「山の日」大崎上島・神峰山大会=『ちょろ押しの源さん』 【冒頭の一節】(3)
祖父の大学ノートが押入れの片隅から見つかった。セピア色に染まったノートの書体は古い。
祖父はいっとき瀬戸内海に浮かぶ大崎上島の木江(きのえ)中学校の教員だった。ノートを読む私には、祖父の島嶼(しま)の生活やしごとメモにさして関心がなかった。
一方で、克明に記載(きさい)された『ちょろ押しの源さん』には、つよくこころが引き込まれるものがあった。
太平洋戦争の敗戦後で、世のなかがまだ食糧難のとき、ひときわキラキラ輝いていた港町があった、と祖父は特徴を書いていた。これは日記かな? 祖父は小説家に憧(あこが)れていた節があったようだから、取材メモかな。どちらにでもうけとれる内容だった。
祖父の古い大学ノートをもった私は、真夏に、現地の島を訪ねることにきめた。呉線の竹原港から、大崎上島行きの高速連絡船に乗船した。
瀬戸内の澄んだ青い海上に浮かぶ、どこか富士山に似た名峰があった。
わたしの視線の方角を知ったのだろう、乗船客の年配女性が、
「あれは神峰山(かんのみねやま)よ。悲劇のお地蔵さんが数百体もあるの。いまでも、大切にされてね。夏場は、みんなして冷水をくみ上げて、お地蔵さまを水で洗って、磨いて、亡くなった若い娘たちを祈ってあげているのよ」
とおしえてくれた。
その数の多さにおどろかされながら、どんな悲劇なのか、と問う間もなく、高速艇が大崎上島に到着した。
祖父が『ちょろ押しの源さん』を書いたのは昭和20年代後半だろう。祖父とちょろ押しの源さんは、ともに将棋が好きだったらしい。
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海べりの枝ぶりのよい桜が満開だった。土曜の午後から、私は桜の樹の下で、縁台将棋に興(きょう)じていた。あいては「ちょろ押しの源さん」だ。私が木江(きのえ)中学校に赴任してから、ここ一年半で、もっとも気が合う人物である。生年月日がぴたりおなじ。ともに将棋が好きである。
角ばった顔の源さんは、37歳で単身だ。いつも頭に捩(ねじ)りタオルを巻いている。なぜ独り者か、かれは語らず、こちらも聞かずで今日まできた。
そもそも将棋が縁で知り合った源さんだが、中学教師とちょろ押し、この組み合わせが町で面白がられている。
木江港は、奥深く弓なりの湾で、造船所、女郎屋が海岸にひしめく。一貫目(いっかんめ)、そして天満(てんま)と夜の遊郭(ゆうかく)の街が二か所で形成されていた。
ちょろ押しの源さんが「本船」という停泊ちゅうの貨物船、油槽船、鉱石船、砂利運搬船などが、港内の係留(けいりゅう)からあふれて、沖合遠くまで停泊している。日々、賑わう港町である。
その本船に乗りこんで身を売る女性には、申し訳ないけれど、暮れゆく夕凪(ゆうなぎ)の風景は情感に満ちている。神峰山の肩に夕陽が落ちると、あかね色の空と夕焼雲と山稜のシルエットが、研磨(けんま)された鏡のような海面にくっきり映る。
幻想的な港内に、おちょろ舟という屋形船が、ぎー、ぎーとしずかな音を立てて滑っていく。おちょろ舟自体が、情感に寄与している。
そこには「姐(ねえ)さん」とよばれる女郎が6、7人ほど乗っている。洋装、和装の彼女たちはおおむね二十歳前後である。
港の女郎屋ごとに、最低でも一隻のおちょろ舟をもっているようだ。
それらおちょろ舟は好き勝手に、波止場から漕(こ)ぎだせないルールがある。
陽がだいぶ斜めになると、突如として港の鼻(はな)の検番(けんばん)から、太鼓(たいこ)が鳴りひびく。一貫目、天満という遊郭の岸の双方から、30隻くらい、もっと、それ以上かもしれない、船頭のおちょろ舟が、一斉にスタートする。
ちょろ押しが懸命に艪(ろ)を漕(こ)ぐ。まさに壮大な海の競演である。
本船に次つぎと接舷(せつげん)していく。横づけした順番に優先権があり、おちょろ舟の姐さんたちが、本船のタラップから甲板にあがっていく。
「ワシが懸命に漕いで、おちょろ舟を本船に一番付けさせると、姐(ねえ)さんたちの客の寄り付きがよい。女郎屋の水揚げ高も上がる」
「源さんには、一番になるコツはあるの?」
「コツは大いにある。検番の太鼓が鳴るまえに、まず作戦をじっくり練るんだ。入航船の、どの本船の船員が羽振(はぶ)りがよいか、お金をもっていそうか、と見定める。そして、獲物の本船と、一貫目の波止場との距離を目測(もくそく)する。ライバルの天満のちょろ押しの腕っぷしと比べたうえで、漕(こ)ぐコースを決めるんだ」
「どの船が金をもっているか、陸上から判別できるの?」
疑問をむけた私が将棋盤で、「角」を打つと、首筋が太くいかり肩の源さんは強力な「桂馬」を守備につけて好手をみせた。