明治の登山家と松本サリン事件=上村信太郎
平成6年6月27日深夜、長野県松本市北深志の住宅街に化学兵器サリンが散布される事件が発生した。それが住民8人死亡、数百人が負傷するという未曾有のあのテロ事件であった。
当初、県警は事件の第一通報者であり、被害者の河野義行さん宅を家宅捜索して多量の薬品類を押収。河野さんを殺人未遂の重要参考人として取り調べ、事件の原因がサリンと判明してからも続けられた。ずっと後になってから冤罪だったとして警察関係者、新聞社、テレビ局などが河野さんへの謝罪を余儀なくされたのは周知のとおりである。
事件で自身がサリンの被害に遭い、同時に奥さんを亡くされた河野さんを気の毒に感じていたところ、日本山岳会の会報『山927号』に河野義行さんに関する短い記事を見つけたのでここに紹介することにした。
記事のタイトルは「河野齢蔵の写真貼」、執筆者は長野県在住の登山史研究家の牛丸工氏。河野齢蔵は長野県生まれ。「日本山岳会」創期会員であり会員番号は九六番。明治から昭和の初めにかけての登山家、博物学者、山岳写真家、高山植物研究家、教育者としても活躍した人物だ。
四男三女に恵まれたが、男の子はいずれも幼少で亡くなり、後継男子がいなかったのでのちに義行さんが養子になった。」のだという。
東京新聞出版局刊『岳人辞典』によれば、「河野齢蔵は長野県出身。慶応元年生まれ。
登山は、明治26年夏の乗鞍岳、明治31年白馬岳、明治37年赤石岳登山、赤石山頂に2泊して高山植物の写真を撮る。昭和7年利尻・礼文植物採集、さらに千島チャチャヌプリ岳でコマクサ群落発見。明治44年に信濃山岳研究会を創立。登山の普及に努めた。著書は『日本アルプス登山案内』『日本高山植物図説』などがある。」と紹介されている。
このほか、日本山岳会の機関誌『山岳』には河野齢蔵の肖像写真が掲載されている。その姿は旧百円紙幣の板垣退助ソックリのヒゲ姿。また、大正2年に赤石山脈で採集した新種の植物の学名は発見者の名をとって「ロニセラ・コーノイ」と命名されたとの信濃毎日新聞記事も見つけることができた。
それにしても義行さんはサリン事件の容疑者にされた多量の薬品をなぜ持っていたのだろうとずっと不思議に感じていたが、牛丸氏はその点について「松本サリン事件の際、通報者の河野さんの家が家宅捜索され、大量の薬品が出てきたため〈お前が犯人だ〉とされてしまったが、この薬品は博物学者の河野齢蔵が雷鳥などを剥製にするための薬品の小瓶で、半世紀以上経っても多数残されて家にあった。」と書いている。
おそらく義行さんは、尊敬する父が使った多量の瓶を大切に保管していた。そのことが不運にも捜査員の疑惑を招くことになってしまったのかもしれない。
今回、長年の疑問が解け、同時に明治期の一人の著名な登山家の存在を知り得たことでこの文章を書いた。 (記・上村)
(ハイキングサークル「すにいかあ俱楽部」会報№282から転載)