【寄稿・エッセイ】永遠の命とは 石川 通敬
最近テレビで考えさせられる番組を見た。サイボーグとして生きる科学者ピター・スコット・モーガンの話だ。サイボーグがどういうものか知らなかったので私は、妻に聞いた。すると彼女は、
「もう五十年もまえから知られている言葉なのに、ほんとに知らないの。あなたが野球も、サッカーも、相撲のことも知らないでよくビジネスマンが務まったものといつも思っていました」と。
これ以上口論しても仕方ないので、とりあえずネットで調べると、彼女の言うことが分かった。
石ノ森正太郎が1966年に作成した大ヒット作、SF漫画「サイボーグ〇〇9」で知られていたのだ。私が好む漫画は、サザエさんとかドラえもん,サトウサンペイなどで幅は狭い。
アニメにも、SF映画にも関心がない。だから飲み会等がこうした話題で盛り上がっている時は、自分はしゃべらず、静かに酒を飲んでいた。名誉のため付言すると、私が参加した飲み会でサイボーグ009が話題になったことは、一度もなかったと記憶している。
面白そうな話題なので、過去のことにとらわれず、今回はこのテーマでエッセイを書くと決めた。先ず参考にしたのは番組の録画だ。多分私みたいな人がかなりいると考えたのだろう、再生が始まってしばらくすると、
「サイボーグとは、人が機械と一体化して機能しているシステム」
との説明があった。
さらにより話を分かりやすくするための事例がいくつか紹介されている。例えば胃の役割を外付けの器機にさせるとか、排せつ物の処理だ。
しかし話はすぐわかり難くなった。主人公ピーターのアバター(分身)によるデモンストレーションだ。それは、自分の脳が考えることをAIに覚えさせ、自分の顔をスキャンして映像化された装置がアバターだ。しかもそれを彼の母国語(英語)ではなく日本語に翻訳して話させているから驚かされる。
もう少し知りたいとネットで調べると、先ず彼の著書の広告が見つかった。同書のカバーには、
「ネオヒューマン 究極の自由を得る未来 今とは違う自分になりたいと闘う全ての人へ」
と書いてある。
同氏は、・ロンドンの大学をでた人間工学の専門家で、コンサルタントとして欧米で活躍していた。ところが五〇歳を過ぎた二〇一七年に運動ニューロン疾患(ASL)(手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気)と診断され、余命二年と宣告を受けた。
彼はこれを「画期的研究の機会」と受け止め、自らを実験台として「肉体のサイボーグ化」「AIとの融合」をスタートさせたのだ。
(実は、その後四年を経て今も健在で、今回のテレビ出演を実現している)。
私は、彼の著書を早速読んでみた。しかし同書はピーター氏の自伝だったため、私が求める疑問に対する分かりやすい説明は一つもなかった。
私がまず知りたいと思ったのは、頭脳のサイボーグ化問題だった。それを刺激したのが、将棋の藤井さんだ。彼がAIで勉強しているとよく聞く。
私は、その彼の頭脳の一部がすでにサイボーグ状態となっているのではないかと考えた。昨年急逝された早稲田大学の高橋透教授は「人間の脳はコンピューターと融合しサイボーグ化せざるを得ない」
「ヒト化するAI対サイボーグ化する人」と言われたが、藤井棋士はその生き証人なのではないかと私は思うのだ。
次に知りたいと思った問題は、現在全世界の企業が血眼になっている自動車の自動運転だ。
人間は自分の頭脳・目・耳・手足の機能をまとめて自動車にゆだねようとしている。人間と機械が融合することをサイボーグと定義するのであれば、自動運転車は、人間から独立したロボットに過ぎない。しかしそう遠くない将来両者が、接点を見つけ一体となって機能するようになるのではないかと私は想像する。
最後に、私が知りたいと思ったのは、人の命とは何かだ。完璧なサイボーグ装置が完成すれば人間は理論的には、永遠に生きられるはずだ。
生身の肉体を全て機械に置き換え、自動車をメインテナンスするように耐用年数に応じてすべての部品を交換して行けば、そのサイボーグの命は永遠のハズだ。
しかし頭脳を新しいものに交換する時、
「今後は私の過去にとらわれず、新しい考えで人生を切り開きなさい」
と指示しときどうなるのだろうかという思いが頭をよぎった。もし新しい頭脳に自分の人生を独自に切り開き、永遠に生きるようにと指示すると、果たして自分の命は永遠だったと言えるのだろうかと、ふと考え込んでしまった。
了