A030-登山家

北アルプス・裏銀座縦走 雲ノ平から三俣蓮華岳③

 雲ノ平山荘で、伊藤二朗さんから2時間ほど、山小屋の諸問題について聞いた。
「山小屋がどういう立場で存在しているのか」
「国立公園とは何か」

 話は多岐にわたったが、環境省、林野庁などの行政の問題に尽きる。監督官庁の山小屋への規制は強いようだ。他方で、山小屋側から見たら、行政はさほどサポートにならない存在。つまり、規制ばかりいってくるし、何事も書類提出を求める、厄介な存在らしい。
 山小屋はもろい経営基盤の上に存在する。規制とは、他方で投資が必要になる。

 全国で焚き火禁止(一部農業を除く)。過去は山小屋の生ごみは燃やしたり埋めたりしていた。それができなくなった。生ごみは熊や鹿など野生動物を集め、生態系を狂わせてしまう。となると、ダイオキシンの出ない焼却炉の設置が必要。夏場一時期の営業の山小屋は経営基盤が弱い。とても、投資ができないと嘆く。

 雲ノ平の渇水化にも話題が及ぶ。伊藤さんは東京情報大学とのアクションプログラムで、10キロ㎡の緑化計画を推し進めるという。ふたりの話は尽きないが、出発の身支度をした。

「父親(三俣山荘の経営者)は問題意識の高い人です。かつて林野庁と単独で法廷闘争を行い、最高裁まで争いました。終止符を打ちましたが、それだけでも、父は十数年間費やしています。この機会に、ぜひ三俣山荘の父親に会って、いろいろ話を聞いてあげてください。山小屋が抱える問題はいろいろありますから」といわれた。

 ジャーナリストへの取材要請でもあった。承諾すると、「父は話し好きですし、一晩泊まられる覚悟をされたほうがいいですよ」という。

  この段階で、槍ヶ岳を経由し、上高地に下りるルートはあきらめた。三俣山荘に一泊すれば、朝四時過ぎに起きて、五時発で、双六岳を経由し、新穂高温泉(岐阜県)に下っても、夕方だろう。どんなに遅くとも、明日には東京に帰らなければならない。
 三俣山荘で貴重な山情報が得られる。それならば、翌日の強行軍もやむを得ないと割り切った。

 「わたしは雲ノ平山荘にもう一晩泊まる」という小田編集長とは別れた。

 山小屋の従業員らに見送られた。単独行で三俣山荘に向かう。胸までのハイ松から雪面と池糖(ちとう)とが織りなす、高原の台地。期待した高山植物にはお目にかかれず、残念な気持ちだ。そのうえ、雪解けの時期だが、水が少ないので、淋しい池糖だった。

 木道が終わると、アイゼンをつけてから、祖父岳(2825)へと登る。斜面はさほど急勾配ではない。だが、八ヶ岳の滑落の後遺症から、ことのほか慎重になっている自分を知った。慎重になりすぎると、腰が引けてかえって危険だ。雪渓を登りつめた。振り返ると、遠くに山荘が見える。


 他方で、雪渓をどこまで登っても、夏道の登山道が発見できなかった。岩場に取り付き、稜線に出た。すると、夏道はかなり下方で、逸れていた。多少がっかりした。

 アイゼンを外して山頂に向かう。登山靴の靴擦れは最悪の状況になった。足の踵と先端は一歩ごとにすれて痛い。歩行のペースが上がらない。やっと祖父岳の山頂に着いた。

 西の方角に聳えているはずの、黒部五郎岳は雲のなかだった。明日からの天気の崩れを予想させた。梅雨の晴れ間は今日で終わりだろう。明日は距離の長いルートを強行軍だ。そのうえ、悪天候となれば、苦労するだろう。
 その分、きょうは単独行のノンビリした山歩きを楽しもう。そんな気持ちになった。

 ワリモ北分岐の鞍部まで下った。ここからワリモ岳(2888)まで、雪のない道だ。のんびり山歩きのつもりが、意識の大半は靴擦れの踵にあった。

 黒部源流の深い谷を見つめる。伊藤二朗さんが残雪で危険だといったルート、雲ノ平から日本庭園を経由し、三俣山荘の近道が視野に入った。急斜面にはたしかに残雪が多い。説明通りだが、自分の力量で通過できない残雪ルートではないと思った。


 ワリモ岳の山頂で、正午になってしまったので、昼食をとることに決めた。小屋で作ってもらったおにぎりは格別に美味しかった。足元に広がる高山植物の花を眺めながら、単独行の気ままさをも味わう。高所だけにすぐ身体が冷えてくる。温かいお茶が心をも休めさせてくれた。

 このあたりから一望すれば、日本百名山が多いところだ。薬師岳や立山方面の山岳は雲の中。そばには、男性的で魅力ある鷲羽岳(2924)、三角錐の水晶岳などが聳える。連山だけに、迫力がある。

 昼食後は裏銀座の稜線ルートを進む。鷲羽岳の山頂は携帯電話がつながる、という情報があった。山頂に着くと、携帯を試みてみた。場所をいくらか移動しても、駄目だった。

 眼下には三俣山荘を見る。約一時間のくだり。砂礫岩で滑りやすいが、割に好きな道だ。下りきると、登山道に雪が被さっていた。時おり道が見え隠れする。先を急ぐ登山ではないけれど、アイゼンを出すのも億劫で、そのまま慎重に進んだ。

 三俣山荘に着いた。伊藤正一さん夫婦、従業員らが迎えてくれた。スパゲティーが用意されていた。昼食を食べていたが、せっかくだから戴いた。

 伊藤正一さんは84歳でも三俣山荘の経営者。長男が水晶岳の主、次男が雲ノ平の主として、経営を分散させている。

 伊藤さんは松本市出身。十代のころは物理学を学び、旧陸軍の航空機エンジン開発に関わった。若くして陸軍参謀長とかスタッフから開発技量を認められていたという。終戦後は山小屋に入った。当時の苦労が、著書『黒部の山賊』に書かれている。
 行政との長期裁判について、ことこまかく聞いた。同時に、現在の問題点をも突っ込んで聞けた。伊藤さんの真摯な態度と、真剣な取り組み。ジャーナリストとして力になれるところがあれば、協力したいと思った。

「黒四ダムが満水になってから、地下水の流れが遮断された。山が膿んできた。だから、山津波や山崩れが多発するようになった」
 伊藤さんの論理的な説明には納得できた。
 伊藤正一さんは他方で写真家だ。高齢にして、元気で、頭脳もシャープ。
 
 日没後まで語りつくした。伊藤志づ子夫人が加わった。同山荘が発行する『ななかまど』第10号に、志づ子夫人は『串田孫一さんのこと』という題名のエッセイを書かれている。その場で読ませてもらった。簡素にして明瞭な文体で、いいエッセイシストだと思う。執筆の面でも話が弾んだ。

 夕食の席は、従業員も加わった。アルコールも出た。私の八ヶ岳・硫黄岳での滑落事故も遡上に上がった。
「あんな噴火口跡に落ちて、助かる人がいるんですね」
 八ヶ岳・赤岳の山小屋で長期バイトしていた青年が、硫黄岳の岩壁を知る、それだけにずいぶん驚いていた。

 

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