ジャーナリスト

ムバラク大統領を倒した、「フェイスブック」って、なあに?(上)

 世の中には、「食べず嫌い」「食わず嫌い」という言葉がある。取材先で、「私はインターネットが嫌いだ」という人に何度か出会ったことがある。
(ネットを使った結果、そう思うのかな?)
 そんな懐疑的な気持よりも、パソコン音痴だろう、と聞き流している。時折り、パソコンを買ったが使っていない、という人もいる。一度はパソコン教室に通っているが、習熟できず挫折しているようだ。
(講師の教え方に問題があるんだな)
 そのように理解している。

 現在では、小学校の授業で必須科目としてパソコンを教えている。それら世代が確実に育ち、もはや二十歳の成人にまで達してきた。他方で、高年齢層までの各世代層への拡大は目覚しい。
 ネットを使った交通機関のチケット手配、料理のレシピー、百科事典代わり、ニュースなど、膨大な情報のなかから必要なものが引き出し、利用している。ネットがなければ、生きていけないという意識だ。

 情報化時代とはなにか。個人が新聞・TV・雑誌の情報の受け手側から、逆に、発信側にまわった時代をいう。いまや日本国内だけでも、ブロガーは数百万にもなった。みずからのブログで積極的に身辺の情報を出す。ものの考え方を示す。しだいに政治・経済・文化を変えはじめた。

 かつて大手メディアが各種情報をコントロールし、為政者からのリークで、世論を操っていた面がある。ときには肝心なことは隠して報じない。そんなことから、メディア報道も、ときに嘘をつく、隠す、という疑いと認識が人々の間に潜在してきていた。

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瀬戸内海・『祝島』の原発反対運動=ドキュメント映画は何を語る? 

 日本ペンクラブ・環境委員会の2月研究会は、2月7日午後4時から、同大会議室で、原発建設反対のドキュメント映画『祝島』(ほうりのしま)の上映会を行った。参加者は同会員の約30人である。


 1時45分の上映後は、纐纈(はなぶさ)あや監督(36、東京都出身、写真・左)と、中村敦夫さん(俳優、作家・同クラブ環境委員長、写真・右)との対談が行われた。

 中国電力は山口県上関町の長島・田ノ浦に原発建設予定地を決めた。ドキュメンタリーの舞台となったのは、対岸4キロの祝島(いわいしま)で人口約500人の離島である。
 撮影は08年夏から09年末までの1年10ヶ月で、その準備段階として、彼女は1年間にわたり、一人で祝島に通い、の家々で取材している。

 原発建設の賛成派と反対派の激突があり、賛成派が多数で可決する。それは導入の一場面である。
 原発建設反対だけのドキュメントではない。カメラは離島の風景、海や自然を大切にしたい、という島民の生活とことばを丁寧に集めている。「海は金で売れない」という島民の姿勢が随所で展開される。


「大切な環境問題に取り組まれた、よいドキュメントです。退屈な時間を守る島民に対して、カメラをまわし続ける。度胸のいる撮影ですね」
映画俳優でもある、中村さんはそう評価する。

「漁師にとって、海は大切な生活資源です。原発を受け入れると、漁業補償金が出ますが、祝島の人たちはそれを拒絶しています。島の経済は海があるから、自然のなかで平等に回っているんです」と女性監督は話す。

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勝海舟の玄孫・高山みな子さん=エピソードと史料拝見

「元気に百歳クラブ」の二上さんが、勝海舟の玄孫・高山みな子(こうやま みなこ)さんと面談できる労を取ってくださった。
 1月24日、日本ペンクラブ・広報委員の鈴木さんと3人で、高山邸に出向いた。勝海舟とエピソードとか、貴重な史料をも見せてもらった。現在、鈴木さんと芸州藩(広島)を研究中である。その関係について、突っ込んだ質問をさせてもらった。
 その関連から、高山さんからは数々の文献や研究者たちの紹介が得られた。


 高山さんはフリーランスライターで、勝海舟、坂本龍馬を中心とした、執筆や講演をされている。他方で、ガラス彫刻の工房も行う。彼女の話し方は明瞭活発であり、勉強家であり、勝海舟のDNAを感じた。

 勝は江戸・本所の貧しい旗本の倅(せがれ)と生まれ育った。仕官してからは、努力を積み重ね、地位を高めながら、龍馬など多くの人材を育て、徳川幕府の幕引きまで行った。日本でも稀有な歴史的な人物だ。

 勝はとくに奉行職になってから、幕末の難局のなかで、高所大所から判断する立場に置かれていた。周りは大名や老中などの身分の高いものばかり。
「勝は身分の低い旗本でしたから、随所で辛い思いをしていたようです」と高山さんは語る。

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アジアゾウのカップルが愛の発情・上野動物園=貴重な写真か

 1月12日、冬の上野動物園を訪ねてみた。冬眠に入った熊もいれば、発情期の動物たちもいる。


 アジアゾウの愛の瞬間を観察する機会があった。
 動物の発情は、子どもを産むためのもの。多くは1回で妊娠してしまうので、交尾の光景は数年に1回かもしれない。
 おおかた貴重な写真だと思う。類似的だが、生態として、紹介したい。

        

 園内で、象の檻から奇異な鳴き声があがっていた。これまで聞いたこともない響きだった。足を運んでみた。2頭が体を寄せ合ったり、地面に横たわったり、互いに長い鼻で性器をなめあったりしていた。


 牙を持つ雄が、メスの糞を少しずつ食べていた。求愛のしるしなのか。今度は放尿する。消防ホースから出てくるような勢いだ。

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龍馬の「船中八策」は作り話し。司馬遼太郎もダマされていたのか

 明治・大正時代の土佐の文筆人による、坂本龍馬の関連書物には架空の話が多い。随所に作り話を挿入している。それが後世の歴史的な事実として一人歩きし、司馬遼太郎著「竜馬がいく」においても数多くの下地になっている。

 明治16年、土佐新聞に坂本龍馬の伝記が連載された。タイトル「汗血千里の駒」(かんけつせんりのこま)は、維新のために東奔西走した龍馬を、千里を走る馬にたとえている。

 龍馬が暗殺されてから16年後、維新から数えてもわずか16年なのに、龍馬の最大の功績とされる大政奉還の船中八策(慶応3年6月)が一行も出でいないのだ。
 つまり、土佐藩の夕顔丸で、龍馬が後藤象二郎に、大政奉還を示した内容はみじんも記されていない。すると、龍馬は無関係だったのか。

 いったい、どこから「船中八策」が出てきたのか。船中八策と誰が名づけたのか。
 これは推量だが、どうも千頭清臣著「坂本龍馬」1914(大正4年)らしい。疑う理由として、千頭清臣氏にはゴーストライターがいたことだ。

 田岡正枝氏(土佐出身)が『坂本龍馬は、実は千頭さんから依頼されて僕が書いたものだよ。謝礼として80円もらったが、あれはいい酒代だった』と述べている。ここに注目したい。

 現代のゴーストライターは、著名人(政治家、社長、芸能人)の人物をより大きく見せるために、故意に大きく書いたり、他人の業績を横取りしたり、そんな書き方をする者も多い。

 ゴーストライターの田岡正枝氏が無責任に本が売れれば、酒代が弾んでもらえる、同郷の土佐人として、龍馬を大きく見せてやろうと「船中八策」を作り上げた可能性がある、と私は疑っている。


 司馬遼太郎著「竜馬が行く」で、このところは

『第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく、朝廷より出づべき事』
 この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。

 と記す。
 司馬氏はまさに土佐人の作り話に騙され、龍馬に最大の賛辞を与えてしまった、最大のミステークだといえる。少なくとも、同氏は明治16年「汗血千里の駒」から疑うべきだったのだ。

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えっ、東京にはここしかない、初詣なの=原稲荷神社

 年末のNHK紅白歌合戦が終わると、途端に、わが家の前の通りには初詣に向かう人の足音が聞こえてくる。12時をかなり回っても、途切れることはない。とくに子どもたちの嬉々とした、正月を祝うというか、興奮した声が1時過ぎまで室内に響いてくる。

 わが家から約20m先の原稲荷神社では毎年、元旦O時から、搗きたての餅が1人3個入りのトレーで配られる。甘酒ももらえる。町内の子どもたちは毎年、それを楽しみにしているのだ。

 わが子が幼かった頃、同伴者として、原稲荷神社の深夜の初詣・餅つき大会に連れて出向いていた。下町の子ども特有の天真爛漫な行動で、大勢が焚き火の周りを走り回っていた。
 当時は詣でる人も少なく、餅も余りぎみだったのか、食べ放題であった。

 同境内はふだん町内の人たちが駅への通り道として利用している。かつて社殿は廃れたような形状で、正月の深夜の餅つき大会だけが子どもの関心を買う、というていどだった。町内の多くのひとは、成田山や浅草寺など人気の寺に初詣に出かけていた。

 わが子はもはや30代半ばである。子育てが終わった私は、原稲荷神社の深夜の持ちつき大会にはここ20年ほど無関心だった。ひたすら、除夜の鐘と足音を聞くだけであった。

 社殿はこのところ手が加えられて小ぎれいになってきた。それでも、私が認識する元旦の風景は、小さな境内は閑散としており、通りすがりの人が社殿に手を合わせるていどである。あえて同神社に足を運んできたとは思えなかった。

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学友会は、政治評論家の集団か? 「国民の僕って、何ができるの?」

 5人の学友が、11月21日17時に、京成立石に半年ぶりに集まった。ここは「学友会」のホームグランドである。
 元教授の話によると、「立石は昭和レトルト・ブームで有名になったよ」、TVの紹介番組などが反映(影響?)し、最近は20代30代のグループやカップルが首都圏からわざわざ飲みにきているという。と同時に、個人で飲み屋をはじめる新規店舗も増えていると話す。
 
 立石では最も有名なモツ煮『うちだ』がなぜか3日期間の臨時休業だった。ならば、京成電鉄の線路をはさんだ、鳥の唐揚げ(半羽の骨付き)が食べられる『鳥房』に向かった。ここも超有名店である。
 だれもが考えることは同じで、店先には長い列だった。次なるは京成の線路に沿った、中華料理店「海華」だ。

 同店は厨房の料理人、接客女もすべて中国北部の牡丹江(ぼたんこう)出身者である。「安くて、味がよくて、親切なおもてなし」、それは抜群。横浜中華街に決して負けない味で、値段は半額以下である。
 学友会とすれば、公開したくない穴場だ。

        
 元教授は近況報告として、最近の会津旅行を披露する。飯盛山に行けば、イタリアのモニュメントがあり、長州への憎しみの歴史が薄らいでしまう、と語る。

 話題が幕末史に移った。ヤマ屋が、龍馬の「船中八策」は偽もので、明治半ばになって、土佐人が龍馬と後藤象二郎を大きく見せるために作ったものだという。
 司馬遼太郎著「竜馬は行く」は、原本もない船中八策を盲信している、と語る。他方で、下関長府博物館と国立国会図書館に現存する「新政府要綱八策」こそが、正しい史実だ。それは四藩(薩長土芸)の有力者によって作れたものだ、と持論を語る。

         

 元焼き芋屋が話題の突端として、いきなり次回の学友会は「築地魚市場・内市場にしよう」と提案する。つまり、次回の予定を決めておかなければ、気持ちが安定しないらしい。
「魚の仲買人は最近は一般人にも販売しているよ」
 魚市場は朝が早い。朝8時ごろに行けば、もう残り物の投売り。それでも、アジ一匹という売り方はしていないし、アサリなどはキロ単位だ。このメンバー5人で分配すればよい、という提案をする。
 朝からアサリを持ち帰るのは面倒だ。「一杯飲み屋もある」と元焼き芋屋が誘う。「朝から酒を飲む?」あまり乗り気ではない。却下になった。

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竜馬の「新政府綱領」成立の謎=東京新聞

 東京新聞10月31日(こちら特報部)に、龍馬が書き残した「新政府要綱八策」が見開き2ページで取り上げられた。これまで通説とされてきた『船中八策』には原本もなく、存在にも疑問とする、と見出しで報道されている。


 同社「特別報道部」の記者から、私は10月初旬に取材を受けた。
 
「船中八策」は長岡謙吉(土佐海援隊)が書き留めたというが、原書とか、写しすらも存在しない。明治半ばに、最初の龍馬ブームが起きたとき、だれか物書きが、土佐の龍馬と後藤象二郎の業績を大きく見せるために創作したものだろう。
 船中八策は龍馬が書いたように見せかけた、まずは偽物だろう、という見解を示した。

 一方で、慶応3年11月に作成された「新政府要綱八策」は、龍馬の肉筆であり、実名でもあり、国会国立図書館、下関市立長府博物館に原書が残っている。こちらはまさに本物。内容からしても明治憲法の草案である。
 トップ(総理)には誰を据えるか。合議したが決まらず、龍馬はOOOと未定としたのだろう、と推察できる。

 同月15日に龍馬は暗殺された。半月間しか生きていない。この事実から絞り込めば、「新政府要綱八策」の合議の場所が特定される、と話した。

 新谷道太郎著『新谷翁の話』によると、同年11月3日から6日、龍馬が薩長土芸の影響力ある藩士(木戸考允、大村益次郎、大久保利通、後藤象二郎、船越洋之助など十数名)が広島県・大崎下島(御手洗)を集めて密議している。これとぴたり一致する。

 大政奉還の後だし、四藩の軍事行動だけでなく、新政府の憲法をどのようにつくるか、トップを誰にするか、と龍馬主導で話し合った可能性がかなり高い、と説明した。

 その条文を見ると、上院・下院の二院制とか、海外との為替通貨の制定とか、天皇の近衛兵を設けるとか、欧米の憲法を下地にしている。
「船中八策」は龍馬が儒学者の横井小南、大久保利翁(幕閣)の影響を受けて作成したといわれてきた。しかし、その内容を見るかぎり、海外に出向いたことのない儒学者や幕閣の着想ではない。その現物はないし、存在そのものもあやしいかぎり、という否定の根拠の一つとした。

 同記事の一部を紹介すると、

『船中八策は原文書が存在しないことに加え成立過程を詳しく記した資料も乏しい。研究者の一部には竜馬の関与はもとより、存在を疑問視する見方もある。
 幕末研究を続ける作家の穂高健一氏も「竜馬一人で船中八策を発案したとの説には無理がある。新政府のあり方を決めるには、有力諸藩の武士が集まって話し合う機会が必ずあったはずだ」と主張している。』

「新政府要綱八策」の現物をもつ下関市立長府博物館の学芸員の見解なども示し、2ページの記事として、大きく展開されている。

かつしか区民大学「私が伝えるかつしか」講座が8回終了

 かつしか区民大学が今年度から開講した。目標は区民の学びと交流による、「ひとづくり、まちづくり」で、主催は葛飾教育委員会。そのなかの一つ「私が伝えるかつしか」に、私は講師として迎えられた。受講者17人で、5月からスタートし、10月22日に8回シリーズを完了した。

 同講座は、市民の目で葛飾区内の情報を発信していく、ミニ記者の養成である。主として上手な写真の撮り方、上手な文章の書き方、取材の仕方が3本柱となった。


 6回は夜7時からの2時間の講義だった。他の2回は課外活動で、6月は花しょうぶが盛りの水元公園、9月は介護老人保健施設「青戸こはるびの里」、青砥神社の例大祭に出むいた。当日は朝10時に集合し、夕方5時まで、写真撮影の実習と取材の実践を行った。

「綺麗だから写真を撮る、といった撮影から卒業してほしい。伝えたいものがきれい、汚いは関係ない」
 主役と脇役を意識して撮影する。
「人間は人間に感動するものだから、写真には人間を取り込む」
 ポイント1ヶ所では7つの角度からシャッターを押す。そして一つを選びだす。こうした約束事を通して、技量を高めていった。

 受講者には毎回かならず宿題を与えてきた。各人はまずテーマを決める。そのうえで、区内を歩く。講座から学んだ写真撮影、取材の技法を駆使していく。そのうえで、記事にしたり、写真エッセイにしたりして、提出してもらった。提出率は驚くほどで、ほぼパーフェクトだった。
 それを細かく執拗に添削し、返却し、次の作品へと役立ててもらった。数回にして、撮影技術、トリミング技術が向上し、人物がど真ん中に座る、日の丸写真などは皆無になった。

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中国政府は、ノーベル賞の受賞者が大嫌いか?

 今秋は、中国人のノーベル賞に関心をむけていた。日本ペンクラブの広報委員活動の一環で、それを身近に感じる機会が連続していたからだ。

国際ペン東京大会の開会式が9月26日、東京・早稲田大学の大隈講堂で開催された。基調講演のひとりが中国人作家の高行健さんだった(写真・右)。高さんは天安門事件の後、中国にもどれずにフランスで作家活動をしている。2000年にはノーベル文学賞を受賞している。

「文学は政治・イデオロギーを越えたものである。作家には権力や特権はない。創作によってのみ、苦境の社会状況下を描き、(政治)圧力に抵抗することできる」
 高さんは冒頭から、中国には思想の自由がない、という痛烈な批判を感じさせる内容だった。

 同東京大会の最終日に、国際ペンのジョン・ラルストン・ソウル会長および日本側の阿刀田高会長ら代表が、外国人記者クラブと国内記者会見に臨んだ。
 世界中に、獄中につながれた作家・詩人は多い。国際ペンはそれら解放を要求し、家族の支援も行なっている。


         
   (ジョン・ラルストン・ソウル会長、9月30日、外国人記者クラブ)

 ソウル会長から、「一時間ほど前、日本にある中国大使館に、作家・詩人の劉暁波(リウ・シアオポー)氏の身柄拘束を解くように。同時に、中国の言論・表現の自由と民主主義の拡充を図るように、と声明文を渡してきました」と語った。
 劉さんは懲役11年の実刑で服役している。中国の言論・思想の自由と、基本的人権を求める、非暴力の闘いを行なっている、という説明がなされた。

 劉さんは2010年ノーベル平和賞のノミネートされていた。10日後にはその結果がわかる。中国政府の神経は逆立ち、同賞委員会に内政干渉だと批判を繰り返していた。
 ノールウェーでは、最終選考の段階だった。この時期に、国際ペンのソウル会長みずから中国への抗議を示し、世界中にそれが発信されたならば、ノーベル賞の選考にも影響するのではないかな、と記者会見の場で取材しながら、私なりに考えていた。


 10月8日、劉さんの平和賞が決定された。獄中の彼に、どのようにノーベル賞が伝えられるのか。いまの中国のノーベル賞批判を見るかぎり、釈放どころか、授賞式にも参列させないだろう。

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