登山家

北アルプス薬師岳=関本誠一

日時:2015年7月28日(火)~31日(金)  3泊4日・曇り時々晴れ(一日目は一時雨)

メンバー : L佐治ひろみ、武部実、岩淵美枝子、脇野瑞枝、関本誠一  (計5名)

コース

【一日目】室堂~一の越~五色ヶ原山荘(泊)

【二日目】五色ヶ原山荘~越中沢岳~スゴ乗越小屋(泊)

【三日目】スゴ乗越小屋~薬師岳~太郎平小屋(泊)

【四日目】太郎平小屋~折立

 今回行く薬師岳は、日本百名山とともに、花の百名山にも選ばれており、北アを代表する縦走コースに鎮座する山の一つだ。

 薬師岳という山名は各地に多数ある。そのなかでも、最高峰で、人気ある山だ。ちなみに第2位は鳳凰三山の一峰(2730m)。


【一日目】

 今春に開通した北陸新幹線で、富山駅についた。駅前のホテルで前泊する。

 朝6時発の直行バスで、室堂に入る(9:30)。BT前で、水を補給してから出発する。しかし、学校登山の生徒さん達と一緒になって、思うように歩けない。

 一の越でこの渋滞から逃れ、五色ヶ原に向かう。

 天気は予報に反し、徐々に悪化する。鬼岳の雪渓をトラバースする頃は、見通しも悪くなって、雪上ステップを作ってくれた山小屋の尽力に感謝しながら、慎重に進む。


 獅子岳を超え、まもなくザラ峠だ。戦国時代の武将・佐々成政の「さらさら越え」で、有名とか……。昔日伝説に思いを馳せながら、小休止する。ここからゆるやかな登りで、五色ヶ原だ。

 この一帯は最盛期過ぎたと言っても、20種類以上の高山植物の宝庫で、咲きほこっている。


 小雨降るなか、五色ヶ原山荘に到着する(16:00)。雨具などを乾燥室に干し、落ち着いたところで無事到着の乾杯!


【二日目】

 5時起床。6時半に出発する。ここからエ久ケープない領域を進む。天気も回復して、登山道のまわりはお花畑が連続している。

 鳶山を過ぎると、越中沢乗越に下り、次のピークである越中沢岳に到着(9:30)。ここで小休憩した後、急斜面を下ったところで、ランチタイムとなる。

 さらに下ったのち、スゴノ頭の手前をトラバースした後、急な下りになる。鎖や梯子の難所だが、注意して下りきる。スゴ乗越に到着(13:00)。


 休憩中、来年は日本縦断トレランにエントリー(予定?)のアスリートが通りがかる。かれらにコースタイムを聞いてビックリした! 
 剱岳の早月尾根を深夜に出発し、一日でスゴ乗越小屋とは……。その超人ぶりと、レースの厳しさを痛感する。

 ここから緩やかに登ると、小屋に到着(14:10)。


【三日目】

 5時に朝食をとった後、6時に出発。

 今日は薬師岳に登る日だ。間岳、北薬師といくつかピークを越えるが、疲れも溜まって、一番キツイところだ。

 今回の楽しみの一つの雷鳥に、まだ会ってない。遠くの雪渓に鳥らしきものが見え、鳴き声は聞こえるが確認できない。
 標高3000m近いのに晴れると、日差しが強く、雷鳥も悲鳴をあげているような思いがした。

 薬師岳に近づくにつれ、風が冷たく、一時は視界不良になった。山頂に到着した(11:10)ころには、雲が取れ、一瞬の晴天景色を満喫する。

 薬師岳は北アルプス有数の大きな山だ。東側は氷河の痕跡(カール)があり、国の特別天然記念物に指定されている。
 山頂には薬師如来を祀った小さな祠がある。三角点は祠の影に設置されていた。

 下りは緩やかな南斜面を行き、途中の山荘で、昼食をとる。やがて、太郎平小屋に到着(15:00)。


【四日目】

 折立へと、薬師岳、剱岳、それら立山連峰を眺めながら、整備された道を快調に下って行く。 折立に下山した(9:35)。最寄りの温泉に立ち寄り、反省会をする。

 北ア山歩を無事に踏破した。名残惜しみながら、帰宅の途へ…お疲れさまです。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№194から転載

作家・北杜夫のヒマラヤ遠征=上村信太郎

「どくとるマンボウ」の作品名で知られる作家の北杜夫は、昭和40年にカラコルムの未踏峰ディラン(7273㍍)遠征に参加し、その体験を描いた小説『白きたおやかな峰』を発表している。

 北杜夫(本名・斎藤宗吉)は昭和2年生まれ。精神科医にして芥川賞作家。父は精神病院長で歌人。兄茂太は精神科医であり、著名なエッセイストでもある。


 作家として脚光を浴びた契機は『どくとるマンボウ航海記』という作品で、これは水産庁漁業調査船の船医として乗船。その航海生活を描写したもの。
 当時は自由に海外旅行が出来ない時代であった。

 航海記で人気を博した北は、次にディラン遠征隊付医師の経験から『白きたおやかな峰』を書いた。医師の著した遠征記としては、P・スチール著『エべレスト南壁1971国際隊の悲劇』時事通信社刊があるが、登山経験のない著者には登山描写に限界が見える。
 その点、作家北杜夫が医師の目線で描くヒマラヤ遠征隊の内側は実におもしろい。


 では、そもそも作家がどうして遠征隊の一員になれたか、また遠征隊の派遣母体はどこか、またディラン峰はどんな山なのか、作家北に登山経験があるのか、それらは一般にあまり知られていないようだ。

 まず、北杜夫は旧制松本高校のOBである。ディラン隊の小谷隆一隊長も松高OBで、北の2年先輩。隊付医師が見つからず、後輩にお鉢が回ってきたようだ。

 遠征隊の派遣母体は京都府山岳連盟、「京都府岳連西部カラコルム遠征隊」は、小谷隊長以下隊員10名。この隊で特徴的なのは、塚本珪一副隊長、高田直樹隊員ら4名もの高校教諭が参加していること。

 山岳連盟隊というのは一般には大学山岳部や社会人山岳会と違って選りすぐりだが、寄せ集め集団でもある。

 ディラン峰はパキスタンのフンザ地方に位置し、別名ミナピン。山容は白く雪に覆われ端正なピラミッド形をしている。京都府岳連隊は惜しくも登頂に失敗。3年後、オーストリアのハンス・シェル隊が初登頂を果たしている。


 北の登山経験は、旧制松本高校時代に上高地や穂高の山を登るために、徳本峠を15回は越え、ディラン峰ではミナピン氷河上4236㍍まで登ったという。

 ところで、この小説には不思議なことに女性が登場しない。このことについて作家の林房雄は書評を次のように書いている。
「女は一人も出てこない。いや、出てくる。巻頭から巻末まで、純白の雪の肌の太古の乙女よりもたおやかな容姿を持つ、海抜七〇〇〇㍍の絶世の美女が…」と。なるほど納得である。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№142から転載

            ※北杜夫(本名・斎藤宗吉)さんの写真は、インターネットから引用しています

こんなにも大勢、高校生の登山大会ですって、雲取山=佐治ひろみ

 日時:2015年5月10日(日)、11日(月)

 メンバー:L武部実、脇野瑞枝、原田一孝、中野清子、佐治ひろみ、

『コース』

 ①西武秩父駅 9:10バス→三峰神社10:30~霧藻ヶ峰12:20/50~白岩山頂15:20~大ダワ16:15~雲取山荘16:45

 ②雲取山荘 5:50~山頂6:25~七ツ石8:45~七ツ石小屋9:00~鴨沢バス停12:45/バス13:53→奥多摩駅 


 西武秩父から、9:10の三峰行きのバスに乗る。休日の晴れとあって、人出が多く、バスは3台出る事になった。

 約1時間、山が近づくと、道路脇には真っ赤な山ツツジの花が咲いている。良い季節に登れて、この先楽しみだ。

 10:30 三峰神社駐車場をスタートし、白い鳥居の登山口で、登山届を出す。あんなにいたバスの乗客たちは、もはや四方に散ってしまい、登山者もまばらだ。ところが、奥宮分岐を過ぎ、霧藻ヶ峰に向かって歩いて行くと、若者のグループが次から次へと下りてくる。

 何ごとかと思い尋ねてみると、

 昨日、今日は埼玉の高校の登山大会だそうで、彼らは朝4時起きで、三峰神社から雲取山日帰りと言うからビックリだ。

 下りてくる高校生は、疲れも見せず、大きな声で挨拶してくれる。こちらも元気をもらう。延べ200人くらいの高校生と所々ですれ違いながら、12:20に霧藻ヶ峰に着く。


 ここで30分の昼食休憩をとる。西側の展望が良く、和名倉山方面が見える。

 霧藻ヶ峰からいったん下ると、すぐにお清平である。ここで昼食を食べている人がいた。これからが本格的な登りとなる。

 狭い尾根の急坂を一歩一歩登ってゆく。周りはツガ、シラビソの原生林で、下にはコケが密生し、いかにも奥秩父の山といった雰囲気が、とても素敵だ。


 前白岩、白岩小屋と過ぎてから、いよいよ白岩山頂が近づいてくる。原生林の中には鹿の姿が! やはり出たか!この辺を縄張りにしているらしく、かならず現れる鹿である。

 白岩山頂で休憩し、疲れた体に糖分を補給する。芋の木ドッケの木道は、すこし危なっかしい所もあるが、イワウチワの花があちこち咲いていて、カメラに収めながら歩く。


 大ダワを過ぎテント場に入ると、また高校生が沢山いた。各校、上級生たちはここでテントの一夜を過ごすそうだ。

 16:45に山荘に到着した。

 私たちは5人で一部屋を使わせてもらった。あまり混んでいないようだ。夕食までの時間ゆっくり一杯やる。夕食を食べ、明日のために早寝する。

 朝食は5時。今日も晴れの天気の中、5:50にスタートした。

 山頂まで30分の登り途中、ウソ鳥を発見。グレーと赤と黒色の綺麗な鳥だった。

 6:30 山頂からは富士山をはじめ周りの山々の景観がとても素晴らしく、感激。そして、みなで記念写真を撮った。
 石尾根を七ツ石まで下りて行く。

 この石尾根のカラマツの芽吹きが美しく、本当に見とれてしまう。七ツ石山頂から小屋まで下り、時間がたっぷりあるので、コーヒーを飲んだり、大休憩した。
 一つ驚いたことは、あのワイルドなトイレが素晴らしく綺麗になっていたことだ。


 50分の休憩後は、下山を開始した。
 12:45に、鴨沢バス停に着いた。13:53に、奥多摩行きのバスに乗る。月曜はどこも温泉が休みなので、駅前のお蕎麦屋さんで反省会をして、東京に戻る。


 新緑の山道が、とても印象的な2日間でした。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

新聞連載小説・山岳歴史小説「燃える山脈」が郷土の話題=松本・市民タイムス

 日本ペンクラブの忘年会が12月15日、東京・中央区の鉄鋼会館で開催された。夕方6時から2時間足らずで終わり、作家たちはそれぞれが2次会に流れた。

 私はあちらこちらから声をかけられた。野坂昭如さんが数日前に亡くなり、小中陽太郎さんが「野坂さんの歌のテープを聞かせるよ」というので、そちらに出むいた。
 

 その席上で、長野県安曇野市出身の作家・高橋克典さんから、
「市民タイムスの連載小説がすごい人気だよ。まさか、私の地元ちゅうの地元、おひざ元で、広島出身の穂高さんが連載するとは夢にも思わなかった」

 と絶賛してくれた。

「なにしろ、田植えも、稲刈りも、まったく知らない人が田園地帯の歴史小説を書くんだから、おどろきだよ」

「穂高って、だれだ。穂高岳、穂高神社など、著者名からして長野県人だと信じて疑わない。本名探しがはじまっている。それほど注目されているよ」

 飲み会の席で、松本市を中心とする新聞社だけに、東京では読めない。いろいろ質問された。

 10月1日に連載を介してから、約1か月後、同紙が10月29日号に、「燃える山脈」の特集号を掲載してくれた。

 その紙面を紹介してみた。

『物語は「プロローグ」から、来年開削200年を迎える安曇野の「拾ケ堰」(じゅうかせぎ)の章へとすすみ、水がないために米が作れない安曇野の地に、奈良井川から灌漑用水を引こうという当時の先駆者の勇気ある行動が展開されている

 年内は「湯屋の若女将」、「水の危機」の章が続く。物語はこれからが佳境、ますますめが離せない』

 燃える山脈では、拾ケ堰の開削や、上高地を越えた、岐阜県の飛彈を結ぶ、「飛州新道」の開拓に取り組んだ人たちの郷土愛や人間愛を描く。


 こうしたリード文で紹介されている。



 作者の私は「国民の祝日」が来年8月11日から施行されます。人間は山から多大な恩恵を受けています。それを改めて見直してみよう、というのがメインテーマです。

 拾ケ堰は水の恩恵、飛州新道は山道の恩恵、そして山岳信仰の三部構成になっています。人名と地名は実名ですが、物語はフィクションです。

 史料・資料の列記の学術書とは異なり、歴史小説は「人間って、こういうところがあるよな」と描写する文学です。そんなことを頭の片隅において、たのしんでください、と記している。


「拾ケ堰計画、次々と難問」と「ここまでのあらすじ」で、登場人物が紹介されている。


 同紙面では、
【拾ケ堰】が平成18年に農林水産省の「疎水百選」に選ばれた、と写真付きで紹介されけている。

【飛州新道】は当時の小倉村(現・安曇野市三郷小倉)から、大滝山(2,616㍍)を越え、上高地を経由し、焼岳(2,455 ㍍)の中尾峠を越え、飛騨高原中尾村に至った。
 着工から16年目にして、天保6(1835)年に完成した。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人も、この道を利用した。

紫蘭会40周年祝賀会=東京・京王プラザホテル

 朝日カルチャーセンターの登山教室から、紫蘭会はスタートした。いまから、40年まえだ。若き女性が青春の日々を過ごしてきた。当時は20歳だった人が、いつしか還暦になっている。

 カルチャーセンターで知り合った人が、こうも長く人間関係がつづけられるものか。おどろきだ。それじたいが登山の魅力を物語っているのだろう。

 国内外の山を歩く。天候の変化は激しい。時には生死をさまよう。テントの中で共同生活をしてきた。だから、強い絆ができたのだろう。

 厳しさの積み重ねは、人間の精神力を鍛える。とりもなおさず、仲間の連帯感を生みだす。山の魅力は仲間の魅力でもある。それぞれの心を惹きつけてはなさない。
 


 

 紫蘭会のリーダーは小倉董子さんだ。早稲田大学の初代女性登山部長だ。婦人画報社の記者の人生とともに、登山活動をつづけられてきた。

 山の指導者のエキスパートだ。現在は森林インストラクターの主任試験官でもある。



 紫蘭会では、『山の歌(40年の軌跡)」ができた。

 作詞は小倉董子さん、作曲は早稲田大学山岳部の後輩の久新太郎さんだ。

「素晴らしい歌です。『山歩き賛歌』として、公正に引き継ぎ、紫蘭会の歌として、伝えていきたいとねがっています」と司会者は語った。

 わたしは、小倉さんと知り合ったのは、ジャーナリスト活動をしていたころである。彼女の基調講演を聞いて、世に、それを送った。

 もはや10年になるだろう。活発な活動をしている。田部井順子さんなどと、TVなどでは、並行して、紹介されている。


 わたしは、小倉さんと同じ主賓席で、日本山岳協会の会長・神﨑忠男さんと同席した。12月5日の日本山岳会晩餐会で、神﨑さんは「永年勤続会員」で表彰された方である。代表スピーチは実にユーモアがあった。そんな話題で盃を重ね合った。

自民党・谷垣禎一さんから『穂高さん、名刺頂戴よ』= 日本山岳会・晩餐会

 日本山岳会は、創立110周年記念式典と、祝賀晩餐会が、2015年12月5日に、京王プラザホテル本館5階で開催された。皇太子殿下の参列の下、約600人があつまった。

  来賓祝の壇上で、「全国山の日」協議会の谷垣禎一(さだかず)会長が、来年8月11日から施行される国民祝日は、すでにカレンダーに赤い印がついており、第一階の全国大会は長野県・上高地に決まっています、と述べられた。

 この法律は、「山の日」が単に登山の日だけではなく、私たちが山に親しみ、山の恩恵を享受する場だと広く国民に認めてもらう機会であります。

 親と子が山の自然を楽しむ。そして、たくましい人材になってもらう。こうした取り組みでもあります、と述べられた。

 さらに、来年は日本山岳会がマナスル初登頂(世界初)の大偉業を成功させてから60周年記念にあたります。「山の日」と重ねあわせると、2016年は同山岳会にとっても、たいへん意義あるものです、と他に学会長は語った。

 日本山岳会晩餐会では会長挨拶、永年会員、新人紹介、鏡開など、恒例の催しものが展開された。
 これら一連の祝賀が終わると、各テーブルマスターの下で、歓談が行われた。


 わたしは歓談が一段落したころ、 「全国山の日」協議会の谷垣禎一会長のところに、タブレットをもって出むいた。現在・松本市本社の「『市民タイムス社』で、山の日に関連した、新聞連載をしています、とつたえた。「山岳歴史小説・『山は燃える』です。

『毎日なの?」
「はい。この10/1から来年3/31まで8か月、毎日ですから、240回連載です。松本市の画家の絵も毎回入っています。「山の日」に向けた記念小説です。

 さかのぼること、昨年五月に同法案が衆参両議院で可決された後、「山の日」推進メンバーの衛藤代議士、務台代議士などから、「山の日」らしい歴史山岳小説を書いてよ、と言われました。
 
 毎月2度は信州・飛騨に入り、深く取材してきました。約一年余りで、連載に入り、来年8月11日には単行本にして出版します。と概略伝えた。



「楽しみだね。ぜひ読ませて」
 そう言いながら、どんな内容なの? と質問された。


 安曇野は北アルプスの数千年、数百年のがけ崩れから、厚い砂礫岩の地層でした。川が地表深く入り、地表は水田ができない、不毛の地でした。とりもなおさず、水がない貧農の集落でした。

 安曇野は九州の海賊・あずみ族が移り住んだところである。
 農民らはいちずに水が欲しいと思いながら、飢えていた。

 文化・文政のころ、村の有志が、数百年の夢だった、農水路の開削に取り組んだ。奈良井川(旧・木曽川)から、15キロにもおよぶ等高線に沿った水平線の農水路だった。難行苦行。貧農には金がない。土木技術がない。まして水争いの地だ。土地の提供などあり得ない。暴漢に襲われるなど、不承諾の抵抗運動が起きた。十数年の粘り強い努力がなされても、光が見えなかった。


 東海道五十三次の続編の取材で、十辺舎一九が安曇野にやってきた。ここで、大逆転が起きた。そして、 松本藩も協力し、巨大な拾ケ堰が完成した。

 農水路が完成する。喜んでばかりいられない。青々とした水田が広範囲にできることは、米が余り、米価が暴落するになる。そこで、山国の飛騨へ米を送る道を手がけた。


 安曇野からまず常念岳山脈を越えて上高地に下る。そこから焼岳の肩を越える(旧・鎌倉街道)を通り飛騨への道をつくる。これは2600~2700の高所を二座越える、とてつもない大事業だった。

 さらには、政治的な高い壁があった。

 松本藩は許認可を出した。だが、飛騨がわは幕府の支配地で、機密主義である。鎌倉街道はかつて武田軍が信濃から五度も飛騨を攻めた、軍事の道だった。

 徳川家は江戸防衛から、鎌倉街道の開削を承諾しない。しかし、好機がきた。それが天保の大飢饉だった。交易の道が飛騨がわに必要となったのだ。

 この当時、槍ヶ岳を開山した播隆上人が安曇野にやってくる。農民らはそれを支援する。


   【皇太子殿下が撮影された写真のまえで、谷垣禎一さん】


 谷垣会長さんには、、『山の恩恵』の水で、拾ケ堰ができて、いまでは日本一住みたい緑豊かな安曇野になった。上高地を経由する山道で、江戸時代のいっとき交易が盛んになった。そして、山岳宗教が同時代にあった。

 文化・文政、天保時代の安曇野には、まさに祝「山の日」の恩恵を描く素材がありました「新聞小説は実名です。過去には地元作家すら書いたことがなく、大人気だそうです」
 とタブレットをみせながら、説明した。

「来年の8月11日に、その小説も花を添えるね」
 谷垣さんは、大いなる期待をしてくれた。
「期待しているよ。穂高さんの名刺を頂戴よ」
 谷垣さんから言われた。

2年前に名刺を交わしているが、その時は儀礼的だった。こんかいは自民党幹事長みずから、名刺を頂戴、と言われたので、この連載小説にたいして谷垣さんは期待してくれている、と強い気持ちが持もた。

第1回「山の日」記念全国大会は、長野県・上高地に正式決定

「山の日」協議会(谷垣会長)の臨時総会が、2015.11.20日(金)に、新宿区の主婦会館プラザで開催された。
 祝「山の日」が8.11が衆参両議院で可決成立するまで、同協議会は設立への推進団体だった。

 こんごは一般財団法人へと移行する。その承認ための臨時総会だった。近い将来は公益財団法人化を目指することへの承認を要する総会だった。

 来年は8月11日に、第1回国民の祝日「山の日」記念全国大会(仮称)が、長野県上高地で開催される。

(規約による)目的は、記念大会を開催を通し、『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日』である。そのうえで、山の日の意義、山の持つ多様な価値や恩恵ひろく周知・共有していく。と同時に、山の恵みに感謝する。理解を深めていく機会とする。

 第2回の同大会からは、『原則的に、本会会員であり、県、市町村、地域が一体となって招致するところ』とすることが、このたびの臨時総会で決められた。
 

 会場では、丸川珠代環境大臣がスピーチをしていた。同協議会の幹事長である。忙しいのかな。谷垣会長は最後まで議長役を務めていたけれど、早々と帰っていった。

貸し切りの山だった 奥多摩・大塚山(鉄五郎新道)= 栃金正一

1.期日 : 2015年4月17日(金)晴れ時々曇り

2.参加メンバ : L佐治ひろみ 栃金正一

3.コース : 古里駅~金毘羅神社~広沢山~大塚山~大楢峠~小楢峠~鳩ノ巣・城山~鳩ノ巣駅

 古里駅に8:30に集合。準備をして出発。青梅街道から左に入り、大きな橋を渡り切ってすぐ、右手の登山道を行く。
 更に少し行くと沢があり、小さな橋を渡り立派な滝を眺めながら道を右に分けて登ると大塚山への道標がある。杉の植林された道をどんどん行くと金毘羅神社の鳥居がある。鳥居をくぐり右手の高台に祠があるのでお参りする。

 登山道に戻り尾根伝いの道を行くと、道の脇の枝に「岩団扇保護地」の標識が付けてあった。あたりを見回すと、白い小さな「イワウチワ」が咲いていた。
 この辺りは、自然林になっており芽吹いたばかりのうす緑の若葉もきれいだ。道は傾斜が急になりジグザグの道を登りきると尾根上の広場に出て、ここから平坦な道になり、少し行くと10:50広沢山に到着。木に広沢山の標識が付いている。

 更に尾根上の平坦な道を行くと電波塔があり、少し登ると大塚山に11:15到着。山頂には、人は誰もいなく貸し切り状態でゆっくりと昼食をとった。
 標識の前で記念写真を撮り11:55に出発した。

 ここから道はハイキングコースになっており、途中の富士峰園地では、大きな「カタクリ」の花が咲いていた。
 ワラぶき屋根の宿坊のところを右に曲がり山道に入り、延々と山腹をトラバースして行くと大きな「コナラ」の木がある大楢峠に13:15到着した。

 今にも倒れそうな巨木の脇を通り上坂方面の道に入り、途中から道標に従い鳩ノ巣・城山方面に行く。

 小楢峠までは、急斜面の下りで慎重に足を運ぶ。小楢峠には、すごく小さな標識が付いていた。ここからは前方に鳩ノ巣・城山が大きくそびえているのが見える。
 登りはかなり急だが道がしっかりしているので、思ったより苦労しないで鳩ノ巣・城山に14:00に到着。

 山頂は、広々としていて「ヒノキ」の30m位ある立派な植林に囲まれており三等三角点もある。展望はないが静かで何故か気持ちが落ち着く。

 ここからは、尾根伝いに急な下りが続くが、道はしっかりしているのでゆっくり歩けば問題はない。最後に杉林のジグザグの道を下り14:40道路に出た。大きな橋を渡ると鳩ノ巣駅はすぐそこである。駅の近くのおいしいお蕎麦屋さんで反省会を行った。
 天気も良く花や新緑もきれいで、人のいない静かな山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№189から転載

なぜ板橋区に? 植村冒険館・見学 = 武部 実

平成27年8月13日(木) 

参加メンバー:L武部、伊東、三浦、蠣崎、中野の5人

 この日は御岳山の山行が予定されていたが、雨天予報で中止になったので急遽計画したのである。
 植村冒険館という名の通り、冒険家植村直己を顕彰するために設立したものであるが、生誕地の兵庫県日高町(現在の豊岡市)には、植村直己冒険館が設立されているのである。

 なぜ板橋区に、と思うが、植村直己が東京にいた15年間を板橋区に住んでいて、ここからエベレストの登頂や北極圏の犬ゾリ単独行が行われたという縁で設立したということだ。

(冒険館の写真パネルより、エベレスト登頂)

 【植村直己の簡単な足跡】冒険館パンフより
1941年 兵庫県日高町生まれ
1966年 モンブラン、キリマンジャロ単独登頂
1968年 アコンカグア単独登頂
1970年 エベレスト日本人として初めて登頂
 
 マッキンリー単独登頂(世界初の五大陸最高峰登頂者)
  注;8月30日マッキンリーを、先住民が読んできたデナリと改称。

1977年 北極点単独犬ゾリ到達(世界初)
1984年 冬季マッキンリー単独登頂(世界初)登頂成功を伝える無線交信を最後に消息を絶つ(43歳)
      
 冒険館に入って1階は図書館だ。冒険、探検、登山、アウトドアに関する本が5000冊もあるそうだ。ちなみに上村代表の書かれた本も、ざっと見つけただけでも4冊はありました。『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』といった雑誌のバックナンバーも揃っているということだ。

 貸出もできるが、遠くの人は返却が大変だ。郵送での返却もOKだが、郵送料と交通費とどっちが安いか考えますよね。
 オリジナルグッズも販売しているので、お求めになるのも記念になっていいかも。

 2階は展示室。1970年に日本人として初めてエベレストに登頂した時の装備品、写真パネルはエベレストのほか北極点犬ゾリ単独到達などが展示してある。国民栄誉賞の楯や賞状も展示されている。
 DVD「植村直己の世界」が1時間10分おきに放映されていて、ゆっくりと鑑賞するのもいいだろう。
 2階建ての小さな記念館だが、いまどき入場料無料は立派。ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

【植村冒険館の行きかた】

所在地 東京都板橋区蓮根2-21-5
 TEL 03-3969-7421

開館時間 10:00~18:00

交通 都営三田線 蓮根駅 徒歩5分

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№193から転載

山岳エッセイ・梅雨空に白 = 市田淳子

 今日7月7日は二十四節気の小暑。昨日6日は朝から雨で次の日が小暑とは思えない気温だった。
 職場では窓を開けっぱなしにしておくと寒くなって、春先に着るパーカーを羽織るほど。蒸し暑いばかりの梅雨だけではないと、ちょっとホッとする。

 少し遡って7月2日は七十二候の半夏生(はんげしょう)。農家ではこの日に天から毒気が降りてくるから、この頃までに農作業を終えなければならないという言い伝えがあるそうだ。ちょうどこの頃咲く花にハンゲショウがある。

 音が同じでも直接の関係はないというのが面倒だ。ハンゲショウが花開く頃、花に近い葉の一部またはほとんどが白くなる。花と言っても花弁も萼もない。

 だから、花粉を運んでくれる昆虫に目立つように、雄花と雌花のめぐり逢いのお膳立ての時期が近づくと白くなるらしい。植物は肉食だ!

 誰もが知っている同じ仲間のドクダミも、よく似た特徴がある。

 花弁のように見える4枚の白い部分は総苞片といい花弁ではない。ハンゲショウ同様、昆虫を誘惑するためのものらしい。この二つ、私は匂いも結構似ていると思う。

 ドクダミの白い部分は花が終わるころには枯れて茶色くなるが、ハンゲショウの白い部分は、再び緑色になるのは凄いと思う。
 白いままだと光合成できないから、確かに枯れてしまっては不経済だが、そんな戦略を進化の過程で選択したのだろう。

 ハンゲショウと同様、マタタビも花が咲く時期になると、花が咲く枝の先端の葉の一部かほとんどが白くなる。(左の写真は葉、右は花)。

 山に行っても目の前で見られることは少なく遠くの山肌に白く見えるだけ。花は下向きなので、遠くから見ると白く変わった葉だけが目立つのだ。

 動物たちは動き回ってパートナーを見つけられるが、植物は自力でパートナーを見つけることが難しい。動物よりはるかに下等な植物がこうして長い年月をかけて進化してきたことを知れば知るほど、植物が愛おしくなる。

 そんな健気に生きる植物満載の山に登り、山頂で写真を撮るだけではもったいない。彼らの生き方に目も心も向けたい。心惹かれたら、下界に下りてから誰かに話して、山の素晴らしさをたくさんの人に伝えられたらと思う。
                           (森林インストラクター)

         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集