ジャーナリスト

1000コンテンツを達成。3年半にして。

 穂高健一ワールドは2005年12月7日にスタートした。最初の記事はPJニュース「東京下町冬の風物詩! 中川沿いの巨大ユズ」だった。この記事の写真がいきなり「フォーカス」から転載の申し出があった。
 1000本目のコンテンツは2009年6月23日に掲載された「東京随一の水郷で遊ぶ、20万本の花ショウブを楽しむ=東京・水元公園(下)」である。私は葛飾区在住で、同区の取材記事だった。


 3年半で1000本だから、単純に1日1本の作品の創作されていたことになる。

 穂高健一ワールドはITコンサルタントの肥田野正輝さん(横浜市)が制作してくれたものだ。
PJニュースを中核においたうえで、ジャーナリスト、小説家、登山家、ランナーからはじめた。やがて、「東京下町の情緒100景」に取り組んだ。
 下町の素朴な生き方、古い街並み、昭和の名残りなど、写真とエッセイの組み合わせで展開した。ふだんの生活の見慣れた光景だけに、ネタの取り上げ方には苦労した。取上げる人物、商売など領域を広げてながら展開し、100情景(コンテンツ)が達成できた。
『TOKYO美人と、東京100ストーリー』は、「心は翼」で止まっている。撮影済みのモデルの方には心苦しいので、早め執筆を再開したい。

                           (写真・左が肥田野正樹さん)


 私の執筆は、伊藤桂一(直木賞作家、日本芸術院賞・受賞)氏に学び、約30年にわたり小説一辺倒だった。取材に裏づけされた小説を書く。それをモットーにしてきた。(作者が頭脳の中で、登場人物を都合よく書く、そんな小説は味がないと思っている)。

 北海道・根室の密漁経験の漁船員に取材に行ったり、鹿児島や奄美大島に出向いて歴史物の取材をしたり、二年余り死刑囚と向き合っていたという、拘置所の元副所長から話を聞いたりした。下岡蓮杖を書きたいと下田にも通い詰めた、佐々成政を書くために富山にいった。過去からの累積で、1都2府43県を回りきったのは、いまから15年前だった。


私はともかく取材が大好き人間だった。「会ってくれるかな、断られるかな」と緊張し、アポイントの電話を入れる。了承が取れると、緊張が解けて、未知の人から話が聞ける、という期待が膨らむ。それは心踊るものがある。

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北朝鮮の核兵器って、いつ、どのように使うの?

わが家の二階のベランダには、所狭く植木鉢がならぶ。そのなかの一つ、アマリリスが咲いた。見応えがある、真っ赤な大きな花弁だ。

 この日、北朝鮮が核兵器実験をしたと聞いた。アマリリスが妙に血の色に思えた。と同時に、核兵器が使われた瞬間を考えた。街は真っ赤な炎で燃え上がり、火焔が人体の着衣に燃え移り、逃げ惑う人々は熱傷から川に飛び込む。そんな地獄がかんたんに想像できた。

 私は広島県で生まれ育った。小学校の大多数の教師は、広島大学(あるいは広島高等師範)の出身者だった。複数の先生の顔が白いケロイドだった、という記憶がある。「平和教育」という授業がつねに行われていた。
 教師が手作りの紙芝居で、悲惨な地獄絵を見せて語るのだ。一枚ごとに描かれた真っ赤な炎があまりにも鮮明すぎて、怖かった。

「お前たちの頭の上に、ピカドン(原爆)が落ちたら、一瞬にして水蒸気じゃ。だがのう、ちょっと離れた場所だったら、こげえな、真っ赤な火の海を逃げ回ることになる。『水をくれ、水をくれ』と、大人も、子どもも関係なく、泣き叫んでな」と語る。
 被爆体験の教師だけに、毎回、死がリアルに迫ってくる。と同時に、わが身が炎に包まれると、ぞっとさせられた。  

「平和教育」は怖くて気色悪い授業だった。夜は寝床で、布団をかぶっても、怖くて、震えていた。「平和教育」がある日は、小学校に行きたくなかった。そんな理由で、不登校など、親が許すはずがなかった。そして、新たな紙芝居を見せられる。
「原爆は二度と使わせたら、いかん」
 ケロイドだった先生たちは、最期は白血病で血を吐いて死んだことだろう。

 北朝鮮は核を開発した。間違っても自国で使うはずはない。それは自明の理だ。
「あなたがたは核兵器って、いつ、どのように使うの?」と問えば、日本だと答えるかもしれない。核兵器が東京にも炸裂する。街は真っ赤に燃え上がる。私は火焔のなかを逃げ惑い、『水をくれ、水をくれ』と、荒川や隅田川に飛び込むのか。
 それが私でなくても、次の世代の者かもしれない。

マスク族はメディア中毒症か。豚インフルエンザって、そんなに怖いの? 

 マスク族が東京にも現れはじめた。街なかの歩道、電車、お店でも、顔に目立つ大きなマスクがチラホラ目につく。初夏の暑い陽射しの下、かなり息苦しくて辛いだろう、と思ってしまう。

 マスク族は何をそんなに怖れているのか。むろん、豚インフルエンザだ。日本の人口は1億人強だ。5月25日現在で、感染者が348人である。人口比は何%なのかしら? 
 1%未満の数字がどこまで並ぶのか、暗算では見当がつかない。とりあえず電卓ではじいてみた。「0.000348」、という数字が出てきた。
 この数字は何を意味するのか。上手な説明はできないが、感染者を探し出せといわれても、不可能な数字だ。

 東京の人口は1千万強だ。豚インフルエンザの感染者は3人だ。バカらしくて、電卓で計算する気にもならない。

 全国で、死者はゼロだ。多くの人は過去の冬場に何度かインフルエンザを経験している。今回かりにインフルエンザにかかっても、3、4日伏せれば、自然治癒するようだ。この間は職場や学校を休めばすむことだ。死者0%を信じれば、恐れるに足りない。

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軍事政権の残虐な行為、妊婦と幼児に銃弾=4半世紀後の証言

『アルゼンチンの行方不明者の問題』という、タイトルには興味がなかった。地球の裏側の出来事で、遠い国の行方知れない人? そう思うと、まったくの他人事だった。
日本ペンクラブ会員向けの『詩人ファン・ヘルマン氏を囲んで』という懇談会の案内が来たときの、率直な印象である。


 外国人作家には疎いし、どんな経歴の人物かよくわからなかった。アルゼンチン大使館の関係者が参加するので、席の都合上、30人限定だった。私は広報委員して覗いてみるか、という軽い気持ちで出かけた。

 4月30日、懇談会の席で配布された、ファン・ヘルマンさん(79)の略歴をみると、ノーベル文学賞候補にノミネートされていた。会場にはアルゼンチン大使夫人もきていた。「大物作家だな」という気持ちをもった。

 1976年にクーデターで、アルゼンチンに軍事政権ができると、市民の言論弾圧が始まった。「誘拐(連行)、拷問、殺人、遺体の消滅の4つが行われてきました」とファン・ヘルマンさんは話す。

 連行された先は海軍の軍人養成学校で、そこが秘密拘置所だった。拷問の末に、麻酔を投与され、生きたまま海に投棄されて殺害されていた。あるいは遺体が焼かれた。家族たちには行方不明者扱い。現在も、その実態がわかっていない。行方不明者とは、軍事政府の手で殺害された人たちだ、と理解できた。

「息子夫婦は同年8月、朝4時にパジャマ姿で連行されました。息子は拷問の末に殺害されました。妊娠七ヶ月の嫁は、出産した後に、殺害されました」とヘルマンさんは悲しい出来事を打ち明けた。

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インタビューから、人生を学ぶ

 日本ペンクラブ『ペンの人』、PJニュース『よこ顔』などで、シリーズものとしてインタビュー記事を書いている。ほとんどが人生経験の豊かな人たち。それだけに、単なるインタビュアで終らず、相手の話から生き方、考え方など学ぶ点が多い。

 PJニュース『よこ顔』の場合は、地位や名誉など関係なく、ちょっとした縁、ユニークな人だな、と思うと取材を申し込んでいる。大学関係者、歌手、元タカラジェンヌ、路上ライブ、ボランティア活動、シニアの講師、下町の職人など幅広く求めてきた。


 斉藤善久(ぜんきゅう)さんは元電通マンで、獨協大学で教鞭(きょうべん)を取っている。同大学では人気講師だ。
 2年ほどまえ、シニア大樂の講師・ノコギリキング下田さんから、「ユニークな方がいますよ」と紹介された。二人は早稲田大学の後輩・先輩の関係だった。 さっそく善久さんにインタビューし、教壇での指導方法に感銘した。タイトル『こんなユニークな教え方の講師がほしい! うちの大学にも』で、PJニュースに取り上げさせてもらった。

 善久さんはことし1月、NHKラジオ深夜便に出演し、タイトル『カタイ頭をやわらかく』で語った。好評で、3月には再放送があった。そこで、PJニュース『よこ顔』としてインタビューをお願いした。
 北千住で会って取材中に、双方の合意から、学生向けの記事に切り替えた、という経緯がある。

(写真提供:斉藤善久さん)

 日常生活のなかで、「柔らかい頭」、「硬い頭」はよく使う。その定義となると、曖昧だ。「やわらかい頭とは、アイデアが簡単に出せる人です」と善久さんから説明を受けた。なるほどな、と思った。「話題が豊富な人」、それも頭脳の柔らかさに結びつく、と思いながら聞き入った。

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オリンピック(IOC)評価委員会の記者会見記=東京の勝利は疑問?

 IOCは今年10月にコペンハーゲンで、2016年の五輪開催地を決める。現在は4つの都市に絞り込まれている。IOC評価委員会がシカゴに続いて、東京にやってきた。大会会場など技術的な面を調査するためだ。

 東京都招致委員会からは、PJニュースのメンバー4人(小田編集長、吉川編集長代理、安居院(あぐい)東京城西支局長、それに私)に取材許可がでた。4月17日は東京・六本木アカデミーヒルズ49階の記者会見に出むいた。

 小田編集長は通信社時代に、アトランタ・オリンピック大会で取材記事を書いていたという経歴を持つ。大会の舞台や流れなどにもくわしい。今回の記者会見の記事を書くにあたって、切り口のアドバイスがもらえた。

 石原慎太郎都知事が、『ゆりかもめ』の質問に対して、羽田とつながっているとか、頓珍漢な発言をおこなった。石原都知事は自分のお金でに乗ったことがあるのか、神奈川県の在住で東京の姿など熟知していないな、という思いを持った。他方で、ゆりかもめはオリンピック・スタジアム、選手村などを結ぶ大切な交通機関だ。IOC評価委員会に対しても重要な説明事項だ。ある種のなさけなさを感じた。

 プレスセンターで、その日のうちに、『石原都知事さま、珍答「ゆりかもめ」で五輪招致できるの?』という記事を書いた。プロカメラマンの吉川編集長代理には、石原都知事の写真を提供してもらった。

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桜の穴場は記事に間に合わず=桜取材の総括

「ことしは桜をよく追ったな」という実感がある。
桜は日本人のだれもが好む。桜情報は特別なネタではないが、春になれば、TV、新聞、雑誌、地域情報誌、あらゆるメディアが取り上げてくる。PJニュースも同様だ。

 4月半ばにはソメイヨシノがすべて散って葉桜だ。いまや山桜や八重桜が散見される程度。街なかや野山はサツキ、ツツジなど、多彩な春の花に移っている。いまさら桜記事でもないが、総括してみたい。

 3月半ばから、東京の桜花を追って記事にしてきた。
 東京マラソンが3月22日に実施された。フルマラソンに出場したNYっ娘であるStacyと、3日後に皇居(一周約5キロ)を3周した。
 彼女が来日する数ヶ月前、ともに皇居の「満開の桜トンネル」を走ろう、と約束ができていた。外国人がみた桜の感想も取材したかった。

 3月25日はまだ一分咲きで、観賞には値しなかった。Stacy の満開の桜にたいする期待は高く、ことのほか残念がっていた。気の毒だった。ランニングは楽しかった。「アメリカの全州で、フルマラソン大会があるのよ」と教えてくれた。30歳の彼女は生涯において、全州の完走を達成したい、と語っていた。

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遠方より友来る。葛飾・立石は安価で、人情味ある飲み屋がひしめく。

「東京下町の情緒100景」が完了したのは、昨年の桜が咲くころだった。葛飾・立石を中心とした。堀切菖蒲園とか、柴又とか、浅草とか、メジャーなところは外し、素朴な面ばかり。それでも、いまだに読者がついている。

 先般も葛飾区教育委員会で、『かつしか区民大学』の発足について話を聞く機会があった。主事が一通り読んでおり、「葛飾にも、いろいろな面があると再認識させられました」という。それには驚かされた。素朴な情景も100景となると、厚みがあるようだ。


 葛飾・立石には町工場、家内工業、商店が集中する。下町の中心地のひとつ。仕事が引けると、工員、店員たちは帰り路で飲み屋にちょっと立ち寄る。長居はしない。飲み屋の多くが一人1000円台で呑める。庶民の町の飲み屋街なのだ。

 最近は親しい方に、「葛飾・立石は下町情緒たっぷりで、昭和が残っている街ですよ」とアナウンスしている。その上で、1000円台で飲める店が豊富にある、とも語る。
 大学時代の学友は随分気に入り、年に数回は葛飾立石に集ってくる。かつてITコンサルタントの肥田野正輝さん、旧友の関根稔さん、古関雅仁さんもやってきた。

 1月27日は、二上薆さん(エッセイ教室・受講生)と、松本道湛’さん(いまや写真家)が来てくれた。2人はともに元日本鋼管の先輩・後輩だという。(写真左:松本道湛’さん、右:二上薆さん)

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犯罪的な取材行為は、「取材の自由」ではない=オピニオン

 奈良県田原本町で、06年6月20日に、16歳の少年が自宅に火を放ち、3人を焼死させた事件が発生した。
 奈良地方裁判所は少年の行動に疑問を持ち、精神鑑定を行った。担当したのが精神科医の崎濱盛三(もりみつ、53、写真)さんで、放火した少年は広汎性(こうはんせい)発達障害をもつと診断した。


 草薙(くさなぎ)厚子著『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)が世に出た。そこには警察や検察の供述調書が多数引用されていた。情報源として、崎濱さんがジャーナリスト、講談社に供述調書などを洩らしたとして逮捕された。そして、秘密漏洩罪に問われて起訴された。

 昨年6月13日、日本ペンクラブと(社)自由人権協会の共催で、大手町サンケイプラザで、『言論が危ない』のフォーラムが開催された。鑑定医の崎濱盛三さんが対談形式で、吉岡忍さんの質問に応えて真実の一端を明かした。

「少年は殺人者ではなかった。それを世に伝えてもらいたくて、ジャーナリストに警察や検察の供述調書などをみせました。このときの約束事は、『見せるだけです、コピーはダメです、供述調書の直接引用はしない』というものでした」と打ち明けた。

「私は外出するので、草薙厚子さん、講談社の記者、カメラマンなど関係者4人に住まいの鍵を預けました。その間に、調書や鑑定書をデジカメで撮影したものです」と明らかにした。さらには、「出版前には、崎濱さんへの原稿の最終チェックさせてもらう、という約束も反故にされました」と語っている。

 同フォーラムが終了後、居酒屋で十数人が飲んだ。崎濱さんは一つ席が離れた場所に座り、吉岡忍さんや江川紹子さんらと語り合っていた。「誠実な人柄だな」、という印象を強く持った。

 今年1月27日付の朝日新聞によれば、14日の奈良地裁で、検察官の質問で、草薙さんは被告席の鑑定医の崎浜さんに謝罪し、取材源だったことをはじめて認めた、という。

 閉廷後、崎濱さんは「いまさら謝罪されたって、どうってことない」と冷淡に草薙さんを突き放している。「なんで、今ごろ(情報源)言うのかな。草薙さんや講談社に(調書)を見せたことを強く後悔している」と語った。

 奈良地検の検事は「草薙氏が取材源を明らかにしたことで、鑑定医の供述と一致し、立証は前進した」と話している。つまり、崎濱さんはなおいっそう窮地に陥れられたのだ。

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新年早々

 元旦は快晴だった。羽田発の広島行2便の旅客機から、眼下に白雪の富士山を見た。山頂の噴火口も鮮明にのぞけた。機内から、こうも間近に富士山を見下ろしたのは初めてだった。
 スチュワーデスがコーヒーを差し向けながら、「とても素晴らしい富士ですね」と声をかけてきた。彼女の笑顔の一言も、心をうるおす。09年早々の素晴らしい光景だ。

 一昨年12月には富士吉田側の一合目から、富士山・山頂を目指した。アクセスが悪く、なおかつ積雪をなでる強風で、七合目半で引き返してきた。そんな登攀の思い出がよみがえった。

 正月に、広島に帰省するのは数十年ぶりだ。大学生のころか、少なくとも24歳で結婚した頃まで遡らないと、記憶にはない。子どもが生まれてからは、年末年始の帰省ラッシュに、郷里の島に帰ってことはない。難儀して交通機関の指定券を取る。そんな苦労はムダだと考えていたから。

 3日前の、12月29日の夕刻、瀬戸内の島で一人暮らしする老母が倒れた。島から救急車で竹原市の病院に搬送されていた。30日は島の親戚筋、31日は私の妻と息子。そして、元旦には私が現地に向かった。
「横浜にいればよかったものを」
 私はつぶやいていた。

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