仙丈岳と甲斐駒岳に登った男たちと、山頂に登らない奴の物語り。(中)
山岳で遭難しない、最大のコツはなにか。それは「ムリしない」ことである。なにをもって無理だ、無謀だと判断するか。これがむずかしいね。
「ムリに山頂に登ろうとしない」。これが安全登山の一つ指針だ。『山頂まで登らない訓練』が、いま開発ちゅうだという。
隠忍自重の精神を養う。それが安全登山教育だ
集団登山でありながら、最初から単独行だから、被写体がいない。「モデルになってくれますか」と声がけすれば、快く応じてくれた。
東北大学・山岳部の部員だった。
将来の日本山岳会のメンバーかもね。
9月12日(土)10時の広河原行きのバスが集合だった。
早朝。東京に強い地震があった。JR電車、私鉄、高速バスの交通機関はガタガタに狂ってしまう。もう、ここから7人のパーティーはずっこけていた。
甲府からの臨時バスはガラガラで、乗客は5人ていどだった。それでも、女車掌が美声で、ずっとガイドしてくれる。いまどき定時バスにガイドとは驚きだったな。
年季が入っていたね、その内容には。
「よし。帰りは甲府城と信玄堤に立ち寄って帰えろっ」と気持はもはや下山後になっていた。
登山基地の北沢峠についた。
3日後の帰路のバスの時間を確かめる。平日と祝日は違う。季節によっても違う。それをAとBで表示するから、妙に解りにくい。
あげくの果てに、いいや、下山してからでも、そんな時間は、となってしまう。
最初から、仙丈岳と甲斐駒岳をめざす男たちと、頭から、山頂に登らない奴がひとりいた。
交通費と3泊の山小屋の費用(ビール代を入れると、30000円強)、かなりのコストをかけてきて、頭から山頂をめざさない。これには精神力がかなり要求される。
「これからの登山には、山頂に登らない訓練が必要である。遭難しないためには、自制心を養う必要がある」
ものは言いようだね。高所登山には体力が追い付かない。そんなことはおくびにも出さないし。
「体力に見合った登山も、自制心だよ」というならば、勝手にどうぞ、と若者は見下すのみである。
古代から江戸中期まで、修験者たちは山腹の洞窟で念仏修行したり、滝に打たれたりしたものだ。日本人が競って山頂を目指すようになったのは、元禄時代の円空上人あたりからだ。山頂に祠をおいて開山・開闢(かいびゃく)するようになった。
西洋登山は信仰よりも、貴族のスポーツとして、ひたすら険しい登攀(とうはん)をおこなっていた。やがて、それがエベレストなど、ヒマラヤ登山に結びついた。
日本でも、江戸時代初期に、谷川岳の一ノ倉の大岩壁に仏像を奉納されているから、技量的な面では、たいしたものだと思う。
決して、日本の岩登りの技術が劣っていたわけではない。それなのに、明治時代から、西洋式の貴族アルピニズムに支配されてしまった。
劣るとすれば、技量でなく、装備だった。日本はワラジ・金剛杖、片や西洋はピッケル・アイゼンだった。つまり、お金持ちでなければ、山に登れなかった。
孤独のなかで撮影する。これは芸術的な美の表現か、小学生でも撮影できる写真か。観る人によって評価がちがうはずだ。
その実、著名写真家の撮影だといえば、すごい、というし。ずぶの素人が撮ったといえば、なんだ、こんな写真となる。
人間の価値観って、そんなものだよな。写真展、絵画展に行けば、そんな人だらけだったな。
9月13日(日)お昼時に、全員が会いましたね。小仙丈岳の手前だった。
仙丈岳の山頂は、「寒かったな。風が強くて。とても長くいられなかった」という感想からしても、懸命に登ったのだろう。アルピニズムで。
あと2か月もすれば、凍死していたかもね。この季節でよかったね。
森林を舞台に、一つ余興でもやるか。動画で撮るほどの演技でもなかった。
あんな楽に飛来できる文明のヘリがありながら、登山者よ、なぜ足で登る?
解っていないな。どっちが?
カップルに「被写体になってくれますかね」と問えば、気持ちよく応じてくれた。
秘められた仲ならば、断わられただろうな。
山ガールを呼びとめて、被写体になってもらいたかった。
最近の傾向として、10-30代の女性はわりに快くモデルになってくれる。
しかし、「何に使うの」と棘とげしく言うのが、オールディーズの相場だ。
若い女性が来ないから、というのも、自尊心を傷つけるだろう。だから、声掛けせずに、この方が良いだろうと判断した。
初日は、無事に北沢峠についた。あすはどっちの山か。どうせ、山頂には登る気がないから、気の向くままでいいさ。
こんな快晴で、山頂に登らない。やっぱり体力不足ならば、山頂まで無理しない。これも、山の鉄則さ。中高年の登山安全教室になったかな。