ジャーナリスト

安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(下)=幕末史から学ぶ

 鳥羽伏見の戦いの前 慶応3年12月の小御所会議で、長州の朝敵が解除された。そこで初めて長州藩が京都にやって来れたのだ。
 淡路島沖、西宮の足止めで、倒幕に関与できなかった、うっ憤が長州藩兵にあったのだろう。

 近衛兵の任務に就くべき長州軍隊だが、約2週間後だった。薩摩藩が徳川を挑発し、仕掛けた鳥羽伏見の戦いに、長州藩兵がすぐ乗ってきたのだ。
「島津は徳川将軍の正室に入っている。これは島津家と徳川家の身内戦争だ。やらずもがの戦いだ」と山口容堂の命令で土佐兵も動かず、広島藩の近衛兵たちも、傍観の立場で、動かなかった。
 
 それなのに長州藩兵の参戦が火を点けたのだ。ここから日本の歴史が軍国主義国家への道、と切り替わってしまった。

 幕府軍、会津・桑名が、異議申し立ての建白書を朝廷に届けるために、ほとんど無警戒で京都に上っていた。(会津容保が3、4人の侍を連れて京都・朝廷に持ってくればよかった……。その失策はある)。参戦した長州藩が火に油を注ぎ、容堂の指示を無視した土佐軍がさらに加担し、大きな戦争になっていった。

 勝海舟の功績だろう、江戸城が無血開城した。
 戦争がどれだけ庶民を悲惨な目に遭わせるか。長州の思想には、そんなことお構いなしの面が強い。西郷に代わり、長州藩は軍師・大村益次郎を投入し、上野で彰義隊を討つ、会津を討つ、と戊辰戦争へと拡大していったのだ。

 会津落城(開城)の後はどうなったのだろうか。天皇を東京に移し、大元帥の下に、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に参戦し、日中戦争、第二次世界大戦へと、軍人と庶民の血を流させた。

 戦争でも儲かるのは、政治と癒着した経済を動かす人だ。現代ではどうなのか。

「原発建設」を海外に売り込む。庶民への口ふさぎの「特別秘密保護法案」を成立させる。国民の知る権利は守ると言いながら、情報を教える側がいなければ、民は知る由もない。さらには大村益次郎たち長州藩が造った靖国神社、A級戦犯を合祀する、同神社への参拝へとつづく。

 安倍首相は靖国神社の境内で、「おらが長州の大先輩」だと、関東・東北を血の海にした大村益次郎の像まえで、胸を張って歩く。
 これで終わったわけではない。2014年は何をしでかすのか。

 長州閥の政治家たちが作った、嘘の歴史、「薩長同盟」の美化から、日本人が抜け出さないかぎり、この流れは止まらない。鳥羽伏見の戦いが日本を血の国家にした。それが靖国神社へと密接に結びつく。そう教えなければ、日本人は歴史から学べず、現在から今後の流れを予測できないだろう。

 安倍首相、さらなる軍事思想の政治家たちが目指す、次なる暴走はなにか。「徴兵制度」が次のステップだと、明治の近代史から学びとれるのだが……。
                                                   【了】
 

安倍首相と重なり合う、長州の軍事国家への道(上)=幕末史から学ぶ

 こんな危険な安倍晋三さんを、だれが内閣総理大臣に選んだのか。途中で政権を投げだした人を、再度、首相にさせたのか。この選択肢の誤りは、将来の遺恨につながるだろう。
 そう言いたくなるほど、安倍首相の一連の動きは、当人の意識・無意識にかかわらず、まちがいなく軍国の道へと歩んでいる。

 幕末の長州藩がいかに乱暴な、軍事色の強い藩だったか。それと安倍政権はずいぶん重なり合うものがある。
 
 後世の人から見れば、安倍首相ひとりのせいだ、といえないのだ。私たちが手を貸そうが、貸すまいが、政権を黙認してきた、社会の一員なのだ。安倍首相から政権を取り上げる努力を怠っておいて、軍国への道を走らせてきた。私たちは、その一切を時代のせいにはできないのだ。

「鳥羽伏見の戦い」以降は、長州藩の暴走は目に余るものがある。それでも反旗を翻せず、徴兵制を認め、軍事国家の道を表向きは賛辞してきたと、その時代に生きた人たちの責任になる。
 いち個人の力だけではとうてい抵抗できず、わが身を守れず、治安維持法で口をふさがれ、1枚の赤紙で戦地に借り出されて死んでいく。妻子は本土空爆や原爆で家屋を焼かれ、死んだり、飢えていく。

 鳥羽伏見の戦い以降は、日本は血の歴史だった。それでも、その時代に生きた人は、時代のせいにできない。

 安倍首相が「不戦の戦い」とか、「戦没者への哀悼の誠」とか、どんなきれいごとを述べようとも、長州藩の軍事優先思想が、戦争の大悲劇を招いたのだ。その道が底流でいまなお引き継がれている。

 現代の政治、昭和の歴史をあきらかにするには、明治維新まで遡らなければならない。

 幕末の長州藩はひたすら「攘夷」を叫び、下関の砲台から外国船に砲弾を撃ち込む。翌年には仕返しに、四か国連合艦隊に襲われてしまう。むろん、犠牲になったのは藩士よりも、民・領民である。
 蛤御門の変では、長州藩士たちは京都御所に発砲し、たんに退却すれば良いものを、京都の町に火を放つ。大火災が、京都庶民や住民の資産を焼きつくす。現在において、もしわが個人資産が一瞬にして灰になれば、どんな悲しい想いになるだろうか。

 戦いの大義すらあれば、民の生命財産などどうでもよい。少なくとも、長州藩には庶民への配慮がなさすぎる戦いが多い。わが身に置き換えれば、どれだけ罪な行為か、理解できるはずだ。

 長州はなにかと「薩長同盟」で倒幕した、と誇らしげにいう。けれど、これは嘘の歴史である。かれらが後世につくった、政治的なまやかし(欺瞞)である、と断言できる。

 慶応3年の大政奉還で、徳川幕府から朝廷に、政権が平和裏に返還された。長州藩はこの大政奉還にまったくかかわっていない。朝敵で、京都にすら入れなかったのだ。
(一部の藩士は隠密的に偵察していたけれど。これが後世に英雄として誇張されている)。

  大政奉還後、慶応3年11月末、(龍馬と中岡慎太郎が暗殺された直後のころ)、薩摩藩と広島藩は京都へと兵をあげた。会津・桑名藩と御所警備に代わる、近衛兵の役が目的だった。

 幕閣がもともと、「毛利家の家老を、長州征伐の罪を問うから、京都に連れて来い」と命じている。そこで薩摩と広島藩は、毛利家老の護衛を口実に使おうと決めた。つまり、長州はダシだった。

「ならば、長州藩の兵も一緒につれて来よう」
 薩摩と広島はそう決めた。広島県・御手洗港に3藩が集結し、長州軍艦には広島藩の旗を掲げさせた。そして、淡路沖までくると、その船内と、西宮に駐留する大洲藩の陣内で、長州藩兵をかくまっておいたのだ。

 なにしろ暴走する藩だ。とくに広島藩などは隣国で十二分にわかっていたから、広島藩士・船越洋之助が大洲藩に、「長州を西宮に上陸させるから、そのまま引き留めておいてくれ。朝敵だから、京都に来させないでくれ」と依頼しているのだ。大洲藩はそれを守り切った。

 小御所会議で、明治政府が正式に誕生した。長州はこの場にも関わり合っていなかった。つまり、倒幕に役立つ藩ではなかったのだ。

広島空港で頑張ってる、手作り自然食品=広島西条農高

 広島に私用があり、12月16日はトンボ帰りだった。
 先週はお茶の水女子大の図書館で、『広島市城下町絵図(幕末)』が閲覧・コピー入手ができた。広島藩の藩士約350人が住んでいた家屋敷の絵図だ。一軒ずつ探しながら、あるかな、あるかな、と丹念に見ながら、私が現在・執筆している歴史小説の主人公「高間省三」の家を発見することができた。家主は父親「高間多須衞」の名だった。発見できた瞬間のうれしさは歴史小説を書く冥利だ。
 
 その家は京橋川の橋の袂だった。当然ながら、1945年の原爆投下で、広島の城下町は跡形もないけれど、それでも現地を歩いてみたかった。
 ただ、この日は夕方6時から日本ペンクラブの理事・委員の忘年会がある。またの機会がある、と広島・絵図歩きは後日にまわした。午後3時発に乗るために、広島空港に戻ってきた。

 旅先では土産物は買わないタイプだ。空港ロビーで、女子高生たちが遠慮がちに呼び込んでいた。『活き、活き。やっぱりおいしいね、広島畜産』と幟が建てられている。 広島といえば、カキ養殖の水産業が有名だが、東広島市で農作物、畜産業も活発におこなわれているようだ。足を止めてみた。

 広島県立農業高校の女子生徒たち約10人だ。文部省指定「スーパーサイエンススクール」の学校案内も配られていた。家畜の飼育から食品づくりまで一貫して学んでいる。同校は園芸、農業機械、生物工学など幅広い教育の場である。

 販売品をのそき見た。「ウインナー・ソーセージ・150g」(350円)、「金粉入り・ビスケット」(50円)、「ゆず飲料・缶250g」などを販売していた。
 彼女たち高校生が熱意と努力で作った食品だけに、買い求めたくなった。その熱意を土産にしよう、と決めた。

 小袋に入ったビスケットは安価だった。コスト割れだろうな、利益がないだろうな、と余計な心配をした。高校生の段階では原価管理・計算の指導は及ばないのだろう。もしかしたら、学校教育では利潤を出したらいけないのかもしれない。
 自分たちの手作りの食品をまず食べてもらう。学校の存在を知ってもらう。農業高校のカリキュラムを理解してもらう。そうした趣旨と展開だろう。
 男子教師は地味な存在で、パネルや販促物の取り付けの指導をしている。

 愛想の良い女子高生たちが「ウインナー・ソーセージには保冷剤を入れますか」と訊く。飛行機の出発待ち時間を使って賞味してみたいけれど、持ち帰ることにした。

「西条農高は全国マラソンに出るの?」
「陸上は強いです」
 年が変われば、恒例で、高校生の全国大会が京都で行われる。同校が出場することがあれば、応援したい気持ちになった。少なくとも、広島空港で見た、あの農業高校だろう、と校名は思い出すはずだ。空港には全国各地から旅人が来る。学校名を売り込むためにも、教育内容を理解してもらうにも、良い企画だと思う。

 
 

見まい、聞くまい、話すまい、スパイにご用心=こんな国家に逆もどり?

 数日前、立ち寄った古本屋の主が話すうちに、座敷の奥から一冊の雑誌を持ち出してきた。「もうこの雑誌は出ないでしょうね」と勧められた。値段を聞いて、一瞬高額だな、と躊躇(ちゅうちょ)した。
 それは昭和15年12月1日発行『同盟グラフ』(同盟通信社・70餞)だった。2600年奉祝式典の特集だった。記念観兵式などの写真で大きく報じられていた。
(記念号だから、買い求めておこう)
 同紙は『独・伊に湧く歓喜の嵐・日独伊三国同盟』の後報も大きく報じられていた。12月号だから、1年間の総まとめがあった。1ページが8つのコマで、写真とイラストを交互に組み込まれていた。

 「ヒットラー総督が官邸で歴史的調印式」のとなりのイラストに、眼が釘付けになった。
『見まい、聞くまい、話すまい 壁に耳あり 障子に目あり 心せよ! スパイにご用心』
 国民の発言を一切止める、すごい政策だ。なにかしらしゃべれば、一網打尽で腰縄で逮捕する。そして、官憲(警察)が獄に連れて行く。これが恐怖の治安維持法かと思った。

 さらに目を凝らすとキャプション(写真の説明)には、『全国一斉外国諜報網の一部検挙の断下される』(7月27日)と明記されていた。

 日本人どうしが見ることも、話すことも、聞くことも、いっさい自由にできない、暗澹たる社会なのだ。言論の自由がここまで抑圧される。それは畏怖を通り越した、恐怖に思えた。

 1925年(大正14)年4月22日に治安維持法ができた。その目的は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まるものだ。それだけに限定されると、国会でも、法案提出者たちはそう答弁していた。それから、わずか15年で、国民には近隣もいっさいしゃべるな、周りにスパイがいるぞ、と発言の自由を奪っているのだ。むろん、街頭活動など論外だ。

 この雑誌にイラストが掲載された翌年の、1941(昭和16)年3月10日に、治安維持法は全面改正されている。宗教活動、思想活動、右翼、左翼を問わず、政治活動、政府批判のすべてが弾圧の対象となった。路上で、うかつなことを一言でも喋れば、獄へ直行する社会になったのだ。


 政治家や官僚は不都合を隠す。やがて法律で取り締まる。それが加速度すると、国民生活は暗澹(あんたん)たるものになっていく。

 温故知新(古きを訪ね、新しきを知る)。特定秘密保護法案が衆議院を通過した今、このイラストから学ぶものはないか、と考えてみる必要がある。
 イラストの「スパイ対策」とこんかいの「テロ対策」はどのように定義が違うのか。さほど違わないし、解釈しだいによっては共通する。

 あえて強調するが、このイラストは外国の話ではない。私たちの両親、祖父母が生きた社会なのだ。日本人が日本人を弾圧した、歴史的証言のイラストなのだ。

【オピニオン】 政党政治はもはや死に態だ=平成の治安維持法

 安倍政権が11月26日、「特定秘密保護法案」を強行採決で衆議院を通過させてしまった。次の世代には間違いなく1000兆円を上回る国債の借金、さらに「平成の治安維持法」の悪法まで作り、大きな負担を与えるだろう。
「あなたたち(親、祖父)の世代はなんて酷(ひどて)いことをしてくれたのですか。……」
 次なる世代には、私たちは糾弾されるはずだ。

 大正時代の『治安維持法』が国民の不幸に及んだ。この法律を拡大解釈した、ときの政府は国民に思想弾圧を加えた。「安政の大獄」よりも、はるかに多い獄中死をもたらした。
 だれもが逮捕が怖くて、戦争突入すら反対を言えず、結果として緑豊かな日本の多くの都市が焼け野原になり、若者たちが血を流し死んでいった。
 国土を焦土化し、廃墟にしたのは、まさに世界最悪の悪法とまで言われた「治安維持法」があったからだ。この歴史から、学ぶことはできなかったのだろうか。

 政権や権力者は不都合なことを隠したがる。それが外国に漏えいすること
よりも、国民に知られることが怖いからだ。だから、「特定機密保護法案」を出してきた。
 衆議院を通過した今、国民が声を大にして「参議院でストップ」と言っても、ほとんど関与できない現実がある。この際、「政党政治」ははたして正しい民主主義なのだろうか、と問うてみよう。

「選挙で選ばれた数百人が政治を支配する」。国民比率では数万分1のわずかな国会議員が、数年間にわたり、やたら法律を作りつづける。これは期間限定の独裁主義ではないだろうか。民主主義という、口当たりの良い言葉で包み込まれているが、どう考えても「期限独裁主義」である。

『紙』の時代は投票用紙しか手段がなくなった。ある意味で、政党政治は最も有効な手段だった。『デジタル』の進化した今、政党政治はしだいに民意が反映しない、老朽化した政治体制になってきた。IT時代に即した、国民が立法に対して意思表示を示す、『直接投票政治』へと進むべきだろう。そのほうが民意を十二分に反映できる。

 一つ法律、予算、事案ごとに国民が成否を出すシステムは作れるはずだ。

 かえりみても、衆議院・参議院選挙はムードで決まる。メディアが持ち上げた政党が大量に票を伸ばす。小泉政権、民主党政権、安倍政権はすべてムードで誘導されて大量得票を得てきた。「郵政」「自民逆転」「経済成長」一つ政策の掲げ方の賛否を問う選挙だった。
 その結果として何が生れたのか。政府は全信任を得た顔で、あらゆる法律を作っていく。この矛盾はもはや解消すべき時代にきている。
 政党政治が陳腐化してきたと、国民自身も自覚するべきだろう。

 明治時代から西洋の民主主義を学び、取り込んできた。その欠陥が見えた今、それを改善し、新たな立法システムを作るべきだ。「立法」は国民が決める。選挙で選ばれた政権は「行政」を担う。「司法」も国民が関わる。
 外国に先駆けて、日本人がこうした最新の民主システムを構築していくべきだろう。世界の魁(さきがけ)となってもいいだろう。

 これを推し進めれば、国会議員はきっと利権を失いたくないから、大反対するだろう。『ITに弱い人はどうするのか。身体障害者は投票できるのか』と難癖をつけるだろう。「賛成」、「反対」とテレビに向かって一言いえば、音声で読み取れる時代は、もうそこまで来ているのだ。

 IT進化はすさまじい。わずか1秒間あれば後楽園ドームの観客3万人の1人ひとりが特定できる。ボイス(声)認識はもうセキュリティーのなかに組み込まれている。
 有権者が一言「賛成」、「反対」といえば、瞬時に国会で集計できるのだ。せめて、重要法案はこのシステムを組み入れるべきだ。

 いまから投票システムを研究する国家的プロジェクトをつくれば、勢い推進されるだろう。矛盾に満ちた政党政治から脱皮し、新しい政治体制の社会を作るべきだ。

 こんかいの「特定秘密保護法案」は平成の治安維持法だとまで言われていながら、メディアの動きが鈍かった。月刊誌、週刊誌はほどとん取り上げず、新聞も片隅に置いてきた。
 思想信条、報道の自由の危機なのに、新聞は衆議院通過の「強行採決」のほうが目立つ。本気で報道の自由に立ち向かっているのか、「特別秘密法案」に反対しているのか、と疑いを持ってしまう。

 一部新聞は『参議院の力が試される』としているが、ジャーナリストは「報道の力」、作家は「ペンの力」が試されているのだ。本質の捉え方が違うし、タイトルの踊り方がちがう。

 大正時代の「治安維持法」が10年、20年後になって牙をむいてきた。そして昭和時代に生きた人たちを最恐の生活に陥れた。「若い命を大切にしなかった」時代に及んだ。このままでは、平成の「特定機密保護法」が可決され、次世代を苦しめることになるだろう。

 あなたも、私も、ともに同じ世代としてこの法案を作った責務があるのだ、と認識するべきだろう。

「特定秘密保護法」は、闇の公安警察が欲しがる法律 ③ 青木理

 公安警察とは何か。警視庁警備部・公安部が、戦前の特高警察の流れをくみ、それを引き継いでいる。個人の情報を収集し、蓄積し、管理している。その活動はベールに包まれているが、令状なしの違法捜査が日常化している、とも言われている。

 作家やジャーナリストが公安部の情報を入手し、外部で報じれば、「特定機密保護法」で、刑罰10年-5年を課せられる。戦前の治安維持法の刑罰と、ほぼ同じである。そうした法律が国会で審議されている。

治安維持法(大正十四年法律)
第一條 國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス


11月24日、東京・文京シビック小ホールで、『特定秘密保護法に反対する 表現者と市民のシンポジウム』が開催された。3番手として、ジャーナリストの青木理(あおき おさむ・元共同通信社)さんが指名された。
 
 青木さんは冒頭に、秘密保護法に関しては、どうしてもこれだけは言っておきたいことがあります、と述べてから、
「この法律は安倍政権とセットで語られていますが、本当に欲しがっているのは、安倍政権よりも、警察官僚なんです。民主党政権のときも、尖閣諸島のビデオ流出事件から、仙谷由人(せんごく よしと)官房長官が先導した経緯があります」
 内閣情報調査室(通称・ナイチョウ)は大した組織ではない。職員もせいぜい200人程度の規模で、たいした能力もない。ここは基本的に警察官僚の出島なんです。警備・公安警察のトップ、準トップクラスがかならず長に座り、その下には警備・公安警察官あがりの職員が大挙している。
 むろん、それ以外にも外務省、防衛省、公安調査庁などがいますけれど。主は警備・公安警察の出先機関であり、ここが今回の法律の事務局になっているんです。

「公安警察が欲しがる法案。その視点で見ていくと、外交・防衛のためにというけれど、どの官僚よりも、警察官僚が最も使い勝手が良い法律になっているんです」

 他の省庁は秘密を大臣が指定することになっている。警察官僚の頂点は警察庁長官になる。これは警察内部で完結し、外部のチェックがまったく入らない組織です。

 特定機密保護法が内閣情報調査室の手で、立案される過程で、「テロ対策」の項目が忍び込まされた。
「テロ対策という名目がつけば、警察に対する情報がすべて秘密になってもおかしくない」
 青木さんは強調した。

「外交・防衛の重要な問題では、情報の流出は好ましくないと考える人もいる。。機密は多少なりとも必要だろう、と皆はお考えでしょう。それでも、ある程度・機密の範囲が限定されます。しかし、テロ対策となると、警察のありとあらゆるものが秘密になりかねない」
 極端なことを言えば、交番がどこにあるか。それすら全国交番一覧表はテロ対策から公開しない。いま警察が必死に隠していて全容がよく解らないけれど、自動車ナンバー読み取り装置(俗称は「Nシステム」もそうです。(Nシステムは、手配車両の追跡に用いられ、犯罪捜査の重大な手がかりになっているらしい)。これらは完全に特定秘密になるでしょう。

 警視庁公安部の人員配置図とか、公安委員がどこにいて、どこに事務所を置いて活動しているか。まちがなく特定秘密になる。
「つまり、警察がいちばん使い勝手がよくできている法律なんです。外交防衛は建前として掲げているけれど、この法律によって、一番強化されるのは治安なんです。平成の治安維持法。言葉遊びでなく、治安維持法になるんです」 


 青木さんの主張からは、市民生活に暗い影を落とした、戦前の特高警察の再来があり得るだろう、と予測させられる。一世代前は、隣人が隣人を密告して罪に陥れた暗い社会だった。路上やひと前で迂闊なことを言えず、政府・軍部・天皇批判などできない暗黒の日本だった。
 それからまだ68年しか経っていない。歴史のはるか彼方の話ではない。治安維持法が息吹いてきたのだ。

「特定秘密保護法」言論・報道の自由を奪うと、戦争の道 ② 吉岡忍

 市民は国の多くの情報に接する権利がある。政府は透明性をなくしてはいけない。権力が腐敗するように、秘密主義は社会を腐敗させる。むかしもいまも、自由な報道と私たち民衆の血液なのだ。

 政府や官僚は秘密保全の過剰な強迫観念から、みずからの行動を隠し、あいまいにしている。「特定秘密保護法案」は、政府の秘密を膨張させ、市民の知る権利を奪うものである。

 11月24日、東京・文京シビック小ホールで、『特定秘密保護法に反対する 表現者と市民のシンポジウム』が開催された。司会・進行役の篠田博之(『創』編集長)さんが、2番手として、吉岡忍(作家・日本ペンクラブ専務理事)を指名した。


 第一次世界大戦の後、言論表現の自由がなければ、それぞれの国家が勝手なことを言い、互いに憎しみ合って、戦争に及んで行く。こうした歴史的な反省のなかから、作家、詩人の集まりである「国際ペン」(本部・ロンドン)が誕生した。
 日本も昭和10年に島崎藤村を初代会長として「日本ペンクラブ」が下部組織の一つとして発足した。現在は世界中に約150センターがある。

 国際ペンのジョン・ラルストン・サウル会長、副会長、獄中作家委員会・委員長から、日本政府の「特定秘密保護法案」に対して憂慮する、というメッセージをもらった。(会場に配布)。

 吉岡さんは日本ペンクラブが発足した、昭和10年のころの言論統制と弾圧に触れた。
「日本ペンクラブが発足したときには、すでに「治安維持法」は発動されていたし、新聞が戦争の後押しをする体制が出来上がっていた。多くの書き手が執筆禁止となった」
 戦前、戦中の日本ペンクラブや作家は、あまり活動ができなかった苦い経験がある。

 そうした反省に立って活動を続けている。「特定機密保護法」は危険な法律だから、日本国内だけでなく、国際的にも、この法案の危険性を訴えてきた。

 アメリカの外交政策、国際戦略はいまや行き詰っている。アフガン、イラク戦争のとき、アメリカはヨーロッパ諸国を巻き込めた。しかし、シリアの問題でわかるように、ヨーロッパ諸国はもはやアメリカの外交政策に協力しない態度に変わってきた。だから、シリアでは軍事的な対応ができなかった。

 アメリカにとって、いま一番言うことを聞いてくれるのは、おそらく日本だろう。日本は1945年の敗戦以来、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争など、「基地を出せ」、「金を出せ」、「血を流せ」と言ってきたが、日本政府は一度もNOといったことがない。こんなに従順で使いやすい国はないだろう。
 日米軍事関係の連帯を結ぶ、それには秘密保護法が必要だとアメリカから背中を押され、与党は突き進んでいるのだろう。

 こんな背景も含めて、日本ペンクラブは各国の約150のペンセンターに、レターを送った。
「私たちは外圧をかけようとするのではなく、日本国内の危険な事実を伝えるものです。『日本政府がやろうとする、特定秘密保護法案は危険性があり、その反対運動に賛同します』という声明をもらっています」

 アメリカには同じような法律があって、「スパイ法」が戦後すぐにできた。

 1970年代にはベトナム戦争が起きた。ペンタゴンでは秘密裏にいろんな情報を集め、分析し、この戦争の勝ち目のなさとかを解析していた。
 そもそもこの戦争はアメリカ軍がこいに挑発し、ありもしなかったベトナムからの攻撃をあったとして、大々的に世界に発表した。そのうえで、これらを懲らしめるために、ベトナムを攻撃するんだと言い、始まった戦争である。

 ペンタゴン(アメリカ合衆国の国防総省)は、アメリカ軍がでっち上げた事実を調査し、秘密として保持していた。そこの公務員だったエドワード・スノーデン氏が、ベトナム戦争に関する機密文書『ペンタゴン・ペーパーズ』をワシントンポスト紙やニューヨークタイムズに渡し、それが報道された。
 アメリカ国民自体が、とんでもない戦争だ、と知り得た。

 世論が「こんな風にして戦争がはじめられたとは知らなかった。こんな戦争だったら、手を引くべきだ。すぐやめるべきだ。まだ続けるつもりなのか」と、長い間戦ってきたアメリカは国内から批判の手が上がった。国際的にも犯罪だとされた。
 やがて、アメリカのベトナム介入の舵は切られ、アメリカ軍の撤退となっていった。

 暴露したエドワードや新聞記者たちは、スパイ法で逮捕されて裁判を闘った。
「けれども、当時の司法はなかなか健全でした。スパイ法にあたらない、情報を流した側も、受け取った側も、連邦の高裁、最高裁でも無罪を言い渡した。おそらく、日本で「特別秘密保護法案」が成立すれば、おそらく逆転ホームランは起きないだろう。毎日新聞の西山記者のようになるだろう。いま、政府にノーというメディアも少なくなってきた。私は懸念しています」
 吉岡さんは何としても、廃案にするべきだと強調した。

「特定秘密保護法」は市民にとっても危険な法律だ ① 田原総一郎

 権力者は秘密を持ちたがる。国民に不都合なことは知らさないで隠したがる。これら権力の秘密を暴くのがジャーナリズムである。
 国会で審議されている「特定秘密保護法」は、言論・報道にかかわる者を抑え込み、裏からあの手この手で情報収集や取材活動すれば、処罰しようとするものである。

 11月24日、東京・文京シビック小ホールで、『特定秘密保護法に反対する 表現者と市民のシンポジウム』が開催された。主催は月刊『創』、後援は日本ペンクラブ他。司会・進行役は篠田博之(『創』編集長)さんである。会場は約350名の定員だが、45分前から整理券が発行されるほど、市民の関心度が高かった。


 
 第一部のパネルディスカッションで発言された主だった方の主張を紹介していきたい。篠田さんが最初に指名したのが、田原総一郎(キャスター)さんだ。
 田原さんは、危険な法律だ、と前置してから、
「重要な日本の将来を左右する法律なのに、国会審議が早すぎる。たった2週間しかない。なんで、こんなに審議が早いのか」
 自民党は国民が気づかないうちに法律を通そう、と考えている。審議するほど、反対運動が高くなるからだ。
「次に、秘密の定義がない。行政機関の長が、『これが秘密だ』と言えば、秘密になる。この頃の内閣はころころ変わる。大臣は1年か、2年くらいしかもたない。結局は、官僚が恣意(しい)的な考えで、どんどん秘密ができる。官僚は秘密が大好きなんですよ」

 諸外国にも秘密保護法があるが、それぞれ監視機関をもっている。米国すらも大統領直轄の監視機関で三重にチェックが行われている。日本ではそのチェック機関が設けられない。こんなバカげた国はない。

 国会審議では記録を取らない。昔は記録(紙)をとっても置く場所がないから、記録を取らなかったことがある。いまはIT時代だから、デジタル記録として残せる。なぜ審議を記録として残さないのか。
「国民は知る権利がある。最高でも30年で公開するべきである。それが60年だと言っている」
 まして、記録を取らないと公開などできない。

「新聞は特定保護法案に対して、熱心でない。社説でちょこっと書いているだけだ。言論の自由・報道の自由に反する法律だから、反対だとか、政府と強くやり取りするべきだ。それがない」
 田原さんは新聞各社の姿勢にも批判の目を向けた。

 報道の自由は認めると言っているが、悪質で違法な取材に対しては懲役10年、少なくとも、懲役5年だという。
「ジャーナリストならば、通常やっている取材は全部悪質なんですよ」
 田原さんはそう強調してから、
「記者たちはたとえば大臣や官僚の幹部に、あなたの名前は出さないから、とオフレコを前提に情報を取る。財務省はこう言っているとか、外務省はこう言っているとかで報じる。これは共謀ですよ。共謀は5年です」

 田原さんはTV座談会などで総理や大臣に対して、矛盾があると、それを突く。相手は弁解する。
「弁解など聞きたくないよ、国民の前に、真実、本当のことをしゃべるべきだ、と迫る。これは脅迫ですよ。そうなると懲役10年の刑になる」

 かつて西山事件があった。毎日新聞の西山記者が外務省の女性と仲良くなって、沖縄返還の情報を取り、それを報じたのだ。貴重な情報を世間に知らせたのに、裁判では女性秘書官と情を通じたとして有罪になった。
「ものすごく重要な情報で、日本政府が沖縄返還で、アメリカに金を払った。つまり、日本はアメリカからお金で沖縄を買った。外務省はずっと否定し続けた。それを暴いた」
 ふつうは新聞記者は各省庁の秘書官と仲良くなり、飯を食べに行く。局長、事務次官、大臣とかに接する前に、秘書官から大体の情報を聞いてから、上層部に会う。これら「情を通じる」と有罪になる
 
「政府というものは隠すものなんですよ」
 田原さんはそう強調して同法案に対して強く反対した。

記念講演のタイトルは、「脳を創り、脳を耕す」=日立目白クラブに於いて

「元気に百歳クラブ」(中西成美会長)の秋の例会が、10月10日(木)午後12時から、東京・新宿区の日立目白クラブで開催された。創立記念日と兼ねた、クラブ誌「元気に百歳」(夢工房・A5判278頁 定価1,200円+税)の出版記念を行う。今年は14回記念で、会約70人が参加した。

 記念公演は第1回から外部の著名人を招いている。中西会長から、「会員からも講演をお願いしたい」と私に依頼があった。私は同クラブのエッセイ教室の講師を7年余り受け持っている。

 中西会長との事前の打ち合わせで、「年齢を超えた、柔軟な、若々しい脳を如何につくるか」という内容のすり合わせがあった。「元気に百歳」は、身体も心も脳も活発で、元気で100歳まで生きてこそ値打ちがある、それがモットーである。寝たきりや、植物人間で100歳まで生きるのでなく、元気にが強調されている。そこで、演目は『脳を創り、脳を耕す』(プロ作家がその秘訣を語る)に決まった。

 会場の「日立目白クラブ」は旧宮内省が1928(昭和3)年に学習院高等科の生徒寄宿舎として、建設した。52年に日立製作所が譲り受け、社員の結婚式場などに使っている。建物は白亜の外観である。内部は重厚な作りで、白い壁と縦長のアーチ窓が特徴である。東京都の都選定歴史的建造物である。

『脳を創り、脳を耕す』は固いタイトルだ。笑いを取ってからテーマに入る。スピーチ技法は無視し、いきなり核心から入りことに決めた。
「私は脳の生理学者でもないし、脳細胞の関連知識はなどない」
 と前置きしてから、一般に、加齢とともに、物事にたいして柔軟な対応が弱くなり、従来からの考え方に拘泥し、進歩的なものに批判的になり、保守的になります。頭は固く、頑固で、融通が利かないのが常です。

 作家は一般に年老いても頭が柔らかく、ボケが最も少ない職業だと言われています。(病的なものは除く)。作家は好奇心が強く、物事の本質を突き止めるために、疑ってみるからです。

 事例として殺人事件を出した。

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世界最大のノコギリ楽器の美しい旋律に、聴衆は酔う=東京・西新井

 のこぎりキング下田(本名・下田尚保)さんは世界最大のノコギリ楽器をつかった、卓越した演奏家である。10月6日(日)、東京・西新井文化ホールで、第8回「のこぎり音楽チャリティー・コンサート」を開催した。親しみのある21曲で、約700人の聴衆を魅了した。

 スペシャル・ゲストは楠堂浩己とFinest Jazz Menで、最初の曲「ザッツ・ア・プレンティ」を奏でながら、会場を華やかに盛り上げた。司会はTVアナウンサーの堀江慶子さんで、明るい口調で、のこぎりキング下田さんを舞台に招き入れた。

 日本の代表的な童謡・歌曲「月の沙漠」、「里の秋」などで、すぐさま聴衆の心をしっかりつかむ。 さらには明治40年に誕生した、「更けゆく秋の夜~」 で始まる「旅愁」へとつづく。
 ノコギリは大小4種で、曲によって使い分けられる。その一つはノコギリの先端・取っ手に鹿の角が使われていた。

 司会の堀江さんから、各曲目の紹介が入る。「千の風になって」では、USAで話題となった詩『Do not stand at my grave and weep』を2001年に、新井満さんが日本語に訳し、自ら曲を付け、 秋川雅史さんが歌って大ヒットした、と語る。

 聴衆の一人・豊島区の滝口さん(57歳・女性)は、「千の風になっては、ノコギリ楽器にとても似合った曲ですね。心に響きました」と、第1部の終了後に、感想を述べてくれた。


 のこぎりキング下田さんは、東京都公認ヘブンアーティストで、国内の演奏活動は幅広い。豪華客船「にっぽん丸」「ぱしふぃっくびいなす」のクルーズの演奏、浅草東洋館で隔月レギュラー出演している。さらにフランス・パリなど海外公演の実績を持つ国際派アーティストである。

 下田さんの曲の合間に、ヴォーカリストの絵馬優子さんが特別出演し、美声を会場に響かせた。

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