賀正 : 徳川慶喜将軍の正式な官位はご存知ですか = これにはおどろいたな
明けましておめでとうございます
ここのところ、歴史小説の中編(400字詰め換算80枚)に没頭しており、年末の大掃除も、除夜の鐘も、さらに初詣もいけなかった。家庭内で、あれこれ用事を言いつけられるたびに、
「予定よりも遅筆になってしまった。ほんとうは大晦日を待たず、原稿を仕上げて入稿する予定だったんだ」
「毎年じゃないの。よその御主人は、年末いろいろ手伝ってくれているというのに」
「結婚を決めるまえに、相手を選ぶ目がなかったんだな。それは自業自得というもの。それに男運がないんだよ。あきらめが肝心だ」
そんな軽口をたたいている間にも、日本ペンクラブ(以下・PEN)の有志による文藝誌『川』の締切りが刻々と近づいてくる。
全員がプロ作家だし、編集長も元大物だ。週刊誌なみに締切りは厳守だ。次号に回されると、3~4か月先だ。
『商業誌は売れるものしか書かしてくれない。それは商品で、文藝とはいわない。むかしの文学同人誌・白樺派(志賀直哉・PEN3代目会長)のように本物の文学を目指そう』
作品の筆者は印税、原稿料はナシ。その上、一人50,000円を出す。
「自費出版かよ」
本は50冊/一人の割り振りだ。
「定価1,000円をつけているから、自分で手売りして、ちゃらにして。生活費は別の出版社で稼いで」
発起人(小中陽太郎・元PEN専務理事)のムシの良い話からスタートとした。
「どうせ、3号で、廃刊だ」
だれもがそう信じていたし、私もお付き合いだと思い、創刊号から仲間に入っていた。初期の合評会はいつも、これで最後のような打上会の雰囲気だった。酔いが回ったところで、世話人(高橋氏・純文作家)はやや呂律がまわらず、勢いから、
「次回も、だそうか」
また50,000円取られて書くのか。中村氏(早稲田大を除籍になり、なぜか皇室のいく大学卒)がそう声を張り上げながらも、今回の8号まで来ている。
「うれしい誤算だったよな。『川』に書きたいという希望者が増えてきているし。女性も含めて。この調子だと10号まで行くよ」
世話人がおどろくくらいだ。裏を返せば、プロ作家がいかに商業誌でなく、自費でも本物の文学を志向しているかだろう。
また、本気で書き、気合が入っているし、内容が充実しているから、定価1,000円は高すぎるという苦情もきていないようだ。
私はこんかい福地源一郎を取りあげた。明治初期の大物記者である。個人的には、かれの反骨精神が好きだ。
【タイトルは・ネタバレするので割愛】
書き出しは下記のとおりです。
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甲板の手すりに寄りかかるジャーナリストの福地(ふくち)源一郎は、すでに三十歳になっていた。旧幕臣だった福地は、日本人にしてはめずらしい洋装である。出港まえから、デッキの上で、かれは乗客の話題にも聞き耳を立てていた。
「薩長の役人たら、江戸(いまは東京・トウケイ)で、悪口を言いたい放題じゃない。口惜しいったら、ありゃしない」
和装の女性がそう語る。
「鳥羽伏見の戦いで、四日目に慶喜公が逃げて江戸に帰ってきたから、幕府軍が総崩れになった、と言っておる。だから、愚公(ぐこう)な将軍だと吹聴(ふいちょう)しておる」
「薩長の政治家のいうことはホラが多いし。おなじことを百回も聞かされたら、嘘もほんとうになるというし」
「そもそも、慶喜公が大政奉還で、なぜ二百六十年もつづいた政権なのに投げだしたのか。かわら版を読んでも、それがよくわからない」
紋付姿の男がはなす。
永代橋のたもとで、横浜への蒸気外輪客船が、朝九時の出航の銅鑼(どら)を鳴らした。腹にひびく音だった。船尾の日章旗が、十二月の風ではためいている。
東京と横浜をむすぶ航路を開設させたのは、徳川幕府で、慶応三(一八六七)年一〇月だった。稲川丸が初就航した。ことし(明治三年)は、あらたに横須賀製鉄所で建造された二五〇トン・四〇馬力の木造外輪船が加わったのだ。
上等席は金三分、並みは金二分だった。
「太政官の役人は威張(いば)りくさって、文字はもろくに読めやしないで。あんなのが天下を取ったなんて、世も末ね。慶喜(ケイキ)さん、なんで頑張れなかったのかしらね」
この夫婦は身なりからして豪商らしく、横浜の海外貿易で財産を成したのだろう。
両腕をくむ福地は、記事ネタの生の声として、頭のなかに書き込んでいた。最近は、これに類似した話題が多く耳に入ってくる。
「おおきな徳川幕府が倒れるなど、だれも考えておらなかった。まさか、だったな。十五代慶喜将軍は水戸老公の息子のなかで、一番頭がよくて、回転が速く、家康の再来(さいらい)だとか言われていたんだろう。いまでは幕府をつぶした愚か者だと、江戸っ子からも、わしらの幕府をつぶしたと、焼けくそで、悪口がでるようになった」
夫婦の話は出帆しても、つづいていた。
福地の耳は夫妻に、目は頭上の飛ぶ白いカモメを追う。中央の煙突から、黒い煙が青空に舞い上がり、十二月の潮風のなかで消えていく。ガタゴトと両輪の音がおおきくなった。船脚が早まってきた。
福地源一郎は旧幕臣だけに、自分にもやりきれなさがあった。
この福地はどんな人物なのか。文久元(一八六一)年に文久遣欧((ぶんきゅうけんおう)使節団の通訳として参加した。慶応元(一八六五)年にも、ふたたび幕府の使節団として欧州に出むた。かれはロンドン、パリで発行されている新聞にふかい興味をよせた。さらに西洋の演劇や文化にも関心をむけた。
慶応三年十月の大政奉還をきいた福地は、幕府の将来に見切りをつけ、ジャーナリストに転向した。そして、慶応四年閏四月、江戸が東京になる直前だった、『江湖新聞(こうこしんぶん)』を創刊した。翌月には上野戦争がおきている。
福地は明治新政府にたいして辛辣(しんらつ)な批判記事をつづけざまに掲載した。
『明治政府は良い政権だというが、徳川幕府が倒れて、ただ薩長を中心とした幕府が生まれただけだ』
これら記事が明治政府の怒りを買った。『江湖新聞』は発禁処分になり、福地は逮捕された。明治初の言論弾圧事件である。
参議の木戸孝允(たかよし)がとりなして、江湖新聞は廃刊にする条件で、福地は獄から放免となった。
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※ 福地源一郎の関連資料を読むさなか、徳川第15代慶喜将軍の官位がありました。とても珍しいので、紹介します。
『従一位太政大臣近衛大将 右馬寮御監淳和奨学両院別当 源氏長者征夷大将軍』
おぼえられますか。それ以前に読めるでしょうか。
「じゅういちい だじょうだいじん このえたいしょう うめのりょうぎょかんじゅんな しょうがくりょういんべっとう げんじのちょうじゃ せいいたいしょうぐん」
官位ご昇進の式で、朝廷から賜る将軍の宣下(せんげ)です。
慶喜は当時としては長寿です。大正2(1913)年11月22日で亡くなりました。戒名は御存じでしょうか。
大僧正から授与された立派な長い長い戒名だろうな、さぞかし。ところが慶喜は神式による葬祭なので戒名がないのです。
ちなみに、慶喜は上野戦争前に東叡山寛永寺で謹慎しました。しかし、死後は同寺の歴代将軍の区画墓地に入れてもらえません。なぜならば、神式で、仏教徒ではないからです。
すぐちかくの谷中墓地に、慶喜の墓が前方後円墳に模して埋葬されています。
「これだと、仏教のお寺に入れてくれないな」
と納得できます。
戊辰戦争を戦わなかった慶喜は『天皇(当時は幼帝)に弓を引かない』という「恭順謹慎」の態度で、江戸城を無血開城します。天皇陵のような前方後円墳の墓をみれば、慶喜が皇室の血だとわかります。
かれの実母は日本の皇族であり、織仁親王第12吉子女王(よしこじょおう)です。慶喜は七男です。
歴史は物語風に、勝者に都合よく造られています。このたびの福地源一郎を使った《川》の作品はそれがテーマになっています。
薩長史観の小説は、とかく慶喜がまるで天皇の敵、尊皇思想の西郷隆盛などが追討令を盾に「慶喜を殺す」と口にしたかのような描かれ方です。イギリスのパークス公使が「先の慶喜将軍の刑死は認めない。ナポレオン一世すら殺されなかった」と新政府軍に殺害を止めさせたとか。
慶喜は皇室の正統な血筋であり、静寛院・和宮とともに、はじめから殺害などできない高貴な存在なのです。
了