A030-登山家

三浦家の究極の親子登山(3)「山の日」フォーラム=東京・有楽町


 「山の日」フォーラムの3月28日は、スペシャル・トークショーで、三浦雄一郎さん一家が壇上に登場した。3代にわたる登山・スキー一家で、日本を代表するアドベンチャー・ファミリーである。

 雄一郎さんは2013年に、80歳で3度目のエベレストを登頂し、世界最高年齢者の登頂記録を更新した。偉業をたてた背景には、家族の大きな支えがあった。

 それを裏づける三浦家の想い出の登山写真が披露され、家族・親子の絆がエピソードとして語られた。


 三浦雄一郎さんは964年7月に、イタリア・キロメーターランセで、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立した。
 エベレスト 8000メートル地点からのパラシュートを使用した直滑降なども行った。

 その後、世界初の七大陸最高峰のスキー滑降達成など、数々の世界的な記録を打ち立てている。


 雄一郎さんは子どもの頃、父親・敬三さんに連れられて八甲田山のスキーをはじめた。当時はリフトがなかった。ゲレンデスキーは畑スキーとして軽視し、スキー板を担いで山を登り、そして滑降していた。

 北海道大学時代は、冬はスキー部員として、日高、知床の雪山で滑っていた。夏は山岳部で過ごした。

 結婚後、雄一郎さんは立山・剣岳で、ボッカをやり、子育ての資金を稼いでいた。
「立山・剣にTVクルーが来ると、撮影器材が重いので、良い値段になりました。現代の感覚では、日当10万円くらいです。私は積極的に荷を背負いました」(他の人は嫌がっていたけれど)。

「最大で、120㎏を背負ったことがある」というと、会場から驚きのどよめきが起きた。

 ボッカ稼業の合間のヒマな時に、立山の難しそうな雪渓を滑っていた。カントリー・スキーから冒険スキーに自然に変更していった。

「エベレストのベースキャンプで、シェルパーの子どもたちが遊んでいた。雄太を連れて来よう」
 それが親子の絆登山の着想の一つになったと話す。

 

 長女の恵美里(えみり)さんは、もの心ついた時から、ザックに入り、山に登っていた。4歳の時に、富士山に登った。それは最年少富士登山の記録となった。

「小学生時代、学校を休まされて、山に登らされていました。三浦家は12歳になると、海外に出されるのです」

 恵美里さんは中学1年から米国留学を行った。夏に帰国すると、「ヒマラヤに行くぞ」と言われました。つねに、登山がついて回っていた。

 3人兄弟だが、「お願いだから、学校に行かせ」と次男の豪太(ごうた)さんなどは、父親に訴えていたと明かす。


「親に感謝できたのは、20-30年後になってからでした。いま、アウトドアで生命の危険を感じるときに、幼いころから山に登っていたし、敏捷に対処できます。親のお蔭だと思っています」



 長男・雄太さんは、幼いころの父親の想い出を語る。

「天気がいい日は、学校に行かず、山に登らされました。飛行機を買ってくれるからといい、ヒマラヤに行きました。象やライオンに会えるぞ、とアフリカのキリマンジャロにも連れて行かれました」


「教育委員会で聞くと、小学校は半分出席すれば、卒業できると聞いていた」
 雄一郎さんが、口を挟んだ。


 キリマンジャロ(標高5,895m)は少年には厳しかったようだ。
 高所登山だから夜出発する。およそ氷点下25度になる。子どもには過酷だ。太陽が上がると、身体が温まってきた。
 どんな苦労でも、がんばれば、その先に太陽がある、と子どもながらに知りえた。


 雄太さんは、父親の80歳エベレスト登頂ではベースキャンプで、気象と通信を担当した。3度のエベレスト登頂から、家族は役割分担、共同作業から、親子の絆を強く感じとれたという。

「私自身が子どもをもってみて、親子登山の良さが実感としてわかります」
 雄太さんはそう強調した。

 


 司会進行役は国際山岳ガイドの近藤謙司さんだ。会場の方々には、三浦一家のユニーク姿な紹介をしてから、かれは一つの出会いを語った。

 エベレスト登頂した後、80歳で登ってくる三浦さんパーティーと、山頂直下ですれ違ったのだ。

「町で出会ったような、挨拶を交わしました。80歳の三浦さんがあと一歩、頑張っている。私のチームで登頂できなかった人がいた。三浦さんよりも、ずっと若い。その方はとても落胆していましたよ」
 そう紹介してから、
「私はある出来事に気づいたのです。そこで無線を使って下山してくる仲間に、悪いな、ピッケルを忘れた、持っておりてくれ、と頼みました。あいよ。ふつう感覚でした」
 と快活な口調で、8000メートル以上の高所とは思えない、失敗談を披露した。
 
「私はベースキャンプで、その近藤さんの無線を傍受していました。エベレスト山頂附近のやり取りとは思えず、とても可笑しかったです」
 雄太さんも愉快なエピソードとして話に加わった。

 会場は山岳関係者が多かったと思われるが、それには聴衆者はあ然としていた。いろいろな話が聞けるものだ。


 三浦敬三さんは100歳の時に、アメリカ・ユタ州のスキー場で滑った。カーター大統領に賞賛された、と語る。
 亡くなる101歳まで、現役のスキーヤーとして活躍された。

 三浦家はまさに3代にわたる、スケールの大きなアドベンチャー・ファミリーである。それぞれがとても明るく語られるので、会場には快い親しみのある空気が漂っていた。


 このスペシャル・トークでは「教育とは何か」と考えさせられた。三浦家の家族の絆には、型通りの義務教育とは違った、独自の教育方針が底流にある。

「世界に通用する人材を育成する、となると学校一辺倒、学校任せではだめである」

 三浦雄一郎さんは、子どもたちが社会人になった将来の姿から遡(さかのぼ)り、育児、子育て、家庭内教育、学校選びなどを考えてきた。それを実践・実行してきた三浦さんこそ、本ものの教育者に違いない。敬服した。

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