A030-登山家

「山の日」大崎上島・神峰山大会=『初潮のお地蔵さま』 【冒頭の一節】(4)

 うすい単衣(ひとえ)姿の13歳の恵美(えみ)が、女郎屋(じょろや)『立木屋(たちきや)』に連れてこられてから、すでに2か月半が経(た)つ。

 清楚な娘にはおよそ縁遠い場所だった。
 立木屋は、大崎上島の木江(きのえ)港にあり、『一貫目(いっかんめ)遊郭街(ゆうかくがい)』と呼ばれる目立つ場所にあった。

 朝日が昇るまえ、室内がうす暗いうちから、彼女は働きづめである。釜戸(かまど)に枯れ松葉をつかって火を熾(おこ)す。土間の窓ガラスまだうす闇で、恵美のはたらく姿が写る。
 細面の恵美は、二重瞼で、目鼻立ちがはっきりしている。艶(つや)のある黒髪は、後ろで束ねて輪ゴム一つで結ばれていた。

 台所の一角には、近所の造船所の廃材が積み重ねられていた。恵美はそれを鉈(なた)で細く割り、釜戸に入れて赤い火を大きくする。

 釜戸の火が上手(うま)くまわると、ぞうりを脱ぎ、板の間の食堂にあがり、折り畳み式の長テープを3つならべる。それぞれの四脚を開く。背丈ほどの戸棚(とだな)から、姐さんたち7人の食器、箸、湯呑み茶碗をテーブルにならべていく。

「順番がまちがうと、姐さんたちから癇癪(かんしゃく)玉(たま)を投げつけられる。この位置で大丈夫かしら」
 食器類を個々におく位置すら、彼女は慎重(しんちょう)にも慎重をきす。それとは別に、立木家の四人家族用の食器類をお盆にのせはじめた。


「もう6時まえ。急がなければ……。朝帰りの早い船員がいると、たいへん」
 彼女の視線が壁のながい柱時計にながれた。
 帰りぎわの男の顔を見たらいけない、といわれている。泊り客が帰る前に、玄関を掃除しておかないと叱られる。

 
 この家屋はかつて造船所経営の大金持ちの豪華な私邸であったと聞く。終戦直後の混乱期に、没落し、それを立木屋が買いとり、海岸通りに面した母屋が女郎屋に改造された。
 一階は遊郭特有の格子(こうし)造りの「切見世(きりみせ)」で、夜ともなれば、室内灯で姐さんたちの顔が海岸通りからしっかりみえる。

 平均年齢が23歳の『一夜妻(いちやづま)』とよばれる7人の姐さんたちは、二階、三階の小部屋に割り当てられている。

 母屋の正面玄関にまわった恵美は、急ぎはき掃除をしてから、白い盛り塩をする。一夜宿泊した船員らを見送る姐さんの気配を感じると、恵美はさっと路地横に身を隠した。そして、裏木戸から土間の台所にもどってきた。


 窓からは夜が明けた庭の樹木が、鮮明にみえる。中庭には築山(つきやま)と池と奇岩(きがん)が豪勢に配置している。庭をかこむ三方の建物は、渡廊下でつながる。


 表の海岸通からみれば、裏手となる別棟は戦前からの豪華な造りのままで、立木家の家族4人が優雅(ゆうが)に暮らす。姐さんたちの生活空間と、家族とはほぼ切り離されていた。もう一か所、宗箇(そうこ)流の茶室が残っている。
 立木夫婦には茶の心得がまったくなく、家族の食事の場につかわれていた。


 立木家族4人用の料理は、7時半ころに茶室に運んでおくと、あとは女将の富士子がやってくれる。
 
 姐さんたちの寝起きの時間はまちまちで、遅いものは10時、12時である。恵美は中庭の掃除や、外庭の雑草取りなどをおこなう。この間に、姐さんたちが食堂に現われると、台所にもどり、ご飯と、みそ汁を装う。


 朝の姐さんたちは衣服が肌だけたり、パジャマ姿だったり、下着のシミーズ姿だったりする。厚化粧すら落とさず、思いのまま座布団に腰を下ろす。
「はい。ご飯です、みそ汁です」
 長テーブルには共有できる海苔(のり)のビン詰、漬物の鉢(はち)、つくだ煮(に)がある。おかずは個々に一品ずつおかれている。

「よく働くわね、恵美ちゃんは。こんな女郎屋につくしても、損するだけよ。すこし要領をおぼえなさい」
 喜代美は19歳の垢ぬけがした都会風の姐さんだった。

 気性が強い喜代美は、沖女郎(おきじょろう)といわれ、夕方にはおちょろ舟に乗る。ときには座敷女郎(ざしきじょろう)として、母屋の1階格子造(こうしづく)りの「切見世(きりみせ)」にでる。恵美を親身に可愛がってくれる。

「損でも、咎(とが)められるより、益(ま)しだから」
 恵美の目には、ふだんから何かしら怖れてビクビクした光があった。
「恐怖心で、縛(しば)りつけるのが女郎屋の手口よね」
 喜代美はやや小声で、そう批判した。他の3人の姐さんは、女郎屋の悪口に関わらない態度で食事を摂(と)っていた。

「宿命ですから」
「そうだろうけど、手を抜けない性格(たち)じゃないの、恵美ちゃんは」
 それだけいうと、喜代美は長テーブルで向かいあった3人の姐さんたちと、昨夜のお客の品評に入っていく。ほとんどが船員の態度の悪態とか、こき下ろとかである。
 ごく自然に耳に入ってくるので、恵美には、男とはいやらしいもの、変態(へんたい)だという先入観が育っていた。

                     【了】

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