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【原爆80年】 長編歴史小説「八月十日よ、永遠なれ」 生い立ち(作家の裏舞台)について

 新著「八月十日よ、永遠なれ」が、2025年6月27日に全国一斉に販売されます。この作品の成り立ち、つまり作家の裏舞台は、読むうえで参考になるかとおもいます。その経緯などを簡略にご説明いたします。

                  ☆

 一年前に出版社(広島・南々社)から、「2015年は広島原爆八十年ですから、それに関連する長編歴史小説を原稿用紙(400字詰め)400枚で、高校生も読めるものを書いてください」という書下ろし小説の依頼をうけました。
 日清・日露戦争にさかのぼり、なぜ戦争国家になったのか。太平洋戦争がなぜ止められなかったのか。なぜ、広島・長崎に原爆が落とされたのか、という点の要望がありました。


 私は、十九世紀から二十世紀の近現代史は得意とする分野であり、躊躇(ちゅうちょ)するものはない。日本史と世界史との関連性なども、深く知りえていると思っている。
「ただ、むずかしい要望だな。高校生でも読めるとなると、難解な歴史をどのように、平たく書くべきか」
 私は深刻に苦慮しました。

 明治・大正・昭和へと数多く海外戦争や出兵があります。国内の政治・経済・軍事なども複雑多岐です。難解な時代を解き明かす。歴史に精通した人ならば、専門用語も次々につかえる。
 しかしながら、高校生にも読めるとなると、戦争や事件やクーデターの呼び名は変えようもないし。地名、人名などすべてルビを打つわけにもいかない。いくら簡素にして明瞭に書いても限度がある。

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 大人の読者も、小中学校で習った社会科・歴史は石器時代から明治維新のころで終わりです。せいぜい大日本帝国憲法の成立くらいである。高校で日本史を選択していなければ、わが国の近現代史はほとんどわからない。これが実態です。

 さりとて、高校で日本史を選択したひとも、縄文時代から始まり、明治時代からの授業は駆け足だ。大正デモクラシー、シベリア出兵、ワシントン条約などはちらっと聞いた程度です。昭和の金融大恐慌、満州事変、国際連盟脱退など、世界との関連など教わっていない。
 
 学校で習う日本史は、現代でたとえれば、アメリカのトランプ大統領の影響など度外視しており、日本人による日本の政治です。海外戦争は敵国・相手国の事情がとても重要です。だが、泥沼の日中戦争にしても、中国の国内事情など、日本史では教えていない。ことごとく、日本史は世界とリンクしていない歴史しか習っていないのです。国際感覚はおそろしく貧しく無知に近いのです。
           ☆

 私は数か月も、あれこれ思案した。
「いっそうのこと、主人公を高校生にしよう。彼らの青春小説としよう」
 そこにたどり着きました。
 登場人物の主役は、高校二年生・十七歳の男女六人と設定しました。それは大胆な決意でした。というのも、この年齢は思春期で、恋愛に興味もつ。異性を意識し、敏感で、傷つきやすいし、繊細である。暴走もするし、男女が心を傷つけあう、失恋すれば、自殺もできる年頃ですから。

 作家はその心理を的確に描ききる必要がある。そこで、さわやかな恋心もくわえた17歳の男女の青春物語としました。楽しく、愉快に、時には涙し、読んでもらう。六人の個性を前面にだす。恋心を追えば、ごく自然に歴史が学べていた、という展開にしました。
 題名は「八月十日よ、永遠なれ」と決めました。それを持ち込んだ出版社は、「えっ、八月十日に何があったの」とおどろきました。

 広島原爆は八月六日、そして長崎原爆とソ連軍の満州・千島侵攻は八月九日、ポツダム宣言受諾は八月十四日、昭和天皇の終戦の詔書のラジオ放送は八月十五日である。
「八月十日は、読んでいただければ、わかりますよ」
 出版社は一読して、なるほどね。高校らしい斬新な結末だ、とすぐさま出版が決まりました。
毎日新聞 広告.JPG

    
  • 新聞広告(全国紙)です。左クリックすれば、拡大して読めます
  •  現在、世界中に核兵器が一万二千発ある。プーチン大統領がウクライナ侵攻から、核兵器の脅しをかけ続けている。高校生六人の男女は「歴史クラブ」を立ち上げる。そして、いかにして、核兵器を一発も使わさせないことができるか。奇想天外、逆転の発想、若き柔軟な頭脳で、かれらは取り組んでいく。その結果が、八月十日にたどりつくのです。

     これまで私は、知人・作家仲間ら延べ数十人から、「八月十日はなんの日なの」と質問されました。一人として、ぴたりと言い当てた人はいません。

     理由は簡単です。私たちが習った日本史は、限られた日本だけの小さな範囲、つまり「狭隘な範囲」でしか太平洋戦争を 見ていないからです。 
     現代のトランプ政権を見るように、当時のルーズベルト・トルーマン大統領の政権を日本側から真剣に直視していたならば、米国の最も重大な会議が八月十日だったとわかるのです。


     2022年から高1の必修科目「歴史総合」(日本史と世界史をドッキング)を習った現代の高校生たちは、アメリカ、イギリス、ポツダムなど海外から当時の軍国主義の日本を見る目が養われているのです。地球規模からみれば、太平洋戦争の終結とは東西冷戦の始まりです。かれらはそこから「八月十日」を掘り当てるのです。

     その内容は、読んでからの楽しみにしておきましょう。

    「新刊案内」 穂高健一著「八月十日よ、永遠なれ」 ことし(2025年)6月27日 全国一斉販売します

    作品名 : 「八月十日よ、永遠なれ」

    著者 :  穂高健一

    出版社 : 南々社

    四六判 288ページ 定価1600円+税160円

    発売日 : 2025年6月27日(金)
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     日清・日露戦争から、太平洋戦争へ、戦争の真実に迫る高校生たちの物語です。

    ・日清・日露戦争はだれが仕掛けたのか?
    ・どうして太平洋戦争はすぐに終わることができなかったのか?
    ・なぜ広島に原爆が落とされたのか。
    ・アメリカ・トルーマン大統領は、広島の原子雲の写真を見せられて、『原子雲の下に女と子どもがいるのか、そんなばかな』と絶句した。それは......

    歴史書と青春小説が融合し、「近現代史が」小説で学ぶことのできる「書き下ろし歴史小説」です。


    中国放送(RCC)ラジオに、穂高健一氏「広島城・護国神社をたどる」に出演  山澤直行

     RCC(中国放送)のラジオ番組の【週末ナチュラリスト】は毎土曜の朝に、岡佳奈さんが広島の旬な話題と幅広いジャンルを、流行に敏感なリスナーのために送る4時間の生放送です。

     2025年03月29日(土曜日)に、歴史作家の穂高健一さんが「広島城・護国神社をたどる」に出演しました。
     
     ナレーターの岡佳奈から、まず放送の趣旨のリードがあります。

    「広島城三の丸が今日、オープンしました。この機会にと、広島城、そして護国神社を、番組おなじみ歴史小説家の穂高健一先生と散策しました。大鳥居、石垣、天守閣、二の丸、護国神社をめぐり、お話を伺いました。」
    IMG_2545 広島城.jpeg


    「ナチュラリスト文化部」をクリックすれば、放送内容の全文が読めます。

     放送の最後には、
    「今回は駆け足でのご紹介となりましたが、広島城や護国神社には、歴史を感じられる場所・景色がたくさんあります。この機会に改めて、触れてみてはいかがでしょうか?」と岡さんが皆さんに足を運んでくださいと、呼びかけています。

    【関連情報】

    岡佳奈さんのHP

    メディアの編集・論説者たちは、戦前において戦争を煽りつづけた歴史を忘れすぎている

     最近の私は、歴史小説の範囲を幕末ものから、次のステップで「明治維新から太平洋戦争まで」の近現代史へとシフトしてくる。
     そこで常に「なぜ、こんな大戦争をしたのか」という疑問を向けると、まいず国民が熱狂的に軍部への期待が高かった。国民をそのように仕掛けたのは当時の新聞である。
     
     政府は膨大な軍事費の捻出に苦しみ、戦争は避けたい。しかし、各新聞は政府は弱腰だといい、世論を戦争への煽りつづける。これでもか、これもかと。
     
     日露戦争でもしかりだ。政府が非戦への逃げ道をなくさせたのは、新聞記事である。事実上の戦争推進者だった。

     昭和に入ると、犬養毅が内閣総理大臣になった。かれは満州国を認めなかった。海軍の青年将校らが、首相官邸に押し入った。「話せばわかる」というが「問答無用」と射殺した。
     それら青年将校が裁判にかけられると、日本国中から、減刑の嘆願書が数万通も届いた。これを煽ったのは新聞である。
     満州国の独立が日本の傀儡政権で、国際連盟で総反発で、日本の主張をどの国も認めなかった。
     
     犬養毅が暗殺されなかったら、あるいはテロリスト・青年将校の減刑嘆願を煽らず、テロ批判に回っていたら、太平洋戦争という不幸な戦争はなかった可能性が高いはずだ。 

                    ☆   

     戦後八十年記念特集がメディアで流れ始めている。
    「謙虚に歴史的事実を認め、過去と誠実にむかいあうことである」
     そんなふうに他人ごとで書いている。あるいは報じている。
            
     明治から77年間にわたり我が国を侵略戦争へと煽りにあおったのが新聞だった。悲劇的な運命をつくった加担者だった。という国民への謝罪一つすらない。むしろ、『新聞は無関係でした、正義の味方でした』と美化しカムフラージュしている。

                  *  

     新聞はいまや斜陽化している。それでも過去からのジャーナリズム精神のうえに胡坐をかいた高慢な意識と態度である。自分たちに不都合なことは書かない、逃げることが多すぎる。ろくに取材はしないで、広告(コマーシャル)をこれでもか、これでもか、と流しつづけている。スポンサーの不利なことは書かない。
     報道の品質の低下は甚だしい。まさに自滅への道をすすみはじめている。

     あえてメディアの危機を、私がヒステリックに叫ぶ気持ちはなどないが、「もはや必要としないテレビも新聞もこの世から消えていく」という賢者の言葉が真実味を帯びてくる。

     打つ手はないのか。ここはいちど「昭和初年から100年を洗いなおす」「戦争責任を問い直す」という姿勢と熱意がなければ、再生へ道はなく、奈落へと向かうだろう。というのも、政治家・軍人・皇室に諂(へつら)った往年の姿勢がいまなお現存していないか。むしろひどくなっていないか。内面的な悪魔の手がはたらいていないか。それを問い直すときである。

     民主主義の基本は、顔を民に向けておくことだ。それをもって報道の自由が保障されるのだ。

                  *  

     YouTubeは、玉石混合である。玉(良いもの、価値のあるもの)と石(悪いもの、価値のないもの)が混じり合っている。しかし、市民ジャーナリズムが確実に制度を高めている。
     いまでは、大手メディアよりも、質の高い宝石(真実)が見つけられる可能性が高くなってきた。

     海岸の砂浜を歩くのと同じである。小粒の砂、蛎殻、海中で死んだ魚も打ちあげられている、海藻もある。とんでもないものも遠路から流れついている。それでも、輝く宝石すらもみつかることがあるのだ。
     庶民の目が肥えてきている。自分たちみずから真贋の見極めすらもできてきている。

     それはなにを意味とているか。メディアが情報を篩(ふるい)をかける、という役目が終焉に近づいてきているのだ。とりもなおさず、情報の独占・寡占でなくなったのだ。それを踏まえて

    【近現代史】日中戦争から太平洋戦争へ。二等兵の草むらに隠れた20分間の用便が源流だった

    ......近衛文麿(お公家さん)・内閣総理大臣が就任して、一か月後に盧溝橋(ろこうきょう事件が起きます。
     北京に近い盧溝橋の橋のたもと些細な事件からはじまります。それはまるで落語にでも出てくるような、笑い話しです。二等兵が草むらに隠れた用便が発端です。
     戦争の発端とはこういうものでしょう。
     ここから日中戦争・太平洋戦争、そして広島・長崎の原子爆弾の投下、さらにソ連軍の宣戦布告と同時に侵攻へと歴史は折り重なっていきます。

                 ☆

     大陸の水は汚水が混じっているから、兵士はぜったいに生水を飲むな。
     これは日清戦争において日本兵の戦死者が1417人で、これにたいして戦病死は1万1894人である。変死は177人。このように十人中九人は病死(伝染病と脚気)であった。
     日本人が中国大陸に渡り、戦いのさなかの銃弾・砲弾による死者はきわめて少人数であった。病死者は一ケタちがう。その原因が、喉がカラカラになった日本兵が細菌に汚染された生水を飲んだからである。

     昭和12(1937)年7月7日に、中国の北京近くで「盧溝橋事件」が起きます。深夜10時ごろ、日本軍が夜間訓練をおこなつていた。数発の銃声音(訓練の空砲かもしれない)が 鳴りひびいた。
     中隊長が点呼を取らせると、一人の二等兵がいない。ひとまず連隊本部に連絡した。その連隊は東京の陸軍省に一報を入れた。
     ところが現地では、点呼から20分のちに、新兵・二等兵が草むらから出てきたのである。
     小隊長・中隊長らは、用便で行方不明とはカッコ悪いと思ったのか。夜明けに連隊本部に報告した。
     このころ、牟田口(むたぐち)連隊長が中国軍による射殺だろう、と決め込んでいた。中国側は否定する。
     日清戦争以来、日本人はとかく上から目線で中国人をみくだしている。中国側の言い分は虚偽だとみなし、小攻撃を命じた。
     
     北京近くの日本陸軍らは、戦争したくてウズウズしている。「職業軍人は胸につける勲章と階級が欲しいのです。戦争がなければ、手柄は立てられず、特別昇格の栄誉にもありつけない。そこで高級軍人が考えることは戦争を仕掛けることである」
     張作霖(ちょうさくりん)爆破事件、石井莞爾(かんじ)の満州事変、その後も各地の戦場で、将兵らがあえて戦争を仕掛ける行動が多々あります。

     近衛文麿は陸軍の陰謀だろう、と疑っていたのです。近衛内閣の米内海軍大臣も、次官の山本五十六も、ほぼおなじで考えだったようです。
    「事件を拡大させず、現地で解決に努力するように」
     近衛はそう指示を出しながらも、

     陸軍大臣・杉山元が、「新兵が20分の用便による騒ぎだ」とわかってながら、
    「戦闘が拡大することになれば、在留邦人の1万2000人の安全は保証できない。それどころか、日本軍も全滅する恐れがある。大軍の中国軍をけん制する意味でも兵を増員してほしい」
    と満洲の関東軍、朝鮮にいる軍隊からの増兵、それと日本内地から3個師団の増派、それにかかる予算・三億円を要求してきた。
     軍部の顔色ばかりを見ている近衛文麿は、内閣総理大臣になってから一カ月余りで、大戦争の端緒を切ったのです。

     日本の大軍が北京付近を征圧した。次なるは上海を攻撃した。さらに南京を攻略する。ここまで、わずか半年間だ。これには兵站(へいたん・兵糧支援)の作戦ができておらず、「現地調達せよ」という略奪・強奪をがみとめられている。

     日本軍がたどり着いた南京は四方が城壁で囲まれている。中国兵は軍服を脱ぎ捨て、市民に紛れ込んだ。食料不足の空腹、性の飢えた日本兵が、現地住民に襲いかかった。ここで南京大虐殺が起きた。

                           ☆

     蒋介石がすばやく重慶に逃げこんだ、ドイツが日中の和平に斡旋に乗りだしてきた。近衛首相がなんと「日本は蒋介石と交渉せず」と悪名高き政策を打ちだしたのだ。
     こうなると、中華民国の蒋介石と共産党の毛沢東も、政権と認めていない日本だから、交渉する政府がいない状態になってしまった。なんのための戦争か。どこまで戦えば、停戦・休戦になるのか。ただ、やみくもに双方が血を流す日々になった。
     こうして「泥沼・日中戦争」という表現でしか説明できない戦争になった。これが太平洋戦争の終結までエンドレスになった。

     戦争とはとてつもない戦費がかかる。地図を見ればわかるが広大な中国大陸を支配すれば、膨大な百万人にちかい日本兵の配置が恒常的になる。国家予算のなかで占める戦費はうなぎ上りとなった。勝算とか、休戦とか。まったくもって見通せず、戦費の垂れ流しである。
     そうなると、日本政府は予算がねん出できず、「国家総動員令」で、人と物は国費でなく、ほぼ無料でつかう。戦争の長期化で、様々な統制が強化される。物資は配給制にする・鉄・金属は供出させる。
     こうして日中戦争のしわ寄せが、国民の生活を苦しめる。国内では物資不足で、闇(やみ)取引を常態化させた。市民の法秩序が狂いだし、「政府批判や戦争反対の発言を聞いたら、すぐに報告するように」と政府が住民同士の密告を奨励する。日々の苦しい生活に、ちょっと不満をもらすと、憲兵や特高警察に告発されてしまう社会に陥ったのだ。

    「近代史」戦後の日本人は、政府の都合の良いプロパガンダにのせられている

     戦前および戦後を通して、日本人がとかく政府のつごよいプロパガンダに乗せられているのはなぜだろうか。近現代史に無知で、政治・経済において無菌状態だからである。

     学校で小・中学でならう歴史は古代から明治時代まで。大正時代、昭和時代、太平洋戦争・戦後の世界はまったくもって教わっていない。
      私たち大人は、おおむね20世紀に生まれている。太平洋戦争の政治・経済・軍事などは、祖父母、あるいは両親から断片的に聞いている。

     ポツダム宣言、日本国憲法、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約ということばは知っている。ただ、学校の歴史として習っていない。
     政府のいうから概(おおむ)ね、正しいのだろう、と信じ込んでくれる国民性だ。為政者には、これがとても都合がよく、プロパガンダで利用しやすいのです。

    「ポツダム宣言は13カ条の条件付き降伏である」にもかかわらず、戦後の政府は「ポツダム宣言は無条件降伏だった」と信じ込ませてきた。

    「憲法はOHQの押し付けだ」というと、そうかな、と思ってしまう。


    「天皇制を残したのはマッカーサー元帥だ」という。マッカーサーと天皇にツーショット写真から、そうかな、と思う。
     終戦後の日本の内閣は瓦解(がかい)したけれども、曲りなりにも内閣総理大臣が選出された。その苦労は並大抵ではない。国民は飢え死に寸前である。住まいは廃墟で建物がない。この復興にたいする政府予算はない。中国大陸や東南アジアから大勢の復員兵を受け入れる、と同時に、失業者の群れだ。
     それに対応するには、急激に政治システム・社会システムの変革がともなった。そこで考えたのが、「マッカーサーの命令だ」という金科玉条のプロパガンダである。

                 ☆
     
     天皇ヒロヒトは第二次世界大戦の主役である。米軍の元帥の立場で、国体(天皇制)を残すなどと、決められるはずがない。アメリカ政府である。ところが、日本政府は、水戸黄門の印籠よろしく、「天皇を存続させたのはマッカーサーの絶大なる権力なり」と日本政府は演出したのである。アメリカには国王がいない。
     1945(昭和20年)年8月30日にマッカーサー連合国軍最高司令官が厚木にやってきた。9月17日頃に東京に行くまで、横浜市の山手にいた。それから10日のちに9月27日の昭和天皇と面談した。
     
     そんな短時間に独断で、天皇ヒロヒトの地位と身分は決められるはずがない。軍人の元帥一人の思惑でなく、米国政府の判断である。

     アメリカ政府が終戦前から、トルーマン内閣で7000万人の日本統治を考え抜いていた。天皇を残す。この裏には、ドイツ・ポツダムで、イギリスのチャーチル首相が絡んでいる。

     イギリス王室は「君臨すれども統治せず」である。日本の皇室は存在するものの政治権力は持っていない。戦争責任は日本政府(the Government of Japan)にして、その上に君臨する天皇・宮様は処分の対象にならず。よって、昭和天皇のみならず、皇室の宮家は軍人階級トップにいたが、だれひとり戦争責任を問われていない。
     イギリス流の発想である。

                    ☆

    「マッカーサーの命令だった」と現代までも、その神話が脈々と生きているのだ。

     明治以降の政治家は、隠す。ごまかす。政府の都合のよいプロパガンダで国民を戦争国家に導いてきた。「日本は神の国だ。神風が吹く。いちども負けたことはない」と。あらゆる儀式、場面で、玉砕するときも、「天皇陛下バンザイ」である。
     挙句の果てに、太平洋戦争で、日本列島の都市部は焼け野原になり廃墟になった。たいせつな人命も、財産も失った。
     
     その昭和天皇が昭和二十一年の元旦に、神聖にして犯すべからず、という立場から降りてきて、「人間宣言」された。
     そうなると「マッカーサー神話である」。マッカーサーは神の声である。絶対の権限を持っている、と国民を信じ込ませた。

     あらゆる政府の決め事が、マッカーサーの鶴の一声で決まったような演出である。日本人は、この世で、一番強いものだと思い込んでいた。

     アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、1951年4月11日ニダグラス極東軍司令官の職から解任しました。
     朝鮮戦争(1950-1953)の最中、トルーマン大統領は限定戦争の方針だった。ところがマッカーサーが中国本土への爆撃や台湾の国民党軍との連携を提案してきた。トルーマンはシビリアン・コントロール(文民統制)で、マッカーサーを解任させたのだ。

     これには日本人のすべてがおどろいた。
    「トルーマンが最高司令長官を解任する権限を持っていた」
    「いかなる軍人でも、民間選出の大統領の命令には逆らえない」

     戦前・戦中において日本の軍部の政治介入が強かった。このマッカーサーの解任によって、「国民が選んだ政府が、軍人よりも上にいる」と学んだ点は大きかった。
    「マッカーサーの絶対・君臨」がほころびる。すると、かっての天皇の絶対的君臨の存在から、象徴天皇へと国民の意識が変わっていった。

    あえて明治・大正・昭和の戦争を回顧する。「これが人間のすることか」

    「もしも、戦争がなかったら、人間は幸せになれるのか」と自分に質問を向けてみると、反ってきたことばは「幸せとはなにか」という返ってきた。
     幸福とはなんだろう。わからないな。概念の用語だから、人それぞれである。
     
     日清戦争で、大陸で戦う日本兵士が戦場を駆けまわり、喉がカラカラに渇けば、差し出された「いっぱいの水」に至福の瞬間を感じるだろう。飲み干した時には、これぞ最高の幸せだろう。日本の河川は真水でも飲めるが、大陸の衛生管理は悪いし、糞尿が川や飲料水に混ざっている。細菌だらけた。幸せに感じた水が死の飲料水だ。

    「水が美味しい」し、日本兵には警戒心がない。
     勇敢に戦う衛生状況が悪い。水が悪い。衛生管理が悪い。赤痢・コレラ、腸チフスなどの伝染病を発症し、兵士から兵士へと感染した。そして、日本陸軍の内にまん延した。、
    戦死者よりも、病死がほとんどだった

     その兵士が敗戦とともに、わが家に帰り、歳月が経てば、ふだん日常生活のなかで、いっぱいの水道水がありがたい、と感じているないだろう。いちいち感動していたら、この世で生きていけない。

     最近は明治維新から太平洋戦争の終結まで、近代史に取り組んでいる。悲惨な記録写真をみる機会が多い。眼をそむけたくなるが、あえて自分を鼓舞し、「これが人間のやることか」と思いながら、直視している。

     日中戦争で観れば、日本軍の上海空爆で、悲惨な人体が飛び散っている。子どもが焼けたまま、放置されている。南京大虐殺では、動画で、中国の複数の民間人(兵士かも)が両手を挙げている。国際条約では捕虜の虐待は許されないにもかかわらず、縛って、「撃て」と日本の将校が声をかける。かれらを背後から銃殺する。
     さらに厳しい映像がある。穴の中に縛られた婦人が生きているのに、実際に目を開けて動いている。口を開けて叫んでいる。それを日本兵がスコップで土を次々とかけている。
    「これが人間のやることか」と私は叫んでしまう。

     これら犠牲者は四万人とも、中国側は30万人ともいわれている。人の命は数ではない。人間の一生は一回だ。

     関東大震災で、遺体が焼け焦げている。自然災害でも、そんな情景を見ると、「神々がやることか、こんな無残なことを」と叫びたくもなる。
     
     

     

    【孔雀船105号 詩】 二〇二四年 秋 尾世川正明

       ある日

    まがったもので撫でる
    とがったもので刺す
    おのれの頭蓋骨のなかに暗い間隙を受け入れて
    もうあと十万回
    心臓の拍動をかぞえる
    心臓000.png
       岩場

    その岩陰では
    お産をしない習わしだった
    そこは地磁気がすこし強すぎて
    頭が狂ってしまうし
    時に蛇が卵を産んでいるので
    お産には向いていないのだ

       丘陵地

    広い丘陵地にはいくつかの詩が重なり合い
    大地にトランポリンのような弾みと
    輝きを与えている
    青空からひかりとなってゆっくりと降ってくる
    したたり落ちる乳と蜜

       樹

    樹にも感情があるのだろうか
    雨を浴びて気持ちがいいとか
    激しい強い夏の陽射しは
    葉のおもてに張ったかたい嫌悪の緑で
    はじき返してしまいたいとか
    風が渡る明るい朝には
    樹液をしみ出して
    かわいい虫たちに吸わせてやろうとか

       二月

    二月が始まり立春もすぎて
    雨水と呼ばれる季節のことである

    それは紐を解いたひな人形の古い埃の匂いではない
    開きかけた紅梅の甘い香りでもない

    遠い距離を風に乗って漂ってきたちいさな粒子が
    鼻粘膜につくと成長して手足を伸ばし
    美しい姫になった

       旅

    山間の谷で
    老人が死んだとき
    子供の周りにいたのは
    一緒に育った
    山羊と雌鶏と猟犬だけだった
    老人を土に埋めてから幾日か
    子供は山羊と雌鶏と猟犬をつれて
    遠い星の赤い沙漠へと
    旅立った

       言葉

    言葉で作り出した目に見えないもののために
    愛された人々の命を奪うものたちよ

    地獄に落ちよ

    言葉は愛された人々を飾る軽やかな衣裳となれ
    愛された人々が踊る愉快な音楽となれ

    二〇二四年 秋  (尾世川).pdf

    【関連情報】
     孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
    「孔雀船」頒価700円
      発行所 孔雀船詩社編集室
      発行責任者:望月苑巳

     〒185-0031
      東京都国分寺市富士本1-11-40
      TEL&FAX 042(577)0738
      メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

    イラスト:Googleイラスト・フリーより

    *各短詩間の行数、題の行数などは編集にお任せします。

    【孔雀船105号 詩】 夜空の向こう側 脇川郁也

    ふり返ると
    紫色の空にいくつか星の光が見えた
    見晴台から望む街の夜景を眺めながら
    あのひとつひとつに
    だれかの家庭があるんだねと
    あなたはつぶやいた

    なだらかな長い坂道を
    ふたりで登った
    いつの間にか息が上がっていて
    そっとつないだ手を引き合って笑った

    明かりの数だけある家庭で
    暖められる笑い声もあるけれど
    時がたつと
    あきらかな月の光が
    いつの間にか雲にかすんでしまう

    知らぬ間に闇が降りてきて
    世界を覆ってしまうことがある
    どれだけ手を伸ばしてみても
    届かないもどかしさに
    秋の風はいつも吹き来るのだ

    虫が鳴いているね
    あれはね、羽を擦り合わせているんだ
    恋する人を呼んでいるんだ
    でもそれが
    哀しげに聞こえるのはなぜだろう

    ワイン.jpg予約したのは
    夜景がきれいなレストラン
    すこし気取って
    ぼくらはワイングラスを傾ける
    弾けるようなグラスの音に
    見つめ合って笑顔を交わした

    夜空の片隅に星が流れた
    遠く音もなく
    光を点滅させたジェット機が
    飛んで行く
    ポケットの膨らみは君に贈るプレゼント
    どこにも月は見えなかった

    夜空の向こう側(脇川.pdf


    【関連情報】
     孔雀船は105号の記念号となりました。1971年創刊です。
    「孔雀船」頒価700円
      発行所 孔雀船詩社編集室
      発行責任者:望月苑巳

     〒185-0031
      東京都国分寺市富士本1-11-40
      TEL&FAX 042(577)0738
      メール teikakyou@jcom.home.ne.jp

    イラスト:Googleイラスト・フリーより

    遠い昔から繋がる・・・ 吉武一宏

     日本人がいつからこの大地に現れたのか、正確には分かっていない。ただ、1970年に沖縄県の港川で約2万2千年前の旧石器時代の人骨が発掘された。

     その人骨(港川人)からDNA解析によって、縄文人や弥生人や現在の日本人の直接の祖先ではないことが分かった。港川人は縄文人と共通の祖先から枝分かれしたと考えられている。残念ながら港川人は子孫を残せず途絶えたとみられている。旧石器時代は約3万8千年前から1万6千年前までの約2万2千年間である。

    吉武②.jpg  その後、日本では縄文時代へと移っていく。
     日本各地によって違っているが、縄文時代は約1万3千年前から3200年前までの約1万年間続いた。その後に弥生時代となる。縄文人から弥生人、そして現在の日本人へと続いていった。縄文人と弥生人の顔・形が違うのは狩猟民族が農耕民族となり、あごの発達等が変化した結果である。くわえて中国や南方の民族と新たな結合があったからであると考えられている。ともかくも、諸説あるが、日本人は縄文時代から約1万3千年も脈々と繋がって現在に至っているのである。


     2024(令和6)年5月29日、格安九州ツアーで吉野ケ里歴史公園を訪れた。

     吉野ケ里遺跡は佐賀県神崎郡(かんざきぐん)吉野ヶ里町と神崎市にまたがる吉野ケ里丘陵にある遺跡で、国の特別史跡に指定されている。およそ117ヘクタール(1,170,000m2)にわたる弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀を巡らせた集落)跡である。1986(昭和61)年からの発掘調査によって発掘され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園となっていた。

     佐賀県知事が「邪馬台国」だと宣伝し話題になった遺跡である。私は「広い野原を観光名所として作られた公園程度だろう」と、思いながら入園した。


     田手川に架かる天の浮橋を渡り、そのまま道に沿って奥に進む。古い薄汚れた木柵が目に飛び込んできた。左右に物見櫓のような建物が建っていた。見た瞬間は観光客を集める舞台装置のようなものだと軽く思った。中に入る。広い、学校のグランドの数倍もある広さだった。その中に茅葺き屋根の家が数軒建っていた。
     
     ガイドの指示に従って、北墳丘墓まで進む。そこは吉野ケ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓だった。14基の本物の甕棺が展示されていた。甕棺と聞き、なんとなく気味が悪いと思ったが、お金を払ったので一応見ることにした。
     私はせこい、性格である。

    吉武 九.jpg
     吉野ケ里遺跡は紀元前400年から紀元300年の700年間に渡って存在したといわれている。長い、実に長い期間だ。江戸時代の2倍強である。徳川は15代で終わった。「何人の王様が君臨していたのだろう」と、墳墓を観ながら考えてみた。
     単純計算でいけば、40人弱である。当時は平均寿命も低かっただろうから、多分50人は王様として君臨していたのではないかと勝手に推測した。では、「なぜ、これほどにも長くこの地は存続できたのだろうか」と、疑問が沸いた。同時に、私は「2000年前の人々はどんな暮らしをしていたのだろうか」と、二つ目の疑問が浮かんだ。

     時間の都合で北墳丘墓から、駐車場に向かって戻る。道はコンクリートで固められたいた。
     しかしながら、左右の道端は生い茂る野草で溢れていた。春にもかかわらず、暑い日差しが身を包み、野草の柔らかい香りが漂っていた。墳丘墓で感じた重苦しさが消えて行くのを感じた。

     見学する時間はあまりないが、二つの疑問の答えを見つけるために南内郭に建てられた住居等を急ぎ足で見て回ることにした。
     吉野ケ里遺跡には何人の人々が暮らしていたか、当然ながら諸説あり正確には分からない。一説には1,200人程度が暮らし、吉野ケ里を中心としたクニ全体では5,400人ほどが暮らしていたと言われている。
     単に、人々が集まった集落ではない。国の形ができていたのだろう。支配者層と被支配者層に分かれていたことは、埋葬の違いで分かっている。ここに住んでいた人々の生活模様が少しは分かるように、南内郭には数々の四角い竪穴住居が並んでいた。竪穴住居とは地面を掘り下げて床面を構築した建物である。

     寒さを防ぐためだろうか、家の真ん中には丸い囲炉裏のような穴があった。王様の家は他の家より少し豪華であった。隣の建物は「王の女の家」と書かれた説明看板が設置されていた。王と王女は別々に住んでいたのだ。私は、奈良時代から平安時代初期の風習だった「妻問い婚」だったのではと想像した。

    吉武 ③.jpg
    「妻問い婚」とは夫が夜に妻のもとに通い、朝起きると自分の家に帰る風習である。弥生時代の風習が奈良時代まで続いていたのだろう。
     近くには養蚕の家があり、機織りの家があった。支配者層は絹の衣服を身にまとっていたのだ。現在と同じだ。裕福な支配者は絹を身に着け、支配される側は一生懸命働きながら麻の衣服を着ていたのである。
     支配者が生まれたのは、狩猟から稲作に生活様式が変わったためである。狩猟時代は獲物を求めて転々とあちこちを巡る。稲作になれば、一か所にとどまり生活圏を作っていく。知恵があり、体力があるものが広い大地を我が物とし、労働者を使って一層権力を持つようになったのではと説明看板を読みながら私は思った。


     面白いことに「煮炊き屋」なる建物があった。
     説明看板を読む前は、ここで暮らす人たちが集まる食堂だと思った。ところが違った。支配者層の王様や大人(たいじん)のための台所なのである。
     それにしても私は知恵の回らない男であった。なぜならば、弥生時代には通貨などないのだ。全て、物々交換の時代である。お店などあるはずがない。なんと、トンマナ野郎だろうと自ら笑ってしまった。

     近くに面白い家を見つけた。
     私が大好きな「酒造りの家」である。これも王様や大人のためであろう。説明文には新米を蒸してと書かれている。どのようにして、お酒を造っていたのか調べてみた。
     なんと、九州・近畿では加熱した穀物を口でよく噛み、唾液に含まれる酵素(ジアスターゼ)で糖化して野生の酵母によって発酵させる「口噛み」といわれる方法で、お酒を作っていたのだ。どんな人が考え出したのだろうと好奇心が沸いたが、たまたまお米を噛んでいるうちにお酒ができたのだろうという結論に達した。

     とはいえ、いつの時代にも飲んべーはいるものである。

     その他にも、南内郭には右の絵のように兵士の詰め所や集会の館や王の住まいとは別に支配者層の住まいが建てられていた。更には、食糧を保全する高床倉庫も建っていた。
     南内郭は堀と木柵で囲まれ、物見櫓が3ヶ所と堅固に守られていた。稲作が始まり、支配者層と支配される層が生まれ、クニができた。結果、稲作のための水や蓄えられた食物を得ようとして戦いが始まったのではないかと思う。
     そのために、兵士を作り、堀を掘り、木柵を建てるといった面倒なことが起きたのだろう。いつの世も人間とは愚かな動物であることかと情けなくなった。

    吉武 7.jpg
     700年も続いたと思われる吉野ケ里が平和であったわけではない。
     吉野ケ里では丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋められていた。戦いで亡くなった人もいるが、腹部に10本の矢を撃ち込まれた人もある。何らかの罰で処刑されたのでは考えられている。また、当時は乳幼児の死亡率が高く、小さな甕棺もあるそうだ。決して、幸せな人々だけが暮らしていたわけではないようだ。

     人の競争意識は今も昔も変わらないのではないだろうか。

    吉武 十.jpg 上の写真をみてほしい。素敵な空間ではないか。
     暖かな春の陽を浴びながら、私は目を閉じてみた。すると、裸の子供たちがどんな遊びをしているかわからないが、大きな声で笑いながら飛び跳ね、駆け回っている。その横では麻の寸胴(ずんどう)な服を着て帯を締めた人々が、楽しげに語らい生き生きと生活をしている姿が浮かんできた。

     現代のように便利な機械や道具があるわけではない。全て、人の力で作られた町だ。みんな、ここで生まれ育って、そして死んでいく。私は思った。間違いなく、2000年前ここに人々は住み、短い寿命の中で一生懸命生きていたのだと。当時の人たちの正確な寿命は分からないが、現在よりは短かったことは間違いない。

     親から子に、子から孫へとつないで行った。

     現代とも変わらない、歯を食いしばって耐えなくてはいけない辛いことや、涙も枯れてしまうほどの悲しいこともあっただろう。同時に、天にも昇るような嬉しいこともあったのではないだろうか。

     これは私の推測だが、最も嬉しいことは生まれた我が子が無事成長し、新たな家族を迎えた姿を見ることではなかっただろうか。なぜなら、当時の乳幼児の生存率は非常に低く、また成長しても戦などで死んでしまうことも多々あったのではと推測するからである。
    「なぜ、700年もの長い時間クニが続いたのか」
    「どんな暮らしをしていたのか」
     二つの疑問に対する答えは見つからなかった。更に、新たな疑問が生じた。「ここに住んでいた人たちはクニが滅びたのちにどこへ行ったのだろうか」である。これも、答えは見つからない。しかしながら、私は人々はクニの名前が変わり、支配者が変わっても命を繋ぎ続けてきたと思っている。

     DNA鑑定によって日本人は縄文人から現代人へと繋がっている。人は必ず死を迎える。しかしながら、繋ぐことができれば、新しい世界が生まれる。現在は一瞬にして人々を滅ぼしてしまう兵器もある。己の欲望のため人々を殺してはならない。生きている人にとって最も大切なことは次の時代へとバトンタッチすることだと私は思っている。
     自らを決して消してはならない。次の世代へと繋ぐ、それこそが、今生きている人の務めであり、一万年以上に亘って続けてくれた祖先への感謝となるのではなかろうか。

                                     2025年2月5日

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     吉武一宏さんは、朝日カルチャー千葉の「フォト・エッセイ」の受講生です。

    ジャーナリスト
    小説家
    カメラマン
    登山家
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