富士山には、根深い対立構造あり。聖護院の修験者(山伏)が百数十年ぶりに入峰修行
全国の修験者(山伏)は聖護院、醍醐寺、金峯山寺の3派に分かれている。むろん、細かくいうと無数にあるけれど。富士山の山頂はかつて聖護院(京都)の下で、大日堂が建立されていた。明治初(1868)年から出された『神仏分離令』がきっかけに、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が全国にひろまり、聖護院は熊野や富士山などから追われた。
明治政府が急激に神道強制を行った、影響は大きく、廃仏毀釈は全国的な広がりを持った。とくに過激派神官らが中心となり、仏教施設の破壊運動にまで発展した。『インドから渡ってきた仏教を打ち壊し、日本からの天照大神(あまてらす おおみかみ)を崇める』いう考えにまでおよんだものだ。
この折、富士山頂の大日堂は、村山(富士宮市)の浅間神社の境内に移された。他方で、仏像や仏具などは徹底的に破壊された。
富士山の開山式が毎年、7月1日、静岡県側と山梨県側の各所で行われる。村山の浅間神社および大日堂も一つ。京都・聖護院からは例年数名の修験者が出向いてくる。富士宮市長など多数が参列。開山式は朝10時だった。
開山式は各TVでも放映されるし、東京からの私は時間的にもムリなので、当初から開山式に出むかなかった。開山式のあとに、つよい興味があったのだ。
聖護院はこんかい修験者11人を送り込み、「村山古道」を登る。その道案内人は、畠堀操八さん(藤沢市在住、登山家)だ。彼は数年前に、廃道となっていた村山古道を世に知らしめた人物である。
聖護院の富士山の入山は、明治5年には修験道禁止令が出されてから絶たれていた。近年盛大になってきた、開山祭りでは、神官による開山式のほかに、山伏による護摩供養は復活していた。
今年はさらに聖護院の修験者(山伏)たちが富士山の山頂まで、入峰修行に入るのだ。これは実に百数十年ぶり。歴史的な価値がある。つまり、報道価値がある、と判断して同行したのだ。
これだけならば、スマートな話である。
富士山は、ユネスコの『世界自然遺産』の認定に失敗している。文化庁はそれならばと『世界文化遺産』の申請へと動いている。文化庁、静岡県、富士宮市教育委員会というトップダウン方式で、世界文化遺産の構成要素としての文化財の集約を行う。村山古道も加える方向だ。
富士宮市の関係者とすれば、村山古道および周辺の遺跡、神社仏閣など歴史にもくわしい畠堀操八さんはよそ者(藤沢市)だし、迷惑な存在。一部の人は、畠堀さんをどうも排除したいようだ。少なくとも、取材する、私(穂高)にはそう推量できるのだ。他方で、地元の村山を中心に、畠堀さんを必要とする声があることも事実だ。
もう一つ、悪乗りしたのが、静岡森林監督署だ。昨年6月まで入山を認めてきた村山古道は、登山道として認めないとか、文化財の調査中で立入禁止とか、電話で禁止してきたというのだ。(畠堀さん談)。
その背景の一つが、林野庁が青森県の奥入瀬落木訴訟(遊歩道で、女性の大学院生が頭上から落ちた樹木で不随になった事件)で敗訴になった。となると、国有林に人間を入れなければ、事故が起きない、という役人の短絡的な発想らしい。署長は自分の任期中に、富士山の国有林で、登山者の事故がおきてほしくない。だったら、禁止にするのが無難だ、というキャリアの発想らしい。(畠堀さん談)。
これらを総合すれば、聖護院が百数十年ぶりに、林野庁が登山を禁止した、村山古道を登る、という点を推し進めれば、宗教対国家という対立構造になる。
1日夜は同取材で、村山宿泊所で泊まった。同じ部屋のジャーナリスト、カメラマン、畠堀さんなどと情報交換をした。
林野庁が、聖護院の修験者たちの入山を強行に妨害すれば、憲法20条(信教の自由)の争いになる。そこまで静岡森林監督署はやりたくないだろう。度胸がないだろう。それが共通認識であり、話しが遅くまで及んだ。
2日の4時15分に村山集落を出発した。聖護院の同行取材は、PJニュースに書く予定である。
予想通り、林野庁の妨害もなく、修験者(山伏)たちは、ほら貝を吹きながら、山頂に登った。3日目は、9合目からご来光を見た。帯状の雲間から出てきた、射光はことのほか美しかった
富士山はまだ数少ない登山者だ。すれ違うと、山伏に驚き、カメラを向けていた。とくに欧米の外国人は立ち止まったり、一緒に写りたがっていた。