ジャーナリスト

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(下)

 東京・大塚ウェルカムバックで開催された『永生元伸 Just One Night』のライブの翌週、その感動と余韻があるうちに、 永生元伸さんにインタビューした。
 現在63歳で、出身地は青森県・平賀町で、リンゴ園の長男に生まれました。小中高校は同地です。中学生のころ、ビートルが全盛期で洋楽に強い関心を持ちました。当時は、深夜放送に聞き入っていたものです、と自己紹介された。

「わが家はリンゴ農家で、ステレオがなかったので、友人宅で聴かせてもらいました。布団で寝ず、膝を抱え込んで、朝まで聞き込んでいました。長時間だったので、不意に立ち上がれなかった、という記憶があります」
 母はそうした深夜の外出・宿泊にも理解がありました。それが音楽の原点です。中学3年の時に、母がギターを買ってくれました。
「買ってほしい、と粘った記憶は私にはないのです。ギターは格好よいし、うれしかった」
 母親は、熱心な息子の将来に音楽家の夢を託したのだろう。自宅や中学の同級生宅が練習場で、ギターを毎日弾いて学園祭に出演しました。仲間とコンサートやライブをも企画し、数百人の前で演奏した記憶があります、と話す。

 高校2年のときに、「吉田拓郎が弘前で単独ライブを行いました。彼がまだ人気が出る前でした」
 永生さんは会場に足を運んだ。
「ギターがうまい。あのように指を使って弾くのか」
 レベルの高い吉田卓郎のギターを目のあたりにした永生少年は、専門家の弾き方を知った。毎日の練習が楽しく、弾けること自体が嬉しかった。

 東京の大学に入るまえ、3歳年下の弟が農園の跡取りになると決めてから、永生さんは上京した。大学のジャズ研究会には入部せず、独学だった。いまとなれば、「合理的な練習をしていたら」という思いは否定できません、と語った。

 永生さんは卒業まえ、クラッシック・ギターを習っていた人から、「バンジョーを弾ける方を探しているバンドがあるけれど、その仲間に入らない?」
 と紹介されてデキシー・ジャズバンドのプロの道に入った。シェーキーズ(ピザの店)の5~6店舗で、ライブをしてお客に喜んでもらう。一般企業の就職でなく、プロ活動から社会人スタートになったのだ。
 
 オイルショックから、世の中が変わってきた。歌謡曲からフォーク音楽に移ってきた。やがて、ジャズ、グループサウンズが新しい時代を作ってきた。

 永生元伸の経歴として、 
 昭和47年に、シェーキーズで6年間の活動をする。
 昭和58年に、ディズニーランド・オープンのオーディションで、11年間を行う。
 平成7(1995)年に、薗田 憲一(そのだ けんいち)とデキシーキングスに入団を申し込むと、「どうぞ、どうぞ」と快く応じてくれた。そちらと並行し、自分のバンドも立ち上げる。

「バンジョーの楽器の特徴は、トランペット、ドラムなどのなかに入ると、混合音楽で減音し、全体の音量の1割ていどしか聴衆に耳に入りません。余韻がない楽器です」
 バンジョー演奏の永生さん自身でも、せいぜい2~3程度の音になるという。

『うたうバンジョー弾き』として、最近の永生さんはライブをソロで、バンジョーとギターをともに奏でる。ソロをなさる、この魅力とは何ですか。
「バージョンは一般にソロはないのですが、私は歌を入れています。弾き語りができる。それがとても楽しいです」
 吉田拓郎は自分のスタンスでやってきた。だから、未だに色あせないのです。私が『うたうバンジョー弾き』にこだわれるのは、バンド・リーダーの特権ですね。

「リーダーとして、ゲストをお願いに行くと、永生がやるから、良しとする。ありがたいなと思います。逆にお願いされたりもする。ミュージシャンの人間関係が広がっていきました」
 12か年間は固定した5人の同じメンバーでやってきましたから、パーソナリティー、技術がより高くなり、可能性が拡がりました。

 かたや、同一性、単調性にも陥りやすい。今年(2017)2月から、少しずつメンバーを新しく入れ替えていく試みをはじめた。
 皆さんプロアーチストだから、リハーサルは一回であるという。デキシー、モダンにしろ、アドリブでも、本番で自然にながれに乗れる。

 お客さんを楽しませる。選曲とか、工夫とかは?
「プログラムを組むには、約1週間ほどかかります。基本フォーマットは人気が高いものを中心に8割がた決めています。問題はあと2割の選曲です。観客とか、四季とか、諸々の条件を頭のなかにインプットし、意識、無意識を問わず、1週間はたえず考えつづけています。バンドの独自性を出すために、郷里の曲なども織り込み、編曲に務めています」
 毎回、お金を払ってもらい、面白いな、と感じてもらう。プロは一回でも、飽きられたら、次には続かないものらしい。

「編曲とアレンジが、他のバンドといかに違うか、それが勝負です」
 メンバーにはアレンジのイメージをしっかり伝えないと混乱する。プロミュージシャンだから、複雑なアレンジでも、口頭で伝えるだけでも、理解してもらえる。どのメンバーも格好良く、軽妙にこなす。
 本番前に音合わせをする。『これで良いね』。いずれの奏者にしても、あっちこっちで演奏してきている。曲自体の真髄を皆が理解しているという。

 バンジョーの指導者として、後輩の育成はいかがですか?
「希望される方には教えます。まず楽器を買うことです。ギターやウクレレに比べると、バンジョーは高額です。高い楽器だからこそ、止めずに続けられる。バンジョーは4本の絃で音の数が多い。毎日練習することで、よい音色になるし、美しい世界が醸し出せます」

 ギター、バンジョーにしろ、楽器音楽の上達のコツはなにですか。
「諦めず、毎日、弾くことです。技術は、階段状に上達していきます。どうしても、上手く奏でられず、苦しんでいたのに、ある時にふと弾けるようになる。一段上達したわけです。また、横ばった段階が続きます、毎日弾き続けていれば、また不意に「あっ、これだ」と思う。さらに一段技法が上がったわけです」

 将来の目標は?
「都内で、ソロライブのコンサートをやってみたい。ギターとバンジョー、ピアノ、ベースは補助として」
 他には?
「新しいCDを作りたいです。(2018年)1月に64歳になります。そこで、『now、I‘m64』というコンセプトで」
 ミュージシャンには定年がありません。招いてくださる方がいる限り、演奏は続けられる。この先10年は腕も、からだも動くはず。現在の延長線上でとらえたいです、とつけ加えた。
 永生さんはここ30年間は病院に行ったことがない。薬剤を飲まない人生だという。根がのんびりしているからでしょう、とほほ笑んでいた。

 後援会は中学生時代の同級生たちで、ここ10数年来の支援をいただいている。チラシも作ってくれる。青森の同窓生は10年先も、きっと支援を続けてくれるだろう。


 アフリカの奴隷が、17世紀から、バンジョーをアメリカで発展させた。バンジョーを奏でれば、フォスターの曲のように、陽気に賑やかな楽器として人が集まる。ユーモラスに歌う。かたや、ワシントン広場のように哀愁もある。
「楽器の発祥は別にして、演奏には差別はありません。世界中で共有できるのです」
 そのことばは印象的だった。その精神が永生元伸さんの人柄の良さと、幼いころから音楽一筋に生きる精神の根幹につながっているのだろう。
 
                    【了】

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(中)

 永生はバンジョーを弾きながら、ボーカル曲をソロで歌う。これはリーダーの特権だろう。とても響きのよい歌声で、観客を魅了させている。さらには、軽いトークも上品だ。

 永生は昭和50年に大学を卒業後、一般企業に就職をせず、いきなりバンジョー奏者としてプロ活動をはじめている。根からの音楽奏者だ。その後、東京ディズニーランドでは約11年間にわたり活動し、アメリカ発祥のバンジョー演奏で注目をあつめた。
 平成7年には、ディキシーランドの名門バンド「薗田憲一とデキシーキングス」にバンジョー・プレイヤーとして参加した。ここから「うたうバンジョー弾き」として活動を展開する。

 このときの中心メンバーにより、「永生元伸スピリッツオブデキシー」が結成されている。

            *
 
 曲の合間を見て、インタビューを取ってみた。
 観客に、永生さんの魅力とはなんですか、と年配女性に質問をむけてみた。
「なんともすてき。バンジョーと歌に、落ちついた味わいがあります。魂で奏でる。この場にいると、とても楽しく心を癒されます」
 永生の奏でるバンジョーと歌声にしびれていると、彼女は持っている喜色と歓喜のことばを最大限に引きだしながら語っていた。

 テーブルのキャンドルに顔が浮かぶ島崎忠範(82)さんは、
「私は永生さんと30年余りの長い付き合いです。バンジョーはわが国でNO1です。魅力ですか。楽器と歌を熟(こな)せることです。ギターもたいしたものです」
 ギターリストの面もあるようだ。

 おなじテーブル席の平井妙子さん聞いてみた。推定70歳前後だった。
「私の好きな曲ですか。『世界は日の出を待っている』。これには心がしびれます。永生さんは、青森出身ですから、津軽三味線風にアレンジされています」
 編曲が得意のようだ。
「お人柄がとても良いですわよ。お客さんをとても大切にされています。クリスマス、誕生日には、わたしの自宅に来て演奏していただきますの。お声がけすると、気さくに来ていただけましたの。そこからの長いお付き合いです」
 彼女の好きな曲は「知りたくない」、「スパニッシュアイズ」、これは歌とメロディーがとても素晴らしく、心に響きます、と語っていた。

 スタンディングオベーション(観客が立ち上がって拍手を送る)で快哉を叫んだ女性に、感想を訊いてみた。

 青春時代の音楽がとても懐かしく楽しいし、仲間と毎回聴きにきています。『聖者の行進』『ホワイト・クリスマス』「小林旭の自動車ショー歌」みんなと一緒に楽しんでいます。身体がごく自然にリズムに乗って動いてしまいます」
 トランペット、クラリネットのファンらしく、拍手で手が痛くなるほど、叩きますという。ドラマーの15分間の楽器の連打は圧巻です、とことばがつきなかった。

 おなじ席にいた70代の男性にも訊いてみた。
「毎回、このジャズ・メンバーがとても待ち遠しいです。元の会社仲間と5、6年前から通ってきています。実は大塚に、このようなジャズ喫茶があると思いませんでした。私の住まいは西池袋で、便利で近いし、永生さんが演奏するときは、欠かさず聴きに来ています」
 と強調していた。
 
 もうひとり隣の女性は、
「わたしはきょうが2度目です。前回が楽しくて、こんなにもジャズが愉しいのか、とびっくりしました。きょうは迷わず、来ました。酒が楽しく飲めます。仲間とともに感動しています」
 大塚ウェルカムバックは、音楽チャージが3000円、オーダー&テーブル・チャージは500円である。

           *

 バンジョー永生さんの取材を持ちかけてくれた、のこぎりキング下田さんが大塚の同ライブにきていた。
 ふたりの出会いを訊いてみた。
「わたしが属している『足立稲門会』(早稲田大学校友会)の総会アトラクションで、永生さんと演奏したのが、最初の出会いです。そこからの付き合いです」
 下田さんが最初にCD録音をした『なつかしの童謡唱歌』のとき、「永生さんがバンジョー演奏と、編曲(アレンジ)をしてくださいました」と語る。そのうえで、こうつけ加えた。
「永生さんは、ノコギリ音楽を最大限に発揮できるように、私の音域を上手に捉えられてレベル(力量)を引き揚げてくださったのです。私の恩人です」
 その話からしても、永生さんは編曲が得意技のようだ。

 永生さんの人間的な魅力についても、下田さんに訊いてみた。
①心技体ともに、見事です。
②心がジェントルマンです。
③人柄が良い
 この3点をすぐさまあげていた。
 後日のインタビューが楽しみになった。

 第二部は、永生さんがしみじみ聞かせる『荒城の月』からはじまった。

荒城の月
国境の南
Cornet Chop Suey
ライフルと愛馬
夜空のトランペット
Tiger Rag
わらの中の七面鳥
Memories of You
♪bestplay/Sing Sing Sing

 これらの曲はいずれも大勢の人に愛され続けている曲、師走、クリスマス、年の瀬の音楽である。音楽はメロディー重視か、リズム重視か。いずれかに分かれているものだが、ジャズはその双方の要素が必要である。
 永生元伸はスタンダードなもの、クラシック、童謡でも、ジャズの音楽風にアレンジしてしまう。それをもってお客に楽しんでもらうのが、ジャズ編曲者の魅力だろう。

 ジャズのプロアーチストはパフォーマンスが必須である。全身を使ったアドリブで、どんなふうに何を吹いても自由なのだ、観客を楽しませれば。

 クラリネット奏者の益田英生(ますだ・ひでお)は、正統派ベニー・グッドマンスタイルを受け継いでいる。クリアで透明な響きがあり、管楽器のなかでは最も広い音域をもっているし、ジャズに適した楽器である。
 
 低音ではまろやかな暖かい音、中音では柔らかな音質、高音では華やかな明るい音をひびかせる。益田はメロディー・パートで暖かみのある音色を奏でる。

 静かな曲と思いきや、突如として、益田英生はアップテンポで、クラリネットと上半身を上向きにしてガツガツ吹いてみせる。まるで、その姿は軍隊で進軍喇叭(らっぱ)を吹く兵士の格好にも似ている。益田は全身で、感情の高ぶりを表現する。

 やがて、クラリネットは丸いやわらかな響きとなり、透明感のあるピュアな音になる。森に流れる霧につつまれたような、神秘な情景を連想させる。音が美しいとはこのことだろう。


 
 小林真人(まさと)が大きな弦楽器のウッドベース(Bass)を奏でる。見た目にも、どっしりしたベースは低音パートを担当する。絃の音が渋く輝いて聴こえる。
 ベーシストの小林は端っこにいて、一見すると影役にみえる。ボーカルやソロのように舞台で目立つ中心ではない。しかし、バンドのなかではベースは、「土台」の役割を担っている。
 ベーシストの小林はほかの楽器、バンジョー、クラリネット、トランペット、ドラムの音をつなげている。曲の流れや曲調、曲想を決める、一番重要な存在ともいえる。

 ジャズの魅力は三つの要素がある。

① アドリブ
② スイング(日本語のノリの良さ)
③ インタープレイ(奏者がたがいに感覚、感性で、その瞬間のリズムなど調和し、共鳴して演奏する)

 これが上手に揃ったときに、ジャズの面白さが伝わり、心に響き、感動を持ち帰れる。

 永生はバンド・リーダとして、この三つを最上に演じることができるプロ・メンバーを選んで、ライブに臨んでいる。観客を包み込み、誰もがジャズ音楽に溶け込むような臨場感と一体感が醸し出されていた。一人ひとりの奏者の紹介には、永生は決まって「日本一です」と形容していた。聴き手として、納得させられた。
                            【つづく】 

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ドラマーの楠堂浩己(なんどう・こうき)の豪快な連打がこちらのクリックで聴けます。

永生元伸の魅力、日本を代表する「うたうバンジョー弾き」=(上)

 日本一のうたうバンジョー弾きの永生元伸(ながおもとのぶ)さんを取材してみませんか。そう声をかけられると、物書きの特性で、どんな人物か、と真っ先に人間に興味を持ってしまう。

 バンジョーの永生元伸がジャズバンド・リーダーだという。バンジョーというと、アメリカのスティーブン・フォスターの曲を思い浮かべるていどである。他の奏者と聴き比べをしたわけではないし、技量の優劣はわからない。となると、インタビューだけでは記事にできない。ライブに足を運ぶ必要がある。

 バンジョーとはどんな楽器なのか。17世紀に、アフリカから強制的にアメリカに連れてこられた奴隷たちが、故郷の楽器を思い出して作ったという。バンジョーは不思議な楽器で、多種多様な音を持っている。熱く燃える情熱的な音、悲しげ、かつ悩ましげな音も出す。かれらはバンジョーを奏でながら、音楽で過酷な辛い生活や郷愁を表現してきた。
 
 現代のバンジョーは、ディキシーランド・ジャズによく使われている。わたし自身は、生のジャズにふれると、聴いていて心地良く、好きな音楽だ。

 この認識のもとに、2017年12月1日、東京・大塚駅前に近いライブハウス「大塚ウェルカムバック」に出かけた。師走の先陣を切って「永生元伸スピリッツオブデキシー」が19時から開演された。
   

 演目として永生元伸 「Just One Night」と名づけられていた。日本語訳だと、『今夜かぎり』だろう。
 10数年に渡り、年に4回は大塚で固定メンバーで演奏してきた。しかし、今年からは毎回メンバーを少しずつ入れ替えている。だから、この日しか聴けない。「Just One Night」と名づけられていた。

 師走入りした今宵は、永生元伸(バンジョー・ボーカル)、楠堂浩己(ドラム)、小林真人(ベース)、小森信明(トランぺット)、益田英生(クラリネット)である。
 ジャズメンバーはそれぞれ日本の一流奏者で、贅沢な組み合わせである。

 ジャズはコード進行を大まかに決めているだけで、あとはアドリブである。曲目はおなじでも、10人弾けば、10人がちがう。二度とおなじ演奏はない。演奏者が入れ替われば、まさに「Just One Night」で、それ自体が面白い。ジャズは奥が深い音楽である。

 第一部

    By The Beautiful Sea
    St.Louis Blues
    Oh Lady Be Good
    小さい花
    That's a Plenty
    White Christmas
    自動車ショー歌
    黒い瞳

 ラテン、カントリー、ロックと多彩である。おなじみのポピュラーな曲なども軽快なリズムに乗せて演奏する。ジャズの特性で、聴き手に心地良く酔わせるために、テンポより遅めに吹いたり、わざと音を歪ませたりする。それをもって観客が心を震わせる。

 トランぺッターの小森信明は全身で音をだす。音量が大きく迫力が楽しめる。感動しない者はいない。観客からお金が取れるジャズマンは即興が命である。小森がふいにトランペットでなく、口笛でリズミカルに曲を披露する。両唇と歯がまさに楽器そのものに早変わりする。実にみごとだ。
 観客から、おどろきと賞賛の声がもれる。

 バンジョーは音楽を軽妙に味付けする。ドラム、トランペットのなかで、10分の1しか音量がない。(永生の談)。それでいて、リーダーの存在感をしめす。不思議だ。じっくり観察していると、まわりの演者は、かならず横目で、それぞれと目配せしている。

 リハーサルは一回だけで、『これで良いね』という音合わせだけだという。いずれの奏者にしても超プロで、あっちこっちで、おなじ曲を演奏してきている。みんなが曲自体の真髄を理解しているから、デキシーにしろ、モダンにしろ、本番でごく自然に流れに乗れるのだ。
 

 ドラマーの楠堂浩己(なんどう・こうき)はつねに横目で見ている。それぞれの音の特性の引きだしに努めている。バンジョーの永生が歌を入れると、静かにスティック(棒)を振っている。大小のドラムやシンバルなど打楽器が聞こえるか、聞こえないか、その程度になっている。

                        【つづく】


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永生元伸の「うたうバンジョー弾き」がこちらで聴けます。

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(下)=酒井悦子さん

 箏(こと・以下は琴)の音が嫌いだというひとは、全国津々浦々をさがしても、まずはいないだろう。日本人のこころの琴線(きんせん)にふれる和の世界だから。


 
 琴を奏でる精神は、華道(お花)、茶道(お茶)、あるいは歌道(詩歌)ともつうじている。ともに古来の作法が伝わり、奥の深い芸への道である。

 しかし、酒井悦子さんは、琴を形式的な世界の継承だけにとどめていない。新しい文化とのコーディネート(文化の複合)をおこなう。彼女は、その創造的な活動にたいして実に前向きで、意欲的である。それが酒井さんの魅力の一つである。


 彼女は聞けば、非日常の空間や希少な世界に足しげく、わが身をはこぶ。
 そこから得られた体験や知識が、彼女の頭脳から新たな企画として演出されていくのだ。 つまり、創造の世界に生きている意欲ある女性だ。


「私はとても知りたがり屋です。興味があれば、すぐに突き進みます。私に合致するか、しないか、あるいは私にとって面白いのか、面白くないのか、ともかくやってみないとわからない、という考えです」


 具体的な実例を訊ねてみた。

「わたしは、東海道五十三次を歩きました。江戸・日本橋から京都・三条まで、完歩しています。もちろん、一気でなくて、仕事の合間にすこしずつ歩いて五十三次をつなぎました。それぞれの宿場町で、江戸時代の参勤交代の情景などを想像したり、箱根峠では水の飲み場がなかったけれど、当時のひとは急な坂道で、喉が乾いたら、どうしたのかしら、と考えてみたり。歴史の検証はとても楽しいものです」

 ほかには?

「これは趣味ですが、山岳の奥地にある、小さな古城の山城が好きです。とくに、石垣の魅力に惹(ひ)かれます。崩れた石垣がちょこっと残っていると気持ちがすっとー入っていきます。石垣の積み方がお城によって、時代によってちがいます。それが好きです」

 特に好きだった城郭はどこですか。
「林城(はやしじょう・長野県松本市)です。車も入れないほど、山奥の細道を行きます。その城は信濃国守護の館でした。武田氏により破却され、そのまま廃城となっています」
 酒井さんによれば、曲輪、土塁、石垣などの遺構が残っているという。

 大宰府の近い大野城は、日本一の大規模な古代山城である。百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)が見事である。

 酒井さんは、こうした古城を仕事の合間に訪ね歩いている。否、しごとの一環だろう。

 三橋道也の古城とか、滝廉太郎「荒城の月」がありますね。古城を歩いた想いが曲に反映されますか。

「意識、無意識を問わず、古城に立った想いをこめて演奏する私がいます。とくに荒城の月ではその想いが強いです。この曲は外国でも人気があります」

 荒城の月は、暗くて物悲しいメロディーに思えますが、

「たしかに華やかな曲でなくて、陰旋法(いんせんぽう)です。しかし、外国の方でも、すごく聞き入ってくださる曲です。こころにひびく旋律なんでしょうね」
 どの国にも、栄えて消えた貴族社会や王族の歴史があるのだから、栄華盛衰がひびくのだろう。
  
 彼女の今後の取組みとして、海外での筝の普及活動を訊いてみた。

「今年(2017)は、オーケストラのタスマニア・シンフォニーチューバ奏者とコラボいたしました。来年も2018年の1月もコンサートに訪れます」(右の写真は、それを報じた新聞)

 海外で演奏だけでなく、「琴教室」とか開かれているのですか。

「いいえ。外国で琴を聴いてもらうことはできても、現地のかたがお琴を習うことは、とても難しいのです」

 指導者が育っていないとか、そういう理由ですか、

「もっと物理的な壁です。たとえば、琴の弦の糸が一本切れたとしますよね。オーストラリアの現地で修理はできない。日本から「お琴屋」という特殊技能をお持ちの職人さんを呼ばなければならず、それではメンテナンスがとても高いものにつきますから」

 なるほど。それでは外国の琴教室は無理ですね。

                   *

 インタビューを通して、酒井さんと凡庸なひとの違いを考えてみた。

 多くの人は、東海道五十三次、古城を訪ねてみたい、音色の素晴らしい琴を習ってみたい、という願望や憧れはある。しかし、そこにとどまって行動に移されていない。

 酒井悦子さんは6歳の時に絵柄の美しい好い着物がきられるし、まわりの子はだれも筝を弾いていない、という素朴な気持ちで、琴の世界に入られた。
 いまや外国から来賓された国賓などのレセプションで、日本を代表する曲を筝で奏でる。外国の演奏活動では、日本を代表する国際派の奏者である。

 師匠の言葉『努力は裏切らない』が、まちがいなく輝く源泉となっている。

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酒井悦子さん・プロフィール


                    写真提供=酒井悦子さん

                                                【了】 

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(中)=酒井悦子さん

 酒井悦子さんは海外にも飛びだす筝曲家(そうきょくか)の国際派である。

 酒井悦子さんは、大田区・羽田に生まれ育っている。筝(こと・以下は琴)との出会いについては、
「私の母が日本的な稽古事として、3歳年上の姉に琴を習わせたかったのです。ところが、当時はオルガン、ピアノが人気でしたから、姉にはいやだと断った。その実、私は筝がとてもやりたかった」
 その理由はなんですか
「6歳の私は、筝をやれば、絵柄の美しい好い着物がきられるし、みた感じがかっこう良いと子どもながらに憧れていたのです。羽田のまわりの子は、だれも筝を弾いていない」
 実姉が断ったことで、酒井さんの人生が、小学1年生にして決まったのですね
「そうです。母親が週2日、羽田から蒲田の琴の師匠(生田流筝曲)の家まで、送り迎えしてくれた。一方で、遊びたい盛りですからね、ときには練習を怠けて稽古にいきました。先生がどういうシチュエーションのときだったのか、『努力は裏切らない』といわれました」
 そこから酒井さんは琴の第一歩を踏みだした。

 15歳で宮城流の免許皆伝となり、高校時代には沢井筝曲院に入門している。その後は、歌舞伎、芝居音楽、黒御簾音楽を第一人者である竹内道敬氏に師事する。1997年、NHK邦楽オーディションに合格した。

               *

 筝は日本の伝統楽器であるが、一般人には、その知識や歴史は意外と知られていない。酒井さんに語ってもらった。

 江戸時代には、三曲(さんきょく)合奏として「筝、胡弓(こきゅう)、三味線」の三種類の楽器が使われていました。
「筝は座敷芸ではありません。筝とお茶の直接の関係はないのです。盲人音楽家のあつかう楽器でした」
 それは意外だった。
 江戸時代半ばに、尺八(しゃくはち)が出てきますと、胡弓が衰退していきました。その結果として、現在では「琴、胡弓、尺八、三味線」を総称して「三曲」と呼ばれています。

 酒井さんは学校教育の場でも活躍されていますね。
「はい。1995年より幼稚園、小学校、中学校、高校まで、芸術鑑賞教室や体験事業として、筝の指導をおこなっています。最近の学校は和室がありません。台のうえに筝を置いて演奏いたします」
 時代が変わりましたね。
「そうです。小学生らははじめて直(じか)にみる楽器です。ものめずらしい顔をしています。アンパンマン、ジブリ、ディズニーソングで、まず楽しんでもらいます。そのうえで、伝統的な筝の曲「さくら さくら」などを演奏して教えています」
 教室で、ほかにはどんなことをされますか。
「筝という楽器では、こういう楽しいこともできるのよ、と。弾き方の特徴や演奏方法もわかりやすく指導しています。高学年の生徒には、民話などに曲をつけ、読み聞かせる演奏もおこなっています」

 子どもらのしつけ関連の本が、電子書籍で出版されていますね。
「いくつか出版しています。琴はとても高価な楽器です。教室で筝に勝手に平気でさわる子どもらがいます。『他人の物を勝手にさわらない。がまんする』。日本人の古来の良さ、辛抱、がまん、これらのしつけは琴の指導を通して、お教えしています」

 大人の世界でも、恥ずかしい、と思う感じ方が違ってきていますけれど、
「それはずいぶん感じます。『お互いさま』と相手を想う、気づかう、がまんする。ここらの倫理・道徳の良き価値感が失われつつあります」

 稽古場のしつけも変わりましたか、
「ここ10年で、随分ちがってきました。琴を習う子らに、姿勢をなおすとき、『さわっても、良い?』と断ってから、首や背筋に触れてをなおしています。過去にはなかったことです」
 芸能・芸術は、体罰とまでいかなくても、厳しく、という認識がありましたが、
「従前は、指導者が勝手に『背が曲がっているよ。姿勢が大事です』と叱り、勝手に双肩を触ったり、膝でも直接さわって正させていました。現在は、指導者が子どもに気を使う時代になったのです」
 手をぴしゃり叩くなどは、いまでは考えられないらしい。 

 子どもが琴を習う層としては、拡大傾向、縮小傾向、どっちですか、
「ご両親、親戚筋で、琴関連の和文化の音楽・芸能文化など携わっている家庭をのぞけば、まず自分からやりたい子どもはいません。およそ琴を観る機会がないですから」
 なるほど、
「琴は幅広く、奥が深いものですが、一般の人にはハードルを低くし、筝を解りやすく、興味を持ってもらう。『やりたいな、こういうのも良いな』と思ってもらう。『皆さん、気楽にとんとん扉を叩いてください、かんたんに開きます』ところからはじめています」
 それでも、門をたたく人は少ないのですか。
「お座敷のある家屋から、マンションへと住宅事情が変わってきました。マンションでは長い楽器の筝を、着物のような布から出す。ピアノのように、開いて、すぐ弾けないので。コトジを立てて調弦する手間もかかります」
 酒井さんは、琴は生活空間に制限されていると話す。


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酒井悦子さん・プロフィール


                    写真提供=酒井悦子さん


                       【つづく】

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(上)=酒井悦子さん

 豪華客船のなかで、箏(こと・以下は琴)の音がひびく。クルージングの乗船客が日本の伝統音楽に、ふかく心酔している。そこは海洋ですごす非日常の快適な空間になっていた。
 弦を奏でるのは、筝曲家(そうきょくか)の酒井悦子さんである。

 酒井悦子さんは、国内航路の数日間ツアー、世界一周(約3か月)の乗船客のまえで琴を奏でる。
 彼女は1992年から豪華客船の「ふじ丸」、「にっぽん丸」、「ぱしふぃっくびいなす」、「飛鳥2」などに乗船し、船内のメインステージで活躍されている。

 日本客船は99%が日本人である。洋上の船旅が単調にならないように、船会社は日々に楽しくなるメニューを用意している。エンターテイナーとして、有名タレントの出演からはじまる。落語、日本舞踊、ダンス、ジャズなど、さまざまな催しのメニューがつづく。

 日本豪華客船の世界一周は、横浜港から荷を積み込み、出航する。
「エンターテイナーがそれぞれ分担されて、寄港地から乗り込みます。琴の演奏はいきなり横浜ではなく、飛行機でシンガポールに入り、そこで乗船し、演奏活動を行って、エジプトで下船するとか、あるいは南アフリカで乗り込み、ブラジルで降りるとかいたしております」

 世界一周の船旅で、琴の演奏をメインに期待した乗船客はまずいないという。
「皆さんはふだんの生活で邦楽に接したり、目にしたりする機会はまずありません。船内で、私たちの琴の演奏があって聞き入ってくださる。日本の伝統音楽の良さを思いだしてもらう。一期一会です」
 ときにはブラジルで豪華客船に乗り、パナマ運河を通り、サンフランシスコで船から降りて空路で帰国する。

 酒井悦子さんは、国内の船内イベントにおいて、客船の航路や地域の特性や四季を考えた企画を立てて船会社にプレゼン(提案)をする。単に琴の演奏にとどまらない。

 酒井悦子さんには彩な文化に精通した才能がある。夏場には、「お菊の皿」の幽霊を落語や新内(浄瑠璃)でストーリーを運び、琴と尺八と三味線を組み合わして楽しんでもらう。

 瀬戸内海の航路では、清少納言「枕草子」の父親(清原元輔)が転勤で船の通った道だったからといい、文学者の講演と組み合わせた教室を開く。
 まさに、彼女は日本文化を継承し、推進していくコーディネーターである。

「複数の組合せによる企画を考えるのが、とても好きなんです」
 おなじ乗船客(リピーター)が大勢いるので、いつも同じ出し物はつかえない。お茶席においては、客船が寄港する土地の焼き物(陶器)をつかい、特産のお菓子をだす工夫がなされる。

「乗船された地方のお客さまから、うちの県にはこんな民謡があるわよ、と教わります。選曲のヒントをもらうこともあります」
 酒井悦子さんはそれらも吸収しながら、日本の伝統文化や古来の芸能などを大切にし、幅広くジャンルを組み合わせた企画立案をおこなう。むろん、それだけの多種多彩な知識が、彼女の頭脳になければ、とても複数のコーディネートなどできない。
 

 クィーンエリザベスⅡが来日した横浜港の入港の際には、酒井悦子さんがメインステージを勤めている。

 主要な演奏の経歴もおどろくほど幅広い。かんりゃくに紹介すると、世界文化交流協会カナダや、アメリカ公演には最年少で参加している。東京都庁がオープンときの記念演奏。大田区とは姉妹都市のアメリカセーラム市で、交流会の記念演奏もおこなう。

 サッチャー元首相が来日(1982年)したときには、歓迎のオープニング・レセプションで、琴を演奏している。選曲としてビートルズを選んだという。1人で演奏はできないので、琴の四重奏(4人で弾く)で奏でた。
「サッチャー元首相にはとても、喜んでもらえました。離日まえにも招(よ)んでくださいました。そして、琴=ビートルズの録音テープを持って帰りたいと、サッチャーさんから申し出がありました。急きょ、わたしたちは別のホテルの一室で録音いたしました」
 彼女は良き思い出として語る。

 日本が主催した世界首脳会議(サミット)においても、彼女は歓迎演奏をおこなう。さらには、JOCオリンピック総会のVIPレセプションで記念演奏。世界各国から来賓の歓迎レセプションの公邸、迎賓館などでも演奏している。
 
 ブータン(国王)夫妻が、東日本大震災後に初めての国賓として来日された(2011年)。参議院議長公邸で、ワンチュク国王夫妻の歓迎昼食会が開催された。同公邸の庭では、酒井悦子さんたち3人が日本伝統音楽である筝曲「六段の調」、「お江戸日本橋」など抒情歌を弾いていた。
「素敵なご夫妻でした。私たちの琴演奏のまえで、ご夫妻が足を止めて、じっくり聴いてくださいました」
 彼女は思い出ぶかく語る。
                 

【関連情報】

酒井悦子さん・プロフィール
                       写真提供:酒井悦子さん

                               【つづく】

「大政奉還150年記念・御手洗大会(1)=10月14日(土)

「大政奉還150年記念・御手洗大会」が10月14日(土)に開催されます。慶応3(1867)年10月14日に、徳川15代慶喜将軍が朝廷に大政を奉還しました。

【場所】   広島県・大崎下島「御手洗」(現・呉市豊町御手洗)

【主催者】 「御手洗 重伝建を考える会」代表・尾藤良

【後援】 日本ペンクラブ、幕末芸州広島藩研究会、フジサンケイ ビジネスアイ、(社)御手洗デザイン工房、他

【開催内容・イベント】

①  講演:穂高健一『芸州広島藩はなぜ大政奉還の運動へ進んだか』(乙女座)

②  郷土史家(複数)と歩く、「御手洗と幕末歴史」の史跡を訪ねる。
 七卿の都落ちの庄屋・竹原屋、薩摩藩の密貿易港の遺跡
豪商・鴻池と住吉神社の玉垣(経済的な結びつき)、広島藩の砲台跡

③  金子邸・茶室の特別拝観(広島藩と長州藩の出兵条約を締結した場所)

④  江戸みなと展示館 特別企画『幕末の嵐と御手洗』の展示会

⑤  若胡子屋(元遊郭)の拝観 (中岡慎太郎、高杉晋作、河井継之助、木戸孝允、坂本龍馬、吉田松陰、河田佐久間の諸々の上陸記録がある)

【世に知られていない、幕末史実と事実の宝庫】

① 御手洗港は西国諸藩の経済の中心地。指定船宿として薩摩、肥後、長州、中津、延岡、飫肥、小倉、福岡、宇和島、大洲など16〜17藩があった。

② 船宿には各藩士が常駐し、勤王、佐幕、草莽志士などが日々に上陸し、遊郭(広島藩公認4カ所)で、秘かな情報収集の場としていた。

③ 薩摩藩の密貿易港で、極秘に西欧船を入港させ、世界綿不足に目をつけて輸出でぼろ儲けした。巨額の贋金づくりの銅・鉄を御手洗港経由で鹿児島に運ぶ。それら「メッキ2分金」でイギリスから軍艦・武器を大量に購入する。

【問合せ先】 潮待ち館 0823-66-3533    ※交通と地図は裏面

【交通】

・東京~新幹線・三原駅~呉線・竹原駅 →(バス)竹原港フェリー乗り場
・羽田 ~ 広島空港 → 竹原港(リムジンタクシー1000円・要予約)→ 大長(おおちょう)行き (高速連絡船・45分) 大長桟橋から・散策しながら御手洗港へ徒歩で約15分

・バス 広島市内(呉経由)→ 御手洗港バス停 高速バスで2時間20分
    中国労災病院(新広駅付近)→ 御手洗港バス停 1時間30分
 
・車では、
 広島呉道路呉ICから安芸灘大橋有料道路(ここだけ有料橋)を経由し、車で約1時間10分

・車とフェリーでは、 
・竹原港→(フェリー)白水・垂水(大崎上島)→明石港(大崎上島)より(フェリー)→小長港フェリー(大崎下島)

「山の日」大崎上島・神峰山大会=『初潮のお地蔵さま』 【冒頭の一節】(4)

 うすい単衣(ひとえ)姿の13歳の恵美(えみ)が、女郎屋(じょろや)『立木屋(たちきや)』に連れてこられてから、すでに2か月半が経(た)つ。

 清楚な娘にはおよそ縁遠い場所だった。
 立木屋は、大崎上島の木江(きのえ)港にあり、『一貫目(いっかんめ)遊郭街(ゆうかくがい)』と呼ばれる目立つ場所にあった。

 朝日が昇るまえ、室内がうす暗いうちから、彼女は働きづめである。釜戸(かまど)に枯れ松葉をつかって火を熾(おこ)す。土間の窓ガラスまだうす闇で、恵美のはたらく姿が写る。
 細面の恵美は、二重瞼で、目鼻立ちがはっきりしている。艶(つや)のある黒髪は、後ろで束ねて輪ゴム一つで結ばれていた。

 台所の一角には、近所の造船所の廃材が積み重ねられていた。恵美はそれを鉈(なた)で細く割り、釜戸に入れて赤い火を大きくする。

 釜戸の火が上手(うま)くまわると、ぞうりを脱ぎ、板の間の食堂にあがり、折り畳み式の長テープを3つならべる。それぞれの四脚を開く。背丈ほどの戸棚(とだな)から、姐さんたち7人の食器、箸、湯呑み茶碗をテーブルにならべていく。

「順番がまちがうと、姐さんたちから癇癪(かんしゃく)玉(たま)を投げつけられる。この位置で大丈夫かしら」
 食器類を個々におく位置すら、彼女は慎重(しんちょう)にも慎重をきす。それとは別に、立木家の四人家族用の食器類をお盆にのせはじめた。


「もう6時まえ。急がなければ……。朝帰りの早い船員がいると、たいへん」
 彼女の視線が壁のながい柱時計にながれた。
 帰りぎわの男の顔を見たらいけない、といわれている。泊り客が帰る前に、玄関を掃除しておかないと叱られる。

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「山の日」大崎上島・神峰山大会=『ちょろ押しの源さん』 【冒頭の一節】(3)

 祖父の大学ノートが押入れの片隅から見つかった。セピア色に染まったノートの書体は古い。

 祖父はいっとき瀬戸内海に浮かぶ大崎上島の木江(きのえ)中学校の教員だった。ノートを読む私には、祖父の島嶼(しま)の生活やしごとメモにさして関心がなかった。

 一方で、克明に記載(きさい)された『ちょろ押しの源さん』には、つよくこころが引き込まれるものがあった。
 太平洋戦争の敗戦後で、世のなかがまだ食糧難のとき、ひときわキラキラ輝いていた港町があった、と祖父は特徴を書いていた。これは日記かな? 祖父は小説家に憧(あこが)れていた節があったようだから、取材メモかな。どちらにでもうけとれる内容だった。


 祖父の古い大学ノートをもった私は、真夏に、現地の島を訪ねることにきめた。呉線の竹原港から、大崎上島行きの高速連絡船に乗船した。
 瀬戸内の澄んだ青い海上に浮かぶ、どこか富士山に似た名峰があった。


 わたしの視線の方角を知ったのだろう、乗船客の年配女性が、
「あれは神峰山(かんのみねやま)よ。悲劇のお地蔵さんが数百体もあるの。いまでも、大切にされてね。夏場は、みんなして冷水をくみ上げて、お地蔵さまを水で洗って、磨いて、亡くなった若い娘たちを祈ってあげているのよ」
 とおしえてくれた。

 その数の多さにおどろかされながら、どんな悲劇なのか、と問う間もなく、高速艇が大崎上島に到着した。

 祖父が『ちょろ押しの源さん』を書いたのは昭和20年代後半だろう。祖父とちょろ押しの源さんは、ともに将棋が好きだったらしい。

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第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(2)

 この島は、瀬戸内海で最大の離島です。名峰・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が眺望できる、絶景です。

 さらなる特徴として、多くの幼い少女、若い娘さんがお地蔵さんとして祀られています。


 室内会場:大崎上島町観光案内所2階 ( 白水港フェリー乗り場から徒歩1分)


開会の挨拶は、大崎上島地域協議会・事務局長  榎本江司 さん (左)


 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から、世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げました。
 このたび、大崎上島において、8月11日の祝日「山の日」に、大崎上島・神峰山大会を開催することができました。


 どんな悲哀があったのか、時代背景などを朗読・小説で知ってください。そして、鎮魂歌の演奏を聴いたうえで、皆さんで神峰山に登り、「悲哀のお地蔵さんを洗う、磨く、祈りましょう」 


 司会  平見健次 さん (右)

 朗読 三原 みずえ さん

     濱本 遊水 さん

 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 「ちょろ押しの源さん」

   第2部 「初潮のお地蔵さま」

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化しています。


音楽演奏者

      Duo de naranjo(デュオ・デ・ナランホ)

・三須磨 大成さん(ボーカル・ギター)

・三須磨 利香さん(ボーカル・パーカッション)

  


 * キューバ音楽による鎮魂歌を聞き入る。



 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート
 
 大崎上島町の木江町は、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。そして、多くの悲劇が生まれた。


 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動しました。~ ハンドタオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布されました。
  
 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいきました。

  石仏の巾や前掛けを付け直します。
 

                       【つづく】        

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