ジャーナリスト

世界最大級『白根大凧合戦』のパレードで、白根は燃える=写真で観戦


 「しろね大凧と歴史館」で、先に大凧の知識を得ていると、『白根大凧合戦』を観戦する興味が深まると、大会関係者から教わった。

 同館に出むいた。そこでは大凧のスケールの大きさに驚いた。

 これらの大凧が舞い上がり、空中戦を行うのだ。


 『白根大凧合戦』は、中ノ口川(川幅が約80メートル)の左岸と右岸から、それぞれ大凧24畳を舞い上がらせ、絡(から)ませる。

 川面に落ちたら、こんどはからまった元綱25ミリを双方が引き合うのだ。

 つまり、綱引き合戦だ。

 25ミリのロープを作る「より師」は、麻縄を三つして編む。1本のロープが200万円強だという。

 もし自軍の綱が新品の時に合戦で切られたならば、腕前の失望と羞恥とで、もう川土手は歩けない、夜逃げしたい、自殺したい、そこまでの心境になるそうだ。

 
 現に、数か月ほど家出し、行方をくらました、より師がいたという。



 同館の1、2階には、日本のみならず、世界中の凧が、これでもか、これでもか、と数多く展示されている。
 
 他方で、多種多様な凧には驚かされる。見応えは十分ある。

 作家の知識欲から全国の博物館には、人一倍、足を運んでいる。全館が「すごいな」とつよく感銘を受けた、数少ない一つである。「世界最大の凧の博物館」は嘘偽りがない。


 この館だけでも、白根にやってきた値打ちは充分ある。新潟に来れば、お勧めのスポットである。 


『大凧合戦大会』のパレードが5月6日(木)の午後12時半に、白根小学校からスタートした。

 本通りは興奮状態になる。

 


 町のいたる所に六角凧が展示されている。

 とくに商店街の店先には、店名入りの凧が飾られている。

 大会期間(大人の部は4日間)のいずれかの日に、これらは空に舞い上がる。

 

 各地の園児たちがやってきて、沿道で声援する。

 幼いころから、大凧に接し、伝統を守り継いでいくのだ。



 大会の幟(のぼり)がやってくると、あと1時間半の午後2時から、熾烈な戦いがはじまるのだ。

 地元民は、その興奮を肌で知っている。

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燃える少年少女たち『子ども大凧合戦大会』、新潟・白根=写真で観戦

 新潟市・白根(しろね)で、勇壮な世界最大級の『白根凧揚合戦』(佐藤弘会長)が開催された。6月5日から始まり、10日(日)まで5日間にわたる。

 同大会は江戸時代中期から始まり、約300年の伝統がある。

 子ども凧合戦は1975(昭和50)年から始まり、今回で39回に及ぶ。初日の5日の午後2時から6時まで、小学校・10校の生徒たちの参加で、戦われた。

 小学生が揚げる凧は6畳(5x7メートル)である。



 2013年の子ども同大会は、13校中10校が参加した。そのうち、8人の校長が参列し、2時から6時まで熱い声援を送っていた。

 2012年度の優勝は「武田信玄」チームだった。同大会では準優勝、さらには技能賞まで授与される。

 昨年は技能賞だったチームの女子が、返還を前に名残り惜しそうにカップを抱え込んでいた。



 開会式は、大会役員から、伝統ある「白根凧揚合戦」の誇りが語られた。

「子どもは地域の宝物です。最高の1日にしてください」
 その一方で、怪我をしないように、とくり返し注意を促す。

 合戦とは戦いである。荒々しさは付きものだけに、大会関係者は気をもんでいるのだろう。


 少年・少女たちがリズミカルに『笛』をふきながら、土手の会場へとやってきた。

 子どもたちは笛で自分を鼓舞する。狭い土手には観客も、カメラマンも、各チームのメンバーも含めて大勢の人である。『笛』を聞けば、通路を開けてもらうためでもあった。



 小学生のみならず、親も加わっている。

「親の方が熱くなるんですよ。私が生まれた時から、子どもの凧揚げ合戦はありましたし、参加していました。凧揚げ合戦が子どものころから、からだに沁みこんでいるんです」
 30代の母親が教えてくれた。

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第3回葛飾区大学で、「区民記者養成講座」が開始される

 葛飾区・教育委員会主催の「第3回かつしか区民大学」の葛飾区民記者・養成講座が開催された。2013年度の第1回は5月24日に、区役所に近いウィメンズパル1階で、受講者は11人である。同講座はプレイ事業も含めると、実質4年連続である。


 講座のメインタイトルは【~歩く(取材)、撮る(写真)、書く(記事)~】で、5月から11月まで、計8回にわたって行われる。
 夜間19-21の2時間講座は6回。あとの2回は10-17時の課外(取材)実習である。


 同教育委員会、生涯学習課の佐藤さんから、「穂高健一氏は小説家であり、かつジャーナリストです。『書くこと、撮ること、パソコン指導』の3つにおいてすべてプロフェショナルである。1人の人物が3つを同時に教えられるのは稀有の存在です。

 3つをばらばらに習ってきても、区民記者になれるわけがありません。体系的に、総合的に指導を受けて初めて為せるものです。

 3つが同時に指導できる講師が、この葛飾に在住でした。その縁があったから、都内23区でも、区民記者養成講座ができるのは、ここ葛飾区だけです。

 さらに、過去の卒業生たちは、「かつしかPPクラブ」(浦沢誠会長)を立ち上げ、いま現在、活発な活動をしている。最近では、女子メンバーが「かつしかにこの人あり」で、葛飾区長の単独インタビューを記事にしている、葛飾に多い職人たち、柴又の野口寅次郎氏などを紹介する。
 かれらPPメンバーは先輩として、この講座のサポートをしてもらいます」

  今回参加したのは浦沢会長だった。

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かつしか区民記者が、東京下町・四ツ木の魅力を発掘取材する


「かつしかPPクラブ」は区民記者の集まりである。かつしか区民大学の養成講座を終了した、1期生から3期生で構成されている。

 年1回は日曜日を選び、全員が1日かけて共同取材する。


 2013年は葛飾・四ツ木地区である。

「きょうは人間とのかかわりがある、ポイントを見つけてください。ガイド記事にならないように。後日、個々に取材する、その予備調査だと考えてください」と留意点を述べておいた。

 5月19日(日)は、午前中~午後はやや曇り空だった。「四ツ木・取材ツアー」は、強い直射日光でなく、初夏の花が満開の取材びよりだった。

 公園では日曜日で、親子連れが目立った。

 楽しそうな一家は、よき被写体になる。

「四ツ木ツアー」には、岡島古本屋の主・岡島さんを介し、石戸暉久(いしど てるひさ)さんにお願いした。

 石戸さんは彫金師の職人である。本業の一方で、「木根川史料館運営委員会」のメンバーとして、町案内のボランティア活動を行っている。(写真・中央で、指差す人)

 来月から「かつしかFM」で1時間番組を持つと、自己紹介していた。

 四ツ木地区は、終戦直後から映画館も多く、繁栄してきた町だ。いま7~8割は店を閉じた、シャッター街である。
 そのなかでも、頑張っている店舗もある。


 東京下町・葛飾の特徴は、京成電車の踏切である。最近は高架線になり、その姿は消えていく。

 平和通りには、いまだ堂々と電車の踏切音がひびく。この音こそ、下町の音である。



 店頭に豊富な衣料品がならぶ、がんばる洋品店があった。ここから約300mのところには、衣料品が特に強い、巨大なスーパーマーケットができている。

 それでもがんばれる店には、下町・商売人の根性が感じられる。

 「いつまでも、がんばれよ」
 そんな声援を送りたい。


 右手の道路は、1911(大正元)年に開通した、京成電車が走っていたところだ。

 荒川放水路の完成すると、電車が川を越えるために、鉄橋ができた。そのために線路を移設させた。その線路跡が道路になった、と説明を受けた。

 わずか一軒分を挟んで、2つの道路がある。めずらしい地形となった。なにかと区画整理と言い、合理性が求める世の中にあって、新旧を共存させた、その知恵はとても好いね。

 

 

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第一原発から7キロに入る、3・11被災日にタイムスリップ=冨岡駅周辺

 2013年4月16日、フクシマ第一原発の事故現場に近い、浜通りに入った。

 フクシマ第二原発がある楢葉町と冨岡町の一部は、昼間に限って入れる。事故を起こした第一原発がある、双葉町と大熊町はいまだ昼夜問わず立ち入り禁止である。

 案内してくれる歴史専門家と、楢葉町役場に立ち寄った。住民課の窓口に女性が2人がいた。他は無人。なぜ2人が交代で詰めているのか。放射能は気にならないのか。奇異な感じがした。

 町役場の機能は3・11の直後から、いわき市と会津美里町に移っている。ただ、同町には避難しなかった人が4人ほどいると聞く。その人たちのために、住民課を開けているのだろうか。


 JR富岡駅は、3・11の大津波の直撃を受けた。

 駅員も住民も、町民はみんな避難したまま、富岡町には帰ってこれなかった。

 津波で破壊された状況が、そのまま残されていた。


 大津波で、電車の架線を支えるコンクリート・ポールが折れていた。

 柱は円形だから、水の抵抗は少ないと思う。それでも高さ5mほどのところで折れている。

 大津波のすごさが如実に伝わる。



 線路のなかには乗用車が入り込んでいる。

 2年1か月間、放置されたままなのだ。

 放置というよりも、人間の手が入れられなかったのだ。

 富岡駅は「スーパーひたち」特急が停車する。こうした駅すらも無人だから、どこかローカル線の旅に来たのような錯覚に陥る。

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正式な国名はどっちか。ビルマか、マャンマーか?

 スー・チー女史とともに来日した、ミャンマーの作家・人権活動家、マ・ティーダ博士が4月18日、日本ペンクラブで懇談会を行った。約1時間半。会員の参加は約30人だった。
 ティーダ博士(女性医師・作家)は1966年ヤンゴン市に生まれた、外科医である。1985年から作家活動を開始し、ミャンマーの民主化運動を海外に知らせた。その結果として、軍事政権ににらまれて、懲役20年の刑を受けて投獄された。

 懇談会は外部公開でないので、細部は語れないが、会員から国名に対する質問があった。
「ビルマか、マャンマーか。ヨーロッパや国連ではビルマで通す。ミャンマーという国名に対して、博士はどう感じていますか」
 どう答えるのだろうか。

 日本人には「ビルマの竪琴」などで、その国名の方がなじみは深い。軍事政権が「ミャンマー」の国名を押し付けている、と私は認識していた。

 07年9月27日に、映像ジャーナリストの長井健司さんが、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権の兵士に射殺された。世界を震撼させた。
 翌08年3月14日に、日本ペンクラブの人権委員会主催で、日本プレスセンターホールで、公開シンポジュウムが開催された。パネラーのジャーナリストが国名の報道を問題にした。
 日本政府は軍事政権に肩入れし、支援している。先進国のなかで、日本が軍事政権を国際社会で最も早く承認した。ジャーナリストも毒されているから、ビルマでなく、ミャンマーを使っているのだ、と噛みついていた。国連ではビルマを使用すると、ここでもそれが強調された。私もなるほどな、と影響を受けていた。

 それから5年の歳月が経った。日本人にもミャンマーが定着してきた感がある。懇談会の席で、マ・ティーダ博士が、
「どちらの国名でも別段、問題ありません。複合民族だから、地域的なくくり方で呼称がちがう。外国の方々がどう呼んでも、問題はない。気にはしていない」
 と述べたのには驚かされた。
 あのフォーラムで問題視した、国名のビルマは何だったのか。

 懇談会が終わると、茅場町の居酒屋に流れた。マ・ティーダ博士、浅田次郎会長、堀正昭さん(国際ペン事務局長)など10人ほどが参加した。
「考えてみれば、日本だって同じだな。ジャパンとか、ジャポンとか、どう呼ばれても、日本人はなにも気にしない。ミャンマーでも、ビルマでも、別にかまわないのは東洋人の発想かな」
 西木正明さん(直木賞作家)がそう前置きしてから、ロシア、中国、韓国での日本の呼び名を披露していた。なるほどな、と思った。

「にっぽんか、ほにんか。どっちが正しいのかな」
 浅田さんが首をかしげた。
 日本国憲法と、大日本帝国憲法では、「日本」の発音が違う。ここらも話題になったが、結局のところ、日本人自身も国名が定まっていない、という話になった。

 

三宅島沖地震、東京直撃の大津波はないのか=明日はわが身

 このところ淡路島の地震、そして 4月17日には宮城地震が発生している。同日の午後5時57分ごろに、三宅島の近海を震源とする地震があった。東京でも、震度4近くの揺れを感じた。
「不気味だな」
 そう感じた人は多いだろう。
 気象庁の発表によると、三宅島の近海地震はこの1回だけでなく、朝から夕方まで震度1以上が21回もあったという。そのうち、震度3以上は7回に及ぶ。今後の警戒が必要だという。
 他方で、震源地が島から離れているので、「三宅島の噴火とは関連がない」と発表された。となると、断層のズレによる地震なのか。


三宅島


 三宅島は相模トラフや南海トラフに近い場所にある。気象庁は巨大地震との関連について、「現状では見守っていきたい」という見解を示す。「見守る」とは実に都合の良い逃げ言葉で、聴き手には危機寸前で教えてくれると錯覚させる、危険な響きがある。わからない、と言ってくれたほうがより親切なのに……。

 3・11の宮城沖の大地震では、三陸のリアス式海岸以外でも、10m前後の大津波の被害に遭った。それが3・11の最大の教訓だった。
 もし、三宅島沖でマグニチュード8クラスの大地震が発生すれば、大津波がストレートに北上し、東京湾に入り込む。社会科の地図からしても、一目瞭然だ。
 類推だが、東京湾に10m前後の大津波襲来もあり得るかもしれない。となると、東京、横浜、千葉の住民はどうなるのか。それが単なる杞憂で終われば、幸いだけれども。

 4月2日から発売された、小説3・11『海が憎まず』が、発行部数が少なかったこともあるが、書店やネット・アマゾンでも売り切ればかりだ。知人から、本がネットで買えない、書店に申し込むと2週間だといわれた、読みたくてもすぐに読めない、と苦言がくる。
 出版社の日新報道に対して、「営業努力せず、売り切れ状態で放置しているんでしょう」と私は何度か抗議した。
「実際に、売れているんですよ」とおうむ返しの回答ばかりだった。


 『海は憎まず』のテーマは「文学は災害に対して、何ができるのか」と問いながら、被災地を回り、3・11の大災害から何を学び、なにを後世に伝えるべきか、と導いていくものだ。

 早くに読んだ、ある読者から、「大津波の恐怖は、明日はわが身ですよ。大正・関東大地震の大火災から、ずっと防火ばかり強調されてきたけど、『海は憎まず』を読むと、東京湾の大津波が怖い。巨大な地震・停電が来たら、まず地下から逃げろ、ビルの上にあがれ、という教訓が学び取れた。東京で大震災が起きたら教本になるから、ぜひ読んだほうがよい、と知り合いに勧めているんです」と話してくれた。

 本の口コミはこんな風に拡がるのか、と思った。 

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破れた横断幕「がんばろう東北」=埼玉・加須市

 加須市の騎西(きさい)高校まで、遠かった。電車で向かうには交通の便が悪かった、というべきだろう。
 JR鴻巣駅からバスが1時間に1~2本だった。車の免許を持っていれば、住まいの葛飾から1時間ていどで到着できる距離だ。同駅前からバスに乗り込むまで、2時間半は要している。さらに、ここからバスは20ぐらい先のバス停・騎西1丁目へと向かう。
 車窓には、田園の風景が広がった。
 私は頭のなかで、一度にあれこれ考えるタイプだから、一つ物事に神経が集中しない。もし自ら車を運転していれば、遠い昔に交通事故死していただろう。あの世では、こうした福島・浜通りの取材活動も、小説の執筆もできない。

 電車の不便さを感じる私は、自分にそう言い聞かせながら、最寄のバス停に降りた。そこからも廃校になった騎西高校まで、徒歩で1キロ先にある。

 3・11大震災から2年経った。福島県・双葉町の町役場や住人が、騎西高校で避難生活をしている。東日本大震災で、住民がいまなお避難所生活をするのは、ここだけだとも聞いている。(他は仮設住宅に移っている)

 同教育委員会の吉野学芸員から、電話で、バス停からの道順を聞いていた。山で鍛えた脚だから、徒歩は苦痛ではない。3月26日ともなると、民家の庭先の桜は満開だ。それを横目で見ながら、同校に向かった。
 高校の広い敷地を取り囲むフェンスには、破れた横断幕『がんばろう東北』が掲げられていた。それが目に飛び込んできた。
「日本人はとくに熱しやすく、冷めやすいし……。ボランティアは風化しやすいからな」
 私は立ち止まり、そんな想いで凝視した。東北へボランティアに行ったと語る人は多い。一過性の同情だけの行動なのに、いまなお自慢げに語る。あるいは、3・11は飽きたよ、と話す顔などが重なり合った。

 フクシマ・東電原発事故はどのように収束するのか。まだ確固たる見通しはない。住民の不安、望郷の気持は推し量ることができない。
 一時帰宅がくりかえされた後、どういう展開になるのか。破れた横断幕を見る、住民の心境はどんなものなのか。

 災害文学の小説3・11『海は憎まず』の第2弾は、福島・浜通りを舞台にした、テーマ『望郷』である。歴史小説と現代小説をオーバーラップさせるものだ。ジャンルが違うだけに、小説の技法としては高度だけど、チャレンジする。

 戊辰戦争で芸州(広島)藩が猛烈に浜通りから仙台に向かう。相馬藩・伊達仙台藩を落とすために突っ込んでいった。他藩は王政復古の義理で戦うし、不利となれば、すぐに逃げる。
 芸州藩だけは多くの戦死者を出しても、やみくもに戦っている。なぜなのか。それでいて幕末史から消えていく。
 歴史小説はある程度、事実で近いところで書く必要がある。広島市は原爆投下で歴史的資料も殆んどない。フクシマ原発で、浜通りは立ち入りが出来ず、現地調査はできない。双方にはとてつもない高い壁がある。取材の難易度が高いだけに、やりがいを感じている。

 いまは福島側の歴史家から、芸州藩の戦いの詳細とか、兵士の望郷の念とか、言い伝えとか、資料とか、こうした小説の素材を求めているさなかである。1月からはいわき市、浪江町(二本松)、楢葉町(会津美里町)へと出向き、そして双葉町(加須市)へと足を運んできた。

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穂高健一著、小説3・11「海は憎まず」の執筆姿勢について

 拙著の小説3・11「海は憎まず」(日新報道)は、岩手県と宮城県の大津波の被災地が舞台になっている。諸般の事情で出版が少しずれ、3月末に刊行し、4月2日から全国の書店にならぶ。

「戦争文学」はあるのに、なぜ「災害文学」が生まれなかったのだろうか。災害後の人間の生き方、心の傷、差別、ねたみ、希望などはフィクションだからこそ、描けるはず。災害報道やノンフィクションとなると、人物が特定されるから、本音はとかく書き切れないものだ。ある意味で、綺麗ごとになってしまう。

 しかし、フィクションならば、「人間って、こういうこともあるよな」、「えっ、こんなことが起きていたの」という人間ドラマが描き出せる。それが「海は憎まず」である。

 関東大震災のとき、白樺派の文豪たちは何していたのだろうか。
 志賀直哉などは蜂の死骸(城崎にて)を書いても、大災害の被災者たちの日々を書き残してくれなかった。谷崎潤一郎は震災後、わが身を案じ、急きょ京都に永住している(遁走)。文豪たちは、後世に伝えるべき震災後の人々を書いてくれなかった。大震災でも、「災害文学」は生まれなかった。

 小説家は「都会の俗塵から離れ、芸術に専念する」という大義名分で逃げてはダメである。

 東日本大震災3・11は千年に一度の大災害である。こんどこそ、小説家は「災害文学」を作り出すべきだと、私は考えた。そして、毎月、三陸に出むいた。
 大船渡、陸前高田、気仙沼、気仙沼大島、南三陸町、閖上、女川で被災者に向かい合った。可能な限り本音を赤裸々に語ってもらい、それらを丹念に取材し、一つひとつをドラマ化し、書き上げた小説である。人間のほんとうの真実がある。

 日本は災害列島である。「災害報道」と「災害文学」は両輪の輪である。ひとたび災害が起きれば、災害報道の写真や記事だけでなく、プロ作家、アマ(同人誌、学校文芸誌など)で、誰もが被災後の人々を描き、あらゆる角度、それぞれの立場で書き残す。
 こうした「災害文学」の機運を作りたいと考えている。

「海は憎まず」が、災害文学の先駆になることを願っている。


関連情報

題名 : 小説3・11「海は憎まず」
著者 : 穂高健一
出版社 : 日新報道
ISBN978-4-8174-0759-7 C009
定価 1600円+税

書店で、予約受付中です。(初版本は予約がお勧めです)
ネット(アマゾンなど)は4/5頃になります。

希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(中)=陸前高田市

 陸前高田市の3校合同・中学生カキ養殖体験の第1陣が帰ってきた。

 さあ、水揚げだぞ。

 カキは思いのほか重い。一つ当たりのカキ殻の自重はあるし、そのうえ海水がついている。


 中学3年生たちはカキ・カゴを次つぎに漁船から岸へと揚げていく。

 報道陣はここぞとばかりに、ビジオやカメラにおさめる。

 夕方には放映されるし、翌朝の新聞には競って載る。中学生のカキ収穫は、被災地では数少ない、明るい話題だ。明日への希望になる。

 第2陣が沖合のイカダへと向かう。

 この漁港には2隻のカキ漁船しか残らなかった。3校の生徒全員を一度に運べず、イカダまで折り返す。

 陸上では先生たちが手を振って見送る。カキ作業場の、漁師「浜の女」たちもいた。

 PTA(親)がいない。それが東京など大都会と違うところか。

 親が津波で流されて亡くなった生徒もいるけれど。

 漁船は岸を離れると、スピードを上げていく。

 生徒たちをみていると、真剣な表情で沖合を眺めているもの、船酔いを怖れて下向きの生徒など、さまざまだった。

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