神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一
神機隊の秘められたエピソード② = 阪谷朗盧、渋沢栄一
「おのれ。大村益次郎め。敵兵は一人もいない甲府にまで、神機隊の大隊に足を運ばせさせた。会津にむかう神機隊への妨害行為だ。われらは神機隊自費で出陣しているのだ。広島藩への嫌がらせだ」
神機隊の隊長たちは、江戸城の新政府の総督府に抗議に出向いた。大村に噛みついた。どこの国でも、隣りあわせは仲が良くないものだ。
「自費出兵の補填として6000両を出します。長州の蒸気船を貸与します。江戸湾から、房総沖を回り、平潟(茨城県)まで、お使いください」
芸藩志の神機隊の金銭出納に、それが克明に記録されている。
貸与された長州船に乗れば、汽缶の故障ばかり。太平洋上のかなたまで漂流してしまうありさまだ。
平潟に上陸すれば、新政府軍がすでに上陸し、「いわき城」(福島県)の戦いが終わっていた。
*
日和見、臆病者といわれた広島藩が、関東まで来ても、勇敢に戦う名誉回復の場などなかったのだ。神機隊はいずれも屈辱感を味わっていた。
磐城から先は白河から会津盆地に入るか。激戦が予想される仙台相馬軍と旧幕府軍の連合軍がいる浜通りを北上するか。神機隊はあえて激戦地を選んだ。
東日本大震災3.⒒の東電原発事故の被害地の海岸沿いを北上していく。
この浜街道がなぜ激戦地なのか。見渡すかぎり、広々した田園地帯で、身を隠す場所がない。敵が少しでも高台に陣取っていると、狙い撃ちされる。
あいては旧幕府軍と仙台、相馬連合軍である。「奥羽越列藩同盟」軍である。幕府の元老中だった板倉勝静(いたくら かつきよ)、小笠原 長行(おがさわら ながみち)、安藤 信正(あんどう のぶまさ)が集結し、江戸奪還を狙っている。新撰組、彰義隊の残党もいる。推定約4000人の主力部隊がいると予想された。
薩摩軍が危険な攻撃だと知り、巧妙に鳥取藩と入れ替わっていた。
神機隊と鳥取藩兵は併せて約600人の兵だった。広野の戦いで相馬・仙台軍らと正面から激突する。
日夜を問わず、相馬・仙台軍は攻撃してくる。連続する銃弾、大砲で煙硝が立ち込める。休ませてくれない激戦だった。
鳥取藩が砲隊長の近藤類蔵が戦死する。鳥取藩が引いてしまった。神機隊280人がたった一隊で、旧幕府軍や仙台・相馬軍と戦う。敵兵の十分の一もいない。無謀な戦いだった。
「一度引けば、気迫が廃れ、恐怖心が勝り、立て直せない」
神機隊は死も恐れず戦う。仲間が血を流す、即死する。武器や食料の不足をきたす。「銃弾が雨のごとく」という記載が残されている。
広野の戦いでは、砲隊長の高間省三の戦略の奇策で、突破口を見つけ、丘陵に構えられた敵の陣地を奪う。それでも敵は無勢に多勢で、交代しながら、戦闘行為に及んでくる。
睡眠不足で、空腹で、意識がもうろうとする。それでも、戦い続けた。
やがて、新政府軍の第二次、三次と応援部隊が到着する。長州藩4個中隊(約800名)、福岡藩440名、岩国藩200名、久留米藩(不明)、津藩95名などである。相馬・仙台軍がやや退却ぎみになる。
*
神機隊の砲隊長の高間省三が奥州の「浪江の戦い」で、銃弾が頭部に貫通し戦死した。高間の死は強い衝撃を与えた。
広島城下・山根町の聖光寺には明治3年の建立で、【高間壮士之碑】がある。恩師・阪谷朗廬の撰文である(漢文)。
『高間省三は、この日(慶応4年8月1日)に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、
「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」
と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。
燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣に一番乗りした)。そして、次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた』
このような撰文で記されている。
*
明治26年に発行された、『軍人必読 忠勇亀鑑』には、日本武尊、加藤清正、徳川家康らとともに英雄に列せられている。戊辰戦争で取り上げられたのは、西郷隆盛でも、板垣退助でも、大村益次郎でもなく、藝州広島藩の高間省三のみである。
高間省三は満二十歳にして広島護国神社の筆頭祭神として祀られている。この神社は初詣客として中国・四国地区で最も多い。広島カープの必勝祈願で名高い。
初詣客にきた人に、「この神社の高間省三は御存じですか」と聞いても、どのくらい答えられるのだろうか。
「高間壮士之碑」の撰文を書いた阪谷朗盧は、幕末からの著名な開明派の学者だった。備中・井原は一橋徳川家の領地だった。そこに創立された興譲館に招かね、阪谷朗盧は初代館長となった。
高間省三は18歳で、芸州広島藩の学問所の助教だった。先輩の頼山陽も同校の助教をつとめながら、「日本外史」を執筆している。頼山陽は20代後半だった。18歳の高間がいかにエリートちゅうのエリートだったわかる。
その高間省三は、明確な年月日の資料がないけれど、少なくとも慶応3年には井原の興譲館の阪谷朗盧に学んでいる。
高間は学問所で洋学(英語)を習っているし、武具奉行の父が購入してくれたイギリス製の手帳を戊辰戦争のとき持っていっている。遺品として広島護国神社に奉納されている。
父子の考えで、遊学先として開明的な学者として阪谷朗盧を選んだのだろう。
*
当時の一橋家の家主といえば、幕末史のど真ん中にいる徳川慶喜である。
孝明天皇は安政の通商条約を白紙に戻し、「横浜港の鎖港」という攘夷の方針を取っていた。慶喜は実父の水戸斉昭の尊王攘夷論を引き継いでいた。その方向で、幕府の外国奉行をフランスに送り込んでいるくらいだ。
一橋家臣となった渋沢栄一の勧めで、慶応2年、阪谷朗廬は京都にいる一橋家の慶喜に拝謁したのだ。阪谷はそこで勤皇開港論を説いた。
『欧州がこんにち日本に和親・通商を望むのは、往年の旧教派の侵略主義ではありません。日本がいつまでも攘夷主義を唱え、外国を排除するのは間違っています。夷人を恐れることは、『人を見れば、泥棒とおもえ』という諺に似ています。ここは異国人を排除するのでなく、通商すれば、国が開けて豊かになります』
「わかった」
理解力の優れた聡明な慶喜だ、従来とは真逆の方向に動きはじめた。
孝明天皇が京都に近いという理由で兵庫湊(神戸港)の開港に反対していた。「兵庫開港問題」である。慶喜は欧米に期限付きで開港すると約束した。さらに、日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国通商条約」の勅許を、孝明天皇から得るのだ。ここに安政の大獄、井伊直弼の暗殺、下関戦争など、動乱つづきの根本の通商条約が突如として解決したのだ。
慶喜がなぜ開国に方向転換に計り、孝明天皇がそれに乗ったのか。歴史ミステリーだった。当時から不可解な慶喜の行動だった。長州藩の木戸孝允すら、「慶喜は家康の再来だ」と言わしめるほど、そこから幕末史がおおきく動いた。
慶応2年に、阪谷朗盧と徳川慶喜が京都で対面する場を作ったのが渋沢栄一である。そして、鎖国主義だった慶喜が急に開国に舵を切った。
阪谷朗盧の存在を知らなければ、慶喜の180度の方針転換は読み取れない。阪谷朗盧を語らずして、幕末史の終盤は理解できない。上滑りだと言っても、過言ではないだろう。
慶応3年には、高間省三が井原の阪谷朗盧の下に留学している。
この年に、 27 歳の渋沢栄一は、15 代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の弟・ 水戸藩の徳川昭武(あきたけ)に随行し、パリの万国博覧会で渡航する。
高間省三とすれ違いか。あるいは一度くらい顔を合わせた接点はないだろうか。そんな興味で、歴史取材しているが、裏付けの資料は発見できていない。
高間省三が「浪江の戦い」で戦死した。翌年の慶応4(1868)年8月1日である。開明派の学者の阪谷朗盧は、同年に芸州広島藩の藩学問所(現修道学園)の主席教授として迎えられている。
阪谷朗盧が、書生時代の高間を可愛がっていたとしても、おかしくない。高間省三は阪谷朗盧から、きっと十五代将軍慶喜の素顔、思想、性格などを聞いているだろう。
*
「今年はパリ万博に出向きます。2年前に、笠岡の鯛網は楽しかった。もう一度、楽しみたいものです」
仮定の話だが、渋沢が井原の阪谷朗盧を訪ねてきて、そう語ったとする。
「パリで資本主義の経済を学ぶといい。送別会は、ちょうど春ですから、2年前のように笠岡に出向いて鯛網を楽しみましょう。興譲館の書生を連れていきましょう」
興譲館の書生となれば、高間省三かもしれない。2年前の鯛網は大漁だった。そのときのように、捕れた鯛を肴して渋沢、阪谷、高間らは酒を酌み交わす。すこぶる上機嫌で、日本の将来を語る。
こんなエピソードがあると、歴史も面白くなる。