敵機襲来という空襲警報のサイレンが鳴ると、とっさに両手で幼児の私を胸に抱きあげる。父は出征しており、心細く、「外地から帰ってくるまで、この子を殺させてはいけない」と強く抱きしめていたという。

 おおかた幼い私の耳には、母の恐怖の心臓音がドキドキと脈打って聞こえていたのだろう。サイレン音とともに、からだが恐怖を覚えてしまった。

 私には、兵士を送りだす軍歌だの、機銃掃射の音だの、沖を航行する軍艦だの、それらはまったく記憶に残っていない。早朝なのに、山の端のかなたがぴかっと光った、あれが原爆だったと聞かされていた。これも、戦争が終わってからだ。

 私たちの同世代は、親を亡くした戦争孤児、原爆孤児、大陸引揚者の飢餓寸前の子らである。敗戦後はGHQ国連占領軍の支配下にあり、だれもが極度の食糧難で飢えていた。米の飯など食べられない。貧乏人は麦を食べろ、と言われた時代だった。
 私がバナナをはじめて食べたのは小学三年、チーズを口にしたのは小学五年だった。敗戦とはそういうものだった。
 でも、太平洋戦争に負けて良かった、と真におもった。子ども心に軍隊にはいきたくなかったからだ。

 それというのも、出征した父が持ちかえった写真アルバムがある。一つは、射殺した大きなトラにまたがった軍服姿の父の写真だ。小隊が人食いトラを数日間追って射止めたという。
 小隊長だった父の真上の岩壁から、飛び降りてきた瞬間、仲間が下から射殺してくれた。間一髪で助かったという。
 もう一つは、深い雪のなかで、複数の軍人のさらし首があった。私は子ども心に「誰なの」と聞いた。すると、金日成(きんにっせい、北朝鮮の初代最高指導者)の腹心だよ、とさらっと答えた。旧日本軍としては手柄だった口ぶりだが、多くは語らなかった。
「戦争は残酷だな」
 その強い印象が私を戦争嫌いにさせた。


 現代社会でも、世界のどこかで戦争がおきている。被害に苦しむ子どもたちの報道がなされる。難民の子どもらも、私の体内サイレンのように、戦争の恐怖体験がきっと消えないとおもう。
 戦争と平和はコインのように裏表の両面性がある。

いまの私は、政治家が「国を守る」と発言すると、すぐさま戦前の『祖国を守る』政策を連想し、ぞっとしてしまう。そして、体内に潜む恐怖のサイレン音と結びつくのだ。

 為政者が『国民一人ひとりを守る』といえば、個々人の命を大切にする、平和維持の政治活動につながるのに、とおもう。用語の使い方はとても重要で武器解決でなく、外交努力になる。

 子々孫々まで、私たちは空襲警報の恐怖のサイレンを聞かせたくないものだ。

穂高健一講演会「渋沢栄一と一橋家」日程変更・案内=葛飾区立図書館 

 穂高健一 講演会「渋沢栄一と一橋家」が、7月25日(日)に予定されていましたが、緊急事態宣言のため10月24日(日)に延期となります。


 立石図書館より、下記の案内です。
『こちらの講演会は定員に達したため、申込受付は終了しています。なお新規のお申し込みはありません。事前申し込みされた方のみご参加いただけます


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開催日 令和3年10月24日(日曜日)

時間 午後2時 から 午後4時 まで(開場午後1時30分から)

会場  葛飾区立・立石図書館2階研修室

対象 区内在住中学生以上

定員 35人(事前申し込み・先着順)

講師 穂高 健一氏(作家)

申込方法 終了

費用 無料

特記事項 感染症対策にご協力お願いします

RCCラジオ・放送 神機隊と渋沢平九郎 = 9月11日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ・放送

 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)、渋沢平九郎らは上野の彰義隊と決別し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 5月23日、新政府軍は飯能の振武軍を攻撃した。半日で決着した。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が50人で、忍藩の藩兵を引きつれての夕方に飯能に着いた。戦争の決着がついていた。越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。

 遭遇したのが、副大将の渋沢平九郎だった。悲劇が起こった。


【イラストをクリックすれば、RCCラジオ聴けます】
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RCCラジオ・放送 神機隊と上野戦争 = 8月14日(土)

穂高健一の幕末・明治・大正の荒波から学べ!RCCラジオ 神機隊と上野戦争


 神機隊は、広島藩庁に320人の脱藩届を出してまでも、自費で奥州戦争にむかった。京都に挙がり、朝廷か「奥州鎮撫使(ちんぶし)応援」の命を受けた。
 そして、大阪の湊から奥州にむかう。蒸気船が舵のトラブルから、江戸湾の品川湊に一時寄港した。

 かれらは上陸し、浅野家菩提寺の泉岳寺(忠臣蔵で有名)を宿所とした。ちなみに、赤穂浅野家は分家(5万石)で、本家は芸州広島藩浅野家(42万石)である。

 4月21日に江戸城は無血開城されました。

 かれらが江戸城の総督府に挨拶に行くと、長州藩の大村益次郎は上野戦争の参戦をもとめられた。主力でなくとも、上野山の北側の王子・飛鳥山に陣を張ってほしい、と依頼された。

「長州の大村ごときの頼みで、上野戦争に加担などする必要はない。われわれ神機隊は朝廷から、会津を恭順させよ、と特別命令を受けているのだ。会津に一番乗りするのだ」

 五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が、帯刀姿で、東叡山とよばれる広大な上野の山に入った。偵察中に、道に迷った。

 江戸城が無血開城、江戸は戦火もまぬがれていた。それなのに、新政府軍はなぜ上野戦争を仕掛けたのか。

 RCCラジオの放送はここらの疑問にも触れています。


【イラストをクリックすれば、RCCラジオ聴けます】
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神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一

神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一

「おのれ。大村益次郎め。敵兵は一人もいない甲府にまで、神機隊の大隊に足を運ばせさせた。会津にむかう神機隊への妨害行為だ。われらは神機隊自費で出陣しているのだ。広島藩への嫌がらせだ」
 神機隊の隊長たちは、江戸城の新政府の総督府に抗議に出向いた。大村に噛みついた。どこの国でも、隣りあわせは仲が良くないものだ。
「自費出兵の補填として6000両を出します。長州の蒸気船を貸与します。江戸湾から、房総沖を回り、平潟(茨城県)まで、お使いください」
 芸藩志の神機隊の金銭出納に、それが克明に記録されている。
 貸与された長州船に乗れば、汽缶の故障ばかり。太平洋上のかなたまで漂流してしまうありさまだ。

 平潟に上陸すれば、新政府軍がすでに上陸し、「いわき城」(福島県)の戦いが終わっていた。
            *

 日和見、臆病者といわれた広島藩が、関東まで来ても、勇敢に戦う名誉回復の場などなかったのだ。神機隊はいずれも屈辱感を味わっていた。

 磐城から先は白河から会津盆地に入るか。激戦が予想される仙台相馬軍と旧幕府軍の連合軍がいる浜通りを北上するか。神機隊はあえて激戦地を選んだ。
 東日本大震災3.⒒の東電原発事故の被害地の海岸沿いを北上していく。

 この浜街道がなぜ激戦地なのか。見渡すかぎり、広々した田園地帯で、身を隠す場所がない。敵が少しでも高台に陣取っていると、狙い撃ちされる。

 あいては旧幕府軍と仙台、相馬連合軍である。「奥羽越列藩同盟」軍である。幕府の元老中だった板倉勝静(いたくら かつきよ)、小笠原 長行(おがさわら ながみち)、安藤 信正(あんどう のぶまさ)が集結し、江戸奪還を狙っている。新撰組、彰義隊の残党もいる。推定約4000人の主力部隊がいると予想された。

 薩摩軍が危険な攻撃だと知り、巧妙に鳥取藩と入れ替わっていた。

 神機隊と鳥取藩兵は併せて約600人の兵だった。広野の戦いで相馬・仙台軍らと正面から激突する。
 日夜を問わず、相馬・仙台軍は攻撃してくる。連続する銃弾、大砲で煙硝が立ち込める。休ませてくれない激戦だった。

 鳥取藩が砲隊長の近藤類蔵が戦死する。鳥取藩が引いてしまった。神機隊280人がたった一隊で、旧幕府軍や仙台・相馬軍と戦う。敵兵の十分の一もいない。無謀な戦いだった。
「一度引けば、気迫が廃れ、恐怖心が勝り、立て直せない」
 神機隊は死も恐れず戦う。仲間が血を流す、即死する。武器や食料の不足をきたす。「銃弾が雨のごとく」という記載が残されている。

 広野の戦いでは、砲隊長の高間省三の戦略の奇策で、突破口を見つけ、丘陵に構えられた敵の陣地を奪う。それでも敵は無勢に多勢で、交代しながら、戦闘行為に及んでくる。
 睡眠不足で、空腹で、意識がもうろうとする。それでも、戦い続けた。

 やがて、新政府軍の第二次、三次と応援部隊が到着する。長州藩4個中隊(約800名)、福岡藩440名、岩国藩200名、久留米藩(不明)、津藩95名などである。相馬・仙台軍がやや退却ぎみになる。

           *


 神機隊の砲隊長の高間省三が奥州の「浪江の戦い」で、銃弾が頭部に貫通し戦死した。高間の死は強い衝撃を与えた。

 広島城下・山根町の聖光寺には明治3年の建立で、【高間壮士之碑】がある。恩師・阪谷朗廬の撰文である(漢文)。

『高間省三は、この日(慶応4年8月1日)に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、
「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」
と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。
燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣に一番乗りした)。そして、次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた』
 このような撰文で記されている。

      *

 明治26年に発行された、『軍人必読 忠勇亀鑑』には、日本武尊、加藤清正、徳川家康らとともに英雄に列せられている。戊辰戦争で取り上げられたのは、西郷隆盛でも、板垣退助でも、大村益次郎でもなく、藝州広島藩の高間省三のみである。

 高間省三は満二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。この神社は初詣客として中国・四国地区で最も多い。広島カープの必勝祈願で名高い。
 初詣客にきた人に、「この神社の高間省三は御存じですか」と聞いても、どのくらい答えられるのだろうか。

「高間壮士之碑」の撰文を書いた阪谷朗盧は、幕末からの著名な開明派の学者だった。備中・井原は一橋徳川家の領地だった。そこに創立された興譲館に招かね、阪谷朗盧は初代館長となった。
 高間省三は18歳で、芸州広島藩の学問所の助教だった。先輩の頼山陽も同校の助教をつとめながら、「日本外史」を執筆している。頼山陽は20代後半だった。18歳の高間がいかにエリートちゅうのエリートだったわかる。
 その高間省三は、明確な年月日の資料がないけれど、少なくとも慶応3年には井原の興譲館の阪谷朗盧に学んでいる。
 高間は学問所で洋学(英語)を習っているし、武具奉行の父が購入してくれたイギリス製の手帳を戊辰戦争のとき持っていっている。遺品として広島護国神社に奉納されている。
 父子の考えで、遊学先として開明的な学者として阪谷朗盧を選んだのだろう。

           *

 当時の一橋家の家主といえば、幕末史のど真ん中にいる徳川慶喜である。
 孝明天皇は安政の通商条約を白紙に戻し、「横浜港の鎖港」という攘夷の方針を取っていた。慶喜は実父の水戸斉昭の尊王攘夷論を引き継いでいた。その方向で、幕府の外国奉行をフランスに送り込んでいるくらいだ。


 一橋家臣となった渋沢栄一の勧めで、慶応2年、阪谷朗廬は京都にいる一橋家の慶喜に拝謁したのだ。阪谷はそこで勤皇開港論を説いた。

『欧州がこんにち日本に和親・通商を望むのは、往年の旧教派の侵略主義ではありません。日本がいつまでも攘夷主義を唱え、外国を排除するのは間違っています。夷人を恐れることは、『人を見れば、泥棒とおもえ』という諺に似ています。ここは異国人を排除するのでなく、通商すれば、国が開けて豊かになります』
「わかった」
 理解力の優れた聡明な慶喜だ、従来とは真逆の方向に動きはじめた。
 孝明天皇が京都に近いという理由で兵庫湊(神戸港)の開港に反対していた。「兵庫開港問題」である。慶喜は欧米に期限付きで開港すると約束した。さらに、日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国通商条約」の勅許を、孝明天皇から得るのだ。ここに安政の大獄、井伊直弼の暗殺、下関戦争など、動乱つづきの根本の通商条約が突如として解決したのだ。

 慶喜がなぜ開国に方向転換に計り、孝明天皇がそれに乗ったのか。歴史ミステリーだった。当時から不可解な慶喜の行動だった。長州藩の木戸孝允すら、「慶喜は家康の再来だ」と言わしめるほど、そこから幕末史がおおきく動いた。

 慶応2年に、阪谷朗盧と徳川慶喜が京都で対面する場を作ったのが渋沢栄一である。そして、鎖国主義だった慶喜が急に開国に舵を切った。
 阪谷朗盧の存在を知らなければ、慶喜の180度の方針転換は読み取れない。阪谷朗盧を語らずして、幕末史の終盤は理解できない。上滑りだと言っても、過言ではないだろう。

 慶応3年には、高間省三が井原の阪谷朗盧の下に留学している。
 この年に、 27 歳の渋沢栄一は、15 代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の弟・ 水戸藩の徳川昭武(あきたけ)に随行し、パリの万国博覧会で渡航する。

 高間省三とすれ違いか。あるいは一度くらい顔を合わせた接点はないだろうか。そんな興味で、歴史取材しているが、裏付けの資料は発見できていない。

 高間省三が「浪江の戦い」で戦死した。翌年の慶応4(1868)年8月1日である。開明派の学者の阪谷朗盧は、同年に芸州広島藩の藩学問所(現修道学園)の主席教授として迎えられている。
 
 阪谷朗盧が、書生時代の高間を可愛がっていたとしても、おかしくない。高間省三は阪谷朗盧から、きっと十五代将軍慶喜の素顔、思想、性格などを聞いているだろう。
 
            *

「今年はパリ万博に出向きます。2年前に、笠岡の鯛網は楽しかった。もう一度、楽しみたいものです」
 仮定の話だが、渋沢が井原の阪谷朗盧を訪ねてきて、そう語ったとする。
「パリで資本主義の経済を学ぶといい。送別会は、ちょうど春ですから、2年前のように笠岡に出向いて鯛網を楽しみましょう。興譲館の書生を連れていきましょう」
 興譲館の書生となれば、高間省三かもしれない。2年前の鯛網は大漁だった。そのときのように、捕れた鯛を肴して渋沢、阪谷、高間らは酒を酌み交わす。すこぶる上機嫌で、日本の将来を語る。
 こんなエピソードがあると、歴史も面白くなる。

神機隊の秘められたエピソード① = 上野戦争に参戦か、拒絶か

 幕末の芸州広島藩といえば、近年、神機隊が知れ渡ってきた。
 第二次長州戦争(慶応2年・1866)において、広島藩は非戦をつらぬいたが、幕府軍と長州軍の双方の戦いで、広島藩領の大竹から廿日市の領民らが大惨事をこおむった。

「われら武士は、農民から生活の扶持をもらいながら、民を助けられなかった。民の生命と財産を守れる、精鋭の軍隊を作ろう。軍律は厳しく、秩序を保ち、訓練された部隊だ」
 広島藩の学問所のOBたちと、草莽の志士たちが立ち上がり、精鋭部隊の神機隊を結成した。それは慶応3年の夏だった。
 薩長芸軍事同盟が結ばれるなど、まさに幕府が瓦解していく動乱期であった。

 戦争には後世に伝わるエピソードが残るものだ。

         *

 慶応4年5月の上野戦争では、神機隊の五番小隊長の藤田太久蔵(たくぞう)が敵陣に迷い込んだ。藤田太久蔵小隊長は天性の機智で、巧妙に脱出している。
 東叡山寛永寺の輪王寺宮(一説に東武天皇)が、戦火のなかから巧妙に消えた。総督府の大村益次郎から、神機隊には探索が命じられた。しかし、長々と雨が大量に降り続いており、道路は陥没し、輪王寺宮は捜しきれなかった。

            *
 小田原戦争、箱根戦争、飯能戦争などが起きたのだ。

『林昌之助(下総・請西藩の藩主)が箱根に立て籠もり、小田原城を下し、甲府城を取り、奥州賊軍と相応して官軍に抗せんと謀る。神機隊は甲府に派兵せよ』
 命じられた甲府における残党狩りに尽くしても、芸州広島藩の名誉回復の戦いなどあり得ない。神機隊のだれもが渋々だった。神機隊の主力部隊が甲府城へとむかった。(後でわかるが、敵兵は誰もいなかった)。


忍城 (埼玉県)

『藝州藩は50人の兵士を武州の忍城(おしじょう)に出張して、同藩を監督できる、「軍監」ひとりを推薦してほしい』と大総督府参謀から、依頼書きた。

 忍藩はかつての譜代大名で、徳川幕府の名門だった。ペリー提督の黒船が来航したとき、江戸湾の房総の守りの要だった。
 幕府が瓦解しても、藩士らには佐幕派が多く、忍藩はまだ新政府に恭順していない。それゆえに、今後において元幕府軍らと手をむすぶ可能性が高い。

「総督府から、忍藩に恭順を促す詔書をとどける」その役も兼ねていた。同藩を監督できる「軍監」として、小隊長の藤田次郎が選ばれて、忍藩にむかう。途中で、早馬がやってきた。
「もうしわけない。忍藩にとどける詔書のあて名が、川越藩主だった。間違っていた」
「バカバカしい」
 神機隊の藤田小隊などは苛立っていた。

 総督府から、忍藩が恭順したら、それら忍藩兵を引き連れて、飯能戦争の支援にむかってほしい、という。

           *

 上野戦争の直前に、渋沢誠一郎(喜作、渋沢栄一の従兄弟)は、尾高新五郎(渋沢栄一の妻・千代の兄)らと上野を脱出し、新たに振武軍(しんぶぐん)を組織していた。
 敗北した彰義隊の残党を吸収し、振武軍の総勢は約1500人になっていた。慶応4年5月18日に、飯能村(埼玉県)の能仁寺に移り、そこを本陣としていた。

 神機隊の小隊長・藤田次郎が忍藩を引きつれて5月23日の夕方に飯能に着けば、昼前に新政府と振武軍の戦争の決着がついていた。
「ここでも、出遅れたか」
 神機隊は自費で出兵しながらも、広島藩の強さなど、関東でなにも見せられていない。神機隊の主力部隊はすでに甲府にむかっている。後から追うにしても、小隊長・藤田次郎たちはこの日、越生村(埼玉県・越生町)法恩寺(ほうおんじ)を陣にした。

           * 

 振武軍の落ち武者は、いくつかの集団に分かれて逃走している。神機隊は越生の宿泊地の周辺や、黒山三滝あたりの探索をしてほしい、と依頼がきた。
「また、落ち武者狩りか。武勇には関係ない」
 藤田たちは不満に満ちていた。
 江戸城・総督府の大村益次郎が、広島藩が先に会津に入られると困るので、無駄な役目を与えているのではないか、と疑いはじめた。

           *

 現在、埼玉県の郷土史家において、『飯能戦争といえば、渋沢平九郎』といわれるほど、研究がすすんでいる。
 渋沢栄一が、パリ万博へ出席する慶喜の弟・清水昭武の随員としてフランスへ渡航することになった。当時の幕府の規則で、妻の弟・平九郎を渋沢家の見立養子にしていた。

 帰国した栄一は、養子の渋沢平九郎が、飯能戦争で死んだとわかった。悲しみ、徹底して調べさせた。それらも起因しているのだろう、現代でも渋沢平九郎の研究者が多い。
 剣の達人だった平九郎の死は悲劇として演劇、歌舞伎にもなっている。

 取材してみると、広島側の資料と、埼玉側の資料は微妙に違っている。

埼玉側の資料

 渋沢一族が幹部の振武軍(しんぶぐん)は、飯能戦争で半日で新政府軍に破れた。副将の22歳の渋沢平九郎は仲間とはぐれてしまった。
 秩父山地の顔振峠(かあぶりとうげ)にきた。茶屋の老婆から熊谷へ抜ける道をおそわった。
「そんな武士の格好だと危ないだ。大勢の官軍が越生村にいるだぞ」
 老婆の話をききいれて、九郎は大刀を茶屋に預けたうえで、変装してから越生への道を下っていく。黒山村(三滝で有名)で、新政府軍(神機隊)の斥候3人に遭遇したのだ。

 平九郎は神官だとごまかしたが、神機隊の斥候に見破られた。剣の達人の平九郎は、神機隊の2人を斬る。しかし、銃弾を一発を受けてしまった。
 3人の官軍は援軍を呼びに立ち去った。この間に、平九郎が石の上で自刀する。

           *
 
 慶応4(1868)年戊辰5月23日、武蔵国比企郡安戸村に、宮崎通泰という医者がいた。より信ぴょう性の高い証言をしている。
 官軍(広島藩・神機隊)の要請に応じて、入間郡黒山村に出向いた。そこで、軍士3人の創傷を治療した。
「なぜ、こんな大怪我をしたのか」と宮崎が医師として状況を訊いた。

 『澁澤平九郎昌忠戦闘之図』

医師の宮崎が、この絵の下に解説文を添え書きしている。
『かれら3人は官軍・神機隊の斥候で、黒山村(黒山3滝の近く)で、徳川の脱走兵士の一人が変装し、下山している男と出会った。
 糾問(きゅうもん)すると、飯能から脱走してきた兵士だとわかった。平九郎は佩(おぶ)るところの(携帯する)刀を抜いた。甲の一人を斬り、振り返って乙の一人を傷つける。
(絵はこの瞬間である)。
 また、転じて丙の一人を討った。甲は斃(たお)れた。(死んではいない)。乙と丙は逃げ走り去った。脱走の士は路傍の盤石にうずくまる、屠腹(とふく)(切腹)して死んでいた。

 その武勇は歎賞すべしといふ。すなわち、その時の状況を図に表し、また、平九郎の懐中にあった、歌および八時を写し、帰り道で、男衾(おふすま)郡畠山の丸橋一之君に逢う。君之を乞いて、家に蔵し、人に示し、これを話して歎賞す』

 十数年が経ったあと、榛沢(はんざわ)郡の斉藤喜平にもおしえると、その脱走兵士は地元の尾高平九郎とわかった。
 平九郎は渋沢栄一翁の養子だった。徳川幕府に仕えて、一年にして、戊辰の変に遭遇している。彰義隊に入り、閏四月二十八日に紙障に歌を書いていた。

   惜しまるる時ちりてこそ世の中の人も人なれ花も花なれ

   いたずらに身はくださじなたらちねの国のために生にしものを

   夏日夕陽 渓に臨んで氷を得たり

 自刃した平九郎の首が、法恩寺門前の立木に晒(さら)された。

 宮崎医師の証言とは別に、越生の旧家からも、さらし首の図が見つかっている。それによると、梟首(きょうしゅ)は越生の法恩寺でなく、徳田屋の脇の立木らしい。

           *
 
 現代の感覚でみると、「さらし首」は残忍な行為である。平九郎のさらし首にたいする批判の文献は、埼玉県において実に多い。
「恥ずるべき、断じて許せない行為だ」
 切腹した副将の屍骸の首を刎(は)ねるとは、言語道断だというものだ。

「名も知らない死を晒すとは、武士道に反する」
 晒し首に対する怒りだ。
 
 明治時代に入っても、大久保利通は江藤文平(法務卿・法務大臣)を梟首させている。
 第二次世界大戦でも、日本軍は武勲として、敵の大将クラスの首を日本刀で刎(は)ね、公衆の面前に曝(さら)し、敵への警告代わりにしている。

 戦争は残忍だし、人間を狂気にする。地元贔屓(ひいき)なのか、ややヒステリックな批判ともいえる。

            *
 
 渋沢平九郎の亡骸(胴体)は、黒山村の全昌寺(ぜんしょうじ)、頭部は寺僧が法恩寺の林に埋められていた。『脱走(だっそう)のお勇士(ゆうし)さま』として、村人たちが寄り合い涙をながしたという。

 渋沢栄一が、平九郎の遺骨を東京・谷中墓地に移し、上野寛永寺で法要をおこなっている。

            *

 芸州広島から自ら意思でやってきた神機隊は、上野戦争を含めて関東の戦いで、さしたる成果もなく、自費の軍費をひたすらムダに浪費しただけである。
 上野戦争では輪王寺宮を捜しだせず、忍藩に行っているうちに飯能戦争は終わっていた。甲府に出むけば、敵はひとりもいない。
 神機隊の小隊長・藤田次郎の約50人が、陣をはった越生村から斥候たちが、山奥に残党刈りに出ていくと、渋沢平九郎と遭遇する。平九郎は剣の達人だった。隊員が三人が小刀で傷つき、陣から応援部隊が駆けつければ、平九郎はすでに自刃で死んでいた。

 神機隊としては、好き好んで殺したわけではない。

 渋沢平九郎の「さらし首」の汚名が現代まで、埼玉人たちに怒りで語り継がれているのだ。まさに貧乏くじだろう。

広島側の資料
 

 日清戦争の前夜ともいうべきか。明治26年になり、渋沢栄一は大本営があった広島にやってきた。宿泊所したのが、元神機隊員の長沼主悦助が経営する旅館だった。

 渋沢栄一(男爵)は、妻の弟で、養子の平九郎と広島藩の軍隊との遭遇から、事実解明をもとめた。それは「回天軍第一起神機隊」の精鋭部隊だとわかった。
 広島藩の浅野藩主から任命された正規の藩兵ではなかった。神機隊は義勇同志の結束で、戊辰戦争の参加した稀有の存在だった。
 
 渋沢翁は実質的に総隊長といえる川合三十郎と面談した。
「平九郎の死はどんな状態でしたか」
  川合三十郎はこのとき浅野家史「芸藩志」(げいはんし)300人が編纂する責任者だった。

「私・川合三十郎は、神機隊の主力を率いて、飯能戦争には立ち寄らず、甲府城に出むいていました。くわしい事情は、忍城から分遣隊長となった藤田次郎が知っております」
 渋沢栄一が藤田次郎と面談した。
「当日の夕方、神機隊の小目付だった長沼主悦助(神官出身)たち6人を斥候に出ました。(埼玉側の資料は3人)。黒山村で貧しい身なりに変装した士(平九郎)と遭遇しました。生け捕るつもりだった。いきなり相手から斬りつけられた。壮烈な勇士だ、と長沼から聞きおよんでいます。この旅館の主は長沼で、最初にでた斥候のひとりで事情をよく知っていますよ」
「それは奇遇です」
 この長沼は旅館業、海運業、鉄道事業、電気工事業など各種事業の経営にあたり、広島財界の重鎮だった。
 元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督の長沼健が孫にあたる。

「男は遭遇した際、武士ではござらぬ、神主です、と偽ったのです」
 当時の長沼は神官であり、いくつかの尋問で、奴は嘘をついたと見破ったのだ。

 見抜かれたと判ったのか、突如として小刀で襲いかかってきた。腕が立つ相手で、神機隊の斥候6人ちゅう3人が傷ついた。長沼もその一人だった。神機隊の無傷の者が銃を放ちながら、皆して負傷者を抱きかかえ、越生の陣までもどってきた。
 
 長沼たち斥候の報告で、藤田次郎も含めた神機隊の大勢が黒山村に駆けつけた。

 渓流の脇にある盤石の上で、平九郎はすでに切腹していた。

「その屠腹(とふく)の状態は、落ち着いてあわてず、天晴な技でした」
 藤田次郎は渋沢栄一にそう述べている。
 この藤田は東京上等裁判所の検事、立憲改進党の結成、衆議院議員二回、山陽鉄道の社長を歴任している。

 切腹に使った小刀は、藤田次郎から実質的な総督ともいえる河合三十郎の手にわたった。

「小刀の装飾はみるからに実用的でした。替目釘(かえめくぎ)を使った名刀でした。この武士は尋常でなく位の高い人だろう、と推察しました。
 譲り受けた私・川合三十郎が、愛蔵の品として、幾く星霜(せいそう)、つねに磨き、座右においておりました」
 河合はその小刀を渋沢栄一に返還した。

「切腹の刀が遠く広島にわたり、川合どのの手で、ていねいに保管されておりました。平九郎はあの世でも、冥利だと喜んでいることでしょう」
 渋沢栄一翁(男爵)は、当世、稀(まれ)にみる士だと川合を褒め称えている。

           *


 私が出版した「広島藩の志士」(二十歳の炎・改題)は、第二次長州戦争前から戊辰戦争までで、明治時代は組み込んでいない。渋沢平九郎の小刀が広島にあるまで、筆を運んでいない。

  NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢平九郎が自刃するシーンがある。渋沢平九郎の小刀の行方まで追っていない。
 広島藩からどのように返還されたのか。渋沢平九郎ファンにとっては、まさに謎に満ちているようだ。その実態は殆ど知られていなかった。私が取材で得たものを歴史的な事実として、ここに公開した。
 
                      【つづく】

 写真は一部ネットを利用させていただきました。

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