TV局は「三密」と「外出自粛」の目で、番組とCMを洗い直せよ=メディアだけ例外におけない
法律に基づく緊急事態宣言が出されてから、もはや2週間が経過した。
4月22日(水)、尾身茂さん(新型コロナウイルス対策・副座長)が、悲痛な顔で、
「コロナウイルスは厄介な敵です」
と前置きしてから、
「爆発な感染すれば、取り返しがつかなくなります。人とひとの接触で感染します。10個のことを守ってください」
と示していた。
誠実そうな尾身さんの真剣な訴えには、こころを動かされる。この方は、日本国民を心から愛しているな、とつたわってくる。
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同22日、神奈川県・湘南海岸には、若者がおおぜい押しかけ、サーフィンとか、砂浜でビーチバレーとかを愉しんでいる。さらに、半裸体で砂地によこたわり陽光で背中を焼いている。
藤沢、鎌倉、逗子の国道・県道のながい車の渋滞、さらにはかれらの買物客でスーパーを混雑させている。
コロナ感染の不安におびえる今、湘南鎌倉エリア、三浦半島の地元11市町の首長らが、「通行止め」、「海岸立入規制」をしてほしいと、連名で同県の黒岩祐治知事に提出した。
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最近のテレビは定点観測で、渋谷交差点を映しだす。大阪、千葉、そのほかの道府県も最も繁華街の人出の減少を数字でしめす。
若者らは渋谷にいけば、悪者扱いにされる、だから、湘南海岸にいく。そこには雄大な青い海原、白い砂地の海岸、太陽の光りがある。
男女が初夏のスポーツを楽しむ。かれらにすれば、短い青春時代を愉しんでいるのだ。
映像でみるからに、大波に乗るサーファーの満ちあふれたエネルギーからすれば、コロナ対策の外出自粛は、『防空壕(自宅)にこもり、敵のウイルスに備えよ』といわれた心境に近いのかも知れない。
しかし、いまは緊急事態だ。仏大統領のいうように、ウイルスとの戦争なのだ。個人犠牲もやむを得ない事情なのだ。
隣国は自由主義圏であるが、「個人情報よりも、社会の安全を優先した法律」を制定したうえで、スマホのナビの位置、クレジットカードの利用場所、車の移動などをふくめたトータルコントロールをしている。
個人行動を徹底して追求している。まさに、戦時体制なみである。
しかし、街への外出は自由だ。
日本政府は個人情報保護で、強いしばりの規制を課(か)していない。つよい圧力でなく、お願いベースだ。それに応えて8割にとどかないが、国民の半数以上は、
「やれるところまで、やろう」とがんばっている。
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同22日夕方のテレビ・ニュースでは、湘南の市町長たちが県知事に「規制」を訴えている映像がながれた。
ところが、1時間もせず、某局は『バス電車で乗り継ぐ鎌倉&湘南ぐるり』の娯楽旅番組をながしていた。
ニュースでは湘南に来ないでほしい。旅番組では鎌倉にいこうよ。この矛盾はいったいなんだろうか。
旅番組は前々から計画した番組で、運悪くタイミングが合ってしまったのかもしれない。
鎌倉&湘南の寺院の境内には、五分咲きの桜が咲いていた。撮影はおおかた3月中旬だろう。放映まで、約一カ月間ほどある。
この間に、7都府県に緊急事態宣言がでたと、テレビ局関係者は知っていたはずだ。さらに同宣言が全国にもおよんだ。その趣旨は8割、すくなくとも7割は「外出自粛」をもとめるものだ。
各局はニュースでいっせいに報じた。ならば、旅番組は外出をあおり、時節がら良くないとわかるはずだ。そうしたチェック機能が働かない硬直した内部なのか。それとも、テレビ局はなにをながしても、報道の自由で許されると驕(おご)りがあるのか。
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いずこの局とも、旅・観光めぐりとか、沿線歩きとか、町歩きとか、美味しさ巡りとか、と視聴者の外出を誘う番組がやたら多い。
人間の行動は単純で、かつ衝動的な面もある。テレビに出れば、翌日にはにぎわう。旅番組をみて、ふいに明日、あさってにも出かけてみたくなる。こうした番組にケチをつけるわけではないが、「外出自粛」をもとめる国民のコンセンサスと逆行し、まったく相反している。
編集総局長、番組製作者はこんな視聴者心理にも気づかないのだろうか。
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各局のCM(コマーシャル)すらも、国民が守ろうとする「三密」とは縁遠いし、ど外れした内容が氾濫(はんらん)している。
一例を挙げれば、オフイス(事務所)に大勢の社員が机にむかっていて、そこに十数人の刑事に扮(ふ)した人物がドヤドヤと押し入ってくる。密集そのものだ。
政府が企業にテレワークを呼びかけて、企業の出勤7割カットの協力をもとめているさなかである。これらコマーシャルはまったく逆行している。無神経にも、それを平然と、何度もなんどもくり返している。
民間放送は世情と反しても、CM売上の維持する権利がある、と勘(かん)違いしているのではないだろうか。
放送局の固定費が一定で、広告収入が減ならば、経営悪化をまねく。わかっている。コストダウンの経営努力をすればよい。世相と反しても、テレビCMは許されると思うならば、放送権の寡占化(かせんか)を利用した、傲慢(ごうまん)な態度になる。
いまは町の飲食店、中小、中堅企業は売上が9割減、半減し、固定費に苦しむ世のなかだ。コンサートも中止、プロ野球も、大相撲も、みんな中止による収入源だ。ゼロ収入もある。これらと痛みを共有するべきだ。
コマーシャル(商業)まで憲法で守られている「報道の自由」だとは思わないでほしい。単なるビジネスである。それ以上のものではない。
TV局はここで、一度すべてのCMにフィルターをかけて洗い直してみるべきだ。不適切だとおもえば、スポンサーに「時節がら好ましくないので、さし替えてください」と要求するべきだ。
断られると、局の収支に影響するだろう。そのあとは当然ながら、コストダウンの企業努力だ。ただ、下請け会社や制作会社など弱いものを泣かせば、かならずしっぺ返しがくる。ここらも、十二分に掌握(しょうあく)してとりかかるべきだ。
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2018年には、全世界の広告収入に占めるデジタル広告費(38.5%)が、テレビ広告費(35.4%)を超えた。
これはなにを意味するか。
「新聞・テレビ離れ」。この一言に集約される。「奢(おご)れるもの久しからず」。時代の流れから、成熟期を越えて、衰退期に入ったのだ。
理由はさまざまにある。それは自己解析してみればわかることだ。結果として、広告料金のダンピングによる、1時間番組に占める広告は、述べ本数の過剰で現われてきている。
ひとつの番組が5~6分すれば、ふいに打ち切り6本も7本も広告の連続だ。それは「テレビ離れ」を象徴する現象だ。
まさに、若者がテレビをみない悪循環に陥っている。
「東京のテレビ局が2、3局倒産しても、別に困らないよ」
10-30代の世代層はそうした認識だ。
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「法に守られた企業ほど弱体だ」。それは歴史が教えるところだ。
かつて銀行法に守られていた大手銀行は倒産しない、国が守る、と半世紀以上にわたる神話だった。銀行に入行すれば、家族挙げて赤飯だ。
ところが北拓、興銀、輸銀などが、合併という名のもとに、次つぎに消えていった。
テレビ局は放送法に守られている。CMもその隠れ蓑(みの)にすれば、おおきなしっぺ返しをうけるだろう。
法に守られることは、一面で政府に迎合させられる弱さでもある。
第二次世界大戦のとき新聞社は、、「大本営」のいう通りに報じないと、洋紙(新聞紙ロール)の配給が満足にうけられなかった。軍人政治家に、迎合したために、戦意高揚に利用されてしまった歴史がある。
報道が政治に利用されると、国民をミスリードする。危険な面があるのだ。
コロナウイルス戦争のさなか、日本政府は他国に比べて法規制していない。
5月6日で、この新型コロナウイルス問題が終焉(しゅうえん)しないかもしれない。その理由を考えるだろう。
大型連休で、TV旅番組をみて、大勢が都道府県を超えて、海に、野山に、観光地に出かけていたならば、番組の野放しが問われる可能性がある。
国から番組規制がかかれば、テレビ局にとっては本意ではなかろう。そんな危惧も視野に入れて、大型連休まえには、局内で自主チェックしてみる必要がある。
NHK大河ドラマが予定変更してでも、多くの人から失望を生んでいない。ある意味で予定外には慣れてきたのだ。
時節がら、予定していた番組とさし替えて、10年前、20年前の収録番組の再放送でも、視聴者からかえって面白がられるかもしれない。
『このたびはコロナ戦争は為政者の都合ではない。国民の命を守る戦いのためだ』
ここらをしっかり押さえておかないと、大手マスメディアの論評どおりではない窮地に立つ局面もあり得る。
2018年から、全世界はテレビ文化からデジタル文化に変わったのだ。市民ジャーナリズムによる批判、とりわけSNSは侮れない。
写真の鎌倉海岸=2017年5月に撮影