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メディアの編集・論説者たちは、戦前において戦争を煽りつづけた歴史を忘れすぎている

 最近の私は、歴史小説の範囲を幕末ものから、次のステップで「明治維新から太平洋戦争まで」の近現代史へとシフトしてくる。
 そこで常に「なぜ、こんな大戦争をしたのか」という疑問を向けると、まいず国民が熱狂的に軍部への期待が高かった。国民をそのように仕掛けたのは当時の新聞である。
 
 政府は膨大な軍事費の捻出に苦しみ、戦争は避けたい。しかし、各新聞は政府は弱腰だといい、世論を戦争への煽りつづける。これでもか、これもかと。
 
 日露戦争でもしかりだ。政府が非戦への逃げ道をなくさせたのは、新聞記事である。事実上の戦争推進者だった。

 昭和に入ると、犬養毅が内閣総理大臣になった。かれは満州国を認めなかった。海軍の青年将校らが、首相官邸に押し入った。「話せばわかる」というが「問答無用」と射殺した。
 それら青年将校が裁判にかけられると、日本国中から、減刑の嘆願書が数万通も届いた。これを煽ったのは新聞である。
 満州国の独立が日本の傀儡政権で、国際連盟で総反発で、日本の主張をどの国も認めなかった。
 
 犬養毅が暗殺されなかったら、あるいはテロリスト・青年将校の減刑嘆願を煽らず、テロ批判に回っていたら、太平洋戦争という不幸な戦争はなかった可能性が高いはずだ。 

                ☆   

 戦後八十年記念特集がメディアで流れ始めている。
「謙虚に歴史的事実を認め、過去と誠実にむかいあうことである」
 そんなふうに他人ごとで書いている。あるいは報じている。
        
 明治から77年間にわたり我が国を侵略戦争へと煽りにあおったのが新聞だった。悲劇的な運命をつくった加担者だった。という国民への謝罪一つすらない。むしろ、『新聞は無関係でした、正義の味方でした』と美化しカムフラージュしている。

              *  

 新聞はいまや斜陽化している。それでも過去からのジャーナリズム精神のうえに胡坐をかいた高慢な意識と態度である。自分たちに不都合なことは書かない、逃げることが多すぎる。ろくに取材はしないで、広告(コマーシャル)をこれでもか、これでもか、と流しつづけている。スポンサーの不利なことは書かない。
 報道の品質の低下は甚だしい。まさに自滅への道をすすみはじめている。

 あえてメディアの危機を、私がヒステリックに叫ぶ気持ちはなどないが、「もはや必要としないテレビも新聞もこの世から消えていく」という賢者の言葉が真実味を帯びてくる。

 打つ手はないのか。ここはいちど「昭和初年から100年を洗いなおす」「戦争責任を問い直す」という姿勢と熱意がなければ、再生へ道はなく、奈落へと向かうだろう。というのも、政治家・軍人・皇室に諂(へつら)った往年の姿勢がいまなお現存していないか。むしろひどくなっていないか。内面的な悪魔の手がはたらいていないか。それを問い直すときである。

 民主主義の基本は、顔を民に向けておくことだ。それをもって報道の自由が保障されるのだ。

              *  

 YouTubeは、玉石混合である。玉(良いもの、価値のあるもの)と石(悪いもの、価値のないもの)が混じり合っている。しかし、市民ジャーナリズムが確実に制度を高めている。
 いまでは、大手メディアよりも、質の高い宝石(真実)が見つけられる可能性が高くなってきた。

 海岸の砂浜を歩くのと同じである。小粒の砂、蛎殻、海中で死んだ魚も打ちあげられている、海藻もある。とんでもないものも遠路から流れついている。それでも、輝く宝石すらもみつかることがあるのだ。
 庶民の目が肥えてきている。自分たちみずから真贋の見極めすらもできてきている。

 それはなにを意味とているか。メディアが情報を篩(ふるい)をかける、という役目が終焉に近づいてきているのだ。とりもなおさず、情報の独占・寡占でなくなったのだ。それを踏まえて

【近現代史】日中戦争から太平洋戦争へ。二等兵の草むらに隠れた20分間の用便が源流だった

......近衛文麿(お公家さん)・内閣総理大臣が就任して、一か月後に盧溝橋(ろこうきょう事件が起きます。
 北京に近い盧溝橋の橋のたもと些細な事件からはじまります。それはまるで落語にでも出てくるような、笑い話しです。二等兵が草むらに隠れた用便が発端です。
 戦争の発端とはこういうものでしょう。
 ここから日中戦争・太平洋戦争、そして広島・長崎の原子爆弾の投下、さらにソ連軍の宣戦布告と同時に侵攻へと歴史は折り重なっていきます。

             ☆

 大陸の水は汚水が混じっているから、兵士はぜったいに生水を飲むな。
 これは日清戦争において日本兵の戦死者が1417人で、これにたいして戦病死は1万1894人である。変死は177人。このように十人中九人は病死(伝染病と脚気)であった。
 日本人が中国大陸に渡り、戦いのさなかの銃弾・砲弾による死者はきわめて少人数であった。病死者は一ケタちがう。その原因が、喉がカラカラになった日本兵が細菌に汚染された生水を飲んだからである。

 昭和12(1937)年7月7日に、中国の北京近くで「盧溝橋事件」が起きます。深夜10時ごろ、日本軍が夜間訓練をおこなつていた。数発の銃声音(訓練の空砲かもしれない)が 鳴りひびいた。
 中隊長が点呼を取らせると、一人の二等兵がいない。ひとまず連隊本部に連絡した。その連隊は東京の陸軍省に一報を入れた。
 ところが現地では、点呼から20分のちに、新兵・二等兵が草むらから出てきたのである。
 小隊長・中隊長らは、用便で行方不明とはカッコ悪いと思ったのか。夜明けに連隊本部に報告した。
 このころ、牟田口(むたぐち)連隊長が中国軍による射殺だろう、と決め込んでいた。中国側は否定する。
 日清戦争以来、日本人はとかく上から目線で中国人をみくだしている。中国側の言い分は虚偽だとみなし、小攻撃を命じた。
 
 北京近くの日本陸軍らは、戦争したくてウズウズしている。「職業軍人は胸につける勲章と階級が欲しいのです。戦争がなければ、手柄は立てられず、特別昇格の栄誉にもありつけない。そこで高級軍人が考えることは戦争を仕掛けることである」
 張作霖(ちょうさくりん)爆破事件、石井莞爾(かんじ)の満州事変、その後も各地の戦場で、将兵らがあえて戦争を仕掛ける行動が多々あります。

 近衛文麿は陸軍の陰謀だろう、と疑っていたのです。近衛内閣の米内海軍大臣も、次官の山本五十六も、ほぼおなじで考えだったようです。
「事件を拡大させず、現地で解決に努力するように」
 近衛はそう指示を出しながらも、

 陸軍大臣・杉山元が、「新兵が20分の用便による騒ぎだ」とわかってながら、
「戦闘が拡大することになれば、在留邦人の1万2000人の安全は保証できない。それどころか、日本軍も全滅する恐れがある。大軍の中国軍をけん制する意味でも兵を増員してほしい」
と満洲の関東軍、朝鮮にいる軍隊からの増兵、それと日本内地から3個師団の増派、それにかかる予算・三億円を要求してきた。
 軍部の顔色ばかりを見ている近衛文麿は、内閣総理大臣になってから一カ月余りで、大戦争の端緒を切ったのです。

 日本の大軍が北京付近を征圧した。次なるは上海を攻撃した。さらに南京を攻略する。ここまで、わずか半年間だ。これには兵站(へいたん・兵糧支援)の作戦ができておらず、「現地調達せよ」という略奪・強奪をがみとめられている。

 日本軍がたどり着いた南京は四方が城壁で囲まれている。中国兵は軍服を脱ぎ捨て、市民に紛れ込んだ。食料不足の空腹、性の飢えた日本兵が、現地住民に襲いかかった。ここで南京大虐殺が起きた。

                       ☆

 蒋介石がすばやく重慶に逃げこんだ、ドイツが日中の和平に斡旋に乗りだしてきた。近衛首相がなんと「日本は蒋介石と交渉せず」と悪名高き政策を打ちだしたのだ。
 こうなると、中華民国の蒋介石と共産党の毛沢東も、政権と認めていない日本だから、交渉する政府がいない状態になってしまった。なんのための戦争か。どこまで戦えば、停戦・休戦になるのか。ただ、やみくもに双方が血を流す日々になった。
 こうして「泥沼・日中戦争」という表現でしか説明できない戦争になった。これが太平洋戦争の終結までエンドレスになった。

 戦争とはとてつもない戦費がかかる。地図を見ればわかるが広大な中国大陸を支配すれば、膨大な百万人にちかい日本兵の配置が恒常的になる。国家予算のなかで占める戦費はうなぎ上りとなった。勝算とか、休戦とか。まったくもって見通せず、戦費の垂れ流しである。
 そうなると、日本政府は予算がねん出できず、「国家総動員令」で、人と物は国費でなく、ほぼ無料でつかう。戦争の長期化で、様々な統制が強化される。物資は配給制にする・鉄・金属は供出させる。
 こうして日中戦争のしわ寄せが、国民の生活を苦しめる。国内では物資不足で、闇(やみ)取引を常態化させた。市民の法秩序が狂いだし、「政府批判や戦争反対の発言を聞いたら、すぐに報告するように」と政府が住民同士の密告を奨励する。日々の苦しい生活に、ちょっと不満をもらすと、憲兵や特高警察に告発されてしまう社会に陥ったのだ。

「近代史」戦後の日本人は、政府の都合の良いプロパガンダにのせられている

 戦前および戦後を通して、日本人がとかく政府のつごよいプロパガンダに乗せられているのはなぜだろうか。近現代史に無知で、政治・経済において無菌状態だからである。

 学校で小・中学でならう歴史は古代から明治時代まで。大正時代、昭和時代、太平洋戦争・戦後の世界はまったくもって教わっていない。
  私たち大人は、おおむね20世紀に生まれている。太平洋戦争の政治・経済・軍事などは、祖父母、あるいは両親から断片的に聞いている。

 ポツダム宣言、日本国憲法、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約ということばは知っている。ただ、学校の歴史として習っていない。
 政府のいうから概(おおむ)ね、正しいのだろう、と信じ込んでくれる国民性だ。為政者には、これがとても都合がよく、プロパガンダで利用しやすいのです。

「ポツダム宣言は13カ条の条件付き降伏である」にもかかわらず、戦後の政府は「ポツダム宣言は無条件降伏だった」と信じ込ませてきた。

「憲法はOHQの押し付けだ」というと、そうかな、と思ってしまう。


「天皇制を残したのはマッカーサー元帥だ」という。マッカーサーと天皇にツーショット写真から、そうかな、と思う。
 終戦後の日本の内閣は瓦解(がかい)したけれども、曲りなりにも内閣総理大臣が選出された。その苦労は並大抵ではない。国民は飢え死に寸前である。住まいは廃墟で建物がない。この復興にたいする政府予算はない。中国大陸や東南アジアから大勢の復員兵を受け入れる、と同時に、失業者の群れだ。
 それに対応するには、急激に政治システム・社会システムの変革がともなった。そこで考えたのが、「マッカーサーの命令だ」という金科玉条のプロパガンダである。

             ☆
 
 天皇ヒロヒトは第二次世界大戦の主役である。米軍の元帥の立場で、国体(天皇制)を残すなどと、決められるはずがない。アメリカ政府である。ところが、日本政府は、水戸黄門の印籠よろしく、「天皇を存続させたのはマッカーサーの絶大なる権力なり」と日本政府は演出したのである。アメリカには国王がいない。
 1945(昭和20年)年8月30日にマッカーサー連合国軍最高司令官が厚木にやってきた。9月17日頃に東京に行くまで、横浜市の山手にいた。それから10日のちに9月27日の昭和天皇と面談した。
 
 そんな短時間に独断で、天皇ヒロヒトの地位と身分は決められるはずがない。軍人の元帥一人の思惑でなく、米国政府の判断である。

 アメリカ政府が終戦前から、トルーマン内閣で7000万人の日本統治を考え抜いていた。天皇を残す。この裏には、ドイツ・ポツダムで、イギリスのチャーチル首相が絡んでいる。

 イギリス王室は「君臨すれども統治せず」である。日本の皇室は存在するものの政治権力は持っていない。戦争責任は日本政府(the Government of Japan)にして、その上に君臨する天皇・宮様は処分の対象にならず。よって、昭和天皇のみならず、皇室の宮家は軍人階級トップにいたが、だれひとり戦争責任を問われていない。
 イギリス流の発想である。

                ☆

「マッカーサーの命令だった」と現代までも、その神話が脈々と生きているのだ。

 明治以降の政治家は、隠す。ごまかす。政府の都合のよいプロパガンダで国民を戦争国家に導いてきた。「日本は神の国だ。神風が吹く。いちども負けたことはない」と。あらゆる儀式、場面で、玉砕するときも、「天皇陛下バンザイ」である。
 挙句の果てに、太平洋戦争で、日本列島の都市部は焼け野原になり廃墟になった。たいせつな人命も、財産も失った。
 
 その昭和天皇が昭和二十一年の元旦に、神聖にして犯すべからず、という立場から降りてきて、「人間宣言」された。
 そうなると「マッカーサー神話である」。マッカーサーは神の声である。絶対の権限を持っている、と国民を信じ込ませた。

 あらゆる政府の決め事が、マッカーサーの鶴の一声で決まったような演出である。日本人は、この世で、一番強いものだと思い込んでいた。

 アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、1951年4月11日ニダグラス極東軍司令官の職から解任しました。
 朝鮮戦争(1950-1953)の最中、トルーマン大統領は限定戦争の方針だった。ところがマッカーサーが中国本土への爆撃や台湾の国民党軍との連携を提案してきた。トルーマンはシビリアン・コントロール(文民統制)で、マッカーサーを解任させたのだ。

 これには日本人のすべてがおどろいた。
「トルーマンが最高司令長官を解任する権限を持っていた」
「いかなる軍人でも、民間選出の大統領の命令には逆らえない」

 戦前・戦中において日本の軍部の政治介入が強かった。このマッカーサーの解任によって、「国民が選んだ政府が、軍人よりも上にいる」と学んだ点は大きかった。
「マッカーサーの絶対・君臨」がほころびる。すると、かっての天皇の絶対的君臨の存在から、象徴天皇へと国民の意識が変わっていった。

あえて明治・大正・昭和の戦争を回顧する。「これが人間のすることか」

「もしも、戦争がなかったら、人間は幸せになれるのか」と自分に質問を向けてみると、反ってきたことばは「幸せとはなにか」という返ってきた。
 幸福とはなんだろう。わからないな。概念の用語だから、人それぞれである。
 
 日清戦争で、大陸で戦う日本兵士が戦場を駆けまわり、喉がカラカラに渇けば、差し出された「いっぱいの水」に至福の瞬間を感じるだろう。飲み干した時には、これぞ最高の幸せだろう。日本の河川は真水でも飲めるが、大陸の衛生管理は悪いし、糞尿が川や飲料水に混ざっている。細菌だらけた。幸せに感じた水が死の飲料水だ。

「水が美味しい」し、日本兵には警戒心がない。
 勇敢に戦う衛生状況が悪い。水が悪い。衛生管理が悪い。赤痢・コレラ、腸チフスなどの伝染病を発症し、兵士から兵士へと感染した。そして、日本陸軍の内にまん延した。、
戦死者よりも、病死がほとんどだった

 その兵士が敗戦とともに、わが家に帰り、歳月が経てば、ふだん日常生活のなかで、いっぱいの水道水がありがたい、と感じているないだろう。いちいち感動していたら、この世で生きていけない。

 最近は明治維新から太平洋戦争の終結まで、近代史に取り組んでいる。悲惨な記録写真をみる機会が多い。眼をそむけたくなるが、あえて自分を鼓舞し、「これが人間のやることか」と思いながら、直視している。

 日中戦争で観れば、日本軍の上海空爆で、悲惨な人体が飛び散っている。子どもが焼けたまま、放置されている。南京大虐殺では、動画で、中国の複数の民間人(兵士かも)が両手を挙げている。国際条約では捕虜の虐待は許されないにもかかわらず、縛って、「撃て」と日本の将校が声をかける。かれらを背後から銃殺する。
 さらに厳しい映像がある。穴の中に縛られた婦人が生きているのに、実際に目を開けて動いている。口を開けて叫んでいる。それを日本兵がスコップで土を次々とかけている。
「これが人間のやることか」と私は叫んでしまう。

 これら犠牲者は四万人とも、中国側は30万人ともいわれている。人の命は数ではない。人間の一生は一回だ。

 関東大震災で、遺体が焼け焦げている。自然災害でも、そんな情景を見ると、「神々がやることか、こんな無残なことを」と叫びたくもなる。
 
 

 

【孔雀船105号 詩】 二〇二四年 秋 尾世川正明

   ある日

まがったもので撫でる
とがったもので刺す
おのれの頭蓋骨のなかに暗い間隙を受け入れて
もうあと十万回
心臓の拍動をかぞえる
心臓000.png
   岩場

その岩陰では
お産をしない習わしだった
そこは地磁気がすこし強すぎて
頭が狂ってしまうし
時に蛇が卵を産んでいるので
お産には向いていないのだ

   丘陵地

広い丘陵地にはいくつかの詩が重なり合い
大地にトランポリンのような弾みと
輝きを与えている
青空からひかりとなってゆっくりと降ってくる
したたり落ちる乳と蜜

   樹

樹にも感情があるのだろうか
雨を浴びて気持ちがいいとか
激しい強い夏の陽射しは
葉のおもてに張ったかたい嫌悪の緑で
はじき返してしまいたいとか
風が渡る明るい朝には
樹液をしみ出して
かわいい虫たちに吸わせてやろうとか

   二月

二月が始まり立春もすぎて
雨水と呼ばれる季節のことである

それは紐を解いたひな人形の古い埃の匂いではない
開きかけた紅梅の甘い香りでもない

遠い距離を風に乗って漂ってきたちいさな粒子が
鼻粘膜につくと成長して手足を伸ばし
美しい姫になった

   旅

山間の谷で
老人が死んだとき
子供の周りにいたのは
一緒に育った
山羊と雌鶏と猟犬だけだった
老人を土に埋めてから幾日か
子供は山羊と雌鶏と猟犬をつれて
遠い星の赤い沙漠へと
旅立った

   言葉

言葉で作り出した目に見えないもののために
愛された人々の命を奪うものたちよ

地獄に落ちよ

言葉は愛された人々を飾る軽やかな衣裳となれ
愛された人々が踊る愉快な音楽となれ

二〇二四年 秋  (尾世川).pdf

【関連情報】
 孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

イラスト:Googleイラスト・フリーより

*各短詩間の行数、題の行数などは編集にお任せします。

【孔雀船105号 詩】 夜空の向こう側 脇川郁也

ふり返ると
紫色の空にいくつか星の光が見えた
見晴台から望む街の夜景を眺めながら
あのひとつひとつに
だれかの家庭があるんだねと
あなたはつぶやいた

なだらかな長い坂道を
ふたりで登った
いつの間にか息が上がっていて
そっとつないだ手を引き合って笑った

明かりの数だけある家庭で
暖められる笑い声もあるけれど
時がたつと
あきらかな月の光が
いつの間にか雲にかすんでしまう

知らぬ間に闇が降りてきて
世界を覆ってしまうことがある
どれだけ手を伸ばしてみても
届かないもどかしさに
秋の風はいつも吹き来るのだ

虫が鳴いているね
あれはね、羽を擦り合わせているんだ
恋する人を呼んでいるんだ
でもそれが
哀しげに聞こえるのはなぜだろう

ワイン.jpg予約したのは
夜景がきれいなレストラン
すこし気取って
ぼくらはワイングラスを傾ける
弾けるようなグラスの音に
見つめ合って笑顔を交わした

夜空の片隅に星が流れた
遠く音もなく
光を点滅させたジェット機が
飛んで行く
ポケットの膨らみは君に贈るプレゼント
どこにも月は見えなかった

夜空の向こう側(脇川.pdf


【関連情報】
 孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738
  メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

イラスト:Googleイラスト・フリーより

遠い昔から繋がる・・・ 吉武一宏

 日本人がいつからこの大地に現れたのか、正確には分かっていない。ただ、1970年に沖縄県の港川で約2万2千年前の旧石器時代の人骨が発掘された。

 その人骨(港川人)からDNA解析によって、縄文人や弥生人や現在の日本人の直接の祖先ではないことが分かった。港川人は縄文人と共通の祖先から枝分かれしたと考えられている。残念ながら港川人は子孫を残せず途絶えたとみられている。旧石器時代は約3万8千年前から1万6千年前までの約2万2千年間である。

吉武②.jpg  その後、日本では縄文時代へと移っていく。
 日本各地によって違っているが、縄文時代は約1万3千年前から3200年前までの約1万年間続いた。その後に弥生時代となる。縄文人から弥生人、そして現在の日本人へと続いていった。縄文人と弥生人の顔・形が違うのは狩猟民族が農耕民族となり、あごの発達等が変化した結果である。くわえて中国や南方の民族と新たな結合があったからであると考えられている。ともかくも、諸説あるが、日本人は縄文時代から約1万3千年も脈々と繋がって現在に至っているのである。


 2024(令和6)年5月29日、格安九州ツアーで吉野ケ里歴史公園を訪れた。

 吉野ケ里遺跡は佐賀県神崎郡(かんざきぐん)吉野ヶ里町と神崎市にまたがる吉野ケ里丘陵にある遺跡で、国の特別史跡に指定されている。およそ117ヘクタール(1,170,000m2)にわたる弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀を巡らせた集落)跡である。1986(昭和61)年からの発掘調査によって発掘され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園となっていた。

 佐賀県知事が「邪馬台国」だと宣伝し話題になった遺跡である。私は「広い野原を観光名所として作られた公園程度だろう」と、思いながら入園した。


 田手川に架かる天の浮橋を渡り、そのまま道に沿って奥に進む。古い薄汚れた木柵が目に飛び込んできた。左右に物見櫓のような建物が建っていた。見た瞬間は観光客を集める舞台装置のようなものだと軽く思った。中に入る。広い、学校のグランドの数倍もある広さだった。その中に茅葺き屋根の家が数軒建っていた。
 
 ガイドの指示に従って、北墳丘墓まで進む。そこは吉野ケ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓だった。14基の本物の甕棺が展示されていた。甕棺と聞き、なんとなく気味が悪いと思ったが、お金を払ったので一応見ることにした。
 私はせこい、性格である。

吉武 九.jpg
 吉野ケ里遺跡は紀元前400年から紀元300年の700年間に渡って存在したといわれている。長い、実に長い期間だ。江戸時代の2倍強である。徳川は15代で終わった。「何人の王様が君臨していたのだろう」と、墳墓を観ながら考えてみた。
 単純計算でいけば、40人弱である。当時は平均寿命も低かっただろうから、多分50人は王様として君臨していたのではないかと勝手に推測した。では、「なぜ、これほどにも長くこの地は存続できたのだろうか」と、疑問が沸いた。同時に、私は「2000年前の人々はどんな暮らしをしていたのだろうか」と、二つ目の疑問が浮かんだ。

 時間の都合で北墳丘墓から、駐車場に向かって戻る。道はコンクリートで固められたいた。
 しかしながら、左右の道端は生い茂る野草で溢れていた。春にもかかわらず、暑い日差しが身を包み、野草の柔らかい香りが漂っていた。墳丘墓で感じた重苦しさが消えて行くのを感じた。

 見学する時間はあまりないが、二つの疑問の答えを見つけるために南内郭に建てられた住居等を急ぎ足で見て回ることにした。
 吉野ケ里遺跡には何人の人々が暮らしていたか、当然ながら諸説あり正確には分からない。一説には1,200人程度が暮らし、吉野ケ里を中心としたクニ全体では5,400人ほどが暮らしていたと言われている。
 単に、人々が集まった集落ではない。国の形ができていたのだろう。支配者層と被支配者層に分かれていたことは、埋葬の違いで分かっている。ここに住んでいた人々の生活模様が少しは分かるように、南内郭には数々の四角い竪穴住居が並んでいた。竪穴住居とは地面を掘り下げて床面を構築した建物である。

 寒さを防ぐためだろうか、家の真ん中には丸い囲炉裏のような穴があった。王様の家は他の家より少し豪華であった。隣の建物は「王の女の家」と書かれた説明看板が設置されていた。王と王女は別々に住んでいたのだ。私は、奈良時代から平安時代初期の風習だった「妻問い婚」だったのではと想像した。

吉武 ③.jpg
「妻問い婚」とは夫が夜に妻のもとに通い、朝起きると自分の家に帰る風習である。弥生時代の風習が奈良時代まで続いていたのだろう。
 近くには養蚕の家があり、機織りの家があった。支配者層は絹の衣服を身にまとっていたのだ。現在と同じだ。裕福な支配者は絹を身に着け、支配される側は一生懸命働きながら麻の衣服を着ていたのである。
 支配者が生まれたのは、狩猟から稲作に生活様式が変わったためである。狩猟時代は獲物を求めて転々とあちこちを巡る。稲作になれば、一か所にとどまり生活圏を作っていく。知恵があり、体力があるものが広い大地を我が物とし、労働者を使って一層権力を持つようになったのではと説明看板を読みながら私は思った。


 面白いことに「煮炊き屋」なる建物があった。
 説明看板を読む前は、ここで暮らす人たちが集まる食堂だと思った。ところが違った。支配者層の王様や大人(たいじん)のための台所なのである。
 それにしても私は知恵の回らない男であった。なぜならば、弥生時代には通貨などないのだ。全て、物々交換の時代である。お店などあるはずがない。なんと、トンマナ野郎だろうと自ら笑ってしまった。

 近くに面白い家を見つけた。
 私が大好きな「酒造りの家」である。これも王様や大人のためであろう。説明文には新米を蒸してと書かれている。どのようにして、お酒を造っていたのか調べてみた。
 なんと、九州・近畿では加熱した穀物を口でよく噛み、唾液に含まれる酵素(ジアスターゼ)で糖化して野生の酵母によって発酵させる「口噛み」といわれる方法で、お酒を作っていたのだ。どんな人が考え出したのだろうと好奇心が沸いたが、たまたまお米を噛んでいるうちにお酒ができたのだろうという結論に達した。

 とはいえ、いつの時代にも飲んべーはいるものである。

 その他にも、南内郭には右の絵のように兵士の詰め所や集会の館や王の住まいとは別に支配者層の住まいが建てられていた。更には、食糧を保全する高床倉庫も建っていた。
 南内郭は堀と木柵で囲まれ、物見櫓が3ヶ所と堅固に守られていた。稲作が始まり、支配者層と支配される層が生まれ、クニができた。結果、稲作のための水や蓄えられた食物を得ようとして戦いが始まったのではないかと思う。
 そのために、兵士を作り、堀を掘り、木柵を建てるといった面倒なことが起きたのだろう。いつの世も人間とは愚かな動物であることかと情けなくなった。

吉武 7.jpg
 700年も続いたと思われる吉野ケ里が平和であったわけではない。
 吉野ケ里では丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋められていた。戦いで亡くなった人もいるが、腹部に10本の矢を撃ち込まれた人もある。何らかの罰で処刑されたのでは考えられている。また、当時は乳幼児の死亡率が高く、小さな甕棺もあるそうだ。決して、幸せな人々だけが暮らしていたわけではないようだ。

 人の競争意識は今も昔も変わらないのではないだろうか。

吉武 十.jpg 上の写真をみてほしい。素敵な空間ではないか。
 暖かな春の陽を浴びながら、私は目を閉じてみた。すると、裸の子供たちがどんな遊びをしているかわからないが、大きな声で笑いながら飛び跳ね、駆け回っている。その横では麻の寸胴(ずんどう)な服を着て帯を締めた人々が、楽しげに語らい生き生きと生活をしている姿が浮かんできた。

 現代のように便利な機械や道具があるわけではない。全て、人の力で作られた町だ。みんな、ここで生まれ育って、そして死んでいく。私は思った。間違いなく、2000年前ここに人々は住み、短い寿命の中で一生懸命生きていたのだと。当時の人たちの正確な寿命は分からないが、現在よりは短かったことは間違いない。

 親から子に、子から孫へとつないで行った。

 現代とも変わらない、歯を食いしばって耐えなくてはいけない辛いことや、涙も枯れてしまうほどの悲しいこともあっただろう。同時に、天にも昇るような嬉しいこともあったのではないだろうか。

 これは私の推測だが、最も嬉しいことは生まれた我が子が無事成長し、新たな家族を迎えた姿を見ることではなかっただろうか。なぜなら、当時の乳幼児の生存率は非常に低く、また成長しても戦などで死んでしまうことも多々あったのではと推測するからである。
「なぜ、700年もの長い時間クニが続いたのか」
「どんな暮らしをしていたのか」
 二つの疑問に対する答えは見つからなかった。更に、新たな疑問が生じた。「ここに住んでいた人たちはクニが滅びたのちにどこへ行ったのだろうか」である。これも、答えは見つからない。しかしながら、私は人々はクニの名前が変わり、支配者が変わっても命を繋ぎ続けてきたと思っている。

 DNA鑑定によって日本人は縄文人から現代人へと繋がっている。人は必ず死を迎える。しかしながら、繋ぐことができれば、新しい世界が生まれる。現在は一瞬にして人々を滅ぼしてしまう兵器もある。己の欲望のため人々を殺してはならない。生きている人にとって最も大切なことは次の時代へとバトンタッチすることだと私は思っている。
 自らを決して消してはならない。次の世代へと繋ぐ、それこそが、今生きている人の務めであり、一万年以上に亘って続けてくれた祖先への感謝となるのではなかろうか。

                                 2025年2月5日

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 吉武一宏さんは、朝日カルチャー千葉の「フォト・エッセイ」の受講生です。

太平洋戦争はほんとうに負けてよかったな

 新たらしいコーナーをつくりました。時事問題や、人生観、歴史観などを綴っていきます。一回目はなにを書こうかな。きょうはトランプ大統領の就任だ。

  映像を観れば、韓国の現職の大統領が逮捕されたあと、賛否に分かれた抗議の人とか、官憲とか、それぞれがすごいエネルギーで争っている。
 かれらは明治時代のころから太平洋戦争まで被植民地を経験し、日本の敗戦のあと平和とはならず、おなじ民族が南北に分かれてし烈な戦争をしてきた。その分断がいまなおつづく。
 映像でみると、一人ひとりが歴史上に生きているな、という感じだ。かれらは地位や立場にかかわらず、自分で考え、発信し、そして自身の意志ではげしく行動している。

 この点では、為政者や組織のトップに従順な日本人と本質がちがうな、とおもう。

 近現代史の歴史小説を書いていると、日本人の本質を身近に感じる。申すまでもなく、明治から太平洋戦争まで、戦火の中で兵士らは個性を殺し、将兵から二等兵まで、一丸となって敵陣に突っ込んで死ぬ。それが玉砕といい、当然なのだ。「ドイツ人は敵の殺し方を教える、日本人は死に方を教える」。ここにも民族性が出ていたようだ。

 下士官から「上官命令は天皇の命令だ」「これらの捕虜を殺せ」と命じられたら、「国際法違反じゃないの」と知っていても、己は銃の引き金を引く。

 資料を見るかぎり、戦地の兵士らはつねに没個性で行動している。戦争でなくても、日本人はとかく画一的 同質的、類型的な体質である。
 日本は単一民族だし、日本人の本質は何だろう。このごろ外国人の日本居留は多いけれど、この際はそれを省いての話しである。
 
                   *

 いまの韓国、および北朝鮮を報道でみていると、戦前の日本の思想・文化・価値観の陰をいくらか感じるも、本質は違うなと思う。かれらの資質は大陸民族である。
 ここで日本人を見てみよう。細長い日本列島で、7000の島があり、縄文時代から1万6000年間の「日本文明」をもって現代におよぶ。日本人とはおおむね紋切り型 没個性、同一行動をとる。

 世界の国々の社会科教科書において、世界八大文明のひとつとして「日本文明」が記載されている。その特徴は現代の日本人の特質、特性にかなり似通っている。いくつか列記してみると、

① 日本の縄文土器は世界最古級の土器文化をもっていた。縄目模様のうつくしい装飾が施されている。実用性だけでなく、芸術性や精神的な意義をもつものであった」

② 伊豆諸島や小笠原諸島と本州との間でも交易がおこなわれていた。縄文時代の航海術はたんなる移動手段ではなく、文化の発展と交流の基盤であった。

③ ヒスイ、琥珀などを素材にした装飾品が多くみつかっている。とくにヒスイ製の勾玉(まがたま)は、交易を通じて広範囲に広まっていた。独自の高度な技術と知識をもっていた。

④ 植物の繊維をつかった織物が作られており、布を染める技術ももっていた。

⑤ 地面を掘り下げた竪穴住居が一般的で、断熱効果があり、夏は涼しく冬は暖かい構造である。

⑥ 弓矢、罠や網、魚釣りの漁労がおこわれ、それら獲物を燻製(くんせい)にしたり、干物にしたり、保存・加工技術も工夫も高度であった。さらに、植物は加工し、毒抜きして保存食にしていた。

               *
 
 人間の脳みそは一万年前と現代とさして違わない。考古学がもっと進歩すれば、微分・積分をつかった建造物や土木なども発見される可能性がある。
 ここで考えられるのは、なぜ、災害列島で1万6000年間も一つ民族が滅亡せず生きつづけてきたのだろうか、という素朴な疑問である。くる年も、くる年も、春・夏・秋・冬といずれも大災害がひんぱんに起こる。人間ならば、きっと部族間の激しい戦いもあったであろう。それなのに、日本人という単一民族が廃れていない。世界でも最長の民族である。

 青森県三内丸山遺跡では、巨大な柱を使用した建物跡が発見されている。共同の儀式や集会に使われていたらしい。そこにヒントを見いだせる。「災害時には集団で助け合う。平素からその心構えでいる」。村社会で共同で暮らすからには、画一的 同質的、一律的な没個性で共同の行動をする。その統一精神と叡智が必要である。滅亡しなかった知恵は同一性だろう。
 
              *

 ところが、いまから80年前の太平洋戦争で「一億総玉砕」と日本民族の滅亡を戦争に利用しようとした軍人の総理大臣がいた。かれが悪いのではない。幼いころから「皇国史観」に染まっていたからだ。
 日本人ならば、全員が一つ枕で死ねると本気で考えていたのだ。戦争が起きても、海外逃亡した日本人は聞かない。
 
 ところで、現代でも日本の社会科教育で、「世界八大文明」の呼称をおしえない。いまだに陳腐な世界四大文明だ。それというのも、皇国史観で、創造神・イザナギとイザナミが国を生み、初代天皇・神武天皇が即位したという。この史観と整合性が取れないからだろう。
 というのも、皇紀元年を西暦にすれば紀元前660年である。ここから万世一系で日本の歴史が歩まれてきた、と岩倉具視あたりが言いだした。それが明治のプロパガンダ「天皇は神聖にして犯すべからず」で、国家統制につかわれた。

 1万6000年間のうち、天皇支配はわずか2700年じゃないか。そこは教えない。

               *

 皇国史観の下で、日清・日露戦争から、第一次世界大戦、シベリア出兵とつづく。むろん、大本営の軍人は死なない。死ぬのは戦場の兵卒だ。
 2・26事件は昭和維新を掲げたクーデターである。1500人の兵卒はほとんどが農民の徴兵だ。陸士出の上官が、官邸に突入し、首相や元大臣を殺せといわれたら、兵卒は従順に暗殺する。「こんなことはやってはいけないよ」と一人も口にしない。命令に従うのみだ。

 軍人政治は、なんでも軍事が最優先だと思っている。おおむねギリギリのところで国民の生命や安全など考えていない。

 2・26事件のあと泥沼の日中戦争・太平洋戦争へとつづく。1941年7月、アメリカが日本の東南アジアへの侵攻で、石油の輸出を停止した。日本の軍人はさあ大変だ。これでアメリカが攻めてきたらどうする。当時は、石油備蓄量で世界最大とも言われていた日本だ。まだ、1年半はあるぞ。それを使って日本のために、国家・国民のために何をするべきか。そんな思慮は働かなかった。海軍軍人として勇ましさを見せてやる。
「最初の半年から一年は暴れられるが、それ以上は保証できない」。じゃあ、その先はどうするの。自分の尻ぬぐいもできない、戦争のやめ方も知らずして、戦争などやるなよな。それだけの石油があれば、国民生活にまわして3年も持たせれば、その間の米英蘭との外交交渉で石油解禁も得られただろうに。上から下まで、これが言えないのが日本人の特性だ。

 真珠湾攻撃は戦術的には成功したものの、戦略的にはアメリカを徹底的に怒らせる結果となった。暗号は解読されており、本人が乗った飛行機は撃ち落されてしまう。外交文書も軍事司令も敵に筒抜けだから、巨大な軍艦や空母は撃沈されるし、飛行機は追撃される。制海権・制空権は奪われて、B29は思うまま、東京・大阪・名古屋・神戸に焼夷弾を落とす。「まだ降伏しないの」とビラを撒いて、13都市の爆撃を予告する。そして日々に、焼夷弾で毎日何万人と焼死する。

 それでも軍人政治家は戦争のやめ方がわからないらしい。頼みの綱はソ連だけしかない。停戦の仲介を頼む。ソ連にはロシア革命で新しい国家ができたとき、シベリア出兵の日本兵士たちが、七年間にわたって残虐な殺戮をおこなったという怨みがある。(現っ代でもロシアの歴史教科書に載っている)。連合国との橋渡しの仲介などするはずがない。

 日本列島が焦土の焼け野原になっているのに、「国体を守る」と、そんな訳のわからないことを言う。このままでは1万6000年間の「日本文明」をもった日本民族が消滅する危機に及んでも。

 在モスクワの日本大使が、無理難題をつきつけてくる日本の外務省に、電報で、ひとりの国体(天皇)をまもり七千万の日本人を犠牲にするのか、と打電しているらしい。
 このままというべきか為すすべもなく、挙句の果てには外圧(原爆・空爆・ソ連参戦)で終止符を打つべきときに及んだ。
 昭和天皇はさすがに見かねたのだろう、日本民族の滅亡は避けたい、ポツダム宣言を受理して戦争は終わらせたい、と最後の決断を下したのだ。

               *

 私には小学二、三年のころから島っ子として記憶が残っている。通学のさなかに原爆の話、GHQのマッカーサー元帥の話題が多かった。そのなかでも強く心に残っているのは、友人に「太平洋戦争は負けてよかったんだよ」と語っていた幼い自分の姿だ。
「二等兵で入隊したら、毎日、ビンタ(平手打ち)だって。軍人にはなりたくないものな。日本が負けてくれてよかった」
 私は二等兵、一等兵の立場でいつも自分を見ていた。これはいまでも変わっていない。
 

  注)世界四大文明は、紀元前3000年から紀元前2000年にかけて生まれたメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の4つの文明を「世界四大文明」としている。日本の考古学者、江上波夫が携わった1952年発行の山川出版社の教科書『再訂世界史』だとされている。戦後から7年目で、まだまだ皇国史観の歴史が色濃く残っていたころである。
 ちなみに、欧米やアジアでも、世界四大文明は通じないらしい。

穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ③ 窮地に立つ女子・音大生の逆転の発想

 ③の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。
 

『まえがき』
 主人公の白根愛紗美(あさみ)は、21歳の東京の音大生です。彼女は望まずして大学恩師の教授の紹介で、瀬戸内の島の中学校に教育実習にやってきました。
 赴任してみると、正式な音楽科教師(女性)は、素行の悪い生徒たちと折り合いが悪く、妊娠を理由に退職してしまった。後任がいない。
 校長に口説かれた愛紗美は、大学実習生なのに、なんと音楽の代用教員扱いとなり、そのうえ、同校が目指す音楽コンクールの検体か県大会の指導(顧問)を引き受けさせられます。
 音楽合唱部たちの初顔合わせの日に、いきなり合唱部員がゼロになります。やり場のない気持ち彼女の心象を描いたばめんです。


『作品・本文より抜粋』

 白根愛紗美(あさみ)が、豊町中学(広島県)の男女混声合唱団の顧問(外部指導者)として、教育委員会から認可された。いまのところ部員は六人だと聞かされていた。
 めざす合唱コンクール大会の募集要項によると、中学生の部は最低参加人数が六人であった。
「大会の当時に欠員が一人でも出たら、出場できない」
 それを考えると、彼女はミラノの国際コンクールを犠牲にし、八月まで顧問を引き受けたのは迂闊だった。赤石校長に断る策はないかしら。妙案はなかった。
 最初の合唱部員との顔合わせは、金曜日の放課後で音楽教室だった。集まってきたのはわずか三人である。ほかの三人はすでに菊池先生に退部を届けて認められている、という。
「えっ。そうなの」「もうずっと前よね」
(三人だけでは県大会の出場ができない...)
「きょうは三人でレッスンして、次は飛雄(とびお)君も入ってもらいましょうか。先生から話して」 飛雄は中二の悪ガキの男子生徒である。
「だったら、わたし部活をやめます」「わたしも」「ひとりなんて、いやです。合唱にならないし」
 三人は背中をみせて立ち去っていく。呼び止めて話し合う余裕もなかった。怒るよりも、呆れてしまった。むずかしい年頃だけに、三人を呼び戻すのはむずかしいし、ムダな労力になるとおもった。
 愛紗美はグランドピアノの椅子に腰かけた。顧問になった早々に全員を失くした今、気持ちの置き場がなかった。県予選への意欲とやる気の魂を奪われてしまい、一体なにからはじめたらよいのか、まったくわからなかった。
――校長先生。部員がゼロになりました。当初通り、六月十日をもって豊町中学の教育実習を終了させていただきます。
 それは情けない話し。彼女は放心というか、思慮が停止した心境だった。このまま独りいても虚しいし、と教室を出た。彼女は一階への階段を下りはじめた。踊り場で、すれ違う浅間輝(ひかる)に呼び止められた。
「この間の、僕の授業の感想を聞かせてほしいんだ。忌憚(きたん)のない意見を」
「ここで?」
「いや。どこか別の場所で。どうだろう、あしたは土曜休みだから、ぼくが御手洗(みたらい)の史跡を案内しながら、白根先生の感想とか意見とかをきかせてもらう、ということで」
「いいんですか。わたしの評価は厳しいですよ。遠慮しない性格ですから」
 彼女は、胸にある部員ゼロの鬱屈を吐きだす気持ちだった。
「厳しい方がありがたい。僕にとって勉強になるし、今後の参考にしたいから」
「年下の大学四年生が、歴史も知らないで、なにを生意気な、とおもうはずですよ。聞かない方がいいです」
「そんなことはおもわないよ。教育実習の同期だと、ふだんそうおもっている」
(こんな日に、素直にうけるのも癪(しゃく)だわ)
「七卿館で、朝の十時に落ち合うことで」
「午前中は困ります。いろいろ用が立て込んでいますから、午後一時なら都合をつけられます」
 時間ずらしも、単なる気晴らしであった。彼女は踊り場から階段を降りはじめたとき、ちらっとふり向いて、上っていく彼の姿をみた。
(なによ。バツイチの三十男が、デートのひとつも声がけしないくせに。自分の頼みのときだけじゃない。憂さ晴らしをしてあげるから)
 彼女のモヤモヤ感は尽きなかった。

            ☆
 
 この先、白根愛紗美(あさみ)が「逆転の発想」で、中二の悪ガキの男子生徒・飛雄の力を借ります。明るい方向にすすみます。
 先日、元中学校校長の方とお会いし、私は「九十二年の空白」の意見をもらいました。
「この小説に描かれた、逆転の発想は取材ですか。実にリアルです」
 元校長は違和感を感じなかったようだ。
「いいえ。私の想像です。これしか解決はないかな、と考えました」
 と前置きし、推理小説の執筆の手法で、難問にたいして解決の方法は何かないか、とかんがえつづけて、ここにたどり着いたのです、と応えさせてもらった。
「現実に、こういう子(生徒)はどの中学校でもいます。小説の創作とはいえ、現実に近いところで書かれるのですね」
 中学校内の教職員や生徒ばかりが出てくるドラマだけに、私は安堵した。

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穂高健一著「歴史は眠らない」立ち読み ② ペリー提督の来航で大騒ぎ、それはウソでしょ

 ②の立ち読みは穂高健一著「歴史は眠らない」の「九十二年の空白」のシーンのひとつです。


『まえがき』
 ペリー来航は、大騒ぎだった。この通説ははたして本当だろうか。まず40キロの距離はどのくらい離れているか。皆さんの住まいから気にとめてください。次に、ペリー提督よりも7年前の1846年に来航したアメリカインド艦隊のジェームス・ビッドル提督はご存じですか。この時はとてつもなく大騒ぎです。
 ペリー提督の初来航は実に静かです。明治に入ると、歴史学者が7年前のビッドル来航の大騒ぎとすり替えたのです。『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』これは明治十年につくられた狂歌(ペリーよりも25年後の創作だった)と判明されて、現代の教科書から削除されています。
 明治時代から為政者は教科書に載せて、なんと150間後の現在までも、事実無根の狂歌をまるで真実のように教え込んできたのです。

 登場人物の院大生(浅間輝・ひかる)は元建築技師で、大きな設計ミスから転職し、緻密な理数系でなく、大学院の史学科に入った。妻と離婚し、歴史のねつ造は戦争につながる、という信念をもつに至った。それを生徒たちに教えたいと教職課程をとり、教育実習で教壇に立っている情景です。
 この場面では、東京からきた音大四年生の実習生・白根愛紗美(あさみ)が、教室の後ろで、その指導ぶりを眺めているばめんです。


『作品・本文より抜粋』

「アメリカはペリーが浦賀に来航するわずか七十年まえまで、イギリスやフランスの植民地だった。独立戦争に勝って合衆国となった。そんな新興国だ。さて、いよいよペリー来航の話しになるが、黒板に書いた和親とはどういう意味かな。女子にも答えてもらおう。佐藤さん」
――和は、和をもって尊し、とおもいます。親とは、親しく仲良くするです。
「正解だ。つまり、日米平和条約という意味だ」
 かれは黒板を指し、ちらっと白根先生の顔をみた。しっかり聞いている態度だ。
「石川君。なんで黒船というんだろう。みんなに教えてあげて」
――それは、えっと、ペリーが乗ってきた船が真っ黒だったから、だと思います。
「それは正解といえるのかな。半分だな」
 室町時代から、南蛮船は真っ黒だった。木造船は海水で腐るし、カキがつくから、防ぐために真っ黒なコールタールを塗っていた。だから、徳川家光が鎖国するまで、南蛮渡来の船はみな黒船とよばれていた。
 ペリー提督来航は1853年であるが、それより7年前の1846年に米国のジェームス・ビッドル提督が軍艦二隻で浦賀に来航している。ビッドル提督はアメリカ大統領の国書を持参してきた。当時の老中首座の阿部正弘は国書を受理をしなかった。
 ビッドル提督は初めて江戸湾に外国軍艦がきたといい、江戸湾警備の川越藩などの藩船や、駆りだされた漁船が数百隻も軍艦をとりかこんだ。約十日間は観光客があつまり大騒ぎだった。
「ペリーの黒船がきて日本中が大騒ぎした、という。これはウソだ。
 ペリー来航のとき庶民は騒いでいない。数年前にコロナ騒ぎがあったよね。パンデミックということばをおぼえているかな。天然痘が大流行の年で、パンデミックで街に人は出ていなかった。将軍も病死だ。ただ、病名は不明だがな。大奥のお女中は何人も死んでいる。
 ペリーの黒船は四隻のうち二隻は帆船で、めずらしくもなんともない。二隻は蒸気船で後ろにすすめる。わずか地元民が珍しがっただけだ。江戸日本橋から浦賀沖まで、直線でははるか遠き四十キロもある。黒船の煙は肉眼で見えない。御手洗と広島・宇品はおなじ四十キロの距離だ。見えるかい」
――見えるわけがないよ。山に登ってみても、米粒かな。
「コロナで外出禁止のときに、君たちは御手洗から伝馬船で広島・宇品港まで見物に行くかい」
――そんなことしないよ。一度見ているんだよね。ビットル来航で。
「ペリーの初来航はわずか九日間で消えてしまった。ビットル来航の大騒ぎと、歴史はすり替えられているんだよ」
――なぜ、太平洋から来なかったんですか。
「当時は蒸気船で、石炭を焚いて船を走らせていた。太平洋に石炭基地がない。だから、アフリカ、アジアの港で石炭を補充しながらきた。ペリー提督は学術調査が主目的だから、アフリカ・アジアの港に半月、一か月と立ち寄りながら、動植物の採取とか、農耕とか、家屋とか、いろいろ記録をとっていた。吉澤君、質問がありそうだな」
――白人は珍しかった、とおもいます。だから、大騒ぎになったとおもいます。
「そうかな。幕府は、長崎出島のオランダ商館の商館長(カピタン)に、毎年、海外情報をもって江戸に来ることを義務づけていた。松平定信のときから、四年に一度になった。三年は長崎奉行所での聞き取りになった。江戸には合計百六十六回やってきた」
 江戸庶民も宿泊所に行けば、窓から顔を出す。白人とは言わず、紅毛人(こうもうじん)だよ。だから、さして珍しくなかった。
「みんなは豊町中学の生徒だから、『カピタン江戸参府』はよく覚えておいたほうがいいな。なぜかな。白根先生に答えてもらうか」
――有名な医師のシーボルトが御手洗に来て、病人を診察しています。その記録が残っています。むかし下関から大坂までを御手洗航路とよんでいました。大坂にも御手洗にもおなじ住吉神社がありますから、それを裏付けています。カピタン江戸参府の百六十六回のうち、たぶん百回は御手洗に入港していたようです。
「音楽の先生をやめて、社会科の先生になってもらうか」
 大笑いになった。拳で机をたたいて笑うものもいる。
「どこまで話したのかな。忘れてしまった」
 またしても、大笑いになった。


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