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賀正 : 徳川慶喜将軍の正式な官位はご存知ですか = これにはおどろいたな

 明けましておめでとうございます

 ここのところ、歴史小説の中編(400字詰め換算80枚)に没頭しており、年末の大掃除も、除夜の鐘も、さらに初詣もいけなかった。家庭内で、あれこれ用事を言いつけられるたびに、
「予定よりも遅筆になってしまった。ほんとうは大晦日を待たず、原稿を仕上げて入稿する予定だったんだ」
「毎年じゃないの。よその御主人は、年末いろいろ手伝ってくれているというのに」
「結婚を決めるまえに、相手を選ぶ目がなかったんだな。それは自業自得というもの。それに男運がないんだよ。あきらめが肝心だ」
 そんな軽口をたたいている間にも、日本ペンクラブ(以下・PEN)の有志による文藝誌『川』の締切りが刻々と近づいてくる。
 2022.1.6.001 川.jpg全員がプロ作家だし、編集長も元大物だ。週刊誌なみに締切りは厳守だ。次号に回されると、3~4か月先だ。

『商業誌は売れるものしか書かしてくれない。それは商品で、文藝とはいわない。むかしの文学同人誌・白樺派(志賀直哉・PEN3代目会長)のように本物の文学を目指そう』
 作品の筆者は印税、原稿料はナシ。その上、一人50,000円を出す。
「自費出版かよ」
 本は50冊/一人の割り振りだ。
「定価1,000円をつけているから、自分で手売りして、ちゃらにして。生活費は別の出版社で稼いで」
 発起人(小中陽太郎・元PEN専務理事)のムシの良い話からスタートとした。
「どうせ、3号で、廃刊だ」
 だれもがそう信じていたし、私もお付き合いだと思い、創刊号から仲間に入っていた。初期の合評会はいつも、これで最後のような打上会の雰囲気だった。酔いが回ったところで、世話人(高橋氏・純文作家)はやや呂律がまわらず、勢いから、
「次回も、だそうか」
 また50,000円取られて書くのか。中村氏(早稲田大を除籍になり、なぜか皇室のいく大学卒)がそう声を張り上げながらも、今回の8号まで来ている。
「うれしい誤算だったよな。『川』に書きたいという希望者が増えてきているし。女性も含めて。この調子だと10号まで行くよ」
 世話人がおどろくくらいだ。裏を返せば、プロ作家がいかに商業誌でなく、自費でも本物の文学を志向しているかだろう。
 また、本気で書き、気合が入っているし、内容が充実しているから、定価1,000円は高すぎるという苦情もきていないようだ。

 私はこんかい福地源一郎を取りあげた。明治初期の大物記者である。個人的には、かれの反骨精神が好きだ。

【タイトルは・ネタバレするので割愛】
 書き出しは下記のとおりです。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 甲板の手すりに寄りかかるジャーナリストの福地(ふくち)源一郎は、すでに三十歳になっていた。旧幕臣だった福地は、日本人にしてはめずらしい洋装である。出港まえから、デッキの上で、かれは乗客の話題にも聞き耳を立てていた。
 2022.1.5.001fukuchi.jpg「薩長の役人たら、江戸(いまは東京・トウケイ)で、悪口を言いたい放題じゃない。口惜しいったら、ありゃしない」
 和装の女性がそう語る。
「鳥羽伏見の戦いで、四日目に慶喜公が逃げて江戸に帰ってきたから、幕府軍が総崩れになった、と言っておる。だから、愚公(ぐこう)な将軍だと吹聴(ふいちょう)しておる」
「薩長の政治家のいうことはホラが多いし。おなじことを百回も聞かされたら、嘘もほんとうになるというし」
「そもそも、慶喜公が大政奉還で、なぜ二百六十年もつづいた政権なのに投げだしたのか。かわら版を読んでも、それがよくわからない」
 紋付姿の男がはなす。
 永代橋のたもとで、横浜への蒸気外輪客船が、朝九時の出航の銅鑼(どら)を鳴らした。腹にひびく音だった。船尾の日章旗が、十二月の風ではためいている。
 東京と横浜をむすぶ航路を開設させたのは、徳川幕府で、慶応三(一八六七)年一〇月だった。稲川丸が初就航した。ことし(明治三年)は、あらたに横須賀製鉄所で建造された二五〇トン・四〇馬力の木造外輪船が加わったのだ。
 上等席は金三分、並みは金二分だった。
「太政官の役人は威張(いば)りくさって、文字はもろくに読めやしないで。あんなのが天下を取ったなんて、世も末ね。慶喜(ケイキ)さん、なんで頑張れなかったのかしらね」
 この夫婦は身なりからして豪商らしく、横浜の海外貿易で財産を成したのだろう。
 両腕をくむ福地は、記事ネタの生の声として、頭のなかに書き込んでいた。最近は、これに類似した話題が多く耳に入ってくる。
「おおきな徳川幕府が倒れるなど、だれも考えておらなかった。まさか、だったな。十五代慶喜将軍は水戸老公の息子のなかで、一番頭がよくて、回転が速く、家康の再来(さいらい)だとか言われていたんだろう。いまでは幕府をつぶした愚か者だと、江戸っ子からも、わしらの幕府をつぶしたと、焼けくそで、悪口がでるようになった」
 夫婦の話は出帆しても、つづいていた。
 福地の耳は夫妻に、目は頭上の飛ぶ白いカモメを追う。中央の煙突から、黒い煙が青空に舞い上がり、十二月の潮風のなかで消えていく。ガタゴトと両輪の音がおおきくなった。船脚が早まってきた。
 福地源一郎は旧幕臣だけに、自分にもやりきれなさがあった。
 この福地はどんな人物なのか。文久元(一八六一)年に文久遣欧((ぶんきゅうけんおう)使節団の通訳として参加した。慶応元(一八六五)年にも、ふたたび幕府の使節団として欧州に出むた。かれはロンドン、パリで発行されている新聞にふかい興味をよせた。さらに西洋の演劇や文化にも関心をむけた。
 慶応三年十月の大政奉還をきいた福地は、幕府の将来に見切りをつけ、ジャーナリストに転向した。そして、慶応四年閏四月、江戸が東京になる直前だった、『江湖新聞(こうこしんぶん)』を創刊した。翌月には上野戦争がおきている。
 福地は明治新政府にたいして辛辣(しんらつ)な批判記事をつづけざまに掲載した。
『明治政府は良い政権だというが、徳川幕府が倒れて、ただ薩長を中心とした幕府が生まれただけだ』
 これら記事が明治政府の怒りを買った。『江湖新聞』は発禁処分になり、福地は逮捕された。明治初の言論弾圧事件である。
 参議の木戸孝允(たかよし)がとりなして、江湖新聞は廃刊にする条件で、福地は獄から放免となった。
 
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                 

 ※ 福地源一郎の関連資料を読むさなか、徳川第15代慶喜将軍の官位がありました。とても珍しいので、紹介します。

『従一位太政大臣近衛大将 右馬寮御監淳和奨学両院別当 源氏長者征夷大将軍』 
  おぼえられますか。それ以前に読めるでしょうか。

「じゅういちい だじょうだいじん このえたいしょう うめのりょうぎょかんじゅんな しょうがくりょういんべっとう げんじのちょうじゃ せいいたいしょうぐん」

  官位ご昇進の式で、朝廷から賜る将軍の宣下(せんげ)です。

2022.1.5.002fukuchi.jpg 慶喜は当時としては長寿です。大正2(1913)年11月22日で亡くなりました。戒名は御存じでしょうか。
 大僧正から授与された立派な長い長い戒名だろうな、さぞかし。ところが慶喜は神式による葬祭なので戒名がないのです。

 ちなみに、慶喜は上野戦争前に東叡山寛永寺で謹慎しました。しかし、死後は同寺の歴代将軍の区画墓地に入れてもらえません。なぜならば、神式で、仏教徒ではないからです。
 すぐちかくの谷中墓地に、慶喜の墓が前方後円墳に模して埋葬されています。
「これだと、仏教のお寺に入れてくれないな」
 と納得できます。
 
 戊辰戦争を戦わなかった慶喜は『天皇(当時は幼帝)に弓を引かない』という「恭順謹慎」の態度で、江戸城を無血開城します。天皇陵のような前方後円墳の墓をみれば、慶喜が皇室の血だとわかります。
 かれの実母は日本の皇族であり、織仁親王第12吉子女王(よしこじょおう)です。慶喜は七男です。

 歴史は物語風に、勝者に都合よく造られています。このたびの福地源一郎を使った《川》の作品はそれがテーマになっています。

 薩長史観の小説は、とかく慶喜がまるで天皇の敵、尊皇思想の西郷隆盛などが追討令を盾に「慶喜を殺す」と口にしたかのような描かれ方です。イギリスのパークス公使が「先の慶喜将軍の刑死は認めない。ナポレオン一世すら殺されなかった」と新政府軍に殺害を止めさせたとか。

 慶喜は皇室の正統な血筋であり、静寛院・和宮とともに、はじめから殺害などできない高貴な存在なのです。

                      了
 
        
 

 

 

ヤマサ醤油がすごい。世界で一社しかない「新型コロナワクチン原料供給」=HPから

「ヤマサ醤油」(本社・千葉県銚子市)が、新型コロナウイルス対策として、世界中で使用されているmRNAワクチンに欠かせない原料(シュードウリジン)として主要な供給元になっている。

head1 (2).jpg それも世界に一社しかない、と私は聞いておどろきだった。

 私が社会人になったばかり会社員時代に、顧客のひとつがヤマサ醤油だった。月に一度は銚子に訪問していたから、より親しみをもっている。

          ☆

 ここ数か月は、日本人がなぜコロナワクチンの新規感染者が極度に少ないのだろうか、と疑問を持っていた。欧米では一日に数万人単位の感染者数である。おなじ東洋人の韓国でも半端な患者数ではない。
 しかし、日本は100人前後だ。あまりにも違いすぎる。

 菅元首相が記者会見でしばしば「専門家の意見を聞いて」と話されていた。その専門家はこの秋の新規感染者の激減にたいする医学的な見地を示さなかった。
 わからなかった。それが本心であり、正解だろう。
 
 最近、ふたたびオミクロンの拡散の恐怖(?)話題が出てくると、専門家はのこのこTV出演し、あれこれ語っている。実に、内容が乏しい。
「この学者は、新型コロナウイルスの研究などロクにしないで、テレビに出まくっている。足を運ぶのはスタジオでなく、研究室だろう」と批判したくなる、過去の名誉教授の肩書だけで生きているタレント・学者を多くみかける。

           ☆

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 菅元首相が一人百万人接種という途轍もない目標をかかげた。総裁選を投げだし、コロナ対策に没頭してきた。
「百万人など、できないだろう」と私のみならず、日本人のほとんどは否定的な目でみていた。
 渡米した当時の菅首相は、ファイザー社などから、大量の供給を仰いだ。河野大臣もヨーロッパ諸国からワクチンを引っ張ってきた。菅=河野コンビは、一日百万人を実現させた。むろん、それには医療機関の医師や看護師たちの甚大な協力があったからだ。
 いまや世界各国から日本ミステリーとまで言われている。
「なんで、日本だけがワクチンが手に入るのだろう?」
それが不思議だった。
 
 新型コロナウイルス対策として、mRNAワクチンに欠かせない原料メーカー「ヤマサ醤油」のシュードウリジンの存在があったからだろう。
「ファイザーにしろ、モデルナにしろ、日本政府の要求を受け入れておかないと、『ヤマサ醤油』から供給を止められるか、絞られる」という不安がある。
 日本が最優先の出荷国になったのだ、と私は理解におよんだ。

         ☆

「ヤマサ醤油」HPから、「シュードウリジン」に関して一部抜粋してみます。(写真はすべて引用です)

 mRNA合成用原料のシュードウリジン

 ヤマサ醤油の医薬・化成品事業部では、核酸系うま味調味料の製造開始を発端に、核酸化合物に特化して60年以上事業展開してきています。1970年代からは医薬品原薬の製造販売も開始しています。
 以前は研究用試薬として数多くの核酸化合物を合成し販売していましたが、その一つとしてシュードウリジンを1980年代から販売しております。

2021.12.26.01.png 古くから製品として持っていたこともあり、今話題のmRNA(メッセンジャーRNA)の合成用素材として以前からご使用いただいております。
 体内に存在する通常のmRNAは配列をなしている4つの核酸化合物の一つがウリジンであるのに対して、治療薬やワクチンとして開発されているmRNAはウリジンのかわりに修飾核酸(シュードウリジンやその他の誘導体)が使われています。
 尚、シュードウリジンはRNAの一つであるtRNA(トランスファーRNA)などの構成要素としてもともと体内にも存在します。
※tRNA:RNAの一種で、遺伝情報からタンパク質が合成されるときに、アミノ酸をリボソームに運ぶ役割をもつ。

 新型コロナウイルスワクチンのmRNAは、コロナウイルスの突起部分(スパイクタンパク質)のmRNAを投与すると、そのmRNAによりスパイクタンパク質が細胞内で生成され、結果それを攻撃する抗体が作られるという仕組みです。
 通常のmRNAですと自然免疫により減少し蛋白質が作られにくくなるところ、ウリジンを修飾核酸に置き換えたmRNAの場合、この免疫機能を回避できるようになり、十分タンパク質が作られます。


bubl01_ph04.png mRNA自体は今回の新型コロナウイルスの開発以前から、他のワクチンや治療薬として研究開発されております。

 ヤマサ醤油では研究段階からシュードウリジンを提供してきております。

 その流れのなかで2020年に新型コロナウイルスワクチンの開発が始まり、おなじ用途のmRNA製造用でも、ご利用頂くようになっています。

 2020年12月初め、新型コロナウイルスワクチンのmRNAが、世界で初めてイギリスの規制当局から、緊急使用の承認を受けましたが、ヤマサ醤油ではまだどうなるか分からない秋の段階で、承認された場合に備え、増産体制を整えました。

 未だ需要は増える見込みであり、また将来ふたたびパンデミックが起こった際にも無理なく供給ができるよう、さらに製造能力拡張をふくむ体制整備をおこないます。     

幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組=あだち区民大学塾で講演

 足立区郷土博物館で、区制80周年の記念事業の一環として、令和2年11月29日から令和3年2月23日まで、文化遺産調査特別展『名家のかがやき』が開催された。
 穂高健一著「紅紫の館」(令和3年2月)が発刊された。
「あだち区民大学塾」において、2つの題材を基に講演会が企画されました。

 講演会の主題『幕末の足立と桜田門外の変・徳川埋蔵金・新撰組』で、10月2日(土)、同月23日(土)、同31日(日)の3回にわたり開催されました。

 講師は3回とも異なり、午後2時~4時であった。

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 第1回は小説「紅紫の館」の作者として穂高健一である
 足立で農家(新田開発)と武士(江戸城の北東部の守り)の両面の役割を担った郷士・日比谷健次郎の活躍を紹介した。


 おなじ武蔵の国の郷士でも、幕末に日野周辺の八王子千人同心から近藤勇、土方歳三などが京都に挙がった新撰組(当初は浪士組)が名高い。
 しかし、武蔵国・足立区においても、千葉道場の免許皆伝者の日比谷健次郎は、内密御用家として江戸防衛に徹し、おおいなる活躍をした。

 なぜ桜田門の変が起きたか、まずはそこから話をすすめた。そして、大政奉還、鳥羽伏見の戦いのあと、慶喜が江戸城を無血で開城したのに、なぜ薩長主体の新政府軍が上野戦争を仕掛けたのか。
 
 それは上野の東叡山寛永寺の貫主・輪王寺宮(りんのうじのみや)が東武天皇に君臨する動きがあったからである。

 京都に眼をむけると、父の孝明天皇が崩御すると、幼帝・睦仁(むつひと)が満14歳で践祚(せんそ)した。ただ、即位の礼を執り行っておらず、天皇ではない。
 ところが、薩長は幼帝・睦仁がさも天皇のごとく好き勝手に扱っている。君側の奸(くんそくのかん)だと、旧幕府が強い反発を抱いていた。(この段階で明治天皇とするが間違いである。会津戦争が終わる寸前まで、幼帝の睦仁殿下である)

 かたや、輪王寺宮能久(よしひさ)は二十歳であり、孝明天皇の義弟ある。天皇になる資格は十二分にある。
 
 奥羽越列藩同盟に呼応して輪王寺宮が天皇になれば、日本に二人の天皇ができる。まさに南北朝時代の再来で、東西朝時代になる。


 新政府軍はあらゆる面で不都合であり、輪王寺宮の抹殺を謀った。そして、やらなくてもよい流血の上野戦争を仕掛けた。
 足立郷士の日比谷健次郎が輪王寺宮の救出に関わった。成功すると、輪王寺宮は榎本武揚海軍の軍艦で奥州へ渡った。そして、仙台藩、会津藩の盟主になった。


 戦争は軍資金がないとできない。上野戦争の前に、「徳川の知能」といわれた旗本・松平太郎が金座、銀座、銅座から百万両余りをもちだす。それを日比谷健次郎が手助けをした。小判と銅銭が新撰組の土方歳三、伝習隊を率いる大鳥圭介など旧幕府軍の軍事費となった。


 幕末から埋蔵金の伝説があり、小栗上野介忠順が江戸城から運び出したという見方が流れていた。その実、運びだした人物は松平太郎である。江戸城が無血開城されたとき、城内の金庫は空であった。新政府側の多くの証言から、それは事実である。


 つけ加えれば、さらにその前の「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城(華城)から慶喜が東帰した直後から、3日間にわたり、榎本武揚の幕府海軍が金銀をすっかり運びだしていた。
 慶喜から戦場を一任されていた大目付・永井尚志(三島由紀夫の曽祖父)が指図し、全軍を江戸への撤兵と、旗本の妻木頼矩(よりのり・目付)には大坂城を長州藩に引き渡しする当日、城の火薬庫を自爆させたのだ。大爆発で、華城は全焼した。新政府は得られる金品がなかった。

 旧幕府には知恵者の人材が豊富だった。大坂城と江戸城の金庫はともに空っぽだった。
 新政府は結果として、資金豊富な旧幕府軍と戦う羽目になってしまった。松平太郎の運びだした資金で奥州戦争、榎本武揚が大坂から軍艦で持ち去った軍資金で函館戦争を戦う。

 かたや、新政府にはまったく金がなかった。戊辰戦争に参戦した西側の諸藩は、戦費がもらえず、薩摩藩、広島藩、土佐藩、福岡藩など、大規模な藩がこぞって贋金づくりに精を出したのだ。日本経済が破綻寸前にまで落ちた。
 
 戊辰戦争が終わると、明治新政府は満足な通貨ももてない赤字財政苦からはじまった。近代化を謳っても金貨がなければ、外国があいてにしてくれない。資本主義とはなにかもわからない。
 最悪はこのさきアジア諸国のように半植民地である。


 当時、西洋式の財務諸事情と資本主義に明るいのは、パリ帰りの渋沢栄一である。かれの上司は徳川慶喜である。新政府は窮地から大蔵省の出仕をもとめざるを得なくなったのだ。
「上様を惨めな朝敵にした新政府だ。断る」
 渋沢は強く拒否した。静岡で謹慎中の慶喜から、
「新しい国家をつくるためだ。もう敵も味方もない、大蔵省に出向きなさい」
 と渋沢は諭されたのである

 ここらを2時間にわたって語った。

         *  

 第2回は日比谷家の子孫である歯科医師の日比谷二朗さんで3.>

足立区の日比谷家の屋敷や数々の文化財について紹介がなされた。特に屋敷・甲冑・雛人形・狩野派の絵画・独語辞典「和独対訳辞林」について。

         *

 第3回は足立区立郷土博物館学芸員の多田文夫さんである。

 新田開発や残された文化財から、日比谷家に止まらず、幕末の足立の郷士は文化の担い手として狩野派の絵画を伝えるなど、文化的にも経済的にも極めて豊かな状況であったことが説明された。


「楽学の会」事務局の糸井史郎さんは、3人の講師による講演会は期待以上の評価が得られました。足立区の江戸時代の文化水準が非常に高かったことを足立区民の方々に知って頂くことができました、と語った。

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ③

 富士山麓を歩く。東京から近いせいで、いつでも来られると思いつつも、いまだに足を運んでいない景勝地、さらに山梨県・大月のリニア・カーの実験地などむかうことに決めた。

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「スターダスト」の早朝のラウンジで、窓越しに、富士山が眺められる。心地よいものだ。

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美味しい朝食は、1日の良きスタートである。

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「白糸の滝」はもうすぐだ。渓谷に架かった橋を渡る。

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白糸の滝が幻想的というか、神秘的に輝いていた。

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 富士山麓では、とても人気のある観光名所である。
 観光客どうしが撮影し、お礼を言い合う。ちょっとしたふれあいが旅を楽しませる。   

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 ひとたび、山中湖に帰ってくる。大勢の観光客がくり出す。

 南アルプスが遠望できる。

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リニアカー(山梨県・大月市)
 科学の最新技術で挑むリニアモーターカーの走行運転が展望ができる。
 科学の進歩の一面で、森林破壊とか、地下水の問題か、諸々ありそうだけれど、現地を知らずして、あれこれ批判するのは望ましくない。それゆえに足を運んでみた。

 模型や説明パネルから、水力発電所でエネルギー作る、という原理とおなじに思えた。確認すれば、
「そうですよ」
 と案内の方が応えてくれた。
 マグネットで稼働動力を生みだす。CO2の観点でいえば、地球環境の問題の点で、ずいぶん寄与するのかな。

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 ただ、早く開業しないと、東海道新幹線に追いつかれてしまうのではないか。そんな心配をしてしまう。
 
 案内嬢が暇そうにして勧めるので、ミニ・カーに試乗してみた。
 宙に浮かぶ、快適さを問われたが、距離もなく、心地さなどわからなかった。
 ディズニーランドの玩具の一つみたいだった。

日本の三大奇橋の猿橋

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 は、もう30年前から、いちど来てみたかったところ。


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 猿橋駅から、徒歩でも来られる。

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江戸時代からの特殊な橋脚のつくり方

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 たぬき池も、脚を運んでみた。

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 富士山とも、また来るまで、しばし別れである。
 今夜、もう一つの楽しみがある。東京でも、天体ショーの皆既月食だ。
 TVの気象予報士は皆既月食は98%みられると、自信満々に語っていた。とても楽しみだ。
 中学時代には、私は3年間ずっと気象班に所属していた。毎日、観測していた。日曜日も、(当番制)学校に出向く。
 NHK第二ラジオ放送の天気概況を聞き取り、天気図を作成していた。

 初の人工衛星が地球を回ると、真夜中の中学校のグラウンドで、先生の指導の下、天体望遠鏡で観測したものだ。

 そのころの若き血潮が騒ぐ。 

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 帰宅すれば、東京の夕空はぶ厚い雲におおわれた曇天である。
 占い師と気象予報士は肝心なとこに当たらないものだ、と相場は決まっている。

 大人になってみると、責任が問われない良い仕事だな、と思う。
 結果として、合成写真しか表現することができなかった。

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ②

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 今夜の宿泊地は、山中湖畔のカントリーホテル「スターダスト」である。富士山とフランス料理が売りである。
 一泊2食が1万1500円~である。満足度の割にずいぶん格安である。+アルコール代も加えても、リーズナブルなお値段だ。

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 かつて山仲間(可児さん)と、スターダストに一泊し、ちょうしに乗って酒を飲み過ぎてしまい、富士山の山頂への登攀がことのほか苦しかった。ふたりは登山ザックにワインを数本入れて担ぎ上げたけれど、二日酔いで一滴も飲めなかった記憶がある。

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 何年前か忘れたが、この山中湖畔の「スターダスト」に泊まり、白雪の11月の富士山に登った。パートナーは肥田野さんである。
 ふたりは冬山ゆえに二日酔いを警戒し、ビールは1、2杯で控えた。そして早朝に、完全装備の登山姿で出かけた。

 冬場は富士5合目までの路線バスなどない。裾野から自力で登攀していく。
 単独峰に吹く風は強烈である。雪面は風で磨かれてツルツルに光るほど研磨されている。
 転倒すれば、制動が利かない滑落となり、助かる確率は低い。まさに死に直結する一歩ずつである。
 七合目からはもはや台風並みの風で、わたしたち二人の足を止めてしまった。酷寒の烈風はとうとう山頂まで近づけてくれなかった。二人は断念し、下山してきた。

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 スターダストでは、フランス料理の美食を摂ったあと、マスター(木村あずささん)が手品を披露してくれた。一つひとつに感激。見事な腕前だ。

 もう10年くらい前になるかな。わたしは「山中湖ハーフマラソン」に出場した。そのときも、かれが上手な手品を披露してくれた。前泊の食後に、とてもリラックスできる好い時間がもてた。
 そんな記憶がよみがえってくる。

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 御殿場からみた富士山が話題になった。

 林忠崇(ただたか・21歳)は、総国請西藩(じょうざいはん・千葉県木更津市・一万石)藩主だった。鳥羽伏見の戦いあと、旧幕府(徳川将軍家)を追いつめる新政府に反感をもった。

 藩主の忠崇みずから脱藩し、藩士70名らとともに、旧幕府の遊撃隊に参加した。幕府海軍の協力を得て、館山から相模湾の沿岸に上陸し、小田原、箱根や伊豆などで新政府軍と激しく交戦する。

         *

 このころ、芸州広島藩の自費出費で320人が参戦した「神機隊」は、上野戦争、飯能戦争のあと、会津にいく予定だった。ところが、江戸城の総督府・大村益次郎(長州藩)から、
「林忠崇のつよい遊撃隊が、最新型のフランス銃を装備したうえで、小田原から御殿場を経由し、甲府にむかっている。討伐してきてくれ」
 と派遣を要請されたのだ。

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 懇願に応じた神機隊が甲府、さらには高所の三つ峠を越えて河口湖周辺(写真)まできてみた。さらに、山中湖まで足を延ばしてみるが、林忠崇たち遊撃隊の形跡がまったくなかった(忠崇は奥州戦争にむかっていた)。
 神機隊は江戸城までもどってくると、総督府総帥参謀の大村に対峙し、
「がさネタで、無駄足をさせてやがって。わが神機隊は自分たちが集めた自費で参戦しているのだ。弁償しろ」
 と上から目線で、六千両を脅し取っている。

 毛利家祖の元就は、広島藩から戦国の雄になった武将だ。さらに、幕末・明治維新まで、芸州広島藩の浅野家(42万石)が、朝敵にもなった長州藩毛利家(36万石)よりも、つねに優位性を保っていた。
 そんな背景から大村は、神機隊の隊員・軍備搬送として江戸湾から平潟(茨城県)まで、長州藩の軍艦までも貸与させられている。

         *
 
 明治に入ると、元藩主の林忠崇は脱藩・反逆の罪で平民まで堕ちたうえ、極貧の流転つづきであった。実に、気の毒だ。
 昭和12年(1937年)に旧広島藩主・浅野長勲(ながこと)が死去すると、忠崇が最年長の『最後の元大名』となった。


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「スターダスト」を創立した元オーナー・木村忠さん(写真)は、大手の通信メーカーのエンジニアだった。38年前に、脱サラで、保育園勤務の妻・翠(みどり)さんとともに、山中湖にペンションを開業した。
 技術屋さんが接客業とは、わたしの想像を超える。

「ここまでの38年間で、一番苦しかったのはいつですか」
 おおかた、なれない経営の創設期だろう。
「一にも二にも、新型コロナのここ2年間です。創設期は若さから夫婦で懸命に働きました。子育てをしながら。それなりに口コミもあって、お客さんの確保ができて上向きました。しかし、コロナ禍は営業ができず、手の施しようがなかったからです」

 ただ、山梨は全県民らの力で、新型コロナの新規感染拡大が徹底して抑えられてきた。その成果が生まれた今、ことし10月から中学生の修学旅行が入りはじめましたと話す。

 妻の翠さんもかたわらで、
「山梨県は全国で3番目に、修学旅行の人気だと公表されています。やや灯りが見えてきた感じです、第六波のコロナ禍を想像すると、まだ心細い灯りですが」と語る。 

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  明日はどこに行ってみるかな。
「いまはちょうどダイヤモンド富士で、カメラマンが大勢きていますよ」
 カメラマンは小説の素材として興味がわかないしな。
「花が少ないフラワーパークも、情感があります。河口湖です」
 そこがいいな。
 さらなる候補先をいくつかあげてもらった。  
                    
               『つづく』     

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カントリーホテル「スターダスト」

〒401-0502 山梨県南都留郡山中湖村平野2977

電話番号0555-62-2200

 

晩秋の富士山麓で、想うままに撮って、わが心を重ねる ①

 富士山麓に行ってみよう、宿は山中湖村の「スターダスト」ときめた。日本人にとって、富士山は最も人気があるけれど、それだけに月並みな山でもある。
 文学、芸術の世界で、美しい対象ほど表現するのは実にむずかしいものだ。
 
 写真の腕前えが優れているとうぬぼれる者でも、月めくりカレンダー「富士山と桜と湖」の写真と比べれば、見劣りがする。
 かりに絵画の心得があったとしても、江戸時代の浮世絵師たちの独特の絵画技法には、逆立ちしてもかなわない。小説の筆力がある書き手でも、太宰治の名作「富嶽百景」にはおよばないだろう。

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 晩秋に3、4日くらい富士山麓で過ごしたところで、先人をまえにして、わたしは挫折感を味わうだけである。
 それがわかっていても、11月半ばの富士山は、四季を通して、白雪をかぶった形と姿が最も好いし、山容に魅せられてしまう。考えたあげくの果てに、やはり日本人の心の象徴・富士山だと、足をむけた。

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 富士五湖の湖畔で恋をする。ふたりはすねて、甘えて、心のなかで最愛の人だと信じ、澄んだ目で語り合う。やがて、恋の決意をかためていく。
 そんな燃える男女の情愛をえがく小説を理想としている。

 この景色なかに、恋が燃焼している男女はいないかな。そんな被写体をごく自然にもとめている自分を知る。作家の職業病なのかな。

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 山中湖の湖畔で、記念写真を撮るほほえましい親子をみつけた。三脚のそばで、少年が両親を撮る姿が妙に恰好よかった。かたや、少年に笑顔をむける両親の表情もこころよい。
「カメラマンのボクの写真を撮らせてください」
 両親が快諾してくれた。

 少年の写真を掲載すべきか。親子の姿か。ずいぶん迷ったけれど、男女が恋をして、家庭をもち、子どもが生まれ、家庭をきずいていく。
 このプロセスのほうが、私の作風にあっているかな。

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 家庭を築いて、子育てが終わり、老夫婦で旅に出る。そこにはともに人生を歩んできた年輪と、苦節を越えられた自信とが、いたわり歩く姿に凝縮されて醸(かも)し出されている。
「若いころは、よく夫婦喧嘩をしたわね」
「いまもね」
 そんな思い出ばなしも、ほどほどに楽しみ、語り合っているのだろう。
 
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 生きている今が最も大切だ。あすは何が起こるかわからない。よきドラマならばよいが......。
 この湖畔の村は、伊勢湾台風の大雨で、裏山から巨大な山津波が発生し、集落ごと湖水に流されてしまった。全村の生活が阿鼻叫喚(あびきょうかん)のなかで、すべて消えた。
 
 この伊勢湾台風は、昭和34(1959)年9月の潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心に、ほぼ全国に甚大な被害をもたらした。明治時代以降の台風災害で史上最悪の惨事となった

 愛知県・三重県の被害がとくに甚大であった。となり合う、ここ山梨県の富士山麓も例外ではなかったのだ。
 
 村中の幼子、少年・少女、若夫婦、働き盛りの農夫、余生を送る老人らが瞬時に、土石流にのまれていく。号泣しながら、救いを求める、むごたらしい悲惨な光景になったのだ。

 わたしが初受賞した文学賞は『千年杉』で、山津波が素材だった。それだけに、いま観光で復元された村にきて、災害当時の惨状をきくほどに胸が痛む。
 
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 富士山は活火山だ。もし噴火したら、どんな姿になるのだろうか。雲を噴煙に見立ててみた。

 宝永噴火は1707年だった。いまからさかのぼること300年前。幕末は150年まえの曽祖父の時代だ。そこから、たった2倍前にすぎない。地球年齢でみれば、まさに、きのう今日とおなじ。

 東京は関東ローム層(富士火山灰)の上に建つ大都市だ。
「富士山は300年周期です」
 そう教えてくれた。
 富士山噴火は射程なのだな。

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 火山噴火は真っ赤な溶岩がながれ出てくる。数千度の高温岩石に襲われる恐怖はどんなものだろう。
 わたしの作品には、山岳にからむ小説がことのほか多い。ただ、火山噴火はいちども素材として描いていない。
『善人が助かって、悪人が死ぬ』
 そんな善悪の法則など一切ない。運命か、宿命か。そこに凝縮されてしまう。そう考えると、自然災害は人間の努力と連動してこない。
 わたしには想像できない世界観(宗教観に近い)ゆえに、とても書けない分野だ。
 
 富士山爆発を予言した雑文で、金儲けする著述業者の心理はわからない。無責任な恐怖で人を惑わす、かれらが最も悪人かも知れない。
 
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 人間は強烈な記憶でも、歳月とともに忘却していく。

 わたしは日記をつけたことがない。不精な性格というわけでもないけれど、取材ノートや手帳でも、読み返すことなど、ほどんどない。約束事などは記憶で行動するし、執筆は脳裏にとどまっている範囲内で文章化してしまう。要するに、忘れたことは書かないだけだ。

 だから後日、見もしない日記など書いても意味がないと思っている。ただ、晩秋の単純な風景など、今冬になれば、まちがいなく忘れてしまう。

 最近のデジタル写真は撮影の時分、露出条件、場所すらもGPSで、こちらが依頼しなくとも詳細に記録されている。メモ代わりに、シャッターを押しておくか。

               『つづく』  
 
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『幕末ハーメルンの笛吹き官軍』 山澤直行

神機隊の東北出軍第一隊の名簿のなかに、「楽隊」と称した22名の隊員が登録されています。
「これは?なんで?」
 と思っていましたが、穂高健一ワールドの、小沢雅楽助『偽勅使事件』の記事を読むと、なんとなく解ったような気がしました。

 日本最古の軍歌とされる「宮さん宮さん」(別名:とんやれ節)
 この楽曲を演奏しながら歌って行軍する事で、周囲の住民に知らしめていたのでは?と推測します。

 住民にとって、彼方からくる何者か解らない軍隊、その軍隊が「我々は官軍で、朝敵を征伐しに来た♪」と歌いながら宣伝していたのでしょう。


 もしかすれば、小沢雅楽助たちの楽隊がハーメルンの笛吹き男のような状況をつくり、その楽曲を聞いた住民たちが、かれらの行軍に参加してきたのかもしれません。

            *

 この曲「宮さん宮さん」は、作詞が品川弥二郎、作曲が大村益次郎とされています。日本の軍化の第一号と言われますが、実際にだれの楽曲なのか、諸説はあります。
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① 京都の勤王芸者の中西君尾(なかにし きみお)が、品川弥二郎の歌詞に三味線で節をつけたもの。(写真・右)

 余談ですが、君尾は勤王志士が恋い焦がれた名妓です。錦の御旗は岩倉具視と玉松操の入れ知恵で、品川が君尾に贈ると言い、西陣の帯を購入した。「緞子(どんす)と大和錦(やまとにしき)どしたえ」という君尾の証言が残っている。

 彼女はさらに「西郷隆盛は、象のように肥満していた奈良屋のお虎という仲井が好きどしたえ」とも月翁に話している。象が豚となり、『西郷とブタ姫』として歌舞伎になった。ブタ姫は中村勘十郎が演じた。


 ② 慶応元(1865)年にもともと江戸市中で流行していた『流行トンヤレ節』を改題したもの。それが「宮さん宮さん」になった。
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 幕末研究者の故・綱淵謙錠(つなぶち けんじょう)氏の見解です。

この節を採用すれば、三年前に江戸で流行した歌を、明治に要人となった薩長人たちが自分たちの手柄にしたのだと思います。
 この歌詞のなかには「薩長土肥」とありますから、戊辰戦争後に明治政府がじぶんたちをより大きく見せるために、歌詞を都合の良く変えたのかもしれません。

"宮さん宮さん お馬の前に
ヒラヒラするのは 何じゃいな
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じや 知らないか"

 錦の御旗を掲げた公家を先頭にして行軍している事を説明しています。


"一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土"

一天万乗とは、中国由来の表現で、天子、天皇になります。


"伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
薩長土肥の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな"

「鳥羽伏見の戦いから、この戦争が始まった」の意味だと思います。
「葛葉の戦い」とは、鳥羽・伏見の戦いでの楠葉台場(くずはだいば)の戦いです。


"音に聞こえし 関東武士(さむらい)
どっちへ逃げたと 問うたれば
城も気概も 城も気概も
捨てて吾妻(あづま)へ 逃げたげな"

 旧幕府軍は弱腰で逃げ回っていたという表現ですね。
「〜たげな」これは方言ですかね? 今の広島でも使いますよね。


"国を追うのも 人を殺すも
誰も本意じゃ ないけれど
薩長土肥の 薩長土肥の
先手(さきて)に手向かい する故に"

ここは面白いですね、官軍下っ端の本音でしょうか?


"雨の降るような 雨の降るような
鉄砲の玉の 来る中に
命惜しまず 魁(さきがけ)するのも
皆お主の 為故じゃ"

ここで「お国の為に〜」の精神が出始めたと考えられます。

しかし、楽曲中に出てくる合いの手「トコトンヤレ トンヤレナ」
これは、「とことんやれ」。つまり、徹底的にやれって言う意味と思います。
歌に歴史ありですね。

「宮さん宮さん」
作詞・品川弥二郎 作曲・大村益次郎
歌・春日八郎
https://youtu.be/DVc-UNU48g0


《参照記事 穂高健一ワールド》

【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(上)


【幕末史の謎解明】西郷隆盛も真っ青?=「雅楽助はなに奴だ」(下)

神機隊東北出軍第一隊 

広島藩「大政奉還建白書」をやっと見つけた = 慶応3年10月6日、十五代将軍・徳川慶喜に提出。 土佐藩に新たな疑問か

 広島藩が提出した「大政奉還の建白書」がやっと見つかりました。約7年かかりました。原文どうりです。現代語訳にして、お使いください。


 芸藩主・松平安芸守(浅野茂長)が、辻将曹をして建白書を板倉伊賀守(勝静)に呈出せしむ。
『兵庫開港・防長処置の儀につきては、すでにご布告の趣もあり、いまさら建議すべきこともなけれども、再三言上せるがごとく、1日も早くご裁許あらんことを、切望の情に堪えず。
 熟(つらつ)ら天下の大勢を考えるに、甲是・乙非、物情背馳し、漸く済(すく)ふべからざる世態に逼迫せり、その原因はもとより一言・半句にて悉(つく)さるべきにあらねど、畢竟大義・名分・明ならずして、国体壊頽せるより起りたれば、いたずらに枝末の些務(さむ)にのみご注目ありて、大本にご反省なくば、木によりて魚を求るがごとく、何事も徒労に属して、時運ご挽回の期あるべからず。
 そもそも我が邦は万国に卓絶し、終古一姓にして、君臣の大義儼(げん)として存するが故、この自然の至理に基き、大義を明にし名分を正し、政柄を朝廷に帰し奉り、公平灑脱(しゃだつ)、天下群辟(ぐんへき)とともに、九重の上に於て万機をご献替あらせられ、いささかも矯勅の嫌(きらい)・壅塞の疑(うたすがい)なきよう、ご反省の実跡を立てられるべきなり。
 事ここに至りてなお旧轍を踏ませられては、内外の不都合を醸(かも)し、遂に滔天(とうてん)の禍害を引き起こして、烈祖のご遺志も泡滅せんかと、深く痛心の情に堪えず、なにとぞご熟慮ありて、ご決断あらんことを願ひ奉る』  徳川慶喜公伝四より

               ※「御」→「ご」もしくは「お」で読みやすくしています。


『補足』

① 後藤象二郎が同年十月三日に神山左多衛とともに板倉伊賀守(勝静)に謁し、山内容堂の建白書を呈出せり。

② 丁卯日記所載 → 板倉伊賀守が慶応三年十月十日付にて松平大蔵大輔に与ふる書簡に、「四日別紙写しの通り建白書差出」とあるのは不審である、と記す。「徳川慶喜公伝四より」。

 想像するに、明治30年代に、渋沢栄一の勧めで自伝に取り組んだ慶喜とすれば、①の山内容堂の名で、後藤象二郎が建白書を提出したと明確に覚えている。
 しかし、翌4日に寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛たち四人の家臣の連署で提出とは箇条書かつ具体的で、はなしができすぎていると考え、ヒアリングした歴史学者に②「不審である。」としたのだろう。


 薩長土肥による倒幕が成功した明治時代に入ってから、土佐藩関係者たちが「(倒幕をまったく考えていない)山内容堂による大政奉還の建白書」があまりに薄ぺらい内容だから、ねつ造したのかもしれない。

 大政奉還が箇条書かつ具体的な理由は、薩摩藩・家老の小松帯刀の口頭での建白だった。

 慶応4年2月、慶喜は上野寛永寺に謹慎した。水戸藩に移るまえに不都合が生じるので、日記はすべて焼却したと記している。よって、渋沢栄一立会いの下で、「丁卯日記」をみせられた慶喜の記憶による確認である。


             *

 このさき歴史家、幕末史愛好者たちが、慶喜の「不審である。」を掘り下げてみると、新発見があるかもしれない。坂本龍馬の「船中八策」が嘘だったように。

「四日別紙写しの通り建白書差出」の原本は国立国会図書館のアーカイブでみられます。
 

 

講演会「渋沢栄一と一橋家」= 衆議院選挙の1週間前で、経済が語りにくかった 

2021年10月24日、葛飾区立立石図書館(小池館長)で、『渋沢栄一と一橋家』について、2時間の講演会をおこなった。
 当初は7月24日に実施される予定だったが、新型コロナ感染が東京オリンピック前でうなぎ上りに急拡大しており、講演会が3か月間延期されたものだ。
 7月時点は「密」を避けるために、35人に絞り、申込者が多く、すぐに締め切ったもの。10月に入ると、参加人数の規制緩和がなされたけれど、
「7月でお断りの方々が多かったので、再募集すると不公平になりますから」
 と主催者は3か月前の申し込みのまま実施した。


 講演タイトルはNHK大河ドラマ「青天を衝け」に近い内容であり、7月の場合は同大河ドラマは、渋沢栄一が京都において一橋家の家臣になる頃の展開だろうし、京都の徳川慶喜の活躍にウエイトを置いた話を予定していた。

 しかし、10月24日は渋沢栄一がパリ万博に行き、資本主義とはなにか、フランス国債、そして自費で株券を買う体験、銀行の産業の役割を知るなど知ったうえで帰国して、静岡で合本会社(株式会社)を作り、大蔵省に引き抜かれるところだった。

 講演会の参加者に、大河ドラマ「青天を衝け」を見ている方に手を挙げてもらうと、大半が視聴していた。
 そこで渋沢が大蔵省に入り、銀行法を作る、外債で鉄道(新橋~横浜)を作る、数々の株式会社を立ち上げる。「日本の資本主義の父」とよばれる経済面を中心にシフトした。
 
 つまり、慶喜が一橋家として家定将軍の継承問題に巻き込まれる、禁門の変、長州戦争、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争という政治中心だったものが、急きょ、明治時代の「渋沢と資本主義」へとシフトさせた。
 
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 現在の経済問題は、GNPの伸び悩み、国民所得が韓国に抜かれた。国債が1100兆円ある。
 もし、現在、渋沢栄一がいれば、どんな手段を講じるか。
「歴史から学ぶ」
 10月31日は衆議院議員選挙があり、不用意な発言はできない。現代に置き換えてケース・スタディ―をおこなえば、アベノミクスの本質的な問題点にも言及する。その事例は自民党批判となり、特定の政権に誘導にもなりかねない。
 ここらは避けて通った。
 
 本来ならば、「廃藩置県」で、わが国は君主制から中央統一国家となり、全国260藩の全借金を明治政府が背負ったのだ。その負債額は天文学的ともいえる膨大なものだった。

 現在の国債発行残高1100兆円よりも、政府ははるかに精神的な負荷がかかっていたはずだ。

 徳川時代の武士は「金勘定(家計)」は女の役目だとして帳簿などわからない。戊辰戦争で勝って政府高官になっても、だれひとり資本主義の理論はわからない。大蔵省といえども、大久保利通や井上馨など、まったく理解できない。
 資本主義を理解しているのは、元幕臣の渋沢栄一くらいだった。

 「廃藩置県」で、武士階級がなくなり、全国の士族100万人が失業した。それをいかに食べさせるか、という当面のおおきな問題がある。

 渋沢は政府が抱え込んだ借金を外債などで対応し、武士階級の失業者には「秩禄処分」で6年間の延払いで切り抜けた。その「秩禄処分」は自由に売買させた。それが債券市場、会社の株を自由に帰る株式市場の発達につながった。
 つまり、政府の膨大な借金が資本主義を加速させた。日本版の産業革命で高度成長し、近代国家となり、貿易収支も黒字へと転換していった。
 
「政治家は歴史から学んでいない」とよく言われる。政治、戦争ばかりでなく、経済面でも途轍もない経験則がある。
 ここらは衆議院選挙のまえで、具体的に語れなかったのが残念だった。

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 一橋家の面にも触れた。徳川慶喜公をどう評価するか。「鳥羽伏見の戦いで、大坂城の慶喜将軍が真夜中に変装し、江戸に帰ってしまった。旧幕府軍は総崩れになり、大敗した」というのが通説だ。慶喜は無責任だ、幕府軍を統率する気がない。なりゆき任せで、場当たり的だ。臆病者だ。
 それが明治時代から人々にすりこまれている。おのずと評価の点数が低い。

 ただ、歴史の通説とは、おおむね為政者に都合よく恣意的に改ざんされたものが多い。現在も解明されていない。
 慶喜は家康の再来とまで言われた聡明な将軍である。大政奉還をなしたあと、慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いが勃発した。その3日後だった。同月6日、慶喜は大阪城から突如として脱出した。
「何のために帰還されたのか。真の目的はなにか」
 慶喜が怯懦(きょうだ・臆病者)といわれても、暗愚(あんぐ)と評価された。いささかも弁解しない。

 有栖川宮が大総督として東征してきたとき、これは薩長が事を構えて朝命を矯めて(ゆがめて)、德川幕府を無理に朝敵としたものだ。
 仮に旧幕府軍の慶喜が迎え撃てば、立場が変わった。勝てば官軍で、薩長側がかえって朝敵になっただろう。
 しかし、慶喜は江戸城の無血開城を命じ、上野寛永寺でひたすら一意恭順で朝命に従うと謹慎した。
「慶喜が真っ先に謹慎するとは、理解に苦しむところだ」
 渋沢栄一すれば、当時はパリに行っており、実態はわからず、永い間の不可解な疑問だった。
    
          *   

 慶喜は大正2年77歳まで生きた。
 15代将軍の慶喜が、このまま真実を語らなければ、王政復古の陰に押しやられた状態で、歴史の真実が永遠に消えてしまう。
 一橋家の元家臣の渋沢栄一が、德川慶喜に伝記の出版を勧めたのである。
「いまさら語ることもなかろう」
 慶喜は拒んだ。
 歳月が経っても、三条、岩倉、大久保、西郷の話題をむけても、慶喜はいつもそしらぬ態度をとっていた。

 渋沢は粘った。明治40年に、百年千年後においても、慶喜公が大決断で大政奉還し、江戸城を無血開城した。その経緯を書き遺すべきです、と渋沢は口説き落とした。
 慶喜は死んでから百年後まで世に出さないという条件で応じた。
 それが「徳川慶喜公伝」(国立国会図書館アーカイブで検索)、「昔夢会筆記(せきむかいひつき)」(平凡社4000円)の2冊である。
 大正4年に、「昔夢会筆記」がわずか25部の限定私版である。編集関係者だけに配られたものだ。
 
 現在では、徳川慶喜が登場する学術書、歴史小説、大河ドラマなどは、かならずこの2冊が底本になっている。

 葛飾区立立石図書館の講演会『渋沢栄一と一橋家』で、「昔夢会筆記」を持参した。関心を高めたようだ。

 私は講演会にはレジュメや教材的なものは作らない主義だ。今回は『一橋家(徳川慶喜)と渋沢栄一の略年表』を作成し、配布した。それというのも、慶喜77歳、渋沢は91歳で、当時としては長寿だが、活躍した時代が大幅にずれている。私の講演に双方の組み合った年表がないと、参加者の理解が難しいと判断したからである。

「感想」

① いままで思っていた慶喜公、渋沢像とちがった観点から聴けて参考になりました。

② 歴史を多方面からみる楽しさを知りました。

③ 大河ドラマと関連づけて講義してくれたので、次回以降の放送がいっそう楽しみです。

④ 渋沢栄一の人間性が良くわかりました。

⑤ 現代とと照らし合わせての考え、発想、これが大切とあらためて刺激を受けました。

⑥ 楽しくて眠くなる時間はなかったです。
 について、2時間の講演会をおこなった。それら書物も紹介した。

 

投票権は18歳から。若者よ、政治を変えられるのはあなたたちだ=国政選挙にいこうよ

最近は、若者が投票行動への静かなうねりをみせている。SNSで、若者どうしが呼びかけている。新たな時代の変化だ。
 外国ではアフガンでも、上海でも若者たちが、血をながしても投票権を得るために生命をかけているんだよ。

 日本だって女性が参政権・投票権を得るために、50余か国を相手に4年間も戦争し、「国破れて山河在り」の結果として、得られた貴重なものだよ。

 一票では、なにも変わらないなんて思わないで投票に行こう。ハロウィーンで渋谷に行くにしても、まずは期日前投票で選挙しておこうよ。
 
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ヤフコメなどSNSから、それら若者の確かな選挙行動の変化を知ることができる。私が気にとめた書き込みを列記してみた。

① 一人ぐらい投票してもしなくても何も変わらん。そうじゃないんだよ。投票率を上げることで、政府にプレッシャーをかけられるだ。


②、投票しないことは権利放棄です。皆がそうしてきたから、一部の人に好き勝手にされた。そうされては困るから、きちんと権利を行使して主権を守りましょう


③ 若者が選挙に行かないと、投票率の高い高齢者寄りの政治になってしまう。いまは、高齢者層に媚びた内容に偏っていると思う。
若年層は投票しないから、後回しだったり、負担を強いたりする政策になっている。ものすごく損していると思いますよ。


④ 自分の選んだ政党が選ばれなくても、投票率の高さをしめせれば、当選した政治家らにも「好き勝手してたら、次はやばいかも。若い世代は投票率が高いから大事にしないと」と今後にプレッシャーをかけられるよ。


⑤ 高校での政治教育を何十年もおざなりにした。学校内で模擬選挙をやろうよ。
政治を理解させる時間、討論する時間をカリキュラムに入れようよ。


⑥ 氷河期世代は、今こそ投票に行くべきです。政治家は私たち世代に眼をむけてくれなかった。
搾取され続けてきて20年以上収入も増えず。苦しんできたし、死ぬまで、いまのまま働けと言われつづけるのは辛すぎる。
 結婚、子育てを諦めてしまうまえに、とりあえず私たち世代の投票率をUPさせよう。


⑦ マスコミやメディア、ニュースには偏りがあると思う。出演者は当たり障りない言葉ばかり。テレビは政治を題材にとったドラマなど殆どやらないし、スポーツやら芸能ばかり。
政党の偏重報道になるのは問題だけど、若者の投票率が上がれば、私たちの生活にモロに影響がある政治関連が上がってきます。


⑧ 数日前に行った期日前投票は、会場が賑わってたので期待してます。


⑨ 夏の横浜市長選は、投票所まで行きました。炎天下の中、外で長蛇の列でした。


➉ 若者で全国で投票率を70%にすれば、政府や役人も若者を国民を怖がります。真の国民の為の政治に必ずなります。


⑪ ニューヨークタイムズは「一つの党が60年間も政権の座に居続ける事が、民主主義国家として他の先進国から奇異に映っている事を日本人は気づいているのか?」と書いてます。
 そのアメリカは2020年の投票率は66.7%です。国民所得が日本を追い抜いた韓国は66.5%の投票率でした。


⑫ 「一人の力では何も変えられられない」そうじゃないのです。若者の皆さん! 投票率を70%にしましょうよ。

 SNSを見ると、若者たちの投票率70%が合言葉のようです。そして、無党派層は80%に、という表現が多いようです。
 今回の衆議院選挙、来年の参議院選挙を通して、『若者投票率70%の合言葉』が市民権を得るほど、静かなブームを起こしています。

 若者の合言葉が社会の常識になれば、政治家たちの公約政策の実行度をチェックする、アフターフォローの厳しい眼が光る社会へと政治が進化していくでしょう。

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