5月14、15の2日間、小田編集長(ライブドア・PJニュース)とふたりで、本沢温泉小屋に一泊し、雪の硫黄岳(2760メートル)に登ってきた。
先月、小田さんと同計画をしていた。途轍もない春の嵐のために断念し、高尾山に変更した。今回の硫黄岳も12日、13日には台風がやってきた。出発直前まで危ぶまれたが、15日の晴れ予報に期待した。私には2つの目的があった。
小田さんのほうはノートパソコンを持参し、山岳地でのニュース編集送信の実験があった。(山奥の自然災害:リアルタイムの記事送信)。この試みは低山の高尾山では成功していた。
東京を出るときは、まだ強い雨が残っていた。登山口についたころは細雪。すぐに上がった。しかし、道路はぬかるみ、四輪駆動でも奥まで入れず、かなり手前から歩きはじめた。ヤッケを切ることもなく、その面では気楽な初日だ。
本沢温泉は、日本で最高所の露天風呂がある。私は、ここでは過去からテント泊のみ。小田さんも、この小屋泊は初めてだ。
「テントにすればよかったね」
小田さんがそのことばをくり返す。一言でいえば、観光地化された山小屋だった。
硫黄岳一帯はここ数日間、雪が降り続いていたという。(2枚目の写真が硫黄岳全景)
翌朝から登りはじめたが、雪でトレースがすべて消えていた。ルートを作りながら、腰まで埋まりながら、夏沢峠に着いた。
小田さんはノートパソコンで、ニュース送信を試みた。電波が弱く、持続性がなく、通信は成功しなかったという。そして、登山に徹していた。
夏沢峠から山頂まで、どこまでも、トレースのない道づくりの厳しい登攀だ。日差しが強いので、雪が緩み、膝頭、腰までも埋まる。トップは小田さんの体力に任せてしまった。
私は昨年4月4日に、硫黄岳山頂直下で、約200メートルの滑落アクシデントを起した。(3枚目の写真・切り立った中央の部分が、スリップして滑落した地点)。ピッケルの制動で、かろうじて止めることができた。大きな怪我もなく、生きて帰れた。そのときの同行者のPJ肥田野さん(ITコンサルタント)には迷惑をかけた。今回は心苦しいので、肥田野さんには声をかけなかった。。
「硫黄岳の噴火口に落ちて、助かる人がいるんですか」と八ヶ岳の元山小屋従業員に言われたことがある。今回はその検証がしたかったのだ。正確な滑落は第二ケルン(標高2700M)から、205メートルの滑落だった。PJニュースに書く予定だ。
登攀中に、当初予定していなかった、もうひとつの+1の話題があった。
小田さんの友人である、新井裕己東大スキー山岳部監督(鹿島槍北壁・初スキー滑降の記録を持つ)が先月28日に五竜岳で、(冒険)スキー滑降中に死んだ。
小田さんは新井さんは今冬にも何度か、北アルプスに登っている。前々から、穂高さんと新井さんを紹介しますよ、といわれていた。その実現がなく、新井さんは逝ってしまった。
小田さんは、五竜岳から長根県警ヘリーで降ろされてきた新井さんの遺体と、松本空港で対面している。「顔がグチャグチャだった」という。まだ半月まえのできごとだ
硫黄岳で、わたしの滑落検証を聞きながら、「九死に一生ですね」と言い、新井東大監督の死と重ね合わせていた。
昨年は1ヵ月早く、滑落地点にもっと雪が多かったと説明した。「きょうのように岩盤がもっと露出していたら、新井さんに似た遺体でしょうね」と私は話した。まさに、+1の話題だった。
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